芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 藝術(四章)
藝術
畫力は三百年、書力は五百年、文章の力は千古無窮とは王世貞の言ふ所である。しかし敦煌の發掘品等に徴すれば、書畫は五百年を閲した後にも依然として力を保つてゐるらしい。のみならず文章も千古無窮に力を保つかどうかは疑問である。觀念も時の支配の外に超然としてゐることの出來るものではない。我我の祖先は「神」と言ふ言葉に衣冠束帶の人物を髣髴してゐた。しかし我我は同じ言葉に髯の長い西洋人を髣髴してゐる。これはひとり神に限らず、何ごとにも起り得るものと思はなければならぬ。
又
わたしはいつか東洲齋寫樂の似顏畫を見たことを覺えてゐる。その畫中の人物は綠いろの光琳波を描ゐた扇面を胸に開いてゐた。それは全體の色彩の效果を強めてゐるのに違ひなかつた。が、廓大鏡に覗いて見ると、綠いろをしてゐるのは綠靑を生じた金いろだつた。わたしはこの一枚の寫樂に美しさを感じたのは事實である。けれどもわたしの感じたのは寫樂の捉へた美しさと異つてゐたのも事實である。かう言ふ變化は文章の上にもやはり起るものと思はなければならぬ。
又
藝術も女と同じことである。最も美しく見える爲には一時代の精神的雰圍氣或は流行に包まれなければならぬ。
又
のみならず藝術は空間的にもやはり軛を負はされてゐる。一國民の藝術を愛する爲には一國民の生活を知らなければならぬ。東禪寺に浪士の襲擊を受けた英吉利の特命全權公使サア・ルサアフォオド・オルコツクは我我日本人の音樂にも騷音を感ずる許りだつた。彼の「日本に於ける三年間」はかう言ふ一節を含んでゐる。――「我我は坂を登る途中、ナイティンゲエルの聲に近い鶯の聲を耳にした。日本人は鶯に歌を教へたと言ふことである。それは若しほんたうとすれば、驚くべきことに違ひない。元來日本人は音樂と言ふものを自ら教へることも知らないのであるから。」(第二卷第二十九章)
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年三月号『文藝春秋』巻頭に、後の「天才」(五章)と、「譃」(三章)「レニン」と合わせて全十三章で初出する。
・「王世貞」(一五二六年~一五九〇年:異説あり)は「わうせいてい(おうせいてい)」と読む。明代の学者で政治家。李攀竜(りはんりょう)とともに古文復古運動を主導した古文辞派後七子(こうしちし:李攀竜・王世貞・謝榛(しゃしん)・宗臣・梁有誉・徐中行・呉国倫の七人)の一人。詩文のみならず、書画の学究者としても知られる。以下、ウィキの「王世貞」より引く((アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『字は元美、号は弇州山人(えんしゅうさんじん)。南直隸太倉(江蘇省)出身。官は刑部尚書に至った』。『書法・書論をよくし、特に評論家として有名である。万暦年間前半の二十年、文壇に君臨し、文は前漢、詩は盛唐を貴んだ。著に題跋として「弇州山人題跋」・「弇州書画題跋」、書論として「古今法書苑」(漢から明に至る書学関連文献の集大成)・「弇州山人四部稿」百七十四巻(四部とは賦・詩・文・説の四目)・同「続稿」二百七巻(賦・詩・文の三部)・「芸苑巵言」』(げいえんしげん)『(古今の書についての見解を述べたもの)など多数ある』。
・「畫力は三百年、書力は五百年、文章の力は千古無窮」芥川龍之介は「雜筆」(大正九(一九二〇)年)の「不朽」の条でも同じことを引いている(リンク先は私の電子テクスト。下線やぶちゃん)。
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不朽
