芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 偉大
偉大
民衆は人格や事業の偉大に籠絡されることを愛するものである。が、偉大に直面することは有史以來愛したことはない。
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年二月号『文藝春秋』巻頭に、前の『「虹霓關」を見て』「經驗」「アキレス」「藝術家の幸福」「好人物」(二章)「罪」「桃李」と合わせて全九章で初出する。このアフォリズムの核心は能動態と受動態の表現辞にあるように思われる。表現だけを見ると、「有史以來」の Homo sapiens たる「民衆」は、物理的な見かけの「人格や事業の偉大に籠絡されることを愛する」のであって、真に「偉大に直面すること」に就いては、これを一度として「愛したことはない」、愛せない、そういう場面を避け続けてきた、ということを意味する。しかし、
「愛する」という動態は感性上の感懐であって理性上の意志ではない。
「籠絡」するという動態は冷徹巧緻な理性の産物である。
ということは、何を意味するか?
――「民衆」即ち――Homo sapiens たる人間は「籠絡される」だけの存在である。
――「籠絡される」ことはあっても――例えば、「偉大」だとされる対象に「直面」し、その実体を冷静に分析把握し、己れのオリジナルな知性によってその実相を見極めた上で――それを「偉大」と判断するか偽物と判断するか――さらにはそれを、真の「偉大」と認めつつも、それを拒否し、敢えて自ら荒野へ向かうか――ということを、選ぶ能力を持っていない。
ということを意味しているのではないか? 即ち、
――人間には「自由意志」は存在しない。
という命題である。
私はこのアフォリズムをそのようなものとして、読む。
・「籠絡」「ろうらく」。自分の手の中に対象を包み丸め籠めること。巧みに手なずけて言い包(くる)め、自分の思い通りに操ること。]
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