旅の手帖 ――その日、生田勉に―― 立原道造
旅の手帖
――その日、生田勉に――
その町の、とある本屋の店先で――私は、やさしい土耳古(トルコ)娘の聲を聞いた。私は、そのひとから赤いきれいな表紙の歌の本をうけとつた。幼い人たちのうたふやうな。
また幾たびか私は傘を傾けて、空を見た。一面の灰空ではあつたが、はかり知れない程高かつた。しづかな雨の日であつた。
誰かれが若い旅人にささやいてゐた、おまへはここで何を見たか。
さう、私は土耳古娘を見た、あれから公園で、あれからうすやみの町はづれで。
――いつの日も、さうしてノヴァリスをひさぎ、リルケを賣るであらう。さうして一日がをはると、あの夕燒けの娘は……私の空想はかたい酸い果實のやうだ。
私はあの娘にただ燃えつきなかつた蠟燭を用意しよう、旅の思ひ出の失はれないために。
――夏の終り、古い城のある町で、私は、その人から、この歌の本をうけとつたと、私はまた旅をつづけたと。
[やぶちゃん注:「生田勉」(いくたつとむ 一九一二年~一九八〇年)は立原道造と同じ建築家仲間の友人。後に東京大学名誉教授。ウィキの「生田勉」によれば、『北海道小樽市生まれ。第一高等学校から』、昭和一四(一九三九)年、『東京帝国大学工学部建築学科卒。一高同期に立原道造、大学の一期上に丹下健三・浜口隆一がいる。特に立原とは深く交わった。また、ル・コルビュジェの作品・思想に強い影響を受けた。逓信省営繕課勤務を経て』、昭和一九(一九四四)年一高教授。その後、東大教養学部助教授となり、昭和三六(一九六一)年教授、昭和四七(一九七二)年に定年退官した。『木造の温かみを生かした住宅・山荘作品に独自の境地を開いた。また、アメリカの文明批評家、ルイス・マンフォードの著作の紹介者としても知られる』とある。道造より二歳年上であった。
「酸い」は「すい」。]