人命に限りあればとて、命を粗末にして好いとは限らず。なる可く長生をしようとするのは、人各々の分別なり。藝術上の作品も何時かは亡ぶのに違ひなし。畫力は五百年、書力は八百年とは、王世貞既にこれを云ふ。されどなる可く長持ちのする作品を作らうと思ふのは、これ亦我々の隨意なり。かう思へば藝術の不朽を信ぜざると、後世に作品を殘さんとするとは、格別矛盾した考へにもあらざるべし。さらば如何なる作品が、古くならずにゐるかと云ふに、書や畫の事は知らざれども、文藝上の作品にては簡潔なる文體が長持ちのする事は事實なり。勿論文體即作品と云ふ理窟なければ、文體さへ然らばその作品が常に新なりとは云ふべからず。されど文體が作品の佳否に影響する限り、絢爛目を奪ふ如き文體が存外古くなる事は、殆疑なきが如し。ゴオテイエは今日讀むべからず。然れどもメリメエは日に新なり。これを我朝の文學に見るも、鷗外先生の短篇の如き、それらと同時に發表されし「冷笑」「うづまき」等の諸作に比ぶれば、今猶淸新の氣に富む事、昨日校正を濟まさせたと云ふとも、差支へなき位ならずや。ゾラは嘗文體を學ぶに、ヴオルテエルの簡を宗とせずして、ルツソオの華を宗とせしを歎き、彼自身の小説が早晩古くなるべきを豫言したる事ある由、善く己を知れりと云ふべし。されど前にも書きし通り、文體は作品のすべてにあらず。文體の如何を超越したる所に、作品の永續性を求むれば、やはりその深さに歸着するならん。「凡そ事物の能く久遠に垂るる者は、(中略)切實の體あるを要す」(芥舟學畫編)とは、文藝の上にも確論だと思ふ。(十月六日)
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また、王の名は出さずに、この後の大正十五(一九二六)年一月四日付『大阪毎日新聞』に掲載した「文章と言葉と」の「言葉」でもこのアフォリズムに酷似したことを言っている(リンク先は私の電子テクスト。下線やぶちゃん)。
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言葉
五十年前の日本人は「神」といふ言葉を聞いた時、大抵みづらに結ひ、首のまはりに勾玉をかけた男女の姿が感じたものである。しかし今日の日本人は――少くとも今日の靑年は大抵長ながと顋髯をのばした西洋人を感じてゐるらしい。言葉は同じ「神」である。が、心に浮かぶ姿はこの位すでに變遷してゐる。
なほ見たし花に明け行く神の顏(葛城山)
僕はいつか小宮さんとかういふ芭蕉の句を論じあつた。子規居士の考へる所によれば、この句は諧謔を弄したものである。僕もその説に異存はない。しかし小宮さんはどうしても莊嚴な句だと主張してゐた。畫力は五百年、書力は八百年に盡きるさうである。文章の力の盡きるのは何百年位かかるものであらう?
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岩波新全集の山田俊治氏の注では、『引用の出典は、年数は相異するが「芸苑巵言付録四」冒頭の』「畵力可五百年至八百年而神去千年絶矣書力可八百年至千年而神去千二百年絶矣唯於文章更萬古而長新」(中文サイトで私が独自に本文を確認した)
『によると思われる』とされる。調べてみると、明の謝肇淛(しゃちょうせい)の「五雜俎」(十六巻からなる随筆集であるが、殆んど百科全書的内容を持ち、日本では江戸時代に愛読された。書名は五色の糸で撚(よ)った組紐のこと)にも、
「書力可千年、畫力可五百年。書之傳也以臨拓、屢臨拓而書之意盡失。矣畫之傳也以裝潢、屢裝潢而畫之神盡去矣。」
という似たような表現を発見出来る。
・「敦煌」「とんくわう(とんこう)」(中国語を音写すると「トゥンホワン」)は現在の中国甘粛省北西部にある敦煌市(とんこうし)で、かつてシルクロードの分岐点として栄えたオアシス都市。別名、沙州。紀元前二世紀、漢が西域経営のために敦煌郡を置いて以来、中国北西端の軍事・交通の要衝となった。近隣にある莫高(ばっこう)窟と、そこから出た敦煌文書で知られる。私は訪れたことがあり、三日間に亙って親しく見学した経験があるので、これ以上は注さないこととする。
・「髯の長い西洋人」言わずもがな、イエス・キリスト。
