南國の空靑けれど 立原道造
南國の空靑けれど
南國の空靑けれど
涙あふれて やまず
道なかばにして 道を失ひしとき
ふるさと とほく あらはれぬ
辿り行きしは 雲よりも
はかなくて すべては夢にまぎれぬ
老いたる母の微笑のみ
わがすべての過失を償ひぬ
花なれと ねがひしや
鳥なれと ねがひしや
ひとりのみ なになすべきか
わが渇き 海飮み干しぬ
かなたには 帆前船 たそがれて
星ひとつ 空にかかる
[やぶちゃん注:既に記した底本(一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編))の「後期草稿詩篇」の最後に配されてある一篇。同底本解説に、この「後期草稿詩篇」は昭和九(一九三四)年から没する前年昭和一三(一九三八)年の末までの詩篇を推定年代順に並べたとある。堀内達夫氏の底本年譜によれば、道造は昭和一二(一九二七)年十一月二十四日に『南方の豊穣を夢見て長崎旅行に出発』、『途中、奈良、京都』、『舞鶴、松江、島根半島日ノ御碕、下関、若松と巡り』、『福岡、柳河』から『佐賀を経て、十二月四日、長崎』『に旅装を解くが』、二日後の『六日に結核喀血』を起こし、『十四日、帰京』している。本篇はまさに短かった長崎での最後の旅の思い出に基づくものであろう。同年十二月『二十四日、中野区江古田の東京市立症状所に入所、水戸部アサイが献身的に看護に当たった』が、翌昭和一四(一九三九)年『三月二十九日午前二時二十分、病態急変』、誰にも看取られることなく立原道造は永眠した。満二十四歳と八ヶ月であった(道造の生年は大正三(一九一四)年七月三十日)。]