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2016/07/31

伊崎浜   梅崎春生

 

 東京のこどもが泳ぎができないのは、泳ぐ機会がないからである。もっともちかごろは各学校にプールができたから、水に親しむチャンスも多くなったようだけれど、うちのこどもなんか一夏かかって五メートル泳げたとか、八メートル泳げるようになったとかよろこんでいるくらいで、お話にならないのである。

 それにプールの水と海水とでは手ごたえが違う。わたしは四五年前富士五湖の西湖に行って一週間泳ぎ暮したが、どうも淡水というやつはたよりなくて、泳いでも泳いだような気がしない。波がないし、それになめても塩からくない。

 わたしは小学校に入る前から泳いでいた。泳ぎの場所はもっぱら伊崎の浜である。

 黒門から松土手をつき当ったところから細い道となり、伊崎浜にいたる。寂しい道で、両側にはぽちぽちと家があるだけだ。その一軒の家の二階に、後年東京から修猷館(しゅうゆうかん)に赴任したばかりの若い安住正夫先生が下宿していたことがある。(安住先生についてはいずれ書くことがあるだろう)

 その小道の尽きるところに牧場があった。牧場というと大げさだが、木柵(もくさく)の中に牛が七八頭いて、もうもうとなき交していた。牛のうんこのにおいがひどいので鼻を押えてかけ抜ければ、そこが伊崎浜である。

 福岡で海水浴場というとまず百道(ももじ)で伊崎なんかにはあまり人はこない。でも遠浅で砂がきれいで百道に劣らぬいい泳ぎ場だった。

 百道と違って設備は何もない。着物をあずけるところもないから砂浜や草はらに脱ぎ捨て、そのまま海に飛び込む。ふんどしなどもしないのである。ふんどしなんかするのはだいたい小学四年生以上で、それ以下は男も女も生れたままの姿である。それ以下でふんどしをつけていたら、あいつは変なやつだなということで、仲間はずれにされてしまうのだ。

 だからわたしはいまでも東京のプールで小学一年ぐらいの子がちゃんとした海水パンツをつけているのを見ると何かくすぐったく、しゃらくさいという感じがするのである。

 伊崎は漁師の町である。砂浜には漁船がずらずらと並んでいて、おじいさんが背を日に照らされながら、漁網のつくろいをしていたりする。わたしの家にもよく魚の行商人がきて、

「ほら、見なっせ。これは伊崎もんのぴんぴんですばい」

 伊崎もんというと新鮮だというのと同義語であった。

 泳いでいて運がいいとすぐ近くで地引き網がはじまる。それっとばかり、われわれこどもはかけて行って、網を引っぱる手伝いをする。だんだん網が重くなって獲物が近づく。網の中にはうじゃうじゃと、こんなに魚がいるものかとびっくりするぐらいの魚が、押し合いへし合いぴんぴんはねながら上ってくる。手伝ったごほうびに雑魚(ざこ)をたくさんもらうのが実に楽しみであった。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第三十三回目の昭和三六(一九六一)年二月五日附『西日本新聞』掲載分。

「伊崎浜」梅崎春生の叙述から現在の福岡県福岡市中央区伊崎附近と思われるが、現在の行政上地名の伊崎は埋立てによって内陸化しており、現在の伊崎漁港(福岡市中央区福浜)の東(福岡都市高速環状線の海側)に広がる浜の手前の陸側に相当するかと思われる。

「黒門」現在も福岡市中央区黒門(くろもん)として残る。SARMA氏のブログ「気楽院」の「黒門」に『唐津街道の門』であったとある。次注も参照のこと。

「松土手」同前のリンク先に前の「黒門跡」の解説版を活字化したものが載るので引用させて戴く。『黒門川は、福岡城築城の際、大堀(現在の大濠公園周辺)と博多湾を結ぶ「外堀」として築かれたものです。現在は埋められ、地上は道路(黒門川通り)となり、地下に川が流れています。以前は、この川に「黒門橋」が架かり、荒戸側に福岡城下の出入りを管理する黒門(呉門(くれもん)とも呼ばれた。)がありました。荒戸側の土手は、松を植えた「松土手」となっていました』とあるのが、この地名となった(或いは春生の少年時代にはまだ実際の松並木の土手であったものかも知れない。

「修猷館」梅崎春生の出身校(旧制中学校)である、現在の福岡県福岡市早良区西新にある(春生在校時もここ)福岡県随一の進学校である県立修猷館高等学校。

「安住正夫」不詳。但し、この名でグーグルで検索をかけると、検索結果の野上芳彦「戦前と戦後の谷間での青春の日々 我等が修猷館時代(旧制中学から新制高校へ)」(二〇〇一年文芸社刊)の検索画面上の解説(?)の文章に(但し、リンク先をクリックしてもその文章は存在しない)、『安住正夫等有名元教諭等も登場する』とあり、また『戦後、修猷館をはじめとする』『学校もの』『の出版物が相次いだ。その一』つ『に西日本新聞社の『修默山脈』(昭和四十六年)など』があったといった感じの文章の一部を垣間見ることが出来る(偶然ながら、本随筆の連載されていた『西日本新聞』の名が出るのも目を引いた)。以上から彼が修猷館中学校の名物教諭の一人だったことが知れる。さらに気になることが今一つあり、後年、梅崎春生自身が編集員となり、彼が詩篇を発表する場ともなった熊本第五高等学校の校誌『龍南會雜誌』の第百七十六号(大正一〇(一九二一)年二月二十一日発行)に「龍南会沿革史(水泳部)」 という記事があり(リンク先は「熊本大学学術リポジトリ」内の原本からのPDF版)、筆者が『安住正夫』(因みに梅崎春生の作品の同誌初出である詩篇「死床」「カラタチ」は(昭和八(一九三三)年七月二日発行の第二百二十五号である。リンク先はそれぞれをその初出誌に基づいて私が電子化したもの)となっている点である。この人物と同一人物であるかどかは不明であるが、その可能性は無きにしも非ずと思い、敢えて追記しておいた。「安住先生についてはいずれ書くことがあるだろう」と春生は注記しているけれども、少なくとも底本の「南風北風」の後の抄録分や、その他の底本に載るエッセイ類には安住正夫に関わる記事はない模様である。識者の御教授を乞うものである。

「百道(ももじ)」百道浜。かつては「百道松原」と称される松の人工林と海水浴場で知られたが、現在は埋め立てと宅地化が進んで海水浴場の面影は全くない。福岡市博物館公式サイト内の「百道浜ものがたり」がよい。]

2016/07/30

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   墨染櫻

   墨染櫻


Sumizomezakura

衣更着(きさらぎ)の末のほど、花の盛りにうきたちて、世人(せじん)、淸水(きよみづ)、淸閑(せいがん)の興にあそび、嵯峨、大原のゝ名所に步む事、道もさりあへず、祇はたゞ陰氣の天性にて、人の立籠むかたは喧(かまびす)し、靜かなる花こそ見るかひあれ、と、呉竹のふしみの里の春を心ざし、桑門(よすてびと)の友とすべき墨染櫻、見に行けり。一の橋より左にまがりて、俊芿の舊寺泉涌寺(せんゆうじ)に詣でゝ、いまぐまの、法性寺(ほふしやうじ)など行くに、こゝなん、猶、人、こぞりて靜なるかたなし。東福寺を作禮(されい)し、稻荷に法施(ほつせ)し奉りて深草にかゝる。藤の森は名のみして、紫はさかず、常盤(ときは)の松の靑く茂りたる中に、瑞籬(みづがき)の朱(あけ)なる、いとかうかうし、此の森より未申へ、二町餘り行きて、彼の名木の櫻、尋ね出でけり、爰さへ、京の名殘にや、幕は雲となびき、糸竹(しちく)は鳥とさへづり、靜かならねど、此の櫻の情しりたる昔おもふに、なべての花に準(なぞ)らふべくもなしと、打詠めて古歌を吟ず。

 

   深草の野べのさくらし心あらば

       此春ばかりすみぞめにさけ

 

みねをの歌とかや、又、遍昭僧正のよみけん。

 

   みな人は花のたもとに成りにけり

       苔の衣よかはきだにせよ

 

是は、此の櫻をよみたるにはあらねど、所と事と、ひとしければ、思ひ出で侍る。樽(そん)の前に醉(ゑひ)をすゝむべきわざもなければ、かたへの草に安座(あんざ)し、打ちあふぎ居るに、となりの方、田舍人(いなかうど)と見えて、十人計り、化口(あだぐち)かしがましく、酒に興じ、醉狂(ゑひくる)ひて笑ふやら哭(な)くやら、いざ、わけもきこえず、餘りのあぶれに、此の者、宗祇を見て、御坊は、業(なり)に似はぬ優(やさ)し人哉。花に詠(なが)め入り、餘念なく見ゆ。我れ我れ、奈良の者にて、京内參の心がけに上り侍る。足休めに酒をたうべ侍り。名物の奈良酒ひとつ、まいりてんや、と傍若無人にいふ。祇は、もとより禁戒を持(たも)ちて、酒を手にふるゝ事なければ、酒飯の所望(しよまう)なしと詞(ことば)ずくなに答へらる。此あぶれ者、大きなる觴(さかづき)に流るゝごとく酒をうかべて、所望にても望みなくても是非にたうべよ、と刀ぬき出し、責(せ)かくるに、力(ちから)なく、我が犯す禁戒(きんかい)に非ずと心に誓ひ、引請けて呑みけるに、又、たぶだぶとつぎて、今一つ是非に、と、いひて、つめかけ、否(いな)といはゞ、と小肱(こかいな)取りて押(お)しふする、祇、今はせんかたなくて、

 

   なら酒やこの手をとりてふたつ迄

       とにもかくにもねぢる人かな

 

と狂歌しければ、さしもの放逸(はういつ)ものども、恥ぢかましくや有けむ。醉心ちや、さめけん。たすけ起して足はやに去りぬ。いづち行けん不ㇾ知(しらず)。をかしきいさかひなりし。つれづれ草にかける、證空(しようくう)上人の馬夫(ばふ)といさかひしたぐひかな。

 

 

■やぶちゃん注

・「墨染櫻」一般には桜の一種で花は小さく単弁で白いものの、茎・葉ともに青く、花が全体に薄墨色のように見えるものを指すが、ここは京都伏見の地名(現在の伏見区墨染町には墨染寺(ぼくせんじ)があり、以下の藤原基経はこの付近に葬られたとされる)の辺りにあったとされる伝説上の桜。後に本文に出るように、藤原基経(承和三(八三六)年~寛平三(八九一)年:中納言藤原長良の三男として生まれたが、時の権力者で男子がいなかった叔父の摂政藤原良房の養子となり、良房の死後は清和・陽成・光孝・宇多天皇の四代に亙って朝廷の実権を握った。陽成天皇を暴虐と断じて廃位して光孝天皇を立て、宇多天皇の際には天皇が事実上の傀儡であることを知らしめる阿衡(あこう)事件を起こして、その権勢を誇り、日本史上初の関白に就任している。享年五十六で病死した。墨染寺の前身は養父良房の建立した貞観寺(じょうかんじ)とも言う)の死を悼んだ上野岑雄(かんつけ(かみつけ)のみねお:承和(八三四~八四八)年間の廷臣か。事蹟不詳。後に出る「みねを」は彼のこと)が、

 

 深草の野邊の櫻し心あらば今年ばかりは墨染に咲け

 

と詠じたところ、桜が墨染め色に変じて咲いたとされる。一首は「古今和歌集」「卷第十六」の「哀傷歌」に所載(八三二番歌)。この伝承は謡曲や歌舞伎でも知られる。

・「衣更着(きさらぎ)」如月。

・「淸閑(せいがん)」京都市東山区にある真言宗歌中山(うたのなかやま)清閑寺(現行は「せいかんじ」と読む)は、清水寺と同様に桜の名所である。

・「道もさりあへず」「さりあへず」は「どうしても逃げられない」の意であるから、あまりの花見客に道も込み合い、無心に通行したり、行くにも容易に避け交わすことが出来ず、の謂いであろう。

・「立籠む」「たてこむ」。

・「呉竹のふしみの里」「呉竹の伏見」「呉竹の里」は伏見の別称。呉竹は古えに三国時代の呉から渡来した竹とされ、最初に伏見の地に植えられたと伝え、また、「呉竹(くれたけ)の」はその「節(ふし)」から「伏見」の枕詞ともなっていることに由来する。

・「一の橋」伏見街道には東山から流れる今熊野(いまぐまの)川に「一の橋」から「四の橋」まで架けられていた。現在の東山区本町通にあった(現在は暗渠で復元された橋は同位置にはない)。

・「俊芿」(しゆんじよう(しゅんじょう) 永万二(一一六六)年~嘉禄三(一二二七)年)平安末から鎌倉期の僧で真言宗泉涌寺泉涌寺派の宗祖とされる。肥後の出身であるが、出自は不詳。同人のウィキによれば、寿永三(一一八三)年十八歳の『時に出家剃髪し、翌』年、『大宰府観世音寺で具足戒を受けた。戒律の重要性を痛感』、正治元(一一九九)年に『中国(宋)に渡った。径山の蒙庵元総に禅を、四明山の如庵了宏に律を、北峰宗印に天台教学を学んで』、十二年後の建暦元(一二一一)年に『日本に帰国して北京律(ほっきょうりつ)をおこした。俊芿に帰依した宇都宮信房に仙遊寺を寄進され、寺号を泉涌寺と改めて再興するための勧進を行った。後鳥羽上皇をはじめ天皇・公家・武家など多くの信者を得て、そこから喜捨を集め、堂舎を整備して御願寺となり、以後、泉涌寺は律・密・禅・浄土の四宗兼学の道場として栄えることとなった』とある。

・「泉涌寺(せんゆうじ)」現行では「せんにゅうじ」と呼ぶのが普通。京都市東山区泉涌寺山内町(やまのうちちょう)にある。

・「いまぐまの」今熊野観音寺。先の泉涌寺山内にある真言宗泉涌寺派の観音寺。大同年間(八〇六年~八一〇年)にここで空海が庵を結んだのを始まると伝え、永暦元(一一六〇)年に後白河法皇によって新熊野神社(現在の東山区今熊野椥ノ森町(なぎのもりちょう)にある)が建てられると、その本地仏を祀る寺とされた。

・「法性寺(ほふしやうじ)」現在の京都市東山区本町にある浄土宗大悲山法性寺。現行では「ほっしょうじ」と読む。

・「東福寺」現在の東山区本町にある臨済宗慧日山(えにちさん)東福寺。

・「作禮(されい)」仏に礼拝すること。

・「稻荷」現在の京都市伏見区深草藪之内町の伏見稲荷大社のこと。

・「深草」現在の京都市伏見区深草。

・「藤の森」現在の伏見区深草鳥居崎町(とりいざきちょう)にある藤森(ふじのもり)神社。菖蒲の節句の発祥地として名高く、現在は三千五百株にも及ぶ紫陽花でも知られる。

・「かうかうし」「神々し」。

・「未申」「ひつじさる」は南西。

・「二町」二百十八メートル。現在の藤森神社から墨染寺は直線でも五百六十五メートルある。但し、伝説の墨染桜は宗祇仮託の時代なら、必ずしもこの寺の位置になくてもよいので重箱の隅をほじくる必要はあるまい。

・「みな人は花のたもとに成りにけり苔の衣よかはきだにせよ」「古今和歌集」「卷十六」の「哀傷歌」に載る僧正遍昭(弘仁七(八一六)年~寛平二(八九〇)年)の一首(八四七番歌)で、以下のように前書を持つ。

 

    深草のみかどの御時に、蔵人頭(くら

    うどのとう)にて、夜晝なれつかうま

    つりけるを、諒闇(らうあん)になり

    にければ、さらに世にもまじらずして、

    比叡(ひえ)の山にのぼりて、頭(か

    しら)おろしてけり、その又の年、み

    な人、御ぶくぬぎて、あるはかうぶり

    たまはりなど、よろこびけるを聞きて

    よめる

 

 みな人は花の衣になりぬなり苔の袂よ乾きだにせよ

 

前書及び和歌を注する。「深草のみかど」仁明天皇。「諒闇」厳密には天皇の父母が亡くなった際に世の中が一年に亙って喪に服することを指すが、僧正遍昭は寵遇を受けた仁明天皇の崩御(嘉祥三(八五〇)年)により出家しているので、ここはこの歌が詠まれた時制、次代の文徳帝の御世からかく言ったものであろう。「御ぶくぬぎ」諒闇が明けて喪服を脱ぎ。「かうぶりたまはり」官位が昇進すること。「苔の袂よ乾きだにせよ」先帝を失った悲しみの涙で濡れそぼって苔が生えてしまった私の衣よ、せめて乾いておくれ。

・「化口(あだぐち)」「徒口」。下らない無駄口。

・「いざ、わけもきこえず」ここは感動詞の「いざ」ではなく、打消しを伴う呼応の副詞の「いさ」であるべきところであろう。酒に酔い狂って「いさ」(一向に)「わけもきこえ」(正気を失って、何を)「笑ふやら哭くやら」分らぬ為体(ていたらく)であることを言っているように私には読める。

・「餘りのあぶれに」あまりの無頼無法の在り様の果てに(あろうことか)。

・「業(なり)」宗祇の僧形から辛気臭いはずの普通の行脚僧と見たのである。

・「京内參」「西村本小説全集 上巻」では「内」にのみ「り」とルビする。一般には「京内参り」じは「きよううちまゐり(きょううちまいり)」と読み、京へ見物などに行くこと、都見物の意であるが、「西村本小説全集」は「きようりまゐり」と読ませているようである。

・「奈良酒」奈良は清酒発祥の地とされ、奈良産の酒は「諸白(もろはく)酒」と呼ばれる高級酒とされ、江戸時代には「奈良酒」「くだり酒」と呼ばれて江戸で珍重された。宗祇の生きた室町時代にも既に製造されていたことが、参照した「奈良県酒造組合」公式サイトののページの記載で判る。

・「てんや」依頼の意を示す「てむや」の変化。

・「詞(ことば)ずくな」「ず」はママ。「西村本小説全集 上巻」も同じ。

・「力(ちから)なく」仕方なく。

・「つめかけ」強引に押し掲げ。

・「小肱(こかいな)」わざわざ「小」と被せてあるからには肘から手首の部分であろう。図では二の腕(本来はこれはその部分を指したが、現在は誤って肘から肩の部分を慣用指示する語となってしまった)を摑んでいるようには見えるが。

・「ねぢる」実際に腕を「捩じ」って強引に酒を飲ませようとしているのであるが、別に「捩づ」から派生した近似する音の「拗(ねぢ)く」という動詞があり、これは「筋道が違う」「道理に外れる」「不正だ」の謂いがあり、それが掛けられているのであろう。だからこそ、「さしもの放逸(はういつ)ものども」も、その皮肉な謂いが解って「恥ぢかましくや有けむ」という推測が生じたか、或いはその批判に興のみでなく、「醉心ちや、さめけん」、「たすけ起して足はやに去りぬ」と続くと読めるのである。されば「田舍人(いなかうど)」とは申せ、それを諒解し得る能力は持った相応の者どもではあっただけマシと言えよう。だから宗祇も「をかしきいさかひなりし」と余裕を見せているのである。

「つれづれ草にかける、證空(しようくう)上人の馬夫(ばふ)といさかひしたぐひ」「徒然草」第百六段の以下を指す。

   *

 高野の証空上人、京へ上りけるに、細道にて、馬(むま)に乘りたる女の、行きあひたりけるが、口(くち)引きける男、あしく引きて、聖(ひじり)の馬を堀へおし落してけり。聖、いと腹惡(はらあ)しくとがめて、「こは希有(けう)の狼藉(らうぜき)かな。四部(しぶ)の弟子はよな、比丘(びく)よりは比丘尼(びくに)に劣り、比丘尼より優婆塞(うばそく)は劣り、優婆塞より優婆夷(うばい)は劣れり。かくのごとくの優婆夷などの身にて、比丘を堀へ蹴いれさする、未曾有(みぞう)の惡行なり」と言はれければ、口引きの男、「いかにおほせらるるやらん、えこそ聞きしらね」といふに、上人、なほいきまきて、「なにといふぞ、非修非學(ひしゆひがく)の男」とあららかに言ひて、極まりなき放言(ほうげん)しつと思ひける氣色にて、馬ひき返して逃げられにけり。尊かりけるいさかひなるべし。

   *

以上の引用文中の注。「証空上人」は伝未詳。「四部の弟子」以下に出る仏弟子の四種の区別。「比丘」出家して具足戒を受けた男性僧。「比丘尼」同前の儀を受けた尼僧。「優婆塞」俗人の中で五戒を受けて仏門に帰した男性在家信者。「優婆夷」同前の女性信者。「極まりなき放言しつと思ひける氣色」がポイントで、はっと、自身こそが無智蒙昧(「非修非學」)なる貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)に他ならぬ三毒を口にしてしまったことに気づいたからこそ、そそくさと「馬ひき返して逃げ」てしまったのである。「尊かりけるいさかひ」の仏法の理(ことわり)に叶のうた、まことの勝者とは実は「口引きの男」であったという訳である。

 挿絵は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正した。

葉室少年   梅崎春生

 

 犬の死体に追っかけられていらい海の中で釣りをするのがいやになって、もっぱらおか釣りいそ釣りに転向することにした。歩度を伸ばして遠く糸島方面、津屋崎方面までも釣り竿をかついで出かけて行く。

 姪浜でフナをたくさん釣ったこともある。地下に坑道を掘るから、地面が陥没して水がたまって沼となっている。その沼にフナが住みついて、そのフナをわたしは数十尾釣り上げた。そのころの姪浜は荒涼とした地帯で、いまは住宅街になっているということが、わたしにはどうしても想像できないのである。

 昭和十七年七月、博多湾にカレイが異常繁殖して、博多湾の海底はカレイでしきつめられているといううわさが立った。わたしが室見川の川口に行ったら、こどもが二三人波打ちぎわに立って釣っている。近づいて見ると小型のカレイで、小型といっても超小型で一寸か一寸五分ぐらいしかない。ではおれも、と糸を垂れたらたちまち食いつき、二時間ばかりで四五百尾釣り上げた。餌をつけないでも食いつくのだから世話はない。とうとうばかばかしくなって切り上げた。五百尾のカレイは唐揚げにして食っても食っても食い切れず、あとは近所の猫に食わせた。

 七月もなかばを過ぎると暑くなって魚釣りも楽でなくなった。それにとった獲物が暑さのためにすぐ鮮度を失うから、食う楽しみも半減する。そこで釣りはしばらく中止ということにして泳ぎに転向した。

 福岡市生れで泳げないのはめったにいないが、東京にくるとかなづちが多いので驚く。それも道理で東京には泳ぐ場所がないのである。隅田川や東京湾はきたないし、泳ごうと思えば葉山か千葉方面まで行かねばならない。かなづちが多いのも当然だ。

 泳ぎに必要なものは慣れである。運動神経は必要でない。運動神経が必要でない好例を書いてみよう。

 わたしの小学校の運動会のとき、四年生がマスゲームか何かをやるために四列縦隊をつくって粛々と校庭に出てきた。見物の皆が笑い出した。なぜかというと先頭に立ったひときわ背の高い少年の歩き方が変なのである。ふつうは右足を出したら左手を上げ、左足を出したら右手を上げるように互い違いになるのだが、この子のは右手と右足、左手と左足がいっしょに動くのである。

 笑われていることを知ったものだから、その少年はあわててふつうの歩き方に戻ろうと懸命に努力するのだが、どうしてもそうならない。調整しようとして両手をぱっぱっと動かすと、不本意にも両足がそれにつれてぱっぱっと動いて、とうとう調整できないまま満場の爆笑裏に行列は所定の位置に達して停止した。

 それが調整できないなんて何と不器用で運動神経のないやつだと読者諸君は思うだろうが、この少年が成長して後年ベルリンオリンピックで優勝した葉室鉄夫君なのである。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第三十二回目の昭和三六(一九六一)年二月四日附『西日本新聞』掲載分。

「糸島」(いとしま)は地域名。現在の福岡県最西部に位置する糸島市一帯。ウィキの「糸島市」によれば、『糸島半島の中央部および西部と、その南側から南西の福岡県西端部の一帯を市域とする。北側と西端部は玄界灘に面し、東側は福岡市に接する。南部は脊振山地があり佐賀県と接している山岳地域で、南西部は唐津市に、南東部は佐賀市に接する』とある。

「津屋崎」(つやざき)は現在の福岡県福津市内。地区の西部から北部にかけて玄界灘に面している。ウィキの「津屋崎町」(旧福岡県宗像郡時代の町名)によれば、現在でも『自然豊かで海や空気がとてもきれいな土地である。町の海岸にはアカウミガメが生息しており』、『平野部には田畑の広がるのどかな町である。海岸は玄海国定公園に指定されている』とある。

「姪浜」(めいのはま)は現在の福岡市西区室見川の最下流左岸に広がる地域。昭和一七(一九三二)年頃の旧参謀本部陸地測量部及び内務省地理調査所(現在の国土地理院)の地図と現在の地形を比較すると、当時は自然海浜と思われるものの、「地下に坑道を掘るから」と春生が述べている通り、東の愛宕山北麓に姪浜炭鉱があって、炭住らしき建物が沢山、海浜に沿って並んでいるが(「荒涼とした地帯」という謂いは地図上からも何となく判る)、現在の姪浜は海岸部が有意に埋め立てられて内陸化しており、現在の航空写真ではその迫り出し部分(行政地名は愛宕浜)は高層ビルを含む広大な宅地地帯となって完全に変貌してしまっている。

「室見川」(むろみがわ)は主に福岡市を流れて博多湾に注ぐ。ここに出る河口付近には干潟があり、毎年二月から四月初めにかけては、博多湾から上ってくる名物の「白魚」(地元では「しらうお」と呼ぶが、学問的には別種の「シロウオ」である)漁で知られる(ここまではウィキの「室見川」に拠る)。シラウオとシロウオについては、各所で述べて来たが、例えば私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅1 行くはるや鳥啼きうをの目は泪 芭蕉』の注を参照されたい(知られた本句の初案は「鮎の子の白魚送る別(わかれ)かな」である)。

「葉室鉄夫」(はむろてつお 大正六(一九一七)年~平成一七(二〇〇五)年)は福岡県福岡市出身の元競泳選手。ウィキの「葉室鐵夫」によれば、『福岡県中学修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)から日本大学予科に進学』、昭和一一(一九三六)年の『ベルリンオリンピック』二百メートル平泳ぎで、『ドイツのエルヴィン・ジータスErwin Sietas)との接戦の末に金メダルを獲得。この決勝戦はアドルフ・ヒトラーも観戦しており、表彰式での君が代演奏では、ヒトラー自身も起立し、右手を前方に挙げるナチス式敬礼で葉室の栄誉を称えている』。昭和一五(一九四〇)年に『第一線を退くまで』、二百メートル平泳ぎで『世界ランキング1位の座を守った』。『引退後は毎日新聞社に入社。運動部記者として、アメリカンフットボールの甲子園ボウル創設に携わるなど、第一線記者として活躍した』。平成二(一九九〇)年には『国際水泳殿堂(International Swimming Hall of Fame)入りを果たした』。『葉室の死によって、戦前の日本のオリンピック金メダリストは全員物故したこととなった』とある。梅崎春生は二年違いの大正四(一九一五)年二月十五日生まれで、大正一〇(一九二一)年に福岡市立簀子(すのこ)小学校に入学しているから、これは大正一五(一九二六)年の運動会の思い出である。]

2016/07/29

投稿減少

今朝これより日曜深夜まで役員をしている町内会の納涼祭の仕事で忙しくなる。投稿減少、悪しからず。

笑いんしゃい   梅崎春生

 

 斜辺里丈吾さんは「酒」誌上で福岡の食べ物についていろいろ言いがかりをつけたが、その文章のさいごで博多の女の言葉使いに文句をつけている。読んでみると、いちいちごもっともで、かつおもしろいからここに紹介すると、まずかれは「たまげた」というのを博多女は「たまがあった」というのに驚いたそうである。

「タマがアッタ」とはなにごとか、というのである。

 腹が立つことを「はらかく」。虫でもわいているかと思ったそうだが、なるほど、わが故郷の言葉ながら「はらかく」とは妙である。

 好きなことを、

「スイトーットヨー」

 よいことを、

「ヨカトットー」

 はじめ耳にしたときは「トートット」ばかりが気になって、あわてたニワトリがけつまずいたような気がしてならなかったと書いているが、さもありなんと思う。なにしろ福岡は東京から三百里ぐらい離れているんだから、いくぶん鴃舌(げきぜつ)じみるのもむりはない。

 デパートに行くと、

「東京のナニナニさま。お電話でございます」

 と呼び出しがある。ここまでは東京と同じだが、そのあとの、

「ナニナニさま。もよりのお電話におかかりくださいませ」

 がおかしい。電話なんざあ、よっかかったり、おっかかったりするものじゃなかろうと、斜辺里さんは怒っているのである。

 でもこれは「電話をおかけくださいませ」という用語の受け身になるのだから、「おかかりくださいませ」でも論理に合っているように思うが、どうであろうか。

 とにかくよその国へ行けば、よその言葉がおかしいのはあたりまえの話で、わたしははじめて熊本に行ったとき、若い女たちが自分のことを、

「おどん」「おどん」

 というのにびっくりし、また幻滅を感じたことがある。おどんというのは、おれどもがなまったものだろうから、若い女性が使うのは幻滅もはなはだしい。でも熊本に四年いるあいだにそれもやがて耳なれて、その言葉使いに魅力さえ感じてきたから妙なものである。

 福岡では「時計が急いでいる」という。わたしははじめて東京に出てよその家の時計を見て、

「あ。この時計は急いでいる」

 と口走って大いに笑われたことがある。人間じゃあるまいし、時計が急ぐわけがあるものか、というのが東京人たちの笑いの種だったが、しかし、わたしはいまでもこの「時計が急いでいる」という表現は好きである。時計を擬人化して仲間あつかいするところに、福岡人の時計にたいするなみなみならぬ愛情がうかがわれてよきものではないか。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第十回目の昭和三六(一九六一)年一月十三日附『西日本新聞』掲載分。これもまた前回までの斜辺里丈吾氏の『酒』誌上の話を肴として美味く料理してある。梅崎春生は結構、こうした連載の連関的展開話法を自分自身、楽しんでいたのではないかと思わせる。

「鴃舌(げきぜつ)」「鴃」は鳥のモズで、モズが五月蠅く囀るような、訳の分からない言葉の意。「孟子」の「滕文公上」に「今也南蠻鴃舌之人、非先王之道。子倍子之師而學之、亦異於曾子矣。」(今や、南蠻鴃舌の人、先王の道を非とす。子、子が師に倍(そむ)きて之に學ぶは、亦、曾子に異なれり。)に基づく。「孟子」のこの箇所は今ならトンデモ・ヘイト・スピーチの類いとして指弾されるものであり、「鴃舌」なる語も差別用語として指弾される語であることは認識して使用すべきではあろう。]

さつま揚げ   梅崎春生

 

 飢えは最上のソースという諺(ことわざ)がある。空腹のとき、あるいは食い盛りのときは何を食べてもうまいものである。福岡のてんぷらウドンは、わたしにとってそんなものかもしれない。

 さつま揚げを広辞苑で引くと、「すり身にした魚肉に食塩、ニンジンの細切りなどをまぜ適当な形にして油で揚げたもの」とある。簡単な食品であるが原料やつくり方によって味は大いに変ってくる。

 いままで食べた中でいちばんうまかったさつま揚げのことを書こうと思う。

 昭和七年から十一年までの四年間わたしは熊本の第五高等学校の生徒であった。四年いたのは一年落第して二年生を二度相勤めたからである。

 熊本市の上通町に「三四郎」というおでん屋があった。淑石の三四郎から取った屋号で、おばあさん二人がやっていた。若い女なんか一人もいず色気抜きの剛毅ぼくとつな店で、酒は何だったかな、銘柄は忘れたけれど、割りにいい酒を飲ませた。そこのおでんのイガモガ(あるいはイガラモガラ)と称するさつま揚げは絶品であった。飲み盛り食い盛りのころだから、それを差し引いても絶品だったような気がする。

 ここのはニンジンの細切りではなくゴボウの刻んだのが入っていた。すり身もしこしこしていたし、それにゴボウの歯ざわりが加わって何個食っても食い飽きなかった。わたしは先輩に連れられてこの店で酒を仕込まれたのである。そのイガモガを肴にして錫(すず)のコップで十杯ぐらい飲めるていどに腕を上げた。

 あの錫のコップは五勺入るという話だったが、そうすれば五合ということになり、いい気持になって寮歌を歌いながら寮へ戻った。あのくらいの年ごろで五合ぐらい軽く飲んでいたのだから酒豪の部類に入るだろう。

 そこであんまり飲み過ぎたものだから勉強のほうに力が入らなくなり、ついに平均点不足で落第した。落第の悲しさは落第した人でないとわからない。

 落第ときまって、わたしは福岡の家に戻った。おふくろの前に手をついて、

「落第しました」

 と頭を下げたが、おふくろは終始無言、じつとわたしをにらみつけているのでこちらもマがもてなくて、

「おわびのしるしに坊主になります」

 と言ったらおふくろは、わたしを仏壇の前に連れて行きバリカンを振り出して、せっかく伸びていたわたしの長髪を無惨にもじょきじょきと刈り取ってしまった。

 三月のことだからまだ寒い。刈り取られた襟元がひやりとつめたかったことを、その感触を、わたしはきのうのことのように思い出す。

 戦後熊本に行ってみたら「オリンピック」や「フロイント」はあったけれども「三四郎」は姿を消していた。あのばあさんたちももうなくなったのだろうと思う。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第九回目の昭和三六(一九六一)年一月十二日附『西日本新聞』掲載分。新聞連載の勘所としてこれも前回分の福岡風てんぷらウドンを直接、枕として受けている。

「イガラモガラ」ネット上で大分方言として出、「とげとげしている様子」とあった。]

てんぷらウドン   梅崎春生

 

 

 斜辺里文吾氏は江戸ッ子である。だからみずから言うごとく東京ふうによわい。

 博多で「東京風そば」の看板が出ていたので矢も楯もたまらず飛び込んで、

「てんぷらそば――イチ」

 と注文したところ出てきたのを見ると、そばの上にサツマ揚げが浮いている。斜辺里氏は憤然とする。

「なんだ。こいつあ」

「ヘエ。てんぷらですバイ」

「そばでてんぷらといやあなあ、こう、ぴんとひげのおったったエビが二匹、うこんの衣につつまれ、ぴったり、よりそって横になり、けつのほうだけ恥かしそうに赤くなりあがって、ちょっと出しているやつと、義士の討ち入りのその昔から決まっているもんだ」

「ははあ。そりやエビてんですバイ。これはマルてんで、ふつうてんぷらといえばこれですバイ」

 ここのくだりを読みながら、わたしは中学生時代の自分を、先生の目をかくれて入ったウドン屋のてんぷらウドンの味をまざまざと思い出した。なるほど福岡でてんぷらウドンと言うとさつま揚げ入りのことである。

 しかし他郷人にとっては、てんぷらを注文したのにさつま揚げが出てきては怒るのもむりはないだろう。あれはやはり福岡のほうで名前を変えるべきかもしれぬ。

 しかしわたしはさつま揚げ入りウドンは大好きであった。いまでも郷愁を感じる。東京ではウドンやソバにさつま揚げを入れる習慣はない。なぜないかというと、わたしの推定では東京のさつま揚げはまずいからである。東京風の汁の濃いうどんに粗悪なさつま揚げを入れては、とても食えたものでない。

 ソバは一歩ゆずるとして、東京のウドンの味は九州のそれにはるか劣る。カマボコ類もそうである。カマボコやさつま揚げがまずいということは東京の魚(カマボコの原料の)がまずいということである。小田原カマポコなどと威張ってはいるが、あれを西のほうに持ってくれば、せいぜい二流品か三流品であろう。

 東京のてんぷらソバは、そりゃ一流どこに行けばうまいけれど、そこらのソバ屋で注文するとエビの身は小さく、衣ばかりがばかでかく、揚げかすを食っているのとそう変らない。それにエビの足を取ってないので中でがさがさして不愉快だ。

 その点に行くと、福岡のてんぷらウドンはそこらの町角の店でも一応食わせる。平均点が福岡のほうがずっと高いのだ。

 土地の食文化というのはその平均点のことじゃないか。一軒や二軒飛び抜けてうまい店があってあとはまずいのと、平均して一応うまいのとでは後者のほうにさっと軍配を上げるべきだろう。

 もっとも福岡のてんぷらウドンを、うまいうまいとわたしがむさぼり食ったのはもう三十年近く前のことだから、いま食ってもうまいかどうかそれは保証できない。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第八回目の昭和三六(一九六一)年一月十一日附『西日本新聞』掲載分である。内容も前日分を受けて、斜辺里文吾氏が登場している。]

梅崎春生「南風北風」より / 博多の食べもの   梅崎春生

 
梅崎春生「
南風北風」より

[やぶちゃん注:「南風北風」は『西日本新聞』に昭和三六(一九六一)年一月四日から四月十三日まで、百回に亙って連載されたエッセイである。ウィキの「西日本新聞によれば、現在も発行されており、現在の本社は福岡県福岡市中央区天神、現行紙は福岡県を中心に九州七県で販売されているものの、福岡以外の県ではそれぞれの県紙に販売シェアで圧倒されているとし、福岡市・久留米市を中心とする福岡県西部で特に購読率が高いとある。

 底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第七巻」に拠ったが、同書には上記の内の全二十二回分のみが収録されている。選ばれている記事内容を見ると(そうした傾向によって編者が選んだ可能性は私は低いと考える)、福岡生まれである梅崎春生は「西日本新聞」の読者の地域的特性をしっかりと踏まえて執筆している様子が濃厚に覗える。

 傍点「ヽ」は太字に換えた。

 以下の「博多の食べもの」は連載第七回目の昭和三六(一九六一)年一月十日附『西日本新聞』掲載分である。]

 

   博多の食べもの

「酒」という雑誌がある。才色兼備の佐々木久子女史が編集している雑誌で、酒にかんするいろんな物語だの随筆だのがのっていて、わたしは毎号待ちかねて愛読している。

 その「酒」に連載中の随筆で、「マイク酔話」というのがある。たいへんおもしろい読み物で、筆者は斜辺里丈吾という人物である。もちろんこれは筆名で、しゃべり上戸をもじったものだろう。NHKのアナウンサーで、長いこと東京に勤めていたが、半年ほど前博多に転勤になった。随筆の中にそういうことが書いてあるので、わたしはその当人を知っているわけでない。

 その「酒」の新年特別号に、斜辺里丈吾氏が博多の悪口を書いている。いや、悪口といっては当らない。愛情をもって、つけつけと書いている。異郷人が福岡に来ると、こんなことを感じるのだなと、福岡生れのわたしはたいへんおもしろかった。

「酒」という雑誌は市販していないので、読者諸君の目にふれることはないだろうと思うから、その一節一節を紹介すると、

「驚いたことには、ビールのさかなに、もろきゅうとたのむと、おそろしく長い、馬の乾燥バナナみたいなのが出てくる。ナスを焼いてもらうと、これがまた、なんと、きゅうりほどの長さである。九州では、きゅうりとナスの長さが同じである」

 そういわれてみると、九州のナスは長い。長いのが普通で、短いのは特にキンチャクナスという。東京では短いのが普通のナスで、長いのは特に長ナスと呼ぶ。わたしも初めて東京に来たとき、八百屋にキンチャクナスばかりしかないので、ふしぎに思った記憶がある。

「そして、ネギがない。深谷のネギである。出てくるのは、ニラのような細いやつである。ひともじという。そばを食っても、ソーメンをたのんでも、薬味にはこれが出てくる」

 ああ、ひともじ。久しぶりにこの言葉を聞いた。

 斜辺里さんはひともじのことを「ニラのような」と書いているが、むしろ「アサツキ」に似ているのではないか。わたしはあのひともじが大好きで、東京でソバ屋に入るたびに、どうしてひともじがないのかと、今でも物足りなく思う。普通のネギをきざんだやつより、ずっと鮮烈な味がして、ソバの味が引き立つと思うのだけれど、斜辺里さん、そうお感じになりませんか?

「〝ひやむぎ〟をこちらでは 〝ひやしむぎ〟という。〝ひやむぎ〟だから〝ひや〟として、ひやっこいような気もし、食指も、うごこうというもの。それを〝ひやしむぎ〟といわれると、マがのびて、冷たさを失う。作りたてという、新鮮さも失われる。日だまりの水で、真夏に、ソーメン食うやつがどこにある」

 こんなにながながと引用して、斜辺里さんに原稿料をわけてあげねばいけないな。

[やぶちゃん注:「佐々木久子」(昭和二(一九二七)年~平成二〇(二〇〇八)年)は編集者・評論家・随筆家。ウィキの「佐々木久子」によれば、ここに出る月刊雑誌『酒』(昭和三〇(一九五五)年~平成九(一九九七)年)の編集長で、かつて「カープを優勝させる会」を旗揚げし、奔走した事でも有名。広島市出身。三歳から酒を嗜み、『広島女子商業学校(現広島翔洋高等学校)を経て広島大学に進学』、『広島市への原子爆弾投下により爆心地から』一・九キロメートル『離れた自宅で被爆。自身は母親と共に救出されたが』、五年後には『父親を原爆症により亡くした。第二次世界大戦後は広島で青年運動・平和運動・新劇などの活動もしていた』。『大学卒業後、単身で上京』、昭和三〇(一九五五)年四月に雑誌『酒』を創刊、以来、四十二年間に亙って編集長を務めた(五百一号を以って休刊)。また一九六〇年代半ばには『新潟県の地酒「越乃寒梅」にいち早く着目し、その後興った“地酒ブーム”の火付け役にもなっている』。二十一世紀に『なってからも地元の中国放送(RCC)などで社会評論を続け』たが、脳梗塞で倒れ、最後は多臓器不全のために八十一歳で逝去した。『結婚はせず、生涯独身だった』。昭和三一(一九五六)年早々、創刊から一年で『赤字のため廃刊に追い込まれかけた『酒』を小説家の火野葦平が救った。火野は、命ある限り無償で執筆する旨の証文を書き、同誌に原稿と』扉絵を約束通り、昭和三五(一九六〇)年一月のその死まで書き続けた(火野葦平の死因は心臓発作と発表されたが、十三回忌の際、遺族により睡眠薬自殺であったことが公表されている。因みに私は、火野葦平の「河童曼荼羅」の電子化も手掛けている)。『また多くの文人を紹介した』とある。調べてみると、この葦平が火急を救った際、同雑誌はそれまでの株式新聞社から独立して自主発行を始めている。春生が『「酒」という雑誌は市販していない』と書いているのは、恐らくは完全な注文頒布型の郵送の趣味雑誌であったからであろう。

「斜辺里丈吾」「NHKのアナウンサーで、長いこと東京に勤めていたが、半年ほど前博多に転勤になった」これだけの情報と文才がありながら、実名は不詳である。識者の御教授を乞う。

「ひともじ」タマネギとネギの雑種である単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ワケギ Allium × proliferum の主に北九州での異名。「一文字」「一文字」。]

2016/07/28

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   美童の節義

宗祇諸國物語卷之二

 

     美童の節義



Bidounosetugi

或年、秋の最中(もなか)、攝州住吉に詣で、四社順禮し、法施(ほつせ)奉り、廻廊樓閣徘徊するに、かうがうしく尊く、他に異(こと)なる靈地、數ふるに、詞、たえたり。千(ち)もとの松の木の間より、海づら、限なく見え、沖津波(おきつなみ)、入日をあらへば、ゆきゝの舟、島がくれゆく。難波寺(なにはでら)のかね、暮れを告ぐるより、早(はや)、初月(はつづき)の山の端(は)にくまなくてりつゞきたる、更に今の夜だに、晝と照りわたれば、歸るべき道を忘るゝは、美景によつて、と、いひし、宜(むべ)なる哉、おもほえず、そり橋のかた邊(ほと)りに旅油簞(たびゆたん)かた敷きて狂歌す。

 

   住の江に難波のあしをふみこふて

       ふむや潮のよるの蛤(はまぐり)

 

かくて戌亥(いぬい)のかね過ぎ、子(ね)の程ちかく成るに、專(いとど)、物さびわたり、松の風、磯打つ波に心耳(しんじ)をすませば、夜露(やろ)、あさ衣の袖をひたす。睡臥(すゐぐわ)の軒、求めんと草むしろを身じろく頃、男一人、白衣(はくえ)に長き刀を橫たへ鉢卷したる、月かげに定かならねど、年の程、廿二、三と見ゆ。肘(うで)まくりし、刀に手をかけ、社内の邊りを見賦(みくば)り、そこなる石に腰をかけたり。こは怪し、何事にや、我を見つけたらましかば、いかゞとがめん、忍ぶにはしかじ、と、松根(しようこん)に身をよせ、木の間より密かに覗く、暫しして、又難波の方(かた)より男一人、是も白く裝束(さうぞく)して、長からぬかたな、あら繩をもて鉢卷し、息まき切つて此所に來る。初の男、聲をかけて、其方おくれてや、かく遲參すると、難波の男、息つきながら、其の事よ、和殿(わどの)が左(さ)思はんほどに、とくにと、心はやりぬれど、多くの人目しのびて、心ならず時うつり、道も遙かにて今になりぬ。全くおくるゝにあらず。あまりに道を急ぎ、氣(き)疲れたり。迚(とて)もの事に、水たうべて喉(のんど)うるほすいとま得させよ、と、御手洗川(みたらしがは)にて水すくひなど身繕(みつくろ)ひし、刀をぬぎ、いざ、互の最後、今なりといふより早く、双方切むすぶ事しばし、祇は只、夢に幻(うつゝ)をそへたるやうに、身をひやし、胸つぶる計り、何なる遺恨にてかく鬪諍すとは知ねど、出でゝ扱はばやと思ふに、そも又、還つて血氣(けつき)のいきほひに誤まつて、刄にかけられんもよしなしと思ふ程に、此等もさすが勝負を好むと見えて刀劒の業(わざ)たゞ者と見えず、秘術をつくせば、兩方、未だ薄手(うすで)をもおはず、言葉をかけて息をつぎ、言(ことば)をかけて切り結ぶ事、三度(ど)に及ぶ時、難波の方より、年の程、十六、七とみえし美童、黑き小袖の袖高く取り、我れにひとしき小者に灯燈かゝげさせ、月の夜、猶、あかく、一文字にかけり來り。兩人の勝負、今、暫く待ち給へ、と、聲をかくる。是に、猶豫して兩方退(しりぞ)く時、美童、難波の男にむかひ、淚を流し、君、かく死の大事を思ひ立ながら、何ぞ我にしらせ給はぬ、漸(やうや)う名殘にみよ、と、計りの置文、日頃にかはりし御事、所詮、此の濫觴、我れ故なれば、先づ、此の身、黄泉(くわうせん)のしるべすべしといふいふ、上の衣をとれば、下には白き裝束したる、偏(ひと)へに死出(しで)の用意也。男、怒つて云く。我れ、此の首尾に取結ぶ事、全く卒爾(そつじ)の陽氣(やうき)を求むるに非ず、本心を惑亂するにもなし。日頃、そこと兄弟(はらから)の約(やく)をなし一命(めい)をゆづりあひたる事、人も知たる事ぞかし、今、放逸(はういつ)の者に一言(ごん)をいひかけられ、おめおめと其方を渡し、隣家の花、遠山の月と詠めて、世の人口(じんこう)、いかゞはせん、詮(せん)ずる所、運を天に任せ、一刻の勝負に安否をきはむべく忍び出でたり。是をだに、しらすまじかりしを、若(も)し、我れ、討れ失せなん後、最後の一筆をさへと我公(わぎみ)が恨みん事を思ひて一通をとゞめし事、助太刀の爲めと敵(てき)も思ふなるべし。長詮義(せんぎ)に夜や明けん、早、疾く歸れ、と引きたつる、美童、更に歸る色なく、又、堺の男に向ひ、和殿が無體(むたい)の一言に、今、此の難儀、出で來ぬ。汀(みぎは)の松の枝(えだ)わけて、よそ吹く風を騷がすも、本(もと)の根ざしは我れ也。自(みづか)ら屍を爰にさらす。此の後、互(たがひ)の意趣を捨てゝ、願はくば一道名(みやう)がう賴み申す、と、いひ捨てゝ、既に自害に及ぶ、男、慌てゝ押しとめ、至極の道理、聞わけぬ。松の根ざしは有るとても、騷がす風のあらずば、千歳(ちとせ)の色を見すべきに、一身(しん)の惡念より、かゝる事によしなき死を輕くして、人口遁る所なし。かひなき露命(ろめい)あるによつて、ぬしある人をこふるなれば、只、某が命(いのち)とつて、心安く、契り給へ、と、刀をすてゝさしうつぶくに、難波の男も心とけ、和殿(わとの)が邪氣(じやき)を翻へして、命(めい)を捨て給ふ事、哀れにもやさし、此上は、此の者をわとのへ渡し參らすべし、と、いへば、堺の男、泪をながし、いか計りの前業(ぜんごふ)にか、此の事、思ひ初(そ)めしより、今日(けふ)の今宵(こよひ)の今迄、忘るゝ暇(いとま)なくて、かゝる事をなせり、我れ乍ら悔(くや)しとやいはん。道ならぬ道をいひかけ、乞ひうけんも、よしなし。此の後、何の恨か有明(ありあけ)の、月落ち、鳥(とり)啼き、漸(やうや)う、東の雲、白くなりぬ。とく、ぐして歸り給へ、と、いへば、難波の男、よろこばしげに、小笹(ざゝ)の露をしたでて酒と號け、かた計りの祝儀を調へ、互(たがひ)に式臺(しきだい)して南北へ別れさりぬ。祇は一木の松かげに居て、此の事を見屆け、懷筆のすさみにせし、誠に壁(かべ)に耳、天の言(ものい)ふといへるたぐひにや、人はしらじとこそ、此者どもは思ひけめ。

 

 

■やぶちゃん注

 若衆道の分らぬ方には、この話のしっとりとした情話の深さは御理解戴けぬものと存ずる。されば、そうした言葉で言っても判らぬことは注でも一切、語らぬこととした。

・「攝州住吉に詣で、四社順禮し」現在の大阪府大阪市住吉区住吉にある住吉大社は四柱を祭り、それぞれが独立した宮を持ち、四柱を総て合わせて「住吉大神(すみよしのおおかみ)総称して海神として信仰される。第一本宮が底筒男命(そこつつのおのみこと)を、第二本宮が中筒男命(なかつつのおのみこと)を、第三本宮が表筒男命(うはつつのおのみこと)を祭り(この三柱を合わせて「住吉三神」と呼ぶ)、第四本宮に神功皇后を祀る(「住吉大神」と言った際は、彼女を除く場合も含める場合もある)。境内の奥から第一・第二・第三本宮が縦(東西)に並び、第三本宮の向かって右(南)に第四本宮がある(ここはウィキの「住吉大社」に拠った)。

・「難波寺(なにはでら)」現在は大阪府大阪市生野区にある臨済宗月江山難波寺(なにわじ)。但し、ウィキの「難波寺を見ると、天平八(七三六)年に『聖武天皇の勅命により行基によって、奈良東大寺の大仏開眼法要のため、遣唐使の船にて来日したベトナムの僧侶を宿泊させるため、現在の天王寺区東高津町に創建されたと伝えられ、当初、三井寺の直末として天台宗に属していた。室町時代に入ると荒廃し、江戸時代に入って妙心寺塔頭後花園院の卓同和尚により中興され臨済宗に改められた』。大正一四(一九二五)年に『現在地に移された』とある。この旧位置(現在の位置ではない)は住吉大社から六・五キロメートルは離れており、やや鐘の音のロケーションとしては遠いように感ずる。しかも、引用にある通り、宗祇が生きていた時代には難波寺は荒廃していたから、撞く鐘や僧があったどうかも、実は怪しいのである。寧ろ、「難波」(にある)「寺」院という一般名詞でとっておいた方が無難なように思われる。

・「旅油簞(たびゆたん)」「油簞」は「油單(単)」とも書き、湿気や汚れを防ぐために簞笥や長持ちなどに掛ける覆いで、単(ひとえ)の布又は紙に油をひいたものを指すが、これは外出や旅中の風呂敷や敷物などにも用いられた。

・「戌亥(いぬい)」午後九時頃。

・「子(ね)の程ちかく」午後十一時近く。

・「御手洗川(みたらしがは)」神社の近くや境内を流れており、参拝人が口を漱ぎ、手を洗い清める川の一般名詞としての呼称。

・「扱はばや」仲裁したいものだ。

・「刄」「やいば」。

・「刀劒」「とうけん」。

・「我れにひとしき小者」宗祇自身に等しい年恰好の家来。

・「灯燈」「ちやうちん(ちょうちん)」。

・「猶豫」「西村本小説全集 上巻」では「ゆよ」とルビする。

・「小笹(ざゝ)の露をしたでゝ酒と號け」「したでゝ(酒)」がよく判らない。「西村本小説全集 上巻」でもここと同じになっている。「號け」は「なづけ」(名づけ)で、以下で「かた計(ばか)りの祝儀を調へ」と言っているのだから、ここは難波の男と美童の祝言の祝い「酒」と喩えるのであるからして(同時に堺の男と二人(難波の男と美童)の別れの水盃の趣向も背後にあると読む)、ここは或いは「したでて」ではなく、「したてて」(仕立てて)であって、小笹(おざさ)におかれた朝露を祝言のそれに仕立てて祝い「酒」と名づけて」の意味ではなかろうか? 大方の御叱正を俟つ。

・「式臺(しきだい)」は「敷台」とも書き、本来は玄関の上がり口にある一段低くなった板敷きの部分を指す。ここは客を送り迎えする所で、客に送迎をするための部屋がかく略されものであるが、ここはまさに別れの挨拶そのものを指している。

 挿絵は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正した。

行脚怪談袋   芭蕉翁備前の森山を越ゆる事 付 猅々の難に逢ふ事

  三の卷

 

 

  芭蕉翁備前の森山を越ゆる事

   
猅々の難に逢ふ事

 