・「東洲齋寫樂」「とうしうさいしやらく(とうしゅうさいしゃらく)」(生没年未詳)は御存知、というか誰もその実体を知らぬ謎の江戸後期の浮世絵師である。東洲斎は号。徳島藩主蜂須賀氏のお抱え能役者ともされるが、正体は未だに不明である。参照した小学館「大辞泉」によれば、『役者似顔絵や相撲絵を描いたが、特に役者の個性豊かな顔を誇張的な描写で表し、大首絵に本領を発揮。現存する約』百四十点の作品の制作期間は』、寛政六(一七九四)年五月からの僅か約十ヶ月間と『推定され』ているとある。僅かな事蹟や正体の仮説はウィキの「東洲斎写楽」に詳しい。なお、ここで龍之介が語っている今は緑色に見える扇を胸のところで開いた絵となれば、これはもう、写楽の初期の作品の一枚として知られる歌舞伎役者三代目澤村宗十郎(宝暦三(一七五三)年~享和元(一八〇一)年)が演じた寛政六年五月都座上演の「花菖蒲文禄曽我」の「大岸蔵人」と考えてよい(岩波新全集の山田氏も同じく推定同定されている。同ウィキにあるパブリック・ドメインの当該の絵を以下に掲げておく。
・「光琳波」「大辞泉」は「くわうりんなみ(こうりんなみ)」と読んでいる。江戸中期の名画家で琳派の祖尾形光琳(万治元(一六五八)年~享保元(一七一六)年))が創始した、装飾的な波の図柄。但し、筑摩全集類聚版は『くわうりんは』(こうりんは)とルビする。個人的には「琳派」の発音と紛らわしく、朗読として聴いて分かり易い「なみ」がよい。
・「廓大鏡」「くわくだいきやう(かくだいきょう)。拡大鏡に同じい。虫眼鏡。
・「綠靑」「ろくしやう(ろくしょう)」。銅の表面にできる緑色の錆(さび)。
・「軛」「くびき」。自由を束縛するもの(原義は、牛車(ぎっしゃ)や馬車の轅(ながえ:「長柄」から。馬車・牛車などの前に長く突き出させた二本の棒)の先端につけ、車を引かせるために牛馬の頸の後ろに掛けて、同時に牛馬を制御する横木のこと)。
・「東禪寺」ウィキの「東禅寺(東京都港区)」から引く。『東京都港区高輪にある臨済宗妙心寺派の別格本山。詳名は海上禅林佛日山東禅興聖禅寺』。寺名は開基である日向国飫肥(おび)藩(現在の宮崎県日南市の全域および宮崎市南部)二代藩主伊東祐慶(すけのり)の『法名(東禅寺殿前匠征泰雲玄興大居士)に由来する。幕末に日本初のイギリス公使館が置かれていた』。慶長一四(一六〇九)年、『伊東祐慶が嶺南崇六』(れいなんすうろく)『を開山に招聘して、現在の東京都港区赤坂に創建』、寛永一三(一六三六)年、現在地に移転した。『眼前に東京湾が広がることから海上禅林とも呼ばれた』。『幕末の安政年間』(一八五五年~一八六〇年)以降、『当寺は西洋人用の宿舎に割り当てられ』。安政六(一八五九)年には『日本初のイギリス公使館が当寺に置かれ、公使ラザフォード・オールコック』(次注参照)『が駐在した』が、文久元(一八六一)年七月五日(グレゴリオ暦五月二十八日)、『攘夷派の常陸水戸藩浪士によって寺が襲撃される(第一次東禅寺事件)。オールコックは難を逃れたが、書記官らが負傷し、水戸藩浪士、警備兵の双方に死傷者が出た』。翌文久二年『には護衛役の信濃松本藩藩士伊藤軍兵衛によって再び襲撃され、イギリス人水兵』二名が『殺害された(第二次東禅寺事件)』とある。次の注も参照のこと。
・「特命全權公使サア・ルサアフォオド・オルコツク」イギリスの医師で外交官サー・ラザフォード・オールコック(Sir Rutherford Alcock 一八〇九年~一八九七年)。清国駐在領事。初代駐日総領事・同公使を務めている。ウィキの「ラザフォード・オールコック」より引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『ロンドン西郊のイーリングで医師トーマス・オールコックの息子として生まれた。母親が早く亡くなったため、イングランド北部の親戚の家に預けられ、十五歳の時に父の元に戻り、医学の勉強を始めた。最初ウェストミンスター病院とウェストミンスター眼科病院で一年間』、『教育を受けた後、一八二八年までパリに留学し、解剖学、化学、自然史を修め、またフランス語だけでなく、イタリア語も身につけた。勉学の傍ら、彫刻家のアトリエに通い、彫刻の手ほどきを受けている。ロンドンに戻った後、上の二病院で研修医として二年間過ごし、一八三〇年に王立外科学校から外科の開業医としての免許を得た』。『一九三二年からの四年間はイギリス軍の軍医として、戦乱のイベリア半島に赴任している。