芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 「新生」讀後
「新生」讀後
果して「新生」はあつたであらうか?
[やぶちゃん注:「新生」大正七(一九一八)年五月から翌年十月にかけて『東京朝日新聞』に連載し、大正八(一九一九)年に分冊刊行された島崎藤村(明治五(一八七二)年~昭和一八(一九四三)年:芥川龍之介より二十歳年上)の、実際に自身の姪(次兄広助の次女)島崎こま子(明治二六(一八九三)年~昭和五三(一九七八)年:龍之介より一つ年下に当たる)との実際の恋愛スキャンダルに基づく自伝的小説。最も細かな注を附しておられる、新潮文庫の神田由美子氏の注を引くと、『妻に死なれ』、『四人の子をかかた中年男岸本と、家事手伝いに来ていた姪(めい)節子との不倫な恋愛』(姪と叔父の近親姦を言ったもの。現行民法でも三等親であるから許されない)『を赤裸々に告白し、罪からの〈新生〉を描いた作品。姪とのくされ縁と兄である姪の父への経済的援助から自由になろうとする功利的目的と、姪の運命への配慮がほとんど見られない藤村のエゴイズムに対し、芥川は「或阿呆(あるあほう)の一生」で「老獪(ろうかい)な偽善者という批判を下した』(後に掲げる)とある。
ウィキの「島崎こま子」に、このモデルたる彼女の子細な事蹟が載るので、以下に引用しておく。
『結婚後の氏名は長谷川こま子』で、『長野県吾妻村の高等小学校』四年を終えて後に上京し、『三輪田高等女学校の』三年に『編入、根岸の親類(藤村の長兄の家族)の家から通っていた。卒業後に妻を亡くした藤村の家に住み込んだ。最初は姉ひさと一緒だったが、姉は結婚して家を出た』。十九歳の一九一二年(この年は七月三十日を以って明治四十五年から大正元年となった)の『半ば、藤村と関係を結び、藤村との子を妊娠する』。藤村は大正二(一九一三)年四月にパリに留学してしまい、同年八月に『藤村との子を出産するも養子に出された。この養子は』後の大正一二(一九二三)年九月の『関東大震災で行方不明とな』ってしまう。藤村は大正五(一九一六)年に帰国するが、こま子との関係が再燃した。その時にこま子が読んだ歌が「二人していとも靜かに燃え居れば世のものみなはなべて眼を過ぐ」として残る。その後、藤村は「新生」『を発表し、この関係を清算しようとした』。大正七(一九一八)年七月、『こま子は家族会の決定により、台湾の伯父秀雄(藤村の長兄)のもとに身を寄せることになった。それ以来、藤村とは疎遠とな』った。藤村はその十九年後の昭和一二(一九三七)年に『「こま子とは二十年前東と西に別れ、私は新生の途を歩いて来ました。当時の二人の関係は『新生』に書いていることでつきていますから今更何も申し上げられません、それ以来二人の関係はふっつりと切れ途は全く断たれてゐたのです。」『とコメントしている』。『一方、こま子は後の手記で「(小説「新生」は)殆んど真実を記述している。けれども叔父に都合の悪い場所は可及的に抹殺されている」と述べている』とある。大正八(一九一九)年十二月、『こま子は秀雄とともに帰京し、自由学園の羽仁もと子(西丸哲三とも)宅に賄婦として住み込んだ』。『その後、こま子はキリスト教に入信。その縁で京都大学の社会研究会の賄婦となり、無産運動に参加する。河上肇門弟の学生だった長谷川博と』三十五歳で『結婚して、長谷川こま子となる。しかし、夫の博は』昭和三(一九二八)年に三・一五事件で検挙・投獄されてしまうが、『こま子は解放運動犠牲者救援会(現在の日本国民救援会)を通じて救援活動に奔走した』。昭和四(一九二九)年に『夫が尊敬していた山本宣治が右翼に暗殺された』際には、『こま子は宣治の葬儀に参列している。夫が出獄後』、昭和八(一九三三)年に『娘の紅子(こうこ)をもうけるが』、その後、長谷川とは離婚している。『上京して運動を続けるが、警察に追われ、また赤貧のため子どもを抱えたまま肋膜炎を患い、東京都板橋区の養育院に』昭和一二(一九三七)年三月に『収容された。このことは、同月』六日及び七日附『東京日日新聞』記事で――『島崎藤村の「新生」のモデルの』二十年後――『として報じられた。また林芙美子も、同月』七日には『婦人公論』記者として『インタビューをしている。林は皮肉を込めて「センエツながら、日本ペン倶楽部の会長さん(注:島崎藤村)は、『償ひ』をして、どうぞこま子さんを幸福にしてあげて下さい」という趣旨の記事を書いた。この記事を受けてのことか分からないが、藤村は、当時の妻静子に』五十円を『持たせて病院を訪問させている(当時、銭湯の料金が』六銭。郵便料金は葉書Ⅱ銭、封書四銭。米六十キログラム(一俵)が約十三円の時代であった)。『静子はこま子に会うことなく、守衛室に金を預けて帰った。藤村は息子に「今頃になって、古疵に触られるのも嫌なものだが、よほど俺に困ってもらわなくちゃならないものかねえ」とぼやいた』。この後、『こま子は「悲劇の自伝」を』『中央公論』五月~六月号に発表しているとある。『戦後は、妻籠(当時は長野県西筑摩郡吾妻村。現・木曽郡南木曽町)に住んだこま子は「いつも和服で、言葉が美しく、静かな気品」があったと報じられている。作家の松田解子は「ひそやかさの中にまっとうさと輝かしさのある人でした」、「人間の幸せとは、美しいものを美しいといえる、嬉しいことを嬉しいといえることでしょうねぇ」とこま子が語っていたと述べている』。こま子は妻籠に二十年、その後、東京で二十二年を過ごし、八十五歳で病没した、とある。
