芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 賭博(三章)
賭博
偶然即ち神と鬪ふものは常に神祕的威嚴に滿ちてゐる。賭博者も亦この例に洩れない。
又
古來賭博に熱中した厭世主義者のないことは如何に賭博の人生に酷似してゐるかを示すものである。
又
法律の賭博を禁ずるのは賭博に依る富の分配法そのものを非とする爲ではない。實は唯その經濟的ディレツタンティズムを非とする爲である。
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年四月号『文藝春秋』巻頭に、後の「懷疑主義」「正直」「虛僞」(三章)「諸君」(二章)「忍從」「企圖」(二章)と合わせて全十三章で初出する。余り知られているとは思われないので言っておくと、龍之介は花札の「こいこい」を非常に好んだ。実は私は賭け事は全く不案内で、賭け事はただ一度しかしたことがない。「ばんえい競馬」に友達に連れられて行き、妻誕生日の日付なんぞの馬券を買ったりして数千円をすったのは二年前のことで、その五十七の時が人生初めての賭け事経験であった(いや、考えてみれば、結婚とは人生の命運を左右する一つの大きな賭け事とは言える)。因みに、麻雀のルールも私は知らない(いやいや、それどころか、私の異常なのは野球のルールさえも知らないことである)。しかし、だからこそ最初と二番目のアフォリズムを読むと、思わず相槌を打ってしまう私がいる。確かに私は神秘的な威厳とは無縁であるし、人生を楽天的には生きていないから。
・「經濟的ディレツタンティズム」「ディレツタンティズム」の「ディレッタント」は元はフランス語の「dilettante」で、学問・芸術などを趣味として愛好する好事家(こうずか)の謂いであるが、ここはそれから出た英語の「dilettantism」でディレッタント風・芸術趣味、或いは揶揄を強く込めた道楽・半可通の謂いであるから、この部分の意味は、金銭所得を得るに際し、正当・相当な体力や知力消耗の労働に対する報酬としてそれを得るのではなく、それを道楽や趣味として楽しむことをメインとし、従でそれら得る(多寡を問わず)ことを指して言っているのであろう。]
« 芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) レニン | トップページ | 芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 懷疑主義 »