ばせを京郡を立ちて播州へ越え、一國を執行(しゆうぎやう)せんとなして、備中を過ぎて夫れより備前に懸り、同國岡山にしるべの俳人ありければ、是へ越えんが爲めに、其の道すがら、同所森山(もりやま)の麓を通りけるが、此の所は東は遙かの谷、西は何丈とも知れぬ高き山なり。日も未だ高きゆゑに、ばせをは何の心も付かず、此の所を越える。然るにばせをが被り居たるもじの頭巾、風もふかぬに遙かの谷へ落ちて、二丈計り下の木の枝にかゝりたり。芭蕉是を見て、常々被りたる頭巾、此の儘失はん事本意なき事と思ひ、何れにも谷へ下りとり來らんと、山がつのふみ分けし道にや、少し平かなる所有りける所を、つたひつたひやうやうかの木一本へ至て、頭巾を取らんとすれども、小高き木の枝なりしかな下より取る事あたはず、登り取らんには谷際なれば、あぶなからん事をあやぶみ、詮方なき儘、かたはらなる枯木を手折りて、我がつゑヘ羽織のひもをもつてくゝり付け、是を棹として、件(くだん)の枝へ懸りし頭巾を取らんとなせども、いかゞ枝へ懸りけん、兎角して取られざりしが、芭蕉棹を取直し彼の枝をしたゝかに打ちて、ふるひをとさんとなしける。枝うつ音かしこへ聞えける所に、遙かにあなたの木の茂みより、こだまに響きて、うんとうなる聲聞えしが、芭蕉は心得ぬ事に思ひ、既に頭巾をも取りたりければ、暫し立休らひて、又森詠(なが)め居りけるが、俄かにさしも生茂りし大木の、悉く梢迄ゆらぐと見えしに、右の木のすき間より、其のさま三尺許りの首を出す、その面(おもて)の赤き事(こと)朱のごとし、眼(まなこ)は血をそゝぎたるが如く、眞半(まはん)なるまぶち、大き成る目の玉をいからし、ばせををちらりと見る。口と覺しきも耳元迄さけ、眞黑なる牙をはみ出(だ)し、暫しはためらひ居たりしが、惣身はまがふべくもなき大いなる猿なれども、其の丈け七尺に餘る。からだの毛黑く白まじりて班(ぶち)なりし、なほなほ芭蕉をにらめ守り至る。ばせをは今更大いに驚き、是かならず惡獸(あくじう)の類ならん。近々(ちかぢか)とならば決して彼れが爲めに害せられんと、頭巾を片手に持ちながら、身を替して、上の麓の方へいつさんによぢ登る、かの變化(へんげ)は是を見て森を飛出で追(おひ)かけしに、ばせをの運(うん)や強かりけん、かの化物(けもの)とある木の根にまろび、遙かの谷底へ落入りしかば、ばせをはからき命を拾ひ、右の獸(けだもの)谷へ落入りし事、諸天善神の我れをすくひ給ふ處なり、獸もし谷へ落入らずんば、我れ彼れが爲めに害せられ、此の處の土と成るベきに、げにもあやふき事なりと、猶もいそぎ上の麓に上り、何時(なんどき)にやと日足(ひあし)を見れば、今だ晝八つ頃の樣子なれば、是より岡山の方へ懸らん、道法(みちのり)六里と聞けり、日の有る内に急がんと、猶も獸の追來らんかと跡を見歸り急ぎけり。其の後は變化も來らず。兎や角なす内に、六里を經て人里へ出でたり、是岡山へ取付く里也。此の所にて日も漸う西の山にかたむきぬ。芭蕉は大いに悦び急ぎ岡山の城下へぞ至りける。その後ばせをは當城下のしるべのの者、俳人眞田玄蕃(さなだげんば)が方へいたる。此の玄蕃評(ひやう)とくを荊口(けいこう)と云へり[やぶちゃん字注:「荊」の(くさかんむり)は底本では(へん)の上につく。以下、同じ。]。玄蕃ばせをを來(きた)ると聞きて、舊友のよしみを思ひ、急ぎ迎へて對面し、足下には竹馬の同樣の友、吾妻(あづま)にて別れしより、再び逢ひ見る事もあとふまじきやと思ひしに、能くも遙々御尋ねに預かる事、有難さよと申しければ、芭蕉是を聞きて、諸國俳道執行の爲めに出でし由を語る、荊口も是を聞きて、然れば頃日(このごろ)の旅の御つかれも御座有るべし。先づ我が方に落着(おちつか)れ草臥(くたびれ)をも休め給へと、わりなく申しければ、ばせをかれが方に敷日逗留す。頃は春の半ばにて、殊に雨ふりつゞき、庭前(ていぜん)の靑柳に雨のたゝまる風情いと興有るにより、ばせをは主の荊口と諸とも、緣先に酒盛して四方山(よもやま)の物語りをなす。此の時芭蕉同國森山にて異形(いぎやう)の變化に出あひ、あやふき目(め)をなせし由を語りける。荊口是を聞いて其の異形の物かならず世に云ふ猅々(ひゝ)なるべし。我等も先年(せんねん)京都(きやうと)より、此所へ立越えんが爲め、森山へ通り懸りしに、日もいまだ白晝(はくちう)なれば、心をゆるめてとある岩角(いはかど)に腰打懸(うちか)け、腰より火打を出したば粉(こ)をくゆらし居たる所に、遙か後(あと)の方より、其の丈一丈計りの人の如き物、白き衣類を着し近付き來る、我れは人かと思ひしが、其の樣のすごくすさまじさ、心付傍なる木陰に隱れ、右のものを能く能く窺ひ見るに、白き衣類とおもひしも衣類にあらず變化の色なり。夫れのみにあらず、面の赤き事紅(べに)のごとし、われらも大きにおどろき、若し姿を見せば、必らず彼れの爲めに害せられんと心付き、急に茂りし大木に上り、枝葉のこもりたる所に隱れ、身を縮め息をつめて遁(のが)れん事を思ふ所に、程なくかの變化右のあたりへ間近く來(きた)り、大(だい)の眼(まなこ)を血をそゝぎたる如くに見開き、我が隱れし傍にあなたこなたとうかゞひ、若(も)し見付からばひと嚙みになさん氣色(けしき)にて、其のあやふき事云ふばかりなかりしが、されども、我が運の強き處にややよりけん。彼の變化終にわれを見付け出さずして、またむかふの方をうかゞひたりしが、とかうして先ヘ行過(ゆきすご)す、我れ見付られん事を恐れ、猶も深く隱れて、良(やゝ)しばらく其の所に在りしが、いつ迄隱れあるべきにもあらず、されば氣味惡けれども、そろそろかの木のうへより下り立ち、かたはらをうかがひみるに、彼の變化は何(いづ)れへか行きしやらん見えず。其の所にをらざれば、扨は己れが住家(すみか)へ歸りしものならんと悦び、彼(か)の物の先へ行過ぎたれば、我れもまた先へ行かん事然るべからずと、夫れより元來る道へ引返し、前夜に一宿なせしか嘉笛(かてき)と云へる里へ至り、則ちその宿へ行く、宿の亭主も不審顏してとひけるは、旅人には今朝岡山へ至らんと立ち給ひしが、かの處へは行き給はず、また此の所へ立歸り給ふ事不思議さよと云ふ。我等答へて申すは、ふしぎの所尤もなり、我等今朝此の所を立ちて、今日中(こんにちぢう)に岡山の城下へ到らんと、森山の山道を急ぐ所に、か樣のものに出合ひ、まづかくの次第なる體(てい)にて、あやふき場所をのがれたり。かの者先の方(かた)へ行過ぎし故、我れかれに又も逢はん事をおそれ、先へは行かずして此の所ヘ歸りしと語りしに、亭主是を聞いて扨々夫れはひあひな目に逢ひ給ふものかな、右の變化は、猅々と申す猿の二千歳を經て通力(つうりき)を得たる獸ならん。其のゆゑは彼の森山には、至つて猿の澤山なる所故、同所のもの是をからんが爲めに、六七人かの山にわけ入りて、右の獸を見て、はうはうの體(てい)にて逃歸(にげかへ)り、所の老人に此の由を告げるに、夫れは猅々なるべしと申したり。貴所の逢ひ給ふもかならず其のたぐひに候べし、されども此の獸は快朗のせつは出でざるよしなれば、貴意所もし氣床惡敷く思ひ給はゞ、四五日此の處に逗留あり、曇(くも)らざる日を待ちて岡山へ越え給へと申すに付、某其詞に隨ひ、二三日ち過ぎてくわいらうの日、嘉笛(かてき)の宿を立ちて當所へ至り候に、森山の途中にてあやしき事なかりき、我れの猅々に出合ひし物語りと芭蕉翁のあひ給ひし事と、その危(あやふ)き事相似たりと語りしかば、芭蕉是を聞きて思はず手を打ち、扨々我等兩人ともに右のごとくは、佛神(ぶつじん)に請(う)けられたりと申すべし。何れにも悦ばしき次第と、ばせを盃をあげ、春雨(はるさめ)の題ぞ取りて、

 

  噺しさへ調子あひけり春の雨  ばせを

 

と一吟をなし、その外逗留數(す)日の内、種々(しゆじゆ)の物語りをなし、其の後芭蕉は荊口に暇乞ひし、岡山を立ちて、夫れより備後伯耆の方へ廻國せられぬ。そのとき餞別に

 

  千金の春も一兩日に成りけり  荊口

 

■やぶちゃんの呟き

・「猅々」「ひひ」。猅々猿(ひひざる)。猿の老成した巨怪。

・「ばせを京郡を立ちて播州へ越え」芭蕉は西国を行脚していない。但し、芭蕉には「奥の細道」を究め、中部地方も概ね経巡ったことから、西国遍歴を企図していたことは間違いないから、芭蕉もこれには微苦笑することであろう。

・「執行(しゆうぎやう)」修行に同じい。

・「森山」現在の岡山の東北十七キロメートルほどの位置にある、岡山県岡山市東区の標高三百五十一メートルの大森山附近のことか。ここなら後で「岡山の方へ」「道法(みちのり)六里」というのとも概ね合致するからである。

・「もじの頭巾」「もじ」とは夏の衣や蚊帳などに使う「綟」「綟子」か(但し、だとすると歴史的仮名遣は「もぢ」である)。麻糸で目を粗く織った布で出来た頭巾。

・「二丈」六メートル強。

・「晝八つ頃」不定時法であるが、後に「春の半ば」と出るので午後二時半前頃に当たる。

・「眞田玄蕃(さなだげんば)」不詳。全体がトンデモ仮構であるから架空の人物であろう。最後の句の「荊口」の私の注も参照のこと。

・「評(ひやう)とく」「表德號(へうとくがう(ひょうとくごう)」のこと。本来は高徳の人の徳行を表わす号や雅号を指すが、近世では通人めかして号をつけることが流行した。ここでは単に俳号の謂いである。

・「再び逢ひ見る事もあとふまじきやと思ひしに」「あとふ」は「能(あた)ふ」の転訛。再び相見(まみ)ゆることも叶うまいなあ、と思うておったところが。

・「わりなく」ここは中世以後の用法で「親しく」の意。

・「雨のたゝまる」「雨の疊(たた)まる」で雨が積み重なる、しきりに降り注ぐ、の謂いであろう。

・「嘉笛(かてき)」とても素敵な地名であるが、不詳。識者の御教授を乞う。かの大森山近くでは、少し似た感じがする風流な地名として現在の岡山県備前市香登(かがと)がある。また大森山周辺には現在、「可」を頭に持つ地名も散在する。

・「ひあひな目」「非愛な目」で危険な目の謂いであろう。但し、だとすれば歴史的仮名遣は「ひあい」で誤りである。

・「噺しさへ調子あひけり春の雨」芭蕉の句ではない。「續猿蓑」の「卷之下」の「春之部」の「春雨 附 春雪 蛙」のパートの、

 

 物よわき草の座とりや春の雨       荊口

 咄さへ調子合けり春のあめ        乃龍

 春雨や唐丸(たうまる)あがる臺どころ  游刀

   なにがし主馬が武江の

   旅店をたづねける時

 春雨や枕くづるるうたひ本        支考

 はる雨や光りうつろふ鍛冶が鎚      桃首

 淡雪や雨に追るるはるの笠        風麥

 行(ゆき)つくや蛙の居る石の直(ロク) 風睡

 

の三句目、乃龍(ないりゅう:事蹟不詳)なる人物の句である。前が荊口の句であるのはやはり偽書であることを暗に示すポーズのようにも思われる。

・「千金の春も一兩日に成りけり」不詳。

・「荊口」蕉門の俳人には宮崎荊口なる人物が実在する。本名は宮崎太左衛門で、大垣藩百石扶持の藩士であった。一家で蕉門に入り、七部集に出る「此筋(しきん)」・「千川(せんせん)」・「文鳥(ぶんちょう)」というのも皆、荊口の宮崎荊口息子たちである。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 93 大垣入り』を見て戴くと分かるが、「奥の細道」の最終局面に当たる「大垣入り」で芭蕉は、「露通も此(この)みなとまで出むかひて、みのゝ國へと伴ふ。駒(こま)にたすけられて大垣の庄(しやう)に入(いれ)ば、曾良も伊勢より來り合(あひ)、越人(ゑつじん)も馬をとばせて、如行(じよかう)が家に入集(いりあつま)る。前川子(ぜんせんし)・荊口父子(けいこうふし)、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる」と述べており、そこにはこの宮崎一家が立ち並んで、かの死をさえ賭した旅からの師の帰還、生還を拝むが如く、出迎えているのである。

ドナギ、タコイカ、骨なし魚   梅崎春生

 

 この五六十年の間に、食用植物や食用家畜などは、大幅に品種が改良された。牛肉もやわらかくなったし、一年に三百六十個以上も卵を産む鶏も、続々出現した。

 果物の進歩もめざましい。私が子供の時はモモやナシはがりがりだったし、イチゴもきわめて小粒だった。今やモモやナシは口に入れればとろけるようで、イチゴも化けものみたいに大きくなった。また種類のちがう果樹をかけ合わせて、新種の果物もつくり出されている。

 ところが、魚類だけは旧態依然である。マグロもイワシも、一千年前のそれと、ちっとも変っていない。

 魚類の品種改良は、では全然行われていないかというと、そうでない。鑑賞用としては大いに行われている。金魚や熱帯魚などがそうである。日本人は手先が器用で、小さなものにこつこつ打ち込むのが得意だから、近頃の金魚などは、品評会の写真を見ると、大きな瘤(こぶ)が頭部に突出していたり、眼玉だけがぴょんと飛び出したり、尻尾だけがやけに大きくて泳ぐのにも不自由したりしているのもいる。

 つまり品種改良というのは、人間の側から見て改良であって、魚の立場からすると、不具になるわけだから、改悪である。

 果物だって、そうだ。果実は本来子孫をふやすために実るものだが、人間の手にかかって、その能力をうしない、人間から食べられるためにのみ実っている。品種改良とは、つまるところ、不具化である。いい例が種なし西瓜だ。これは人間がいなきゃ、何のために実ったのか、実った意味がない。

 同じやり方を、どうして海や川の魚に適用しないのか、と私は思う。

 よく似た同士を交配して、新種をつくり出す手はないものか。虎とライオンをかけ合わせて、子を産ませる。これをライガー、タイゴンと呼ぶ。ラバもその手で出来た。

 タコとイカを夫婦にして、新種がつくり出せないか。スダコにしてもおいしいし、乾せばスルメになる。便利ではないか。

 ウナギとドジョウ。これも面白い。どちらもぬるぬるして、長くて、よく似ている。ドナギとでも名付けて、蒲焼にしてもいけるし、柳川鍋にも好適だ。

 五年ほど前に書いて、識者(?)の失笑を買ったが、骨なし魚というのがつくり出せないものだろうか。種なし西瓜がつくれるのだから、骨なし魚も夢ではなかろう。世の魚ぎらいの中には、骨があるから厭だ、むしるのが面倒くさい、というのが相当にいる。骨なし魚の出現は、彼等をして魚好きに変化せしめるであろう。

 骨がなくて生きて行けるか、と反論されそうな気がするが、クラゲやタコ(には軟骨があったかな?)は骨がなくても、ちゃんと生きている。初めからいきなり骨なしというのは不可能だろうから、骨の細いのをかけ合わせ、いよいよ骨を細くして、ついに消滅させてしまう。

 金魚の珍種をつくることや盆栽の製作に長じた日本人だから、それが出来ない筈がない。

 日本近海を整備して、工場の廃液や下水が流れ出ないようにする。余った船はあちこちに沈めて、魚のアパートをつくってやる。ゴカイやブランクトンを養殖して、時期を定めて適当量撒布する。もちろん個人の力で出来ることではない。国家的規模において、これを行う。居心地が良ければ、李ラインの向うの魚たちも、続々とこちらに移住して来るだろう。

 一億人の蛋白源だからと言って、それを一網打尽に取ってはいけない。それでは元も子もない。計画的に、年間何万トンときめて、取るようにする。それがわれわれフィッシュイ一夕ーとして取るべき、唯一の道であるように思う。

 餌が豊富であるからして、彼等はふとる。あまりふとったのは、ぶよぶよして大味だという説もあるが、それは水ぶくれの魚のことではないか。固ぶとりなら、けっこううまい筈である。魚には一体どのくらいの水分が含まれているか。檜山義夫氏の書いたものによると、ふつうの魚で七十パーセントから八十パーセントは水分だそうである。貝類は九十パーセント。クラゲにいたっては九十九・九パーセントが水分だとのことだ。

 中華料理の前菜によくクラゲが出るが、あれはこりこりしてうまい。水分はあまり含んでないように見えるが、途中で脱水作業が行われたに違いない。

 魚が七十~八十パーセントが水分なら、まるで水分を食べて(飲んで?)いるようなものではないか。そう言って憤慨する向きもあるだろうが、そう憤慨している当人の体重の三分の二は、水である。魚に対して怒る資格はない。

 以上いろいろと素人談義を並べたが、人口がふえるにつれて、それに見合う蛋白源、牛豚鶏や魚などをふやさねばならぬ。それはたいへんなことだから、も少し効率のいいものをつくろうと、各国の学者たちが研究し、努力している。すでに緒につきかけているのもある。

 四年ほど前、クロレラ(食用藻)のことを小説に取り入れようと思って、目白の研究所に見学に行った。円形の池がいくつもあって、アームがそれを静かにかき廻している。青っぽいものが、浮いたり沈んだりしている。これがクロレラだ。ここは研究所だから小規模だが、吉祥寺か田無の方に大がかりのものが出来ているという話であった。

 所員からいろいろ説明を聞いた。

 「蛋白質や栄養分は理想的に含まれているが、難点はまずいことです」

 ということなので、

 「アイスクリームに入れると、おいしいという話を聞きましたが――」

 と私が言うと、

「それは、おいしいです。しかしそれは、アイスクリームがおいしいのであって、クロレラのせいでない」

 なるほど、と私は了承した。それが四年前のことだから、今は改良を重ねて、うまくなっているかも知れない。

 石油から牛肉をつくる、ということも考えられているらしい。石油の廃棄物から各種のアミノ酸が合成されている。アミノ酸は蛋白質のもとである。アミノ酸をうまく結合すれば、蛋白が合成される筈だ。それが成功すれば、人造牛肉ということになるらしい。

 石油の廃棄物は、餌もいらないし、病気する心配もない。大量生産すれば、ずっと安くつくだろう。栄養は保証するが、味の点はどうであろうか。うまく行っても、清酒と合成酒ぐらいの違いは出るだろう。

 その中に、どこかの大臣が、きっと失言する。

 「貧乏人はクロレラや合成肉を食え」

 私は失言する方に賭けてもいい。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第六十六回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年七月三十日号掲載分。これで底本である昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第七巻」掲載の「うんとか すんとか」は終わっている。全六十七回であるからこれは最終回八月六日号の前の回に当たる。

 この一篇、前回の養殖漁業からヒトによる交雑新種作成にまで話が及び、少し羽目を外している感があるが、梅崎春生は自給自足の絶対的不能となるであろう世界を予測して、相応に真面目に(但し、笑いをとることも十分に考えながら)筆を進めており、実際には一国の政治家が「貧乏人はクロレラや合成肉を食え」と失言するコーダを引き出す枕としていることが判る。

 無論、これは第三次吉田内閣当時の大蔵大臣(現在の財務大臣の前称)であった池田勇人(はやと 明治三二(一八九九)年~昭和四〇(一九六五)年の失言とされる「貧乏人は麦を食え」をパロったものであるが、彼は本記事が出た当時は内閣総理大臣(昭和三五(一九六〇)年七月十九日から昭和三九(一九六四)年十一月九日まで)に登り詰めていた。これは参議院予算委員会 昭和二五(一九五〇)年十二月七日に行われた参議院予算委員会で、社会党の木村禧八郎議員が高騰する生産者米価に対する蔵相の所見を質した際の答弁中に語った内容を、マスコミが『貧乏人は麦を食え』というフレーズに変えて報道したものであって、池田本人が言った正確な言辞ではない。ウィキの「池田勇人」から引く(下線はやぶちゃん)。

   《引用開始》

○木村禧八郎君 (略)米価を特に上げる、併し麦とか何とかは余り上げない。こういう食糧の価格体系について大蔵大臣には、何かほかに重要な理由があるのではなかろうか。この点をお伺いしたいと思います。

○国務大臣(池田勇人君) 日本の経済を国際的に見まして立派なものにしたいというのが私の念願であるのであります。別に他意はございません。米と麦との価格の問題につきましても、日本古来の習慣に合つたようなやり方をして行きたい。(略)麦は大体国際価格になつている。米を何としても値段を上げて、それが日本経済再建のマイナスにならないように、徐々に上げて行きたいというのが私の念願であります。ほかに他意はございません。私は衆議院の大蔵委員会に約束しておりますから、ちよつと……、又来ますから……。

○木村禧八郎君 それじや一言だけ……、只今日本の古来の考え方に従つてやるのだという、その点はどういう意味なんですか

○国務大臣(池田勇人君) 御承知の通りに戰争前は、米一〇〇に対しまして麦は六四%ぐらいの。パーセンテージであります。それが今は米一〇〇に対して小麦は九五、大麦は八五ということになつております。そうして日本の国民全体の、上から下と言つては何でございますが、大所得者も小所得者も同じような米麦の比率でやつております。これは完全な統制であります。私は所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります。

   《引用終了》

まあ孰れにせよ、乱暴に『貧乏人は麦を食え』と言っているのと大した変りはない。同ウィキには、この発言を聴いた当時の池田の秘書官(同郷(広島)で昔から関係が深かった)であった、後に内閣総理大臣となる宮澤喜一(大正八(千九百十九)年~平成一九(二〇〇七)年)は、後に「ちょっと総理大臣になるのは無理じゃなかろうかなと思った」と述べている、とある。

 この文章、しかし、既にヒト・クローンにまで着手しようとしている禁断の領域に踏み込んでいるヒト種を考えれば、雑文として笑い飛ばすことなど、到底、出来ぬ。

 

「虎とライオンをかけ合わせて、子を産ませる。これをライガー、タイゴンと呼ぶ」人工的環境で作られた実在する交雑種。父親がライオン(食肉目ネコ型亜目ネコ科ヒョウ(或いはネコ)亜科 Pantherini 族ヒョウ属ライオン Panthera leo)で母親がトラ(ヒョウ属トラ Panthera tigris)の場合を「ライガー」(Liger)と呼び、父親がトラで母親がライオンの場合を「タイゴン」(Tigon)又は「ティグロン」(Tiglon)と名づけている。ウィキの「タイゴンによれば、『親となるどちらの種にも見られる特徴が発生することが知られる。母となるライオン由来の斑紋』『を持つこともあれば、父となるトラ由来の縞柄を持つこともある。本交雑種の雄に見られる鬣(たてがみ)は、ライオンのそれよりも短くて目立たず、むしろトラの雄のひだ襟に近い。本交雑種は』十九世紀『終盤にはその存在が確認されており、主に動物園やサーカス等で交配された』ものであった。『本交雑種はライガーと同じく視神経や内臓(特に腎臓、心臓関係)に先天的疾患を抱える場合が多く、また先天的な疾患以外にも骨の発育不全および骨腫、股関節の形成不全等が多発することも報告されている。それ故に短命な個体が多い。このため生命の倫理に反するとして現在は研究目的以外に掛け合わせる行為は極力控えられており、また台湾では本交雑種(ライガー含む)の作成を禁じている。飼育されている個体は中国の動物園で見られることが多い』。『一般的に雌のタイゴンが繁殖力を持つのに対し、雄の個体は不妊であるとされている(繁殖に成功した例は以下)。タイゴンの雌とライオンの雄の繁殖例はライタイゴン(li-tigon)、タイゴンの雌とトラの雄の交配による種はタイタイゴン(ti-tigon)と呼ばれる』。『世界動物記で知られる動物学者のグッギィスベルク(Guggisberg)は自身の著書『Wild Cats Of The World1975)』の中で、「ライガーやタイゴンには繁殖能力が無いと考えられてきたが』、一九四三年に『ミュンヘンのヘラブルン動物園(Hellabrunn Zoo)でライオンと島のトラの間に生まれた』十五歳の『種間雑種をライオンと交配させることに成功。その雌は体が弱かったものの成体まで成長した」と記している』。(中略)『チベットのシャンバラ自然保護区で』一九七八年に『生まれた雌のタイゴンであるノエル(Noelle)と雄のアムールトラであるアントン(Anton)との間に』一九八三年に『ナサニエル(Nathaniel)と名付けられたタイタイゴンが誕生している。ナサニエルは』四分の三が『トラであったため、ノエルよりも濃い縞模様を持ち鳴き声もよりトラに近かったという。またライオンの血は』四分の一しか『入っていなかったため、鬣は生えてこなかった。しかしナサニエルは』八~九歳の時、『癌で死亡し、母親のノエルも同じ病気で間もなく死亡した。これは本交雑種の短命な一面を物語っている』とある。因みに、名前としてはより知られるレオポン(leopon)はヒョウ(ヒョウ属ヒョウ Panthera pardus)の父親とライオンの母親から生まれた雑種である。ウィキの「レオポン」によれば、『ヒョウとライオンは生息地域こそ重なっているものの少なくとも頻繁に交尾することはない。基本的に「種」の分類は生理的分離、繁殖隔離や生態隔離などを根拠として、定義づけられている。人工飼育下であれ、レオポンが誕生したことは、両種の間に純粋な繁殖に関する生殖的隔離がないことを意味している。もちろん、前記のとおり自然界ではレオポンの誕生は全くないか非常に少ないと推定される。従って動物園でレオポンを作るに当たってはヒョウとライオンを幼い時からいっしょに育て、交尾に際しては精神安定剤を与えるなどして辛うじて成功したものである』。『統計的に有意ではないが、レオポンは一代雑種であり生殖能力はなく、レオポン同士を交尾させて子孫を作ることはできないとされる』。『現在では生命倫理の観点から、レオポンを作る試みは行われていない。しかしながら、交雑の現象やその結果については生物学的に重要な事項であり、今後の研究の進展が必要である』とある。

「ラバ」ウィキの「ラバ」によれば、奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballus(騾馬(らば)/英語:Mule/ラテン語:Mulus)は、ロバ(奇蹄目ウマ科ウマ属ロバ亜属ロバ Equus asinus)の父親とウマ(ウマ属ウマ Equus caballus)の母親の交雑種で家畜として繁殖しており、家畜としては両親のどちらよりも優れた特徴を有しているとされ、「雑種強勢」の代表例とされる。北米・アジア(特に中国)・メキシコに多く、スペインやアルゼンチンでも飼育されている。逆の組み合わせ(ウマの父親とロバの母親から生まれる家畜を駃騠(けってい 英語:Hinny)と呼ぶが、ラバの方が飼育が容易で、体格も大きい。『大きさや体の色はさまざまである。耳はロバほど長くない。頸が短く、たてがみは粗い』。『体が丈夫で粗食に耐え、病気や害虫にも強く、足腰が強く脚力もあり、蹄が硬いため山道や悪路にも適す。睡眠も長く必要とせず、親の馬より学習能力が高く調教を行いやすい。とても経済的で頑健で利口な家畜である』。『唯一欠点として、「stubborn as a mule(ラバのように頑固)」という慣用句があるように、怪我させたり』、『荒く扱う等で機嫌が悪くなると、全く動かなくなる頑固で強情な性格がロバから遺伝している。それ以外は、大人しく臆病で基本従順である』。『鳴き声は馬ともロバとも異なるが、ややロバに似る』。なお、ラバもケッテイも孰れも『不妊である。不妊の理由として、ウマとロバの染色体数が異なるからだと考えられている』。ラバは、紀元前三千年から、二千百年と千五百年との『間頃には、エジプトで知られていたと考えられている。ファラオがシナイに鉱山労働者を送る際、ラクダではなくラバで送ったという岩の彫刻が残っている。エジプトのモニュメントには、ラバにチャリオットを引かせる絵が残っており、当時から輸送に関わっていた事が分かる』とある。

「タコとイカを夫婦にして、新種がつくり出せないか」梅崎先生、それは出来ません。タコは軟体動物門頭足綱鞘形亜綱八腕形上目 Octopodiformes で、イカは鞘形亜綱十腕形上目 Decapodiformes で、同科であっても上記のような例を除いて交雑は厳しい中、何となく似て居ても(私などにはタコとイカはよく観察すると構造が悉く異なる全く似ていない生物種と見えます)目の上のタクソンである上目レベルで異なる生物の交雑は絶対にあり得ないのです。

「ウナギとドジョウ」先生、同前です。ウナギは条鰭綱カライワシ上目ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属 Anguilla ですが、ドジョウは条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科ドジョウ属ドジョウ Misgurnus anguillicaudatus で、カライワシ上目 Elopomorpha と骨鰾上目 Ostariophysi でタクソンの分離がやはり上目ですから。

「固ぶとり」「かたぶとり」。肉身がしまった肥大。

「檜山義夫」(ひやまよしお 明治四二(一九〇九)年~昭和六三(一九八八)年)は水産学者で農学博士。東京生まれで東京帝国大学農学部卒。昭和二四(一九四九)年に東大農学部教授。昭和四四(一九六九)年に定年退官、名誉教授。魚類生態学・漁業学・水産資源学を専門とし、核実験による水産生物の放射能汚染の調査も行った。著作多く、引用元は不明であるが、参照したウィキの「檜山義夫」に載る何れかの著作であろう。

「ふつうの魚で七十パーセントから八十パーセントは水分」管見する他者の記載でも平均七十五%程度とする。

だそうである。貝類は九十パーセント。

「クラゲにいたっては九十九・九パーセント」種によるが、ちょっと高過ぎる。平均九十五~九十七%というところである。

「中華料理の前菜によくクラゲが出るが、あれはこりこりしてうまい。水分はあまり含んでないように見えるが、途中で脱水作業が行われたに違いない」総合輸入販売業で中華食材も扱っている株式会社「健興通商」公式サイト内の「くらげの豆知識」にある「加工」に詳しい。

「当人の体重の三分の二は、水である」ヒトの場合、胎児では体重の約九十%、新生児では約七十五%、子どもでは約七十%、成人では約六十から六十五%(脂肪の多少から男女差があり、脂肪の少ない男性で六十%であるのに対し、脂肪の多い女性で五十%程度である)、老人では五十から五十五パーセントを水分が占めている。

「四年ほど前、クロレラ(食用藻)のことを小説に取り入れようと思って、目白の研究所に見学に行った。」「四年前」本篇は昭和三六(一九六一)年七月の発表であるから、昭和三二(一九五七)年。「目白の研究所」は次に述べる「クロレラ」の解説に出る徳川研究所のこと。「クロレラ」は植物界(若しくはアーケプラスチダ Archaeplastida 界) 緑色植物亜界緑藻植物門トレボウキシア藻綱クロレラ目クロレラ科クロレラ属 Chlorella の淡水性単細胞緑藻類の総称。ウィキの「クロレラ」によれば、『クロレラという名前は、ギリシャ語のchloros(クロロス、緑の意)と、ラテン語のella(エラ、小さいものの意)から合成された名前で』、一八九〇年に『オランダの微生物学者、バイリンクによって発見命名された』。直径210μm(マイクロメートル:一ミリの千分の一)で『ほぼ球形をしており、細胞中にクロロフィルを持つため緑色に見える。光合成能力が高く、空気中の二酸化炭素、水、太陽光とごく少量の無機質があれば大量に増殖する』。本邦では昭和四(一九二九)年に『東北帝国大学(現・東北大学)教授の柴田萬年がクロレラの純粋分離に成功』、敗戦後の昭和二四(一九四九)年にはGHQなどから『東京大学教授の田宮博にクロレラの大量培養の要請があり、翌』『年、徳川生物学研究所』(目白にあった尾張徳川家第十九代当主で侯爵で植物学者でもあった徳川義親(明治一九(一八八六)年~昭和五一(一九七六)年)の私邸内に彼が設立した民間の生物研究所。昭和四五(一九七〇)年三月に閉鎖された)に於いて『屋外大量培養を行い、成功している』。乾燥物としての『主な成分は』、蛋白質四十五%、脂質二十%、糖質二十%、灰分十%で、『その他にビタミン類やミネラル類を含む』。『たんぱく質含量が高いため、未来の食料資源のひとつとして培養や研究が行われた時期もあった。大量培養ができるようになった』一九六〇『年代以降は、健康食品として販売されているが、「免疫能を向上させる」などの効能については、人間に対する有効性を示す信頼できる臨床データはまだ不十分である。基礎研究で抗ウイルス、抗ガン、免疫賦活、糖尿病予防の各作用が認められるが、ヒトの体内では不明』。但し、『高血圧と高コレステロール血症、肝機能改善のデータ』はある。一方、過去には『アレルギー症状を起こしたという報告もあ』り、また、『クロレラに多く含まれるクロロフィルは、分解の過程で光過敏症の原因となるフェオフォルバイトを副生するため、日本ではフェオフォルバイト含有量の上限が定められている』。さらに、ビタミンKが多く含まれていることから、『大量に摂ると抗血液凝固剤ワルファリンの効果を減じる恐れがある、細胞壁が強固なために消化吸収率が悪い』『などの指摘もある』とある。

「石油から牛肉をつくる」所謂、「石油蛋白」で、石油が安価であった一九七〇年以前には確かにあったが、昭和四八(一九七三)年の第一次石油ショック以降、石油が高騰して問題にもされなくなったものと思われる。牛肉のように成型して同様の味と歯応えを出すには恐ろしくコストがかかるであろうし、梅崎春生の言うようには現行、そのようなものが流通しているという話は全く、ない(大豆蛋白なら非常に普及はしている)。]

2016/07/27

芥川龍之介 手帳4―3~7

《4-3》

A――B

 A, completely defeated and cowed

 B, too desolated

[やぶちゃん注:「completely defeated and cowed」完膚なきまでに敗北し、そして恐れをなして。「too desolated」同様に心細くて侘びしい。]

 

a King’s Tragedy

○驅逐艦おぼろ 薄暮 大港 地引網がスクリウへかかる 鎌ヲ棒につけてかく とれず 船長(大尉)士官室で襯衣一枚になる 「これで大丈夫だ」機關長(中尉)「五分しか持ちません」爭ふをハツチより水兵ら見る 或一等兵曹來る(外にて)忽水中に入る ヂヤツクナイフにて惡靈の如く切る 十分間硬直 ボイラアルウム(入港後間もなければ暖なり)へ入れふとんにてこする 正氣を得

[やぶちゃん注:該当する作品はない。芥川龍之介の軍艦を舞台とする作品は孰れも反軍的で皮肉なものばかりだが、このストレートな汗臭いミリタリー・ストーリー(以下のメモを見ると、この場面に限ってかも知れない)、ちょっと読んでみたかった気もする。

「驅逐艦おぼろ」龍之介の仮想軍艦。しかし実は日本帝国海軍には一等駆逐艦「朧(おぼろ)」が実在する。但し佐世保海軍工廠で建造されたそれは昭和四(一九二九)年起工で、翌年進水、即ち、芥川龍之介自死以降のことである。因みに、実在した「朧」は日中戦争・太平洋戦争で活躍したが、昭和一七(一九四二)年十月、弾薬輸送の目的で横須賀を出航、キスカ方面へ航海中の同月十七日、キスカ島の北西三十海里の地点でアメリカ陸軍航空軍の爆撃を受け、被弾により操舵故障となり、輸送中の弾薬に誘爆して沈没している(ここはウィキの「朧(吹雪型駆逐艦)」に拠った)。この艦は「大正十六年度」(結局、昭和二(一九二七)年となる)から「大正二十年度」(同前。昭和六(一九三一)年)度までの「五か年計画」によって二十七隻建造された内の、駆逐艦十五隻の中の一隻であるものの、その将来の艦名を芥川が知り得た可能性は低く、全くの偶然であろう。]

 

○その官位 時刻


     
past

○艦ノ命<

     
 Future

 

《4-4》

機關ノ下士 旅順港外よりかへる三笠艦上 副長點檢前便所へ行く男と共に行く 甲板士官にとらへらる 「後甲板に立て」「善行賞を奪ふもよし 進級が一年おくるるもよし」立つ 「部下に命令し殘したることあり」 去りて遺書を書く かへる 十二听砲側 月明 戰鬪中故スタンシヨンなし 突然入水す 大混亂 三笠信號す 朝日敷島皆とまる 探照燈交照見えず

[やぶちゃん注:明らかに、自死直前に発表している「三つの窓」(昭和二(一九二七)年七月一日『改造』)の「2 三人」の具体的構想で、前半部は酷似する(リンク先は私の古い電子テクスト)。同作の部隊となる戦艦は冒頭、『一等戰鬪艦××』と、恐らくは龍之介自身によって伏せられてあり、排水量も『二萬噸』(「三笠」は一万五千百四十トン)とするものの、『五隻の軍艦を從へながら』、『勝利の後だけに活き活きとして』『鎭海灣へ向つて行つ』ているという描写(鎮海湾は現在の大韓民国の慶尚南道南部海岸にある天然の良港で、明治三三(一九〇〇)年に日本が買収、日本海海戦に際しての連合艦隊集結地となり、その後も軍港として使用された)は明らかにこの『一等戰鬪艦××』は「三笠」をモデルとしていると一応は考えてよかろう。なお、私は、同作の「三 一等戰鬪艦××」の『一等戰鬪艦××』は芥川龍之介自身の、また、その傍に停泊していて『火藥庫に火のはいつた爲に俄かに恐しい爆聲(ばくせい)を擧げ、半ば海中に橫になつてしま』(この事故箇所はやはり「三笠」の借用である)う『一萬二千噸の△△』は、龍之介自死の前に精神異常を起こして発狂状態になり、龍之介らが精神病院に入院させた畏友宇野浩二のカリカチャアであると、一部諸評者が指摘される以前から感じてもいたことは、ここで申し述べておきたい。

「三笠」言うまでもなく、日露戦争で連合艦隊旗艦を務めた大日本帝国海軍の前弩級戦艦(ぜんどきゅうせんかん:戦艦の初期形態を指し、一八九〇年代中頃から建造が始まり、弩級戦艦が登場した一九〇六年までの期間に建造された戦艦群を指す)「三笠」で、イギリスに発注され、建造された敷島型戦艦(後の「敷島」の注を参照)の四番艦。明治三三(一九〇〇)年十一月進水、明治三五(一九〇二)年三月にイギリスのプリマスを出港、スエズ運河経由で五月に横須賀に到着している。当時は世界最大級の戦艦であった。同艦は日露戦争終結直後の明治三八(一九〇五)年九月に佐世保港内で後部弾薬庫の爆発事故のために沈没したが、明治三九(一九〇六)年に浮揚され、佐世保工廠で修理を施し、明治四一(一九〇八)年四月に再び、第一艦隊旗艦として現役に戻っている。第一次世界大戦では日本海などで警備活動に従事し、その後はシベリア出兵支援に参加した。大正一〇(一九二一)年九月には一等海防艦(旧定義で軍艦籍のままで近海・沿岸の防備に従事する艦)となり、大正一一(一九二二)年二月のワシントン軍縮条約によって廃艦が決定、翌大正十二年九月一日には関東大震災により岸壁に衝突。応急修理のままであった旧破損部位から大浸水を起こし、そのまま着底、同年九月二十日に帝国海軍から除籍された。大正一四(一九二五)年一月、記念艦として横須賀に保存することが閣議決定され、海底固定が行われた。第二次世界大戦中もそのまま保存艦として置かれたが、敗戦後の物資不足により、金属部や甲板チーク材などが悉く盗まれて見るも無残に荒廃した。その後、復元運動が起こり、昭和三四(一九五九)年に復元が開始されて二年後に完了、現在に至っている。因みに三笠は、世界で現存する唯一の前弩級戦艦である(以上はウィキの「三笠(戦艦)」に拠った)。なお、前に「旅順港外よりかへる」とあるが、「三笠」は明治三六(一九〇三)年十二月二十八日に連合艦隊旗艦となり、翌明治三十七年二月六日から日露戦争に加わって、二月九日からの旅順口攻撃や旅順口閉塞作戦に参加し、八月十日に黄海海戦に参加している。日本海海戦でロシア海軍バルチック艦隊と交戦したのは、明治三八(一九〇五)年五月二十七日~二十八日のことである。従ってこのメモの構想内時制は旅順陥落後(明治三八(一九〇五)年一月一日)の可能性が高い。

「十二听」「听」は「ポンド」(重量単位:一ポンドは五・四四キログラムで、この場合は初期の砲丸重量を指すが、古くからの通称でしかない)と読む。「三笠」は左右舷側を中心に八センチ(三インチ/十二ポンド)砲単装二十基二十門(現在の復元は十門のみ)を装備していた。

「朝日」敷島型戦艦(次注参照)の二番艦。ウィキの「朝日(戦艦)」によれば、日露戦争では第一艦隊第一戦隊として旅順口攻撃・旅順港閉塞作戦・黄海海戦・日本海海戦に参加、第一次世界大戦では第三艦隊第五戦隊旗艦としてウラジオストック方面の警備に従事、大正一〇(一九二一)年に海防艦へ類別変更され、さらにワシントン軍縮条約により、練習艦として保有が許され、兵装・装甲を撤去し、練習特務艦となった(大正一四(一九二五)年には潜水艦救難設備を設置している(『これは舷側にブラケットを設置し、これを支点として片舷に沈没潜水艦を位置させ、反対舷に廃潜水艦を置いてワイヤで結び、つるべ式に比較的少ない力で沈没潜水艦を浮上させようという原理』で「朝日」は『呉にあって潜水艦事故に備えていたが後に工作艦に改造される時にこの設備は撤去、使用する機会は起こらなかった』。また、昭和三(一九二八)年には艦上カタパルトの初試作であった「呉式一号射出機」を仮装備して日本海軍初の射出実験を行ってもいる)。昭和一二(一九三七)年、『日華事変の勃発により』、『中国での損傷艦が増加、また無条約時代に入っていたので呉海軍工廠で特急工事により工作艦に改造され』、八月に『類別を工作艦に変更』、『中国へ進出、主に上海方面で修理任務に従事した。やがて朝日工作部は陸上に移り第一海軍工作部と改称したため朝日は日本へ戻り』、昭和一五(一九四〇)年十一月、『連合艦隊付属となった』。太平洋戦争が開戦すると、「朝日」は第二艦隊配属となってカムラン湾に進出、昭和一七(一九四二)年二月に『シンガポールが陥落すると翌月には同地に進出、工作艦明石と共に損傷修理に活躍した』。同年五月、『自身の修理と北方方面への移動の為にシンガポールを出発し日本へ向かった。しかし、朝日は旧式低速』『の大型艦であったため』、『敵潜水艦の格好の目標となってしまい』、同月二十五日深夜、『カムラン湾南東でアメリカの潜水艦サーモンから雷撃され』、左舷に二発の魚雷が命中、翌二十六日午前一時過ぎ、『転覆して沈没した』。

「敷島」大日本帝国海軍の前弩級戦艦でイギリスで建造された敷島型戦艦(明治三三(一九〇〇)年から明治三五(一九〇二)年にかけて竣工したもので、同型艦は「敷島」・「朝日」・「初瀬」・「三笠」の四隻)の第一艦。日露戦争では主力艦として旅順口攻撃・旅順港閉塞作戦・黄海海戦・日本海海戦と主な作戦に参加した。その後、海防艦に類別変更され、第一次世界大戦後のワシントン軍縮会議により兵装・装甲の全てを撤去し、練習特務艦となり。佐世保港に繋留使用されていた。終戦時は推進器が撤去され、佐世保海兵団所属の練習艦として相ノ浦に無傷で繋留されていたが、昭和二二(一九四七)年に佐世保で解体された(以上はウィキの「敷島戦艦に拠る)。]

 

○その職務

 その官位

 後續艦數

 

《4-5》

Los Caprichos 1齒 2鏡の中に過去の光景を見る 3人面瘡 45678910

[やぶちゃん注:「Los Caprichos《225》にも出たが、これも決定稿「LOS CAPRICHOS(ロス・カプリショス)」(大正一一(一九二二)年一月)のそれとは一致しない。ただ現行のそれが七つの挿話構成であるものが、当初は十章を考えていたものと思われる。]

 

   沙金―太郎―次郎

○<          >

   老爺―老婆―阿濃

[やぶちゃん注:「偸盗」(大正六(一九一七)年『中央公論』)の構想メモ。]

 

《4-6》

Tolstoi の小説中の人物の如くしか行動出來ぬ男が Tolstoi 書を與へて牛耳るもの

[やぶちゃん注:或いはこれは《3―16》に電子化した、近松門左衛門への手紙と言う体裁で、自分はまさに近松の心中物によって人生を支配されて来てしまったと批判展開する未定稿「河内屋太兵衞の手紙」の設定を近松からトルストイに移す構想ではあるまいか?]

 

criminal crime を白狀する その crime 小なりとて輕蔑され憤慨しだんだん大袈裟な法螺をふくに至る

[やぶちゃん注:「鼠小僧次郎吉」(大正九(一九二〇)年一月『中央公論』)の構想メモか。]

 

○運命のよすぎるのに壓迫される人 運命を求めて得ざる人 戰國時代

[やぶちゃん注:固有名詞の一つでも書いて呉れていたら、同定出来そうな気はするのだが。]

 

○⑴旅行せず旅行案内を書く人 ⑵作家の Egoism 魂を一卷の本ととりかふ。Allegorical story 哲人女の evil を説く 女に落つ 即ち女を眞に強しと知る

[やぶちゃん注:「旅行せず旅行案内を書く人」偽書ばりのそれには興味が大いにある。「Allegorical story」寓話。]

 

Shoes―polish human skin a scene at a station

[やぶちゃん注:ハイフンでなく長いダッシュであるのが気になるが、「靴磨き」「人間の皮」「駅の場面」というのは日常に潜む怪異を感じさせて惹かれる。]

 

○光る soup 毒殺を計り燐を皿中に入る 停電 皿光る 夫知る

 

《4-7》

○生月(near Hirato

 Recording of old K 慶應――明治元年 shidochi 浦上の church(踏繪の懺悔の爲多くの人々子を大工左官として立つ)悔みの會 大浦(文久) 踏繪(病人には足につく 赤子もやる)

[やぶちゃん注:「生月(near Hirato)」とは現在の長崎県平戸市内に属する平戸島の北西にある有人島である生月島(いきつきしま)のことであろう。ウィキの「生月島」によれば、『戦国時代に、生月島南部の領主で平戸松浦氏の重臣だった籠手田安経がキリスト教(カトリック)の洗礼を受けてキリシタンになり、その後イエズス会宣教師のガスパル・ヴィレラやルイス・デ・アルメイダらが生月島で布教をおこなって』約二千五百人の島民のうち、八百人ほどが『キリシタンとなった』。十六世紀末には、『ほぼ全島民がキリシタンとなったが、その後の禁教令によ』って『島を離れたり』、『殉教したり、また多くの島民が隠れキリシタンとして密かに先祖から受け継いだ信仰を維持する道を選んだ。現在は、島内に』二ヶ所の『カトリック教会があるが、いまも潜伏時代の隠れキリシタンの信仰形態をそのまま受け継いでいる人も多くいる』とある。なお、島の名は『遣隋使・遣唐使の時代』、『中国から日本へ帰国する旅人が、船上からこの島を見つけると、無事に帰ってこられたと安心してホッと息をついたことから、といわれている』とある。

shidochi」はイタリア人カトリック司祭で江戸中期の日本へ潜入して捕らえられ、茗荷谷(現在の文京区小日向)にあった切支丹屋敷に幽閉されてそこで亡くなったジョヴァンニ・バティスタ・シドッティ(Giovanni Battista Sidotti 一六六八年~正徳四(一七一四)年)のことであろう。

「踏繪の懺悔の爲多くの人々子を大工左官として立つ」マリアの夫にしてイエスの養父ナザレのヨセフが大工であったこと、迫害によって教会が打ち壊されても、必ず子孫がそれを手ずから再建させられるように、という謂いであろう。]

 

 

○西中町の教會 stained glass 黃 綠 紫 赤 木の柱 アーチ 疊 男一人 外 柑橘類 泰山木 梧桐 屋根靑し 時計 シツクヒ落ちて煉瓦出づ

[やぶちゃん注:「西中町の教會」明治二九(一八九六)年創立の長崎市西中町天主堂(現在のカトリック中町教会)のことであろう。大浦天主堂・浦上天主堂と併せて長崎三大教会の一つとして知られた。

「文久」元号ならば一八六一年から一八六四年であるが、どうもこの構想メモ、時制がバラバラで全体像が全く霧の中である。]

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   屍、不淨に哭く

    屍哭不淨(しかばねふじやうをなく)


Sikabnehujyouwonaku

羽州の最上川に始て至る、水鳥よめる名所也。越えて行くかた五町計の小家(こいへ)によりて煎茶(せんじや)乞ひ、晝飯(ひるいひ)のしたゝめする。家の主は四十(よそぢ)計りの男、此の者の母と覺しき、七十餘りの老尼、口とく、とはず語りして、旅僧はいづこよりいづくへ通り給ふと、諸國を修行(すぎやう)して、廣く國々をめぐり侍る。扨は珍しき事も怖しき目にも多く逢ひ給はん。されば、家なき時は草に臥し、木の根を枕にあかすといへど、かはりたる事もなしといへば、老尼、聞きて、さほど山野にさへ怖しき事のなきに、いかなれば普光寺(ふくわうじ)のばけ物は、里といひ、しかも、たとき御寺に住む事、ふしぎさよ、と子に向ひ語る。夫れはいかなる事ぞ、普光寺とはいづくぞ、と、とへば、あるじ答へて、此三町東に、海道より一町右へ引きこみたる寺の侍り。慈覺大師の開基にて、戒定惠(かいぢやうゑ)の法燈(ほふとう)をかゝげ、念佛三昧の鳧鐘(ふしよう)、古來、久敷(ひさし)く斷絶なく、都鄙(とひ)勸學の僧侶、群(ぐん)をなし集まる。始めの御堂(みだう)の建所、方量(はうりやう)あしきに依つて、所をかへ、再興する。此の造立(ざうりふ)の後、御堂と門との中間に、夜々(よなよな)、妖し怖しき聲ありて、唸く事、止む事なし。兒(ちご)、喝食(かつしき)のごときは、氣を取りうしなひ、おとなしき僧、法師なども、一度(たび)聞きて、二度、よりつかず。他國の者は逃げ下り、老僧、死すれば、後住(ごぢう)なく、自ら人住まぬあれ野となつて、僧法(そうはふ)ともに退轉いたし侍る、と語る。こは怪しき事をも聞きける物かな。今宵(こよひ)、其の門に居て、事のやうを見申さんといへば、母子(ぼし)打笑ひ、不敵の僧のいひ事や、いはれぬ肘立(ひじだて)、御無用さふと、むくつけなく、いひ出でたる。尤も左には侍れど、其ものに命を奪はれば、それ迄の報(はう)、命(めい)生(い)きて歸らば、都づと、物語りのたねにせんと、すぐに、かの寺に行きてみるに、いひし如く、樞(とぼそ)おち、甍(いらか)破れて、霧の煙(けぶ)り、月の燈(ともしび)、夜ならずとも人獨(ひとひと)りなんど、寺内(じない)に休(やす)ふべくもなし。後(うしろ)に近き山、虎狼(こらう)のふしどゝなり、妻(つま)乞ふ鹿の聲、哀れに、庭の松桂、高く。梟すごく音そへ、蝙蝠(へんふく)、枝にあらそひ、築山、さらに土(つち)穿(うが)ちて、淸(きよ)めぬ泉、藻に埋(うづ)む。昔しの名殘(なごり)みゆるに、今の哀れのいとゞしき、とかく時刻を待付けて、日も漸々(やうやう)暮れぬ。あれたる緣(えん)に平座して心をすます。案の如く、惣門(そうもん)のこなたに、哀れなる聲して、叫(いめ)き出づる。其の音(おと)、えもいはれず、骨髓に透(とほ)つて、物悲し。形ちや有る、と見まはすに、更に正體(しやうたい)もなし、たちて聲を求め行くに、大きなる※子(いてう)の木のもとなり[やぶちゃん字注:「※」=(へん)「木」+(つくり)「銀」。]。爰にも猶、物の形ちはなくて、此の地中に叫(うめ)く聲、有り。心をすまし、耳を地につけて聞くに、叫(うめ)く計りにはあらで、言語(ごんご)おぼろに、爰を掘出して塚をかへよ。何ぞ淸淨(しやうじやう)の行者(ぎやうじや)をかく迄、穢(けが)すぞ、といふ也けり。扨、いかなる人の、かく地中に在りて、いふぞ、と問ふ。答へ、我れは羽黑の行人(ぎやうにん)、一生不犯(ふぼん)の山伏なり。此の道を過ぐるとて、卒病(そつびやう/ニハカヤマヒ)の爲に、むなしく成りしを、當寺の衆僧(しゆうそう)、哀れをかけて、淸き所に土葬し、一基(き)の主(あるじ)となし、卵塔(らんたふ)いみじく、玉垣(たまがき)あざやかに、朝暮(てうぼ)誦經(ずきやう)の手向(たむけ)を請けて、無緣の厚恩をよろこぶ。爰に、此の堂、十餘年已前、再興によつて、昔しの地を轉ずる時、此の塔婆、諸用の障りとなるによつて、取除(とりの)けらる。其の後、功なり、造營すむといへども、元來ゆゑなきものゝ墳墓の跡、たれいひ出でゝとりたつる人なく、自(おのづ)から出入の道となつて、便痢(べんり)の不淨を流す。此の愁ひ、屍(かばね)にとほつて苦し。扨こそ聲をたてゝ叫(うめ)くなれ。なほ此の聲の後、化生と號(なづ)け、僧俗ともに不ㇾ住、讀經(どくきやう)の聲さへ絶え侍る。願はくば、爰を穿(うが)ち、淸淨(しやうじやう)の地に易(か)へてたべ、と、いと哀れにかたる。祇、問ふ。命あつて、身、全(まつた)き程社(こそ)、清不淨(しやうふじやう)もあらめ。何ぞ一つの息絶(いきた)え、ふたつの眼(まなこ)とぢて、魂魄、東西にちらば、何か、其の恨み殘らん。夫(そ)れは穢體(ゑたい)に執(しふ)をとゞむるといふ物なるべしと、地中に答ふ。理(ことわ)りなれ共、去る仔細の侍る。我れ、一生の内、深く誓ふ事有り、命、一度終ふる共、今の骨肉は其の儘にして、二度(たび)、大名高家(だいみやうかうけ)に生(しやう)ぜんと、丹誠(たんせい)に祈し執(しふ)、身をはなれず、たゞちに生きて有るがごとしと思へば、又、正しく死せり。たとへば、枕上(ちんじやう)に夢見るがごとし。手足、不動(うごかず)して、一心、物に苦み、身を痛(や)むと、又、問ふ。然らば不淨に不汚(けがされざ)る先に、今生に生れざるやと、答へ。一生修(しゆ)する所の戒行、不足あり。是をつくなふに、五十年、地中に勤行(ごんぎやう)する事、有り。四十年にみたざる内、此の不淨に汚さるゝ故に、愁ㇾ之(これをうれ)ふると、又、問ふ。大名高家に生(むま)れんと誓ひて、其の後の生所(しやうじよ)をしれるやと、能くしれる事なれども、あからさまに語るよしなし、只、早く人に傳へ、爰をほりうつし給へ、といひて、此ののちは問へども、いらへずなりぬ。とかくの問答に夜もいたうふけぬ。經よみなどして夜の明くるをまつ。野寺の曉(あかつき)の鐘なりて、鳶(とび)、烏(からす)のしのゝめを告ぐる頃、門外に人音(ひとおと)多く聞(きこ)ゆるを見れば、晝(ひる)かたりし宿のあるじ、里人、大ぜいかり集めて、我が死生(ししやう)を見に來(きた)る也。我が別事なきを見て、各、肝をけし。さていかなる事か侍る、と問ふ。しかじかの問答(もんだふ)しぬ。かしこをほりてみ給へといふに、こはあやし、扨は、さる事か、と、農具を以て土をうがつに、五十計りの山伏、面色損ずる事なく、ねぶれるごとく、頭巾(ときん)、鈴かけさながらに、念珠(ねんじゆ)、くびにかけたり。聞くに久しく土中に在りて、堅固に身體(しんたい)の其の儘なるぞ、ふしぎなる、とある山岨なる地を掘り、卒都婆(そとば)、新(あらた)にたて置きぬ。此の後(ご)、更にあやしき聲たえて、又もとのごとく、僧徒、入院(じゆゐん)し、佛法の地となりぬ。

 

 

■やぶちゃん注

 最後の出土した遺体の描写の、

「頭巾(ときん)、鈴かけさながらに、念珠(ねんじゆ)、くびにかけたり」

とある箇所は、底本では実は、

「頭巾(ときん)冷(すゞ)けさながらに念珠(ねんじゆ)くびにかけたり」

となっているのであるが、どうも何かおかしい。「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)を確認してみると、ここは、

「頭巾(ときん)鈴(すゞ)かけさながらに念珠(ねんず)くびにかけたり」

となっており、この「鈴(すゞ)かけ」というのは修験者が衣服の上に着る麻の衣を指す「篠懸衣(すずかけごろも)」のことに違いなく、底本のこの箇所は私が感じた通り、おかしいことが判明した。されば例外的に「西村本小説全集 上巻」を参考に、かく本文を校訂した。

 なお、底本では最後に三行空けて「宗祇諸國物語卷之一」とある。

 さてもこの話、宗祇が廃寺の由来を聴き、そこを訪れ、その荒れようを描写する辺りまでの前半部分は、後の上田秋成の「雨月物語」の「靑頭巾」の構成と描写かなり有意に似ている(リンク先は私の訳注電子テクスト)。更に後半の執着によって生けるがままに行者が出土するというシーンは、やはり秋成の「春雨物語」の「二世(にせ)の緣(えにし)」(但し、同作の「入定(にゅじょう)の定助(じょうすけ)」は本当に生きていて後日談が続くというトンデモ・ストーリーである)にも似ている(リンク先はやはり私のもの)。秋成は明らかに、これらの種元として、この話を使用していると考えるのが自然である。なお、この即身成仏絡みの怪異譚は私のすこぶる偏愛するもので、秋成に先行し、秋成がやはり素材としたに違いない(しかし、総てこの「宗祇諸國物語」よりも後)、

元禄一七(一七〇四)年版行の章花堂(正体不明)の「金玉ねぢぶくさ」の州雨鐘の事」

三坂春編(はるのぶ)の寛保二(一七四二)年の序を持つ「老媼茶話」の「入定の執念」

明和四(一七六七)に京都で刊行された高古堂小幡宗左衛門作「新説百物語」の「定より出てふたゝび世に交はりし事」

も、ずっと昔に原文電子化とオリジナル訳を行っている。未読の方は是非、お楽しみあれ。

 

・「普光寺」「慈覺大師の開基」秋田県内に同名の寺が嘗て存在したことは確認出来たが、果たしてそれがこの条件(他にもその寺の位置は最上川を越えたところ(北)と読める)を満たすかどうかはなはだ怪しい。天台座主慈覚大師円仁の開基と伝承する寺は全国に散在する。因みに彼は天台宗である。

・「戒定惠(かいぢやうゑ)の法燈(ほふとう)をかゝげ」「戒定惠」は仏道修行に必要な三つの大切なもの「三学」、悪を止める「戒」・心の平静を得る「定(じょう)」・真実を悟る「慧(え)」である。「法燈を」掲げるというのは、仏法の光明を灯火に譬え、それがこの世の闇を隈なく照らし出す、ということを象徴的に言う語である。

・「念佛三昧の鳧鐘(ふしよう)」「鳧鐘」(現代仮名遣「ふしょう」)とは具体には梵鐘や念仏に用いる小さな鉦(かね)を指すが、ここは前の「戒定惠の法燈(ほふとう)をか」かげると対になった表現で、僧がそこで仏を一心に念ずる道場であることの象徴である。

・「方量(はうりやう)」調べてみると、この語には行政上の「検地」の意味がある。ここはまさにそれである。だからこそ相応の寺院でありながら、止むを得ず、「所をかへ、再興」せねばならなくなったのである。

・「兒(ちご)、喝食(かつしき)」「兒」は「稚児(ちご)」で寺院などに召し使われた少年、「喝食」(現代仮名遣「かっしき」。「かつじき」とも呼んだ)は本来は禅寺で食事をする際、食事の種別や進め方を僧たちに告げながら給仕する役に当たる未得度の物を指すが、宗派に限らず、広く学問のために寺に預けられ、その任を務めた有髪(うはつ)の稚児(ちご)を指す。そもそもここは「勸學」の道場であるから、異なった宗派の僧が居て構わないから、禅宗僧がいてもよいのである。ここは私は、「喝食」をより上位の少年の僧見習いとし、「兒」(稚児)をそれよりも若年の下役の童子の意味で分けてとる。

・「おとなしき僧、法師」「僧法ともに」と筆者は明らかに「僧」と「法師」を区別している。順列から見て「僧」の方が「法師」よりも上位のように見受けられるが、そのような区別は本来はない。敢えて言うなら、「法師」には法体をしているが、出家得度をしていない俗人を呼ぶことはあるから、この区別や順列はおかしくはないとは言える。

・「いはれぬ肘立(ひじだて)」無茶な(或いは、余計な)気負い(或いは気勢を張ること)。

・「さふ」補助動詞「候(さふらふ)」の略。「御無用(に)候ふ」。

・「むくつけなく」「むくつけし」に同じ(「なし」は「無し」ではなく、そのような状態であることを示す接尾語である)いかにも恐ろしそうに。さもとんでもないこと、という感じで。

・「報(はう)」それはそれで私の因果の応報として決められたこと。

・「樞(とぼそ)」ここは扉の意。

・「松桂」「しやうけい」。

・「蝙蝠(へんふく)」こうもり。

・「築山」「つきやま」。

・「※子(いてう)」銀杏(いちょう)。

・「羽黑の行人(ぎやうにん)」修験道のメッカとして知られる出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)の一つ。現在の山形県鶴岡市にある標高四百十四メートルの羽黒山の修験者。

・「便痢(べんり)」厠が近かったか、低い位置にあるために下肥などが流れ下ったのであ・「化生」「けしやう(けしょう)」で、ここは「化け物」の意。

・「易(か)へてたべ」どうか、改葬して下さい。

・「社(こそ)」国訓で係助詞「こそ」。

・「つくなふ」ママ。「つぐなふ」(償ふ)で、不足を補うの意。

・「大名高家に生(むま)れんと誓ひて、其の後の生所(しやうじよ)をしれるやと、能くしれる事なれども、あからさまに語るよしなし」これは非常に興味深い発言である。この行者は既にして、修行なって輪廻して人間道に再び生まれ変わる際、確かに「大名高家」所謂、大大名或いは非常に高貴な家柄の子として転生することが決定しており、それを彼自身も確かに知っている、それどころか、具体的に何処の誰の子となるかも知っているというのである! さればこそ、この穢れた場所で供養されずにいては、その補填のための修行も満足に出来ず、何時まで経っても転生出来ないというのである! それはお前さん、おぞましき執念で御座ろうぞよ!!!