神田氏の挙げる、龍之介の遺稿「或阿呆の一生」のそれは、第四十六章の「譃」で、以下の通り。
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四十六 譃
彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかつた。彼の將來は少くとも彼には日の暮のやうに薄暗かつた。彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼の惡德や弱點は一つ殘らず彼にはわかつてゐた。)不相變いろいろの本を讀みつづけた。しかしルツソオの懺悔錄さへ英雄的な譃に充ち滿ちてゐた。殊に「新生」に至つては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪な僞善者に出會つたことはなかつた。が、フランソア・ヴィヨンだけは彼の心にしみ透つた。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡(をす)」を發見した。
絞罪を待つてゐるヴィヨンの姿は彼の夢の中にも現れたりした。彼は何度もヴィヨンのやうに人生のどん底に落ちようとした。が、彼の境遇や肉體的エネルギイはかう云ふことを許す譯はなかつた。彼はだんだん衰へて行つた。丁度昔スウイフトの見た、木末(こずゑ)から枯れて來る立ち木のやうに。………
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なお、私は幸い――というか――忌まわしくも――島崎藤村の「芥川龍之介君のこと」(昭和二(一九二七)年十一月発行の雑誌『文藝春秋』」に掲載)の全文を十八年も前にブログで電子化している(リンク先はそれ)。そこで藤村は前に掲げた遺稿「或阿呆の一生」の部分を引き、次のように述べている。
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一體にあの遺稿は心象のみを記すにとゞめたやうなもので、その他を省いたやうな書き振りであるが、こゝに引いた『新生』とは私の『新生』であるらしく思はれる。私はこれを讀んで、あの作の主人公がそんな風に芥川君の眼に映つたかと思つた。
知己は逢ひがたい。『ある阿呆の一生』を讀んで私の胸に殘ることは、私があの『新生』で書かうとしたことも、その自分の意圖も、おそらく芥川君には讀んで貰へなかつたらうといふことである。私の『新生』は最早十年の前の作ではあるが、芥川君ほどの同時代の作者の眼にも無用の著作としか映らなかつたであらうかと思ふ。しかし私がここで何を言つて見たところで、芥川君は最早答へることのない人だ。唯私としてはこんなさみしい心持を書きつけて見るにとゞまる。でも、あゝいふ遺稿の中の言葉が氣に掛つて、もつと芥川君をよく知らうと思ふやうになつた。そして『ある阿呆の一生』ばかりでなく、『侏儒の言葉』なども讀み返して見る氣になつた。
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この間に「侏儒の言葉」の藤村なりの読み方が示される(それはそれでまあ、面白くはある)。そして末尾に再び、龍之介の「新生」批判を取り上げ、
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『果して「新生」はあつたであらうか。』
斯う芥川君は『侏儒の言葉』の中で『新生』の主人公に、つゞいては作者としての私に問ひかけてゐる。芥川君は懺悔とか告白とかに重きを於いてあの『新生』を讀んだやうであるが、私としては懺悔といふことにそれほど重きを置いてあの作を書いたのではない。人間生活の眞實がいくらも私達の言葉で盡せるものでもなく又書きあらはせるものでもないことに心を潛めた上での人で、猶且つ私の書いたものが譃だと言はれるならば、私は進んでどんな非難に當りもしようが、もともと私は自分を僞るほどの餘裕があつてあゝいふ作を書いたものでもない。当時私は心に激することがあつてあゝいふ作を書いたものの、私達の時代に濃いデカダンスをめがけて鶴嘴を打込んで見るつもりであつた。荒れすさんだ自分等の心を掘り起して見たら生きながらの地獄から、そのまゝ、あんな世界に活き返る日も來たと言って見たいつもりであつた。あれを芥川君に讀み返して貰へる日の二度と來ないことを思ふとさみしい。
それは兎もあれ、芥川君の惱んだ懷疑は私達と同じ時代の人の懷疑だ。その苦悶も私達と同じ時代の人の苦悶だ。あれほどの惱みを惱んで行つた人に對して、私達は哀惜のこゝろを寄せずにはゐられない。
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私はこのアフォリズムを吐いた芥川龍之介に全面的に賛同する。私は大学一年の頃、「藤村詩集」を愛読し、「破戒」「春」「家」「桜の実の熟する時」と立て続けに読んで共感し、「千曲川のスケッチ」に打たれた。しかし、「新生」を読むに及んで激しく彼に嫌悪を感じ、その後は「夜明け前」も中途で投げ、多分、「嵐」を読んだのを最後に、彼の作品は二十代以降、全く読んでいない。それはまた、好きな芥川龍之介の最後の嫌悪に強く共鳴したためでもある。これ以上、注をすると、私は卒中を起こしそうなのでやめることとする。]
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