芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 藝術至上主義者
藝術至上主義者
古來熱烈なる藝術至上主義者は大抵藝術上の去勢者である。丁度熱烈なる國家主義者は大抵亡國の民であるやうに我我は誰でも我我自身の持つてゐるものを欲しがるものではない。
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年七月号『文藝春秋』巻頭に、前の「自由」(四章)「言行一致」「方便」と、後の「唯物史觀」「支那」(二章)と合わせて全十章で初出する。標題に含まれる「藝術至上主義」についてウィキの「芸術のための芸術」を引いておく。『芸術のための芸術』(フランス語:l'art pour l'art)は、十九世紀初頭の『フランスで用いられ始めた標語。芸術それ自身の価値は、「真の」芸術である限りにおいて、いかなる教訓的・道徳的・実用的な機能とも切り離されたものであることを表明している。そのような作品は時として「自己目的的」』(autotélique:ギリシア語の「autoteles」由来)、『すなわち人間存在の「内向性」や「自発性」を取り入れるために拡張された概念であると評される。日本ではこれを主義として捉え』、『芸術至上主義と呼ぶこともある』。『「芸術のための芸術」はテオフィル・ゴーティエ』(Pierre Jules Théophile Gautier 一八一一年~一八七二年:フランスの詩人・作家)の『言葉とされる。ゴーティエが初めてこの言葉を書いたわけではないと異論を唱える者もいる。ヴィクトル・クーザン』(Victor Cousin 一七九二年~一八六七年:フランスの哲学者)やバンジャマン・コンスタン(Henri-Benjamin Constant de
Rebecque 一七六七年~一八三〇年:スイス出身のフランスの小説家・思想家・政治家)や、アメリカの詩人で幻想作家のエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe 一八〇九年~一八四九年)の『作品にもこの言葉は現れる。ポーは評論「詩の原理」(The
Poetic Principle 一八四八年)に於いて、以下のように論じている。――『我々は詩をただ詩のためだけに書こうと決意するようになった(中略)そうしたことが我々の意図であると認めるならば、我々は真に詩的な威厳や力に根本的に欠けていると告白せねばならぬだろう。しかしながら純然たる事実としては、我々がただ我々自身の魂の中を覗き込むに委せるなら、まさにこの詩、この詩それ自身、詩でありそれ以外の何物でもないところのこの詩、「ただ詩のためだけに書かれた詩」よりも威厳のあり高貴な作品などはこの世界には存在せず存在し得ることもないことを我々は直ちに発見するであろう』。――『しかしながら、ゴーティエはこの言葉を最初に標語として掲げた人物である。「芸術のための芸術」は』十九世紀のボヘミアニズム(Bohemianism:自由奔放な生活を追究することを人生の実相とする考え方)の信条であり、ジョン・ラスキン(John Ruskin 一八一九年~一九〇〇年:イギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家)から始まり、『ずっと後の社会主義リアリズムを唱道する共産主義者たちに至るまでの、芸術の価値は何らかの道徳や教訓的な目的に奉仕することであると考える人々を物ともせずに掲げられた標語であった。「芸術のための芸術」は、芸術は芸術として価値があるのであり、芸術の探求はそれ自身で正当化されるものであり、芸術は道徳的な正当化を必要としないものであると主張した。そして実際に、彼らは道徳の破壊者を自認していた』。さらにジェームズ・マクニール・ホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler 一八三四年~一九〇三年:アメリカ人の画家。但し、生涯の殆んどをロンドンで過ごした)は十六世紀の対抗宗教改革(カトリック教会内の改革刷新運動)以降、『ずっと付き纏ってきた国家や国教のために奉仕するという芸術の因習的な役割を否定してこう書い』ている。――『芸術はどんなナンセンスとも無関係でなければならぬ。独り立ちしており(中略)信仰、憐憫、愛、愛国心などといった芸術とは凡そ相容れない感情と混同させることなく、耳目の芸術的感覚に訴えかけねばならぬ』。――『このような素っ気ない棄却は』、また、『芸術家が感傷主義から距離を置くことも表明していた。この声明に見えるロマン主義の残滓は、芸術家が決定者として自身の目と感覚に信頼を寄せるということに現れている』。レオポール・セダール・サンゴール(Léopold Sédar Senghor 一九〇六年~二〇〇一年:セネガル共和国初代大統領であった詩人)やチヌア・アチェベ(Chinua Achebe 一九三〇年~二〇一三年:ナイジェリア出身の小説家)といった芸術家たちはこの標語を』、『限界のあるもので』、『ヨーロッパ中心主義的な芸術・創造観であると批判している』。サンゴールは「ブラックアフリカの美学」の中で、『「芸術は機能的」であり「ブラックアフリカには『芸術のための芸術』は存在しない」と論じ』、『アチェベはさらに辛辣で、評論集』「Morning
Yet on Creation Day」(「創造の日の朝まだき」の意か?)の中で『「芸術のための芸術は脱臭された犬の糞のさらなる』一欠片に『過ぎない」としている』。『ドイツのマルクス主義の評論家・批評家であるヴァルター・ベンヤミン』(Walter Bendix Schönflies
Benjamin 一八九二年~一九四〇年)は『さらに進んで、この標語はファシズムにおいて「完遂された」と、後世に大きな影響を与えた評論』「複製技術時代の芸術」(Kunstwerk
im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit 一九三六年から一九三九年頃にかけて執筆され、初版は一九三六年に発表された)の結びで明言している、とある。
なお、何度も述べているが、近年、私は芥川龍之介の芸術至上主義自認に懐疑的である。「地獄變」で良秀を自裁させることに、私は龍之介の中の異様なほどに強い倫理意識を感じとるからであり、彼の自死の子どもらへの遺書を読んでも、それをことさらに激しく感じざるを得ないからである(リンク先は私のもの)。このアフォリズムはまさにそれを裏づけるものであると言える。]