ロンドンに戻った後、内務省解剖検査官などをしたが、外務省の要請により、イベリアでの外交問題処理のため、再びスペイン、ポルトガルに赴任した。しかし、イベリアでの過労がたたってリウマチに侵され、両手の親指が全く利かなくなった。このため、外科医として将来を断念した』。その後、外務省に入って、外交官に転身したが、この頃の『イギリスは一八四〇年からのアヘン戦争で清を破って海禁を解き、南京条約により清の五港を開港させていた。この極東情勢に興味を持った』『オールコックは、一八四四年に福州領事に任命されると、しばらくアモイで過ごした後、条約港福州での領事業務に携わった。不平等条約で規定された租界管理や領事裁判権などの複雑な業務で成果を挙げ、一八四六年に上海領事、一八五五年に広州領事に転じ、十五年の長きにわたって中国に在勤した。この間、福州、上海における租界の発展に尽力した。オールコックは市場開拓のため清との再戦論を唱え、上海領事だった頃には首相パーマストン子爵に清に武力行使をするよう進言する書簡を送り、アロー戦争(一八五六年)を引き起こした』。安政五(一八五八)年、『エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースが訪日して日英修好通商条約が締結され、翌一八五九年七月一日(安政六年六月二日)をもって長崎、神奈川、箱館の三港が開港することが約束された。オールコックは極東在勤のベテランとしての手腕を買われ』、遡って『一八五九年三月一日付けで初代駐日総領事に任命され』ている。『五月三日にこの命令を香港で受け取ると、五月十六日には香港を立ち、上海』『経由で六月四日(五月三日)に長崎に到着した。日英修好通商条約の批准書交換を七月一日(六月二日)以前に行うように命令されていたため、長崎を六月二十日(五月二十日)に出発し、六月二十六日(五月二十六日)に品川沖に到着し、高輪の東禅寺に入った』。『オールコックは、七月一日(六月二日)に開港予定地である神奈川の視察に赴き、七月六日(六月七日)、オールコックは東禅寺に暫定のイギリス総領事館を開き』、『軍馬売却を幕府に要請するなどした。幕府側はオールコックらの到着を事前に知らされていなかったが、交渉は順調に進み、七月十一日(六月十二日)に一行は江戸城に登城、批准書の交換が行われた。なお、神奈川を視察した際に、対岸の横浜に居留地が建ち、そこが実際の開港地』『であることを知らされる。オールコックは実利的な面からは横浜が有利と認めながらも、条約遵守を要求し、結局領事館を神奈川の浄瀧寺に設置することで妥協した』。『一八五九年九月から十月にかけて、もう一つの開港地である函館へ旅行。十二月二十三日(安政六年十一月三十日)、特命全権公使に昇格。また一八六〇年九月十一日(万延元年七月二十七日)には富士山村山口登山道を用いて富士山への登山を行ったが(途中村山三坊に宿泊)、この登頂は記録の残る中では外国人として初めてのことであった』。『その帰路、熱海に旅行』している。『彼は日本の農村の様子について、こう書き残している』。
――『このよく耕された谷間の土地で、人々が、幸せに満ちた良い暮らしをしているのを見ると、これが圧政に苦しみ過酷な税金を取り立てられて苦しんでいる場所だとはとても信じられない。ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きの良い農民はいないし、またこれほど穏やかで実りの多い土地もないと思う』。(オールコック「大君の都」(The
Capital of the Tycoon: a Narrative of a Three Years' Residence in Japan 一八六三年刊)――
