芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或仕合せ者
或仕合せ者
彼は誰よりも單純だつた。
[やぶちゃん注:芥川龍之介のアフォリズムの毒は本文にのみあるのものではない好例がこれである。標題と本文を一緒に服用することによって毒性を発揮するケースである。「彼は誰よりも單純だつた。」という命題はそれだけならばフラットなものである。以下に述べる通り、「單純」であることが好い場合もあり、「誰よりも」という限定は話し方によっては、その「彼」を讃える謂いにさえなる。ところが多くの読者は標題の「或仕合せ者」を確認し、而して「彼は誰よりも單純だつた。」という文を読んだ瞬間、百人中九十八、九はそこに「毒」を感じ取るのである(「毒」を感じない一人二人はまさに龍之介が軽蔑を込めて言っている(かのような)「或」る、救いがたいほどに馬鹿げた、「單純」過ぎる「仕合せ者」だと謂い得るかも知れない)。まさにその二つのコンプレクス(心的複合)が毒となって我々に作用するのである。
「君は頗る單純だね。」と「君は餘りに複雜だね。」という評言は孰れも向けられた人物には不快である。無論、「そうだ。私は渡世に於いて單純を旨としてゐる。」或いは「その通り。私は人生の複雜なればこそ面白いと思ふてゐる。」と応じることは出来るが、それも先方にフンと鼻でせせら笑われるのがオチではあろう。
私は「單純」ではない。そうして「複雜」であることを〈ここ〉では「仕合せ」だと感じている。何故なら、「單純」であったとすれば、とうの昔に、この『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)』の仕儀に挫折してしまって、カテゴリごと削除しているに違いないからである。神経症的に「複雜」でなければ、この作業は続けられないからである。竹の根のようにひろごるところの関係妄想なしにはこの劇薬の処方箋への注釈は出来ぬし、また自分自身、その迂遠な迷路巡りそのものを楽しむことが出来ないのは幾分か淋しいと感ずるからである。
しかも必ずしも「複雜」は「仕合せ」ではない。このアフォリズムの逆が真となって我々を襲ってもくるのである。
それはまさに「單純」に虎になり切れない「山月記」の李徴そのものである。李徴は語る。『一日の中に必ず數時間は、人間の心が還つて來る。さういふ時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雜な思考にも堪へ得るし、經書の章句をも誦ずることも出來る』のであるが、しかし同時に、『己の中の人間の心がすつかり消えて了へば、恐らく、その方が、己はしあはせになれるだらう。だのに、己の中の人間は、その事を、此の上なく恐しく感じてゐるのだ。ああ、全く、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思つてゐるだらう! 己が人間だつた記憶のなくなることを。この氣持は誰にも分らない。誰にも分らない』(太字「しあはせ」は原文では傍点「ヽ」。下線はやぶちゃん)と告解するではないか。
李徴には失礼乍ら、こうした痙攣的な苦悩のディレンマを私はしばしば他者との関係に於いて感ずる。そんな時、私は、いっそ「單純」な人間、いやさ、虎に生まれてくればよかったと思うのを常としている。]
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