芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或孝行者
或孝行者
彼は彼の母に孝行した、勿論愛撫や接吻が未亡人だつた彼の母を性的に慰めるのを承知しながら。
[やぶちゃん注:これは具体に穿鑿をする以前に、「齒車」の「四 まだ?」の中に、正答が出ている。「僕」は「アナトオル・フランスの對話集」と「メリメエの書簡集」を買うと、
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僕は二册の本を抱(かか)へ、或カッフェへはひつて行つた。それから一番奧のテエブルの前に珈琲の來るのを待つことにした。僕の向うには親子(おやこ)らしい男女が二人坐つてゐた。その息子は僕よりも若かつたものの、殆ど僕にそつくりだつた。のみならず彼等(ら)は戀人同志(こひびとどうし)のやうに顏を近づけて話し合つてゐた。僕は彼等(ら)を見てゐるうちに少くとも息子は性的(せいてき)にも母親に慰めを與へてゐることを意識してゐるのに氣づき出した。それは僕にも覺えのある親和力(しんわりよく)の一例に違ひなかつた。同時に又現世を地獄にする或意志の一例(れい)にも違ひなかつた。しかし、――僕は又苦しみに陷るのを恐れ、丁度珈琲の來たのを幸ひ、「メリメエの書簡集」を讀みはじめた。彼はこの書簡集の中にも彼の小説の中のやうに鋭いアフォリズムを閃かせてゐた。それ等(ら)のアフォリズムは僕の氣もちをいつか鐵のやうに巖疊(がんじやう)にし出した。(この影響を受け易いことも僕の弱點の一つだつた。)僕は一杯の珈琲を飮み了つた後(のち)、「何でも來い」と云ふ氣になり、さつさとこのカッフェを後ろにして行つた。
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但し、私はこの疑似相姦的な近親愛への生理的な龍之介の嫌悪は島崎藤村の「新生」のモデル事件である姪と藤村との近親相姦のそれから、ずっと尾を曳き続けているもののように感じている。
なお、青木謙三氏は論文「芥川龍之介とフロベールの動物Ⅰ 芥川の犬から」(PDFファイル)の中で、芥川龍之介に潜在するエディプス・コンプレクスを指摘し、「Ⅴ エディプス」で、龍之介の「じゆりあの・吉助」(大正八(一九一九)年)で聖母マリアに恋するイエスが言及される下り(引用は独自に岩波旧全集に拠った。下線は底本のママ)、
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奉行「そのものどもが宗門神となつたは、如何なる謂れがあるぞ。」
吉助「えす・きりすと樣、さんた・まりや姫に戀をなされ、焦れ死に果てさせ給うたによつて、われと同じ苦しみに惱むものを、救うてとらせうと思召し、宗門神となられたげでござる。」
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を芥川龍之介の、母への男子の対象愛形象として挙げられた後、さらにこの「侏儒の言葉」のアフォリズムと、先に引用した「齒車」の部分を引いた上、
《引用開始》
「侏儒の言葉」とは違い、主人公である<僕>は息子に自分を投影している。これは芥川のエディプスの、母への対象関係を推測させる。また、屈折した形での陽性エディプスの表出が、「老いたる素戔嗚尊」に見出せる。素戔嗚は夢で道端の鏡に自分を映す―「大岩の上に〔略〕白銅鏡が一面のせてあった。彼はその岩の前に足をとめると、何気なく鏡へ眼を落した。鏡は〔略〕年若な顔を映した。が、それは〔略〕彼が何度も殺そうとした、葦原醜男の顔であった」。
ここには娘の恋人と成り代わる欲求がうかがえる。そして父と娘の愛が許されるなら、当然母と息子のそれも許されるとみなす狡智が潜んでいる。
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と述べておられる。この評論は人によっては受け入れられない部分もあるかも知れないが、精神分析好きの私(因みに私は、大学では心理学を学びたかったが、それで受験した大学は皆、落ちた。どこかに合格していれば、私は高校の国語教師にはなっていなかった。されば多くの教え子たちとも出逢うことはなかった。これも「偶然」のなせる業(わざ)であった)にはすこぶる興味深く面白い。是非、お薦めするものである。]
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