ところが、『一八六一年一月十四日(万延元年十二月四日)、米国駐日公使タウンゼント・ハリスの通訳を務めていたヘンリー・ヒュースケンが攘夷派に襲われ、翌日死去』、『オールコックは外国人の安全を保証できない幕府への抗議として、外交団が横浜へ引き移ることを提案したが、ハリスはこれに反対した。結局オールコックはフランス公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールと共に、横浜へ移った。江戸へ戻ったのは一ヵ月後であったが』、『この頃からハリスとの関係が悪化し始めた』。『一八六一年四月下旬からモース事件の後処理のため香港に滞在した。この間にロシア軍艦対馬占領事件の報告を受け、英国東インド艦隊司令官ジェームズ・ホープと協議し、軍艦二隻を対馬に派遣して偵察を行わせた。オールコックは五月後半に長崎に到着、六月一日(四月二十三日)に長崎を出発、瀬戸内海および陸路を通る三十四日の旅行をし、七月四日(文久元年五月二十七日)に江戸に戻った。翌七月五日(五月二十八日)、イギリス公使館を攘夷派浪士十四名が襲撃した。オールコックは無事であったが、一等書記官ローレンス・オリファントと長崎駐在領事ジョージ・モリソンが負傷した(第一次東禅寺事件)。これを機にイギリス水兵の公使館駐屯が認められ、イギリス艦隊の軍艦が横浜に常駐するようになった。八月十三日(文久元年七月八日)、艦隊を率いてホープが来日すると、翌八月十四日(七月九日)、オールコックはホープと共にイギリス艦隊の圧力による対馬のロシア軍艦退去を幕府に提案し、幕府はこれを受け入れた。九月十九日(八月十五日)、ロシア軍艦は対馬から退去した』。『この八月十四日(七月九日)および翌十五日(七月十日)に行われた会談は、オールコック、ホープ、オリファント(第一次東禅寺事件で負傷し帰国予定)、老中・安藤信正、若年寄・酒井忠眦に通訳を加えただけの秘密会談であった。オールコックはここで幕府権力の低下という実態を知った。一八六〇年』(万延元年)『頃より、幕府は新潟、兵庫および江戸、大坂の開港開市延期を求めていたが、オールコックはこれを断固拒否していた。しかし、この会談の後、オールコックは開港開市延期の必要性を理解し、幕府が派遣予定の遣欧使節を強力にサポートする。オールコックはこの遣欧使節が』、『一八六二年五月一日から開催予定のロンドン万国博覧会に招待客として参加できるよう手配していたが、それに加えて自身の休暇帰国を利用して、直接英国政府に開港開市延期を訴えることとした。使節一行は一八六二年一月二十一日(文久元年十二月二十二日)日本を立ったが、オールコックは同行せず、三月二十三日(文久二年二月二十三日)に日本を離れ、後を追った。帰国直前の三月十六・十七日(二月十六・十七日)の両日、オールコックは老中首座・久世広周と秘密会談を持ち(安藤信正は坂下門外の変』(文久二年一月十五日(一八六二年二月十三日)に江戸城坂下門外に於いて尊攘派の水戸浪士六名が老中安藤信正を襲撃した事件)『で負傷)より詳しく日本の情勢を理解した。五月三十日にロンドンに着き、六月六日、五年間の開港開市延期を認めるロンドン覚書が調印された』。帰国中、彼はサーの称号を得、先に引いた自著「大君の都」を出版する手配を終えてもいる(同書は翌年にロンドンで出版された)。『この著述で、日本が美しく国民の清潔で豊かな暮らしぶりを詳述する一方で、江戸市中での体験から「ペルシャ王クセルクセス』(クセルクセス一世 Xerxēs I 紀元前五一九年~紀元前四六五年:ペルシア帝国の王(在位:紀元前四八六年~紀元前四六五年)。父ダレイオス一世の末年に起こったエジプトの反乱を平定して間もなく、バビロニアの反乱に直面するも鎮圧、しかしその後も内乱が相次ぎ、父の遺志を継いだギリシア遠征は漸く紀元前四八〇年に実施された。王自ら兵を率いて進軍、アテナイまで達したものの、サラミスの海戦の敗北を知って帰国、遠征は失敗に終わった(但し、ペルシア戦争自体は息子のアルタクセルクセス一世(Artaxerxes I)の代まで継続した)。最後は側近に暗殺されている。ここは主に平凡社「世界大百科事典」に拠る)『の軍隊のような大軍でも編成しないかぎり、将軍の居城のある町の中心部をたとえ占領できたとしても、広大すぎるし』、『敵対心をもった住人のもとでは安全に確保し』、『持ちこたえられるヨーロッパの軍人はいないだろう」と書いた上で、日本人について』「大君の都」で『以下のように綴っている』。
