芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 愛國心
愛國心
我我日本國民に最も缺けてゐるものは國を愛する心である。藝術的精神を論ずれば、日本は列強に劣らぬかも知れぬ。又科學的精神を論ずるにしても、必しも下位にあるとは信ぜられまい。しかし愛國心を問題にすれば、英佛獨露の國國に一儔を輸することは事實である。
愛國心の發達は國家的意識に根ざすものである。その又國家的意識の發達は國境の觀念に根ざすものである。けれども我我日本國民は神武天皇の昔から、未だ嘗痛切に國境の觀念を抱いたことはない。少くとも歐羅巴の國國のやうに、骨に徹するほど抱いたことはない。その爲に我我の愛國心は今日もなほ石器時代の蒙昧の底に沈んでゐる。
ルウル地方の獨逸國民はあらゆる悲劇に面してゐる。しかも彼等の愛國心は輕擧に出づることを許さぬらしい。我我日本國民は李鴻章を殺さんとし、更に又皇太子時代のニコライ二世を殺さんとした。もしルウルの民のやうに、たとへば鄰邦たる支那の爲に食糧等を途絶されたとすれば、日本に在留する支那人などは忽ち刺客に襲はれるであらう。同時に日本はとり返しのつかぬ國家的危機に陷るであらう。
けれども我我日本國民は愛國心に富んでゐると信じてゐる。――いや、或は富んでゐるかも知れぬ。あらゆる未開の民族のやうに。
[やぶちゃん注:実は芥川龍之介は驚くべきことに(いや、当然の如く、と言うべきか)ここまでの「侏儒の言葉」の中で、ただ一ヶ所、「戀は死よりも強し」でしか、「愛國心」という語を用いていない。それも「食慾の外にも數へ擧げれば、愛國心とか、宗教的感激とか、人道的精神とか、利慾とか、名譽心とか、犯罪的本能とか――まだ死よりも強いものは澤山あるのに相違ない」という、クソ並列の中の一つに過ぎないのである。末尾の「けれども我我日本國民は愛國心に富んでゐると信じてゐる。――いや、或は富んでゐるかも知れぬ。あらゆる未開の民族のやうに。」という毒が心地よい。
・「一儔を輸する」「虛僞」に出た「一籌を輸する」(いつちうをゆする(いっちゅうをゆする))とが正しい。「一段階、劣る」「一歩、譲る」の意。「籌」は実務や占術に於いて数を数えるのに用いた木の串(くし)で「輸する」の「輸」には「致す・運ぶ・移す」以外に「負ける・負け」の意があり、ここはそれ。もともとは宋の陸游の詩「九月六夜夢中作笑詩覺而忘之明日戲追補一首」の最終句「道得老夫輸一籌」に基づくという。
・「ルウル地方」ルール川下流域に広がるルール地方(ドイツ語:Ruhrgebiet)はドイツ屈指の大都市圏で、嘗ては重工業地帯としてドイツの産業を牽引したが、第一次世界大戦に敗北したドイツは多額の賠償金の支払いを求められたが、その履行が十分でないという口実を以って、一九二三年にフランスとベルギーがここに進駐、占領してしまった。当時ルール地方は実にドイツが生産する石炭の七十三%、鉄鋼の八十三%を産出していた。翌年には撤退したが、ドイツ経済はこの占領によって激しい打撃を受けた。
・「李鴻章」(りこうしょう/リ・ホゥォンチャン 一八二三年~一九〇一年)は清代の政治家。一八五〇年に翰林院翰編集(皇帝直属官で詔勅の作成等を行う)となる。一八五三年には軍を率いて太平天国の軍と戦い、上海をよく防御して江蘇巡撫となり、その後も昇進を重ねて北洋大臣を兼ねた直隷総督(官職名。直隷省・河南省・山東省の地方長官。長官クラスの筆頭)の地位に登り、以後、二十五年間、その地位にあって清の外交・軍事・経済に権力を振るった。洋務派(ヨーロッパ近代文明の科学技術を積極的に取り入れて中国の近代化と国力強化を図ろうとしたグループ。中国で十九世紀後半に起った上からの近代化運動の一翼を担った)の首魁として近代化にも貢献したが、日清戦争(明治二七(一八九四)年~明治二八(一八九五)年)の敗北による日本進出や義和団事件(一九〇〇年~一九〇一年)での露清密約によるロシアの満州進出等を許した結果、中国国外にあっては傑出した政治家「プレジデント・リー」として尊敬されたが、国内では生前から売国奴・漢奸と分が悪い(以上はウィキの「李鴻章」及び中国国際放送局の「李鴻章―清の末期の政治家」の記載を主に参照した)。
・「ニコライ二世を殺さんとした」ロマノフ朝第十四代にして最後のロシア皇帝ニコライ二世(Николай II 一八六八年~一九一八年/在位は一八九四年十一月一日~一九一七年三月十五日)は、皇太子時代の明治二四(一八九一)年五月十一日、訪問中の日本の滋賀県滋賀郡大津町(現在の大津市)で警備に当たっていた警察官津田三蔵に斬りつけられて負傷した(暗殺未遂。詳しくはウィキの「大津事件」を参照されたい)。]
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