芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 池大雅
池大雅
「大雅は餘程呑氣な人で、世情に疎かつた事は、其室玉瀾を迎えた時に夫婦の交りを知らなかつたと云ふので略其人物が察せられる。」
「大雅が妻を迎へて夫婦の道を知らなかつたと云ふ樣な話も、人間離れがしてゐて面白いと云へば、面白いと云へるが、丸で常識のない愚かな事だと云へば、さうも云へるだらう。」
かう言ふ傳説を信ずる人はここに引いた文章の示すやうに今日もまだ藝術家や美術史家の間に殘つてゐる。大雅は玉瀾を娶つた時に交合のことを行はなかつたかも知れない。しかしその故に交合のことを知らずにゐたと信ずるならば、――勿論その人はその人自身烈しい性欲を持つてゐる餘り、苟くもちやんと知つてゐる以上、行はずにすませられる筈はないと確信してゐる爲であらう。
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年九月号『文藝春秋』巻頭に、前の「幼兒」(二章)と、後の「荻生徂徠」「若楓」「蟇」「鴉」と合わせて全七章で初出する。
・「池大雅」(享保八(一七二三)年~安永五(一七七六)年)は「いけのたいが」と読み、江戸中期の文人画家で日本の文人画を大成した画家の一人。以下、平凡社「世界大百科事典」の佐々木丞平(じょうへい)氏の解説より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)『京都西陣に生まれたと推定される。父池野嘉左衛門は京両替町の銀座役人中村氏の下役であったが、大雅四歳のとき死去、母と二人で住む。六歳の年、知恩院古門前袋町に移住、ここで香月茅庵に漢文の素読、七歳の年に川端檀王寺内の清光院一井に書道を学ぶ。また同年』、黄檗山萬福寺(現在の京都府宇治市内に現存)に『上り、第十二世山主であった杲堂(こうどう)禅師や丈持大梅和尚の前で大字を書し〈七歳の神童〉と賞される。母子家庭ではあったが環境に恵まれ、万福寺への参内では異国情緒に接するなど』(ウィキの「萬福寺」によれば、中国の『明出身の僧隠元を開山に請じて建てられた。建物や仏像の様式、儀式作法から精進料理に至るまで中国風で、日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を有する』とある)、『若年のころから文人的教養が植え付けられた。十五歳の年にはすでに待賈堂、袖亀堂などと号して扇屋を構え、扇子に絵を描いて生計を立てていた。大雅の画家としての天賦の才を見いだしたのは』文人画家で漢詩人として知られる柳里恭(りゅうりきょう:柳沢淇園(きえん)の中国風呼称。彼はこれで名乗ることを好んだ)である。『二十歳代の前半には文人画家として「渭城柳色図」などの本格的な絵をのこし、二十歳代後半には真景図や中国画の学習において、前半生における一つの完成の域をみる。一方このころから富士・白山・立山から松島へさらには吉野・熊野などに、修験者を思わせるような旅をするが、こうした旅と、各地に居て幅広い文化の層の中心を形づくっていた素封家の存在が、大雅の人生と芸術を支えていたものと思われる。また高芙蓉・韓天寿の知己を得たことも彼が文人として成長する上に大きな影響を与えた』。『大雅の絵が当時の画壇にあって革新的な意味をもったのは、なんといっても絵画空間の活性化にあった。狩野派・土佐派といった当時の官画系絵画にあっては、表現の形骸化が顕著であったが、大雅の弟子桑山玉洲は、大雅の絵の生き生きとした空間感覚やリアリティに富む表現はなによりも実景をよく学んだことによると指摘している。当時の画家たちの多くがたどったように、官画系画家への入門、そして中国から舶載された版本類の研究や指頭画の試みなどによって獲得したものを統一ある活性化へと導いたのは』、『実景のもつリアリティへの志向であり、それは彼の旅と深くかかわっていたと思われる。四十歳代前半の制作と思われる高野山遍照光院の襖絵「人物山水図」は、堅固な構築的構図、しっかりとした遠近法の中に描出された深々たる空間、一点一画のゆるぎない筆致や統一ある色感によって大雅様式の完成を示している。そのほかにも「十便図」(川端康成記念会)、「楼閣山水図」(東京国立博物館)など主要作品は枚挙にいとまがないが、書家としての大雅もみのがすことはできない。流麗な中に堅牢な構築性を示す独特の書は、江戸書道史上有数のものである。また大雅の妻池玉瀾』(後注参照)『閨秀(けいしゆう)画家として著名で、大雅の教えを受けながらも、その感性豊かな女性特有の柔和な様式は大いに人気を得た』。芥川龍之介は彼の書画を殊の外、愛した。
・「玉瀾」(?~天明四(一七八四)年)は「ぎよくらん(ぎょくらん)」と読む。本文にある通り、池大雅の妻。「朝日日本歴史人物事典」の安村敏信氏の解説から引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した。下線は私は引いた)。『京都祇園下河原通りの茶屋・松屋の女亭主百合の娘。本姓は徳山』(とくやま)『氏、名は町、号を松風・遊雅(可)、室号を葛覃居・海棠窩といった。歌人である母より和歌を学び、柳沢淇園より南画を学ぶ。淇園の号玉桂より玉の一字を与えられ』、『玉瀾と号した。のちに池大雅に南画を学び、真葛原』(まくずがはら:京都市東山区北部の円山公園の辺り一帯の称)で『大雅と同居し、徳山玉瀾の名で書画を描く。ふたりの仲むつまじい姿は頼山陽の「百合伝」ほかに記され、終日仲よく紙を並べて書画に親しむさまが伝えられている。玉瀾の画風は大雅のそれを祖述したものだが、やや構成力に欠けるためか大作が少なく、小品にすぐれた作品が多い。また、母百合の和歌を加えた合作も伝えられ、母と娘の強い結びつきが知られる。玉瀾の墓は百合の墓所である京都黒谷の西雲院にあり、大雅の墓のある浄光寺ではない。大雅との仲むつまじさを伝えられているのに別葬されていることは、書画において父方の姓徳山を称したことも含めて謎に包まれている。没年齢については過去帳には五十八歳、大雅堂五世定亮の談話では六十二歳、また五十七歳説もあって定かではないが、過去帳を信ずれば生年は享保一二(一七二七)年となる。作品に「滝山水図」(出光美術館蔵)ほかがある』。この下線部の謎の方が、ここで龍之介が挙げたことよりも遙かに興味深い。いや、寧ろ、この事実を解くことが、龍之介が掲げた流言飛語の真相に至る近道なのかも知れぬと私は思った。なお、今回初めて、ネット上で彼女の作品を幾つか見たが、構図といい、色彩といい、描線といい、ただ者ではない。
・「ここに引いた文章」岩波新全集の山田俊治氏注に引用元は『不詳』とする。引用の文章から見ても(龍之介が擬古文を現代語訳化したとは思われない)本章が書かれた時期よりもさほど前ではない著作と思われ、出典が未詳なのは解せない。
・「娶つた」「めとつた(めとった)」。]
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