芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) わたし
わたし
わたしは度たび他人のことを「死ねば善い」と思つたものである。しかもその又他人の中には肉親さへ交つてゐなかつたことはない。
[やぶちゃん注:芥川龍之介の肉親、特に実母と実父に対する複雑した愛憎の念は、余人の測り難いものがある。それは私が龍之介の作品の中でも特に偏愛する「點鬼簿」を読むに若くはない。実父のそれはリンク先の私のテクストを読んで戴くとして、実母(新原(にいはら:旧姓芥川)フク(万延元(一八六〇)年~明治三五(一九〇二)年:享年四十二歳/龍之介満十歳)について書かれた「一」の全文を引く。但し、龍之介は父を「死ねば善い」と思ったことはあったかも知れない(あったと断言してもよい。それは私には「點鬼簿」の「三」から感じ取れるのである)。しかし、龍之介僅か十歳で世を去った実母フクのことを、龍之介が「死ねば善い」と思ったことはないとは断言出来る。
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僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髮を櫛卷きにし、いつも芝の實家にたつた一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる。顏も小さければ體も小さい。その又顏はどう云ふ譯か、少しも生氣のない灰色をしてゐる。僕はいつか西廂記を讀み、土口氣泥臭味の語に出合つた時に忽ち僕の母の顏を、――瘦せ細つた横顏を思ひ出した。
かう云ふ僕は僕の母に全然面倒を見て貰つたことはない。何でも一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶に行つたら、いきなり頭を長煙管で打たれたことを覺えてゐる。しかし大體僕の母は如何にももの靜かな狂人だつた。僕や僕の姉などに畫を描いてくれと迫られると、四つ折の半紙に畫を描いてくれる。畫は墨を使ふばかりではない。僕の姉の水繪の具を行樂の子女の衣服だの草木の花だのになすつてくれる。唯それ等の畫中の人物はいづれも狐の顏をしてゐた。
僕の母の死んだのは僕の十一の秋である。それは病の爲よりも衰弱の爲に死んだのであらう。その死の前後の記憶だけは割り合にはつきりと殘つてゐる。
危篤の電報でも來た爲であらう。僕は或風のない深夜、僕の養母と人力車に乘り、本所から芝まで駈けつけて行つた。僕はまだ今日(こんにち)でも襟卷と云ふものを用ひたことはない。が、特にこの夜だけは南畫の山水か何かを描いた、薄い絹の手巾をまきつけてゐたことを覺えてゐる。それからその手巾には「アヤメ香水」と云ふ香水の匂のしてゐたことも覺えてゐる。
僕の母は二階の眞下の八疊の座敷に橫たはつてゐた。僕は四つ違ひの僕の姉と僕の母の枕もとに坐り、二人とも絶えず聲を立てて泣いた。殊に誰か僕の後ろで「御臨終々々々」と言つた時には一層切なさのこみ上げるのを感じた。しかし今まで瞑目してゐた、死人にひとしい僕の母は突然目をあいて何か言つた。僕等は皆悲しい中にも小聲でくすくす笑ひ出した。
僕はその次の晩も僕の母の枕もとに夜明近くまで坐つてゐた。が、なぜかゆうべのやうに少しも淚は流れなかつた。僕は殆ど泣き聲を絶たない僕の姉の手前を恥ぢ、一生懸命に泣く眞似をしてゐた。同時に又僕の泣かれない以上、僕の母の死ぬことは必ずないと信じてゐた。
僕の母は三日目の晩に殆ど苦しまずに死んで行つた。死ぬ前には正氣に返つたと見え、僕等の顏を眺めてはとめ度なしにぽろぽろ淚を落した。が、やはりふだんのやうに何とも口は利かなかつた。
僕は納棺を終つた後にも時々泣かずにはゐられなかつた。すると「王子の叔母さん」と云ふ或遠緣のお婆さんが一人「ほんたうに御感心でございますね」と言つた。しかし僕は妙なことに感心する人だと思つただけだつた。
僕の母の葬式の出た日、僕の姉は位牌を持ち、僕はその後ろに香爐を持ち二人とも人力車に乘つて行つた。僕は時々居睡りをし、はつと思つて目を醒ます拍子に危く香爐を落しさうにする。けれども谷中へは中々來ない。可也長い葬列はいつも秋晴れの東京の町をしづしづと練つてゐるのである。
僕の母の命日は十一月二十八日である。又戒名は歸命院妙乘日進大姉である。僕はその癖僕の實父の命日や戒名を覺えてゐない。それは多分十一の僕には命日や戒名を覺えることも誇りの一つだつた爲であらう。
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以下は、このアフォリズムの注ではない。私の独り言である。……
……かつて私の同僚が老いた母を失った折り、「天地が裂けたような感じがします。」と述懐したのを耳にした際、私は内心、『私は母を失ってもそうは感じない。』と思ったのを確かに覚えている。
しかし、それから数年の後のこと、私の母は突然、歩けなくなった。二〇一一年三月十九日、凡そ一ヶ月前にALS(筋萎縮性側索硬化症)の宣告を受けた母は、あっという間に、天に召されてしまった。
献体していたことから葬儀も行わずに(これは私も同じ仕儀となる)母と別れた私は、涙一つ流れなかった。しかし悲しくなかったわけではなかった。巨大な虚空が心の中に突如出現したのであった。
半年ばかり経った夏のことであった。妻は変形股関節症のリハビリ入院で甲府に入院していて、私は家に独りだった。
――『私は母を失ってもそうは感じない』
あの、そう感じた瞬間の記憶が突如、私の中に痛烈に甦った。母に何もしてやれなかった自分を思って、涙が滂沱としてとめどなく流れ出た。…………]
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