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2016/06/06

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 多忙

 

       多忙

 

 我我を戀愛から救ふものは理性よりも寧ろ多忙である。戀愛も亦完全に行はれる爲には何よりも時間を持たなければならぬ。ウエルテル、ロミオ、トリスタン――古來の戀人を考へて見ても、彼等は皆閑人ばかりである。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年六月号『文藝春秋』巻頭に、前の「徴候」(二章)「戀愛と死と」「身代り」「結婚」(二章)と、後の「男子」「行儀」と合わせて全九章で初出する。これも世のあらゆるアフォリズム中、三本指に入る名言と存ずる! 暗唱の苦手な私でもこれだけはソラで言える。

 

・「ウエルテル」(Werther)はヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)の一七七四年に刊行された書簡体の恋愛悲劇小説「若きウェルテルの悩み」(Die Leiden des jungen Werthers:一七八七年改訂版:Die Leiden des jungen Werther)の、相応に高貴な出の孤高の青年詩人(たらんとする)主人公で、三角関係の煩悶の果てに自裁する。未読の方はウィキの「若きウェルテルの悩みをどうぞ。

・「ロミオ」(Romeo)はウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare 一五六四年~一六一六年)の恋愛悲劇「ロミオとジュリエット」(Romeo and Juliet:初演は一五九五年前後と推定されている)の皇帝派の貴族モンタギュー家(Montague)の一人息子(ジュリエット(Juliet)の方は皇帝派と対立する教皇派のキャピュレット家(Capulet)の一人娘。両家は血で血を洗う如き熾烈な抗争関係にある)で、最後に二人はやや数奇な形で心中して果てる。未読の方はウィキの「ロミオとジュリエットをどうぞ。

・「トリスタン」(Tristan)は中世に宮廷詩人たちが広く語り伝えた恋愛悲譚の騎士道物語である「トリスタンとイゾルデ」(Tristan and Iseult)の主人公の騎士の名。作品としてはヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner  一八一三年~一八八三年)の楽劇(Tristan und Isolde:一八五七年から一八五九年にかけて作曲)で最も知られる。私はワーグナーのそれはCDで持ってはいるものの、話を十全に理解して聴いたことは実は全く、ない。されば、この物語はよう知らん。されば、平凡社「世界大百科事典」の新倉俊一氏による、伝承の方の「トリスタンとイゾルデ」の解説を引いておく(コンマを読点に代えた)。『フランスを中心に広くヨーロッパに流布した恋愛伝説の主人公。コーンウォール王マルクの甥トリスタン Tristan と、マルクに嫁ぐアイルランド王女イゾルデ Isolde(フランス語でイズー Iseut)は、誤って媚薬入りの酒を飲み、激しい恋に落ちる。モロアの森に追放されたあと、二人は離別を強いられるが』、『愛は変わらず、やがて重傷を負ったトリスタンがイゾルデの到着を待ちきれず死ぬと、イゾルデもあとを追うようにして死ぬ』。『制度の弾圧によっても抑止できぬ性愛、それも死によって完結する運命的情熱の物語は』、『ケルト人の伝承に起源を』持つ(ストーリーの流れの異なる発展過程がここに書かれてあるが、割愛する)。『この衝撃的な情熱の物語は、円卓騎士物語とからみ合ったり、数々の模倣あるいは批判の作品を生み、後世に伝わっていくが、そのなかでも最も大きな影響を及ぼしたのは、昼の常道と夜の情熱の相克を歌い上げ、この題材から象徴主義の神話をつくり出した』『ワーグナーの楽劇であった。これはこれで記念碑的作品ではあるが』、十二世紀の本来の『物語とは非常に異なったものであることに注意しなければならない』とある。英文学専攻の龍之介が言った場合の「トリスタン」は本来の伝承譚の主人公としての彼と考えるべきであろう。

・「閑人」「ひまじん」。実に美事な語を龍之介は選んだ。快哉!]

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