・「頭巾(ときん)」「兜巾」「頭襟」とも書き、修験道の山伏が額に被る小さな布製のずきん。黒い色が無明(むみょう)を、円形が神仏の徳の完全性を、ついている十二の襞が十二因縁を表すという。一般には黒漆で塗り固めた布で作った、宝珠形の丸く小さい形式のもので、これは大日如来の五智の宝冠を表しているという。

・「鈴かけ」注の冒頭を参照のこと。

・「山岨」「やましは(やまそわ)」山の険しい崖。ここなら山の清水が伏流し、人の糞尿の愁いは、これ、あるまいよ。
 
 画像は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング、補正したもの。

行脚怪談袋   去來伊勢參と同道の事 付 白蛇龍と成る事

 

  去來伊勢參と同道の事

   
 白蛇龍と成る事

 

此の去來もその頃世に聞えたる俳師(はいし)也。生れは洛中五條の人、住所は洛外の九條なり、去來一とせ用事有りて、紀州和歌山の城下へ至り、諸用を達し、其の後歸洛に就き、同國新宮の野邊を通りし時、傍の木陰に年の頃廿四五にして、瘦枯れたる男色靑ざめたるがよろめき出で、去來を招く、去來何用にやと立寄りければ、彼の男告げて申しけるは、某儀は當國堺島邊の者に候が、誠や日本に生れ、神の惠みを請けながら、此のまゝ邊鄙に一生ををへんも殘念の事かな、何卒近國にてもあれば、伊勢太神宮へ參詣仕度く、頻りに思ひ出で候まゝ、四五日以前古鄕を隱れ出でたれぞも、連(つれ)とても無之(これなく)候へば、唯一人此の所へ參り候處、前世にて惡行や强かりけん、神も我等の參詣を悅び給はずやらん、五體甚だしびれ、一足も步行(あゆみ)ならず、依つて詮方なく此の木の陰に打ちふし、罷在り候て、何卒旅人にても通り給へかし、此の事を告げて如何樣にも賴み申すべしと、昨日晝頃よりけふ迄相待つといへども、折りふし一人も人通りなし、此の故に食事とてもならず、只今迄苦しみ居る所、貴所樣(きしよさま)の御通り有る事、誠に我等が爲めに幸ひ也。右の次第に候得ば、近頃の御賴みには候得共、何卒馬なりとも、駕(かご)なりとも御雇ひ下され、伊勢古津(ふるつ)の岸まで御送り給はれかし、たとひ身は叶はずとも、何卒伊勢へ參詣仕りたし、何にても人一人御すくひ被下候儀、偏へに賴み入ると願ひける。去來は是を聞き、最も慈悲深き者なりければ、氣の毒なる事に思ひ、則ち答へて申す樣、如何樣人家なき所にての急病、我等ごとき旅人(りよじん)にても賴み給はずんば、誰れも世話をなす者有らざるべし。殊更左樣の病氣ながら、是非伊勢ヘ參られんとの志し。げにも殊勝に存する也。心安かるべし、我れ等駕をやとひ來り、勢州吉津迄送るべしと、わざわざ二三里も元の道へ立歸り、駕をやとひて來り、彼の男を乘せ、送り申すべしと云ふに、かの男甚だ悅び則ちかごに乘りて、紀州を越えて志摩の二郡を越え勢州へ入り、程なく古津へいたりける。この古津と云へる岸(きし)は、南は廣廣としたる滄海、北は吉野へ續く大山也。大木(たいぼく)生ひ茂り岸石(がんせき)そびえたり。東は伊勢へ出でる山道、西は我が來る道也。此の物すごき所に至りて、彼の男駕より出で、去來に向ひて申す樣、忝なや我が望みの所へ參りたり、旅人には是より御歸下さるべし、此の二三日の御禮は言葉にも盡しがたく、然れども一禮すべき便りなし、此の禮は末々永く謝し申すべしと云ふ。去來心えぬ事と思ひ、其の者に向つて申す樣、此の所はうみ山の間にて人家とてもなし。殊更物すごき所なり。然るを貴殿いづれを便りに落付(おちつき)給ふと問ふ。其の時かの男答へて申す樣は、御不審は御尤も也。今は何をか包み申すべき。我れ誠は人間にあらず、實は山野にやどる蛇なり。我れかりそめに生れ、今年今月今日まで、既に一千年を經る、此の故に天帝より命(めい)を受けて、此度天上に至り變じて龍と成り候、扨また貴公を御賴み申し候は、惣體ケ樣に出化(しゆつけ)とぐるには、先づ山に百年、海に百年、その後人道(じんだう)に交らずんば、出化とげがたし、我れ二百歲が間海(さんかい)には住みたれども、未だ人道に交らず、此のゆゑに伊勢參と變じ、かりにその許に便り、人道にまじはる所なり。すでに今人間海山三つの執行(しゆぎやう)とげたれば、出化仕るなり。時(とき)至れば片時も相待つ事成りがたし、貴所かまへて驚き給ふ事なかれ、我れ今こそ雲井(くもゐ)に登り候と、云ふ詞(ことば)もをはらずして、彼のをとこの姿は消えて一つの白蛇とヘんじけるが、其の蛇南のうみ岸へ至り、うねりを返し頭を上げて、遙か空を詠むれば、不思儀やこはいかに、さばかり晴渡りし空、暫時が間に黑雲おほひて、四方一時にくらやみとなりて、しんどうはげしく、風雨おびたゞしくおこり、その物すさまじき事云ふ計りなく、一むらの黑雲白蛇のうへにおほひけると見えしが、たちまち虹のごとくなる姿となり、海底(かいてい)波をかへし、雲井遙かによじ登る。黑雲(くろくも)風に隨つて段々に晴渡り、南の空のみ稻妻てんだうしてすさまじき氣色なり、駕の者共恐れて、かたはらに伏しまろび、去來もおどろきねぶりいたりしが、漸うありて目をひらき、さてはかの白蛇たゞ今こそ通力を得て、天上なしたると。遙かに見やれば、消え行く雲に稻妻のひらめくを見る、

  稻妻や雲にへりとる海の上  去來

と口ずさみ、奇異の思ひを成して其の處を立ちさりしが、實(げ)に此の龍の雲井にて守りん、去來次第々々に幸ひを得て、有德(うとく)の身となりくらせしと語り傳ふ。 

 

■やぶちゃんの呟き

・「古津」「紀州を越えて志摩の二郡を越え勢州へ入り、程なく」着いた、その「古津と云へる岸(きし)は、南は廣廣としたる滄海、北は吉野へ續く大山也」とロケーションを示すが、これに見合った場所で「古津(ふるつ)」という地名を現認出来ない。識者の御教授を乞う。

・「おどろきねぶりいたりしが」驚いて目を瞑っていたが。

・「稻妻や雲にへりとる海の上」実は、底本では、この句は、

  稻妻や雲にへとる海の上

となっている。調べてみると、この句は(またしても、である)去来の句ではなく、「續猿蓑」の「龝之部」に載る、

 

  稲妻

独いて留守ものすごし稲の殿     少年一東

稲妻や雲にへりとる海の上       宗比

明ぼのや稲づま戾る雲の端       土芳

いなづまや闇の方行(ゆく)五位の聲  芭蕉

 

の「宗比(そうひ)」なる人物(事蹟不詳)の句で、「へ」の脱落であることが判った。されば特異的に原文の「へとる」を「へりとる」と訂した。

オリンピックより魚の誘致   梅崎春生

 

 四つの島に人がひしめき合い、やがて一億を越そうとしている。それらがレジャーブームに乗って、精力的に右往左往するから、どこへ行っても人影の見えない地帯は、ほとんどない。日本全土が箱庭化するのも、時間の問題だと前号に書いたが、戦後なぜ急激に人口がふえたのだろう。

 曰(いわ)く。予防医学の発達普及。栄養補給の強壮剤。原因療法剤としての抗生物質の発見。その他の条件がつみ重なって、人間はなかなか死ななくなった。乳幼児の死亡率も激滅した。ふえるなと言っても、ふえるのは当然のことだろう。

 昔、徳川時代までは、ふやそうと思っても、ふやすわけには行かなかった。食糧が限定されていたからである。日本中で生産する食糧が、二千万人分ときまっておれば、人口は二千万を越せない。越すとその分だけ、皆の分がへってしまうのだ。

 今は鎖国時代でないから、輸入その他によっておぎないはつけられるが、原則としてはその関係がまだ働いていると考えられる。

 主食としての米や麦。副食物として野菜、果実、牛豚鳥(卵や乳製品)、それから海や川の魚類。以上のほとんどが、品種改良、農薬の発達、飼育方法の改善などで、生産が飛躍的に上昇したが、魚類の方だけはほとんどそれがなされていない。

 何故だろうかと思う。

 昔は海に魚がうようよいて(今でもうようよいることはいるが)ちょいと岸から、あるいは舟をこぎ出せば、いくらでも取れた。飼育したり、品種改良したりする必要はなかった。だから日本人は、フィッシュイーターと呼ばれるほどもりもりと魚を食べ、蛋白源として愛用して来た。

 何だか話が大上段にふりかざした調子になって、申しわけない。

 つまり、私は魚が大好きなのである。豊富な種類の魚を安い値で買い、たらふく自分も食べ、他人にも食べさせてやりたいと、いつも思っている。

 ところが今魚屋に行くと、決して魚は安くない。食えない部分、頭や骨や鱗(うろこ)や尻尾(しっぽ)、それを取り除くと、たいへん割高についていて、おいそれと手が出せない。

 私は福岡市の生れだが、子供の時、魚なんてものは、原則として買うものじゃないと思っていた。おやじが魚釣りが大好きで、一度出かけると、一貫目ぐらいは釣って来るし、子供の私だって放課後浜に行って糸を垂れれば、晩御飯のおかず程度はけっこう取ることが出来た。

 家から一町ほど離れたところに漁師町があり、地引網の手伝いをすると、小さなバケツにいっぱいぐらいの魚をただで呉れたものだ。それほど魚族の影は濃かったのである。まれに魚屋から買っても、たいへん安かった。それでも私たち子供は、

 「ただで取って来たものを、金を取って売るなんて、いい商売だなあ」

 と憤慨したり、うらやましがったりしたものである。

 戦中戦後になって、この事情が一変した。

 海岸や川っぺりに工場がたくさん出来て、遠慮なく廃液を流す。人口がふえれば、人家もふえる。人家からも芥(ごみ)が流れ出る。いくら魚だって、環境の悪いところには住みたくない。沖へ沖へと遠ざかる。

 魚食い人口がふえたのに、沿岸の魚影はうすくなったから、いきおい大型船を仕立てて、遠方に出かけて行く。どこへでも行くというわけには行かない。

 戦後李ラインというのが出来たし、北洋漁場のこともある。南方はまだあけ放しのようだから、赤道を越えてマグロを取りに行ったりして、船代、油代、人件費などが魚の値段に加算される。

 大衆魚というのもなくなった。イワシ、サンマ、ニシンなどは、戦前下魚(げざかな)と称して、軽んぜられていたが、戦後俄然位があがって、準高級魚になってしまった。カズノコなんか、今や宝石あつかいである。

 どうも振り方が無計画で、荒っぽ過ぎるのじゃないか。

 魚がいるところに船を乗りつけて、ごそっと取って来るのは、農業で言えば略奪農法であって、もっとも原始的な方法である。

 やり方は原始的だが、技術は高度化していて、近頃では電流を使ったり空気泡のカーテンをつくったり、それに最近は網を使用せず、ポンプで魚を吸い上げることもやっているそうだ。電気掃除器やバキュームカーと同じ手口で、魚をごーっと吸い上げて、水だけ元に戻す。

 いくら魚が多いと言っても、そんな取り方をされては、根絶やしになるおそれがありはしないか。

 もうそろそろ、魚を飼育する時代が来ていると思う。川魚はわりにその点進歩していて、ウナギ、スッボン、川マスなどの養殖は、早くから行われている。天然ウナギがどうのこうのと、御託(ごたく)を並べるのは、時代遅れの古くさい人士だけで、大衆はよろこんで養殖ウナギのかば焼きに舌つづみを打っているのである。

 海魚にしても、小規模ながら養殖が行われているようである。静岡ではイカ、瀬戸内海や玄海でタイなどを、計画的に養殖している。でも海魚はあちこち泳ぎ廻るから、養殖もなかなかむつかしいし、はかが行かない。

 それよりも日本近海を整備して、各種海魚の誘致運動を行なったらどうだろう。つまり魚のすみやすい条件をこしらえて、日本近海に行けば、おいしい餌にありつけるし、休憩する場所も豊富にあるということになれば、魚も定着するだろうし、太平洋を回遊する性質の魚には、

「餌も豊富で、宿も快適な日本近海へ!」

 と、言葉やポスターで宣伝するわけには行かないが、そんな設備がととのえば、魚の口から口ヘ(?)つたわって、回遊のコースとして日本近海にやってくることも考えられる。つまりは日本近海を魚族のパラダイスにするのである。

 オリンピックを誘致するより、この方がどのくらい有益で、国民にとってありがたいか、考えなくても判ることだ。もちろんこれは個人や民間団体でやれる仕事ではない。国家的規模において、巨大な国費を投じて、やるべき事業である。

 これは禿山に植林するのと同じで、やったからすぐに効果があがるというものではないが、数年後、数十年後にはかならず実を結んで、日本近海には昔日と同じく、魚がうようよという状態になる。そうすれば李ラインを越して警備船に追っかけられたり、ビキニ附近までマグロを取りに行ったりする必要がなくなる。

 観光日本などと称して、人間を寄せ集めるのもいいが、魚の方にも思いをいたしたら、如何であろうか。

 それから、品種改良について。現在のイワシやマグロが、千年前のイワシやマグロと同じ形で同じ栄養価しか持っていない。そんなばかな話があるだろうか。

 果物でも野菜でも、形態や栄養価で大飛躍しているのに、魚だけが旧態依然というのは、あきれた話であると思うけれども、紙数がつきたのでそれは次号にゆずる。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第六十五回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年七月二十三日号掲載分。この一篇、諸々の意味で梅崎春生の主張はまっこと、正しい。

「オリンピック」昭和三九(一九六四)年十月十日(後の体育の日)から十月二十四日にかけて日本の東京で開かれた第十八回夏季オリンピックである東京オリンピックは、この二年前、既に昭和三四(一九五九)年五月二十六日に西ドイツのミュンヘンで開催された第五十五次IOC総会において欧米の三都市(デトロイト・ウィーン・ブリュッセル)を破って開催地に選出されていた(先立つ昭和二九(一九五四)年(年)、昭和三五(一九六〇)年夏季大会開催地に立候補したが、翌昭和三〇(一九五五)年の第五十次IOC総会に於ける投票でローマに敗れた経緯がある。参照したウィキの「東京オリンピック」によれば、誘致に先立つ昭和三二(一九五七)年、当時の『日本水泳連盟会長を務めていた田畑政治は、オリンピック招致費用を』二〇一三年現在の価格に換算すると千二百億円相当も『掛かる事を懸念していた岸信介首相に、観光収入も見込めると直談判した』とある)。『開催の決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」が組織され、国家予算として国立競技場をはじめとした施設整備に約』百六十四億円、大会運営費九十四億円、選手強化費用二十三億円を『計上した国家プロジェクトとなった』とある。

「日本全土が箱庭化するのも、時間の問題だと前号に書いた」「うんとか すんとか」前回分観光づいて乞食的(の最後)を参照されたい。

「戦後なぜ急激に人口がふえたのだろう」日本の総人口は敗戦時の昭和二〇(一九四五)年で71,998,000人であったものが、以後、昭和二五(一九五〇)年に84,115,000人、昭和三〇(一九五五)年に90,077,000人、本篇の書かれた前年の昭和三五(一九六〇)年には実に94,302,000人膨れ上がっていて、「やがて一億を越そうとしてい」た。この記事の四年後昭和四〇(一九六五)には99,209,000人に達し(この年の七月十九日に梅崎春生は肝硬変のために没している)、九年後の昭和四五(一九七〇)年には104,665,000人と遂に一億人を突破することとなる。

「原因療法剤としての抗生物質の発見」私は昭和三二(一九五七)年二月生まれであるが、一歳半の時に結核性カリエス(左肩関節)に罹患、当時、安価になっていた結核治療に最初に用いられた抗生物質ストレプトマイシン(Streptomycin)のお蔭を以って四歳半で固定治癒した。

「乳幼児の死亡率も激滅した」乳幼児死亡率ではないが、昭和二五(一九五〇)年の合計特殊出生率(一人の女性が一生に産む子供の平均数)は3.65で、新生児(生後四週間未満)の死亡数は64,142人、同乳児(生後一年未満)で140,515人であったが、昭和三六(一九六一)年では合計特殊出生率1.96と有意に減じた一方、新生児死亡数は26,255人、同乳児で45,465人と激減している。

「一貫目」三・七五キログラム。

「一町」百九メートル。梅崎春生の生家は福岡市簀子(すのこ)町(現在の中央区大手門)にあり、博多湾の湾奧直近であった。

「李ライン」李承晩ライン。昭和二七(一九五二)年一月十八日に韓国初代大統領李承晩の海洋主権宣言に基づいて韓国政府が一方的に日本海及び東シナ海に設定した軍事境界線で、同時にその内側を排他的経済水域となし、この海域内での漁業は韓国籍漁船以外には行えず、これに違反したとされた漁船(主として日本国籍であったが、中華人民共和国国籍も含まれた)は韓国側によって臨検・拿捕・接収・銃撃を受けるなどした。銃撃によって乗組員が殺害される「第一大邦丸事件」(昭和二八(一九五三)年二月四日に公海上(推定で済州島沖二十マイルの海域)で操業中であった福岡の漁船第一大邦丸及び第二大邦丸が韓国海軍(韓国の漁船二隻を軍事転用したもの)によって銃撃・拿捕され、その際、第一大邦丸漁撈長であった瀬戸重次郎氏(三十四歳)が被弾して死亡した事件)も起きていた。

「北洋漁場」ウィキの「北洋漁業によれば、『戦後、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は日本漁船の遠洋操業を禁止したが、日本の独立が回復した』昭和二八(一九五二)年に『これが解禁され、農林省の水産庁が北洋漁業の再開を決定した。日本はアメリカ・カナダとの漁業条約を締結し、太平洋の北東部海域でのサケ・マス漁が復活した。続いて日本はソ連との漁業交渉を開始し、北方領土問題をめぐる難航を経て、日本の河野一郎農相とソ連のブルガーニン首相との交渉により』昭和三一(一九五六)年五月十五日に『日ソ漁業協定が調印された。これは当時継続中だった国交回復交渉を大きく後押しし、同年』十月十九日の『日ソ国交回復宣言調印につながった。国交回復により漁業協定も発効し』、昭和三二(一九五七)年からは『ベーリング海などの旧北洋漁業海域での操業が再開された。日本からは再び多くの船団が出港し、漁獲量や収益率が悪い沿岸・近海漁業しかできずに苦しんでいた北日本の漁民は息を吹き返したが、戦前とはソ連との力関係が逆転した新生北洋漁業は厳しい漁獲割り当て量に悩まされ、ソ連の国境警備隊やアメリカの沿岸警備隊による拿捕事件が続発した。特にソ連による拿捕は日本人漁民の拘束期間が長期化する例があり、船体は違反操業による没収処分を受ける事が多かった。数年ごとに開催される日ソ間の漁業協定更新交渉は常に操業許可水域や魚種別の漁獲高、さらには乱獲防止のための漁法を巡って難航し、時には無協定期間が発生して、北洋漁業の安定操業を大きく阻害した』とある。

「電流を使ったり」専用の電気ショッカーや鉛蓄電池などによって一定水域に電流を流して魚群に電気的ショックを与えて気絶させ、浮上させて漁獲する「電気ショック漁法」で、「ビリ」とも呼ばれるが、現在は各県の漁業調整規則などによって、有害魚種駆除の目的で許可を受けた場合以外は原則的に禁止されている(ウィキの「に拠った)。

「はかが行かない」「はか」は「捗・計・量」などと漢字表記することから判るように、仕事の進み具合や、ある作業行為をやり終えた際の入手した量を指し、ここでは歩留まりが悪いことを指す。]

2016/07/26

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   無足の蛇 七手の蛸


  
無足の蛇 七手の蛸

肥後の宇土長濱(うどながはま)に、京にてうらなく語し、荻生(をぎふ)房高といふ連歌數寄(すき)のもとに尋ね入る。主(あるじ)、悅び、實(げ)に都に在りし時、修行の志しあなるよし、誠に下り給ひけるよ、すける道も此の邊(ほと)り能き友なくて、獨吟の卷々つゞり置き侍る迄也。嬉し、年來の愁欝(しううつ)をはらさん、と、取出でゝ點を乞ふ。其の後(ご)、都鄙(とひ)の物語とりどりして、明けなば頓てまかでなん、といふに、主の云く。君、行脚の心から、公私の要用も昔のよそに聞き給ふ身の、何をいそがしとし給ふ。せめて年の半(なかば)も、と、むつましくとゞむ。いやとよ、修行のついで、おもしろければ、遠つ國の名所尋ねんと思ふ、賴みなき命(いのち)に、おほけなき長途(ちやうど)の月日、すゞろにいそぐに侍りといへど、猶、しひてとゞむ。切(せつ)の志しに三日、五日と暮し居ぬ。ある日うらゝに風靜かなる空、小船に小竹筒(こさゝえ)とり入れ、一僕(ぼく)に棹さゝせ、荻生友なひて、磯づたひに遠近(をちこち)の名所をきく、阿蘇の嶽(たけ)をあそこといへば、はだか島に風本(かぜもと)、雪の島のさむさかはゆしと、俳(ざ)れもて行。松原姬(まつらひめ)のひれふる袖(そで)を香椎の宮(みや)あり。かるかやの關(せき)あり。げに幸ひの橋、白川(しらかは)のはげしを染川(そめかは)に能くして、たはれ島をうかれありかば、かご島にもれなん、など、しどけなき化口(あだぐち)、規玖高濱(きくだかはま)も、とほしといひつゞけて、海ばた、二、三里、過ぎ行く。爰にひとつの山川(やまかは)の、海に落入る所に、二尺餘の蛇、尾の方、半(なかば)海につかりてひたひたと波をたゝく、怪しき事をする物哉と、舟さしよせてまもり居(ゐ)るほどに、いそがず、靜かならず、波をうつ事、百度(もゝたび)計り、中程(なかほど)より下、波にひたりたる所、始め、二つにさけ、次第に三つ四つに成り、終に七つに分つて、大小のいぼ、出來ると見えし、忽ちに蛸(たこ)と化(け)し、鞠(まり)の大きさしたる首(かしら)をたてて、波上、三間計り足をつまだてありきて、又、水中(すゐちう)に入りぬ。誠に、鶉(うづら)化して田鼠(でんそ)となり、雀、海中へ入りて蛤(はまぐり)となるといひ、俗に薯蕷(やまいも)の鰻(うなぎ)とかはり、燕(つばめ)の干魚(ひうを)に化するといふも、是を見るに信用あり、といへば、荻生、默然(もくねん)と打諾き、君が信ずるにて、又、信あり。人間の佛(ほとけ)になる事、今迄、疑ひ侍り、御坊ぞ、既に佛に化(け)する用意なりと、いへるぞ。すしようの心の付所なる、と笑ひて舟こぎ歸りぬ。

 或人云く。市店(してん)に賣る蛸、百が
 内にふたつ三つ、足七つある物あり。是、
 則ち、蛇の化する物なり。食ㇾ之(これを
 くらふ)時は、大きに人を損ずと、後人、
 おそるべし。


■やぶちゃん注

・「肥後の宇土長濱(うどながはま)」現在の熊本県宇土市長浜町。

・「うらなく」隔てなく。心から。

・「荻生房高」不詳。

・「頓て」「やがて」。

・「おほけなき」身の程知らずの。

・「友なひて」「ともなひて」(伴ひて)。

・「はだか島」熊本県宇土市住吉町の有明海に浮かぶ風流島(たわれじま)。島の別名。平安時代からの歌枕として知られる。私はこれは実際に彼らの眼前にある実景の島名と読むが、以下は風流の言葉のみの遊びと解く。大方の御叱正を俟つ。

・「風本(かぜもと)」「西村本小説全集 上巻」では「かざもと」とルビする。順列から見ると実景として現認している島の名のように思われるが、不詳。方向違いだが以下に頻出して来る神功皇后絡みならば、三韓征伐の折りに壱岐の島の現在の勝本で風待ちのために滞在、良い風を得て船出して以降、征伐の帰途にもここに拠ってこの地を「風本(かざもと)」と呼ぶように命じたという伝承に、その名が出る。

・「雪の島」同じように不詳であるが、同じように神功皇后に絡んで、折口信夫の壱岐の民俗探査のエッセイ「雪の島」に(リンク先は「青空文庫」)、壱岐の島の北西岸にある湯ノ本温泉(神功皇后はここで応神天皇の産湯を使ったとする伝説が残る)の沖にある際立って白い島を「雪の島」と呼称するとし、昔の本には「壱岐」の事を「ゆき」と書いてあるという叙述が出るのは気になる。ここで宗祇は「俳(ざれ)もて」語っては興に乗って舟を進めた、と叙述しているわけで、実景として見える必要はなく、事実、以下は総てこの島原湾からは相対的に遠く離れた、見えるはずのない対象ばかりが出現する。なお、この白いのは岩質ではなく、鵜の糞によるものと推測する。

・「松原姬(まつらひめ)」これは各地に散在する〈袖振る女〉伝承の本家たる「松浦佐用姫(まつらさよひめ)」のことである。現在の佐賀県北部、日本海側の唐津市厳木町の豪族の娘とされる。単に佐用姫(さよひめ)とも呼ばれ、弁財天のモデルともされる。ウィキの「松浦佐用姫によれば、五三七年、『新羅に出征するためこの地を訪れた大伴狭手彦と佐用姫は恋仲となったが、ついに出征のため別れる日が訪れた。佐用姫は鏡山の頂上から領巾(ひれ)を振りながら舟を見送っていたが、別離に耐えられなくなり舟を追って呼子まで行き、加部島で七日七晩泣きはらした末に石になってしまった、という言い伝えがある。万葉集には、この伝説に因んで詠まれた山上憶良の和歌が収録されている』。また、「肥前国風土記」には、『同様に狭手彦(さでひこ)と領巾を振りながら別れた弟日姫子(おとひめこ)という娘の話が収録されている。こちらでは、別れた後、狭手彦によく似た男が家に通うようになり、これが沼の蛇の化身であると正体がわかると沼に引き入れられ死んでしまうという話になっているが、この弟日姫子を佐用姫と同一視し、もう一つの佐用姫伝説とされることもある』平安時代の兵法書「闘戦経」には、『石化した貞婦=佐用姫の話が引用されている。内容は、危うい時に逃げる謀略家と違い、純粋に夫を慕い続けて石となった婦女は後世まで残り、一方、謀略家が郷里に骨を残す例は聞いたことがない、というもの。佐用姫を引用して比較する例』は「平家物語」にも見られ、治承二(一一七八)年九月二十日頃の『話として、孤島に残された俊寛が半狂乱した語りにおいて、松浦佐用姫ですら孤島に』一人『残された俊寛の心境には及ばないだろうといった旨の記述がある』。『なお、世阿弥作の能に、佐用姫伝説に取材した能〈松浦佐用姫〉がある』。『唐津市の鏡山は、佐用姫が領巾を振って見送った山とされているため、「領巾振山(ひれふりやま)」という別称がある。同市和多田には、佐用姫が鏡山から跳び降りて着地したときについたという岩があり、小さな足跡のようなくぼみがある。衣干山は、川に入った佐用姫が衣を干して乾かしたことが名前の由来となっている』とある。

・「香椎の宮」現在の福岡県福岡市東区香椎にある香椎宮(かしいぐう)。仲哀天皇とその神功皇后を祭神とする。

・「かるかやの關」苅萱の関跡は現在の福岡県太宰府市坂本に比定されている。菅原道真公の和歌にも詠まれた中世の関所跡とされ、大宰府の出入口に相当する。山の中で無論、島原湾からは遠く離れている。

・「幸ひの橋」「幸の橋」という歌枕は各所にあるようだが、前の大宰府参詣道の南の二日市宿からのルートに「幸橋」というのを見出せる。但し、宗祇が言っているのがここかどうかは不明。私は単に可能性のある具体例を掲げているだけである。

・「白川のはげしを染川に能して」「西村本小説全集 上巻」では「白川のはけしを染川(そめかわに)能(よく)して」(かわ」はママ)である。「染川」は福岡県中部の太宰府天満宮の付近を流れる御笠(みかさ)川のことで、古くからの歌枕であり、しかもこの川は別に「逢初(あいそめ)川」「思(おもい)川」の名を持っており、先の「白川」は無論、淀川水系の京を流れるそれではあろうが、「白」に意味があるのであって、それを恋で美事に「能く」「染」め「川」と引き出すための修辞であって、特定の地名を解説するに必要を私は感じない。

・「たはれ島」先の風流島の別称。ここで一瞬、実景に戻ると見た。しかし「たはれ」(戯れ)から「うかれ」(浮かれ)が引き出されて、また洒落のめしてしまうのである。

・「かご島にもれなん」「かご島」は南の薩摩国の鹿児島郡に引っ掛け、しかも「かご」を「籠」の掛詞として、幾ら島尽くししても、島は無数にあるから、「籠」の目から漏れてしまうと洒落たのではあるまいか?

・「規玖高濱(きくだかはま)」「企救(きく)の長浜」とも言う。北九州市小倉北区の海岸の古称で万葉以来の歌枕。但し、現在は埋め立てられてしまい、今は面影を偲ぶよすがもない。

・「三間」約五メートル四十五センチ。

・「田鼠(でんそ)」哺乳綱トガリネズミ形目モグラ科 Talpidae に属するモグラ類のこと。

・「燕(つばめ)の干魚(ひうを)に化する」「干魚」は不審である。これが「燕の魚に化す」であったなら腑に落ちる。渡り鳥である燕は冬の間は海の中に棲んでいる、だから姿を見ないのだ、と信じられたからである。とすれば、本邦で孵った幼鳥が海に入って魚と化しているとするのはごく自然なライフ・サイクルである。

・「打諾き」既出ルビ有り。「うちうなづき」。

・「すしようの心の付所なる」「すしよう」は「衆生」で、これは「しゆじやう(しゅじょう)」以外に「すじやう(すじょう)」とも読む(濁点は落されることが多い)。仏に正しく導かれて往生せんとする信者が直き心で注意をするべき肝心な所である、という謂いであろう。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   蛇の口を遁がる

    蛇口(じやのくちをのがる)


Jyanokutiwonogaru

一とせ、越州に修行して、飼飯(けゐ)の海、越(こし)の中山など詠(なが)て、東(あづま)に近く、歸る山を見んと行くに、名もしらぬ坂、一つ越ゆるとて、右の肩の松山に、冷(すさ)まじき物音す、山河(さんか)の流れか瀧浪(たきなみ)の響きか、それかあらぬか、嵐のかぜならば、四方(よも)に立つべきを、爰計りのはげしさよと、しげみの木の間を覗き行くに、水にはあらで一丈計り空(そら)に、大蛇(だいじや)の首在りて、耳は芭蕉の若葉のごときするどに、眼は鞠(まり)の大さして圓(まどか)なり、口脇、耳のもと迄、切れたるに、一尋(ひろ)計りの紅(くれなゐ)の舌、出入り、夕日のうつろひ怖しともいはんかたなし。新樹の千もとを分けて、其の中(ちう)をありく事、風雲の速(とき)ごとく、我をのまんと、きそひ來る、魂(たましひ)、脱(ぬ)ぐるがごとく、逸足(いちあし)を出し、逃げまどふ。此のものゝ勢ひと、我が恐れて逃ぐる力(ちから)と、なじかはたぐふべきなれば、道のほど、四五間計りに成りて、既に危く覺えし所に、空中よりひとつの鷲(わし)、飛下(とびお)りて、蛇の頭上を蹴(け)て、又、空中に入る。毒蛇、是に猶豫(いうよ)するほどに、一町餘り走りぬけ、ふり歸り見るに、件(くだん)の鷲、又、飛び來て、頭上を蹴る事、あまた度(たび)して、毒蛇の首(かうべ)、みぢんにくだけ、屍、谷底へまろび落つる。其の音、坤軸爲之、くだけ、百千雷(らい)のおちかゝるかと、あやし。彼の鷲、飛下りて肉(しゝむら)を裂(ひきさ)き心よげに喰(くら)ふ。此の時にこそ安堵の思ひをなし、傍(かたはら)の石に腰打かけ、有りし方を見やりて、危き命、助かりつる物かな、是、只、佛の加護にこそと思ひて

 

   みほとけのつよき力にたすかれば

      鷲の峰とや爰をいふべく

 

と言捨(いひす)てして、歸る山におもむきぬ。

 

 

■やぶちゃん注

・「飼飯(けい)の海」万葉時代以来の歌枕で、一般には淡路島の西側の慶野松原(けいのまつばら)、播磨灘に面した現在の兵庫県南あわじ市松帆古津路(まつほこつろ)から松帆慶野にある松原の前浜を指すとされているが、別説に現在の福井県敦賀市の敦賀湾湾奧の気比(けひの)松原の前浜とする説があり、筆者はこちらを採っている(そうしないと前の「越州」に合わない)。

・「越(こし)の中山」ロケーションからこれは福井県の嶺北(越前地方)と嶺南(若狭地方)を隔てる木ノ芽峠の別名である。

・「東(あづま)」ここは現在の福井県北東部の広域古称である。現在も行政的にこの広域区域を「あずまブロック」と呼称している。

・「歸る山」「かへる(かえる)やま」(帰山)は現在の福井県中部の南条郡南越前町から敦賀市へ通じる峠一帯の呼び名として現存し、鹿蒜(かひる)という名でも残り、南越前町を流れる鹿蒜川が、南越前町字南今庄に鹿蒜神社がある。

・「一丈」約三メートル。

・「一尋(ひろ)」「尋」は両手を左右に伸ばした際の指先から指先までの長さを基準とした慣習的距離単位で、一尋は五尺(約一メートル五二センチ弱)乃至は六尺(約一メートル八十二センチ弱)に相当する。

・「逸足(いちあし)」一般には音で「いつそく(いっそく)」で速足(はやあし)することを指す。

・「四五間」凡そ七・三~九・一メートル。

・「一町」百九メートル。

・「坤軸爲之くだけ」「西村本小説全集 上巻」では「坤軸(こんぢく)も之れが爲めにくだけ」と読みが示されてある。「坤軸」は大地の中心を貫き支えているとされた地軸のこと。

・「鷲の峰」鷲峰山(「しゅうぶさん」他、読みは多様)は各地にあるが、ロケーション地区を国土地理院の地図でも調べて見たが、現行、この名のピークを認め得なかった。
 
 画像は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング、補正したもの。

行脚怪談袋 芭蕉翁大内へ上る事 付狂歌に得手し事

  二の卷

 

  芭蕉翁大内へ上る事

   
狂歌に得手し事

 

芭蕉廻國の砌り、美濃路を經て近江に入り、義仲寺へ詣で、夫(そ)れより草津大津を越え京都へ入る、先づ洛外四條仲屋の何某(なにがし)と云へるは、當所に隱れなき有德(うとく)人、殊更俳道に事をこのみ、支考の門人なれば、かねてばせををもしたひける。此のゆゑにばせを、彼(か)の者の方に尋ね至り案内を乞ふ。亭主折節在宿にて、ばせをの來るよしを聞き、大いに悦び急ぎ立出でゝ自ら伴ひ入り、初對面の禮義をのべ、其の後(のち)仲屋申しけるは、我れは當所に住居し、世を幸ひに暮し、何不足なく侍る故、多くの家人に萬(よろづ)を預け、我れはつれづれを慰めんと、又好きの道ゆゑ支考に隨ひしより、俳道の事を少しまなべり、右支考の物語りにて、翁の事も聞侍る、誠にたぐひなき御方(おんかた)と承知奉りぬ。こひ願くば、暫(しば)しが間御逗留あり、俳道も明らかに御教ヘを請け申し度しと、わりなくぞ願ひける。ばせをも此の由を聞き、世事の儀にかゝはりなく、一入此の道心(こゝろ)を寄せらるゝ事、誠に殊勝の次第なれば、我等も諸所廻國の草臥(くたびれ)も候へば、暫し此のたちに休足(きうそく)致し候べし、御世話賴み侍るとて、是より仲屋方にとゞまる事數日(すじつ)、好める道故俳諧發句の祕傳を聞くに、ばせをも逗留のつれづれに、發句等の切字十七字のつゞり、其の外俳諧の道口傳を、逸々(いちいち)に語り聞せけるに、其の教へ誠に顯然たり。仲屋甚だばせををしたひ、數日物語りに及ぶ。此の間逗留の節の事なり、當(たう)大内(おほうち)において、東の芭蕉當(たう)洛中四條仲屋方に逗留の由を聞し召され、かれはその上不角此方の俳人の由聞及ぶ、何卒招き寄せ、其の鍛鍊の程をも御聽聞あらんかしと、院より仰せ出さるゝに出(いだ)さるゝに付、御諚(ごぢやう)の趣き、大内より仲屋方へ申し達せられける。仲屋是を聞きて、芭蕉にかくと告げる。ばせをも御諚なればもだしがなきゆゑ、御使とともに大内へこそ至りける。程なくばせをを階下へ御招(まね)ぎ有るに、ばせを謹んできざ橋の本へ平伏してひざまづき居たる處に、殿(でん)の脇に伺公の殿上人(てんじやうびと)、芭蕉にのたまひける、すまごとやひがしの方は荒夷(あらえびす)と號して、歌道俳道の類ひに達せし者、甞てあらずと思ひしに、今其方は東國生れにて、その道にかしこき事、おそらく世の人の及ぶ所にあらずと傳へ聞けり、今幸ひに洛中にあるよしを院にも聞(きこ)しめされ、よつて召寄せらる處なり、かつは御慰みにもあれば、此の方より一句の題を出すべし、是によそへて汝がむねに得手(えて)し發句を巡ね、指上(さしあげ)候べしと、院より春月梅(しゆんげつのむめ)と云へる三つの題を給はりければ、十七字の内に、此の三つをあらはし申すべしとの御諚なり、其の時ばせを少しもおくしたる氣色もなく、さして案じる體(てい)もあらず。

 

  春もやゝ景色とゝのふ月と梅  ばせを

 

右の通り一句の發句へ、春月梅と三つの題を現はし、吟じて指上げければ、院を初め奉り、御側の殿上人誠に即席の秀句、おどろき入りしと感ぜられ、此の時に翁と云へるを給はる。此の故に世の人ばせを翁と云ひ傳へしとかや、其の道にいたつてかしこきは、右の藝にて世をわたる習ひ也。その節は古人と成りしかども、不角法印、ばせをのごとく、大内へ召れ、禁裏より仰せ出さるるは、其方譁(やさ)しくも俳道發句に達せし由、何卒定家が綴りし百首の内に、後德大寺左大臣の歌に、

 

  郭公(ほとゝぎす)啼きつるかたをながむれば

       たゞ有明の月ぞ殘れる

 

此の歌を發句十七文字に直さるべきやとの御諚あり。其の節不角暫(しば)し思案の體(てい)にて、其の後右の歌の心を發句に取りて、

 

  扨はあの月が啼いたか時鳥

 

と吟じて奉りければ、各々御感(ぎよかん)淺からず、御賞美(しやうび)として法印の官を賜はりしとかや、此の事あまねく世の人の知り拾ふ所也。扨(さて)芭蕉は御暇を乞ひ、内裏を出でゝ仲屋がかたへ立歸り、其の後仲屋方にても、ばせをを會主(くわいしゆ)として百韻の連歌(れんか)を始む、此の時もばせをいと面白き付合をなす、中にも、

 

  僕が狂歌を手つだうてやる

 

と云ふ前句に

 

  德利の酢ついで半分のみにけり

 

とおどけまじりにして、前句の心へひたつけ、句體(くたい)ははなれてつけゝれば、諸人皆打笑ひて興を催ふし、其の後(ご)皆々ばせをへのぞみ、

 

  下より上へつるし下げたり

 

と云ふ題を出し、先生は此の道にあまねくかしこければ、何にても此の題ヘ一句をつけて見給へかしと云ふ。芭蕉是は難題かなとて、暫らく句案なせしが、かたはらの筆をとりて、其の題の次に書付(かきつけ)て出(いだ)されける其の句に、

 

  風鈴のおもはずに見る手水鉢  ばせを

 

と吟じければ、仲屋を初め一座の物各々感じ入りしとかや、その後數日(すじつ)逗留の内、百韻數度興行す。芭蕉もあらゆる秀句をつらね、早一ケ月を越えしかば、ケ樣にいたづらに日を送るも如何(いかん)て、是より江州(ごうしう)の方へ廻國せんと、仲屋をもしきりに立出ん事を望む。亭主もその止るまじきを知り、然らば廻國をはり、又候御出でを待ち候と云へば、ばせをは翌日旅の用意をぞいたし、仲屋が門(かど)を立出でる。此の時なかや芭蕉を見送りしが、冬の初めなれば、

 

  此頃の氷ふみわる名殘かな

 

と一句を吟ず。ばせを甚だ是をほめられし也。是も仲屋其の道に深く學びし故也。此の仲屋何某と云へるも、名は知れね共、表德は杜國といへり。

 

 

■やぶちゃんの呟き

・「不角此方の俳人」不角(ふかく)以来の名立たる俳諧宗匠。「不角」とは後の叙述からも江戸中期の俳諧師で松永貞徳の流れを汲む岡本不卜(ふぼく 寛永九(一六三二)年~元禄四(一六九一)年:貞門の石田未得に学び、同門の雛屋立圃(ひなやりゅうほ)や芭蕉らと交わった)門下の立羽不角(たちばふかく 寛文二(一六六二)年~宝暦三(一七五三)年)としか読めないが、彼は芭蕉(寛永二一(一六四四)年~元禄七(一六九四)年)より十八も若く、貞門派よりもさらに通俗的な句風を志向、現在確認されている最古の句でも天和三(一六八三)年で、寧ろ、芭蕉の死後に知られるようになり、他流批判甚だしく、蕉門の宝井其角ともやり合ったりしたから、ここもまたトンデモ錯誤である。ただ、参照したウィキの「立羽不角」によれば、『大名など高位の武士との交流も繁くなった不角は、それに見合った肩書を嘱望するようにな』り、元禄一六(一七〇三年)には『備角の号で俳諧を嗜み交流があった備前岡山藩主池田綱政の参勤交代に伴い上京し、公家社会に顔が利いた綱政の後援により』、この年の七月に法橋(ほっきょう:僧綱(そうごう)の最下位。法印・法眼(ほうげん)の下)『の地位を賜っ』ているから、公家に知られた江戸の俳諧師ではあったようである。

・「御諚(ごぢやう)」貴人の仰せ。

・「すまごとや」不詳。「すまんことやれど」の謂いか? お手上げ。識者の御教授を乞う。

・「其方は東國生れにて」彼は今や知らぬ人とてない伊賀上野(現在の三重県伊賀市)生まれであるから、ここも筆者の脳味噌を疑うヒド過ぎる誤りである。

・「法印」上記の通り、法橋の誤り。

・「扨はあの月が啼いたか時鳥」竹内玄玄一の「続俳家奇人談」の「巻中」の「瓢水居士」の句として、

 

 さてはあの月が啼いたか時鳥

 

と掲げる。瓢水(貞享元(一六八四)年~宝暦一二(一七六二)年)は松木淡々(まつきたんたん)門下。瓢水に至っては不角より二十二も、芭蕉より四十も若い。

・「德利の酢ついで半分のみにけり」不詳。現行の芭蕉の句としては知らぬ。

・「風鈴のおもはずに見る手水鉢」不詳。同前。

・「此頃の氷ふみわる名殘かな」確かにこれは貞享元(一六八四)年十二月末、「野ざらし紀行」の旅の途次、名古屋に滞在していた芭蕉が熱田へ出立するのを見送った際の坪井杜国の句ではある。

・「表德」「表徳号」のこと。ここは雅号。但し、芭蕉の愛した杜国の屋号は「仲屋」ではないし、そもそもが彼は京の商人ではなく、名古屋御園の米穀商である。ここまでど素人を馬鹿にした嘘だらけの無惨累々たるを見ると、仮託偽書の確信犯を糞狙いしたものとしか言いようがない。

観光づいて乞食的   梅崎春生

 

 阿蘇に登ったら、バスやロープウェイなどで引っぱり上げられて、山みたいな感じがしない。デパートにそっくりだ、と前号に書いたら、そんな文明の利器があるからこそ、お前は火口まで行けたのではないか、贅沢(ぜいたく)言うな、という投書をもらった。

 それも一理はある。私といっしょのロープウェイに、七十歳ぐらいの腰の曲った婆さんがいて、杖をついてとことこと火口見物におもむくのを見た。以前には見られなかった光景だ。

 つまりこれは山ではなく、行楽地なのである。そう考えれば、別に腹も立たない。

 それは時代のなりゆきだろう。箱根の山は昔は天下の険だったが、今ではあんな具合だし、阿蘇だって明治時代は夏目漱石の「二百十日」にあるような、素朴でおそろしい山であった。

 だんだん人がふえて、四つの島にあふれんばかりになると、山だの海だのをそうそう素朴な形では放って置けない。休日(だけじゃなくふつうの日も)になると、どっと押しかける。

 その群衆を見て、金儲けの達人や市町村の顔役どもが、この連中からしぼり取らずに何からしぼり得ることがあるだろうか、散々巻き上げて懐(ふところ)をからっぽにして帰せとばかり、さまざまな設備をして、金を落させる算段をする。すると客の方も、

「近頃便利になりましたのう」

 と、団体旗などをおっ立てて続々くり込むから、達人や顔役どもの笑いはとまらないのである。

「自然」を改善(?)すると言っても、山容まで改めるわけではない。道をつくり、休憩所を建て、ロープウェイをかけさえすればいいのだ。とたんに山は行楽地に変貌する。

 私が登った時も、火口の白い霧の底からうっすらと噴煙の立ち上るのが見えたが、これが全然噴煙らしくなく、芝居や映画で使用するスモーク(人工煙)じみて見えた。

 これは阿蘇の方で調子を合わせたわけではなく、そう感じる方の眼がゆがんでいるのだろう。さっきデパートにそっくりだと書いたが、むしろ東京の豊島園やアメリカのディズニイランドに似ていると言った方が、適当かも知れない。

 戦後あちこちをとみに行楽化したのは、ロープウェイの発達である。魔の谷川岳にも出来たし、白馬の八方尾根にも出来た。昨年夏黒部の帰途、八方尾根のそれに乗ったが、あまり気持のいいものではなかった。心理的に不快なのではなく、生理的に気持が悪いのである。

 高所恐怖症が私にあるせいでもあるが、あれがぶら下っているのが気にくわないのだ。飛行機も高くを飛ぶが、あれはぶら下っていない。自力で飛んでいる。汽車やバスもぶら下っていない。地面を這っている。ロープウェイだけが、首くくりの如く、ぶら下っている。はなはだ中途はんぱで不安定だ。

 あちこちにロープウェイが出来るところをみると、きっとあれは建設費が安いのだろう。柱を立てて紐を通し、それに箱をぶら下げればいいのだから、ちゃんとした道をつくるより安く上る。故障などはおきないように設計されてはいるだろうが、時には手違いだのへまが生じて、乗客に迷惑をかける。

 今年の四月初、箱根のロープウェイがとまって、二百八十人が一時間も宙づりになったという事件が起きた。満員状態で一時間も宙ぶらりんになったから、皆不安感にたえられなくなって、吐気をもよおす乗客や、引き付けをおこした赤ん坊や、血圧が高くなって脳血管の痙攣(けいれん)をおこした老人などが続出、たいへんな騒ぎになった。

 箱根だから新聞に報道されたけれど、各地のロープウェイで小さな故障はしばしば起きていて、宙づりなんか日常茶飯時までとは行かないけれど、めずらしいことではないそうである。

 そのくらいのことは覚悟に入れて、読者諸子もロープウェイやスキーリフトにお乗りになる方が、よろしかろうと私は思う。

 ロープウェイばかりに当り散らしたようだけれど、それは私の本意でない。ロープウェイに私は今のところ、格別の恩も恨みもない。「小説中央公論」夏季号の座談会で、山本健吉さんが、

「日本中が観光づいて、乞食的になって来た」

 という意味の発言をしている。

 山や海を元の形のままで置け、女子供は登るな、と私は主張するものではない。それは時の勢いで仕方がないことだし、自然が普及されることは、それなりに意味があると思っている。しかしその普及のされ方が妙に「観光づいて乞食的」になっているのが、面白くないのである。

 地方都市などもそうだ。地方色がだんだんうすれて、どこに行っても同じような感じになってしまった。無理して天守閣や櫓(やぐら)を再建しても、各地にそれが再建されているから、特に見に来るという意味がない。

 天守閣など、遠くから見るとそれらしく見えるけれども、近寄って見るとざらざらのコンクリートで、いかにもイミテーションという感が深い。

 イミテーションでも、形だけととのっていれば気がすむらしく、観光客は続々と登り、天守閣の頂上から、殿様にでもなったような気持で四方を見渡して、満足して降りて来る。

 熊本で泊った宿屋は、大きな宿屋だったけれども、私たちの他に客が一組しかなく、これで商売が成り立つのかと女中さん(接待さんと言うべきか)に訊ねたら、

「今は暇ですけれど、この間までは修学旅行のお客さんでいっぱいで……」

 どこから修学旅行に来るのかと、重ねて聞いたら、

「新潟や静岡や仙台から」

 という答えだった。私はおどろいた。新潟や仙台からわざわざ熊本まで、何を見に、何を学びに来るのだろう。もつと近くを廻って、郷土周辺を知ることが先決じゃないのか。

 邪推すれば、近くを廻れば積立金額が余るし、たとえば五泊六日ときめられているので、遠出をしなきゃ間(ま)がもてない。だからはるばる九州路にやって来る。

 九州の方でも負けてたまるかというわけで、やはり五泊六日ぐらいの日程を組み、東京だの仙台だの青森まで押しかけて行く。

 各地が観光づくのはいいが、別に外貨を獲得するわけでなく、たらい廻しのような形で、お金があっちに落ちたり、こちらに落ちたりするだけの話である。

 ダム建設その他のために、日本に秘境というところはほとんどなくなったし、海は海で工場誘致の埋立地で、自然の海岸線は次々うしなわれつつある。

 俗化などという月並なものでなく、日本全土が箱庭化する日も、そう遠くないだろう。なにしろ人間が多過ぎるのだから、致し方ない。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第六十四回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年七月十六日号掲載分。「日常茶飯時」の「時」はママ。

「阿蘇に登ったら、バスやロープウェイなどで引っぱり上げられて、山みたいな感じがしない。デパートにそっくりだ、と前号に書いた」「デパートになった阿蘇山」を参照。

『夏目漱石の「二百十日」』漱石満三十九の明治三九(一九〇六)年十月に発表した小説。ウィキの「二百十日小説)及び青空文庫「二百十日をリンクしておく。]

2016/07/25

原民喜作 童話「屋根の上」(原稿準拠版) 附青土社全集版 藪野直史

[やぶちゃん注:本篇は民喜没(昭和二六(一九五一)年三月十三日自死)後二年後の昭和二八(一九五三)年六月号の『近代文学』」に掲載された。

 底本は広島県立図書館の「貴重資料コレクション 郷土作家の自筆原稿」の原民喜」にある自筆原稿を視認した。漢字は当該字に近いものを選んだ。

 原稿はペン書きで、東京文房堂製四百字詰原稿用紙三枚。電子化では原稿用紙に合わせて一行を二十字で改行した。句読点を禁則処理せずに行頭に打つのは原民喜に特異的な癖である(他の原稿では、この御蔭で、彼がその句読点を最初に打っていたかどうかが極めてはっきりと分かる)。「とうとう」はママ。

 附録の青土社全集版は読み易さを考えて附加した。一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集Ⅱ」に載るものをそのまま(新字で仮名遣いの一部が中途半端に現代仮名遣になっているおかしな「定本」である)に電子化してある。こんなものが定本になるとしたら、これは原民喜にとって不幸なことと言わざるを得ない。]

 

    屋根の上

              原 民喜

 

 かちんと、羽子板にはねられると、羽子は

、うんと高く飛び上つてみました。それから

、また板に戾つてくると、こんどはもつと思

ひきつて高く飛び上りました。何度も何度も

飛び上つてゐるうちに、ふと羽子は屋根の樋

のところにひつかかつてしまひました。はじ

め羽子はくるつと𢌞つて、わけなく下に飛び

降りようとしました。しかし、さう思ふばか

りで、身躰がちよつとも動きません。

 しばらくすると、下の方では、また賑やか

に、羽子つきの音がきこえてきました。別の

新しい羽子が高く舞ひ上つてゐるのです。

 「モシ モシ」と、樋にひつかかつてゐる

羽子は、眼の前に別の羽子が見えてくるたび

に呼びかけてみました。しかし、それはすぐ

見えなくなつて、下の方におりてゆきます。

 「モシ モシ」 「モシ モシ」 何度よ

びかけてみても、相手にはきこえません。そ

のうちに下の方では羽子つきの音もやんでゐ

ました。

 「もう、おうちへ帰らうと」 といふ声が

して、玄関の戸がガラつとあく音がしました

。あたりは薄暗くなり、家の方では灯がつき

ました。樋にひつかかつてゐる羽子はだんだ

ん心細くなりました。屋根の上の空には三日

月が見え、星がかがやいてきました。とうと

う夜になつたのです。あ、どうしよう、どう

しよう、どうしたらよいのかしら、と、羽子

は小さなためいきをつきました。

 星の光はだんだん、はつきり見えて來ます

。空がこんなに深いのを羽子は今はじめて知

りました。一つ一つの星はみんな、それぞれ

空の深いことを考へつづけてゐるのでせう。

一つ二つ三つ四つ五つ‥‥と、羽子は数を数

へてゆきました。百、二千、三千、いくつ数

へて行つても、まだ夜は明けませんでした。

夜がこんなに長いといふことを羽子は今しみ

じみと知りました。

 今あの羽子板の少女はどうしてゐるかしら

、と羽子は考へました。眼のくりくりつとし

た、羽子板の少女の顏がはつきりと思ひ出せ

るのでした。羽子板は今、家のなかに靜かに

置かれてゐることでせう。羽子は、あの羽子

板の少女がとても好きなのでした。もう一度

あの少女のところへ帰つて行きたい、あの少

女も多分、僕のことを心配してゐるだらう、

と羽子は思ひました。

 一つ二つ三つ四つ五つ‥‥羽子は何度もく

りかへして数を数へてゆきました。

 東の方の空が少しづつ明るんできました。

やがて、雲の聞から太陽が現れました。薔薇

色の雲の間から洩れて來る光は、樋のところ

の羽子を照らしました。すると、羽子はまた

急に元氣が出て來るのでした。

 

 

 

■青土社全集版

 

 屋根の上

 

 かちんと、羽子板にはねられると、羽子は、うんと高く飛び上つてみました。それから、また板に戻つてくると、こんどはもつと思ひきつて高く飛び上りました。何度も何度も飛び上つてゐるうちに、ふと羽子は屋根の樋のところにひつかかつてしまひました。はじめ羽子はくるつと廻つて、わけなく下に飛び降りようとしました。しかし、さう思ふばかりで、身体がちよつとも動きません。

