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2016/06/18

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  風流――久米正雄、佐藤春夫の兩君に――

[やぶちゃん注:以下は岩波旧全集第十二巻の「雑纂」に所収する「〔アフオリズム〕」である。これは「侏儒の言葉」と名指していないし、未定稿でもあるが、底本の稿の最後にある、先行する元版全集の編者によるものであろう『(大正十二年――大正十四年)』という記載は、「侏儒の言葉」の連載と完全に一致しており、その内容も「侏儒の言葉」の未定稿の一種と見なし得るものである。]

 

〔アフオリズム〕

 

       風流

        ――久米正雄、佐藤春夫の兩君に――

 

        *

 

 「風流」とは淸淨なるデカダンスである。

 

        *

 

 「風流」とは藝術的涅槃である。涅槃とはあらゆる煩惱を、――意志を掃蕩した世界である。

 

        *

 

 「風流」もあらゆる神聖なるものと多少の莫迦莫迦しさを共有してゐる。

 

        *

 

 「風流」は意志か感覺か? ――兎に角甚だ困ることは感覺とか官能とか云ふと同時に、忽ちアムプレシオニストの油畫のありありと目の前に見えることである。

 

        *

 

 「風流」の享樂的傾向、――黃老に發した道教は王摩詰の藝術を與へた外にも、猥褻なる房術をも與へたのである。

 

        *

 

 「風流」の一つの傳統は釋迦に發する釋風流である。「風流」のもう一つの傳統は老聃に發する老風流である。この二つの傳統は必ずしもはつきりとは分かれてゐない。しかし釋風流は老風流より大抵は憂鬱に傾いてゐる。たとへば沙羅木の花に似た良寛上人歌のやうに。

 

        *

 

 「風流」を宗とする藝術とはそれ自身にパラドツクスである。あらゆる藝術の創作は當然意志を待たなければならぬ。

 

        *

 

 百年の塵は「風流」の上に骨董の古色を加へてゐる。塵を拂へ。塵を拂へ。

 

[やぶちゃん注:全八章からなる「風流」と題したアフォリズムで、ポイントは「久米正雄、佐藤春夫の兩君に」捧げるという形態をとっている点であろう。これは明らかに両盟友(佐藤は晩年の)の作風を意識してのことであろう。佐藤に献呈されるのは、彼の諸作とここで語られる内容が個人的には腑に落ちるが、久米は私自身、殆んど読んだことがないのでよくわからない。識者の御教授を乞うものである。なお、ここで「風流」の辞書的意味を示すのは無効であるように思われる。それは以下で、芥川龍之介によって示されるものはすこぶる解剖学的で、芥川龍之介という不思議な顕微鏡によって拡大された異様な細部の表象だからである。

 

・「掃蕩」「さうたう(そうとう)」は「掃討」に同じい。敵などの対象を平らげること・完全に除き去ることの意。

・「アムプレシオニスト」Impressionnist。英語音写なら「インプレェシャニィスト」であるが、語の元であるフランス語(impressionnistes)ならば、「アンプレッショォンニィスト」となろうから、芥川龍之介の音写はこの語の本家であるフランス語に近いと言える。印象派の画家。十九世紀後半のフランスに発した絵画分野を濫觴とする芸術思潮。ウィキの「印象派によれば、『印象派の絵画の特徴としては、小さく薄い場合であっても目に見える筆のストローク、戸外制作、空間と時間による光りの質の変化の正確な描写、描く対象の日常性、人間の知覚や体験に欠かせない要素としての動きの包摂、斬新な描画アングル、などがあげられる』とある。この派の名称は「光の画家」として知られるクロード・モネ(Claude Monet 一八四〇年~一九二六年)が一八七二年に描いた「印象・日の出」(Impression, soleil levant)に基づく。

・「黃老」「こうらう(こうろう)」。「地上樂園」で既注であるが、再掲する。中国の神話伝説上五帝の最初とされる理想的神仙皇帝である黄帝と、道家思想の祖とされる老子のことで、ここは「荘子(そうじ)」内篇の「逍遙遊篇」や「応帝王篇」に出る、道家(老荘思想)の「無何有郷」(むかいうきやう(むかうきょう)、無為自然(自然のあるがままの、愚かな人為のない、何ものもなく広々とした永久不変の)理想郷のことを指す。

・「王摩詰」「わうまきつ(おうまきつ)」と読む。深く仏教を愛したことから「詩仏」と称された盛唐の名詩人王維の字(あざな)。

・「房術」「ばうじゆつ(ぼうじゅつ)」は房中術のこと。房事(性生活)、男女和合に於ける様々な技法に関わる中国古来の養生術の重要な一分野を指す語。

・「釋風流」意味は分かるが、こういう熟語は私は未だ嘗て聴いたことがない。

である。

・「老聃」「らうたん(ろうたん)」と読む。道家思想の祖とされる老子の字(あざな)。

・「老風流」こういう意味でこの単語を聴いたことも私はない。

・「沙羅木の花に似た良寛上人歌のやうに」「沙羅木」は「さらぼく」と読み、釈迦の涅槃の場にあったとされる「沙羅双樹」(さらそうじゅ:アオイ目フタバガキ科 Shorea 属サラソウジュ Shorea robusta)のこと。本邦でしばしば「沙羅双樹」の木として寺院に植えられているものは、ツバキ目ツバキ科ナツツバキ属ナツツバキ Stewartia pseudocamellia で全くの別種である。真正のサラソウジュ Shorea robusta は熱帯性で、本邦では通常、温室の中か、温暖な地域でないと育たない。……さてしかし……私はこの龍之介の謂いに、実は良寛さんの詠歌などは想起しない。……寧ろ、龍之介自身の詩歌を想起する。……既に示した晩年、片山廣子への切ない思いを詠んだ、あの「相聞」の一つ、

   *

 

また立ちかへる水無月の

歎きを誰にかたるべき。

沙羅のみづ枝に花さけば、

かなしき人の目ぞ見ゆる。

 

   *

を、である。……

・『「風流」を宗とする藝術とはそれ自身にパラドツクスである。あらゆる藝術の創作は當然意志を待たなければならぬ。』「宗」は「むね」。これは非常に興味深い謂いである。即ち、龍之介は「風流」とは創作者の「意志」を排除したところに生ずる現象であるというのである。だからこそその風流を第一とする「藝術とはそれ自身」の芸術的存立に於いて「パラドツクス」、逆説の存在「である」と言明するのである。何故なら、「あらゆる藝術の創作は當然」、「意志を待たなければならぬ」からであると言うのである。これは私には確かに腑に落ちるような気は私には、する。

・『百年の塵は「風流」の上に骨董の古色を加へてゐる。塵を拂へ。塵を拂へ。』この最後の一章に至って、我々は気づく。ここで龍之介が示そうとしたのは、実は「風流」ではなく、その濫觴にあるところの「芸術」なるものの本源的な属性への認識であり、それを我々現代の芸術家(芥川龍之介自身を含めてである)は見失っている或いは見損なっているという強烈な警告なのである。]

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