「妄問妄答」 芥川龍之介
[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年十一月一日発行の『改造』に初出。後に随筆集「百艸」に収録された。底本は岩波旧全集を用いた。]
妄問妄答
客 菊池寛氏の説によると、我我は今度の大地震のやうに命も危いと云ふ場合は藝術も何もあつたものぢやない。まづ命あつての物種と尻端折りをするのに忙しいさうだ。しかし實際さう云ふものだらうか?
主人 そりや實際さう云ふものだよ。
客 藝術上の玄人もかね? たとへば小説家とか、畫家とか云ふ、──
主人 玄人はまあ素人より藝術のことを考へさうだね。しかしそれも考へて見れば、實は五十歩百歩なんだらう。現在頭に火がついてゐるのに、この火焰をどう描寫しようなどと考へる豪傑はゐまいからね。
客 しかし昔の侍などは橫腹を槍に貫かれながら、辭世の歌を咏んでゐるからね。
主人 あれは唯名譽の爲だね。意識した藝術的衝動などとは別のものだね。
客 ぢや我我の藝術的衝動はああ云ふ大變に出合つたが最後、全部なくなつてしまふと云ふのかね?
主人 そりや全部はなくならないね。現に遭難民の話を聞いて見給へ。思ひの外藝術的なものも澤山あるから。──元來藝術的に表現される爲にはまづ一應藝術的に印象されてゐなければならない筈だらう。するとさう云ふ連中は知らず識らず藝術的に心を働かせて來た譯だね。
客 (反語的に)しかしさう云ふ連中も頭に火でもついた日にや、やつぱり藝術的衝動を失ふことになるだらうね?
主人 さあ、さうとも限らないね。無意識の藝術的衝動だけは案外生死の瀨戸際にも最後の飛躍をするものだからね? 辭世の歌で思ひ出したが、昔の侍の討死などは大抵戲曲的或は俳優的衝動の──つまり俗に云ふ芝居氣の表はれたものとも見られさうぢやないか?
客 ぢや藝術的衝動はどう云ふ時にもあり得ると云ふんだね?
主人 無意識の藝術的衝動はね。しかし意識した藝術的衝動はどうもあり得るとは思はれないね。現在頭に火がついてゐるのに、…………
客 それはもう前にも聞かされたよ。ぢや君も菊池寛氏に全然贊成してゐるのかね?
主人 あり得ないと云ふことだけはね。しかし菊池氏はあり得ないのを寂しいと云つてゐるのだらう? 僕は寂しいとも思はないね、當り前だとしか思はないね。
客 なぜ?
主人 なぜも何もありやしないさ。命あつての物種と云ふ時にや、何も彼も忘れてゐるんだからね。藝術も勿論忘れる筈ぢやないか? 僕などは大地震どころぢやないね。小便のつまつた時にさへレムブラントもゲエテも忘れてしまふがね。格別その爲に藝術を輕んずる氣などは起らないね。
客 ぢや藝術は人生にさ程痛切なものぢやないと云ふのかね?
主人 莫迦を云ひ給へ。藝術的衝動は無意識の裡にも我我を動かしてゐると云つたぢやないか? さうすりや藝術は人生の底へ一面に深い根を張つてゐるんだ。──と云ふよりも寧ろ人生は藝術の芽に滿ちた苗床なんだ。
客 すると「玉は碎けず」かね?
主人 玉は──さうさね。玉は或は碎けるかも知れない。しかし石は碎けないね。藝術家は或は亡びるかも知れない。しかしいつか知らず識らず藝術的衝動に支配される熊さんや八さんは亡びないね。
客 ぢや君は問題になつた里見氏の説にも菊池氏の説にも部分的には反對だと云ふのかね?
主人 部分的には贊成だと云ふことにしたいね。何しろ兩雄の挾み打ちを受けるのはいくら僕でも難澁だからね。ああ、それからまだ菊池氏の説には信用の出來ぬ部分もあるね。
客 信用の出來ぬ部分がある?
主人 菊池氏は今度大向うからやんやと喝采される爲には譃が必要だと云ふことを痛感したと云つてゐるだらう。あれは餘り信用出來ないね。恐らくはちよつと感じた位だね。まあ、もう少し見てゐ給へ。今に又何かほんたうのことをむきになつて云ひ出すから。
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