芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 「いろは」短歌
「いろは」短歌
我我の生活に缺くべからざる思想は或は「いろは」短歌に盡きてゐるかも知れない。
[やぶちゃん注:ここで芥川龍之介の言っている「いろは」短歌とは、「我我の生活に缺くべからざる思想」と言っている以上、知られた、「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅爲樂」という仏法思想を詠んだとされる作者不詳の今様体の、
いろはにほへとちりぬるを(色は匂へど 散りぬるを)
わかよたれそつねならむ(我が世誰ぞ 常ならむ)
うゐのおくやまけふこえて(有爲の奥山 けふ越えて)
あさきゆめみしゑひもせす(淺き夢見じ 醉ひもせず)
を指すのではなく(前の「革命」の「娑婆苦」や「死」との連続性を考慮するならば、これもその一つに含まれると考えるのはよろしい)、寧ろ、「いろは」四十七文字と「京」の字をそれぞれ語頭に置いた、教訓的な歌や諺にした子供の教訓用喩え歌、江戸時代に盛んに行われて双六・カルタにつくられたそれ(例・「い」――「犬も歩けば棒に当たる」(江戸)・「一寸先は闇」(上方)・「一を聞いて十を知る」(尾張))を指すと読むべきである。筑摩全集類聚版脚注と新潮文庫の神田由美子氏は前者のみを指すとされるが、従えない。岩波新全集の奥野政元氏は私と同じものと注されておられる。実際、伊呂波歌留多のそれらを『「いろは」短歌』とも呼ぶのである。北村孝一氏のサイト内の「いろはカルタのページ」の冒頭にある「芥川龍之介といろは短歌」を私の見解のよき援軍としてリンクさせておく。
そもそもが、「いろはにほへとちりぬるを」というあの辛気臭いそれだけを、龍之介が限定的に「我我の生活に缺くべからざる思想」などと主張して、香を焚いている姿は、これ、慄っとしないではいられぬではないか?]
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