――『彼らは偶像崇拝者であり、異教徒であり、畜生のように神を信じることなく死ぬ、呪われた永劫の罰を受ける者たちである。畜生も信仰は持たず、死後のより良い暮らしへの希望もなく、くたばっていくのだ。詩人と、思想家と、政治家と、才能に恵まれた芸術家からなる民族の一員である我々と比べて、日本人は劣等民族である』。――
『約二年の休暇の後、一八六四年(元治元年)春に日本に帰任したが、日本の様相は一変していた。帰国中に生麦事件とそれに対する報復としての薩英戦争が発生、長州藩による外国船砲撃のため、関門海峡は航行不能となるなど、日本国内の攘夷的傾向が強くなっていた。幕府も、攘夷派懐柔のためにヨーロッパに横浜鎖港談判使節団を派遣していた』。『オールコックはこれを打破しようとして、四国艦隊下関砲撃事件では主導的役割を果たすが、これを認めなかった外相ジョン・ラッセルにより帰国が命じられ』、『駐日公使はかつて清で彼の部下だったハリー・パークス』(Sir Harry Smith Parkes 一八二八年~一八八五年)に引き継がれた。その後、『オールコックの外交政策が至当であったことが認められたため、日本への帰任を要請するが』、拒否されている。『しかし、一八六五年には当時のアジア駐在外交官の中では最も地位が高いとされた清国駐在公使に任じられ、一八六九年まで北京に在任している。同年に外交官を引退し、その後は王立地理学会や政府委員会委員などを歴任』、一八九七年(明治三十年)にロンドンで死去している。
・「日本に於ける三年間」先の注に引いてある、オールコックの「大君の都」(The
Capital of the Tycoon: a Narrative of a Three Years' Residence in Japan 一八六三年刊)のこと(筑摩全集類聚版脚注と新潮文庫の神田由美子氏注は出版を『ニューヨーク』とするが、原本画像を確認したが、これは前注引用に示した通り、「ロンドン」の誤りである)。
・「ナイティンゲエル」(英語:Nightingale)は鳥綱スズメ目ヒタキ科 Luscinia 属サヨナキドリ(小夜啼鳥)Luscinia megarhynchos。「西洋のウグイス」称せられるほどに鳴き声が美しく、和名でもそのまま「ナイチンゲール」の名の方が通りがよい。ウィキの「サヨナキドリ」によれば、『ヨーロッパ中央部、南部、地中海沿岸と中近東からアフガニスタンまで分布する。ヨーロッパで繁殖した個体は冬季アフリカ南部に渡りを』行って越冬する、とある。「世界大百科事典」の谷口幸男の解説によると(コンマを読点に代えた)、『中世ドイツの抒情詩で、夜の歌姫ナイチンゲールは愛する若い男女の恋の点景をなしているが、透明で美しい歌声をもつこの恋の使者は古来多くの詩や民謡にうたわれてきた。したがって』、『この鳥をめぐる伝説も多い。ギリシア神話ではフィロメラ』(Philomēla:アテナイ王パンディオンPandiōnの娘)或いはプロクネ(Proknēフィロメラの姉。トラキア王テレウスTēreusに嫁いだ)が『ナイチンゲールに姿を変えられたという。北欧神話では、フレイヤ』(Freja:美・愛・豊饒・戦い、そして魔法や死を守護する太母。女性の美徳と悪徳を全て内包した女神で非常に美しく、自由奔放な性格で欲望のまま行動し、性的にも奔放とされる。ここはウィキの「フレイヤ」に拠った)『が長旅に出た夫を慕って探し回ったとき、哀愁をおびた歌をうたって慰めたのは彼女のお気に入りのこの鳥だったという。愛の鳥としてこの鳥との出会いが吉兆とされる一方、民間信仰では〈墓場鳥〉と称されて、死と結びつけられている。南ドイツでは病床にある病人にナイチンゲールは歌をうたいながらおだやかな死をもたらすとか、窓をつついて異国で死んだ者のことを告げ、家の近くで鳴いて、その家の凶事を知らせるといわれる』とある。鳴き声と姿を確認出来る wildaboutimages 氏の動画をリンクしておく。
・「鶯」スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone。]
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