芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 軍事教育
軍事教育
軍事教育と言ふものは畢竟只軍事用語の知識を與へるばかりである。その他の知識や訓練は何も特に軍事教育を待つた後に得られるものではない。現に海陸軍の學校さへ、機械學、物理學、應用化學、語學等は勿論、劍道、柔道、水泳等にもそれぞれ專門家を傭つてゐるではないか? しかも更に考へて見れば、軍事用語も學術用語と違ひ、大部分は通俗的用語である。すると軍事教育と言ふものは事實上ないものと言はなければならぬ。事實上ないものの利害得失は勿論問題にはならぬ筈である。
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年五月号『文藝春秋』巻頭に、前の「兵卒」(二章)、後の「勤儉尚武」「日本人」「倭寇」「つれづれ草」と合わせて全七章で初出する。
・「海陸軍の學校さへ」「語學」「にも」「專門家を傭つてゐる」芥川龍之介は大正五(一九一六)年七月十日、東京帝国大学文科大学英吉利文学科を卒業(成績は二十人中二番で、引き続いて同大学大学院に在籍したが、院の講義には全く出ず、後に除籍となっている)、十一月に一高時代の恩師畔柳都太郎(くろやなぎくにたろう)教授から横須賀の海軍機関学校を紹介されて即座に就職が内定、十二月一日には同校の教授嘱託(英語学)として就任した(当初の受持授業時間は週十二時間で初任給は六十円であった。前年の大卒初任給で平均三十五円だから、かなり高給とは言える)、二年後対象七(一九一八)年八月頃までには仕事に対して精神的に強い不快感を覚えるようになり(この頃には週平均授業時数は八時間ほどになり、授業のない日もあったが、午前八時から午後三時までは勤務時間として学校に拘束された。また同時期に、海軍拡張のための計画が公にされ、学校の生徒数が約三倍増員、授業も倍以上に増えることが、彼の転職志向に拍車をかけた)、九月になると、「龍門の四天王」の一人で慶応大学予科の教員であった小島政二郎から慶応大学英文科教授招聘の話が持ち込まれたりした(これは結局、実現しなかった)が、同年十一月頃になって大阪毎日新聞社社友の話が持ち上がり、翌大正八年三月八日に同新聞社客員社員(出勤を要しない)の辞令を受けた。海軍機関学校での正式な最後の授業は同月二十八日で、同三十一日に退職している(以上は、岩波新全集の宮坂覺氏の年譜に負うところ大である)。実に二年三ヶ月の短い間ではあった。]
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