芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 懺悔(二章)
懺悔
古人は神の前に懺悔した。今人は社會の前に懺悔してゐる。すると阿呆や惡黨を除けば、何びとも何かに懺悔せずには娑婆苦に堪へることは出來ないのかも知れない。
又
しかしどちらの懺悔にしても、どの位信用出來るかと云ふことはおのづから又別問題である。
[やぶちゃん注:ここまで私と「侏儒の言葉」世界を探検してくると、流石に、このアフォリズムも一般論の字背に毒槍が潜ませてあることに既にお気づきになられるであろう。「阿呆や惡黨を除けば」と龍之介は言っている。彼の遺稿は「或阿呆の一生」である。彼は即ち、例外の「阿呆」なのである。だから龍之介は「古人」ではないし、信じてもいないから「神の前に懺悔し」ないし、「今人は社會の前に懺悔してゐる」が、私はその例外の「阿呆」だから「懺悔」などしない。尋常な人間という生き物は「何びとも何かに懺悔せずには娑婆苦に堪へることは出來ないのかも知れない」が、私は生憎、そうではない。第一からして、古人の神への懺悔にしても、現代人の社会への法律的・道義的。ヒューマニスティクな「懺悔にしても、どの位信用出來るかと云ふことはおのづから又別問題であ」り、実際には信用など出来ぬシロモノと考える方が無難である、と龍之介は言っているのである。即ち、これは、恰も自死の後に遺稿として公開されている懺悔風の言葉の鏤められた当のこの「侏儒の言葉」のあらかたも、また私の懺悔を含んだ遺書めいた「或舊友へ送る手記」も、はたまたかの謎めいた懺悔のような私の自伝風アフォリズム集である遺稿「或阿呆の一生」なんぞも、これ、皆、信ずるに足らぬものだ、と芥川龍之介は言っていることに気づかねばならぬのである(龍之介の遺書はどうなるかって? 彼の遺書を御覧な。彼は基本、それらを読後に焼却するように厳命している。以上のリンク先は総て私の電子テクストである)。
・「懺悔」ここは無論、「ざんげ」でよいが、この語はもともと仏教用語で、梵語の「ksama」クサマの漢字音写が「懺」でそれが「懺摩」となり、「悔」はその漢語意訳として付随したもの。本来は濁らない「さんげ」が正しく、江戸中頃までは実際に「さんげ」と清音で読んでいたし、仏教用語としては現在でも「さんげ」である。「慚愧懺悔(ざんぎさんげ:「慚」は自己に対して恥じること、「愧」は外に向かってその気持ちを示すこととされた。「慚」は「慙」と同字)」という熟語で用いることが多かったことから前の「ざんぎ」の濁音に引かれて影響で江戸中期以降に「ざんげ」となったのではないかともいわれている。自分の犯した罪悪を自覚し、それを神仏や他者に告白することで、悔い改めることを誓うことをいう。
・「娑婆苦」「しやばく(しゃばく)」。仏教的な因果応報理論を感じさせる言い回しとして、この世(仏教的には現世(げんせ))で生きてゆく上で受けなければならない(仏教的には前世の業(ごう)に因る報い)あらゆる苦しみを指す。これは芥川龍之介の好んで用いた語であるが、私は龍之介の造語のように感じる。その証拠になるかどうか、小学館「日本国語大辞典」を引くと、その例文はまさにこの「侏儒の言葉」の一文がまるまる引かれてあるのである。因みに「娑婆」は梵語の「sahā」で漢訳では「堪忍」「忍土」「忍界」となどと訳し、仏教用語として他の諸仏が教化(きょうげ)する仏国土(ぶっこくど:浄土のこと)に対して、釈迦が教化する穢れたこの世界を指し、そこから、広義に「人間の世界・この世・俗世間」、更には「軍隊・刑務所・遊郭といった自由が束縛されている環境空間に対して、その外の、束縛のない自由な世界をも指す語となった。]
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