 しばらくすると、下の方では、また賑やかに、羽子つきの音がきこえてきました。別の新しい羽子が高く舞ひ上つてゐるのです。

「モシ モシ」と、樋にひつかかつてゐる羽子は、眼の前に別の羽子が見えてくるたびに呼びかけてみました。しかし、それはすぐ見えなくなつて、下の方におりてゆきます。

「モシ モシ」「モシ モシ」何度よびかけてみても、相手にはきこえません。そのうちに下の方では羽子つきの音もやんでゐました。

「もう、おうちへ帰らうと」といふ声がして、玄関の戸がガラつとあく音がしました。あたりは薄暗くなり、家の方では灯がつきました。樋にひつかかつてゐる羽子はだんだん心細くなりました。屋根の上の空には三日見え、星がかがやいてきました。とうとう夜になつたのです。ああどうしよう、どうしよう、どうしたらよいのかしら、と、羽子は小さなためいきをつきました。

 星の光はだんだん、はつきり見えて来ます。空がこんなに深いのを羽子は今はじめて知りました。一つ一つの星はみんな、それぞれ空の深いことを考へつゞけてゐるのでせう。一つ二つ三つ四つ五つ……と、羽子は数を数へてゆきました。百、二千、三千、いくつ数へて行つても、まだ夜は明けませんでした。夜がこんなに長いといふことを羽子は今しみじみと知りました。

 今あの羽子板の少女はどうしてゐるかしら、と羽子は考へました。眼のくりくりつとした、羽子板の少女の顔がはつきりと思ひ出せるのでした。羽子板は今、家のなかに静かに置かれてゐることでせう。羽子は、あの羽子板の少女がとても好きなのでした。もう一度あの少女のところへ帰つて行きたい、あの少女も多分、僕のことを心配してゐるだろう、と羽子は思ひました。

 一つ二つ三つ四つ五つ……羽子は何度もくりかへして数を数へてゆきました。

 東の方の空が少しつつ明るんできました。やがて、雲の間から太陽が現れました。薔薇色の雲の間から洩れて来る光は、樋のところの羽子を照らしました。すると、羽子はまた急に元気が出て来るのでした。

行脚怪談袋   支考四條河原に凉む事 付 狸人に化くる噺し

  支考四條河原に凉む事

    
狸人に化くる噺し

 

支考といへるも、芭蕉時分の俳人なり、是世の人の知る所也。生國は近江の者にて、住所は京都なり、或時支考同所三條町笠屋といへる町人の方(かた)ヘいたり、右の者共と同道して、時に夏の暑さを忘れんがため、四條河原の茶屋へ凉みに至り、酒肴(さけさかな)を好みて出ださせ、河原より吹上げる風に身をひやして、四方山(よもやま)の物語りに數盃をかたむく、しかる所へ此の茶屋の給仕の女、年頃も十六七と見えしが、そのよそほひ柳の枝に花を吹かせしにひとしく、せんけんとして美しき事いふばかりなし、支考を初め座中の人々その美麗なるを譽めて、汝はこのちや屋の親ぞくの者か、又は抱への女子(ぢよし)なるかと尋ねけれど、此の女いと恥しげなる體にて、唯打笑ふのみ。一言の答へもなし。連れの中に一人、此の女の身の上を茶屋の亭主に問ひける、時に主(あるじ)申す樣、されば其の事にて有之(これあり)、甞て座敷ヘ出でゝ酒飯の給仕を望む。我れは存ぜぬ女子にて候へば、不審におもひ、いづれ如何なる者にてかく現はれ出でるぞと、其の住所問へ共答へず。人々申し合せとらへんと仕るに、かげろふか稻妻のごとくにて、さらさら手にたまらず、打捨て置けばまたあらはれて、客の座敷へ出で、自(みづか)らてうしを取りて酌を致す也。されども、何の生化(しやうけ)も仕らず、却(かへつ)て調法成る女子にて候ゆゑ、うち捨て置き申す也と語り、何れにも狐狸の類ひに候べし、正體を存じ度(たき)物なりとぞ申しけるが、かの男是れを聞き、いか樣是は怪しき事也とて、座敷へ歸り見るに、彼の女また出でたり。右の男支考を初め、大勢の者どもにも此の次第を告げる。酒も半に及び、互にさいつおさへつ盃のもめる段に及びて、彼の女子(をなご)にあひを賴む。女辭する事もなく、一獻を請くれば、其の時大勢の者云ひ合せて、かれに酒をしひ、醉ひつぶして正體を見屆けんと計りける。怪女は此のたくみをば知らずして、わらはがあひをして貰ひたし、爰にてもつけざしを賴む抔と、盃の數重なるを、甞てめいわくとも思はず、かの女子は引請け引請け呑むほどに、すでに一升程も呑みをはる。され共醉ひたる體ならず、平生(へいぜい)の顏色にて居ければ、諸人(しよにん)けしからぬ事やと思ふ所に、其の中に一人の者申しけるは、女の身としてかく大酒なし、顏色(がんしよく)も違(たが)はず以前の如く成るは、彌々(いよいよ)もつて心えぬ物、變化のたぐひ也。然る上は斯樣(かやう)の酒にて、今いかほど呑ませたればとてやくにたゝずと、側にありし吸物椀のふたを出して、かの女子(をなご)にのまさんと、一献(こん)のみて其の盃をすぐに右の女にさすに、物をも云はず盃を請けて、又重ねて呑む事十餘盃に及ぶ。一座の面々大きに驚きしが、さすが大酒(たいしゆ)なせし故にや、彼(か)の女子(をなご)頭をたれて居たりしが、其のまゝ横にたふれ、前後もしらず寢入(ねいり)けり、其のいびきすさまじき事大方ならず、亭主も來りて此の體を見、能(よ)き時節也。しばりからげんとて、繩を持ち來り後手(うしろで)に搦め、か

たはらにつなぎ置きけり。是を見て大勢また酒盛を始めけるに、支考盃を請けて、

 

  生醉をねぢすくめたる凉み哉  支考

 

と吟じける。扨(さて)彼(か)の女子は暫くが間醉に性を失ひ、一(いつ)すゐの内に思はず姿をゐらはし見るに、そのさま犬の如くなる古狸(ふるたぬき)にてぞありける。大勢是を見て、扨こそかくあるべしと、手を打ちしが、その後亭主に告げて、彼(か)の化物來るといへども、さして害なければ、目を覺ましなばはなし遣(つかは)し然るべしと、申し置きて、皆々その所を歸りしが、亭主も其の詞の如く、翌日にいたりて放ちかへしけり。

 

 

■やぶちゃんの呟き

 ここに出る「生醉をねぢすくめたる凉み哉」は支考の句ではない。芭蕉七部集の一つである「續猿蓑」の「夏之部」にある「納涼」の、「漫興 三句」、

 

 腰かけて中に凉しき階子(はしご)哉 洒堂

 

 凉しさや緣より足をぶらさげる    支考

 

 生醉をねぢすくめたる凉かな     雪芝

 

とある、蕉門の広岡雪芝(せっし 寛文一〇(一六七〇)年~正徳元(一七一一)年)の句である。やはり本作、かなり杜撰と言わざるを得ない。因みに雪芝は芭蕉の生地伊賀上野で山田屋という屋号で酒造業を営んでいた。服部土芳・窪田猿雖らは従兄弟(いとこ)である。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   廣澤の怪異

    廣澤の怪異


Hirosahanokaii

身を觀ずれば岸の額(ひたひ)に根を離たる柴の庵、命(めい)を論ずれば江(え)の邊(ほとり)に繫がぬ月日の明暮(あけく)るゝ命。終の期(ご)を待ちて堅固に行すましたる僧の、嵯峨の邊り、廣澤の水ぎはに住めるを尋ね行きて、一日、法の物語して、今日もくれぬ、愛宕(あたご)の高根(たかね)雲かゝり、小雨おとづるゝ程に、爰に語り明かし給へ、と、とむる、待つ妻(つま)もなく尋ぬる子もたぬ身は、山野、皆、我宿也。殊更、近きに西國修行(すぎやう)の志しあれば、再會、期(ご)し難しと、幸ひに留(とま)りぬ。僧の云く、頃(このごろ)、奇異の事を見侍り、此の庵、五間計り先の水面(すゐめん)に怪しき光りあつて、燃ては消え、きえては燃ゆ。其の半(なかば)に男女の聲して、哭(な)いつ笑ふ聲有り、今よひ又雨也。若(も)し出づる事の在りもやせん、こなたへ、と、程ちかく覗きゐて更(ふく)るを待つ、猶、晝の名殘の法(のり)の咄(はな)しに、夜、闌(たけなは)に世上しづまりて、雨いとど車軸(しやぢく)をなすにぞ、昔しおもふ草の庵(いほり)の夜の雨に、泪なそへ添へぞとかこつべく、漸う牛(うし)みつばかんなるに、いひし如く、靑き火、東西にもえて、水面に二十四、五の法師と十六計りの女とたちて、腰より上、半(なかば)水上(すゐじやう)に出でたり。宗祇、本性、勇猛の士、佛道の志しに又、身を鴻毛(こうまう)よりかろ輕く、世を稻妻の有りはてぬ物と定めたれば、萬(よろづ)怖しと思はず、かの光りの前につとよりて、汝等、いかなる故あつてかく怪異(けい)なる形ちを見するや、と、とふ。法師なりし者、答へて、戀慕執着(しふじやく)の深き心より水中に沈み、愛欲の猛き思ひより、ほむらを燒きて身を焦(こが)すといふ。いづこの人のいかにして、身を徒(いたづら)になし果(はて)けるぞ、女、答へて自(みづか)らは此の北山里、仙應寺(せんおうじ)と申す所の者、僧は高雄(たかを)の何某(なにがし)に侍り。一とせ三月(やよひ)廿一日(はたちひとひ)、此の山、女人禁斷なれど、此の日計りは容(ゆる)さるゝにより、友どち一人(ひとり)二人、山ごえに詣で侍り、いかに悲しき前世(ぜんせ)の因緣にや、此の僧の美(び)なるを見そめしより、いとをしき心、身を責め、歸らんとする足、とく、たゝんとするに力なきを、友なる人、早く見とりて、さまざま慰め、暮れなば此の山に女はおかじ、と諫められ、力なく里に歸る、いとかりそめのまよひの雲、かの峯に立覆ひ、身はうき嵯峨に有りながら、一念の化女(けぢよ)となり、夜每に、かの人の枕にそひて、かきくどく。人も始めは松が枝(え)の、嵐につよくこたへしが、雪には折るゝ折ふしの、つもる思ひを哀れとて、情の道も淺からず、あれなる岨(そば)の岩(いは)がねを、夜ごとにさがへかよひし也。我れ、おちにきと人にかたるなと、世の人聞(ひとぎゝ)を恐しに、さなきだに世の人の、あしき道にはさがなく、鳴瀧川(なるたきがは)の音たてゝ、あだ名も四方にもれ行きぬ。砥(と)とりの山の時鳥(ほとゝぎす)、自(おの)が刀(かたな)の身の錆なれば、なき名のみ高雄の山と、かこつべきよすがもなし。つらき世をへんより、契りを後の世にとちかひて、

   恨みわびほさぬ袖だにある物を

       戀に朽ちなん名こそ惜しけれ

と言捨てゝ、二人、手に手を取り、此の池に身をなげぬ。月はひとつ、うき身はふたつ、藻にうきて、魂(たましひ)は惡趣(あくしゆ)にしづみ、紅蓮(ぐれん)の氷(こほり)にとぢられ、刀林(たうりん)の枝(えだ)に身をさく、是、皆、自(みづか)らなすわざにて、持戒の僧をおとす地獄のくるしみ、助け給へ、と淚を波に諍(あらそ)ふ、祇、又、とふ。みるが内に、互(たがひ)に水をすくひ、藻を抛げかけるはいかに、二人、答ふ。絶間なき思ひのほむら、一身をこがすのみか、僧は女の火を悲しみ、女は僧の焰(ほのほ)をなげきて、せめてや暫(しば)し助かると、互に水をかくるに侍りと、又、問ふ。かたがたえんぶに來りてあるほど、地獄のくげん忘るゝにや。答へ。更に其のいとま、なし。たとへば鐘の千里(ちさと)にひゞくは如し、假(かり)に此の土にま見ゆといへども、猶、本心は地獄に在りて、須臾の隙なし。見たまへ今はうたかたの、あはれにきゆる限りなり。跡、とはせ給へ、といひて、手を取りくむと見えし、忽然と消え失せて、跡もなし。一文不知(もんふち)の大俗すら、是ほど迄まよふは、そば目、はづかしからん。出家の身には、にくしともいふべけれど、此のまとひ計り、賢愚僧俗かはりなき習ひなれば、只、淺ましき業因といふべし、と打かたりて、二人共に草庵に入り、讀經作善(どきやうさくぜん)し、猶、能く吊(とむら)ひ給へ、といひのこして、祇は、あけの日、京に歸りぬ。

 

 

■やぶちゃん注

・「廣澤」広沢の池。現在の京都府京都市右京区嵯峨広沢町にある。東西五十メートル、南北二十五メートル、周囲約一・三キロメートルほどの自然湧水池で、現在の最深部は池の南部分で一・八メートルある。

・「岸の額(ひたひ)」岸辺の池に突き出た部分。

・「愛宕の高根」愛宕山。現在の京都市右京区の北西部、嘗ての山城国と丹波国の国境にある山。広沢の池の西北約六キロの位置に当たる。

・「修行(すぎやう)」ママ。

・「五間」約九・一メートル。

・「昔しおもふ草の庵(いほり)の夜の雨に、泪なそへ添へぞ」の「添へぞ」の「ぞ」はママ(「泪なそへ添へそ」の誤り)。これは「新古今和歌集」の巻三・夏歌の藤原俊成の一首(二〇一番歌)、

 昔思ふ草の庵の夜の雨に淚な添へそ山ほととぎす

である。

・「かこつべく」(の和歌のように)涙を流して歎き訴えるかのように(激しく雨が降る)。かくして季節の指定は本文にないが、作品内の時節は、この和歌からフィード・バックしてやはり梅雨時であることが判る。

・「宗祇、本性、勇猛の士」宗祇(応永二八(一四二一)年~文亀二(一五〇二)年:姓は「飯尾」(いのお/いいお)ともされてきた)の出自については。永く紀伊或いは近江かと言われてきたが、近年、宗祇の父は近江国の守護職であった六角家の重臣で守護代であった伊庭氏であり、現在の滋賀県東近江市能登川町附近を出身地とすることが学会で認められている。

・「ほむらを燒きて」「ほむら」は「炎・焰」と書き、ここは心中で燃え立つところの激情を指す。重語のように見えるが、「ほむらをむやす」などの表現はしばしば用いられる。ここは心であり、されば次にその炎が実体(に見えるところの)肉「身を焦す」と続くのである。

・「仙應寺(せんおうじ)」不詳。現在、このような地名も寺も広沢の池の北方には存在しない。敢えて似たような地名を探すと「嵯峨観空(かんくうじ)寺」同「観空寺谷」という地名を見出せはする(観空寺は広沢の池の西一・三キロ弱の京都市右京区にある真言宗寺院)。

・「高雄(たかを)」現在の京都市右京区高雄にある真言宗高雄山神護寺のこと。

・「三月廿一日」明治維新まで神護寺は女人禁制であった。しかし、何故、この日だけそれが解かれるのか? 始祖空海(宝亀五(七七四)年~承和二年三月二十一日(ユリウス暦八三五年四月二十二日相当)の遷化の日であるからか?

・「化女(けぢよ)」「けによ(けにょ)」とも読み、これは本来の仏語では仏菩薩が仮に女人の姿となって現れたもの、「権化(ごんげ)の女人」を指すポジティヴなものであるが、ここは鬼女・夜叉とまでは言わずとも、恋情に燃えた執念の魔性の生霊、所謂、男を無意識のうちに破滅させてしまう「運命の女」、ファム・ファタール(Femme fatale)の魍魎(すだま)の謂いであろう。

・「さがへ」嵯峨へ。

・「おちにきと人にかたるな」(若き僧は女に、「決して)私がかくもそなたへの恋にすっかり落ち(結果として「堕ち」)てしまったということを誰にも語ってはならないよ」。

・「あしき道にはさがなく」この「さが」(言うまでもなく「嵯峨」の掛詞であるが)は難しい。恐らくは「相・性」の意味でも、広義の良い部分と悪い部分、人間の善悪の謂いであろう。即ち道から外れた世界には悪行を抑制するような良い性質はなく、の意でとっておく。

・「鳴瀧川」現在の右京区北部の鳴滝川(下流は御室川)。以下、女色に溺れた破戒僧という徒名(あだな:艶聞(えんぶん)がごうごうと瀧の鳴り響くように広く世間に広く知れ渡ってしまったことに掛ける。

・「砥(と)とりの山の時鳥(ほとゝぎす)」刀剣の研磨に用いる砥石としては、古くからこの鳴滝川近くの鳴滝山産の鳴滝砥が最上質(仕上砥として使われる)とされ、古歌に、

 高雄なる砥取りの山のほととぎすおのが刀を研ぎすとぞ鳴く

というのがあり、ここはそれに掛けて、下句を「自(おの)が刀(かたな)の身の錆なれば」とインスパイアしたのである。無慚なるシチュエーションながら、筆者の筆はなかなかにウィットに冴えていると私は思う。

・「なき名のみ高雄の山」これは「拾遺和歌集」の「巻九」の「雑下」にある八条の大君(おおいぎみ)の一首(五六二番歌)、

   高尾にまかりかよふ法師に名立ち侍けるを、
   少將滋幹(しげもと)が聞きつけて、まこ
   とかと言ひ遣はしたりければ

 なき名のみたかをの山と言ひたつる君はあたごの峰にやあるらむ

(私のいわれもなき浮き名を高雄の山のように声高(こわだか)に言い立ているあなたは、或いは愛宕(あたご)の峰ならぬ、私の忌まわしき仇敵(あた)ででもあるのでしょうか?)

・「かこつべきよすがもなし」(と前の歌の如く余裕で掛詞の)口実を設けては、はぐらかす手段も最早、ない。

・「恨みわびほさぬ袖だにある物を戀に朽ちなん名こそ惜しけれ」「百人一首」の六十五番で知られる、「後拾遺和歌集」の「巻十四」の「恋」にある相模の一首(八百十五番歌)をそのまま投げ込んである。

・「惡趣(あくしゆ)」広義には前世での悪事の報いとして死後に堕ちる、六道の内の地獄・餓鬼・畜生の三悪道を指すが、ここはその最悪の下辺たる地獄に限定されている。

・「紅蓮(ぐれん)の氷(こほり)」バラエティに富んだ地獄の中では、比較的マイナーな「八寒地獄」の第七である「鉢特摩(はどま:Padma:「蓮華」を意味する梵語の音写)地獄」の「紅蓮地獄」のこと。ここに落ちた者は恐るべき寒さによって皮膚が裂けて広がり垂れて激しく流血して真っ赤になり、その姿が紅の蓮の花に似るとされることからの漢意訳。但し、後で火炎地獄に二人は堕ちていて、故に互いに水を掛け合っている描写が出るのとは一見、矛盾して見えるが、そもそもが後で「假に此の土にま見ゆといへども、猶、本心は地獄に在りて、須臾の隙なし。見たまへ今はうたかたの、あはれにきゆる限りなり」と述べている如く、罪深き亡者は分身となって複数の地獄に同時に堕され、共時的に責苦(この場合は真逆の)を受けるのであるからして、何ら、おかしくはない。

・「刀林(たうりん)の枝(えだ)に身をさく」私の最も偏愛する「刀葉林」或いは「刀葉樹」などと称する地獄の一種。愛欲に溺れた男女が堕ちるとされ、男の亡者が地面に立っていると、目の前の一本の高い樹の上に裸体の女が立っていて、おいでおいで、をする。むらむらときた男が木を登り始めると、木の幹や枝は総て刀となり、木の葉は棘と化して、激しい痛みの中で全身はずたずたになる(陰風の吹けば元通り)。ところがそんな思いをして頂上に辿り着いてみると女はおらず、木の元の地に立って、おいでおいで、をする。またむらむらときて……と、これをシジフォスの如く繰り返すのである。

・「えんぶ」「閻浮提(えんぶだい)」「閻浮洲(しゅう)」「南瞻部(なんせんぶ)洲」のこと。元、梵語で、宇宙を構成する四洲の一つ。須弥山(しゅみせん)の南方の海上にあるとされる島の名で、島の中央には「閻浮樹(えんぶじゅ)」の森林があって、諸仏が出現する島とされた。本来はインド自体を指したが、仏教伝播に伴い、広く人間世界、現世を指す語となった。

・「くげん」苦患。

・「須臾」「すゆ」あるいは「しゆゆ(しゅゆ)」と読み、ごく僅かの間。

・「一文不知(もんふち)」文字一字さえも読み書き出来ないこと。

・「そば目」かく傍(はた)から(我らのような)第三者に見られること。

・「まとひ」ママ。底本の「まどひ」(惑ひ)の誤植であろう。私の所持する「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)では「まどひ」となっている。

・「讀經作善(どきやうさくぜん)」ルビ(読み)はママ。「さぜん」の誤りであろう。私の所持する同前の「西村本小説全集 上巻」では「さぜん」となっている。
 
 画像は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング、補正したもの。

デパートになった阿蘇山   梅崎春生

 

 阿蘇山に登ることになった。

 初めは登る予定はなかったのである。囲碁の本因坊戦の四局目の観戦に、私は福岡市に行った。済んだらすぐ日航機で帰京する予定だったが、その前日の夜酒を飲んでいたら、NHKの海野君が、自分は九州は初めてだから二三日居残って見物して行く、という。どこを見物するんだと訊ねたら、雲仙などを考えている、との返事なので、私は奮然(すこし酔っていたから)として、

「雲仙なんかよしなさい。あれは俗化していて、箱根なんかと変りはない。阿蘇に行きなさい。阿蘇みたいな山は、日本中どこにもない。何ならぼくが案内して上げる」

 というようなことを言ったらしい。

 海野君は早速私からキップを取り上げ、翌朝眼をさましたら、二三日後の深夜便のキップに切り換えて、持って来て呉れた。切り換わった以上、もう東京に戻るわけには行かない。帰京する連中を見送って、われわれ二人は博多駅から熊本向けて出発した。

 と書くと、いやいやながら同行したようにひびくが、実はそうでない。私は昭和七年から十一年まで、熊本の高等学校の学生で、阿蘇にも何度も登ったことがある。だから熊本ならびに阿蘇には郷愁があって、いつかは熊本に行って、阿蘇に登って見たいと、かねがね考えていた。

 でも、そのためにわざわざ東京から熊本に行くのはおっくうだし、ひとりで山に登るのも骨が折れる。いつかその機会もあろうかと見送っている中に、海野君の誘いに触発されて、行くことに踏み切ったのである。むしろ私の気持はうきうきとはずんでいた。

 熊本着。車で市中を一巡。熊本城の櫓(やぐら)(西南戦争で焼かれた)が復元されている。近頃あちこちの城の天守閣や櫓が復元され、それも純粋に昔を偲(しの)ぶとの意味ではなく、もっぱら人寄せや金儲けのための事業であることについても、一言ふれたい気がするが、それはあと廻しにして、かんたんに言うと今度の阿蘇登山は失敗であった。

 私ひとりなら惨めな気持になるだけですむが、案内人としての役目も引き受けていたので、その点私は面目を失した。大口をたたいて人を案内することは、もう今後やめようと思う。

 先ず悪いことには、天気が良好でなかった。熊本着の日までは晴れていたのに、宿に泊って翌朝になると、空は暗くどんより曇っている。ラジオで聞くと、梅雨前線が張り出して来たのだという。山間部はすでに降っているらしいが、今更とりやめるわけには行かない。ハイヤーをたのんで出発した。阿蘇に登って今日の夕方は雲仙に行こうというのだから、相当の強行軍である。本来なら汽車で阿蘇駅(元の坊中駅)に行き、登山バスで行くべきところだが、それでは時間が間に合わない。

 道は意外にいい。大津街道をひた走りに走って、途中からがたがた道になったけれども、これも来年までには舗装されるとのことだ。登山口まで来るとまた立派な道となり、登山バスや遊覧バスがすいすいと行き交っている。

 私たちの車もそれにまじって、うねうね道を登って行くのだが、もう小雨や霧が立ちこめていて、視界がほとんどきかない。外輪山も見えなきゃ、山頂も見えない。エレベーターに乗っているのと、ほとんどかわりはない。

 登山口の終点に大きな休憩所があって、その二階に行くと、ロープウェイの駅がある。八十人乗りという巨大なもので、それに乗るとまたたく間に山頂につく。便利と言えば便利だが、ロープウェイ代も安くはない。

 それを降りたらもう火口が見られるかというと、そんなわけには行かない。入園料というのを出さねば、入れないのである。山なんて公共物だと思っていたら、動物園なみに入園料を払わなければならぬ。

 阿蘇町と県当局の間に、山頂の所有権についていざこざがあって、町が強制措置として柵をつくって入園料をとる、という記事を三四年前週刊誌あたりで読んだことはあるが、まだその紛争は解決していないらしい。毎日何百何千の登山客があるか知らないが、なれあいで紛争を引き伸ばして、入園料を儲けているんじゃないかと、ついこちらもひがみたくなる。一日何万円という入園料だから、ちっとやそっとでは手離せないだろう。

 改札を通っていよいよ火口かと思うと、傍に小屋があって、

「上は泥でぐしゃぐしゃですバイ。この靴ばはきまっせ」

 と、貸長靴代が五十円。

「洋服が濡れますバイ」

 で、貸雨合羽代が五十円。そこから歩いて火口まで一分もかからないのだから、商魂たくましいと言おうか、あっぱれなものである。長靴の足を踏み出すと、すぐそこに大きな賽銭箱がでんと置いてあって、その横を通らねば登れない仕組みになっている。

「この上まだおれたちから、賽銭まで取り上げるつもりか!」

 怒ってのぞき込むと、一円玉が四個しか入っていなかった。まあそんなとこだろう。賽銭箱などというものは、道ばたにまで出しゃばる性質のものでない。道ばたで金を乞うのは、乞食だと昔から相場がきまっている。

 さて、火口に到着。土は小雨に濡れてはいるが、別にぬかるんでもいない。長靴なんかにはき替える必要はなかった。視界は極度に悪い。火口をのぞいても、見えるのはせいぜい三四メートルで、あとは白い霧の底に没している。煙も見えないし、景色も皆無である。海野君も失望したと見え、にやにやしながら言った。

「つまりデパートに登ったのと、同じことですな」

「うん、うん。そう考えてくれれば、ありがたい」

 エレーベーターに乗って八階に行き、エスカレーターで屋上に登る。四方を見渡して、八階大食堂に戻り、ただの茶を飲んで、またエレベーターで降りて来る。

 阿蘇の方も、バス、ロープウェイ、入園料、靴まで貸してもらって、つまり火口に到達するまで、足を使わないという点では、デパートの屋上登りと何の違いもない。

 違うところは、デパートの方は乗り物がただなのに、この阿蘇デパートの方はおそろしく金がかかる。一挙一動に金がかかっている感じで、豪華といえば豪華だが、腹立たしいといえば腹立たしい。

 私の学生時代は、阿蘇は山であった。われわれは足で登って、足で降りて来た。今はそれが山でなくなった。しかも天気が悪くて展望がきかないとあっては、鋏(はさみ)をもぎとられた弁慶蟹(べんけいかに)みたいで、目もあてられぬのである。案内人としての私の面目は、丸つぶれであった。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第六十三回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年七月九日号掲載分。最後から四段落目の冒頭の「エレーベーター」はママ。誤字か誤植であろうが、「えれぇー」エレベーターに乗っちまったの洒落でないとは断言出来ぬので暫くママとする。

……しかし阿蘇山よ……これだけ梅崎春生を怒らしたけれど……彼はちゃんと遺作となってしまったこの四年後の「幻化」のラスト・ロケーションには君を選んだのだ。それは、きっと恩にきらねば、なるまいよ…………(――リンク先は私のPDF版(全)。ブログ版がよいとならばこちらを――)

「NHKの海野」これは単なる推測であるが、「将棋ペンクラブログ」の「NHKで放送された棋士の忘年会」の記事に出る。海野謙三氏のことではあるまいか? この記事は冒頭で『将棋世界』(昭和四六(一九七一)年七月号)の海野謙三氏の随筆「印象に残った将棋放送」を引いてあるが、そこには、去る四月『末日で私はNHKを退学したが、実はすでに』三年前に『卒業していたのである。私はNHKに入学してドラマや演芸の勉強をしたこともあるが』、二十数年間、『放送番組としては異色の囲碁将棋の時間を主として担当できたことは何にもかえがたい喜びであり、光栄であった。本番組が発足したのは』昭和二十三(一九四八)年四月であるが、『よちよち歩きの坊やが今日よくも逞しい青年に成長したものだとまるで我が息子を見る気持ちで肩の一つもたたきたい』とある。]

2016/07/24

僕の

Thermostat は截れてしまつた
 
二重螺旋は美しいけれど
 
僕はRNA生物だ
 
その紐を辿つて行くと
 
膝を抱へて顫えてゐる
 
少年の僕が
 
其處には
 
居るだけだ

松尾芭蕉を主人公とする怪談集「行脚怪談袋」原文 電子化始動 /  芭蕉翁美濃路に越ゆる事 付 怪しき者に逢ふ事

行脚怪談袋

 

[やぶちゃん注:作者不詳で著作年代も不詳の、松尾芭蕉に仮託した諸国怪談物。冒頭から芭蕉を寛文より天和年中(一六六一年から一六八四年)の俳人とするトンデモ本の類いである(芭蕉は寛永二一(一六四四)年生まれで、元禄七(一六九四)年に没しており、延宝五(一六七七)年か翌年辺りで俳諧宗匠として立机、蕉風開眼の「古池や蛙飛びこむ水の音」が貞享三(一六八六)年であるから筆者の怪しさは半端ではない)。異本も頗る多い。

 実は私は古書の活字本を二十代の頃に手に入れ、読んだ記憶があるのであるが、二、三日前から書棚や書庫を探っても見つからない。恐らくは押入れの中に積み上げたジュラ紀並の古層で化石化してしまっているものかと思われ、そうすると、何だか、無性に電子化したくなってしまった。昨日、ネットで調べていたところが、ごく最近、現代語訳が出たらしい。さてもさても! あのトンデモ本さえも現代語訳でないと読めない日本人になってしまったかと思ったら、ますます憤りの濁った泥坊主というか、鬱勃たるパトスというかが、これ、ふつふつむらむらと湧き上がっててしまったのである。されば、シンプルな電子化のみで、不遜ながら、カテゴリ「松尾芭蕉で起動することとした。

 底本は「宗祇諸國物語」同様、大正四(一九一五)年博文館刊の佐々醒雪・巌谷小波校訂「俳人逸話紀行集」の版(楽天居の上下に冊六巻本)を国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認する。踊り字は「〱」「〲」は正字化した。読みは底本に附されたものの中でも、難読或いは振れそうなもののみを選択した。句の前後は一行空けを施した。

【2016年7月24日 藪野直史】]

 

行脚怪談袋上目錄

一 芭蕉翁美濃路に越ゆる事

  
 怪しき者に逢ふ事

一 支考四條河原に凉む事

  
 狸人に化くる事

一 芭蕉翁大内へ上る事

  
 狂歌に得手し事

一 去來伊勢參と同道の事

  
 白蛇龍と成る事

一 芭蕉備前の森山を越ゆる事

  
 猅々の難に逢ふ事



 


行脚怪談袋上

 

  一の卷

 

  芭蕉翁美濃路に越ゆる事

   
 怪しき者に逢ふ事

 

抑も芭蕉翁と申すは、日本(ひのもと)に名を得し俳人にて、寛文より天和年中の人也。此翁の一句に、

 

  物言へば唇寒し秋の風

 

是は芭蕉翁、延寶年中我が俳道を諸國にひろめんが爲めに、一年行脚の如くにさまをかへ、日本六十六ケ國を廻國せり。右の内尾州より美濃路に懸り、同國倉元山(くらもとやま)の麓を通りけるに、頃は秋の半(なかば)にて、山中いとも枯れ枯(が)れしく、木の葉黃に染(そ)み草は生ひしげれどもかげうすく、さゝ吹く風は身にしみじみと、木がらしに似たり。翁此の淋しき山道を、あなた遙かに見やり、誠(まこと)や春夏は浦のとまやの景色迄も、物浮き浮きしく人心を晴らす、秋多は早(はや)よろづ景色變りて、物枯れたる有樣、されば古しへ定家寂蓮に西行の三夕(さんせき)も、各々秋の鉢の淋しき體(てい)をよみ侍る。叉此の四季を人間(にんげんん)に譬(たと)へて見れば、一歳寄(より)十(とを)有(ある)五六迄は春なり、卅有餘よりすゑは秋多におもむけば、段々元氣おとろへ、精心(せいしん)やせるの道理にて、我れも今四十餘(よ)を得る五十に近し、是れ秋の末ならん。おしつけ我が身も冬となり、風に此世を誘はれ行かんはかなさよと、山のけしきを我が身にたとへて、心細くも唯一人、寂暮(さびくれ)たる山道を、たどりたどり行く程に、日も西山に沈み、在りし草木もほの暗く思ふ所に、不思議や遙かの谷底にて、かん馬のおとかまびすしく、太刀打の體(てい)、耳もとに聞えければ、翁思ふ樣、此の所は倉元山の山中にして、人の住むべき所とも覺えず、殊更かゝる太平の代(よ)に、此の谷底にてかん馬の音なす事、若(も)し山賊のやから成るか、山賊とても海逍にこそ居るべきに、遙かの谷底にて太刀打する理窟なし。是まさしく狐堤變化(こりへんげ)の類ならん。何にてもあやしき事也。世の人の物語りにも成らんと、山傳ひに半町程かの谷底ヘ下り見るに、下は松柏茂り底のとまりを知らず。其の上につたひ下るべき道もなければ、ばせをも詮方なく、とある岩角(いはかど)に腰打懸けて、しばし下を窺ひ居るに、かん馬の音暫時にしてしづまるとひとしく、何方よりか來りけん。其の體ばうぜんたる武者一騎、緋おどしの鎧を着し、鹿の角にて鍬形打つなる甲を被り、金作(こがねづく)りの太刀を佩き、手に一本の矢を携へ、忽然とあらはれ出で、芭蕉翁の二三間向ふに立居ける。芭蕉翁不思議の事におもひ、右の武者に問ふて云く。今世の豐かにして、又此の所は山中の谷底(たにそこ)にて、人の在るべき所にあらず、然るに、其の元は甲冑を帶(たい)し、此の邊に在るこそ不思議なれ、抑も、いかなる人ぞといふ。武者は是を聞いていと哀れ成る體(てい)にて、泪をはらはらと流し申しけるは、我れ翁を見るに、一和(いつわ)の道に心を寄せ、春は花を賞し秋は月に心を寄せ給ふ。句案にのみ埋みて、忿惡邪橫(ふんあくじたわう)を心と仕給はず、誠に佛法法力の手綱たり。然るが故に我れ翁の爰へ來り給ふをあこがれて、扨こそからはれ出でたり。我等何をか包み申さん。我れ事は其の昔、壽永元曆年中此の山續の木曾路より、朝日將軍義仲にかしづき、粟津の原にて討死せし今井四郎兼平が亡念にて候、我れ忠勤を勵んで命を捨てしとは言(いへ)ども、存生の軍場にて、多くの人を討取りしに依り、しゆらの苦患遣瀨なく、生々世々生を替ふる事あたはず、何卒翁の教訓をも得、叉は佛果をも此の後遂げ得たし、二つには、此の矢の根なり。是こそは木曾源氏に於て、澤上(たくじやう)の矢の根とて十本の矢の根有り。是亦澤上と號するは、人王(にんわう)三十九代天智天皇未だ御即位あらざる内、木の九殿と申すに御座在り、此の節諸國の朝敵追ばつの爲めに、澤上速(たくじやうそく)と言へる者に申し付けられ、此の矢の根十本をうたせらる。澤上そのせつ申し上げるは、此の矢の根決して敵方へ放ち給ふな、陣中の寶(たから)と仕給へ、必らず必ず敵亡ぶべしと言へり。天皇敵を誅ばつし給ふに、此の矢の根陣中の守護神と成りて不思議有り、其の後ゆゑ有つて木曾源氏に傳はれり。然る所木曾沒落の砌(みぎ)り、此の矢の根一本うせたり。不吉と思ふ所、はたして主君義仲粟津が原にて討死あり。餘類さんざんに成りて、兎角いふ某(それがし)も粟律のみぎりにて自害せり。主君は粟津の一ケ寺へはふむりて、義仲寺と號す。且また右の矢の根九本は、義仲寺へ納まり、我れ一本不足成るを、黃泉(くわうせん)の下迄深くなげきしが、しゆらの苦げんの内にても、つひには此の矢の根を尋ね得たり。何卒義仲寺へ納めんが爲めに賴み候なり、足下(そくか)四五日の内には、義仲寺の邊へいた給はん。ねがはくば此の品をかの寺へ納めたび給ヘと、則ち右の矢の根を芭蕉翁の前へ置き、其の後芭蕉に向ひて、人道一和の教訓を請(う)け、その上又申す樣(やう)、足下若し義仲寺へ至り給はゞ、何卒某等(ら)が佛果をもとひくれらるゝ樣に、住職へ傳へ給はるべし、是のみ賴み入ると云ふに、芭蕉も奇たいの事に思ひ、逸々(いちいち)承はり屆け候由を答へて、夢にや有りけんうつゝにやありなん。あらはれし武者と見えしは、一向(ひとむか)ひの木草と成り、秋風の身にしむる計りにて、あたりを見れば矢の根計りで殘りける。芭蕉はうつかりと立居(たちゐ)たる所に、告げし矢の根殘りし上は、疑ふ可らず、木曾家の武者現はれ出で、我れに此の義を賴むとのこと也と、武者の立ち居たる方を見やり、高々と覺え得たる御經を讀誦して追善をなし、兼てうかみし事成れば、一句つらねし其の發句にこそ、

 

  物いへば唇寒し秋の風 ばせを

 

と讀誦の唇へそよ吹く風のしみしを、即座に吟ぜしとかや、扨(さて)ばせをは、夫れより四五日の内、近江路へ懸り、義仲寺(ぎちうじ)へいたり、住僧にしかじかの事を語り。一本の矢の根を渡し。十本の數(かず)揃へける。是等の供力(くりき)にや、芭蕉の遺言にて、義仲殿と後合(うしらは)せに翁を葬ふりしと、世にかたり傳へたり。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   金剛山の古跡

    金剛山(こんがうせん)の古跡


Konogousenokoseki

一時(じ)、河州(かしう)に徘徊して金剛山にのぼり、峰つゞき西につたひて、千破屋(ちはや)の城跡を見るに、楠正成が對陣の年星(ねんせい)、既に百六十餘年に及ぶといへども、修羅鬪靜(とうじやう)のちまたとて、小笹(をざゝ)の根萩(ねはぎ)の葉陰に髑(され)たる髏(かうべ)、苔に朽ちたる屍(しかばね)、爰かしこに散亂したる、其の時有樣見る心ちに哀れなり。誠に、世にある人は、しるしの塚を、嚴重(いかめし)く石を疊み、木をうゑてだに、去ものは疎(うと)く成りもて行きて、果(はて)は農業の爲めに耕(しきか)へされ、或は家作の地に移りかはるに、ゆかりの人もなく、跡とふ子孫ももたぬ身の、古郷(こきやう)をさへ遠く離れ來て、刄(やいば)の錆に身を破られ、名利(みやうり)の爲めに死を輕(かろ)くして、山野、海岸の知らぬ境に埋(うも)れ果(はて)なん、哀れにも淺ましく覺ゆ、萬靈平等の廻向(ゑかう)をなし、猶ほ西に步むに、一とせ、正成が、時を謀りて蟄居したる。觀心寺(くわんしんじ)も、西にちかし、ときけば、詣なんと、九折(つゞらをり)を凌ぎて、一所の松の茂みに入る。爰に二十計りの若侍と半百の男と、鎧、物具(ものゝぐ)、長短の太刀、十文字によこたへ、甲(かぶと)は着(き)ず、髮をからわにとり上たるが、只今、人と戰ひたるとみえて、所々、血にそみ、草座(さうざ/クサ)に擲足(なげあし)して大息つぐさま、無下(むげ)の仲間若黨などゝはみえず、かゝる所へ行きかゝらんより、道をかへんにはしかじ、孤路(こみち)によらずとこそいへ、と立歸らんとするに。侍は早(はや)、疾(とく)より見つけたると覺えて詞をかけていふ。御僧は世を塵芥(ぢんがい/チリ)に準(なぞら)へて、かろく捨てゝ、命を泡沫(はうまつ)に定めて後をまたず。行脚の行先を身の終ふる所と悟る身の、今、此の刃傷(にんじやう)のさまをけうとく怖(おそろ)しと逃去り給ふや。何ぞ一句一文の佛教を示し給はぬ、と恥しめたる、我ながらのがるゝに所なく立歸り、抑(そも)此の山中にかゝるふるまひは、と問ふ。されば只今の過言(くわごん)、申す所、必ず腹ばし立て給ふな、とかくして佛談教法(けうはふ)の道を聞き、諸罪造惡(ざうあく)の身の後の世を助からんと思ふより、一向(ひたすら)に呼返(よびか)し侍り、されば、人に物申さんに、身の上をあかさずば、いかに打ちとけ給はん。いで、我をかたり申さん。抑(そもそ)も元弘の帝(みかど)、東夷を減ぼし給はんとて。近臣より始めて、諸國の武士に密勅の御賴(おんたの)みあつて、日本國中、靜ならず。戰場の巷となつて、動亂、更に止む時なし。爰に楠正成は、別して御夢の告げによつて賴み思召たりといへど、御夢の事は全く跡なき事にて、正成は數代、禁庭につかへ奉る士也。兼々、勅を蒙りて無二の御方(みかた)なりといへ共、不將(ぶしやう)の身なれば、諸人、侮りて下知に隨ふ事、難かるべしと、謀つて密かに奏し申し、楠といふ字訓によつて勅使を下されければ、扨は楠は神慮佛意にも叶たる侍ぞ、と、諸勢、心を合す。是、正成が智謀の始め、此の後ち、はや赤坂天王寺、所々の戰ひに刄(やいば)をぬかずして士卒を亡ぼし、追はずして敵を百里の外(ほか)に拂ふ。方便(てだて)、更に凡慮の及所に非ず。神仙術師も何ならぬ謀(はかりごと)にのみ、人を誑かし、無量の命(めい)を取しに依つて、衆人の恨一人に歸して、修羅の戰場を暫くも赦されず、魔王の奴となつて、縱橫に責めつかはるゝ、身、不肖ながら、我れ我れ々一人は和田氏一人は恩地(おんぢ)何某(なにがし)、楠一家の氏族たりし罪惡に報ひて、晝夜修羅の戰ひに隙(ひま)なく、敵(かたき)にうたれ、味方を討ち、或は身の肉(しゝむら)をさきなど、今、朝庭、威(ゐ)、衰へ、武運、日々に盛んに、一度、官軍たりしもの、子孫、悉く山野にまよひ、先祖の爲め、供佛施僧の營みもなし。適(たまたま)旅僧の廻向(ゑかう)の聲に、暫く息をつぐの暇(いとま)有りて、淺間しき形を見(まみ)えぬ。相構へて、楠一家の後生善所(ごしやうぜんしよ)を祈り給へと掌(たなごゝろ)を合はせける。其の聲、初めはいとしとやかに、なかばは高聲(かうじやう)に、後(のち)は次第に弱く成りて、偏へに寢おびれたるものゝごとし。祇、打諾(うちうなづ)き、心安かれ、と領掌(りやうじやう)し、いで、此の人々の今すむ所の有樣、なす所の諸行(しよぎやう)、尋ねとはんと、二つ三いひ出るに、二人ながら目前に消失する事、朝日にむかふ霜のごとくなり行きて、宗祇ひとり、忽然と草の莚(むしろ)に殘る、げに有(う)といふ身上さへ、あるに定めぬ世の中なるに、此幻のおもかげの、いつ迄殘り果つべきなれど、かゝる恠しき事もこそ、と思ふに、今更、世のはかなさの身にそゝげり。正(まさ)しく爰に居て、と、いひしかく語りしなど、見めぐれど、二度(ふたたび)、其の形ちなく、其の聲もきこえず。只、松栢、木高(こだか)く、風に動き、荻、薄の、露やどしたるのみ也。

   おもかげははかなく消えて跡にだに

        いつ迄やどる草の葉の露

といひ捨てゝ、殊更、此人々の菩提、念頃(ねんごろ)に𢌞向(ゑかう)し、其の夜は觀心寺の堂前に、經、ずして、明かしにけり。

 

 

■やぶちゃん注

・本話は後の上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年)の、西行が讃岐の陵墓で崇徳院の怨霊に逢う「白峯」や、俳諧を嗜む隠居が豊臣秀次や連歌師里村紹巴の亡霊に遭遇して危うく修羅道へ連れて行かれそうになる「仏法僧」に通底するものを感じさせる。

・「金剛山」現在の奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境にある、金剛山地の主峰で標高千百二十五メートル。

・「觀心寺」金剛山山頂からは西南西七・二キロの位置にある、現在の大阪府河内長野市寺元の真言宗檜尾山(ひのおざん)観心寺。ウィキの「観心寺」によれば、観心寺は楠木氏の菩提寺で、楠木正成(永仁二(一二九四)年~延元元/建武三(一三三六)年:「湊川の戦い」(現在の兵庫県神戸市)で足利軍と戦って敗れ、弟正季とともに自害した。享年四十三)及び南朝所縁の寺としても知られている。正平一四(一三五九)年には当寺が後村上天皇の行在所となっており、境内には後村上天皇檜尾陵がある。『境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だけが建てられた、未完成の建築である。伝承によれば、楠木正成は、建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたため、建築が中断され、そのままになっているという。討ち死にした正成の首は当寺に届けられ、首塚に祀られている』とある。

・「半百」「はんはく」で「半白」に同じい。白髪まじりの頭髪、ごましお頭のことであるが、誤字ではなく、漢語にあって文字通りの百の半分であるから、人生五十で白髪と通底する語と言える。

・「髮をからわに」「からわ」は「唐輪」で、これは通常は「唐子髷(からこわげ)」(中世から近世へかけて元服前の子供の髪の結い方の一つで、唐子のように髻 (もとどり) から上を二つに分けて頭の上で二つの輪に成したもの。近世には女性の髪形となった)を指すが、ここは乱闘によって大童となった髪を唐輪のような感じに引き上げて括っていると読む。

・「孤路(こみち)によらずとこそいへ、」これは「論語」雍也篇に由る「行不由徑」(行くに径(こみち)に由らず」の謂い。即ち、この故事成句の原義は「裏道や小道などを通らない」ことから、「常に正道を歩いて公明正大である」ことの譬えであるが、見るからに妖しげな彼等(宗祇は既に現実の不審者ではなく怪異・亡霊として捉えているのである)を見て、確かに、「常にどっしりとして心を落ち着け、行く道を堂々と歩いて行かねばならぬ」、とはいうものの(妖異と不測の事態を考えてそこを避けんとした自身の弱さを行間に滲ませつつ、である)で、それを「こそ」已然形の逆接用法で上手く表現したのである。

・「けうとく」この場合は形容詞を修飾してその程度の甚だしいさまを意味する語ととる。

・「必ず腹ばし立て給ふな」「ばし」は副助詞で、下に禁止の表現を伴って、「~など決して……するな」の謂いであるから、「どうか決してお腹立てなさいまするな」の謂い。

・「抑(そも)」ここは宗祇が新たまって胆を据えて質す際の発語の辞で、一方、後の侍の「抑(そもそ)も」は、自身の因縁を徐ろに語り出す発語の辞として訓を使い分けている。細かいところだが、リアルで実によい。

・「恩地(おんぢ)何某」楠正成の執事に恩地(おんち)左近正俊(生没年未詳)という人物がいる。河内恩地神社の神職であったが、兵法家でもあり元弘元/元徳三(一三三一)年に正成に従い、河内赤坂城に籠城して幕府軍と闘い、建武元(一三三四)年の紀伊飯盛山の攻撃では先鋒として活躍、延元元/建武三年には父正成と別れた正行(まさつら 嘉暦元(一三二六)年?~正平三/貞和四(一三四八)年:後の河内国北條(現在の大阪府四條畷市)で行われた「四條畷(なわて)の戦い」に於いて足利側の高師直・師泰兄弟と戦って敗北、弟の正時と共に自害した)を伴って河内に帰り、彼をよく支えた。「軍用秘術聴書」「楠兵記」などの楠木流兵法の伝書を残している(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

・「寢おびれたる」「寢おびる」は「夢を見て怯える」の意。

・「領掌」「りやうしやう(りょうしょう)」と清音でも表記する。ここは、承諾すること、了承の意。
 
 画像は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング、補正したもの。

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蠋

Hakuimusi

はくひむし 蠋

【音】 【波久比無之】

      芋蟲

      【以毛無之】

 

本綱蠋似蠶而在樹上食葉者

按是亦有數品在柚柑之類者似蠶而黒黃班色小者

 二三分大者寸許形不甚肥着葉裏竊囓切其葉後羽

 化成蝶又有正青而肥大者觸物則出角兩角微小皆

 有柚柑椒之氣甚臭也其青而有白輪紋者羽化爲鳳

 蝶【凡蝶遺卵於柚柑葉孚爲蠋蠋復裂爲蝶出飛去也卵生化生輪𢌞蠋好葉蝶好花】

 

[やぶちゃん注:ここに縦罫。]

 

芋蟲 囓芋葉俗呼爲芋蟲正青色肥大或有黒者有青

 黃班者有背淺黃腹白者共無角有硬刺反曲如鉤胸

 六手對生小而似爪腹以下八脚對生小而圓如肬

 

 

はくひむし 蠋〔(しよく)〕

【音、】 【波久比無之。】

      芋蟲

      【以毛無之〔(いもむし)〕】

 

「本綱」、蠋は蠶に似て、樹上に在り、葉を食ふ者なり。

按ずるに、是れにも亦、數品、有り。柚〔(ゆず)〕・柑〔(みかん)〕の類に在る者は蠶に似て、黒黃の班〔(まだら)〕色にて、小なる者、二、三分、大なる者、寸許り。形、甚だ〔しくは〕肥えず、葉の裏に着〔つ〕きて竊〔(ひそ)か〕に其の葉を囓〔(かじ)り〕切〔る〕。後〔の〕ち、羽化して蝶と成る。又、正青にして肥大なる者、有り、物に觸るれば、則ち、角を出だす。兩角、微小なり。皆、柚・柑・椒〔(さんせう)〕の氣(かざ)有り、甚だ臭し。其の青にて、白き輪の紋、有る者は、羽化して鳳蝶(あげはの〔てふ〕)と爲る【凡そ蝶、卵をして柚・柑〔の〕葉に遺し、孚〔(かへ)〕りて蠋と爲り、蠋、復た裂けて蝶と爲り、出〔でて〕飛び去るなり。卵生・化生、輪𢌞〔(りんね)〕して、蠋は葉を好み、蝶は花を好む。】

 

[やぶちゃん注:ここに縦罫。]

 

芋蟲 芋の葉を囓る。俗に呼びて「芋蟲」と爲す。正青色。肥大。或いは黒き者、有り、青黃〔の〕班〔(まだら)〕の者、有り。背〔の〕淺黃〔にして〕腹〔の〕白き者、有り。共に、角、無し。硬(かた)き刺(はり)有〔りて〕反(そ)り曲(まが)りて鉤(つりばり)のごとく、胸に六手、對生〔(たいせい)〕し、小にして爪(つめ)に似たり。腹より以下、八つの脚、對生す。小にして圓く、肬〔(いぼ)〕のごとし。

 

[やぶちゃん注:まずは(後の「芋蟲」の記載は別)蛾や蝶類を含む、鱗翅目 Lepidoptera の幼虫のうちで、通常、「青虫(あおむし)」と呼称しているところの、長い毛で体を覆われておらず、緑色のものを指している。その食性から「はくひむし」、葉食い虫という俗称で呼ぶ。

 

・「二、三分」六ミリ強から九ミリ強。

・「寸許り」約三センチメートル。

・「正青にして肥大なる者、有り、物に觸るれば、則ち、角を出だす」この角は臭角(しゅうかく)と呼ばれるものであるが、これを持っている(背面の頭部と胸部の間に一対)のは鱗翅目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科 Papilionidae のアゲハチョウ類のチョウの幼虫に限る。オレンジ色でかなり目立ち、同時に濃縮した柑橘異臭を放つ。一般的記載ではこれは摂餌対象である柑橘類が持つテルペノイド(Terpenoid:五炭素化合物であるイソプレン・ユニットを構成単位とする天然物化合物)とあるが、一部の種では、臭み成分にアリストロキア酸を多量に含むとある(「アリストロキア」は、当該化学物質を豊富に持ち、アゲハチョウ科アゲハチョウ亜科キシタアゲハ族ジャコウアゲハ属ジャコウアゲハ Byasa alcinousやアゲハチョウ科ウスバアゲハ亜科タイスアゲハ族ホソオチョウ属ホソオチョウSericinus japonicaなどの幼虫の食草であるコショウ目ウマノスズクサ科 Aristolochioideae亜科ウマノスズクサ属ウマノスズクサ Aristolochia debilis の学名に由来する)。食草から得たアリストロキア酸を体内に貯め込む「選択蓄積」を行い、それを防禦物質として使用しているのである。因みに調べて見ると、アリストロキア酸には腎毒性があり、発癌性も疑われている。また、その角の非常に目立つ色と形状からは、これを捕食しようとする者への警戒色としてもいることが判る。

・「凡そ蝶、卵をして柚・柑〔の〕葉に遺し、孚〔(かへ)〕りて蠋と爲り、蠋、復た裂けて蝶と爲り、出〔でて〕飛び去るなり。卵生・化生、輪𢌞して、蠋は葉を好み、蝶は花を好む」この箇所を虚心に読んでみると、この「化生」というのは、現在の狭義の「蛹化」や「羽化」の「化」と一種、通じた雰囲気があり、良安が必ずしも、仏教の四生の影響を強く受けた中国本草に於ける「化生」(けしょう:仏教では自分の超自然的な力によって忽然と生ずること。天人や物怪の誕生、死者が地獄に生まれ変わることなどを指す)に縛られている訳ではなく、仏教用語「輪𢌞」を用いてはいるものの、構造的には同一の生命体のライフ・サイクルとしての近代生物学的な認識の萌芽見られるという気が強くしてきた。

・「芋蟲」以前にも引いたが、まずウィキの「イモムシ」を再掲しておきたい(下線はやぶちゃん)。『イモムシは、芋虫の意で、元来はサトイモの葉につくセスジスズメ』(鱗翅(チョウ)目スズメガ上科スズメガ科ホウジャク亜科コスズメ属セスジスズメ Theretra oldenlandiae)『やキイロスズメ』(スズメガ科コスズメ属キイロスズメ Theretra nessus)、『サツマイモの葉につくエビガラスズメ』(スズメガ科スズメガ亜科 Agrius エビガラスズメ Agrius convolvuli)『などの芋類の葉を食べるスズメガ科』(Sphingidae)『の幼虫を指す言葉である。決してイモのような風貌なのでイモムシなのではない。伝統的な日本人の食生活においてサトイモやサツマイモは穀物に次ぐ重要な主食作物であった。そのため、これらの葉を食害する巨大なスズメガ科の幼虫は、農村で農耕に携わる日本人にとって非常に印象深い昆虫であった。そのため、イモムシが毛の目立たないチョウやガの幼虫の代名詞として定着するに至ったと考えられる。よく名前の知られたイモムシには、ヨトウガ類』(鱗翅目ヤガ科ヨトウガ亜科 Hadeninae 或いはヨトウガ属 Mamestra の仲間)『の幼虫であるヨトウムシ』(夜盗虫:夜行性に由来)、『イチモンジセセリ』(鱗翅目セセリチョウ上科セセリチョウ科イチモンジセセリ属イチモンジセセリ(一文字挵:「せせる」は物をあちこち突っつきまわす意、「一文字」は後翅の裏の銀紋が一文字状に並んでいことに由来)Parnara guttata)はチョウ目(鱗翅目)セセリチョウ科に属するチョウの一種。特徴として後翅裏の銀紋が一文字状に並んでいるためこの名前がある。Parnara guttata)『等の幼虫でイネの害虫であるツトムシ、モンシロチョウ』(鱗翅目アゲハチョウ上科シロチョウ科シロチョウ亜科シロチョウ族モンシロチョウ属モンシロチョウPieris rapae)『の幼虫でキャベツ等を食害するアオムシ、シャクガ科』(鱗翅目シャクガ(尺蛾)科 Geometridae:幼虫の尺取虫に由来)『に属するガの幼虫のシャクトリムシ等がある』(尺取虫は既出であるが、次で独立項として出る)。またアゲハチョウ上科アゲハチョウ科アゲハチョウ亜科アゲハチョウ族アゲハチョウ属キアゲハ Papilio machaon のように、アゲハチョウ類でありながら「青虫」にならない(キアゲハの幼虫は三齢まではアゲハチョウ属 Papilio xuthus(実は彼らも青くなる五齢以前は「青虫」ではない)ナミアゲハと同様に鳥の糞に似せた保護色をしているが、四齢幼虫では白地に黄色と黒の斑点模様の警戒色となる。五齢幼虫ではさらに黄緑と黒のしま模様に変化し、黒いしまの部分には橙色の斑点がある)も立派な「芋虫」であるということになる。

・「硬(かた)き刺(はり)有〔りて〕反(そ)り曲(まが)りて鉤(つりばり)のごとく、胸に六手、對生〔(たいせい)〕し、小にして爪(つめ)に似たり。腹より以下、八つの脚、對生す。小にして圓く、肬〔(いぼ)〕のごとし」この「硬(かた)き刺(はり)」は棘や毛のことではない。「反(そ)り曲(まが)りて鉤(つりばり)の」ようだというのであるから、これは鱗翅目スズメガ科(ウチスズメ亜科 Smerinthinae・スズメガ亜科 Sphinginaeホウジャク亜科 Macroglossinae の三亜科から成る)の多くの幼虫の特異的特徴である、腹部末端の「尾角(びかく)」と呼称する尾状突起を描写したもののように私には思われる。実際、英語圏ではスズメガの幼虫を“horned worm”(角の生えた芋虫)と称しており、参照したウィキの「スズメガによると、『尾角の形状・色は種類によって異なるが、その用途は良く分かっていない』ともある。なお、この角には毒は、ない。]

