芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 知德合一
知德合一
我我は我我自身さへ知らない。況や我我の知つたことを行に移すのは困難である。「知慧と運命」を書いたメエテルリンクも知慧や運命を知らなかつた。
[やぶちゃん注:・「行」「おこなひ(おこない)」。
・『「知慧と運命」を書いたメエテルリンク』「メエテルリンク」は誰もが知っている童話劇「青い鳥」(フランス語:L'Oiseau
bleu 一九〇八年刊:メーテルリンクはベルギー生まれであるが、フランス語を話す裕福なフラマン人カトリック教徒の家庭に生まれた)で知られるベルギーの詩人で作家モーリス・メーテルリンク(Maurice Maeterlinck 一八六二年~一九四九年)。ウィキの「モーリス・メーテルリンク」によれば、『学校を卒業後、パリで数ヵ月を過ごした。そこで当時流行していた象徴主義運動の活動家達と知り合う。その経験は後の作品に大きな影響を与えた』。一八八九年、最初の戯曲「マレーヌ姫 」(La
princesse Maleine)で『評価を得て有名になる。続いて宿命論と神秘主義に基づいた、』「三人の盲いた娘たち」(Les
Aveugles 一八九〇年)、「ペレアスとメリザンド」(Pelléas
et Mélisande 一八九二年)といった『一連の象徴主義的作品を書き表した』が、最も大きな成功作は「青い鳥 」であった。その後の一九一一年にはノーベル文学賞を受賞している。一時期をアメリカで過ごした後、フランスはニースに城を買い取って住んでいたが、『母国滞在中に欧州で第二次世界大戦が勃発すると、彼はナチス・ドイツのベルギー・フランス両国に対する侵攻を避け』、『リスボンへ逃れ、更にリスボンからギリシャ船籍の貨客船でアメリカに渡っ』ている。同ウィキのこの後の記載によると、彼は(一部を略して繋げた)『私は自著』『の中で、一九一八年のドイツによるベルギー占領を批判的に書いたが、これでドイツ軍は私のことを仇敵と見なすようになった。私がもし彼らに捕らえられたら即座に射殺されたかもしれない』」と語っており、『また、ドイツとその同盟国であった日本には決して版権を渡さないよう、遺言で書き記している』とある。戦後はニースへ戻って、同地で死去した。一九四七年から一九四九年まで「国際ペンクラブ」の第四代会長も務めている。日本はメーテルリンクから実は「青い鳥」、まことの幸福の恩恵を実は受けていないということになる。この最後のウィキの引用の最後部分は、なかなかクるものがあるではないか。いやいや、閑話休題。新潮文庫の神田由美子氏の注によれば、『芥川は彼の夢幻的な童話劇「青い鳥」』『を三中、一高時代に何度も読み』、『影響を受けた。「知慧と運命」』(一八九六年)『は、知性と意志とに従って運命に直面しようとする随想録』とあり、岩波新全集の奥野政元氏の注では、『本能的生活を知恵によって脱し、霊的な「内的生命」に生きることを説く随想集』とあるから、この龍之介の後半の一文は、メーテルリンクの顔面への強烈な一撃と言える。しかも、龍之介は周到にも、この三つ前に「智慧」の致命的無効性を語った「理性」を配し、万一、我々の人生が「理性に終始するとすれば、我我は我我の存在に滿腔の呪咀を加へなければならぬ」と喝破し、その直後には、「運命」の一条で「運命は偶然よりも必然である」と言い放っている。実はその時点で既にして――青い鳥の毛はテツテ的に毟られて、焼き鳥に変わっている――のであった。]