なつかしき昔の教科書   梅崎春生

 

 リバイバルブームというのが起っているのだそうである。私は外国語に弱いので、そりゃ何だと訊ねたら、昔のものを復活させる風潮で、具体的にいうと昔の歌が流行したりすることだそうだ。

 インスタントブームやレジャーブームなど、ブームが次次に押し寄せて来るから、つき合うのにもいかが疲れる。

 そのリバイバルとは実は関係ないが、私はかねてから自分が習った小学校の国語読本を、手に入れたいと考えていた。

 一体あの頃おれはどんなことを習っていたのだろう。(私は大正四年生れ、四十六歳。)それに私宅にも小学四年の男の子がいる。それが習っている教科書とくらべてみたい、という気持があった。そこで手を尽して、北海道の畑中さんという人からゆずって貰うことが出来た。

 どさっと小包みで送られて来て、わくわくしながら包みを解くと、尋常小学国語読本と印刷された表紙がまず眼に飛び込んで来て、久しぶりに恋人、いや、幼馴染にめぐり合ったような気がした。

 早速机の上に積み重ねて、巻一から読み始める。奥付を見ると「定価金六銭」、その傍に「臨時定価金八銭」とある。「ハナハトマメ」の片仮名で、巻一は始まっている。巻十二になると「臨時定価金拾六銭」で、大正時代のじりじりしたインフレが手に取るように判る。

 巻一から巻十二まで読み終るのに、まるまる二日間かかつた。なまけなまけして読んだのではなく、熟読玩味、時には音読さえしたのだから、そのくらいかかるのは当然であろう。すらすらと思い出せるのもあったし、おや、こんな文も習ったのかいなと、全然思い出せないものもあった。

 よく覚えているのはやはり韻文で、

「旅順開城約なりて」

「今に見ていろ、僕だって、見上げるほどの大木に」

 だとか、口あたりがいいから、自然記憶にとどまるのであろう。

 それからうちの男の子を呼んで、巻七(四年生前期用)を読ませたら、これがほとんど読めない。巻七の最初は「世界」と題する文章で、何故読めないかというと、第一に文語体だからである。次のような書き出しだ。

 「われらが住む世界は、其の形まるくして、球の如し。ゆゑに之を地球といふ」

 第二に旧仮名が使用してある。それに漢字が多いし、その漢字も旧字体である。何やかやの条件が重なって、私から指導されながら、その章を二十分ぐらいかかって読み終えたが、

「それでどんなことが書いてあったか?」

 と聞くと、ほとんど理解していない。理解せよという方が無理だろう。

 もっとも大正時代の小学生を、時空を超えて現代につれて来て、今の国語読本を読ませたら、やはりめんくらうだろう。新仮名や略字体に眼をぱちぱちさせるだろうが、しかし理解しないことはないと考えられる。

 誌面のつくり方からいうと、今の読本の方がいたれりつくせりで、痒いところに手の届くような編集がなされている。昔のは今のより教訓的で、つっぱねたような文章が多い。

 それから一番強い印象を与えるのは、活字の大きさである。昔の読本の活字は実に大きく、形は古風ながら堂々としている。今のは形はスマートだが、字体は小型である。

 人間の眼にとって、あるいは子供の眼にとってどのくらいの大きさの活字が適当であるか、すらすらと頭に入って来るか、その道の学者に聞かないと判らないが、明治大正時代から活字は年々歳々小さくなって行く一方のようだ。頁単位に出来るだけ多数の内容を盛り込もうとする実利主義から来ているのではないか。

 だから近頃老人たちから、

「近頃の新聞雑誌は活字が小さ過ぎて、老眼鏡をもってしても、とても読めない。老人向きの活字本をつくって呉れ」

 との投書や談話が発表されたりしている。

 それは当然の要求と言えるし、日本人の眼のためにも今少し活字を大きくする必要があると思う。私も近頃、地下鉄ぐらいの明るさの中では、新聞を読むのに苦労する。大見出しと小見出しだけ読んで、内容は読まずに網棚に放り上げて下車するというケースがしばしばである。

 新聞活字だって、昔は大きかった。今のように頁当り十五段制じゃなく、十段か十二段制なので、活字も大きくゆったりと組んであった。つまり満員電車の中でぎゅうぎゅう押しになってちぢこまっているのと、がらがら電車の中で足をゆったり開いて腰掛けているぐらいの差がある。

 しかも昔の活字は、ルビというお伴をつれていた。昔のジャーナリストに聞くと、あの頃の活字は活字そのものにルビがついていたそうである。つまり、昔という字なら「昔(むかし)」[やぶちゃん注:底本ではこの鉤括弧内は「むかし」とルビの振られた「昔」一字分。]であって、「昔」と「 (むかし)」[やぶちゃん注:底本ではこの鉤括弧内は一字分の本文空白一マスと、そこに右に小さく振られたルビの「むかし」。]とを分離して必要に応じて組み合わせるのは、その後の時代のことだ。

 私が小学生の時、私のお婆さんがまだ生きていて、老眼で新聞が読みづらい。学校から戻って来た私を呼んで、新聞小説の続きを音読させる。どんな小説だったか内容は忘れたが、たいてい男女のいざこざを描いた小説で、ルビつきだから私にもすらすら音読出来るのである。

 一回読み終ると、お婆さんは、

「もう終ったか。何子(あるいは何男)は一体どうなるんじゃのう」

 と溜息をつきながら、読み賃として一銭か五厘(半銭とも言った)玉を呉れる。私はそれを握りしめて、遊びに行く。

 ルビをたどって読むには読んだが、こちらはまだ子供で男女間の機微なんかを解するわけがない。何子や何男がどうなろうと知ったことではない。読み賃が欲しかっただけである。

 その頃は子供の雑誌だけでなく、大人の娯楽雑誌もそうだった。ルビというものの功罪は私にはよく判らないが、ルビばかりを読んでいるようでも、自然と横の漢字の形が眼に入り、頭にしみ込むという作用は、たしかにあると思う。

 今の青年たちは字の読み方を知らないそうだ。電車の中で、

「新宿をコンジョウとしたぐれん隊が――」

 と話しているから、何のことだろうと考えたら「根城(ねじろ)」のことだったと本多顕彰氏が書いていた。

 また先日瀬沼茂樹氏の話によると、大学生が「ジンサイ」「ジンサイ」という言葉をしきりに使う。何事ならんと問いただしてみると「人妻」のことだったそうである。

 隠語として使っているのなら、話は判らんことはないが、瀬沼先生に対して隠語を使うわけがない。やはり本気なのである。

 こんなのは特別の例であるかも知れないが、もしルビつきで教育されていたら、この連中もこんな錯誤をおこさないだろう。だからといって私はルビを礼讃しているわけではない。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第六十二回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年六月二十五日号掲載分。

「小学校の国語読本」国立国会図書館デジタルコレクションのこちらこちらで全巻を画像を視認出来る(一巻が大正六(一九一七)年で二巻以降も大正末以降の修正版であるが、基本は変わっていないと思われる)。

「旅順開城約なりて」巻九の「第十 水師營の會見」の冒頭。同前のこちら。若い読者のために述べておくと、水師営(すいしえい:音写:シュイシーイン)は中国の清朝に於ける北洋艦隊(清国呼称は「北洋水師」)の隊員駐屯地を意味する一般名詞であって地名ではない。ここは明治三八(一九〇五)年一月十五日に日露戦争に於ける旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結された遼寧省大連市旅順の水師営を指す。日本代表は第三軍司令官乃木希典(嘉永二(一八四九)年~大正元(一九一二)年)大将、ロシア代表は旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセルАнатолий Михайлович Стессель:ラテン文字転写:Anatolii Mikhailovich Stoessel「ステッセル」は「ステッセリ」とも音写 一八四八年~一九一五年)中将であった。当時の旅順軍港から北へ五キロメートルの位置にあった(ここはウィキの「水師営に拠った)。以下に電子化しておく。底本では頭注欄があり、そこで覚えるべき新漢字が示されている(一部に下線。既習を示すもののように思われる)。これは各行末に【 】で示した。踊り字「〲」は正字化した。これは文部省唱歌ともなって佐々木信綱作詞としているが、幾つかの記載を総合すると佐々木信綱原案というのが正しい。

   *

   第十 水師營の會見

  旅順開城約成りて、

  敵の將軍ステッセル

  乃木大將と會見の

  所はいづこ、水師營。」【師】

  庭に一本ひともと棗なつめの木、

  彈丸あともいちじるく、【彈

  くづれ殘れる民屋に、【屋】

  いまぞ相見る、二將軍。」

[やぶちゃん注:ここに乃木とステッセルの会見の図が入る。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像をトリミングし、補正して挿入しておく。同読本は全体がパブリック・ドメインである。]

Suisieinokaiken

  乃木大將はおごそかに、

  御めぐみ深き大君の

  大みことのりつたふれば、

  彼かしこみて謝しやしまつる。」【謝】

  昨日の敵は今日の友、

  語る言葉も打ちとけて、

  我はたゝへつ、彼の防備。【備】

  彼は稱たたへつ、我が武勇。」

  かたち正していひ出でぬ、【正】

 『此の方面の戰闘(とう)に

  二子を失ひ給ひつる

  閣下の心如何にぞ。』と。」

 『二人の我が子それぞれに

  死所を得たるを喜べり。

  これぞ武門の面目。』と、【

  大將答力あり。」

  兩將晝食(ひるげ)共にして、

  なほもつきせぬ物語。

 『我に愛する良馬あり。

  今日の記念に獻(けん)ずべし。』」

 『厚意謝するに餘りあり。【厚】

  軍のおきてにしたがひて、

  他日我が手に受領せば、【領】

  ながくいたはり養はん。』」

 『さらば』と、握手ねんごろに、

  別れて行くや右左。

  砲音(つゝ)たえし砲臺に

  ひらめき立てり、日の御旗。」

   *

なお当時、乃木は満五十五歳で、詩の中にも出るが、彼はこの戦争でこの前年の五月二十七日(乃木の日本進発直前)に長男勝典を南山の戦い(遼東半島の南山及びその近郊の金州城で行われたロシア陸軍との戦いで亡くし(ロシア軍の銃弾が腸の部分を背部まで貫通する大きな創が空き、野戦病院で手当てを受けたが、出血多量で死亡した。満二十四歳であった)、十一月三十日には父希典が指揮する旅順攻囲戦第三回総攻撃に参加していた次男保典(後備第一旅団副官であったが、ロシア軍の砲弾を至近に受け崖から滑落、岩場に頭部が激突して粉砕、即死した)が満二十二歳で戦死している。一方のステッセルはこの時、満五十六歳で、この日露戦争終了後に旅順要塞早期開城の責任を問われて一九〇八年二月に軍法会議で死刑宣告を受けたが、一九〇九年四月に特赦により禁錮十年に減刑されている。これに関しては乃木希典が助命運動を行ったのが最大の理由とされている。釈放後は軍を追放され、モスクワで茶商人などして静かな余生を送ったとウィキの「アナトーリイ・ステッセリにある。

「今に見ていろ、僕だって、見上げるほどの大木に」巻四の「十五 しひの木とかしのみ」で、同前のこちら。なおこれは、まさにこの「尋常小学国語読本」の「ハナハト読本」と通称される版の編纂者であった福岡県生まれの国文学者で国語教育学者の八波則吉(やつなみのりよし 明治九(一九七六)年~昭和二八(一九五三)年)の作詩になるものである。前に倣って以下に電子化しておく。

   *

   十五 しひ の 木と かし の み

 思ふ ぞんぶん はびこつた【思】

 山 の ふもと の しひ の 木 は、

 根もと へ 草 も よせつけぬ。

 

 山 の 中 から ころげ出て。

 人 に ふまれた かし の み が、

 しひ を 見上げて かう いつた。

 

「今 に 見て ゐ ろ、僕 だつて、

 見上げる ほど の 大木 に【

 なつて 見せず に おく もの か」。

 

 何百年 か たつた 後、【百】

 山 の ふもと の 大木 は

 あの しひ の 木 か、かし の 木 か。

   *

『巻七の最初は「世界」と題する文章』「巻七」全体は同前のこちらで通読出来る。その冒頭の「第一 世界」は以下。前に倣う。

   *

  第一 世界

われらが住む世界は、其の形まるくして、球の【形 球】

如し。ゆゑに之を地球といふ。【

地球の表面には、海と陸とありて、海の廣さは【

およそ陸の二倍半なり。

海を分けて太平洋・大西洋・印度洋とし、陸を分【

けて、アジヤ洲・ヨーロッパ洲・アフリカ洲・南アメ【洲】

リカ洲・北アメリカ洲及び大洋洲とす。【及】

我が大日本帝國はアジヤ洲の東部にあり。【部】

[やぶちゃん注:ここに見開きで世界地図が入る。国立国会図書館デジタルコレクションの画像をそのまま(色補正もせずに)挿入する。]

Sekaitizu

地球上には大小合はせて六十餘國あり。其

の中我が大日本帝國と、イギリス・フランス・イ

タリヤ及びアメリカ合衆國を世界の五大強【衆

國といふ。

   *

「本多顕彰」(ほんだけんしょう 明治三一(一八九八)年~昭和五三(一九七八)年)は浄土真宗僧侶でしかも、英文学者で評論家。愛知県名古屋市の寺院に生まれ、大正一二(一九二三)年、東京帝国大学文学部英文科卒。東京女子高等師範学校教授・法政大学教授。シェイクスピア・ロレンスなど英文学の翻訳・研究に加え、近代日本文学ほかの広範な評論活動を行った(ウィキの「本多顕彰」に拠る)。梅崎春生より十七年上。

「瀬沼茂樹」(明治三七(一九〇四)年~昭和六三(一九八八)年)は文芸評論家。東京生まれ。東京商科大学(現在の一橋大学)卒。在学中伊藤整と知り合い、終生の親友となった。出版社に勤め、昭和五(一九三〇)年に伊藤の『文芸レビュー』同人となり、谷川徹三の知遇を得、評論活動を始める。昭和一七(一九三二)年には唐木順三・藤原定らと季刊『理論』を創刊、翌年には最初の著書「現代文学」を上梓している。埼玉県立商業学校教師・川越中学校教師から昭和一二(一九三七)年には化粧品会社に勤務して執筆活動を一時、休止。戦後の昭和二一(一九四六)年に『新日本文学』に拠って評論活動を再開、小田切秀雄・猪野謙二と相知る。日本大学講師から昭和三五(一九六〇)年には日本大学芸術学部教授となった。昭和三八(一九六三)年に「日本近代文学館」が創立されると理事となった。その後は大正大学に移るが、ここに出るのは日大時代で、その学生であろう。昭和二八(一九五三)年当時の早川書房編集者であった宮田昇のブレインとして『翻訳ミステリの安価なシリーズ』を奨めて同社の「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」の創刊を奨めたことで知られ、彼自身もミステリ等の翻訳がある(以上はウィキの「瀬沼茂樹」に拠った)。]

2016/07/23

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   武藏野の休らひ

    武藏野の休らひ

 
Musasinonoyasurai

 

むさしのゝ草より出て草莚(くさむしろ)、足、休むべき木陰もなき永き日、陽(ひなた)を分けくらして喉(のんど)かわき、息苦し、行くべき方に人家ひとつを見つく、茶を乞ひ休ひてなど、𣿖(たど)りつく心や嬰兒の乳房(にうばう)を慕ふに似たらんと自(みづか)らたとへらる。昔も我がごとき喝(のどかは)きの在りしにや。

 

   むさしのゝほりかねの井もある物を

       嬉しく水のちかづきにけり

 

と古歌(ふるうた)をひとりごちて、家につきぬ。主(あるじ)の女とおぼしきが表の障子、ほそくあけて、夕日さしこむ影、翳(まばゆ)く、錦にはあらぬ玉川の、さらす細布さらさらに、ちかづく夏の用意とや、單なる物を縫也けり。宗祇、外面(とのも)によりて、申し兼ね侍れど涯(はて)しなき野邊に疲れたる法師にて侍る、御茶ひとつ給ひなん、といへば、女、肝をけしたる風情(ふぜい)に、つと立て宗祇を一目見やりながら、障子をひしとさして奧に入ぬ。茶やくるゝと、暫し彳みて待てども音もせず。休めといふ聲もなし。打ちはらだちて、あな、つれなの女や、なくばなきにてこそあらめ、あはじとも見じともいはぬ思ひこそとぞ、いふつらさより數(かず)まさりけれ。日もはや暮れに成りぬ。先(さき)より出て行かば、多くの道を行べき物を、と打つぶやきて、

 

   引たつる障子がおちやになるならば

      門(かど)の口こそのむべかりけれ

 

と狂歌(ざれうた)して立歸りなんとするに、彼の女、茶を持ちいで、宗祇の袖をひかへ、腹(はら)あしの御僧(おんそう)や、とほゝえみながら、

 

   おちやひとつぬるむほどだにある物を

      いかに瞋恚(しんい)のわきかへるらん

 

といへば、祇も笑ひて呑みぬ。かゝる東(あづま)のはてしながら、かく迄やさしき女の在ける事こそ、何さま、故有なんかし、尋ねまほしけれど、くれなん道のほどに、こゝろいそぎけるまゝ、出て行ぬきぬ。

 

■やぶちゃん注

・「むさしのゝ」……「古歌」これは「千載和歌集」の藤原俊成の一首(一二四一番歌)、

 

   法師品(ほつしほん)、

   漸見濕土泥(ぜんけんしつどでい)、

   決定知近水(けつじやうごんすい)の

   心をよみ侍りける

 武藏野の堀兼の井もある物をうれしく水の近づきにけり

 

である。「法師品」は法華経第十品。「漸見濕土泥、決定知近水」は「漸く見る 濕めりたる土泥 / 決定す 水の近きを知るを」の意。一首は、同品の偈に「渇乏須水 於彼高原 穿鑿之求 猶見乾土 知水尚遠」(渇乏(けちぼふ)して水を須(もち)ひんとして 彼の高原に於いて 穿鑿して之れを求むるに 猶ほ乾ける土を見ては 水 尚ほ遠しと知る)とあるのを受けるもので、「堀兼」に「掘りかねる」(掘り悩んでなかなか水(正法(しょうぼう)が得られない)の意を「兼ね」る、掛けてある。なお、この古来、歌枕として有名な井戸であるが、比定地は埼玉県狭山市堀兼の堀兼神社などにあるものの、最早、定かでない。

・「單」「ひとへ」。単衣(ひとえ)。

・「彳みて」「たたずむ」。

・「引たつる障子がおちやになるならば門(かど)の口こそのむべかりけれ」茶その他の掛詞の連打が宗祇の苛立ちをよく表現していて面白い。以下、やぶちゃん勝手自在訳。

――音高にピシリと「引きた」てた「障子が」、それでお茶「になる」ものだとするなら……それなら、こんなに待つまでもなく、この家の「門(かど)」、角ばったとげとげしい性質(たち)の、この主(あるじ)の「口」つき、雰囲気を早く察して、門口にてさっさとそれを飲んでしまった方がよかったことだ(さすれば今日の旅の歩数も稼げたものを)。――

・「おちやひとつぬるむほどだにある物をいかに瞋恚(しんい)のわきかへるらん」同じく、やぶちゃん勝手自在訳。

――御茶を一つ淹(い)れ、ただ、お飲み頂くのに、ほどよきぬるさになるまで待っておりましたのに……どうしてあなたさまはそのように、湯の煮えたぎる如く、「瞋恚」(怒り恨むこと・腹立ち・怒り)に「わきか」えっていらっしゃるのでしょう。――
 
 画像は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング、補正したもの。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 始動 / 山神想紀氏娘

[やぶちゃん注:江戸前期成立の、かの知られた連歌師宗祇に仮託した、怪奇譚の多い浮世草子「宗祇諸國物語」(貞享二(一六九五)年に京の旅館にて記す由の自序はあるものの、署名はない)の正字電子化翻刻を単独ブログ・カテゴリを設けて行う。構造的には西行に仮託した「撰集抄」を模倣しているように思われるが、逆にこれが後に西鶴の「懷硯」などに模倣されており(西鶴の知られた「西鶴諸国咄」同年の出版)、幾つかの章は後の上田秋成の諸作との共通性を見出せ、現在知られる諸妖怪談の版本の最古層に位置する作品と言える。現在、活字化した電子テクストはネットにはないと思われる。

 底本は大正四(一九一五)年博文館刊の佐々醒雪・巌谷小波校訂「俳人逸話紀行集」の版(正徳三(一七一三)年京都西村丹波屋板行)を国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認する。

 踊り字「〱」「〲」は正字化し、読みは難読或いは読みが振れると私が判断したもののみに限った。読み易さを考え、読点を私の判断で恣意的に追加してあるが、底本の句読点の変更は一切していない。一部に出る左右の読みは「草鞋(さうけい/ワラヂ)」のように示し、前者が右ルビ、後者が左ルビである。和歌の前後は一行空けた。

 これは私の怪談蒐集癖(私の書斎には現在では読まれることの頗る稀有となった埋もれた怪談集が山積みされて在る)のため、私の精神の〈モンストロムなる健全さ〉を保つため、このところの外界に対する広汎にして非論理的な憤怒感情を内封するために、全くの趣味で行うものであり、私が読解し得、納得すればそれで終わりのものである。されば注は私が分らぬ箇所や疑問に感じた部分にのみストイックに各話末に附すこととした。

 挿絵は底本よりトリミングし、画像補正して挿入した。【始動:2016年7月23日 藪野直史】] 

 

宗祇諸國物語卷之一

    山神想紀氏娘(さんじん、きうぢのむすめをおもふ) 

 

Sanjin

 

一とせ丹後の國に入て名所を尋ね、逆緣(ぎやくゑん)に任せきれとの文珠成相(なりあひ)の觀音など詣で侍る。此わたり、北は海にて涯(かぎ)りなく遠く、東西南(とうざいなん)の三方(みかた)は山めぐり、巖々(がんがん)と高し。海邊にいねの里といふ在鄕あり、入海の濱を箕(み)の手に取まはして家居したる、皆、獵師なり。此の中間に、浦島の明神とて、社あり。里の人にゆゑをとふに、浦島が子の生所(しやうじよ)にて、則ち、此浦より蓬萊に行きて歸りしを、壽命長久の神仙とて、所の氏の神にいわひぬるよし、語りぬ。爰に詣で、出でゝ南に行く事、三四里計り、其の初は人里のやうに覺えて、辿り入るに、早晚(いつしか)、家居絕たる山中の、森々たる木のもとに、行べき道も見えず、歸るべき筋も忘れぬ。月は、はや、影すくなく、暮れかゝりて、物の色あひも、さだかならねど、寺舍(じしや)なんともなき所にや、貝鐘(かひかね)の聲もきこえねば、いとゞ便りなけれど、かゝる目をみるこそ旅の本意(ほい)にはあれ、淺ましき事をも取出けるよと、心にこゝろをはげみて、木の根づたひにあゆむほどに、ひとつの洞(ほら)の前に、方(はう)二間計りの小家あつて、柴垣うつくしく、山水の流れ、淺々(せんせん)と淸き軒(のき)ざま、心すむべき住居(すまひ)と見ゆ、折ふし暮れかゝる空に、行きまよひぬる道のほど、たとひいかなる人の住所にもあれ、おして宿からばやと、まがきによりて物申さんといふに、内より二十年(はたとせ)あまりのおのこの容色うるはしきが、狩衣に太刀脇ばさんで、出あふ。こは、かゝる深山におもほえずの人のさまや。主(あるじ)の風情(ふぜい)、大形(おほかた)の山賤とはやうかはりてみゆ。さみしたる物いひもいかゞと崇(あが)めて、愚僧は旅の者にて侍り、此の山中にふみまよひ侍るが、不思議に御家居を見うけて、盲人の杖を得たる心ちし侍る、一夜のほどを明かさせて給へ、といへば、主、少しも恠(あやし)む氣色(けしき)なく、ほゝゑみて、やすき事、こなたへと先に立りて入りぬ。祇(ぎ)は草鞋(さうけい/ワラヂ)とりて内の體(てい)を見るに、百疊計り敷双べたる奧につゞきて、左に御簾(みす)、半(なかば)卷きたる一間、奧床しく深し、右にならびて十餘間の渡殿(わたりどの)、玉をちりばめ、金(こがね)をもつて莊嚴(しやうごん)せり。此の砌(みぎり)に瀧白く落ちて、蓮(はちす)、杜若(かきつばた)のみか、目なれず、かうばしき異草(ことくさ)の靑く葉をまじへたる、海底(かいてい)の石、五色を交へ、立てならべし築山のすがた、目もあやに、をかし、不思議や、此家は方二間に過ぎじ、と見しに、此の樓閣はと、もとの外面(そとも)に出でゝ見れば、又、在りしにかはらず、不思議の世界にもまよひ來ぬる事かなと、恠し、とかくする程に、稍、燭をとる頃に成りて、主、一つの菓(くだもの)を、るりの盆に入れて、御簾の間より取出でゝいふ。旅僧に物參らせ度く思へど、飯(いひ)、炊ぐべき童もなければ、其わざもなし。此の菓、きこしめせ、徒然(さびしき)事も有るまじ、とすゝむ。祇は終日(ひねもす)の道に疲れて、漸々(やうやう)、食とぼしけれど、主の斯くいふに力なく、是なりとも、と、菓をとりて見るに、梨子(なし)の大さして、色は黃に赤き物なるを、口にいるゝに、味(あじは)ひ、世にたぐふべき物なし。半(なかば)喰うて、腹、みちたり。名をとへど、さだかにもこたへず、主、威儀をつくろひ、いひ出るは、御僧は名にあふ歌仙にてまします、名乘り給はねども、我れ、よく知りて、爰に請(しやう)じ入れぬ。此の所の景地(けいち)、不審(いぶか)しく思召らん。爰は當所、山神の社(やしろ)にて、則ち、自(みづか)ら主なり。けんぞく、あまた侍れど、異形のものなれば、怖れ給はんと、皆、隱し置き侍り、先づ某(それがし)、公(きみ)に密談すべき事有り、當國與謝(よさ)の海邊(かいへん)に、紀氏何某(なにがし)といふ人、過ぎし世の亂れより、おりかくれてすめるあり。息女(むすめ)ひとり持てり、容顏又なく、二八の春の花、香(か)をなつかしく、色をこのみ、情の道も淺からぬを、世にある人のえんを求めて、さまざまにいひかよへど、大かたの心には、なびくべきけしきにもあらず。爰に某、過ぎこし秋、此の南の岨(そは)づたひ、遊興の黃昏(たそがれ)、紀氏何某、茸(たけ)がりのかへさ、彼の娘いざなひて、そこの山路をたどりし時、おもほえず、行向(ゆきむか)ひ、互にみえつ、みえしより、心、空に、肝、きえて、更に足のふむ所を覺えず、女も、有しさま、心よそに在りとは見えず、一方ならぬ思ひながら、父母(たらちね)の見るめあれば、あまのかるもにすむ蟲の、音にのみなきてこがれしを、我が眷屬の中に、萬(よろづ)に賢(さかし)ものゝ侍るが、ひとつの玉章(たまづさ)を持ちて、女(め)の童の形に化(け)し、彼の屋形にしのび入り、さまざまにかき口説(くど)き、いな舟のいなといはれぬ最上川、のぼれば下る返事をひたすらに、と責めけれど例のつよき心より、いなせの一こともなし、なをしたふべき思ひにもなければ、錦木の千束(ちづか)つもりつもりて、頃(このごろ)まれに一言(ひとこと)を得たり。あるが中に言葉はなくて、三十一字の詠也。忝辱(はぢかしく)も我れ、山神の一社に崇(いはゝ)れ、和光の名を塵に汚(けが)すといへ共、敷島の道、遠く、和歌の浦に遊ばねば、有りし歌心をも不辨(わきまへず)、まいて返しの言葉もなし。適(たまたま)、公(きみ)、此の山里に來り給ふを幸ひに、山道に迷はしめて、此の所に誘(いざな)ひ入れたり。此歌の返し、予れにかはり、よみて給はゞ、いか計りの情(なさけ)と一向(ひたすら)に搔口說きけり。宗祇、打諾(うちうなづ)き、扨は山神の假(かり)に見(まみ)えて爰に誘ひ給ふとな、さる事こそ最(いと)やすく侍れ、返歌讀みて奉らん。其のかたさまの歌はいかゞと問ふ。是に侍りと、金色(こにじき)のみだれ箱やうの物より取出づる、手にとるに、かうばしく燒(た)きしめたる紙に、あてなる手跡(しゆせき)して、

   谷川の跡なき水の瀨を淺み

       末にわかれて波や立らん

とあり。主の云く。先づ此歌をいかゞ心得侍らんやと、祇の云く。此の歌の心は、男を谷川の水になぞらへたり。跡なきといふは山川の雨の後(のち)計り水出でゝ、一花(はな)、心の人だのめなるありさま、せをあさみは、川の瀨をいもせの背(せ)によせて、心の淺きといふなるべし、末にわかれてとは、きぬぎぬの心、又長きうき別(わか)れなどをかねていふ也。波や立らんは、名や立らんといふ心と見えたれば、君か心だに誠(まこと)あらば、おちてぬるべき心也と、念頃(ねんごろ)に講じぬるに、主、莞爾(ゑみ)て、賢(かしこ)くも御僧を賴みつるかな、我思ひおぼろけの事に侍らず、たゞ推量りて、よきに返しの歌よみて給へとあれば、

 返し

   谷川のとだえのなかれせきとめて

       淺き瀨ならば水ももらさじ

とよみて、これをあたふに、悦びて、あさぢ、あさぢ、と呼ぶ。あ、といふて出づるを見れば、大きなる白狐(びやつこ/キツネ)なり。是よ、此の文を有りしかたへもて行け、と有れば、立ちさりて、草の葉を取出で、かづくやうにせしが、忽ち、十二三の女の童になり、かひがひ敷く、文、持ちて、出で行きぬ。祇は萬(よろづ)の事につきて奇異の思ひをなすのみ也。主、又、云く。宵に申せし我がけんぞくども、見參に入れ申すべし。我が前なれば、恐れ給ふな、と手を打ちて呼ぶに、鹿、狼、狸(むじな)、兎、熊、駑(おそ)、山犬、其外、目(め)馴れぬ獸類數千、村々と出で來る。主の云く。汝等、此僧を見知まゐらせ、いづこの國里にても不義いたす事、勿れ、といひ含めて、獸類、退き出でぬ。いづち行けん、不ㇾ知。かゝりしほどに、しのゝめ、漸々明かくなれば、暇まをして立出づる。主、戸のもと迄、送り、禮義、厚くして、内に入ると覺えし、二杖三杖、行きてふり返り見るに、小家とみしも、松杉の木立のみにて、たゞ嵐の跡、冷(すさま)じく、まがきはしのゝ茂也。教へし道のみ明らかに、二三町步むとおもへば、人里に出でたり。此のふしぎ、夢に在りけんと、我ながら我れをかへり見るに、更にうつゝ也。あやしくも珍しき事に侍り。 

 

■やぶちゃん注

・「逆緣(ぎやくゑん)に任せきれ」逆縁は仏法に於いて一見、自然な現象としての「順縁」の対語で、悪行が却って仏道に入る機縁となることや、或いは、親が子の死を弔うことなどを意味する。定められた因縁に抗わずに完全に身を委ねよ、そうすることで逆に正法に導かれ、極楽往生出来るという謂いと一応ここではとっておくが、次の私の注も参照されたい。

・「文珠成相(なりあひ)の觀音」現在の京都府宮津市にある、天橋立を見下ろす西国三十三所第二十八番真言宗成相山成相寺。本尊聖観世音菩薩。森本行洋(ゆきよし)氏のサイト内の「西国三十三ヶ所めぐり」の同寺の解説によれば、この寺には「撞かずの鐘」伝説に基づく鐘と鐘楼が建つ。慶長一四(一六〇九)年のこと、住持賢長(けんちょう)が『新しい鐘を鋳造するため浄財の寄進を募ったとき、裕福そうな家の嫁が、子供は沢山居るが寺に寄付する金はない、と言って断った。鐘鋳造の日、大勢の人の中に例の嫁も子供を抱えて見物に来ていたが、誤って子供を坩堝(るつぼ)の中に落としてしまった。出来上がった鐘をつくと、子供の泣き声、母を呼ぶ悲しい声が聞こえ、聞いている人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って、以後、一切この鐘をつくのを止めたという』とあり、これがまさに具体な子が母の先に亡くなる「逆縁」に基づく広義の「逆縁」への帰納法的な報恩譚である。

・「いねの里」現在、舟屋で知られる丹後半島北東端の京都府与謝郡伊根町。

・「箕(み)の手に」海に対して箕の如く斜めに。

・「山賤」「やまがつ」。

・「さみしたる」「さみ」は「沙彌」(沙弥(さみ))で修業の未熟な半僧半俗の僧めいた、の意、相応の知性を感じさせるの意で、とる。「さみす」には「狭みす・褊す」(形容詞「狹(さ)し」の語幹に接尾語「み」の付いた「さみ」にサ変動詞「す」の附いたもの)という「軽蔑する・見下す・軽んじる」の語があり、以下で宗祇が「崇めて」と応じるようにも見え、文法的にはこの方が正しいように見えるのであるが、以下の主の印象とあまりに異なるので、とらない。

・「敷双べたる」「しきならべたる」。

・「かへさ」「歸さ」。「さ」は時刻を指す接尾語。帰る途中。「かへりさ」が元で促音便無表記であるから、これで「かへっさ」と読むべきとする説もある。

・「父母(たらちね)」「垂乳根(たらちね)」には親・両親の意がある。

・「父母の見るめあれば、あまのかるもにすむ蟲の、音にのみなきてこがれしを」「見るめ」に海藻の「海松(みる)め」に掛け、「あまのかるも」(海人の刈る藻)に棲む「蟲」甲殻類である「われから」(割れ殻/吾れから)を引き出し、藻の「根」から「音」(ね)を引いて「なきてこがれ」(泣き焦がれ)と続ける。既にしてこの山神も一人前の歌人ではある。なれども結果、宗祇に頼んだは、恋の病いに山の神の超能力も歌学の技巧もすっかり鈍ったということであろう。

・「玉章(たまづさ)」手紙。艶書。

・「錦木の千束(ちづか)つもりつもりて」世阿弥の謡曲「錦木」で知られる、現在の秋田県鹿角(かどの)市十和田錦木地区にある錦木塚伝説に基づく謂い。ウィキの「錦木塚によれば、『昔、鹿角が狭布(きょう)の里と呼ばれていた頃、大海(おおみ)という人に政子姫というたいへん美しい娘がいた。東に』二里ほど『』離れた大湯草木』(おおゆくさぎ)の『里長の子に錦木を売り買いしている黒沢万寿(まんじゅ)という若者がいて、娘の姿に心を動かされた。若者は、錦木を』一束、『娘の家の門に立てた。錦木』は五種の木の枝を一尺あまりに切って一束にしたもので、五色の『彩りの美しいものであった。この土地では、求婚の為に女性の住む家の門に錦木を立て、女性がそれを受け取ると、男の思いがかなった印になるという風習があった。若者は来る日も来る日も錦木を立てて』、三年三ヶ月ほど『たったところ、錦木は千束にもなった』。『政子姫は若者を愛するようになった。政子姫は五の宮岳に住む子どもをさらうという大鷲よけに、鳥の羽を混ぜた布を織っていた。これができあがって、喜びにふるえながら錦木を取ろうとすると、父はゆるさぬの一言で取ることを禁じた。若者は落胆のあまり死亡し、まもなく、政子姫も若者の後を追った。父の大海は嘆き悲しみ』、二人を『千本の錦木と共に手厚く葬ったという』とある。

・「予れ」「われ」。

・「一花(はな)」「ひとはな」は、ただ一時だけの(情け心)の意。

・「駑(おそ)」獺(かわうそ)。歴史的仮名遣では「(かは)をそ」が正しいが、転訛後はかなり以前から「おそ」の表記も用いられたようである。但し、この「駑」の漢字には獺の意はなく、脚の鈍(のろ)い馬の意味しかない。何故、これに獺が当てられているのかはいろいろ調べたものの、不明である。識者の御教授を乞うものである。

・「まがきはしのゝ茂也」「籬(まがき)〔と見えた〕は〔、ただ、これ〕篠〔竹〕の茂り〔たるのみ〕なり〔き〕」。

教育は学校で十分   梅崎春生

 

 うちの男の子が今度四年生になったら、俄然宿題が多くなったと嘆いている。

 学校から戻って来ると、重いランドセルをおろし、腹がぺこぺこだと言いながら勝手に電話でざるそばなどを注文して食べ、それから宿題を始める。

 夕食時が来るとたら腹食って、また机に戻り、宿題にしがみつく。それほどやっても終るのが九時半、十時に及ぶ日がしばしばである。

 もっともテレビの番組に面白いのがある日は、宿題をスピードアップして、見る時間を結構拈出(ねんしゅつ)しているのだから、ふだんの日はなまけなまけやっているのかも知れない。しかし宿題が多いということは、宿題用紙の量から見ても判る。

 これが中学になるともっとひどくて、有名校になると、夜十二時前に寝るような子はたちまち成績が下って、落伍してしまうのだそうである。

 もう昔のことだからほとんど忘れたが、私の小学校中学校では、宿題というのはほとんどなかったような気がする。

 私の生地は地方都市で人口もすくなく、今の東京のようにせち辛くなかったせいかも知れぬ。また学校に持って行く教科書類もすくなく、風呂敷にちょこちょこ包んで、登校下校した。

 家に戻るとその風呂敷包みをそこらに放り出して、遊びに出かけた。今子供のランドセルを持ち上げてみると、やたらに重い。私の時代の三倍やそこらはあるようだ。あれを全部学校で習っているのだろうか。

「春夏秋冬」という季刊文芸同人雑誌がある。その春の号に伊藤整氏が「ニューヨークの小学校」という小文を書いている。伊藤さんは今ニューヨークにいて、八つになる娘さんをそこの小学校に入れたのだ。

 その小文によるとあちらの小学校では、教科書は学校に置きっ放しで、家に持ち帰ってはいけないことになっているらしい。したがって宿題もあり得ないわけである。

 それから日本の小学中学は、五十分授業で十分間の休憩があるが、伊藤嬢の学校は午前九暗から十二時まで休みなしのぶっ続け。帰宅して食事、また登校して一時十五分から三時までぶっ続け、とのことだそうだ。途中で便所に行きたい時は勝手に行っていい、という仕組みになっている。つまりみっしりと集中的に勉強する。

 丁度それはアメリカの官庁や会社と、日本の役所や会社の違いと似ているのだろう。アメリカのはきめられた時間は、わき目もふらずにごしごし働く。

 日本の役所は出勤時にも調整時問というのがあり、四十分ぐらい遅れても遅刻にならない。登庁してもすぐ仕事にはかからず、先ず一服してゆっくりお茶をのむ。十一時半ぐらいになると昼飯を食いに出かけ、一時過ぎに戻って来る。退庁時刻になると、急に仕事を思い出して残業する。

 残業すれば残業手当がつくが、子供の宿題には宿題手当がつかない。厭々ながらやるから、学業が身につかない。やはり学問は学校でやるのが本筋であって、宿題を持って帰るのは邪道ではなかろうか。

「随筆」という雑誌があって、毎号「随筆寄席」という愉快な座談会が開かれているが、その六月号のそれで林髞氏が、同じ趣旨の発言をしている。

 戦争前林さんはお嬢さんをアメリカンスクールに入れた。やはりここでも教科書を家に持って帰さない。学校で教えることは学校で覚える。家へ帰って覚えてはいけないという方針で、もちろん宿題なんかはない。ぼくは宿題全廃論者だと林さんが言うと、徳川夢声氏も大賛成で、

「……先生が不精なんです。先生自身、教える自信がないんだナ。教育は先生だけがするもんじゃない。家庭と力を合わせて、はじめて真の教育ができると思っておる。それはある意味で、そのとおりです。家庭には家庭の教育があるはずです。しかし今の先生は、学校の教育も、家庭でしろてんだから」

 と、先生たちが聞くと怒りやしないかと思われるような発言を、徳川さんはしている。私も徳川さんの言に賛成である。

 しかしこれには異論があるだろう。日本とアメリカとは国情が違う。日本には日本の特殊事情がある。勉強しなきやいい学校に入れないし、いい学校を卒業しなきゃいい職業につけない。狭い国土に一億人の人間がひしめいているのだから、少々無理して勉強して、他人を蹴落して突進しなけりや、生きて行けないのだ。と、世の中のある種の親たちは叫ぶであろう。

 そういう親たちの子供こそいい面の皮で、遊ぶということを知らず、朝起きて夜寝るまで、何らかの意味で勉強につながるという生活をしている。

 素朴な私見によれば、子供というのは遊ぶことが仕事であり、勉強ということはつけ足しである。それが勉強ばかりになったら、人間性(子供性というべきか)は荒廃してしまう。

 他人を蹴落すことばかり考えているから、友人同士でそねみ合い、けんせいし合っている。友人にけちをつけ、あるいは利用出来るものなら豚のシッポでも利用しようという、小さなエゴイストが出来上る。

 私たちが学生の時にも、そんな性格の男はいた。いたけれども、それは一組に一人か二人ぐらいなもので、たいてい軽蔑の的となり、仲間外れにされていた。今はそのパーセンテイジが多いらしく、都内の有名校などでは集団的に発生しているようである。

「そんな人間になるくらいなら、宿題なんてしなくてもいいのだぞ!」

 という言葉が咽喉(のど)まで出かかっているけれども、そうすれば子供は大よろこびして、親の許しを得たとばかり、公然とさぼり出すだろう。それじゃ困るので、私も黙っている。

 それと関連あると思うが、近頃奨学金の返還率が非常に悪いそうである。だから育英会では、戸別訪問による集金に乗り出したが、予算がすくないので集金人がわずかしか雇えない。

 奨学金というのは一種の借金だから、かならず返さねばならぬ。それを何故返さないかというと、三つの型に分れていて、

 一、面倒くさいから返さないもの。

 二、払わないでいれば、その中育英会の方であきらめてしまうだろうと、希望をつないでいるもの。

 三、育英会に無断で転居して、転居先不明で督促状が届かない。それで返済を忘れて(?) いるもの。

 この中で一と二が圧倒的に多いのだそうである。借りる時には三拝九拝したかどうかは知らないが、利用するだけ利用し尽すと、あとは知らぬふりをするというのも、小さい時からエゴイストに育てられているせいではないのか。戻さなきゃ資金が尽きて、後進に奨学金が与えられなくなる。

 それを知りながらそんなことをするのは、極めて悪質なことだと思う。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第五十九回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年六月四日号掲載分。

「林髞」(はやしたかし 明治三〇(一八九七)年~昭和四四(一九六九)年)は大脳生理学者であるが、ペン・ネーム「木々高太郎(きぎたかたろう)」の方でより知られる推理小説家の本名である。]

2016/07/22

葉鷄頭   杉田久女

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年一月『電氣と文藝』に発表された俳人杉田久女の小説。久女、満三十歳。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、執筆年を考え(幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されている)、恣意的に多くの漢字を正字化した。傍点「ヽ」はブログでは太字に代えた。踊り字「〱」「〲」は正字に直した。

 ……お読みになれば判るが、ここには久女という女性の驚くべき強烈な「個」が、匂い立っている(特に後半部)。思わず、身を引いてしまう読者も恐らく、確実に、いるであろう。私は自分が、この原稿を送られた『電氣と文藝』の編集人である長谷川零余子(作中の孤雁子は彼である)本人であったら、どう感じたか、ということを考えた。

 しかし、それでも私は、久女を愛して、やまない。――]

 

 

   葉鷄頭

 

 

 K市の東の町はづれ。屋敷町の黑塀や煉瓦塀のとぎれたところに、木柵をめぐらした四五百坪の花畠とも野菜畠ともつかぬ畠があつた。

 野菜畠の奧には荒塗の壁をもつた、垣根も、好もないむき出しの小家が一軒、紅がら塗りの粗末な格子を打ちつけた窓を、八月末の夕暮の冷めたい雨にうちぬらしつゝ、廣い野菜畠を側面にして建てられてゐた。砂まじりの畠の土は淡黃色に濕めつて、絶えまなしに雨を吸ひ込んでゐた。

 窓のすぐ下からは畠になつてゐて此家に附屬して借りてある幾坪かのゴチヤゴチヤした畠には艷々しい紫紺色の長茄子や、白綠色の水々しい白菜の縮れ葉やひとり生えの小南瓜の色付たのなどが、此夏休み中拔きもせずにうつちやつてあつた雜草の中に交じつてあつた。かうした茄子や白菜や、雜草の茂つた間々に挾まれて、向日葵だの葉コスモス、六七尺の葉鷄頭が七八本、たがやされた柔い地中の肥を吸ひあげてすくすくと人の樣に佇んでゐた。もうのび止まつて笠の樣に丸く茂つた葉鷄頭のテツペンには緋色と鮮黃の斑が刻みつけられてゐるのもあり、またまつ靑な儘でゐるのも、黑ずんだ紅色を淡く葉末にたゞよはしてゐるのもあつて、此すばらしい背の高い葉鷄頭の群れが卵色した荒壁や、格子窓の白い障子をバックとして、初秋らしい白い夕暮の細雨をあびてゐるのであつた。

 恰度其時。畠窓の障子が家の中から開けられて白い女の顏が浮んで直ぐに消えた。かと思ふと、裏口の方から、目笊を持つた三十位の束髮の女が現はれて、髮の毛の濡れるのを厭ふ樣に、袂の先をかざしつゝ葉鷄頭の間をすり拔けて白菜の前にかゞむのであつた。彼女の藍がゝつた立縞の着物に、紫陽花か何かを絞り風に染め出した夏帶を、キチンと高くお太鼓に結んだ引しまつた後姿と白い足袋の踵が地の上にくつきりと浮いて見えた。寶石(いし)をはめた肉付のいゝ手が、白綠色の縞をびつしりとしきつめた樣な白菜のうねをあちこち動いては、間引かれた小い菜が細い髭根に泥をつけたまゝ地に置かれた笊の中に拔いては入れ拔いては入れくりかへされた。暫くたつて一杯になつた綠色の笊を抱へて立ち上つた房子の、油氣のない前髮には、こまかい雨の玉がまき散らした樣に溜つてゐた。菜をぬいてゐた方の指輪の手で後れ毛をかきあげつゝまともに顏を上げた彼女の、大きい二皮目の瞼は、泣いたあとの樣な櫻色にすこし脹れぼつたく、瞳(め)は悲しさにうるんでゐたが、然も、興奮した中に混亂した入りくんだ色を現はしてゐたし、そげ氣味の赤味のない面長な頰、見詰めるのが癖の樣な冷めたい目色、やゝ詰まつた感じのする額、輪廓のはつきりした顏全體に何となく淋しい荒んだ憂鬱な表情が漂ふのであつた。彼女は何度となく葉鷄頭の頂き越しに、此畠の奧の家への通路となつてゐるポプラの並木の方を、振り返り振り返り、何かを待ち設ける樣な目付で心を殘しつゝうつむき勝ちな靜かな足取りで、笊をかゝへた中背の後姿を向日葵の陰の裏口へかくしてしまつた。

 それから小一時間もたつた頃、もう大分夕暮れらしい薄闇でぬりこめられた格子窓の中から、房子の顏が二三度待ちあぐねた樣に浮かみ出ては消えてしまつたころ、三臺の幌俥が此並木徑の入口に現はれた。

 さうして、畠をめぐらした木柵の一端の、扉もない通用門見たいな處の、畑とも路次ともつかないポプラの入口に梶棒を突き入れ樣として停まつた最初の俥の車夫は、

「この奧にも家らしいものが有る樣だから聞いて來ませう。多分さうでせう」と言つてずんずん並木をはひつて行つた。目のさめる樣な黍の葉の海を片手に見て小一丁許り入り込むと追ひ詰められた樣な奧のとこに、柿の立木を枝のみ切り拂つて其儘門柱にしたと云ふ樣な奇妙な扉(と)のない小い門が黑塀の隅つこに形ばかりにひつついてゐた。はげた小い門札の字を辿つてづかづかと玄關の叩キへ立つた車夫は「松田さんはこちらでございますか。へい。お客樣を停車場からお連れしましたんで」かう濁つた聲を掛ると奧から房子がそはそはと出て來て、玄關にあつた下駄をつつかけて門口迄出むかへるのであつた。

「おうい、こゝだとよう」今の俥夫がもとの場所へ步みつゝ手をあげてあひ圖をすると、三臺の幌俥の中からセルの袴をはいた夏羽織の男達が下り立つて、旅行カバンを下げた車夫達を先に、此葉鷄頭の家をさして步み出した。めいめいの傘で、兩方からづしりとトンネルの樣に垂れ被さつたポプラの濡れ枝を押しわける樣に次々としごいては並木の徑を辿る。其度毎に枝や葉をサラサラと傘にこすりつける音。ポトポと砂地に降る雨露の音。車夫達がピチヤピチヤと潦(にはたづみ)を踏みわたる草鞋の音。しごく度にゆるやかに跳ね返る枝と枝、葉と葉とが觸れあふ幽かな咡き。折々ポプラの幹にコツコツと突きあてつゝ傘を持つた狹くるしい並木の徑を過ぎる時の暗ぼつたい雨の日らしい感觸に浸りつゝ一步一步、柿の木の門へ近づいてきつゝあるのがはつきりと目に寫り出した時、彼女は燕の樣に身を翻して急いで門の中へ隱れてしまつた。どやどやと此狹い門内に押し込んで來た人々の目に最初にうつつたものは濡れた石疊の間や、硬い石ころ交じりの上に生えちらばつてゐる四五寸足らずの瘦せた葉鷄頭であつた。小人の樣にひねびた形をしつゝも早や靑い葉先に黃と紅をかつきりと刻みつけて玄關口に威張つてゐる葉鷄頭に心を止めて流し目にしながら、日和下駄をカチカチと氣忙しげに敷石の上に刻んで一番先に玄關をおとづれたのは、一行の中の主賓とも云ふべき孤雁子といふ三十少し上位の東京の俳人であつた。そこにはうす暗い障子の陰の疊に坐つてつゝましやかにほゝゑんで彼等を迎へてゐる房子の顏がくつきりと夕闇に浮き上つて見られるのであつた。[やぶちゃん注:「咡き」「ささやき」(囁き)。森鷗外に用例がある。「孤雁子」モデルは高浜虚子の弟子で『ホトトギス』編集人長谷川零余子(明治一九(一八八六)年~昭和三(一九二八)年)。本作の掲載誌『電氣と文藝』も彼が編集していた。推定で大正八(一九一九)年の八月末か(第二段落)。]

 ゴトンゴトンと二つ三つの旅行鞄や手荷物が玄關の板敷におかれて車夫達は皆歸つて行つてしまつた。孤雁子と他の二人の俳人達は電氣の灯つた八疊の座敷に通された。そこにはもう座布團が敷かれてあつて、座敷の隅には、白の十の字の上布に夏羽織を着流したお醫者らしい風采の三十七八位の男が一人、鷹揚な態度で彼等に會釋した。

「先年は誠に失禮申上げました。此度は又御多用のところをわざわざお立寄り下さいまして………さぞお疲れでいらつしやいませう」

「さあ、どうぞこちらへ」かう房子は床の正面の座布團へ孤雁子を招じつゝ三年振りの挨拶を感激に述べるのであつた。

「これは泡浪(はうらう)氏す」「こちらは銀川(ぎんせん)氏です」と孤雁子は、隣の體の大きい色の白い、比較的長い幅のある顏に眼鏡をかけて何となく梟の樣な感じのするやゝ猫脊の大學生風の泡浪を紹介した。も一人の銀川氏と云ふのは房子の住んでる此市から三時間許りで行ける某市の俳人で色の淺黑く頰骨の高い、顏全體も頭髮の刈り込みも四角い、巖の樣ながつしりした感じのする人だつた。之等の人々は此房子の先輩の人達で、東京の某誌の選者であるところの孤雁子も、他の二人も、雜誌の上では日頃から親しみを覺えてゐる人々のみであつたし一二度或る席上で逢つた事がないでも無かつたが改まつてかく近々と挨拶をとり交す樣な機會は之が初めてであつた。

 で、各自の間に挨拶が一通りすむと、最後にあの座敷の隅にひかへてゐた鷹揚な風采の男が、

「私は公孫樹と云ふ者ですが、房女さんとは始終御懇意にしてゐます。どうかよろしく」ぽつんぽつんとひきちぎつた樣な、まの暢びた調子で、おうやうに言ひ終つたとき、側にひかへてゐた房子は何といふ世間ばなれのした拙い調子で挨拶をする人だらうと、親しい公孫樹の爲めにくすぐつたい樣な氣まり惡さと、そのまののびた挨拶に強い親しみを覺え乍らみまもつてゐるのであつた。

 孤雁子が東京を出てから此九州を俳句施行してゐる長旅の話し。婦人俳句會が各地でさかんな事や、孤雁子の奧さんの柏女(かしは)さんが長い間神經痛の爲めに惱んでゐられる話なんどが彼と房子との間にプログラムの樣にとり交される。だが無口らしい初對面の男の人ばかりの中に唯一人交じってゐる主人役の房子も、社交的の人ではないので、一と通りの言葉が使ひ果されたあとは皆が離れ離れの樣な心持でポツンとセルの袴の膝に手をおいて妙に押しだまつてしまふのであつた。まづ正面に、キチンと坐り込んでゐる孤雁子の五分刈頭太く厚い唇眉毛が濃くて耳朶が特別に大きくてどこもかも太い線と感じを持つてゐる顏をかうして灯の下に近々と相對して眺め乍ら旅行中の話をきいてゐた房子には久しい間唯理智一點張りで利己的な人の樣に俳句とか人の評などを透して考へさせられてきた此人。血とか淚とかの全くない親しみのない、むしろ嫌ひな部類の人の樣に考へさせられて過して來たので、それとなく心の底では反抗的な心持さへもつてゐた此先輩の俳人が思ひがけなく訪れて來て自分の目前にあると言ふ事は非常にもの珍らしい事の樣にも思へたし、孤雁子の語る物靜かな低い聲の底には深い感情といふものが流れてゐると言ふ事を直覺して、今まで考へてゐた此人に對する心持をもう一度考へ直して見た許りでなく房子の受け入れ易い心ははじめて親しく打語らう此の客人を非常な好意をもつて快よく歡待しようとするのであつた。三年前にはじめて房子は東京の婦人俳句會の席上で孤雁子に逢うつたのであるが其時はろくろく挨拶をする暇もなかつた。其後孤雁子の夫人で名の知れ渡つた俳人である柏さんとはずつと親しい手紙の往復をして來たのであるが、かうして九州旅行の歸途突然他の俳人につれられて尋ねられた事は全く意外でもあり、常々客などのめつたにない旅ガラスの侘しい住家に氣のおける未知の人々を迎へるのは非常に肩のはつたきまりの惡い事の樣な心持がした。彼女はそんな事で興奮してゐたが、かん高い聲で靜かにうけ答へしてゐつゝある彼女の、女としては線の強過ぎるはつきりしたアウトライン、段のついた高い鼻、道具立ての大きい顏は恰度塑像の顏面を眺めてゐる時の樣な硬い冷たい感じがするのであつた。

 孤雁子は約一月にわたる長旅に各地の俳句會や歡迎會などで毎夜の樣に遲く迄ひき出される體を、そこへ投げ出し度い樣に疲れ切つてゐた。それをかうしてかたくるしく坐つてゐるといふ事、口を動かしたり俳句の話などをするのでさへも、實をいへば面倒臭くて堪まらない。お互にもつと寛ぎ度い。直ぐにも辭し去り度い樣な心持に滿たされつつ彼女を前にして體を支へてゐる事に苦痛をさへ感じて來た。

 無口な銀川、泡浪の二人は、てんきり口を開く事をしないでシヤチコバツた形をして畏(かしこ)まつてゐるし、亭主役やら幹事役やらに來てもらつておいた公孫樹氏も一向とり𢌞したり、こせついたりしない型の人だつたので、皆離れ離れの寄せ集めの樣な心持を相持して、煙草をむやみにふかしてゐる許りだつた。もつと寛ぎ度い、何となくギコチない座敷の空氣を破り度いと、張り切つた心にかうすぐと感じた房子は此座敷をはづさうとする前にこんな事を言ひ出した。[やぶちゃん注:「てんきり」呼応の副詞「てんから」に同じい。]

「東京の里の母が暫らく滯在してゐましたがつい先き程須磨の姊の處へ立ちました。母を送つた私はすぐ行き違ひにあなたをお迎へ致しました。折角かうしてお出であそばしましたのに、私は今、あなたをお迎へ致した嬉しい心持と母を送つた淋しい心とでいつぱいに成つて、私の心でない樣に亂れてゐます」

何のためらひもなくすらすらと、かう言ひ終つた房子は大きい瞳をいつぱいに見開いて、視線をまつすぐに孤雁子の上へ投げかけて今の彼女の心の中にある感情を、そつくりその儘彼の前へさらけ出してしまつた。そして、今迄初對面の客達に對してゐるといふつくろつた心持を投げすてゝ、ひたとまむきな感じをかざり氣なしにつき出した彼女の目は悲しさと嬉しさと混亂した色に打沈んで前後の事情をよく知つた公孫樹以外のお客達を却つてますますギコチない妙な心持に導いて行くのであつた。默り込んで、房子の立ち去つた疊の邊へ目を落して考へこんでゐる孤雁子の前にやがて房子がすり足でお茶をはこんで來た。丸い束髮の大きい影法師を疊に落して、再びはこんで來た、朱塗の菓子皿の栗饅頭は、房子が坐らうとする時に積み重ねてあつた三つの中の一つがころげ樣としたのを、房子は、氣づいて、一度襖のかげに持ち返つて正しくなほしてから靜かに再び運んで來た。孤雁子は此の房子の行動を注意深く見てゐたやうであつた。さうかうする中にS市のMと言ふ若い俳人もやつて來て狹い座敷の中は再び紹介やら挨拶やらに打ち賑はつた。背がずんぐりとして、針の樣な硬い黑い髮を角刈にした、色艷のよい、油つこい顏のMが、洋服のポケットから手巾(ハンカチ)を取り出して額の汗をふき乍ら、明日のS市の句會の打合せや時間を極めたりH市の句會の話しが出たりして、世間なれた樣なMの態度は、大に此きゆうくつな場面をやはらげるのに效があつた。煙草の煙のうづ卷いてゐる灯の下でぽつぽつと、隔のとれかゝつた會話が交される。そこへ今度はS港迄房子の母を送つて行つた良三が歸つて來た。良三は手にしたバナナと葡萄の籠を妻に渡して來客の名などきいた後、白がすりの浴衣の上に羽織をひつかけて座敷に現はれた。良三は房子よりも大分年が上の樣に、一寸見には見えてゐたが一體にヒヨロリと細長い背の高い男で、細長い幅の狹い色白の顏は、子供の樣に紅く、耳の生え下りからアゴへかけてへりどつた樣な濃い、髭が白い顏の外ワクの樣にグルリと生え茂つてゐた。心の底に何物をも藏してゐない單純性をもつた、突きつめた心持のよい眞面目な心の持主である良三は體の細い割合に大きい筒ぬけた樣な山家聲を太いのどぼとけから出して、硬くるしい程眞面目な、ていねいな挨拶を一人一人にするのであつた。彼の髮の毛は漆の黑さと手入れのよい油のしみた艷々しさとを以つてきれいにわけられてゐた。[やぶちゃん注:実際の久女の夫宇内は六歳年上であった。]

 人數の殖えた座敷の中には今迄と達つた賑やかな、世間話や雜談がとりかはされてゐるのを襖越しに聞きながら房子は後れてしまつた夕飯の仕度にごそごそと取かゝるのであつた。そこはあの窓に面した三疊の一ト間で、うす暗い十燭の灯の下にあそんでゐた十になる長女と、四つになる女の兒とがお腹がすいたらしくシヨンボリ坐つてゐるのを見て、チヤブ臺の上で夕飯を食べさせたりその傍の古疊に栗色のお膳を並べて、皿や吸物のお椀、茶椀るゐを一つ一つ据ゑてゆく。房子は悲しいとも恥かしいとも言ひ樣のないわくわくと、耳があつくのぼせ返る樣な心持で空腹も覺えず子等の言ふ事もろくろく耳にははひらなかつた。何一つ出さうにも、チグハグで皿器具類はなし、手は足りないし、常にこんな幾人ものお客に食事を上げるなどゝいふ事のめつたにない貧しい中學教師のくらしで、馴れもせず、それに何より彼女の當惑したのは、お客樣はせいぜい二人か夫をまぜて三人前位の仕度をしておいた爲めに五人もの人數が殖えたといふ事は房子を非常に當惑させた。いつの間にか日は暮れて外には、先刻よりも強い雨が降つてゐる。風も少しはあるらしく、窓障子にサツと降りつける事もあるし下の兒はねむたがつて、「お母さんお布團しいて頂戴」だの「抱いて」だのとぐづぐづ言ひはじめた。使ひもない電話もない、どうしたらと、こんな事を思ふ丈けでものぼせ返つてしまふ樣な心持でつい子供達へお給仕をしてやる時も、お膳立てなどにわくわくして、カチカチと茶碗や器具の音をさせたり、手からお椀の蓋をとり落したりする。大聲もたてない樣に注意してゐる靜かな中にさういふ風なカチリとした大音を立てる度毎に、房子は自分の心臟が破ぶれる樣なハツとした心持がして人も見てゐないのに一人頰を赤らめたり、後れ髮をくせの樣に、そゝくさと撫であげてきまりの惡るさをおしかくす樣にするのであつた。座敷の次ぎの六疊と、此暗い三疊の臺どころに閉ぢられた襖がしばしばあけられて、上の女の子が菓子盆を運んで出たり、お茶を入れ替へたりした。粗末な菓子鉢の中にはさつき良三が持つて歸つた果物がもられてゐた。座敷の中の六人の人々に花ゴザ製の夏座布團は一枚不足してゐた。上の女の兒が三疊の襖をあけて出這入りする度に八疊の座敷の一番端じっこに席を定めた孤雁子のところからは、三疊のうすぐらい電氣にてらし出されてゐる黃色い古障子や、襖の陰からチヤブ臺の半面が佗しげに見えてゐた。房子の姿は障子の間からは見えなかつたがカチリと觸れあふ茶碗の音や、子供の睡むさうにすねる聲、房子がすかしてゐる靜かな低い聲、何かゞ煮えつゝある樣な漫然とした匂ひ、それから臺所の石疊の上をこつこつと步るく房子らしい下駄の音、こんなものが孤雁子のじつとうつむいて坐つてゐる、さうして何かを見知らうとしてゐる眼に狹い家の事とて、ひそやか乍らも、手にとる樣に古障子の中の灯の下から聞えて來るのをきいて孤雁子は淋しい佗しい感じにひしひしと胸を打たれてしまふのであつた。殊に、カチリカチリと、時時打ちあふ瀨戸物の堪へ難い佗しさをもたらす音が彼れの心を極度に暗くした。

 三疊の灯の下にごとごとと、三人前の御馳走を、五つの膳にもりわけてゐた房子は、襖をあけてはひつて來た良三を見ると、

「あのね、お客樣がふえて私どうしたらいゝでせう。今からもう遲くてまにあはないし」

とかう訴へる樣にさゝやくのであつた。

「何、僕のはいゝよ。どうせ我々の樣な教師暮しでは大した事が出來ないつて事も、道具のない事も孤雁子は御承知だらう、それより早く上げた方がいゝよ」良三は神經の過敏な妻が悲しげな潤んだ目付でみつめてゐるのをなだめる樣に言ひ捨てゝ外へ出て行つたと思ふと暫らくして四五本のビールをかかへて歸つて來て、自分でコップや栓拔やを乘せたお盆をもつて座敷へ出た。まもなく粗末な膳部が揃はぬ勝ちの器をのせて皆の前へ子供の手で運ばれた。房子は襖のかげ迄運んだまゝで座敷へは、良三と長女の昌子とが交る交る据ゑてゐた。三人分と定めてつくつておいた料理の中にはどうしても五つの膳に融通の出來ないものもあつて公孫樹と、M氏との膳部は、正客の孤雁子と銀川、泡浪等の膳の上程賑かではなく、ほんの三品ばかりにチヨクがついてゐるばかりであつた。主の良三はおしまひに自分の箸や猪口、一寸した食物を盛つた皿をのせた盆を、自身で座敷へもつて出た。さうして「さあ、いかゞですか。どなたもお一つ」とビールをつぎわけたりして主人らしく振舞つて皆にすゝめるのであつた。良三が此夏、三河へ歸省した時、土藏の長持から探し出して持つて歸つた、古い俳畫だの四郎の雁の幅。畫帳。こんなものがお互の手から手へ移されて色々な話の絲口がひつばり出されるので無口な公孫樹だの泡浪などの間にも今はもう寛いだ親しみが取交はされる樣になつた。三河と美濃との國境に近いほんとの山村に生れて育つて來た良三は子供の時から好きだつた山步きや兎追ひの話、山中の住居では今も行灯が古めかしく灯されてすゝけた天井や太い梁を暗ぼつたく色彩つてゐる事や、秋の山上のツグミの鳥屋(トヤ)の物語、矢矧川べりの簗(やな)小屋で尺餘の生き鮎を、竹串にさした物を、靑芝を土ごと長細く切り取つたのに突き立てゝ爐の火であぶつて食べる事やそれからそれへと移つて行つて、良三の好きな魚釣の事に話がおちていつた時、孤雁子は

「釣の上手な人には魚は喜んで釣られませう。あなたの樣な釣好の人の心は魚に感應すると云ふ樣な事ではないでせうか」こんな事をいひかけた。それから又、「釣の面白味と云ふのは其の釣るといふ境地を味はふ事にあるのでせうか」かうも尋ねた。[やぶちゃん注:「鳥屋(とや)」「塒」とも書き、専ら、食用にするためにツグミなどの小鳥を捕獲するために山野に設けた小屋のことを言う。「矢矧川」「やはぎがは」と読む。矢作川(やはぎがわ)とも書き、長野県・岐阜県・愛知県を流れて三河湾に注ぐ一級河川で明治用水などにも使られている。モデルである久女の夫宇内の故郷は愛知県西加茂郡小原村松名(現在は豊田市に編入)であった。]

「さうですな。僕は大きな魚がひつかかつた時が一番愉快ですな」大きければ大きい程一番面白味が深いといふ樣な事を良三はいかにも面白さうに愉快げに言つて、二三杯のビールにもうまつ赤になつた細長い首筋を撫でまはしつゝ糸の樣な目を一層細くしてハツハツハと笑つては、皆んなのコップヘビールをせつせとつぎわけるのであつた。かうした話の應對の間にも、孤雁子の耳は子供の聲、茶碗の音、などに相變らず何ともいへぬもの淋しい氣分を誘はれて、灯の下に淋しい心持で坐つてゐるであらう房子を心に畫き整はぬらしい不揃の器物、膳の上にあらはれた貧しい主婦の心づくしと苦衷、こうしたものをひしひしと、感じないわけにはゆかなかつた。孤雁子は生活と云ふものに房子程迫つた日常を送つてもゐなかつたし彼の尋ねて步るいたり泊つたりした家は皆その土地その土地での上の部に屬する人達許りだつたので客としてかう言つた侘しい心持を味はふのは之がはじめてゞあつた。それだけに氣兼ねしてゐる樣子であつた。三年前に東京ではじめて逢つた時の房子はもつと若々しくてたしかに今よりも美しいものをもつてゐた。それだのに孤雁子が此座敷で顏と顏とをあはした最初の瞬間に彼の受取つた感じは、以前よりも甚だしく淋しい荒んだ表情に變つてゐて、頰のあたりも、きはだつてそげてゐた。女としては比較的鋭どい頭を持つてゐて感情家らしい彼女の性格や畫家の妻であるといふ藝術的な生活や、それから彼女が子供の時から移り住んで行つた樣な土地の變化から來る南國人らしい性格、俳句にあらはれた偏した性格、さういふ風なものに興味をもつて、九州旅行の歸路をわざわざ立寄つた(彼れはこの家の敷居をまたぐ迄に、房子の境遇は大變幸福な呑氣なもので、地方での舊家で山林や田畑などをもつてゐると聞いてゐる良三の田舍から、補助でもうけてゆつたりと暮してゐるのだらうと許り思つて來たのである)。ところが彼女の家には何一つ道具らしいものはない。路次とも肥料汲みの徑ともつかない狹い道の奧荒壁ぬりの小家に住んでゐる。そして彼女はまだ三十になつた許りの顏にやつれを見せて、井戸水を汲んだり竃の下を焚いたり、時には野菜風呂敷をかゝへて外出もするであらうし、重い子供をおんぶ羽織に包んで買物する時もあらう。流行におくれた着物や帶に身を包んでゐながらもむかしの氣品を落さずにゐる房子、文藝といふものに理解を持つてゐつゝ尚ほ貧しい家庭の間もゆるがせにしないで行く妻と、日曜には必らず魚釣に出かけて畫家にして畫をかゝない、しかし乍ら妻の趣味なり心持なりを理解してやつて家事の手傳をもしてゐるらしい善良な夫と、かう比較しても考へたり、目の前の暗い古障子のかげに坐つてゐる房子の柁しい姿を心に浮べ、菓子一つ買ひに行つた事もなく生活の苦痛をも知らぬ自分の妻や、孤雁子の俳句の弟子である實業家として名の高い某氏の夫人何女、のんきに句作してゆける東京の女流俳人の誰れ彼れ、そんな人達を一々房子の境遇に引き較べて孤雁子の頭は樣々な瞑想に陷ちて行つた。雨の音が靜まつて濕つぽい屋外の空氣が軒のかぶさつた靑桐の葉を透して靜かに室内へ流れこむ。灯の下の人々は互に談笑しつゝ先程迄のギコチない空氣はすつかり取り去られてしまつてゐたが房子はまだ座敷へ出て來なかつた。三疊のうす暗い光りのもとにぐづぐづ云ふ子を賺し隅つこの布團に二兒とも寢せてしまつた彼女は布團の裾の方にこゞむ樣に坐つて、高聲で八方へ受け答へしつゝある良三の聲も、靜かな落付た孤雁子の話し聲も遠い遠い世界の物音を夢の樣に洩れ聞く心地がした。[やぶちゃん注:「三年前に東京ではじめて逢つた時」久女の句は大正六(一九一七)年一月号の『ホトトギス』の「臺所雜詠」欄に初めて載ったが、その五月に初めて高浜虚子に逢っている。この時、零余子が一緒だった可能性は高い。因みに当時の久女は満で未だ二十六、七であった。]

 唯恐しさと恥かしさとでふやける樣に成つてゐる彼女の心はしんみりした雨の音に誘はれて、今日一日の出來事を走馬灯の樣に思ひ浮べる。今頃はもう周防の平野邊りを馳つてゐるらしい汽車の窓の母を思ひ出すと、折角あゝして東京から六十七にもなる老體を運んでまで娘に逢ひに來てくれたのに、今夜のお客を待つ爲めに送りもしなかつた事。手のない忙がしい夕餉をそこくにすまして出發(たた)せてしまつた母の、ポプラの並木を步いて行く切髮の後姿。房子を悲しませまいとわざと元氣さうに、口許に笑をふくみ乍らも落込んだ目の中をうるませて別辭をのべて乘り込んだ母を、忽として堤のかげへ乘せ去つた幌俥。今日のお客にと云ふので、立ちぎはの母はアベコべに手のない房子に手傳つて女郎花を活けてくれたり、手づから庖丁をとつて今夜のお料理迄煮たきしてあとの困らぬ樣にしておいて下さつた。あんなにもう年寄つていつ死んでしまふかもしれず、またいつ逢へるかといふのに、送られなかつた事を房子は幾度考へても心の奧から殘念に思ひ、かうした物質上に豐かでない日常の有樣を貧乏馴れない里の母に見せつけて、母を何となく遠慮がちな心持に始終置いたことをすまなく思ふ心でいつぱいだつた。房子は皺の殖えた瞼の落ち込んだ母の顏を腦裡にしつかりゑがいて、色々でまぎれてゐた別離の悲しみをかうした獨りぼつちの今、甦る樣に痛切に覺えるのであつた。それと同時にも一つは、今日の珍客へ對して心いつぱいの饗應(もてな)しも出來ない許りか二人と思つたのが五人に殖えてまごついたり、座敷と臺所とが接近してゐる爲めに色々な物音が客の耳に侘しく聞えたりする事を、割合にふつくりと鷹揚に育てられて氣位ばかり高い、世馴れぬ房子には、それはそれは心細く氣恥かしく感じて自分の役にたゝぬまごつき樣も、長い間狹い穴の樣な家と境遇とにおかれて廣い世間と沒交渉で渡つてきた事から起る、かういふ場合のへマなさまざまのしくじりも皆つきつけられる樣にはつきりと感じて、腹立しい何ともいへぬ淋しさに捕へられてしまふのだつた。何よりも先づ彼女は、所帶といふものを持つてから十年近い今日迄に、こんなに貧しい者のみじめさを突きつけられた事はない樣に一圖に思ひ込んで、佗しい茶碗の音なんかを立てたりして折角の客人に貧乏臭い哀つぽい感を抱かせるであらう事を鏡の樣に自分の心に寫し得るのが一層辛らかつた。こんな思ひに耽りつゝそつと起き上つて燗を仕樣とするとどうした事か硝子の燗瓶の底がぬけて琥珀色の酒は一滴のこらずに、七輪の炭火を消して灰かぐらとなつてしまうたので、まあ何と云ふまの惡い、そゝつかしい事だらう。使はなし町は遠し澤山もとつてない酒をこんなにしてしまつて、房子はもう悲しいやら情けないやらハツと泣き出したい樣な心持でぼんとしてしまつた。もし之が自分のお客樣でなかつたら雨のふる外へ此儘逃げ出して、冷たい雨を頭からあびつゝかけまはり度い樣な、やるせない氣になり切つて暫くは目も動かさず疊の上へへたばつてしまつた。鷹揚に呑氣に十九の年迄そだてられて、振袖ざんまいで三河の山奧へ嫁して行つた房子は馴れない貧しい教師生活に喘ぎつゝも、一文の借金もせず持つて行つたキモノは皆着破つて辛抱しつゞけてきたが、いつ迄も世話女房らしい氣分になりきれない彼女は母の袂のかげに包まれかくれては過してゐた處女時代の樣な心持で今夜の樣な、世馴れた女には何でもない失敗である場合にも唯恥かしがつて、頰をそめたり、淚をこぼしたりするのであつた。恰度そこへ良三がはひつて來て「僕一人でおとりなしをしてゐては具合が惡いから房さんも出てくれないか」と引き立てる樣にいひすてゝまた座敷へと去つた。淚ぐんで默つて閉ぢられた襖を見つめてゐた房子はやがて氣を取り直して、三疊の隅に出し放してあつた夕方のまゝの鏡臺にむかつて、髮をかき上げたり、紛おしろいの刷毛で、うす紅く脹れた瞼をさつと一刷毛はきつけたりして漸く座敷へ出ていつた。[やぶちゃん注:底本では「またいつ逢へるかといふのに、送られなかつた事を」の「送られ」の右に編者によるママ注記がある。「ぼん」馬鹿者・間抜けの意の方言と思われる。山口県で用例がある。福岡弁では「あんぽす」「あんぼんたん」がある。後者が濁っているのはここと親和性があると私は思う。]

「こんな茅屋(あばらや)へいらして下さいました事を私はどんなに嬉しく思つてますでございませう。嬉しくつて一生懸命におもてなし申上度く思ひ乍ら私の貧しさは、何一つ差し上げる事も出來ません。お詫にはどうぞこれを御覽あそばして」

 かういつて一枚の紙片を孤雁子の前へさし出した。彼女の顏にはもう淚は消えてぼうつと上氣したうす桃色の頰に惱ましげな微笑さへたゞよつてゐた。今迄つくろひ包まうとして恥かしがつてゐた貧しさを皆の前へ殘りなくさらけ出してしまつた後の、心安さと落付とで房子は、先きの心持とは異つたはつきりとした興奮した心持に成つてゐた。孤雁子が紙片を取り上げて見ると珍客に對して香りのいゝ酒もさし上げられないといふ佗しい心持を詠つた句が、打ち崩れた樣な散漫な字體でかいてあつた。孤雁子は默つてじつと見つめてから次席の銀川へ渡す。こんな目の前の事が一層房子には恥かしかつたが、もう現はれる處迄現はれつくした貧しさも今は氣樂に話す事が出來る樣に思へた。陽氣な房子の夫の話し聲に交じって、房子の興奮したかん高なやゝかすれた聲がとりかはされて俳句の話から話題は次第に房子の身の上話に移つて行つた。彼女は今はもう一座の中心となつて一生懸命にしやべりつゞけた。彼女は一事を語りをはらない中に早や次の話題へ孔雀の尾をひろげた樣に移つていつて、感情がたかぶると限りなく話を進ませてゆく。彼我の説を一丸にして話をまとめたり崩したりする、色々な事を根ほり葉掘り聞きたがる。

「私は俳句をやめ樣と今迄に何度思つたか知れません。本をよむ時間も研究する暇もない私には唯十七字をつくると云ふ事丈でも容易な事ではありません。私の樣に年中苦みつゞけて生活してゆく者には自分の刹那刹那の感情や思想をそのまゝ表現の出來るものは詩なり歌なり創作なりでなくては、生意氣の樣ですがとても自家の心持を述べつくす事も滿足する事も出來ません。俳句ではさういふものを作つて見ても不完全なものが出來易い。でも時間と餘裕のない私には、お野菜を下げて步いてゐる時とか、子供を守(もり)する時とかの少ない時間なので長いものは書けませんから俳句でも作つてわづかに滿足してなくてはなりません。色んな苦惱の爲めに胸がいつぱいになつてもの狂ほしい樣な淋しい心持におそはれる時、私は、強い明るい色彩、高調な張りきつたものがほしくなつてまゐります。灰色のものや穩かな弱い、力ないものでは私は、苦しい悲しい私は、到底滿足出來ないのです。ですけれど俳句は進めば進む程、わからなく迷つて來ました。私は何度俳句をすてゝぼろつぎでもしたり、破れた足袋穴の一足でもついだりする事が私の樣な身分の者には相應してゐるか知れないと考へたか知れないと考へたか知れませんけど、やつぱりやめられないで、苦しみつゝ句作して居ります」彼女は燒ける樣な打ち迫つた調子でたぐり出す樣に語りつゞけるのであつた。

「それでもあなたは、句作したり時々畫を書いたりなさる時間があるではありませんか」と孤雁子は雜誌などで見た二三の短い文章について尋ねて見た。

「いゝえ。文章はいつも夜中に起き出したりして書いたのでした。それでなくてさへ働き馴れない手の足りない事を考へますと餘裕はすこしもありません。けれども文藝を捨てゝしまつた後の私はどんなに淋しいでせう。私は物質的には何ものをも持ちません。私は社會的にも精神的にも孤獨です。ただ拙ない俳句を生み出す事によつてのみ小い自分を創り上げ度いと願つて努力してゐるのですが………」かういつて言葉をとぎらせてしまつた房子の顏には熱し切つた赤い血がサツと漲り走る音迄もきこえるかと思はれる許りに熱し、左の上唇は痙攣的に引つ吊つた樣な表情となつて目は大きく靑く燃えてゐた。頭は白熱的に灼れ、積極的に何に事もつきつめて行かうとする勢ひ、底深い淋しみを徹底的に見極め樣とする心持、性格と境遇との矛盾、其他樣々な書きつくせない精神的な惱みを語る時の興奮した態度にひきかへて、物質的方面の話しに移つてゆくと彼女の靑い目は幽欝な沈んだ色にとぢこめられて、少しも氣勢が上らない。子供を育て家事をとつてゆく貧しい一般的な妻の心持、さういつた境遇をあきらめるといふ心持にどうしても到達する事の出來ない彼女は、いつ迄たつても、今の自分に滿足し樣とはせず、或時は個性を曲げつけて迄も自分を引き下げ樣と無理無體に自分をしひたげて見樣としたり、或時には、のべつに刈り込まれ樣としてゐる自分といふものを、何物の拘束をもおそれず暢ばせる丈けのばして見たいと強い心になつて見たり、どうしてもあきらめられなかつた。迷惑さうな顏付をして坐つてゐた良三は、

「私の妻は油畫をすこし書きますが實にいゝ色を出す事がありますよ。然し畫いてゐる自分自身にそれがいゝのか惡いのか解らなくつて批評なんかすると却つていゝところを塗りつぶしてしまつたりします。どこかに感じのいゝ獨創的なところはありますがどの繪もどの繪も未成品で取留めがないのです。房子の俳句もきつとそんな風な程度のものでせうと思ふ」と橫合から房子の話をかきまはす樣にこんな事を孤雁子に話すのであつた。話はいつか彼女が書いた短い文章の中の幼兒の事に移つて行つた。房子は突きつめた樣な目色をじつと疊におとして、熱した一語一語は日常の彼女の聲とはまるで違つたうるほひを持つて音樂の樣に響いてきた。今はもう隔ても全くとれてしまつたので、日頃人とあまり語つた事のない心の底の泉が湧き出る樣にその赤い厚い唇からはぐんぐん彼女の惱みと淋しみとが言葉となつてあふれ出るのであつた。

「私は鹿兒島の平の馬場と云ふところで生れました。それは五月の末で、あのまつ白な夏蜜柑の花がもうい小さい實になつて紫陽花の藍色の花があの町の到るところに咲き初める頃でした。さうして三つの年に、大地震の後の大垣へ父が任命されたので私共一家は引移つて行つた、それからと言ふもの私の運命は南へ南へと移つていつてあの絶海の孤島そこには龍宮の樣な王城と、灰色の厚い霧と、毒蛇と、紫の雲の樣な栴檀の花がちつてゐるせいの高い石垣をめぐらした榕樹の屋敷町、碧玉の色をした海。かうしたなつかしい記憶を刻みつけられた琉球に幾年かを住み、それからまた鱶の海を渡つて、芭蕉林と赤い花とに包まれてゐる臺灣の南部へも、領臺後まもなく私達は、父に從つて行つたのである。そこではまだ鐵道もない、或時には土人の駕にのり、或時にはトロッコにおされて、何里もに渡つたごろごろ石のやけつく樣なかわいた河原を、果しない雲の峰をながめつゝ走つた事もあり、或日は橋の落ちた濁流を土人のカゴカキに負はれて渡つたり、色のつよい明るい芥子畠を打過ぎたり、ずゐぶん子供心にも旅から旅へとおそろしい人少ない土地へ步るきまはつて行つたりして私の生來の多感な偏した性格は猶更らこんなに淋しい惱ましいものとなつてしまつたのである」こんな幼ない時の追懷を彼女は、熱心に物語つた。呑みかけたビールのコップを膝の上に支へられたまゝ目をつぶつた樣に、じいつときいてゐた孤雁子は、話のとぎれた時に、顏をあげて、「あなたはおいくつの時から大垣へお出ででしたか」と熱心な樣子で聞くのであつた。[やぶちゃん注:久女は明治二三(一八九〇)年五月三十日に父赤堀廉蔵、母さよの三女として官吏であった父の任地であった鹿児島県鹿児島市平(ひら)の馬場(現在の鹿児島市の中央部である鹿児島県鹿児島市平野町)で生まれたが、その後、父の転勤で久女四歳の時に岐阜県大垣へ、翌年辺りには沖繩県那覇市へ、明治三一(一八九七)年には台湾の台北へと移り住んでいるから、ここに書かれた内容は全くの事実と捉えてよい。「大地震」明治二四(一八九一)年十月二十八日に濃尾地方で発生した日本史上最大の内陸地殻内地震である濃尾地震のこと(現在の推定ではマグニチュードは八・〇程とされる)。「栴檀」ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach 。言っておくと、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく、ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン(白檀)Santalum album を指すので注意されたい。「榕樹」精霊キジムナーの住むとされるバラ目クワ科イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa のこと。]

「私は三つか四つか、はつきりした事は覺えません。ですけれどもそれは大地震のあつた二年ばかり後でまだ參りたては、晝夜に何回となくおそろしい地震がありました。私はそのたんびに母の足にしつかとまとひついて泣きました」と房子は緊張した表情で答へた。

「さうですか、不思議ですね。私も子供の時、さうですね三つから七ツ位迄を大垣にゐた事があります。私は地震の起つた年の春頃、大垣を去つて國の方へ歸りました」孤雁子は眉間に立て皺をよせて思出深さうに瞬きながら語り出した。美濃の大地震を境として今こゝに相對してゐる二人の人達が大垣に住んでゐたと言ふ事は何となく奇異な興味深い事に思はれて、一座の人々は二人の話しに耳を傾けて居つた。孤雁子と房子の話は大垣を興味の中心として次第に水輪の樣に擴がつてゆく。

「私は幼い時でよく覺えてませんが、何でも、大垣小町とか名づけられてゐた美しい娘が兩腕を梁の下に組敷かれて不具乍らも命丈けは助かつた事だの、大きな龜裂(ひび)割れた大地へ呑まれる樣に人間ぐるみ陷ち込んでしまつた家の話だの怖ろしい事許り母から寢物語に聞かされました」房子のかういふ話に續いて、「私の住んでゐた家のあとに來た人達も地震に押し潰されて全滅してしまつたさうです。私達は堤に振つた竹藪のある家に住んでました。そこいら邊には泥龜が澤山ゐて、私はよく繩で縛り上げて父の飮殘したお酒を無理に口へつぎ込んだりして遊びました。それから又私には一つ違ひの聲の美しい妹がありましたが妹は五つの年に三日許り病(わづら)つて死んでしまひました。それは恰度お正月前で、仲よしの妹と私はいつも門の前の日當りのいゝ草の上なんかに坐つて『もういくつするとお正月が來る』なんて二人で幼い心持にいつぱいの樂しみを抱いて遊んでゐたのがふつと死んでしまつたのです。今でも大垣で妹とうつした古ぼけた唯一枚の寫眞を私は取りだして妹の事を思ひ出します」

 疊に目を伏せてゆつくりと低い音聲で語りつぐ孤雁子を理智一點張りの鐵の樣な心持の人、淚のない人といふ風に解してゐたがさうした話の中にも感情といふものがサツと浮かび出すのを見得るのであつた。此座敷には入つて來てから一度も聲を立てゝ笑はない、じいつとものを考へこんでゐる樣な無口な、山國の血をうけた人らしい此客人孤雁子を、房子は理性の底に深い感情を包んでもつてゐる人らしいと考へて見た。

「私達もあの河堤(かはづつみ)に住んで居りました。私は大垣といふとすぐに曼珠沙華とれんげと狐とを思ひ出します」と房子は遠いむかしの記憶を引よせる樣なうつとりとした目付で次の樣な話をした。懸命に續けた膳部だのビールの瓶をのせたお盆だのはもう綺麗に次の間へとりさげられてゐた。雨はいつの間にかやんだらしく此畠中の一軒家は靜かに更けてゆく。小いマジョリカ燒の灰皿はすひ殼でいつぱいになつてゐた。

「私は兄妹中で一番大きい鈴の樣な瞳の持主で、怒りつぽで、我儘で、そのくせ泣きむしな女の兒でした。私が一處にまゝごとでもして遊んでゐる時、強情を張つたり我儘言つたりすると、

『房ちやんはお母樣の子ぢやないのよ。明神さまの森(鹿兒島の)に捨てられて、オギアオギヤつて泣いてゐたのをお母樣が、お星樣のいつぱい光つてゐる暗い晩にひろつて來て育てゝあげたのよ』つて、兄や姊はよくからかつたものです。

『なあぜ?』と私が首をかしげると、

『だつて房ちやんの樣な大きな黑い目は家中に一人もゐないのだもの』

 こう言はれると私はそれがほんとの樣な氣がして、ぽろぽろと淚をこぼし乍ら、『うそようそよ』とかぶりをふるのでありました。私がかぶりを振るたんびに、ふさふさしたおかつぱさんの髮がばさりばさりと頰にあたる。私はほんとに心配して明神樣の森に捨てられてゐたかどうかを母に聞きたゞすのでした。堤の上の其家は郊外に近うございましたので毎日の樣に、私達は低い草山に遊びに行きました。其草山の處々にはまばらに松などが生えてゐましたが、足許をみつめて步いて行く私の目に水々しい土筆が、時々ひよつこり現はれる。そこで、

『まあお母さん、姊さん。房子の目は大きいから一番先きにつくしんぼが見つかつた』

 そんな時の私の頰には輝いた微笑が刻まれます。そして目の大きいのをどんなに心嬉しくも誇らしくも思つた事でございましたらう。それから又あなたは御承知かどうか知りませんが秋の彼岸の頃にこの草山にまゐりますと曼珠沙華の深紅の花が、葉も何にもない、孤りぽつちの樣に長い莖をぬきんで、淋しさうにぽつんぽつんと咲いてます。あの曼珠沙華の焰の樣な色と、不可思議な糸の樣な花辨とは羽子板の押繪なんかで見る、びらびらの簪をさした振袖のお姫樣の裾にもえてゐる狐火を思ひ出させるのでございました。實際にあの邊には狐が多かつたのでせうか。私は度々狐を見得たのでございませうか」

「紫雲英の紅でぬりつぶされた樣なたんぽゝを、摘んでは束ね束ね步いてゐると、まつ白いれんげが時々めにはひりました。

『白いれんげは狐の簪よ』

 幼な友達にかう囁かれて、私は摘みかけた手をひつこめてしまふ。かうした白い紫雲英の印象から得たまぼろしなのか」

「麥の穗がうれて淡黃色の光りの波を漂はすその中から、狐の尖つた顏がひよつこり目の前に浮き上つて房子をじいつと凝視(みつめ)て直ぐまた麥の浪に沈んでしまひました……」

「あれはほんとの出來事であつたのでせうか。それとも幼い私の幻覺が、蜃氣樓の樣に築き上げた眞實でせうか」房子は、こどもの樣に首をかしげて、皆を見まはし乍ら、そんな事を孤雁子に話した。「よく覺えてお出ですね。私は狐の事は、覺えがありませんけど、曼珠沙華や紫雲英は思ひ出しますよ。あなたが御遊びになつた山かどうか判りませんが、私の住んでゐた家の裏の方の山では鐵道の敷設工事が始まつてゐて、毎日鶴嘴を打ち込む音が聞かれました。そしてやつぱり秋になると掌(てのひら)の筋を血でそめたやうな眞紅(まつか)な曼珠沙華が雜草の中に一面に咲いてましたつけ」と孤雁子が言ふと「曼珠沙華は、私共の國の方ではほして何かの藥にしますよ」「感じのいゝ花ですな。僕はどういふわけか、友切丸か何かで切りつけられた土蜘妹の精が地にひいて逃げていつた血潮の痕から咲き出た花。と言ふ樣な妖怪めいた感じをあの花から受けますがね」傍から二つの聲がかちあふ樣に放たれた。[やぶちゃん注:「曼珠沙華は、私共の國の方ではほして何かの藥にします」古来、彼岸花はその毒を以って堕胎薬とされた。私が嘗て書いた「曼珠沙華逍遙」という記事を紹介しておく。]

「あなたは日比野のお孝さんといふ人を御存知ありませんか」孤雁子からかう聞かれて、

「私は其頃まだやつと四つか五つ位ゐだつたものですからよくは存じませんけど、お孝さんといふよそのお姊さんは一人ありました。その人は何でも色の淺黑い目の大きいしつかりとした顏立の人の樣に覺えてますけど、違ふかも知れません」と房子は、癖の樣に額髮をかきあげながら答へた。

「日比野のお孝さんはお母さんとたつた二人でひろいひろ家に住んでゐました。慥か御家老の家筋でした。私はお孝さんに可愛がられて毎日の樣に遊びにいつたり泊つたりしてました。快活な人でしたが細面ての綺麗なすらりとした人の樣に私は覺えてゐます」と孤雁子が言つた。

「たしか私の姊のお友達でした。大洪水(おほみづ)の出た時姊とお孝さんとが、塀に寄せてつないであつた小舟に乘つて遊んでゐて、どうしたはづみにか二人共落ち込んで大騷ぎした事を私はおぼろげに覺えてゐる位のものでございます」

「その兩方のお孝さんが全く同一の人で有つたとして、あなた方の中の一人が大垣に行かれて年寄つたお孝さんと、さういふ風な追懷談でも出るのだと、立派な小説になりますね」無口な公孫樹が、團扇の柄をいぢくりながら、面白さうに、下ぶくれの福々しい長い頰でにやにやと笑ひつゝ橫槍を入れた。

「ほんたうですね。かも知れませんわ。遊び友達のことをおつしやいましたので思ひ出しましたが大垣といふ處は鼬の多いとこでございますね」と房子が白い齒を出して笑ひながら言つた。

「さうですかなあ。私は細かしい記憶はあまりありません」孤雁子は相變らず靜かな低い聲でうつむきかげんにぽつつりと受け答へをする。いかにも疲れたといふ顏である。それだのに房子の方は輝いた目付、話亢つてやゝ上氣した仰向けの頰。かん高いすらすらと湧き出す樣に手まねをまぜたおしやべりすべてが孤雁子の容子と此の場合全然相違した對照を、並らべて眺めてゐる他の五人の人々は、興味深かさうにのつぺりした顏や、退屈げなしびれの切れた樣子、四角い顏や酒の醉が發してしきりに睡魔のおそふらしい細い目付や、苦蟲をかみつぶした鍾鬼樣見たいな顏やを灯の下にならべあつて互に押しだまつて聞いてゐる。房子はそんな事には一向おかまひなしに、色濃く押しよせて來る潮の樣な思出を尚ほもつきせず押しすゝめてゆくのであつた。[やぶちゃん注:「話亢つて」「はなしたかぶつて(はなしたかぶって)」。]

「其頃やつと步み初めた許りの弟が居た私は毎日の樣に『河野の叔母さん』とこへ遊びに行きました。其途中でいつも私は茶褐色の鼬が行く手の徑をすばしこく橫ぎつて藪に走りこむ、そのとたんに、ずるさうな目付で私の方をチラと見る。そんな淋しい細道を通らなくてはならなかつたのです。河野の叔母さんには子供が無かつたので私はよく叔母さんのお家に寢泊りしてゐましたが、そこは、銀杏の樹が覆ひかぶさつた古家で、秋も末の夜なんか風がない夜でもサラサラサラサラと限りもなく銀杏の散る音が屋根となく庭となく此家のすべてをつゝんでしまふ。幼い私は此銀杏の散る音をきくと堪まらなく悲しくなつて、『叔母さんとこへ泊り度い泊り度い』と寢床の中に坐つては泣き出すのでした。そんな時、叔母さんはきつと、私を抱いて厠へ行く緣側の戸を一枚くつて、

『あれを御覽なさい。向うの方に赤い灯が澤山見えるでせう。あれは狐のともすお提灯ですよ』と指さす。まつ闇らな田圃の向うの、あの曼珠沙華の小山へ續いてゐる道の方に黃色を帶びた赤い灯が二つ三つ。動くともなく動いてゐる。目の前には大銀杏が私をおびやかす幽靈の樣に黑く聳えてゐました。私は、其まゝじいつと目をつぶつて、叔母さんの寢衣の胸に顏を埋めて、靜かに背を叩かれながら、いつのまにか夢に入つてしまふ。[やぶちゃん注:「サラサラサラサラ」は底本では「サラ」の後に踊り字「〱」、その後また正字で「サラ」として再び踊り字「〱」の表記となっている。私は個人的に五十九になる現在までこの踊り字「〱」「〲」を自分の自筆の文章で用いたことは一度もなく、生理的に嫌いなのであるが、今回、ここに限っては「限りもなく銀杏の散る音が屋根となく庭となく此家のすべてをつゝんでしまふ」その音を表わすのに踊り字は効果的だ、と強く感じた。]

 それでも、こりずに、よく泊りに行つたものでございます。舞扇の樣な銀杏の葉が濕つたお庭に散り敷いてゐる中に、私はかゞんで襞のとつてある油やさんに、銀杏の葉を拾ひ入れたり、銀杏の實を燒いてもらつたり、私の大好きな、きんちようゐんのお饅頭をもらふのが何より嬉しうござんした。大垣について、一番私の悲しい思出は、弟の大怪我でございます。あれは丁度日淸戰爭の頃で、福島中佐(其頃の)が馬でシベリヤを橫斷された雙六を私らは買つて頂いたり、女中に連れられて、兵隊さんの汽車の盛んな送迎を見に行つたりしました。[やぶちゃん注:「油やさん」「油屋さん」で油屋の商人の前掛けに似ていることから、幼児の首から腹まで覆う一体になった前掛けを言う語。「あぶらいさん」「あぶちゃん」とも呼ぶ。「きんちようゐんのお饅頭」大垣名物の「金蝶園(きんちやうゑん)のお饅頭」の誤りであろう。岐阜県を代表する銘菓である。「金蝶園総本家」公式サイトの金蝶園饅頭ページをリンクさせておく。「福島中佐」陸軍軍人福島安正(嘉永五(一八五二)年~ 大正八(一九一九)年)のこと。最終階級は陸軍大将で情報将校。ウィキの「福島安正によれば、明治二五(一八九二)年、『冒険旅行という口実でシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、エカテリンブルクから外蒙古、イルクーツクから東シベリアまでの』約一万八千キロを一年四ヶ月『かけて馬で横断し、実地調査を行う。この旅行が一般に「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。その後もバルカン半島やインドなど各地の実地調査を行い、現地情報を参謀次長』らに報告している、とある。]

 それから後弟は高い處から落ちて、虛弱(かよわい)心臟や肺を叩きつけたのが原因(もと)で全く病弱な者と成つてしまひました。そして明治三十年の夏、父が領臺後まのない嘉義へ赴任して行くと直ぐあちらの淋しい病院で、六つで死んでしまつたのです。あれから最う二十何年かたちました。私の實家(さと)にも大垣でうつした色のあせた寫眞がたつた一枚大事にしまつてありまして、弟の面影を朧氣乍らも偲ばれるものは今はもうあれ許りでございます」[やぶちゃん注:「嘉義」中華民国台湾南部に位置する現在の嘉義市(かぎし)。ウィキの「嘉義市によれば、一八九五年(明治二十八年)の『下関条約により日本に割譲された台湾では、台湾総督府によりたびたび地方改制が実施された』が、一九〇六(明治三十九)年の嘉義大地震によって、『清代に建築された県城は東門を除いて全壊する。災害復興に際し総督府は都市計画を実施し新生嘉義市の建設に力を注ぐこととなる。近代都市として再生された嘉義市は商業及び交通の発展により、南部地域の中心都市としての地位を確立することとなった』とある。]

 かう長々と語り終つた房子の目には、淚が光つてゐた。孤雁子は默つて低い溜息をついた。共通點の多い幼時の大垣の話。殊に夭折した互の弟なり妹なりの淋しい物語りを繼ぎ合して考へて見た孤雁子は何となく傷ましい樣な心持がいつぱいに擴がつてゆく樣に感じるのであつたらう。他の者も皆押し默つて坐つて居た。次の間の柱時計はもう十二時をさしてゐたがワザと停めて有つたので鳴りはしなかつた。

 布團も何もない狹いこゝの家に三人の客を泊める事は出來ないので今夜は三丁許り隔てゐる公孫樹(ある病院のお醫者さん)の家へ皆な泊まる事に相談をきめて、公孫樹は用意の爲め一足先に歸つて行くしMも暇乞して立ち去つた。夫れから小半時して、細長い提灯をぶらさげた良三は三人の先に立つて並木道を送つて行くのであつた。雨はもうすつかりやんでしまつて、まつ黑い空、ポプラの並木の上にはまき散らした樣に銀河が橫はつてゐた。バスケットや鞄は房子の家へ明日の朝迄あづかる事にして、明日の句會の御約束などをしながら三人の俳人連は、着た切りの手ブラで、手拭一つ持たずに房子の家を辭し去らうとする。房子は座敷の電灯の紐を玄關迄のばして來て、暗い門口を照らした。濕つた砂地をサクサクとふみしめつゝポプラの並木を拔け樣とする三人の耳に、ぽとりぽとりと、まを置いて葉をまろび落ちる雨上りの露の、地上をうがつ音のみが夜更けらしい靜寂な響をつたへてゐた。良三のさげてゐる提灯の口の輪が、覆ひ被さつたポプラの濡れたまつ靑な葉の塊を次々に明るく色どつて、木の根の潦にチラチラうつつたり、黍畠の長細い葉をハガネの樣にギラギラと照し出したりするのであつた。一人八疊の座敷に取り殘された房子は、飮みさしの茶器だの吸殼の溜つた灰皿だの、座布團だのが亂れたまゝの其中にぐつたりと坐り込んで、其等の貧しい器物と乏しい食物を眺め乍ら魂のない人形の瞳の樣に冷めたく見開いた、硝子玉の樣な動かない瞳色(めいろ)であてもなく灯をみつめたまゝ淋しい感情に浸されて、靑ざめた頰を無意識に兩手でおさへつけてゐた。さうして靑い冷めたい瞳からぽとりぽとりと大粒の淚が止め度もなく頰を流れては頰から膝にしたゝり落ちた。それは自分を憐れむ情と客に對してブザマな自分の仕打を激しく責め苛む羞恥の念と、曝露され突きつけられた我が生活の貧弱さ、みじめさに對して我れと感じる呪はしい侮蔑の感じ、壓へ樣壓へ樣と努めてもあきらめきれない運命といふものに對しての憤懣。そんなものを撚り合はした心持が渦卷く樣にいつぱいに、硝子の樣な透きとほつた、刃の樣に冴え切つた頭の中に氾濫するのであつた。良三が畠をぬけて歸つて來て戸口をしめたり、吹き消した提灯を三疊の壁に掛けたりごとくするのに氣付もせず房子はいつ迄もくじつと動かずに物思ひに耽つてゐるのであつた。

 

痛いものは痛い   梅崎春生

 

 奥歯が痛む。やけに痛む。痛くって夜もろくろく眠れない。私は幼少の頃から肉体的苦痛に対して、たいへん弱い。夜が明けるのを待ちかねて歯医者にかけつけたら、医者はいろいろしらべて、

「こりやもうだめですな。引っこ抜きましょう」

 という託宣で、私の奥歯の運命はかんたんにきまってしまった。運命はかんたんにきまったが、手術の方はたいへんで、前後三十分もかかり、台上において私はしばしば脳貧血の発作におそわれた。

 医者の説明によると、私の歯ぐきは非常に丈夫で、しかと歯をはさんで離さない。ところが歯質の方はもろくて、れいのやっとこで引っぱり出そうとすると、ぽろりと欠ける。

 何度も繰返している中に麻酔はさめて来るし、もう死んだ方がましのような破滅的気分になった時、やっと根が引っこ抜かれて手術は終りをつげた。私は虚脱して、涙を流しながら、待合室の長椅子に一時間ばかり横になってうなっていた。

 歯医者の使う道具、やっとこだの釘抜きなんてものは、形こそ精巧になったが、原理的には原始時代から一歩も進歩していないのは何故だろう。薬品か何かを注射すると、歯ぐきの緊縛力が一時的にゆるんで、歯がすぽんと飛び出すようには出来ないものか。相手は歯という鉱物質だから、ことに取扱いを慎重に願いたい。

 人間の体の中では、鉱物が一番痛い。骨折などの痛さは言語に絶する。次いでは動物、肉とか皮の痛さだ。植物が一番痛くない。植物というのは髪や髭や爪のこと。

 ことに髪なんかは毎日肥料を与えないと、発芽が悪くて禿(はげ)になったり、枯れて白髪(しらが)になったりする。そっくり植物であって、これは切ったり剃ったりしても全然痛くない。

 もしこれが痛けりやたいへんだ。床屋さんは笑気ガスか何かを常備しなけりやならないし、髭剃りも局部麻酔によらねばならぬ。髪や髭に痛覚神経を免除した神に栄光あれ!

 話が妙なところにそれたが、兇悪犯人は大体において痛覚神経がにぶいのだそうである。(この点において私は兇悪犯人になる資格がない)

 わが身をつねって人の宿さを知れ、という諺があるが、彼等は自分の身をつねってもさほど痛くないので、他人もそうだろうと思い込んで、平気で殺したり怪我させたりするのである。読者諸子も痛覚神経のにぶい人物とはあまり交際なさらぬがよろしい。

 殺されたり怪我させられたりするおそれはないとしても、痛覚鈍麻の人間はおおむね心情的に冷酷であり、想像力がはなはだしく欠如しているのが常である。友をえらばば才たけて、痛覚神経にぶからず……。

 天下の秘境黒部峡谷に、目下大ダムが建設中である。昨年の夏私も見学に行ったが、なかなかの大事業で、また危険の多い作業だ。毎日のように怪我人が出るという話だが、ある日ある土工が左手の親指を切り落されて、労働基準監督署に補償費三十万円を申請した。

 親指の第一関節からなくなると、身体傷害程度九級ということになり、三百五十日分の補償費が貰えるのだそうである。

 この男を皮切りに、続々と怪我人が出て、申し合わせたように左の親指ばかりで、どうもおかしいと労務担当者がしらべて見ると、皆大分県南海部(あまべ)郡から集団出稼ぎに来た労務者たちで、一カ月の間に同郷出身者十四人の中十三人までが親指をうしなったというから、たちが悪い。

 主謀者が各人をあつめて、

「指に和紙を巻いて切れば痛くないぞ」

 とそそのかし、各人も補償費に目がくらんで、鉈(なた)でちょん切った。

 いくら和紙を巻きつけたって、骨をぶった切るのだから、痛くない筈がない。歯を引き抜く痛さとは、桁が違うだろう。

 痛いだけでなく、親指が永遠にうしなわれるのだ。あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなりなどと、古風な教えを持ち出すつもりはないが、端金(はしたがね)(?)のために錠をふるって不具になるなんて、ことのほか陰惨な感じがする。

 これにくらべると江戸時代の女房が病夫の治療費に、緑なす黒髪をばっさり切って売り払うのは、はるかに清らかであり美しい。

 髪はまた生えて来るが、親指はもう生えて来ないのである。どうも連中は痛覚神経がにぶいんじゃないか。そうとでも解釈しなきゃ、つじつまが合わない。

 当り屋という商売(?)がある。自家用車などに体当りして、ころんだり轢(ひ)かれたりして、損害賠償をとる。働こうと思えば働ける男がそれに従事しているというから、こんな奴の痛覚神経は針金みたいに無感覚なのだろう。

 嚙まれ屋というのもあって、あちこちの飼犬を挑発して手や足に嚙みつかせ、それで治療費をとる。けっこう商売として採算が取れるのだそうである。

 日本人は一般的に痛覚神経がにぶいのではないか、という疑問がおこる。白人のそれ、黒人のそれと、比較研究した文献があるかどうかは知らないが、たとえば白人の女はお産をする時に泣きわめくが、日本の女はうなるぐらいなことはするけれど泣きわめきはしない。現場を見たわけではないが、そういう話だ。

 それに麻酔の研究もはるかに遅れている。外国ではつとに麻酔科が設置されて、その専門医もいるのに、我が国ではやっと緒につき始めた程度で、ショック死があちこちでおこっている現状だ。日本人はあまり痛がらないんじゃなかろうか。

 こういう疑問に対して、いや、それは違う、日本人も痛いことは痛いが、永年つちかった精神主義が痛い顔をさせないのだ、という説もある。

 自殺するにしても、もっと効果的で苦痛のない方法があるのに、刃物で腹を一文字(あるいは十文字)に断ち割るような、野蛮で苦痛多き方法をとる。

 その伝統がずっと尾を引いていて、戦前の教育というのは、欠乏に耐える、困苦を我慢するというところに重点が置かれていた。つまり日本は後進国であったから、歯を食いしばって苦しみに耐え、粗衣粗食に甘んじて、先進国に追いつこうと努力した。

 小学校の教育もそれにそって、精神主義が強調された。木から落っこちて、痛い、などと泣きわめくなんて飛んでもない話で、

「お前は日本男児ではないか。涙を出すなんて女々しいぞ!」

 と叱り飛ばされるから、われわれも自衛上、痛い時には泣くかわりに、にやにやと笑うというようなポーカーフェイスを身につけた。

 これが嵩じて太平洋戦争となり、敵兵は痛がるし生命を惜しがるから、突撃すればいちころだと、戦争を始めたところ、実に相違して日の丸弁当と洋食のフルコースのような大差で、こてんこてんにのばされてしまった。もうここらで精神主義は願い下げにして、痛い時は泣きさけび、うれしい時は笑いさざめこうではないか。

 幸い今の子供はその方向に順調に進んでいるようである。近頃のやくざは指をつめるのに、麻酔薬を使用するという話も聞いた。やせ我慢の季節はもう終りに近づいたらしい。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第五十八回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年五月二十八日号掲載分。

「天下の秘境黒部峡谷に、目下大ダムが建設中」黒部ダム(通称・黒四ダム)は昭和三一(一九五六)年着工で、竣工はこの記事の二年後の昭和三八(一九六三)年であった。

「三十万円」日本銀行公式サイトのデータによれば、この四年後の昭和四〇(一九六五)年当時で現在の二倍から四倍(こちらは消費者物価で)とあるから、当時の「三十万円」は六十万円から百二十万円以上相当すると考えられる。昔も今も、親指第一関節からの一生涯全損はとてもこの金額には見合わない。今頃、欠損整形術を受けているかも知れぬが、それまでの日常の不自由やら手術費と義指の費用やらを考えると、彼等は実に取り返しのつかない馬鹿なことをやったと言わざるを得まい。

「大分県南海部(あまべ)郡」現在の佐伯市の大部分(宇目(うめ)大字の各町を除く)に相当する。]

河畔に棲みて(十九)~(二十七)   杉田久女 ~「河畔に棲みて」(完)

       十九

 

 翌日は朝から客などあつて房子は子猫の事は忘れてゐた。店へ行つた序に房子は子猫の爲めにイリボシを五錢程買つて歸つた。そして猫を探したが猫はどこにも見えなかつた。

 冷たい竃の中にやせた顏をうづめてこはばつて死んでゐる子猫を見出したのは其翌る朝だつた。

 房子の胸はいつぱいであの前々の夜間いたニヤアニヤアいふ鳴聲が耳について離れない。朝飯の時は皆子猫の死を語りあつてさすがに澄子も、その小さい目になみだを浮べるのであつた。竹の葉の靑々と吹き出した垣根の隅の土に透は小さい穴を掘つた。房子は、布でつつんだ子猫の亡骸を穴へ入れた。土をかぶせて地をならした上に、澄子は、野からとつて來た、色のあせかゝつた野菊や、赤のまんまをさした。[やぶちゃん注:「赤のまんま」ナデシコ目タデ科ミチヤナギ亜科 Persicarieae Persicariinae 亜連イヌタデ属イヌタデ Persicaria longiseta。]

 房子は二三日打沈んだ淋しい顏をして子猫の事を言ひ出しては、兄達に笑はれた。子猫の句がいつぱい手帖に認められた。[やぶちゃん注:杉田久女の初期秀句の一つと私の思うものにまさにこの時の一句「ひやゝかの竈に子猫は死にゝけり」がある。]

 自分の弱い赤ん坊の運命を暗示されてゐる樣な不安さをも感じたのであつた。

 さうかうしてゐる中透は、かの就職の事について某氏の女婿で或炭礦長をしてゐる人の所へ逢ひに行く日が來た。透は、ホクホク喜んで出かけた。先達(せんだつて)のまゝの服裝で。けれども透の歸宅後の談は、良三夫婦の豫期を裏切るものであつた。兄も甚だ興奮した面持で話した。何でも履歷書にかゝれた透の前會社に知人があつて人物をしらべたところ勿論反對派の人々ではありあゝして去つた會社故よく言ふ筈は決してない。何か兄に不利な報告があつたと見へ「實は相應に責任あるところへ、來て頂く心組なりしところ右前會社の言もありそれを承知で責任をおあづけする事は出來ぬ。しかし御懇談もありし事故兎に角一時炭礦の方の事務に來てはどうだ。外には一寸あきがない」との話であつた。

「何も法律上の罪惡を冒した譯ではなし僕の將來發展の道迄前會社から掣肘されるわけはない」と透は頗る激して言つた。今の話の口はまるでお話しにならない待遇で、「工夫したつて二十圓やそこいらはとれる。まあ工夫頭の樣な仕事ですからね。僕は斷然斷はらうかと思つたが、あなたから斷はつてもらふのが至當だと思つて其儘歸つて來た」

 透は酒や女位の爲め、自分は何も天地に恥じる事はないと言ひ張つた。そして暗に、良三が外の運動を中止してあまり某氏へ信賴し過ぎた爲め今に至つて行くべき道はとぎれてしまつたといふ憤りを諷刺した。倂し良三は格別それに對して怒りも辯解もしなかつた。

「炭礦と云ふ處はあまりよいとこではありませんね」かう良三は言つたが透の性質の或る缺點は認めてゐた。そして今後もいくら自分が骨折つても、又々こんな以前の事の爲めに、ぶちこはれる樣では誠に困つたものだと、つくづく思つた。あなたも惡いのだと良三には言ひ切れなかつた。

 たとへ法律上の罪惡でないにしろ前會社に對しての兄のすてばちな態度は惡いと妹も思つた。折角十中八九まで先方も好意を持つて成立しさうに成つてゐたものが破れたのは全く兄の性癖の爲めだと房子も思つたが夫婦ともそこをあからさまに口に出しては言へないのは苦しい立場だつた。

 房子はむしろ、夫の苦心を十も知りつゝ、

「あなたが八方へ手を出して、もうすこし多く口をかけなかつたからですわ」と、透の言ひたげな事を言つてしまつた。

 兄妹二人からかう言はれて自分の苦心は全く消えてしまつた良三は、心中大に憤慨に堪へない樣だつたが、唯口をつぐんで、さつさと寢床へ入つてしまつた。

 透も自分で床をのべて寢てしまつた。房子は夫に對して一言でも兄が感謝でもしてくれたらと、思つて、一人吐息をついた。

 

      二十

 

 玄海から吹き通して來る凄じい夜風はまつ暗な田を越えて野の中に建てられた電車の停留所に突當つてはヒユウヒユウと鳴る。トタン張の屋根をガタガタと搖するのであつた。邊りには家一軒もない。

 うす暗い街灯停留所の、小緣の樣なところに二三人縮まつてかけて居る人を辛じて照らす許りであつた。

「寒い晩だなあ」と呟く樣に言つたのは透であつた。並んでゐた良三は「兄さんあなた御寒いでせう。私のこれをお着なさい」と自分の着て居るマントを脱がうとするのを透はおしとめた。

「何、もうぢき乘るのだからかまひません。あなたこそ、下りて大分あるから僕は房さんから眞綿をドツサリきせて貰つたから、町へ出ればこんなに寒い事はないんでせう」とどうしても聞かない。停留所と云つても、唯だ屋根と壁一方のみで三方は吹き放しでこの海風を遮ぎる何物もないのであるから風は着物を透し隙間から吹き込んで體溫をすつかり奪ひ取つてしまふ。骨身にしみて、冷たい冷たい耳なし風とさへあだなされてゐる風であつた。二人とも銘々くつたくさうに默り込んで、痛い樣に顏に突き當る風を浴びてゐると、町の方からの電車が向うの高處を徐々として下りて來る。靑い灯の幅を暗い線路に藁屋根に草土堤に投げて、浮き出る樣な明るさを窓いつぱいに漂はしながら停留所めがけて走つて來た。二人は待ち兼ねた樣立ち上つた。[やぶちゃん注:「耳なし風」確認出来なかったが、強く冷たい風で体温の低い耳介部分の感覚が消失し、引き千切られて無くなってしまったかのような感じするという謂いの呼称であろう。モデル・ロケーションの北九州の小倉は、関門海峡を挟んで、対岸の安徳天皇や平家一門を祀った赤間神宮(山口県下関市内)に近く、ここを舞台としたかの「耳なし芳一」伝承との親和性もあり、腑に落ちる呼称のようには思われる。「くつたく」現行では概ね否定構文でしか持ちられなくなった名詞なので注記しておくと、「屈託」で、「気にかかることがあるために心が晴れないこと。心理的に一つの対象に拘ってしまってくよくよすること」 或いは「心身ともに疲れてあきあきすること」である。ここは漠然とした比喩であるから、後者の意でとる方が自然である。]

 電車が彼等の前で停ると二人許りの人が下りた。

ぢあ行つて參ります」と良三は洋服の男の後から乘り込んだ。

 電車は透一人を殘して直ぐ海岸の方の線路へかけ去つた。今下りた人達が凍てた樣な下駄の音をコツコツと川添の道に立てゝ遠ざかつて行くのが可成隔てゝ迄も尚ほ聞えて來た。身を切る樣な風は透一人に益々吹き荒んだ。暗い灯の中に腕組して突立つた彼れは何だか背中から首すぢへかけて折々水をあびせられる樣な寒さを覺えたが電車に乘りさへすればと格別氣にもしなかつた。狹い海を渡つて此寒い夜にわざわざ自分の勤め口を求める爲めに、一日の疲れをも厭はず出掛て呉れた妹聟が氣の毒な氣もした。やつれた樣な髮をしてせつせと縫ひつゝ自分の事や樣々の事を案じつゝ溜息でもついてゐる樣な妹の顏もちらついた。ここへ來てからもう三月に成るのにいまだに口も定らず、妹夫婦が何ものも捨ておいて朝に晩に重荷の樣にして焦せつて呉れるのも氣の毒に堪へない。どんなつまらない處でもよいから一時的なものなりと年内に勤め先を見附けたいものだと彼は繰り返しこんな事を思つては溜息をついた。

 ボーオと云ふ長い電車の笛がぢき野の隅の丘の彼方で鳴つた。そして段々近づいて來た。電車はパツと幅廣な靑い光線を濱邊の松原に投げていよいよ曲り角へ其明るい總體をあらはした。さうして長い長い間――唯の十五分ながら――寒風に吹きさらされてゐた透を明るい扉の中に吸ひ入れて、又町へと馳せ出した。電車はいつぱい混んで居たので彼は戸口に立つてゐた。寒氣は中々やまなかつたがしめ切つてある爲め堪へ難い惡感はなかつた。町の灯を縫つて走つた電車はやがて透の下りるべきB驛へ停つた。透は電車から下りて幅の狹い賑かい街をドンドン步いた。年の暮が近づいたので、店々は球灯やビラを下げて何となく活氣づいて居た。厚い毛皮の襟卷やマントを着た人や、流行の肩掛にくるまつた女達が買物のつゝみをぶらさげて景氣よささうに笑ひながら步いて來る。サツササツサと行き違つて行く人々は皆何等かの職業と、家と、日當とを持つて居る樣に眺められた。鼻緒のゆるんだ桐柾の下駄を引ずりながら外套一枚も羽織らないで寒い思ひに堪へつゝ就職口を賴みに行きつゝある自身を透は如何にもみすぼらしい樣にヒシヒシ感じてゐるのであつた。今年の樣な寒い冬を迎へた事はない。東京から早く外套の金を送つて呉れればよいのに……彼はこんな事を考へつゝ洋食屋の軒の下をくゞりぬけた。厨と覺しい窓からは物を煎りつけるバタの甘さうな香氣が、あふれる樣に透の鼻先へ突當つた。其二階には瓦斯が明るくついて花などさゝれたテーブルが窓から見上げられる。透は馬鹿らしい樣な心地に駈られつゝ急に薄暗い橫丁へ這入つた。チリンチリンとゴム輪の車が鈴を鳴らして走つてきた。車の上には派手な友染を着たお酌の人形の樣にぬりたてたあでやかな顏や、上半身が蠟燭の灯で浮き出す樣に透の眼に映つて直ぐ又消えた。[やぶちゃん注:「賑かい街」はママ。]

 

       二十一

 

 一丁許り行くと角に小ぢんまりした二階建のそばやがあつた。透は一寸立停まつて考へて居たが、ツツと暖簾をくぐつて這入ると「いらつしやい」と丸髭の若い女が迎へたが透の顏を見ると、

「おや岡本さん。さあさあお上りなさいまし」と愛想よく言つて、

「あなた。岡本さんですよ」と奧の方に聲をかけた。どてら姿のそこの養子が出て來て透は快よく二階に通された。[やぶちゃん注:杉田久女(旧姓と本名は赤堀久(ひさ))の母方の旧姓は「岡村」である。]

やあ、先日は失禮しました。丁度僕は湯に入つてゝね、歸つて來て、君が來られたつていふからなぜお通ししなかつたつて言つてやつたんです」主人は如才なくこんな事を親しげな口調で語つた。

「いやどうあんな町中でバツタリ君に逢はうなんて思ひもよらなかつたよ。僕は三月も前からK市(ここ)へ來てたんだが」と透が言ふと、

「ふしぎなもんですね。臺灣でお別れしてからもう十二三年ですな、でもあなたは相變らず若い。どうですな此節も矢張り俳句はおやりですか」と主人は聞く。

 この蕎麥屋の若い養子と透とは臺灣にゐたころ同じ鐵道部へ勤めて、文學趣味が合ふ處から非常に親しくしてゐた。別れてからは長い間音信もしなかつたが、つい先達透は町中で「やあ岡本さんぢやありませんか」と呼びとめられて、意外の邂逅に驚いたのであつた。遠い親類先にあたる此家に養子に來た彼は晝は或官邊へ雇員として通つてゐる。一度是非遊びに來給へと言つて其日は別れた。

「時に、お勤口が定りましたか」と養子は親切げに尋ねた。

「どうも一向ないんで困つちまいましたよ。例の方もだめになつたし、妹達も氣の毒な程あちこち探して呉れるんだけど、中々無くつてね。僕はもうかうしてぶらぶら遊んで居るのが苦痛だよ。炭鑛の石炭掘でも工夫でも、もう何でもいいから腕つかぎりやつて見たくなつた。實際親切にされゝばされる程、妹の家にいつ迄厄介になるのも居づらいしね」透はつくづくかう言つた。落附いた聲で。

「だけど君炭鑛なんかへうつかりふみこんだらそれこそもうだめですよ。僕も實はよそながら一二ケ處聞き合して見るつもりだ。焦らず探せば是丈澤山な會社だもの空のないと云ふ事はない」と透を慰めるのであつた。言ひ附けてあつたと見えて下から、前の丸髷に赤い手柄の、丸々した若主婦が德利だの、蕎麥だの一寸した煮付の樣なものをのせた塗膳を運んで來た。

やあもうどうぞ奧さん、そんな心配はおいて下さい」透はかう言つて、主婦さんと挨拶など取り交した。氣の毒さうに辭退する透の、飮(い)ける口なのを知つた亭主は盃をとり上げて度々注ぐのであつた。まだ何となく寒氣がしてたまらない透は種物の蕎麥に藥味をほり込んで熱いのを食べ、酒も二合の餘流し込んだせゐか、いゝ按排に寒氣がやんで何だかボーツと頬の邊がほてるのを覺えた。[やぶちゃん注:「種物の蕎麥」「たねもののそば」とは蕎麦の上に天麩羅・鴨肉・玉子とじなどの種(たね)、即ち、具を既に載せてある蕎麦を指す。]

いつかう上りませんね。何もないが、ゆつくり上つて下さい」

 友達は心から隔意なく透をあしらつて、透が東京時代の俳句のホラなど話すのに合槌打つのであつた。

 

      二十二

 

 透が郊外の家へ歸つてきたのはまだ十時前だつた。良三はまだ歸つてなかつた。蠟燭を持つて玄關へ迎へた房子は兄の元氣の無い顏色を見ると「どうかなさつたの」と氣遣はしげに聞いたが兄は「ウン」と大儀げに言つたまま帽子を柱にかけて電灯の間へ上つて行つた。「何だか馬鹿に寒氣がしていかん」と言ひながら透は右の袂からアンチピリンの包を出した。[やぶちゃん注:「アンチピリン」(antipyrine)はピリン剤の一つで解熱・鎮痛・鎮静剤。ピリン疹や血液障害の副作用があるため、現行の市販薬ではアスピリン(aspirin)に主流が移っている。]

「風邪だらうと思ふんだが、房さん一寸水を呉れ」と言ふ。房子が煮ざましを持つて來ると透は一服呑んで、

「良三さんはまだか。遲いなあ、友達のとこで酒と蕎麥をよばれたら其當座は大分暖まつてたが」

「薄着だからおかぜをめしたのでせう。早くお休みなさいな。私家の中で縫つてても隨分寒かつたんですもの」と房子は炬燵にかけてあつた透の寢卷を出した。寢床には炬燵の嫌ひな透の爲め湯婆(ゆたんぽ)が入れてあつた。透が床の中へもぐり込むと房子は枕許へ來て肩をつめたり裾の方へ座布團をのせたり、押入の鞄をあけて透の體溫器を出して、透に渡したりした。

 透の風邪は翌日も矢張り熱があつた。透は房子の煮て呉れたお粥を少し食べた許りで寢通してゐた。

「兄さん醫者に診て貰ふ方がいゝぢやありませんか」と勸めてもまあもう一日經過を見ようと、矢張買藥を呑んで居た。熱が下らないので町から醫者に來て貰つたが今のところでは風邪らしいとの事だつた。十二月ももう二十日過ぎたので或日は慌しい樣な短日の日ざしがパツと透の寢てゐる障子を染める事もあつたが灰色の密雲が松原の邊りへ凝固した樣に垂れ下つて夕方からチラリチラリと粉雪が降り出す日もあつた。房子は凍てた樣な朝も早くから起きて透の粥を煮たり藥取りに町まで行つたりその歸りには重い氷をさげて歸つた。

 良三は二十五日迄は每日學校の方へ出なければならなかつたので房子は子供らの春着や、自分達の直しものやら山程、師走の用事を抱へつゝ看護に掛つてゐた。

 十二月の初めから夫婦は透の就職口を何でもかんでも年内に見付けなければと、重荷の肩にある樣な責任觀念から、益々不健康な赤ん坊の體を顧る暇もなくその方に奔走してゐた。透の病氣は運惡く數日の後チブスらしいと言ふ醫者の宣告を受けた。神經の鋭敏な透はさう言われる二三日前からしきりに「熱の按排がどうも唯の風邪ではない樣だが」と氣にして、何度となく體溫器を枕元からとり上げては腋へはさむのであつた。房子もないないそれを心配してゐたが愈々と成ると是非入院しなくてはならないが困つたと思つた。[やぶちゃん注:「チブス」(ドイツ語:Typhus)ここは水や食物に混入した腸チフス菌によって起こる消化器系感染症で高熱が持続して全身が衰弱する腸チフスのこと。詳細は、ごく最近の私が芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 戀は死よりも強しの「チブスの患者などのビスケツトを一つ食つた爲に知れ切つた往生を遂げたりする」に附した注を参照されたい。]

「困つたなあ」醫者が歸つて行くと透はあふむきに天井をみつめたまま「僕だつてふだんならおいそれと入院するんだがどうも今の身では此上送金してもらふのもつらいし………」と聲をとぎらせるのであつた。熱にほてつた顏に淋しい屈託の色を浮べて當然の事を氣兼ねしてたゆたつてゐる兄の樣子を見て良三も房子も胸の痛い樣な氣がした。「でもね外の事とは違ひますもの、嚴しいたつてお父樣はきつと快よく出して下さるにきまつてますわ。心配なさらないで入院ときめませうよ。ねえ兄さん………」房子は慰める樣言つたが聲は打沈んでゐた。三人は思ひ思ひに沈默した。折角かうして賴まれながらまだ勤め口もない中に病人にしてしまつて申譯ない。多大な費用を更にまた送つて貰ふと言ふ事はいかにも言ひ難い氣の毒な事だと良三は思ひ詰めた。この郊外の村一帶はチブスの非常に多いところだ。ことに房子の井戸はどこからか汚水が流れ入つてよく濁る事もあつた。だが責任は食物の調理をする私にある。東京にも兄にも濟まない。と房子は房子で思ふのであつた。[やぶちゃん注:「たゆたつてゐる」躊躇(ためら)っている。この用法は今はあまり使わないので注しておく。]

 

       二十三

 

 遂々入院と定つた。だが氣丈な透は人力車で行くと言ひ張つた。[やぶちゃん注:「遂々」「たうとう(とうとう)」(到頭)と読む。当て字。]

 ふらふらする體を獨りで起き上つて房子の着せかけて呉れるシャツや綿入に手を通した。氷囊だの體溫計、手帳、そんなものを包んだハンカチを持つて、玄關へ下りた透は、良三と房子を見つめて「お二人とも大變お世話をかけました」と何だか暇乞の樣な言葉を殘して毛布にくるまつて俥に乘つた。外套を透に着せた良三は何も着ずに後の車に乘つた。

「兄さん氣を落さず御大事になさい」と房子はうるんだ聲でかう言つた。「さやうなら」と透も淋しげに見返つた。

 家の中へ這入つた房子は敷き放しの布團や、熱臭い襯衣(シャツ)などを兎に角一とまとめにしたり、埃をかぶつた藥瓶や、粉藥の袋を始末しつゝ今出しなに兄の殘して行つた言葉を思ひ出してホロリとした。催ほしてゐた雲は夕方から大きな牡丹雪をしきりに降らした。見る見る中に門前の苫船も河原の枯蘆も田も屋根も白く成つて行つた。兎に角大した異常もなく手順よく市立病院の隔離の一室へ落付いたと言つて良三が歸つて來たのはもう夕方近かつた。「行つて診察を待つ中何だか大變苦しくなつて見えてね。直ぐ部長が診てくれた。持つて行つた氷囊が役に立つて直ぐ落附いた。擔架で隔離の方へ行かれた」「兄さんは以前心臟が惡かつた事があるから熱がつゞくと心臟の方が心配だと部長が言つた」良三はせかせかと夕食を詰めつゝ話して又病院へ手續の爲め行かねばならなかつた。近處から十四五の男の子を賴んで來て透の敷いてた布團、新らしい寢卷、新聞紙其他ちよいちよいした入用の品を一まとめにして荷車にのせて病院へ行かせた。牡丹雪がどんどん降りつゝ日はもう暮れかけゐた。提灯や、蠟燭の用意をさせ、良三自身は電車で先へ行つて布團を受取るべく出掛けた。家の中は灯がついたが何だかそここゝに暗い隈がある樣で房子も子供らも非常な淋しさに襲はれた。子供らが皆寢てしまふと房子は、東京の兩親へこまごまと手紙を書いた(電報は既に良三から打つた)全く私の不注意から起ツた事で誠に申譯ない。と彼女は繰返し繰返し謝まつた。附添をつける事にしても、初めての病院の夜は淋しからうと思ひ遣つて房子は淚を流した。その日はもう元日が明後日といふさし迫つた夜であつた。正月の用意も餠搗も彼女の家ではする間がなかつた。

 翌日も朝から良三は病院に行つたり、東京へ自分も通知を出したり、入用の品物を買つて病院へ持つて行つたり、其暇々には、電車で郊外の家へ歸つて來て、正月の入用の物について、せめて〆飾(しめかざり)や餠位はと言ふので買ひ整へても來た。

 良三は昇汞水の手を嗅ぎながら「もう正月の仕度なんか此場合やめて、掃除もやめなさい。食器――兄さんの――類やすべて使はれたものは熱湯で消毒するんだね」[やぶちゃん注:「昇汞水」「しようこうすい(しょうこうすい)」は昇汞(塩化第一水銀)に食塩を加えて水に溶かしたもので毒性が強いが、かつてはよく消毒液として使用された。]

「なに僕は傳染なんかしない」

 かう言つて途中で買つて來た正宗を盃に二盃程飮んだ。今日たつた一日と言ふ今年最終の日をいか程あせつてもどうする事も出來ない。房子は、赤ン坊を背負つたまゝせめては臺處のガラクタでもしまつしようと思ひ立つて厨だけは心地よくすました。每年の年越の日は重詰も見事につくり活花もいけて打揃つて目出度く年を越すのであつたが今年は思はぬ透の病氣の爲め折角買つた木附(ぼくつき)の冬至梅も水仙も臺處の隅の瓶に浸けた儘だつた。

 夕方病院の拂ひを濟して歸つて來た良三は「お鏡餠だけは緣起直しに大きいのを買つて來た」と重いのに五升の重ね餠をさげて來た。

 兄さんはと聞くと「變つた事もないが何だか神經が興奮して種々氣にされるのが病氣に惡いね」と答へた。そして「兄さんにも淋しい正月だが小いお重ねを持つてつて上げる」と小餠の重ねを半紙に包んだ。水仙の花を持つて良三は出かけた。

 

       二十四

 

 敬神家の良三は小さいお神酒入れなども買つて來た。煮豆にお煮〆丈がやつと忙がしい中で煮られた。年越の夜ではあるが夫は病院が淋しからうと歸つて來ない。父を待ちくたびれた子達に夕飯をたべさして寢せて後房子は明け放つて掃除をした。雪はしんしんと暗い夜空に降つて積んで行つた。房子は寒さをも忘れて蠟燭の灯で緣をふいたり、玄關の叩きを洗ひ流したりした。それでもどうやらかうやら家中を氣持よく掃除し終つて床の間にはお供餠も飾られ梅も投込ながら插された。水引を掛けた根の附いた小松をコツコツと入口の柱に打附けた。晝の間に汲み込んで置いた風呂も焚きつけた。か樣にあれこれと働いた房子は、もう十時近い座敷の床に蠟燭をつけて、非常に敬虔な心持で八百よろづの神々へ祈をさゝげた。彼女には之と特別におん名を呼び上げて祈る程親しみの厚い神もなかつた。唯彼女の胸の中にある「神」に向つて、兄の病氣を祈り一家の無事を祈り、遠く父母の健康を祈つた。寒さは骨身にさす樣食事もせず十一時近く迄働き詰めてゐた房子の體中を包んだ。けれども彼女は燃える樣な熱誠を包んで、唯だ祈りをさゝげた。石膏のビーナスの胸像にも細い蠟燭が灯されてあつた。[やぶちゃん注:「彼女には之と特別におん名を呼び上げて祈る程親しみの厚い神もなかつた」久女や夫宇内(うない)がキリスト教に強く惹かれるようになるのは後の大正一〇(一九二一)年のことである(翌大正十一年二月に小倉メソジスト教会にて受洗した。同年十二月には夫宇内も受洗している)。「石膏のビーナスの胸像」画家で美術教師である夫のデッサン用のそれである。]

 彼女は夫の藝術的成功をビーナスの女神に祈りを捧げたのちしづかに、蠟燭を吹きけした。

 戸外の雪は餘程積つたと見えて庭前の樅の枝から折々ドサリと重い雪の塊がなだれ落つる音もした。

 外套の羽根も帽子もまつしろにして夫の歸つて來たのは夫れから間も無かつた。門口でコンコン下駄の齒をはたいた良三は「まだ起きてたのか。うん僕は病院で食べて來たよ」と言ひながら上つて「別に變つた事はないがどうも熱が非常に高い。檢鏡の結果愈々チブスと決定したが、正月でもあり發表は二三日のばしてもらふ事にした。何しろ心臟の事を醫者は非常に心配してゐる。だめだとは言はないが………」と沈んだ表情をして「あまりひどく東京へ知らせれば心配をよけいかけるし、かといつて萬一の事のあつた場合には申譯なし、輕率に來て貰ふのも遠方だから困るし……」

「意識はたしかなのですか」

「意識が確か過ぎて、行けば平常通り話されるし困るんだ。あの通り神經が鋭く成つてゐるから病人に餘り重く思はせ度くはなし」と良三は言つた。大變いゝ附添の婆さんだ、など話してた。良三は、「子供達に正月の羽根など買つてやらうと思つたんだが、可愛さうだから今から町へ行つて來る」と房子の留めるのも開かず、又外套をはおつて出て行つた。入れ違ひに東京から電報が來た。

 カネ五十オクルヨオダイシラセ大晦日と云ふのに兄重態入院の電報を突然受取つた兩親の驚きは如何許りであらう。病症が病症故にと房子は胸の痛くなるのを覺えるのであつた。房子一家はK市へ來てから唯の一度も入院する樣な大病を一家の中から出した事はなかつた。房子は衞生なんかといふ方は非常にさわいで氣を付ける方でもあつた。それに傳染病者を出して、この年の暮れのごたごたの中に弱い赤ん坊やヤンチヤな上の娘を抱へてこの心配の渦に飛入る事は何と思つてもまあとんだ大災難だとつくづく思つた。兄に萬一の事でもあつた時は猶更大變である。年老つた兩親が出て來る……色々な悲しい出來事……房子は本當の樣死を思つて思はず戰慄した。こんな遠方に漂浪して來て友も、妻も、家庭も皆すてゝ淋しい佗しい生活に堪へて來た兄が種々な佗しさを胸に疊んで死んで行くのかと思ふと彼女はたまらなく兄が可愛想で留度もなく淚が流れた。[やぶちゃん注:「留度」「留め處(ど)」。]

 

      二十五

 

 夫は十二時過ぎても歸つて來なかつた。電車は通はなくなつた。

 房子は晴い風呂場で火を焚きつゝ留度もなく泣いたり、父への手紙を書いたりした。兄はすつかり近來性格もぢみに變つて來た。今度こそ腕限り奮鬪すると言つてゐた。入院する時も父母へすまないと言つてためらつた位で、大熱で臥しつゝも父母の大恩を感謝しすまぬすまぬと言つてる兄をどうぞ可愛想だと思つて許して上げて下さい。萬一の場合あの佗しい心地の儘死なしては可愛想だ。一寸感動しても直ぐ熱の上る兄へ何卒ひどく叱つて下さるな、と彼女は淚にぬれつゝ美しい感情と淚とに充ちた長い手紙を書きつゞけた。

 戸をしめかゝつた、今年最終の夜の店々で子供達の喜ぶ玩具や、羽根や、美しいお菓子を買ひあつめた良三は電車が無いので半道の餘の暗い道をテクテク雪にまみれて歸つて來た。妻の房子はまだ起きて漸やう書き終つた手紙の上書をしてゐるところだつた。「遲いものだからもうどこの店もしめてるんだもの。でもよその子がお正月なのにうちの澄子だけしよんぼりしてゐるのも可愛想だからね」かう言つて風呂敷づゝみから種々取出した良三は袂からみ籖を出して「あまり今年は惡い年だしするから歸りにお祇園樣へおまゐりして祈願して來た。もう十二時過ぎて年は新たまつてゐるし本年の初參詣は僕だ」と珍らしく笑んで大吉と云ふみ籖を房子に渡した。

「だが考へ樣によつては僕等一家の危難を透さんが一人で背負つて下さつたのかも知れない。非常な打擊と心配と不幸を兄さんの爲め受けた樣思ふより我々は不幸中にも一家四人無事で怪我一つなく今年を終つた事を感謝しなくてはならない……」腕ぐみしてかう言つた良三の顏は大變嚴肅な引締つた目色であつた。二人の間に暫くおごそかな沈默がつゞいた。

「子供達を湯に入れてやらう」

 裸になつて、沸きすぎた湯を五六杯バケツでうめた良三は、眠い子供を抱いて房子が來ると一人づつ入れてやつた。湯殿の棚には蠟燭がゆらゆら燃えてゐた……

 正月の二日三日が一番危險とせられてゐた透の病氣も天佑か良三夫婦の熱誠が屆いたのか、正月の五日から、十數日目で初めて熱が下り初めた。一時は四十度三分などゝいふ高熱が續いた。危篤の電報さへ打てば兩親共直ぐ出立すると言ふ豫定だつた。良三の心痛ははたの見る目もいたはしい位で彼は責任と云ふ重い觀念を頭に漲らして出來る丈けの世話をした。透は少し熱が下がつて來ると高熱中の事はちつとも覺えが無かつた。熱は日每に順調に一分へり二分へり遲々として下つて行つた。倂し針の樣に尖つた神經が何事かに觸れる度又俄かに熱は、上つて行つたりした。流動物のみ攝取して、讀書は禁じられるし每日きつと午後から夕食の頃迄來て呉れる良三を待つのが何よりの樂しみだつた。

 房子は時々一人で病院に來ては蜜柑をもつて來て呉れたり枕元の椅子にかけて二時間位ゐ話して行つた。命がけで病んだ彼は、ひとりでに罪のすべてを許された。

「兄さんお父さんからお手紙でね、何も心配せず早く病氣を癒せつて言つて來ましたよ」と房子が來て言ふと彼れは鼻のみツンと高く瘠せ衰へた顏に皺を寄せるやう微笑したが目には淚がにじむ樣に光つた。姊や母からも、病人の心を興奮させぬ樣直接の音信は無かつたが度々手紙で案じて來たし、經費はをさめる期日におくれぬやうキチンキチンと送つて來た。例の蕎麥屋の養子も見舞に來た。房子からの細かい手紙で透の句兄弟某氏からも直ぐ見舞狀が來た。[やぶちゃん注:「句兄弟某氏」これが誰であるかは不詳であるが、モデルである、俳名を赤堀月蟾(げっせん)と称した久女の実兄は渡辺水巴門ではあった。]

 

       二十六

 

 妻のお芳も、良三の電報がつくと直ぐ兩親の許へ呼びよせられて病狀を語られたので看護に來たかつたがそれは許されず、非常に心痛しかつ良三夫婦に世話になつた禮をのべて來た。すべての狀態は圓滑になつて今は唯一日も早く透の快復を待つのみだつた。一體が至極強健な彼は快復期に入つては非常の早さであつた。妹から暮れに屆けてくれた水仙の花の淸淨さを透は朝に夕に眺め郊外の河畔の家がしきりに戀しくなると端書に病床中の有樣や、隣室の病人が昨夜死んで非常に貰ひ泣きしたとか窓の外に梅が咲いたとか云ふ樣な事を寢床の上で鉛筆の走り書きして附添婆さんに投函して貰つた。いかな雨の日も、寒い日も、雪の日も良三は入院中一日もかゝさず市外の家から電車で通つた。電車を下りてからまだ病院迄は十五六丁あつて道の泥濘でない日はめつたに無かつた。附添の婆さんへ心附けなども良三の手からとして出された。親切な附添の婆さんは實に行屆いた世話をまごゝろからして透はつひぞ一度も怒り度い事さへなかつた。

「全くよく命が助かつたものですね。僕は病前の禁酒や鰻などでウンと滋養物を取つたから身體が堪へられたと思ふ」と良三の來る度に透は語るのであつた。

 よい按排に某鐵工場の事務の主任にあきが出來たので世話し樣と言ふ人があつて、それこそ退院を大變せいて、一月の末には許された。郊外の電車を下りて房子の家迄一丁半許りを步いて、良三と歸つて來た透は疲れを覺えた。房子も子供も皆いそいそして彼れを出迎へた。六疊の間にはチヤンと布團が敷いてあつた。

「ほんとにお目出度うございました」と房子は言つたが目には淚がにじんでゐた。「伯父さんやせたのね」と澄ちやんもいたいたしさうに伯父を見てゐた。

「どうも今度はあなた方お二人に何とお禮を言つていゝか、僕は感謝してる」と透は言つた。

 明るい燈の下に、久し振りで、甦つた樣な透を取りかこんで一家は賑かな笑ひに充ちた。當分の中は服藥もし、天氣のよい暖い日は洋杖をついて、外套や首卷をし、母から送つてきた綿のドツサリ這入つた胴着や、羽織を着ぶくれて、そろりそろりと病院通ひする事もあり、町の潮湯へ行く事もあつた。

 こんな風で透は次第に快復しつゝあつたが房子の赤ん坊は、十二月の末から腸をこはしたり、輕い風邪を引いたりして、全くひよわな身體を冬枯の樣にいぢけさせて、肥るどころか次第次第に瘦せて來た。さすがに兩親とも氣附いたが、透の病院の騷ぎの爲め遂に哀れな赤ん坊は閑却されてゐた。絶えず腸をいためて粘液の樣なわるいわるい下痢をした。神經が鋭くなつて泣いては夜も目をさました。

「此子は死ぬのではないかしら」房子は每日かういふ怖れを抱いて居たが透も病院通ひも一人で出來、食物も、幾分手もかゝらなく成つて來たので、或日彼女は、町のお醫者樣へ連れて行つた。それはK市では指折りの小兒科醫で物質萬能のK市には珍らしい樣な高い人格者だつた。ストーブの焚かれてある診察室で、着物をぬがせた赤ん坊の、ほねぼねしい肋骨の邊や、蒼白な瘦せた皮膚の色。手も足も人形よりもつとしなしなと小い身入の惡いのを醫師は丁寧に診をはつて昨年來の容體を聞いてから「兎に角非常に御衰弱ですね。さうです。榮養不足です」お世辭もない醫師は信じた通り言つて滋養糖のこしらへかた、乳のうすめ方など、親切にこまごま教へて下さつた。眞綿でくるむ樣にして着物を着せ終つて、此病院の門を出た彼女は泣き度い樣な心地で無意識に電車通りを步いた。「此子はもう手遲れだ、死ぬかもしれない……」かう思ふと堪らなく可愛想で房子は、道行く人々がけげんさうに彼女の樣子を見て過ぎるのも知らず吐息をついた。藥屋でミルクや乳鉢や飴や、吸い口、ゴムの管の樣なものを買ひ揃へて房子は飛ぶ樣に家へ歸つた。

 

       二十七

 

「此子は助かるでせうか」房子はじつと灰色の雲を見詰めて言つた。「大丈夫。春が來て暖かくなれば屹度むくむく肥り出すよ」良三は信ずるやうかう言つた。「さうとも。命と言ふものは神の手で審判(さば)かれるものだ………」と透はひくい、倂し力の籠つた聲で同意するのであつた。

「快復の見込は充分ある」と信じ切つてゐる醫師からかう言はれたので房子は驚くべき熱心を以て、赤ん坊の不健康を癒す爲めに努力した。彼女は每日家の用事が一渡り片附くと家を締め、長女を連れて、おんぶ羽織をきて、電車で病院通ひをした。病院には病兒を連れた親達が、もうあふれるやう待つて居た。やつと自分の番が來て診察がすむと今度は藥取に暇がかゝつた。女中達に早く札を取らして置いておしやれしてゆつくり來て房子達より却つて先に、サツサと歸つてゆくやうな結構な身分の人達と違つて手の足りない中から何ものも投げ捨てゝ遠くから出て來る房子達には病院がよひが殆ど一日仕事であつた。そそくさと歸つて來て透の食事や、夕食の買物などにも、又步るかなければならなかつたが此場合そんな事は言つてられなかつた。飴やメリケン粉やをミルクに交ぜ合して丁度よいかげんに調合した光子の飮物を硝子器に入れてやると赤ん坊は口をコツクンコツクンと言はせて見てるまにクツクと吸ひへらして行くのであつた。赤ん坊の腸は藥と飮物の爲め次第に調へられては來たが、たまに一日でも藥を休むと翌日は必らず惡い徴候があつた。隔日每に出かけて二日分の藥をもらつては郊外へ歸つて來る房子はもう彼れ是れ一月近くなるのに格別好い方にも成らず、肥りもせないのがもどかしくてたまらなかつた。倂し此衰弱し切つた赤兒の腸を先づととのへてからではなくては肥ると云ふ點へはまだまだ遠い事で、一向效驗の見えない病人を約二月近く判を押したやう連れて行くと云ふ事は非常に根の入る仕事であつた。でも親切な醫師の盡力と房子の熱誠と、もう一つは自然の偉大な愛の力とに惠まれた爲め赤ん坊は一日は一日より、誠に遲々たる步みであつたが快癒の方へ向つて行つた。朝鮮人參なども殆ど每日のやうに小さい土鍋で、長火鉢の上に煎じ出されて、日に數回づゝ赤ン坊に飮まされた。[やぶちゃん注:底本では「腸を先づととのへてからではなくては肥ると云ふ點へはまだまだ遠い事で」の「ではなくては」の最初の「は」の右手に編者のママ注記があるが、私はそれほど奇異に感じない。]

 早く春が呉ればよい。暖くなつたら赤ン坊も肥り出すだらうと房子は春の復活のみ待つた。恐ろしく寒い日が又歸つて來て田の向うに見える貫(ぬき)足立(あだち)の連峰がまつしろになつたり、四五日は雪解の風が、郊外に吹きまくり電車へ辿る土堤はひどい泥濘になる事もあつたが、長い間寒冷に壓しつけられて地にくつつくやう矮さくなつてゐた庭先の菜は、目立つて綠色の葉を成長させた。そしてその間引きもせず、重なり合つた菜の葉の中にはどれも皆莟をもう潛めてゐるのであつた。春めいた何となく暖かい日が庭土に枯木の影を濃く落すやうな日が三四日も續くと此菜の赤ン坊とも云ふべき樣な菜は、一齊にめざめたやう、二三寸程の矮さい弱々しい薹をぬき出した。そして其細い莟の先には靑い莟をささげて、いかにも餘寒らしい淡い、小さい花辨を開く事もあつた。庭の隅にはいぢけたやうな蕗の薹がかたい顏を地上に現はしたりしてゐた。[やぶちゃん注:「貫(ぬき)足立(あだち)の連峰」現在の福岡県北九州市小倉南区の北端にある標高七一二メートルの貫山(ぬきさん)から同北九州市小倉北区にある標高五九七・八メートルの足立山(別名「霧が岳(きりがたけ)」)へ続く峰々のこと。「矮さく」「ちひさく(ちいさく)」(小さく)。]

 子供を背に負ぶつて川堤をブラブラしてゐると、頭を手拭でまいた漁師町の女達が手に手に食べる爲めの蘩蔞(はこべ)や芹などを携へて田圃の方から歸つてくる群れを見出した。磯の方から來る子供達の籠には砂まぶれの蜊(あさり)や、おごと言ふ藻や、靑海苔なんどが、いつぱいはみだすやう入れられてあつた。[やぶちゃん注:「おご」紅色植物門紅藻綱イギス目イギス科エゴノリ属エゴノリ Campylaephora hypnaeoides の方言名。福岡など名産である「おきゅうと」の原料。同じ紅藻綱で刺身のツマや寒天の材料にする(但し、石灰処理をしないものは有毒(毒素は複数説有り)なので注意)オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla とは全くの別種である。]

 まだ冷たい川水に股まで入れて網打つ人、土堤の上から見てゐる人々にも何となく春めいた日ざしが漂ふやうにも見られたが、枯薄の根や塀かげにいぢけて萌え初めた草にも、河深く泊まつてゐる漁旗のはためきにも、餘寒が漂つてゐるのであつた。

 透が、ボツボツ拔け初めた頭髮を氣にして、わざと短かく刈り込まず、今迄と變つて油などつけて橫撫でになでつけては、某鐵工場へ每日出勤する樣になる頃には、赤ン坊も次第に藥に遠ざかつて、小さい腮の邊も肉がつきそめ、愛らしい笑顏も洩れるやうになつて來た。早く暖かなほんとの春が來ればよい。「春になつたら東京のおばあ樣のとこへ連れてつて上げませう」房子は、甦(い)き得た愛子(あいし)を抱いては頰ずりした。

 河畔の家に住む彼等一家族は、長い間の苦勞から追放され、二つの甦つた肉體を守りつゝ、ほんとにまじめに、地上に春が復活する喜びの日を待ちつゝ暮すのであつた。

 

 

[やぶちゃん注:最終文の「追放」には編者によって右にママ注記が附されている。

 第「二十四」章の末尾を二十八歳(執筆投稿された大正八(一九一九)年年初)の久女は、こう書いている(読み易く読みを加え、読点を打ち、〔 〕で語を補助した)。

   *

……色々な悲しい出來事……房子は本當の樣(やう)〔に、まさに〕死〔といふもの〕を思つて思はず戰慄した。こんな遠方に漂浪(へうらう)して來て友も、妻も、家庭も皆、すてゝ、淋しい、佗しい生活に堪へて來た兄が、種々(いろいろ)な佗しさを胸に疊んで〔其の儘に〕死んで行くのか、と思ふと、彼女は、たまらなく、兄が可愛想で、留度(とめど)もなく淚が流れた。

   *

……この二十七年後……久女は昭和二一(一九四六)年一月二十一日、入院先であった福岡市郊外の大宰府にあった県立筑紫保養院に於いて、腎臓病(精神科医でもある俳人平畑静塔は当時の極度に悪い食糧事情での栄養失調或いは餓死と推察している(平成一五(二〇〇三)年富士見書房刊坂本宮尾著「杉田久女」一九八頁より孫引き))のため、肉親に看取られることなく(敗戦直後の劣悪な交通事情に拠る)亡くなっている。満五十五歳と八ヶ月余りであった…………

2016/07/21

河畔に棲みて(十)~(十八)   杉田久女

       十

 

 透の就職について某實業家が愈々會見したいと云ふ知らせの來たのは十一月の中程であつた。其日は砂ぼこりの強い日であつた。透は妹に手傳つて貰つて、しつけを去つた新らしい羽織や袴を着た。

 肩幅の異常な迄ひろい中ぜいながらがつしりした體格の透は、髮も五分頭で、鬚も生えないたちなので打見たところ四十に二三年しか間のない男とは見えなかつた。

 すつかり仕度の出來た透は例の鞄の中から自分の名を書いた名刺だのハンカチーフの樣なものを取り出して袂に入れた。それから

「これは僕の運命の石だ」

と紫色の小袋に入れたものを内懷に祕めた。

アラまだあれを持つていらしたの」と房子も笑つた。

 それは透が前の會社へつとめる爲今日の樣にして重役へ會見に行く時、母が「これは運命の石ですよ、愈の時は袂の中で此石を握りしめて、しつかり談判なさい」と透に授けたもので、其實は何でもない唯の石だつたが其石が占をなして談(はなし)が整つたのであつた。透はその後十何年の今日も猶其石に因つて再び自己の運命を展かんとしつゝあるのであつた。落のない樣こまかい世話までやいて、緊張した透を送り出した房子は兄の歸宅のみが待たれた。明るい緣先で、房子は張板に赤や靑の布をつぎつぎに張りのばしたり、子供に乳を呑ましたり、割合にひま取る透を、何度も緣側から見やつたが透は晝近い頃やつと歸つて來た。[やぶちゃん注:最後の一文中の「何度も」は底本では「同度も」である。色々な読みを想定して見たが、このままでは読めないと判断、結果して、これは見た目から「何」と「同」の誤植と断じた。大方の御批判を俟つが、恣意的に「訂正」して示した。]

まあ御ゆるりでしたね」

 かう言つて飛出して行つた房子は、兄の顏を見た瞬間ホツと安心した。砂ぼこりでしろくなつた繻子の足袋をハンカチーフで拂つてから玄關を上りつゝ、

「歸りは電車に乘らずブラブラ來たから……だが隨分あるね。O坂の峠茶屋で田舍餠をパクついたが腹がへつてたせゐかうまかつた」透は機嫌よくこんな事まで言つて、房子の長女を笑はした。袴や羽織をぬぎすてゝ井戸端へ顏洗ひに行く兄の後から房子も追かけて色々と會見の樣子を聽くのであつた。

「行つたら客があつてね二十分程應接室にまたされたが……」

 某氏は氣易げに面會して今迄の職業だの、どういふ目的で當地へ來たのかと色々と聞いた。透は、當地方の有望な事をきゝ是非腕一本で働きたい。最初から多大な地位はのぞまないから腕ののばせる場所で働き度い希望をのべた。某氏は、唯今といつても空もなし自分は直接雇員の事については關與せないが近日中一方の長たる者へ紹介するから何とかなる事と思ふとの話しで、會見の時間は約四十分位だつたさうな。絹物づくめでもなく一見書生つぽの樣な風體の透の落付いた、そして急所急所に要領を得たキビキビした言葉などは、某氏に初對面の好感をあたへた樣で、

「履歷書も方々からこんなに澤山來てゐますが鈴木氏(良三)からの特別な依賴ある事ですからつて見せたがね、成程澤山來てるわい。まああの口付では十中八九は大丈夫だね」

 柔術できたへ上げた腕節を力(りき)ませつ透は得意げに笑つた。自分の談判の成功を誇る樣に……

 夕方良三は、細長い體をヒヨイヒヨイ飛ぶ樣な步み振りで急いで歸つて來ると、

どうでした、今日の結果は」と直ぐ透にきゝかけた。

やあお歸りなさい。まあ先達の話と大した違ひもないんですが」

 透はにこにことまた繰り返して話し出す。

「伯父さんはね。歸る時田舍のおばさんの店でお餠を五つもめし上つたのよ」と傍に遊んでゐた澄子が言つた。

それはよかつた。安心しました。十中八九は大丈夫でせう」

 良三はかう言つて成功を確信してゐるらしくうなづいた。

 

       十一

 

 會見の次第は直樣東京へ房子から知らしてやつた。そして三人共成功をやゝあてにして次の會見を待ちつゝ暮らすのであつた。

 釣は相も變らず每夜根氣よく續けられた。透のは、この禁欲的な世間と斷たれた淋しさ退屈さを紛れる爲めの魚釣であつたが良三のはほんとに好きの爲めに釣るのであつた。秋が深く成つて其邊一帶の岡の上にも河畔にも、櫨(はぜ)が紅葉し、河原薄は薄樺色に陽にかゞやき、野菊の花は星の樣に無數の花を至るところに點じてゐた。河原に橫たはる澤山の船も、遠山も、田も、房子の家を取り卷くすべての自然界のものは皆驚ろくべき高調な「秋の色彩」をのべて、どこを切り離しても皆これ立派な水彩畫であり、油畫であつた。けれども畫かなくては成らない畫家の良三は、終日の疲勞に、歸宅してからはもう再び繪筆を取る程の根氣はなかつた。俗務に追はれ、俗人にしひたげられつゝ不快な沈んだ顏色をして、裏金のついた重い靴をひきつゝ河畔を歸つて來る事もあつた。十年間彼は眞に感興にそそられて筆を取つた事など一度もない。スケッチ板は塵にまみれ、たまたま調色板にひねり出される繪具は皆、畫かないではかたくなつてしまふのであつた。忙がしい職務の爲のみでなく苦勞なしに育つて來た、相續者の地位にある彼れは、格別あせつて繪をかく氣にもならなかつた。一つには彼の體質が華奢過ぎる程、華奢に出來てゐるからでもあつた。天氣の好い日曜日など朝から海釣りに行かうとして、餌を買ひ步いたり、丹念にテグス(釣糸)や釣針のしまつをしてゐる良三を見ると房子は何だかあんまりな樣な心地がした。[やぶちゃん注:底本では第二文の「紛れる」の右に編者による、ママ注記がある。「調色板」は「てうしよくばん(ちょうしょくばん)」でパレット(フランス語/英語:palette)のこと。]

「釣にばつかり行つてらしてちつとも御畫きなさらないのね」妻の房子にこうづけづけと言はれるのが良三は一番氣がねだつた。外に道樂もたのしみもない良三には、房子のつくつて呉れる西洋料理を食べる事と釣とが最大の慰籍なのであつた。

「いゝぢやないか。活動一つゆかないんだもの、さうヤイヤイ言はれたつて繪なんかかけるものぢやあないよ」鉛の重石を作つてた良三は、頰の生えさがりつづいてゐる頰ひげの邊をなでつゝ定つてかう答へるのであつた。[やぶちゃん注:「定つて」「きまつて(きまって)」。]

「すきなものは釣るがいゝよ」

「何も、大した費用がかゝるのでもないから。道樂としてはよい道樂ですよ」机に頰杖突て見て居つつ透はいつも良三の方のひいきした。男同士二人は至極仲よく、釣の話を取交した。房子は現實生活の貧しい爲めにも時々は色々な佗しさを見出し、おなじお茶の水出の友達が皆社會の上流に屬する生活をしてゐるのに、自分丈がかういふ光彩のない生活の中に、貧とたゝかつて暮すと云ふ事を淋しく思ふ日もあつたが唯感激に生きてゐるといふ樣な彼の女は、夫等の苦勞よりも、惰性で活きてゆく樣な沈滯した中に、唯平凡と安逸とを貪つて暮して行く、そして輝いた藝術品一枚も畫かないで、次第次第に教師型になつてゆきつゝあるといふ事の方が悲しかつた。

 彼女は、只一圖に藝術的な生活を求め度いと夫のみ願つた。光輝ある藝術家として夫が立つならば富も入らない。榮譽も欲しない。

 彼女は、海軍中佐夫人になつてゐる彼女の實姊に貧しさをそしられた時も、決して貧と云ふ事を恥かしいとは思はなかつた。幾多の勳章のかがやいた胸よりも、彼女の爲めには唯一枚の畫、唯一本の繪筆を手にしつゝある藝術家を貴しと見たからである。彼女の大きな目は、美しい空想の爲め、黑曜石の樣に輝いてゐた事もあつた。又房子自身の性質も、まるで空想と詩との權化の樣なものであつた。よく悲しみよく泣き、よく大自然の懷に入つて、樂しむ事が出來た。倂し夫の良三は、趣味の人でもあり、淸淨な人格者でも有つたが、家を繼ぐと云ふ事を温厚な彼れは第一の目あてとしてゐたしどちらかと言ふと常識の勝つた堅くるしい人物なので、白熱的な藝術欲はなかつた。

 

       十二

 

 九年間是といふ病人も家内になし、平々凡々で押し通して來た彼等夫婦は、外出といへば必ず一緒に出る、客が來れば房子も出てもてなす。彼等の仲間でも一番幸福な家庭とされてゐた。又實際係累はなし、大した波瀾もなかつたし郊外に住んで、すきな野菜や花をつくつて樂しむ事の出來る彼等、繪についても四季の自然についても充分理解をもつた妻の房子と語り得る事は良三の滿足でもあつたし、何一つとして二人の間には祕密もなくほんたうに力と成りあふ世の旅路の伴侶であつた。けれども長い生活の斷片を底の底迄とり出して見る時、そこにはさうさういつもいつも平和のみは漂つてゐなかつた。不平もあれば爭もあつた。殊に房子は感じ易い非常に鋭敏な神經をもつた女で、天氣が曇れば心も曇る、浪の音をきけば孤獨に泣くと云ふ樣な、體は良三よりも丈夫なよい體をもつてゝ肉體に何のわづらひもない身でありながら心は絶えず樣々の感情に動搖されてゐた。

 姑息な沈滯した教師生活も嫌ひだつた。夫の繪をすこしもかゝないと云ふのが先づ第一番の不平だつた。相續者の妻としてあの汽車から何里か奧へ這入つた、山村の暗い大きな家に入つて因習と舊慣の中に多感の身をうづめねばならない運命に步一步近づきつゝあると云ふ事も彼女の爲には堪へがたい不安であつた。神を想つて信じ得ず、現實化しようとあせつても物質のみでは安心も出來ず、かと言つて世に對する執着もつよし奔放な思想にもかられた彼女には到底かゝる微温的な空氣の中に、憂愁なしには暮してゆかれなかつた。柔順(おとな)しい夫と、愛すべき子とにかこまれつゝも彼女はしきりに孤獨と憂欝に浸る事もあり、事ある每に、現實生活の不安を覺えた。他人に對してはめつたに爭つたりしない良三も母の死後家庭の紛爭などの爲めめつきり此頃は怒りつぽくなつて、一時赫つとする事もよくあつた。

 何でもないことで夫婦は、其針の樣な神經をお互に打ふるはしつゝ爭ふ日もあつた。

 でも透がこの家へ來てからは夫は妻の兄の手前爭つた事などめつたになかつたが何かの拍子で房子が夫に不平を洩した爲め良三はまつかになつて怒つた。それは夕食後の灯の下だつた。

 怒つたが良三は妻の兄の手前激しい言葉や罵る樣な事をする男ではなかつた。唯細面の顏を引しめて、

「どうせ僕は意氣地なしだから樫村さんの樣な出世は出來ない」と取つて括りつけた樣言ふのみであつた。樫村と云ふのは房子の姊の嫁入つた姓であつた。

「私だつて隨分長い間苦勞も心配も辛棒もしてますわ。何も私は勳章がほしかつたり月給の高いのを希望むんぢやあありません。もつともつと貧しくてもよいから、意義のある藝術生活に浸りたい……」

 房子は目にいつぱい涙をためて言つた。良三にも房子が虛榮の女でなく隨分辛棒してゐるのは判つてゐた。でも、彼女は時々我儘だ、あまり瞑想家だと心の中に思つた。

まあいゝぢやないか、喧嘩したつてしかたがない。何とかかんとか言つたつて君達の家庭は幸福なものだよ、子寶はあるし、國には財産もあるし、房子さんも、すこし位の事は女の方で折れなくちやあだめだ。僕の樣に酒も女もといふ夫でもやつぱり仕方がないんだもの。やつぱり家庭程よいものはないよ」

 透はかう呑み込んだ樣言ふのであつた。

 

       十三

 

 例の返事はまだ何とも無かつたが大概は成るものと安心してゐたので、再會見の通知を只管まつのみで其他の運動はしばらく手びかへの形だつた。

 河畔の家には每日每日柿や茸を賣りに來た。

 柿の好きな兄の爲め、房子は柿賣の女を門前に呼びとめて、柿を選る事も度々であつた。或日はゆるんだ樣な表情となり、或日は非常にまた印象のゆたかな顏ともなる大まかな彼女はきれいにお化粧して、漁師町に近い店々へ、兄や子供のおやつを買ひにゆく事もあつた。

 實費として食費を東京の父から每月十日前後には送つて來た。

 明確に何錢何厘と兄一人のものを割出すなんて事も出來なかつたし勿論兄の食費としてはそれは充分であつた。倂したとへ親身の兄でも一人殖えて見ればどこそこそれにつれて家の者の方も、體裁をまさねばならぬわけで、金錢には淡泊な房子もさういふこまかしい遣繰にひとり侘しい思ひを抱いた。實際每月のをはりにはすこしづゝの不足が出來て來た。一軒にゐてさうさう切り離す樣にも出來ない場合もあり、兎角生計が切り込みがちであつた。夫れに透は、布團も自分で敷く、顏洗ふ水も汲んで洗ふ風呂水も每日汲みこんでくれるし手のない時は赤ん坊も抱へてはもらへるけれども、それでも男一人殖えた家庭は洗濯にしろチヨイチヨイした雜用にしろ目にも留らぬことの爲め房子は朝から晩の十時過迄クツクと働かねばならぬ。

 五人家内の世話を手一つでしてゐるので、そろそろぬけそめた髮の毛の手入れなどもゆるゆるするひまはなかつた。

 川霧が降る樣に下りる晩も相變らず橋の上で釣つてゐた。

 子達を寢せつけてしまつた房子は、燈の下に夜なべの冬着をひろげつゝせつせと縫ふのであつた。

 時々、町の方へ行く電車が海邊の方から近づいて、停つては又靜かに走せ去る音を聞くのみで、田舍の夜はひつそりとしてゐた。

 臺所の竃の邊には、夜每にきゝなれた蛼(こほろぎ)が、引き入れられる樣な聲でとぎれとぎれにないてゐるのであつた。此頃から透にすゝめられて俳句と云ふものを作り初めた彼女は、虫の音をじいつと聞き入りながら、それをどういふ風に現はさうかなどしきりに考へるのであつた。或時には髯の長い虫が、パタリパタリと疊を飛んで來て句想にふけつてゐる房子の直ぐ前へじつとつくばつてゐた事もあつた。彼女は直ぐそれを「灯にぬへば鬚長き虫の默し居たり」などゝ調も何もかまほずそして出來次第無數に手帳に書き入れた。[やぶちゃん注:「灯にぬへば鬚長き虫の默し居たり」現存する実際の杉田久女の(リンク先は私の作成したPDF版全句集)にこの句はないが(これは小説であるからなくても不審ではない。また実際の句であったとしても、最初期のものであるから、後の久女の意に沿う句ではなかった故に句としては抹消された可能性も高い)、類型句に「蟋蟀も來鳴きて默す四壁かな」があり、初五の相似句では「燈に縫うて子に教ゆる字秋の雨」がある。因みに、杉田久女は「灯」と「燈」を句に於いては厳密に使い分けているので、本篇では底本の「灯」は「燈」としていない。]

 かうした靜かな彼女を再三驚かすものはけたたましい、くゞり戸の鈴の音だつた。

「房さん房さん。一寸灯を見せてくれ大きな奴がかゝつた」

 それは透の時もあり、良三の時もあつた。房子が蠟燭をつけて持つて行くと、氣味の惡い程大きい鰻のヌラクラもがくのを、ギユツトおさへて片手に、呑まれた針を引出したりしてゐた。或時は又川底の牡蠣殼や芥などに、糸を引かけて切つてしまつたりして、糸の附け替へに歸つて來る事もあつた。房子が仕事をかたづけて、兄の布團を六疊の間にのべたり、食卓の上に、二人が歸つて來てから一寸一口飮む爲め、殘りものゝ肴でも用意して、先に寢るのは十一時ごろであつたが、雨降りの夜か何かでなければめつたに其頃歸つて寢る事は、二人ともなかつた。二人の羽織の袖口の邊には鰻のヌラヌラが白く光つてゐた。

 よく釣れた夜は二人のをあはして大小十七八本も釣れた。中には一本で百目以上のが四本も交つてゐた。落鰻とはいふものゝ上手に料理すればたしかに、玄海灘一本釣のピチピチした鯛でもうなぎの味には適はない。[やぶちゃん注:「百目」三百七十五グラム。]

 

      十四

 

 鰻を料理するのはいつも透であつた。房子は火をバタバタ起した。兄妹は俳句のはなしや、もう某氏の返事もありさうだと云ふ事などそれからそれへと語りつゝ陸じく蒲燒をこしらへた。

 透も漸やう河畔の家に馴れて今は漂浪らしい淋しさも薄らぎ時々に寂寞を感ずる事もあつたが次第に落付いた心地に成る事が出來た。

 兩親――殊に母――には退屈まぎれに近況など始終知らせた。

 父からは例の如く、べからず流の謹嚴一方の訓戒めいた手紙が來たが母からの代筆はこまこまと家の事情や、一日も早く就職の定まるのを待つてゐる事や、近頃透から母へ宛てた手紙は以前の樣でなく大變優しい手紙で一同喜んでゐる。

 どうか早く母に安心の道を確定させてくれと云ふやうなことが認めてあつた。そして「某氏の方も有望らしけれど萬一不成立の時が無いとも限らぬ故御氣の毒ながら口は處々へかけて置いた方がよい」などゝも書き添へて在つた。透も、隨分志望者も多い世の中だから八方賴んでおく方が大丈夫だとの意見で良三に兄妹で言ひ出して見た事もあつたが良三は此頃つとめの方が每日忙がしかつたりして寸暇のない爲め、も一つは、

「あの人があれ丈迄斷言してゐるのだもの十中八九は誤りない」

と言つてあまり他へは手をひろげなかつた。恰度、其炭礦家の某氏が用事で上京されたりした爲め一層其方は延期された。透は節酒の苦痛もここへ來たて程ははげしく感ぜぬ樣成つたし釣等も非常によい影響をあたへた。知人もなし行き場所も見るとこもないK市の事故長年都會生活の強い濃い人間味の勝つた生活から急にこの、自然の懷に立ち返つた樣な日每日每。

 比較的精神的な良三夫婦の單純な質實な生活に入つたと云ふ事は透をしてたまたま現實の生活から脱し多少なりとも自己を反省し考慮し得る絶好の時であつた。彼は學校を出て今日迄唯酒や女や權勢富等の外に頭をつかふ事は餘りなかつた。靜かに瞑想する事もない。いつもいつも刹那刹那の歡樂を追つかけまはしてゐた。此頃の樣に頭を澄ませて超然と魚釣をしたり自然を觀察したり、何物をも澄んだ心持で見得る樣な頭に成り得た事は絶えて無かつた。さういふ意味から考へて、透の境遇が一時かゝる淋しいものに陷つてゐると云ふ事は却つて喜ばしい事であつた。

 透は精神的に生きるのである。たとへ前程のパツパとした生活はしないでも眞面目な、眞實味の籠つた態度で兄が生きる樣な事ならその方が遙に貴いと房子はかう考へたので有つた。透は朝早く起きて海邊を散步する。夜は外出など絶えてした事なくてでつぷりとつき出した下腹に力を入れて腹式呼吸をしなくては寢につかなかつた。[やぶちゃん注:太字「かう」は底本では「う」にしか傍点がない。傍点の脱落と断じ、特異的に「か」まで太字とした。]

「此頃は食事が大變うまい。夜も實によく寢る」

と彼はかう言つて、逞ましい肉付の肩の邊を撫でまはした。

「兄さん、いらした頃よりずつとお肥りなさいましたわ」

と房子は兄の立派な體格を見て言つた。

ウン。風呂へ行くと漁師達があんたの腹はどうしてさう太いのぢやと先日も聞くから腹式呼吸の事を話してやつたら感心してたつけ……」と透は笑つた。

 兄妹が何かと秋の夜の燈下で語つてゐる側に、良三は長く成つてうたたねしてゐる事が多かつた。

 さうでない時はそろそろ始りかけた試驗の採點などで追はれつゝあつた。

「房さん、ちつとは出來たかい。見せてごらん」

と透は時々催促しては、房子の俳句帖を見てやつた。其中にはまだ幼稚なものが多かつた。透は之に○だの◎だのつけて添削してくれた。彼女は忙がしい家事の傍ら或時は赤ン坊に乳をふくませながら或時は土堤を步みつつ作句するのであつた。

 

       十五

 

 河向うの堤の櫨もいつの間にかすつかり散つて、特殊な枝振をした其枯木のみが潮の引去つた河原の破舟の上へさし出てゐたりした。お宮の松の下邊には菜の綠色がのべられた。或朝丘の上の木の雜木や櫨の葉は一度にどつと散りつきて、雪を頂いた、紫色の三角形した帆柱山をはつきりと丘の背後に見出した事もあつた。

 刈りつくされた淋しい田の面。

 眺めの展けた田畠のここかしこを縫ふものは唯菜畠の生き生きした綠のみであつた。夜每に川面は深い霧がこめて沖へ出る船の艫聲や漁具などを船底へ投げつける音などもポツトリと聞えるのであつた。寒くなると此川上へ上つて來て――丁度房子の門前のところに ――海風を避けて冬中を凌ぐ烏賊(いか)舟の老船夫、それは家も女房も子もないほんとにひとりぼつちで此半分朽ちかけた小舟を一年中の家として住んでゐる侘しい老人だつた。外の船は皆出拂つた夜も此老舸子の舟一つは、苫の中からチラチラと灯かげをのぞかせて、どんな寒い夜も風の夜も此船の中に寢るのであつた。暗い寒い堤をコツコツと往來する人々は船を石崖にひつつけコトとも音のせぬ此すきまだらけの苫の燈を見て如何許り淋しい感に打たれる事であつたらう。河へ塵捨になど出る度房子は唯一つの此灯を暗い河面に見入つて、時には咳入るのさへも聞くのであつた。雨が降ると爺さんは柄の長い柄杓で船中にたまる水を搔い出してゐた。いつも頭に頭巾の樣なものを被つた、つぎはぎの胴着をきた赤銅色の小さい爺さんは、漁師町の方へ章魚などさげて賣りに行く事もあり、往來の人に馬刀貝(まてがい)を賣り付けてゐる事もあつた。ねぎられでもすると、

「當世は米だつて薪だつて前の何倍もする世の中だ。あほらしい考へて見んさい」老船頭は一こくにぶりぶり怒つて笊を仕まひ込んでしまふのであつた。薪を一把だの、小さい德利の石油壺をかかへて漁師町の方からトボトボ歸つて來る彼を見る夕方もあつた。[やぶちゃん注:「舸子」「かこ」舵取り。漁夫。「苫」は「とま」で、菅(すげ)や茅(かや)などで編んで作った舟覆いや、漁師が雨露を凌ぐのに用いる仮小屋のこと。]

 これらの舟にも老船頭の哀れな有樣にも心をひかれた房子は、見るもの聞くもの皆彼女の句の中に取り入れ樣と不相應に焦つた事もあつた。

 出嫌ひで瞑想好きの房子には拙いながらも俳句は忽ちに大好に成つてしまつた。河畔の家に東京の俳句雜誌が其後は每月配達される樣に成つた。

 夜寒がヒシヒシと迫つて來て、寒がりの透は、ぬいだ着物から座布團迄、布團の裾において寢る樣に成つた。荒れた庭の枯蔓はひまひまに透の手でひきはがされて川へ捨てられて、急に明るくなつた替り庭の面はあらはな寒さを覺えた。葉鷄頭も今は立ち枯れて、まつ赤な葉を朝々の霜に散らすのであつた。菜の成長も遲々として目立たぬ樣に成つていつた。

 生れて間もなく腸をいためたりなどして弱々しかつた赤ん坊は房子の乳の足りない爲めに尚更肥る事が出來なかつた。二つの乳はあふれる程張つた事は決してない。

 少し呑んではやめる。直きお腹がすく。また泣く。寢てもすぐ目がさめた。だらしなく呑むので腸もよくいためた。牛乳を補ひとして用ゐた事もあつたが結果がよくなかつた。乳の不足といふ事が一番の原因でよその子のドンドン肥つてゆくのに此子はいつ迄も生れた時の大きさと大差なかつた。榮養不充分の爲め一寸した呑み過しにも、衰弱した身體はぢき故障を起し易かつた。人形の樣な目鼻立の色白い此子は又人形の樣小さく髮の毛はシヨボシヨボと赤く少し生えてゐるのみであつた。[やぶちゃん注:「シヨボシヨボ」の傍点は三文字にしか附されていないが、下の三文字にも及ぼした。]

 

       十六

 

 人一倍子煩惱な房子が何故、此赤ん坊の榮養不足に心づかないで打すておいたものか。隨分久しい間、かはいさうに赤ん坊はいつも腹いつぱい母の乳を吸ふ事なしに飢ゑがちに暮して來た。全く房子の誤りであつた。

「なぜ此子はかう小さいでせうねえ。ちつとも大きくなりませんのね。どこか惡いのではないでせうか」と房子はそれでも度々氣にかけて夫や兄に話したが、

なあたちだよ。死(な)くなつたお婆樣みたいに小さなたちだ」と夫は無造作に答へた。

「房さんみたいに心配してゝは仕方ない。人間の子なんて、そんな弱い者ではないよ。別にどこつて惡いとこもなささうではないかね」と透も笑つた。

 さう言はれゝばそんな氣もしたが湯に入れる時など裸にして抱き上げると皮膚は靑白くて胴のまはりでも足でも人形の樣に小さくいたはしい樣な心地がした。一寸した物音にもよくおびえて、目をさました。房子は夜晝となく赤ン坊の寢てゐる時は話聲さへ氣をつけた。

 だけども度々目をさましてチビチビと呑むので夜中赤ン坊も母親もぐつすり寢込むと云ふ事は殆どなかつた。秋空の樣な澄んだ目をもつては居たが赤ン坊は實によく泣いた。その聲は小く疳高であつた。[やぶちゃん注:「チビチビ」の傍点は二文字にしか附されていないが、下の二文字にも及ぼした。]

 語る事の不可能な赤ン坊は、此悲しい泣聲によつて絶えず周圍の人々へ飢を訴へるのであつたが周圍の者は唯無意味な泣聲としか受取らずに、

みいちやんはよつぽど泣きみそね」と笑ふのみであつた。

 母親たる房子の不注意は勿論である。が母も父も、肉親の子の泣聲に耳を傾ける暇もない程一方には又兄の爲め朝に夕に心を勞した。その心勞もテキパキと外面にはあらはれてはこなかつたけれど、彼等夫婦は透と共に愁ひ、透と共に樂しむので、透の一身上の事が定まる迄はあけてもくれても、頭の上にものが押しかぶさつて居る樣で、氣に成つた。

 が房子には、何となく不健康な我子の樣子が朝夕直覺された。

 よその人の抱いてゐる赤ン坊を見かけると風呂やでも電車の停留所でも、

まあ御宅のお坊さんはいつお生れなさいましたの」とのぞき込む樣に問ひかけて、我子と見くらべるのであつたが彼女の赤ン坊より後に生れたと言ふ子らも皆クリクリと肥つて健康さうに笑つてゐた。房子は羨ましげにつくづくと見入る事が度々だつた。[やぶちゃん注:「クリクリ」の傍点は二文字にしか附されていないが、下の二文字にも及ぼした。]

 乳の不足と云ふ事は氣付なかつたが房子の赤ン坊をいたはる事は非常であつた。風の強い日は滅多に外へも連れて出なかつた。

 自宅で湯のない夜は冷たい子の手足を、湯をわかして温めて寢かした。海からの荒い風が絶えず吹きつけるので、夕方などは門口より外へは踏み出さなかつた。

 風邪一つひかなかつた爲め此日陰の花の樣な弱々しい小さな小兒は幸ひに、母親が、養育方針のあやまつてゐた事を氣付いて、醫者へ行く樣に成る日迄、奇蹟の樣に病氣もせず、いぢけたまま生きて行くのであつた。

 全くそれは天佑の樣なものであつた。もしこの弱々しい體に何等かの障りがあつたならこの子は、たやすく失はれてゐるのであつたらう。

 長女の澄子は、丈夫になつて每日空風にふかれつゝ茨の實や、薄の穗をぬいて外でのみ遊んでゐた。

 近所の下品なませた友達の中には入つてわるいくせを覺えるのを彼女は何より恐れたがそれは到底せきとめ得る事ではなかつた。遠く遊びに行つて歸らぬ澄子を案じて房子は、そここゝと長くく探𢌞る事も度々だつた。

 

       十七

 

 房子達が去年こゝへ移つて來た時、前の人の飼つて居た老猫がひとり此家に殘つてゐた。猫の好きでない房子は、格別憎みもせず、三度の食物は規則の樣に與へて居たが、家の中に上る事は絶對にさせなかつた。家付きの猫は唯食ブチをもらつてゐる許りで一向家人とは沒交渉な暮しをしてゐたが此年の夏、房子が産をする十日許り前に五疋の子を生んだ。

 長女を産する時大變重い産をした房子は此度の産で私は死ぬかも知れない、などゝ始終言つてたし里の母もわざわざ心配して遙々來て呉れる程で、良三も口に出しては言はなかつたが心配してた。そこへ安々と産をした猫を見て皆、よい前兆だと嬉しがつた。

 房子の産も今度は大變安々とすんだ。

 そのうち親猫は、每日猫の巣につききつて眺めてゐる長女を怖れたのか、又は時々來る洋犬を怖れたのか、或夜の中に五疋の子猫をつれていづこかへ行つてしまつた。

「親猫がかみころしたのではないかしら」

「犬にたべられたのだらう」

と皆は口々に噂して、生れた許りの子猫を案じた。しかし親猫は時々歸つて來ては、ものほしさうに土間につくばつて居た。其乳房はふさふさと垂れ下つて今も尚ほ子猫達に乳を呑ましてゐる事は判明した。猫の皿に食ものを入れてやるとさもお腹がすいた樣に、一粒も殘さずねぶつてしまふのであつた。そして又どこか出て行つた。

「子猫をどこかにかくしてゐるに違ひない」と皆は言ひあつた。

 二十日許りたつと、猫は、ぞろぞろ五疋の子猫をつれて、戻つて來た。暫くの中に子猫は皆大分大きくなつてどれこれも、可愛い顏をしてゐた。たつた一つ三毛のがゐてあとは四疋とも黑の斑があつた。犬をおそれて、土間に箱をうつしてやつたので子猫は、下駄にじやれついたり、コロコロかさなりあつて遊んだり下駄箱の橫に尿をしたりした。澄ちやんは、每日猫を抱いたりおんぶしたりして子猫と遊んだ。

 透が來て後も相變らず五疋の子猫はもらひ手もなし、親の乳をしやぶつてごろごろしてゐた。

「猫はきたないね。こんなに澤山居たつてしかたがないから捨てたらどうだ」と透は言つた。

「もうすこし大きくなつたら捨て樣と思つてるのですけど、まだ、何だか可愛さうですから」と房子は答へた。

「そんな事言つてゝは仕方がないよ。すてるなら今位ゐが丁度よい。僕が持つてつて捨てゝやらう」

 澄子も猫をすてるのは嫌だつたが、何疋も居てはあの一番きれいな三毛が肥らないと言はれて其氣になつた。そして或朝捨てにゆく伯父さんについて行つた。

 透は三疋の猫を風呂敷に包んで河向うの人家の傍へ持つて行つた。

 そして風呂敷から出してやると子猫達は自分の運命の迫つてゐる事も知らず、いつもの樣に三疋コロコロ上下になつてふざけまはつてゐた。澄子は持つて行つた、小皿の御飯を側において、子猫のなめにかゝつたのを見捨てゝ家へ引揚げた。其夜は、宵からしみる樣な時雨が絶え間なしに降つて、房子には、三疋の子猫の事が忘られなかつた。母親もしきりに、失はれた子猫を探しまはつてゐる樣子だつた。

「時雨るゝや松の邊に捨てし猫」房子は十燭の燈の下に、縫ひながら、捨てられた子猫の運命。何となくひよわな自分の子の事などがつぎくに考へられて、こんな句を手帳に書きつけた。[やぶちゃん注:この句に相当する句は現存の久女の句には、ない。]

 淋しい心地で猫の箱をのぞいて見ると猫は丸くなつて、親子寄りそつて暖かさうに淋しさうに寢て居るのであつた。

 

      十八

 

 それから一週間許りすると透は再び親猫と、も一疋の子猫とを捨てに行くと言ひ出した。家付きの親猫だしあとに一疋限りとなる三毛が可愛さうだ、と房子も言つたけど、透と良三は、

「なあに、こんな老猫はもう捨てた方がいゝよ。おまけに女猫だから又産むとせわだ」と言つた。

 房子も強ひて止めはしなかつたので遂々家付の猫は自分自身も、子等と離れ離れに追放される事となつた。透は例の通り風呂敷に親子二疋の猫をつゝんで、電車で、市中の、それも海邊裏のゴタゴタと小家がちな、とある路次へ持つて行つて捨てゝしまつたので再び歸つては來なかつた。恐らく二疋のものは、泥棒猫にでもなり終つて漂浪してしまつたのであらう。後にはいよいよ三毛がたつた一疋となつた。三毛の首には美しいよだれかけがかけられた。三度のご飯の上には鰹節をまぶつてやつた。けれども、今迄親の乳のみ吸つてゐた三毛は、あまりご飯をたべ樣とはしなかつた。彼はいかにも淋しさうにポツンとして、畜生ながらも戀しい親を探す樣ニヤアニヤア鳴くのであつた。[やぶちゃん注:久女はこの「三毛」を「彼」と呼称しているが、三毛猫は性染色体に依存する伴性遺伝の典型例で通常、♀は殆んどいない。ウィキの「三毛猫」によれば、オスの三毛猫が生まれる原因は、クラインフェルター症候群Klinefelter's syndromeと呼ばれる染色体異常(X染色体の過剰によるXXYなど)やモザイクの場合、そして遺伝子乗り換えによりO遺伝子がY染色体に乗り移った場合に限って出現し、三毛猫のクラインフェルター症候群の♂の出生率は三万分の一しかない。そうした奇形個体でなかったとは断言出来ないが、この「三毛」(確かに三毛であったなら)は♀だったと考えた方が自然であり、それは外見上、容易に識別出来るから、寧ろ、ここで久女がこの「三毛」を♂、男として扱っているのは久女の病跡学的な興味、精神分析学的興味を私には喚起させるものである。]

 美しく毛を洗つてやり度いと思つてもそんな暇もなし、それにどうしたのか三毛の目は、だんだんやにが出る樣になつて、クシヤクシヤした、穢らしい目になつてしまつた。體のクリクリ丸かつたのが何だかゲツソリと瘠せて來た。

 房子が下駄をはいて土間へ下りる度、人戀しさうに、ニヤアニヤア鳴いて、着物の裾にすりつけて來る樣は哀れつぽく見えたがヤニだらけの目や竃の灰によごれた體を抱く氣にもなれなかつた。

 澄ちやんさへ此頃はもう抱かうとはしなかつた。男達は、見向ても見なかつた。ますます孤獨な子猫はやせおとろへた體をシヨンボリと、日もさしこまぬつめたい土間にすゑて、ひくい聲でニヤアニヤアないて居た。ぬくもりのさめぬ竃には入つて丸くかゞんで寢る事が子猫の爲めには一番の樂しみであつた。フチの缺けた小皿には忘れず、食物を入れてあつたが子猫はペロペロすこしなめて見て直ぐ、竃の中へかくれてしまふのであつた。

 夜寒がつゞくと子猫はますます淋しい有樣と成つて行つた。彼には唯親のぬくみと乳とを慕つたが冷たい土間と冷たい臥床が有るのみで長い夜中の寒さに、血の氣の少ない身を堪へがたかつた。けれども家の中には絶對に上げなかつたし哀れな猫の子はキツチリしめられた障子を押し破つては入る程の元氣ももうなかつた。

 房子はさすがに哀れに思つて日中は、箱に藁をあつくして其中に入れたまま庭の日當りにひなたぼつこをさせてやつた。子猫はそろそろ這ひ出して枯れた菊の根をごそごそ步いたりしたが大きな犬が垣根からは入つて脅かされる事もあつた。ツンと兩耳がやせ尖つて、はそ長く成つた。影ぼふしを、緣の直下の石の上にうすく引きつゝじいつと、坐つて動きもせぬ子猫を見ると房子は可愛さうでならなかつた。殊に夜寒がひしひしと夜なべの膝にもかんぜられる夜房子は、子猫がニヤアニヤアと訴へる樣になくのを聞くと土間に下りて行つて、赤ん坊のおしめの綿の入れたのでクルリと子猫をくるんでやつた。そして自分の懷の懷爐を子猫の中へ入れてやつた。ニヤアーと子猫は小い聲で鳴いては人戀しさうに、房子の手をなめるのであつた。寢しなにも一度下りて見に行つた房子は、子猫がいゝあんばいにおしめの中で丸くなつて暖まつて寢てゐるのを見て安心して寢た。

 夜中になると、戸外には雪の樣にまつしろい大霜が降りた。しんしんと月光が大地に凍てついて、それはそれは冷やかな夜であつた。[やぶちゃん注:「しんしん」の傍点は二文字にしか附されていないが、下の二文字にも及ぼした。]

 子猫は何度も寢返りをした。そして床の中でおしつこを垂れた。

 懷爐は消えてしまつてぬれたおしめは水の樣に成つた。子猫はニヤアニヤアーと力なく鳴いたが家の人々は皆布團の中にぬくぬくと寢入てゐた。子猫は箱を出て竃の灰の中へは入つたが夕方焚いたその竃の灰はもう冷えきつてゐた。[やぶちゃん注:ここ以降は、 SE(サウンド・エフェクト)として傍点は久女の打ったままを原則とした。]

 子猫はつめたい灰の中へもぐりこむ樣に身をうづめてニヤアア、ニヤアー……と、ひくい聲で何かを求める樣に鳴いた。

 房子は時々日をさまして、子猫の哀つぽい鳴き聲を耳にしたが、睡いのと寒いのとで、氣にしつゝ見にも起きず、また寢入つてしまふのであつた……。

河畔に棲みて(一)~(九)   杉田久女

[やぶちゃん注:どうもここ数ヶ月、どうにも気分が滅入っていっこうに晴れやらぬ。

 さればこういう時は、極私的に、全く個人的に、誰のためでもない電子テクストをやらかそう。

 しかし、「誰のためでもない」とは言いつつも、自慰的仕儀は意に沿わぬ。

 されば、恐らくは現行では殆んど誰も読んだことのないもの、読みがたいもの、が、これ、よかろう。

 そうして原則、注は附さぬのだ。

 といっても結局、私の神経症的気分はそれを許さぬだろう。一部、どうしても附さねばならぬ、したい、と感じたものは本文内の段落末にストイックにポイント落ちで入れ込んではどうか。

 これはこれで、私の切なる欲望だから私には差し障りは、ない。

 さればこそ、これ以上は、気は重くは、なるまい、よ。

 

 まず、愛する俳人杉田久女の小説にしよう。

 

 「河畔に棲みて」は久女満二十八の大正八(一九一九)年に発表された、恐らくは彼女の処女小説である(久女の俳句が『ホトトギス』に初めて載ったのは大正六(一九一七)年一月で満二十六)。同年年初の『大阪毎日新聞』懸賞小説募集に応募したもので、選外佳作となったが、評者からは「素直に書けている」とかなり高い評価を受けた(この際、別な形での採用発表を勧誘されてもいる)。高浜虚子の弟子で『ホトトギス』編集人であった長谷川零余子(れいよし 明治一九(一八八六)年~昭和三(一九二八)年)が、この原稿を貰い受け、彼自身が編集していた同年発行の『電氣と文藝』の、一月号から三月号に掲載発表されたもので全二十七章である。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、執筆年を考え(幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されている)、恣意的に多くの漢字を正字化した。傍点「ヽ」が多用されているが、これはブログでは太字に代えた。踊り字「〱」「〲」は正字に直した。

 因みに、この舞台となった旧居とロケーションを北家登巳氏のサイト「北九州のあれこれ」の「板櫃川河口」で詳細に現認することが出来る。画像も豊富で本作を鑑賞するにすこぶる相応しい。是非、ご覧あれ。【2016年7月21日始動】]

 

 

 河畔に棲みて

 

       一

 

 房子は結婚後直ぐ夫の良三と一緒に、其つとめ先のK市へ來た。

 四人の兄妹の一番末つ子で何の不自由もなく大きく成つた彼女が俄かに田舍の教師の妻として質素な生活をしなければならぬと云ふ事は可成り房子に取つては苦しい努力であつた。が良三は長男で、其家と云ふのは田舍で相應な資産家であつたので、長女が生れる頃迄は彼等二人は至極呑氣な苦勞のない生活をしてゐた。處が結婚してから五年目の秋良三の大事な母親が死んで後は、彼の父は賤しい妾を引き入れ家の中は一時動搖し波瀾も樣々起つて良三夫婦も從來の樣に呑氣にのみはしてゐられなくなつた。はじめて悲しい辛い目にも逢つた。けれども何と言つても父の家とは三百餘里も離れて住つてゐたので直接其厭(いと)はしい渦の中にも卷き込まれず、心配も苦勞も、對岸の火事を見る樣な心地であつた。

 酒も煙草も呑まず眞面目一方の夫を持つた房子は、或時には女なみの不平も持つたが親子三人水入らずで、丈夫で、不自由勝の生活の中にも好きな繪を畫いたり、野菜や草花をつくつたり充分田園趣味を味はう事が出來る境遇に居ると云ふ事を樂しく思つて暮して來たのであつた。[やぶちゃん注:「不自由勝」の「勝」は、ともすればそうなり易い・そうであることの方が多い状態を表わす接尾語の「がち」である。]

 實際この九年間の彼女の生活には強ひて苦勞らしい苦勞と云ふものもなく平穩な單調な生活をかき亂されずにズツと來てしまつた。

 丁度其九年目の夏に房子は次女の光子を生んだ。

 長女の方はもう六つに成つてゐて格別手はかゝらなかつたけれども、産後の肥立が暫らく惡かつたのと乳が出なかつたりして赤ン坊に手のかゝる事は大變だつた。

 それに産前から雇つてあつた女中も、お宮詣りがすむとまもらく歸へしてしまはなければならなかつた。九月の末になると急に朝晩はうすら寒くなつて、引しまつた心持で房子は片手に赤ン坊を抱き抱へつゝ、おむつの洗濯もし裁縫もする。かなり忙がしい思ひをして暮すのであつた。[やぶちゃん字注:「まもらく」はママ。誤植或いは「奈」(な)と「良」(ら)の一部の仮名変体は似ているので校正者の誤読であろう。]

 十月に入つてからは天氣がズツとつゞいた。

 二丁許り下手で海へ注ぎ入る川添ひの房子の家では、緣先の日當りのよい庭に二畝ばかりの葱や、菜が植ゑられてあつた。畠のまはりには四五木の立木が朝顏の枯れ草を卷き付けたまゝ立つてゐた。

 其立木の枝から枝に竿を渡して小さい襦袢だの赤い着物だの、お襁褓だのが每日干された。畠の一方には、背の高い雁來紅が五六本秋晴れの遠山の藍を背景にして赤く燃えてゐた。[やぶちゃん注:「雁來紅」音は「ガンライコウ」で、雁の来る頃に紅くなることに由来する「葉鶏頭(はげいとう)」の別名であるが、ここは「はげいとう」と当て読みしたい。]

 かうした彼女一家の生活に突然變化を與へた者は、ヒヨツコリと此河畔の家を訪づれた房子の兄の透(トホル)であつた。

 最初、突然に東京の父から「透も今度暫らく御地に行く事と決定して出立した。委細は到着後本人に御聞下さるべし」

と云ふ例の簡單な、夫宛の手紙を讀んだ時、夫婦は顏を見合はして、

「まあどうしたんでせう」

「まだ口もしつかり定まつたのでもないのに……」と房子が言ふと「さうだ。折角遙る遙る來られて、長く遊ぶ樣にでもなるとお氣の毒だ……」と良三も訝かつた。

 長く離れて暮して居る此兄を大變氣兼ねの樣にも思へたし、今迄の水入らずの中に急に大人を一人交じへる事の色々の氣遣ひ、それから赤ン坊片手の忙がしさなど考へ合せて、こんな、不自由がちな、客布團一枚、勝一枚もろくろく無い樣な生活の中に、察しもなく押しかけるなんて、すこし無理だと房子は考へて、妙に沈んでしまつた。

 でも又やつぱり親身の情で三四年振りに兄に逢へるのは大變待ち遠しい心地もした。

「丁度明日あたりですね」

 房子は日附を指折つて見たり古い汽車の時間表を繰つたりした。

 

       二

 

 翌旦房子は朝から兄を待つた。

 低い岡をバックにして野原の片隅にたてられた電車の停留所は房子の家の緣側から近くに見えた。

 町の方から來る電車は五分問おき位に菜畠の間を走つて來て、玆の停留所に四人の人々を吐き出しては又海邊の方へ走(は)せ去るのであつたが、電車を下りて川堤を步いて來る人々の中にも遂に兄の姿は見出す事が出來なかつた。

 夜着く汽車に違ひないと獨りぎめにきめた房子は午後になるとおんぶ羽織に赤ン坊をしよつて電車で、町へ買物に出かけた。乾燥した秋の町には綠色の半襟をかけた美しい女が步いてゐたり、飾窓には、新柄の反物や帶地が陳列してあつたりした。幅の廣い電車通りの街には活動寫眞の廣告が囃し立て、通つて居た。町角にはもう靑い小蜜柑や靑柿などを賣る女達が並んでゐた。始終郊外にすつこんでめつたに出た事のない出嫌ひの房子には、かうした街の色彩なり感じなりがかなり鋭敏に受取られた。

 房子は一寸飾窓の前に立留まつて、子供用の緋繻珍(ひしゆちん)の帶の値など讀んだ後魚市場の方へ足を移した。[やぶちゃん注:「緋繻珍」現代仮名遣「ひしゅちん」は繻子織(しゅすおり:経糸或いは緯糸の孰れかが表面に長く渡る織り方。サテン)の地に多色の絵緯(えぬき)と呼ばれる緯糸で文様を織り出した滑らかで艶のある絹織物の、赤味の強いもの。「しゅちん」という呼称は七色以上の色糸を用いたので「七糸緞(しちしたん)」と呼ばれていたものの転訛とされる。中国伝来で室町末期から織られ、幕末から明治期には専ら、打掛や女帯に用いられた。]

 そしてあれこれと買ひ整へた重い風呂敷包をさげて又コツコツと野外の家へ歸つて來たのは三時過ぎてであつた。背中で寢てしまつた赤ソ坊をしよつたまゝ水を汲んだり兄を迎へる爲めの料理をするのであつた。けれども兄は遂に、最終の十一時何分かの汽車が、直ぐ川下の鐵橋を渡りつゝあるのを聞きをはつてから暫らくの後も彼女の宅に來ないでしまつた。

 その翌朝、房子はいつもの樣に夫を送り出して仕舞つてから長女の髮を梳いてやつたり、食卓の後かた付けをしたりしてゐるところに兄はヒヨツコリやつて來た。布團らしい大きな菰包と手提鞄と絹張の洋傘太い銀柄の洋杖(ステツキ)なぞをくゝり合はしたのと是丈の荷物を車夫が玄關の板敷に運ぶ間透は土間に立つてゐた。透は高下駄の新らしいのを履いて手にはも一本毛繻子の洋傘を持つてゐた。久し振で兄を見た刹那房子は此前東京で逢つた時よりも大變ふけて、着物などもあの贅澤やが着馴れた縞の銘仙のふだん羽織に、汽車で寢起した時のうす皺をよせてゐる樣が何だか兄の此頃の境遇を語る樣にも覺えられて、じつと、車夫に銀貨を出してやる透の背をみつめるのであつた。透は落付いた態度でズツと座敷へ通つた。

「兄さん。しばらく……さぞお疲れでしたでせう」

 房子が座布團をすゝめながら叮嚀にお辭儀をすると、

「やあどうも、今度はとんだお世話になります」

 透も一寸あらたまつて挨拶した。

 上の娘は外へ遊びに行つたし、赤ン坊は寢て仕舞つたので家の中は靜かだつた。久し振りに相對した兄妹の間には、東京の兩親のはなしやら其後の御互の消息やら、いろいろな話しが次から次へと語り續けられた。話が透の今度玆へ來る樣に成つた譯に落ちて行つた時、

「僕は最初父からK市へ兎に角行けと話のあつた時斷はつたんだ。まだ就職口がはつきり定まつたんでもなし、それに僕は官吏は嫌ひだしね、東京には俳句の友達も澤山居て、どこかに世話してやらうと言つても呉れたし……子供の二人も居る房子さん處へ押しかけて來るのも氣の毒だから、と言つたんだが」と透は答へて、

 當市へ來るのなら旅費もやらうし就職口のある迄の食費其他入用の物丈は不自由ない樣に送るから直ぐ立て、でないと一切以後は窮狀を告げて來てもかまはない。と一徹な父に足許から、鳥の立つ樣に言はれて、透も不承不承都を發つて來たのだ、などとも語つた。

「それで嫂さんはどうなすつたの?」と聞くと透は淋しく笑つて、

「うん、お芳か。K市へ來る事は知らしてないんだ……」

と答へるのであつた。

 

       三

 

 房子は驚いて

「まあどうして?」と聞くと

「僕は滿洲の方へ口を探しに行くから當分居所を定めずいつ歸るとも判らない。口が定まつたら呼びよせるとかう言つた丈けだ。何しろ父から話が有つてから三日目には發ったんだからね」

「そして嫁さんはどうなすつたでせう」と房子が熱心に聞くと、

「さあ里へでも歸つてるだらう……」透の顏は流石(さすが)に曇つて居た。何でも透は、家財も鷄も一切始末してしまふ事を言ひ置いて、自分は只房子の家へ持ち運ばれた菰包と手提鞄丈を身につけて、只一人見送る人もなく知友にも知らさず瓢然と旅へ出たのであつた。此失意の兄を目前に迎へた房子は、昨日迄の何となく水臭い心持を捨て、眞心から、淋しい透の心持に共鳴する事が出來た。やがて晝に成つたが、婢もなし買ひに出てもこの近所の店には野菜一つろくなものは無かつた。この遠來の客を迎へる初めての膳の上には只三品許りの貧しい皿が並べられてゐるのみであつた。

「兄さん。お話ばかりして居たのでほんとにお氣毒な樣に何も無いんですよ」房子は心から極り惡く思つてかう言つた。

「何結構だ。僕はもう今日からお客樣ぢやないこゝの人に成つたんだもの。僕も此節は手輕に暮しつけてるよ」かう氣サクに答へてまつさきにフライに箸を付けた透は、

「これは、家でしたのか」

「はあ……」透が一口食べて其儘皿へおいて終つたのを見ると房子は何だか、こんなもの食べられないと言はれた樣でドキンとした。それは昨夜のフライの揚げ直しだつたから……。食事が濟むと、透は退屈さうに表へ出て、潮の退いた川原を眺めたり、緣先へ立つたりした。房子が子供に乳を呑ましたり、コチコチと下駄の音をさせながら風呂水を汲み込むのを見遣りつゝ、兄妹中で一番末つ子の、子供の樣に思つてゐた妹がすつかりと主婦めいて來たのをつくづくと見守つたり、産をしたせゐかふけたなど思つて見た。

 家の中は古びた疊建具で、それに天井も柱も緣も黑つぼく塗つて有る爲め一層陰氣な感じがした。

 床の間には花のない花器が置かれてる許り。目ぼしい道具もなく總べての有樣が華やかな氣分は少しもなかつた。臺所の方から手を拭き拭き出て來た妹の顏を見ると透は緣の柱に身をよせたまゝ、

「隨分荒れた庭だなあ」と思つた儘をヅケヅケ言つた。

「エエ。手が屆かないものですから」と房子は笑ひながら答へたが立ち枯れた向日葵にも枯木にもいつぱいクルクル卷き付いてゐる蔓朝顏。それから隅の方に咲いてる石蕗の黃色い花。その向うに三畝許り蒔かれた柔い冬菜の綠色。風に搖れつゝある赤い竿の着物夫(それ)等の物にも土にもいつぱいに午後の秋日がさしこんでゐる樣は、所謂庭園らしく造りつけてない荒れた侘しい感じはするが其佗しい打沈んだ庭の面に、色彩に水彩畫的の豐富な調子が見出されるのであつた。房子はすべてに明るいパツとした強い刺激を漁つて派手に暮してゐた會社時代の透を思出して、この十年この方質素な貧しい生活の中に土臭いのを樂しみに暮して來た自分と、兄と非常な隔りのあるのを知ると共に、今この古柱に、漂浪の身を寄せて、いまだに歡樂の夢を追つてゐる樣な淋しい兄の目を見るのであつた。

 殊に手傳はせて庭先で解かれた菰包の中からは、綿の薄い布團や常着が、二三枚出て來た外には俳書のみだつた。大分前からのホトトギスや俳書が可成澤山あつた。

「外の物は皆賣つても惜しくは無かつたが俳書丈はをしかつたよ。まるで二足三文なんだもの。でも是丈はどうも手離しかねて持つて來た」と透は言つてゐた。

「あの鞄の中は着物?」と房子から聞かれると透はカラカラ笑つて、

「着物は着た切り雀さ。あの中は俳人の端書だの短册許りだ」

 房子は本を高く積み重ねては何度も何度も庭先から床の間へ運んだ。そして座敷の次の間を兄の間に定めた。透は例の鞄の中から蒔繪の硯箱や文鎭筆立の樣なものを取出して並べた。筆立の中には錐。萬年ペン。耳の穴を掃除する小道具の樣な類迄さゝれた。

 

       四

 

 長い間官吏生活を續けてゐた彼等の父に從つてあちこちと子供の時から移り住んで行つた彼等は、透の中學校を卒業して上の學校へ入る時分からはズツト離れて三年目に一度か四五年目にやつと逢ふ位のもので、しみじみと兄妹らしく語つた事は無かつたのが、かうして一緒に暮す樣に成つたので當分の間は朝から話許りしてゐた。

 殊に、秋雨がじめじめと際限もなく降り出して、良三の掘りかけた畠の隅の土にも菜畠にも、うそ寒さが漂ふ樣な日は、透は障子を閉め切つて机の傍に火鉢を引きよせつゝほどきものなどする妹としきりに語り續けた。

 透は本所の某會社に十年あまりも購買の方の主任を勤めて重役の一人から非常な信任を得、透自身も其重役の爲めには骨身惜まずにつとめた。才氣走つた彼は何事もテキパキと敏活に仕上げて行つた。

 或點は豪膽でもありどこ迄も男性的に出來上つてゐる活動家の透は隨分大酒も豪遊もして居たが會社の方の仕事丈は非常な熱心でやつてゐた。處が透を引立てゝくれる其重役が肺病で死んでしまつた後は急に日頃反對派のもの達が勢力を占め日頃の妬みを一時に逆寄せて來た。自我が強くて負けず嫌ひで、阿諛の下手な透は、邪魔者扱にしてるなと氣が付くと、重役でも何にでも反對に出た。時には殊更に突當つて行つた。會社の内情に一番精通してゐるのをカサに着て、中々降らなかつた。おしまひにはヤケ半分に休みつゞけたりした。

 度々申出たが辭職の願は取上げられなかつた。そして充分會社の方の準備の出來た頃十二月も押し迫つてから突然ポンと、辭職を強ひられた。豫期した事ながら彼は非常に憤慨して即刻やめてしまつた。夫婦の仲には、結婚してから六年めに成つても子供は遂になかつた。その故か、透と其妻のお芳との間は兎角圓滿を缺いた。一つは透の素行の惡いなどの點からもあるが、一つは又、早く兩親に別れて繼母の手に育つたお芳の性質のひがみ易い、一向優しみのない氣強い性質、柔順も涙も無いと言つた樣な彼女の性質が一層衝突を容易ならしめた。でも又仲のよい時は子の無い夫婦は隨分贅澤な身なりをして芝居見に出掛たり、凝つた料理を食べて𢌞つたり。或時の透の誕生日には、知人を二三十人も呼んで盛宴を張つたりした。透の洋服にプラチナ鎖が垂れゝばお芳の指にはダイヤの指環が光る。一流の料亭に遊び更かして二時三時頃上野の家へ歸る時には大つぴらに自動車を門先に乘り付けて芳子の心を搔き亂さした。かくの如くして或時は妻に氣の毒な憂ひを抱かしめる。彼れは又時々の妻の我儘も大目に見逃さなくてはならない時があつた。透と芳子との間が次第に危機に陷つた時彼等夫婦と、兩親との間も色々な事情の爲め甚だ圓滑を缺いて居た。透は母に隨分永い間我儘も言ひ心配も苦勞も山程かけた。一徹な子に嚴しい父を執成して幾分父の怒を慰さめ和げるものはいつも母であつた。透の酒色の爲めの出費や會社の不首尾は謹嚴な古武士の樣な父の決して喜ばぬ處だつた。遊興費はすべて母の手でつけられた。けれども透夫婦は面と向つては叱言など言はない父よりも、當然あれこれと父に叱らせぬ前に叱言を言ふ親切な母を父へ惡樣(あさいざま)に告げる樣にさへひがんだ。[やぶちゃん注:「搔き亂さした」底本には「亂さ」の右に編者によるママ注記が附されている(が、私は寧ろここは特に気にならない)。なお、「執成して」は「とりなして」と訓ずる。]

 

      五

 

 そして突然夫婦は、兩親に通知もせず巣鴨へ引移つて、いよく困る迄ハガキ一本出さなかつた。父は勘當すると激怒した。種々な事の爲め次々に家庭に心配が漂つた。夏房子のお産を心配して遙々K市へ來た母は、

「透等の事は寢てもさめても心配してる。K市邊は會社も多しどうかお前方夫婦の手で勤め口を探して呉れないか」としみじみ言はれて、房子夫婦は苦勞の多い、母の爲め、兄の就職口を探す事を快よく引受た。

 だがおとなしい靜かな性質の良三は、腕も切れる代りに酒も呑み遊びもすると云ふ樣な透の性質に思ひ至つた時、少し自分には荷が重過ると感じた。怖ろしい豫感をさへ抱くのであつた。妻の房子も同じ樣な氣持がして「兄さんもお酒さへ止めなされば申分ないけれど……」と言つた。

「もう今度こそ丸一年も遊び續けて懲り懲りしたから透も以前の樣な馬鹿な事はしますまいよ。それに萬一の事があつても私達が居る以上はお前達に迷惑のかゝる樣な事は決してしない」

 母はかう言つて呉々も賴んで行つた。其後或る官吏に一寸したあきのあつた事を透の許へ知らしてやると「自分は官吏は嫌ひだがどこか會社にでもあつた節は知らして呉れ」と言ふ返事が來た。透も最初の間は高賣してゐて、可成り方々の口もあつたのを皆氣に入らないで斷つて居たが居食に約一年遊び暮して中々思はしい口も無し九州の有望な景氣を母の口から聞き一徹な父へ母からとりなして貰つて絶對に酒なぞやめる約束で來る事と成つた。話上手な透の話を熱心に聞いて居た房子は、時々ほどき物の手を休めて兄の話に切り込んで行つた。[やぶちゃん注:「居食」「ゐぐひ(いぐい)」と読む。働かずに手持ちの財産でのみ生活していくこと。無為徒食。この私藪野直史のような輩を言う。]

「巣鴨にいらつしやつた時はどんな風に暮していらしたの」

「會社をやめた當座は夫婦で每日每日遊び步いたよ。芝居にも隨分よく出かけたね。それから好きな鷄も九羽許り飼つて居た。困るとはいふものゝ夫婦切りだし多少餘裕もあつたから晩酌も每晩やつたよ。食いたいものも喰つた」

 透は面白さうに答へてカラカラと笑つた。巣鴨時代は透も茶屋遊びなどは全くやめて割合に眞面目に成つたので芳子との仲も却つて不自由の無い時代より睦まじかつたらしい。飮食の欲望は可成盛んな透も金錢には至極淡泊で、有れば有る丈パツパと成丈派手に使ひたい方なので、二三年はやつて行ける筈の貯へもぢき乏しく成り掛けて來たらしい。[やぶちゃん注:「成丈」「なるたけ」で以下の「派手に使ひたい」に係る。]

「何しろ暇なものだから俳句に凝て暮した。大抵な句會には缺かさず出席もしたし知名な俳人達とも交際した」とは何よりの自慢らしく話した後で例の鞄を押入から持ち出した。中古の天鵞絨張の鞄の中からは、俳壇で一流と言はれる人々の短册二十枚が出た。[やぶちゃん注:「天鵞絨張」「ビロードばり」。]

 透は一々夫れを讀み聞かせたり、其短册を書いて貰つた時の有樣を話したりした。其短册の中には、俳巨人と言はれて全國の俳人達から活神樣の樣に敬はれてゐる某氏のも四五枚あつた。それから又透は、夫等著名の俳人の風丰(ふうぼう)や逸話をも聞かせた。俳巨人某氏の寫生文の有難味や、能樂の非常に得意な事。夫から某老大家の話自分と句兄弟である英新聞の記者某氏が江戸つ子肌で非常に透と意氣投合し且氣持の好い人物である事などをこまこま語つて後、自尊心の強い彼れは、自己の俳句界に於いての地位を殊に力説した。自己を相應に「認めらるゝ俳人」として自負してゐる彼は、「心を引締て愈々勤め口の決定する迄は俳人等とも交遊を斷つて只管(ひたすら)謹愼せよ」と父から文通さへ止められた事を唯一の遺憾とした。種々な事情の爲めに、

「朝晩往來してゐた俳人仲間へ一言の暇乞もせずに來てしまつた。俳句は自分の生命でもあるし變に夜逃げでもした樣思はれては僕として一番殘念だ」と彼れは切に訴へるのであつた。實際透の爲めには妻に無斷で遠地へ漂浪し初めた事よりも俳人仲間と交渉を斷つた事の方が餘程苦痛らしく見えた。房子は俳句も知らず、俳人仲間の名さへ初めて聞くのであつたが一體に文學趣味を持つてゐる彼女はもの珍らしく多大の興味を以つて、兄の寶物の樣大事がつてゐる短册や、手紙、端書の類を眺めるのであつた。[やぶちゃん注:「風丰(ふうぼう)」のルビは正しい。風貌と同義であるが、風貌の場合は歴史的仮名遣は「ふうばう」であるが、この「風丰」は「ふうぼう」である。]

 

       六

 

 兄を唯自我の念の勝つた理智一點の人間の樣に思つて居た房子は每日透と膝突き合はして語る中次第に兄を理解もし今の境遇に對して同情もよせた。兄の過去を憎めない心地もした。「兄さんもうお酒はやめて眞面目に今度は成つて下さい。お母さんも本當に心配していらしたわ。折角好いとこに勤めていらしたのに、惜かつたのねえ」と言ふと、

「なあに人間だもの七轉び八起だよ。僕は決して悲觀しない。吃度(きつと)今度はやつて見せる」と緊張した面持に成つて「だが隨分一時は無茶な事をやつたよ」と其當時の殆ど常識から考へては馬鹿らしい豪遊振や物質上のケパケバしい生活を得意げに語り出す事もあつた。夫は房子などの考へも及ばぬ現實味の勝つた世間臭い物だつた。

 其生活の中には精神的な安心も、愛も、敬虔な信仰もない。只爭鬪や、上辷のした歡樂のみがあつた。[やぶちゃん注:「上辷」「うはすべり(うわすべり)」。]

「兄さんの今迄の榮華はすべて泡錢や虛飾から出來上つてるのですね。自然覆る筈ですわ。あなたは夫で面白ろ可笑くお暮しでしたでせうが、いつも遊蕩費を負ふのはお母さんなのですもの、兄さんも最う昔とは違ふのですもの、今度こそは御兩親に心配かけないで下さいな。ねえ兄さん……」

 思ひ切つて、切り出した房子の聲は震へてゐた。只自己の歡樂のみを追うて年老つた父母の心配をも忘れ、いつまでも兩親の懷を當にしてパアパア湯水の樣に使つてしまふ透の生活は、あまり物質的であつた。もすこし淸い荒(すさ)まない兄にしたい。母の苦勞を減らしたいと彼女は熱心に思ひつゞけた。

 母への感謝は忘れてまだまだ母の愛が足りない、母は長兄のみ大事にすると言つて、透は自分から優しく只の一度もしないで、寧ろ母に突當る樣にして來たのであつた。

 房子は燃える樣な熱心で、或時はおめず屈せず、物質萬能の兄を罵り母の愛を説き、母の苦心を聞かせ、或時は涙を流して兄の荒んだ心持を純なものにしたいと願つた。だが兄は盛んに房子の説に反對し不平を並べもし、自己に都合のよい説をまうけていつかな彼女の精神的な心持を受入れようとはしなかつた。のみならず、話上手な議論好きな彼は、上手に理屈をくみ立てゝ往々房子へ肉迫して來た。[やぶちゃん注:「おめず」マ行下二段活用の自動詞「怖(お)める」(現行では使用頻度が低い)の未然形に打消の助動詞「ず」の連用形が附いたもの。]

 房子は充分心には思ひつゝ筋道立てゝ、縱橫に辯説を構へる兄を説得すべく出來能はなかつた。[やぶちゃん注:「出來能」「できよう」と訓じていよう。「よう」は「能(よ)く」の音変化だから「やう」(樣)ではない。]

 が自分の眞心と熱誠を以つて必らず、母の愛をつぎ込み、兄を幾分なりとも精神的にしたいと彼女は心の中に誓つた。房子は何でも率直に、言ふと云ふたちの女なので怖れず、自分の正しいと思ふ事はヅケヅケ言つた。倂し兄妹とも至極眞面目に各自の立場立場から爭ひ合つたにもかゝはらず、彼等は決して怒つてはゐなかつた。

 火の樣に熱して語りあつてゐると頭の上で、ポカリと電氣が點いた。隣りへ遊びに行つてゐた、長女の澄子が歸つて來て、

「お母さん御飯まだ?」

と催促する事もあつた。

「おやおやもう五時過ぎてますよ。伯父樣があまり強情おはりになるものだから」

と房子は笑ひながら、仕事を片附けてソソクサと夕飯の仕度にかかる事もあつた。

 夕方もう日の暮れ暮れに房子の夫が歸つて來ると、燈の下に賑かな食卓が持ち運ばれる。「謹愼中は酒は一滴も呑むべからず。衣は寒さに堪へ得、食は飢をふせぎ得れば足る」と言ふ樣な手紙を父からは、兄の許へ寄越して來た。母からも懇々賴みもあるので房子はわざと酒はめつたにつけなかつた。每夜の樣晩酌の二三合づゝ飮みつゝあつた透の爲めには夕の膳の上に盃を見ないと云ふ事は當分の中一番苦痛であつた。

 

       七

 

 房子の家では着物は極くかまはない方だつたが食物だけは割合に氣をつけてゐた。房子の父は非常な食道樂だつたので房子も自然食物を料理する事には興味を持つてゐた。一個の馬鈴薯一本の牛蒡をも彼女は樣々に工夫して料理した。

 或時には牛の舌が煮られる事もあり、豚のロースがテーブルに並ぶ事もあつた。一寸繪心の有る彼女は、料理の體裁なども氣をつけ色彩などにも注意して樣々に變化させ美化させる事に苦心した。貧しい厨ではあつたが萬事應用して行く事に興味を見出してこの粗末な卓上にも折々豐富な料理がならべられた。だが兄の透に取つては一寸一口、盃のふちへ唇を付けないと云ふ事が非常に淋しいものに思はれた。房子達は皆で兄さん兄さんと、精一ぱいまごゝろから大事にしては呉れたが、どうか飮まして呉れとは流石な彼も言ひ出しかねて、直樣お茶碗を取り上げた。[やぶちゃん注:「直樣」これで「ぢきさま(じきさま)」とも読むが、「すぐさま」で読みたい。直ちに。]

 寢ようとすれば布團しきにも來てくれ、嫌な感じは少しもなかつたが自分の家にゐて思ひ通りにするのとは萬事勝手も違ひ時々は解きすてた過去の家庭をなつかしいとも思つた。

 何か祝日とか日曜の夜とかは房子は兄を慰める意で、河畔の店へお酒買ひにいつた。そして酒飮の口にあふやうなものを二三品つくり添へた。わづか二合程の酒を、チビリチビリと樂しみつゝ機嫌よく飮んで呉れる兄を見ると房子は兄の樣な性質の男がかうしておとなしく淋しい生活を續けてゐるのを氣の毒にも思へた。

 子供は「伯父さん伯父さん」と馴付いて、透の散步へゆくにも湯に行くにも離れなかつた。良三も透を大事にしてくれた。一家はお互にいろいろな辛さを忍んで至極平和に、最初心配した樣な氣まづさもお互にあぢははず暮す事が出來た。

 夫の良三は、兄の就職口を奔走する爲めいろいろな手蔓を賴つて方々自ら賴み𢌞つた。

 野心も企圖も燃える樣な四十に手のとゞく男が、なす事もなくブラブラと日を送る事の無聊な苦痛や、妻に別れ家をすて友にも背いて、今は彼の最も貴しとする富や權力に遠ざかり、酒色をも顧ず唯あけても暮れても貧しい妹一人を話相手としてわづかに活きて行かねばならぬ彼の心中の寂莫は非常であつた。過去の失敗も失脚も運命とあきらめて、敝履の如く榮華を捨てゝしまつた彼れは、一面に於て夫れを一向意にも介せず、

「なあに」と至極呑氣にかまへてはゐたが其半面には都會人らしい非常に鋭敏な感情をも持つてゐた。感傷的ではなくどこまでも女々しい事は口にしない性質で、

「なあに、今に盛り返して見せる。吃度僕だつて、此儘朽ち果ててしまふ樣な意氣地なしではないんだ」と力を入れて言ふのであつたが、其明晰な頭は何事に逢着しても充分徹底的な判斷を下さないでは氣がすまなかつた。彼れは苦痛をも口に出さず、内心に深く深く刻みつけ考へ詰めもした。自信の強い、或時は圭角ある物言もする兄を房子は憎めないで却つて俳趣味のどこかにひそんだ、兎に角轉んでもつまづいても、何となく元氣があつてテキパキしてゐる兄の性質を「面白い性質」だと思つた。親達に優しくないのも一つは彼の淡泊な性質からだとも思へた。房子は透の襯衣(シヤツ)を洗濯したり、朝晩のチヨイチヨイした身のまはりの世話をも成丈(なるたけ)まめまめしくした。[やぶちゃん注:「敝履」「へいり」。弊履に同じい。破れた履き物。使い物にならない物の喩えとしても用いる語。「圭角」「けいかく」。「圭」は硬い宝玉の意で、玉石にある角(かど)から転じて、性質や言動に角(カド)があって円満でない様子を指す。]

 また兄の動靜を知らせる東京への手紙の中には「兄は丈夫で至極まじめで每日暮してゐる。以前の兄とは違つて、兄も今度こそ辛抱が出來るでせう」といつも兄の味方になつた。淋しい兄の爲めせめて俳人達との文通丈許して頂だき度いと房子は手紙の度に父へ賴んだが父は「出立後まだ一月にもならぬのにもう左樣な言を申樣では前途の謹愼も覺束ない」と却つて不興げな返事を兄妹に宛てよこした。一緒に讀んでゐた透は苦笑しつゝも強ひてとは言はず、此河畔の家に世と斷つて起居した。

 

      八

 

 十一月に入ると朝晩はめつきり寒く成つたが秋晴の爽かな日和が續いた。手の無い房子の爲めに晝は赤ン坊を抱へて呉れたり、長女を連れてたまには買物にも行つたり、又川向うの漁師町を見物に出かけたり、漁船の歸つて來るのを見に行つたりして日を消してゐた透は魚釣を初める事に依つて此禁慾的な生活の中に、一道のまぎれ場を見出し得たのであつた。

 日が高く上つて川向うの水神の小雨の邊がはつきり現はれる頃になるともう土堤の黃樺色した芒の中にも橫へられた河原の船にも、枯蘆の中にも、突出た石垣の上にも鯊(はぜ)釣の人達が、雨の降らない限りは吃度十三四人も見えて居るのであつた。午前中にたつ漁師町の競り場で小海老の餌サを買つて置く事は透の每日の定つた仕事の一つであつた。彼は押入の中のあの鞄をあけて、布で縫つた財布から白銅をつまみ出して、クルクル紙にくるんで、餅の羽織の袂へほり込んで、それから緣の庇へ吊つてある魚藍(びく)を下して行くのであつた。澄子はいつも草履をバタバタ言はせながら「本所の伯父さん」に吃度從いて行つた。[やぶちゃん注:「黃樺色」「樺色」は赤みの強い茶黄色であるから、それの強く黄色に偏移した色。薹のたった薄の穂であるから薄い鬱金(うこん)色といった感じである。]

 天氣のよい日堤に立つて川面を見てゐると上潮につれてグングン小河豚や鯊などのせり上げて來るのや、銀色した鯔(いな)が跳るのを見た。當地へ來てから初めての、釣には新米な透は、素早く呼吸を會得して朝つから釣てゝもダボ鯊一尾もよう釣らぬ下手な人々の貧弱な魚藍をのぞき𢌞つては餌サの付け鹽梅や、糸を引きあげる瞬間の呼吸等ををしへる事さへあつた。そして自分では小い河豚や鯊を釣つても「江戸子はこんな小魚は喰はないや」なんて、針からはづして川中へはふり込んでしまふのであつた。尤も透の呼吸は釣好きな良三に負ふところが多かつた。晝は河豚に餌を奪られてしまふので彼等二人は夜釣一方だつた。二人は釣竿と魚藍と、提燈を持つてすぐ前の川で釣るのであつた。釣れるものは、さし潮につれて上つて來る一年子二年子位な海鰤(ちぬ)やセイゴなどで、外には鰻が大變釣れた。釣りには月のない夜がよいので暗い堤に、二人の釣る提灯が時々場所を替へたり、一とつところで釣つたりするのが、房子の家の緣側からよく見えた。時には他の提灯が彼等の提灯に近よつて行く處も見えた。或時は庭の樅の梢を透して、漁師町へ渡る橋の中程に釣る彼等の提灯が霧の中にボーツと見えた。大抵の夜が十二時、一時頃迄。暗い水の上を見つめる樣にしてもう引くか引くかと只一本の糸に心を集中してしまふので、其間は何も考へない。引かゝつたり、時には逃したり、透の興味は只魚が釣れ樣がつれまいがすべてを忘れて、魚釣に一心を傾け盡すと云ふ事それ丈が、今の境遇に於いての唯一の活動でもあり努力でもあつた。寢坊な良三の方は却つて、釣竿を手にしたまゝゐ眠などして、透の樣に眞劍で釣りはしなかつた。[やぶちゃん注:「鯔(いな)」地方によって異なるが、一般的には出世魚である条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus の成魚(「ボラ」と呼称)になる前の幼魚或いは成魚となる直前の段階十八センチから三十センチほどの大きさのものを指す。「海鰤(ちぬ)」「茅渟」の漢字表記の方がよい。条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii のことであるが、後で久女は「黑鯛」と記すところを見ると、その成魚前の中小型のクロダイをかく呼んでいるように思われる。「セイゴ」やはり出世魚として知られるスズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus で、関西では全長が四十センチ以下(一年物と二年物が含まれる)のものを一律に「鮬(せいご)」と呼ぶ。]

 時には電車に乘つて、市の西方の突堤などへ出かけ終夜荒い波を被ぶりつゝ釣りをする事もあつた。

 そういふ時は夕飯を早くすました透と良三は外套だの眞綿だのをかしな程色々着込んで、西洋乞食の樣な風をして出かけて行くので房子は、正宗の二合瓶に、一寸した折詰などを整へて渡す。夜通し防波堤の上で一睡もせず、釣りした二人は翌朝最初の電車の通ひ初めた頃疲れ切つて歸るのであつた。潮時になると途中一二ケ所防波堤のゴロゴロ岩は潮に浸されて陸へ歸る事は、潮の再びひく迄は不可能であつた。出迎へた房子は

「昨夜は如何でした。釣れましたか」と吃度聞いた。

 魚藍の中には黑鯛やアラカブ、目張、時には七八寸の海鰤が銀色の鱗を光らせて交つてる事もあり、生きた蟹がゴソゴソと魚藍の中で手足を動かす音もした。概して釣の成績は非常によかつた。[やぶちゃん注:「アラカブ」棘鰭上目スズキ目カサゴ亜目メバル科カサゴ属カサゴ Sebastiscus marmoratus の九州方言。他に「がらかぶ」「がぶ」などとも呼ぶ。「目張」同じカサゴ亜目フサカサゴ科(又はメバル科)メバル属 Sebastes(シロメバル Sebastes cheni・アカメバル Sebastes inermis・クロメバル Sebastes ventricosus の三種がいる。アカメバルは「沖メバル」とも呼ぶが、沿岸域にも棲息する)。]

 

       九

 

 透の就職口に就いて或日良三は北九州でも指折りの某實業家を訪ねて行つた。其子息達が良三の學校に通つてゐたと云ふ樣な只ほんの淡泊(あつさり)した因緣を手(た)ぐつて正直細心な良三としては押づよく出かけて行つたのであつた。その某氏の經營してゐる宏大な學校を通り拔けて、松山の麓に其邸宅があつた。

 可成立派な應接室に通されて良三は、某氏から至極居心地のよい應接を受けた。透の事を切り出して賴むと「今どこと申して空もなし直ぐにと云ふわけには行かないが兎に角御話の趣は承知した。一應近日御本人に逢ひ度い」と言はれて先づ絶望する事はない、逢つて貰へば本人の如何な人物かと云ふ事も判るからと良三は喜んで歸つて來た。透も房子も、「逢つて貰へば又話しの進め樣もある」と喜んだ。

 逢ひに行くにしても今の透は袴も羽織(紋のもの)も持つて無かつた。房子は早速手紙を書いて東京に送つた。

「まだ成否は判らないけれども某氏は當縣でも屈指の實業家でもあり、學校の方の關係もある故兄上面會の上は決定せぬとも限らぬ」由を認めドンナ袴でもよいから一着送つて下さいと母の許へ賴んだ。

 折返し來た返事は房子の姊の代筆で、申越の物は取揃へて送るが母も中々色々と、出費も多し父上は一徹で中々苦勞も多い故兄上も、充分氣をつけて心を引締め、母の情けを充分心に刻みつけて貰ひたいとの意が、あまり露骨に書かれてあるのを透は例の「なあに」と云ふ氣質なので、

こんなに僕も身を苦しみ不自由も忍んでるのにさうさう子供の樣に辛棒辛棒と、大概程度もあるぢやあないか」と大變不機嫌な顏附で、「房さんも僕の味方に成つてちつとは僕の自由になる樣取計らうべきが、兄妹の情なのに、大小洩さず、監視的に、報告して、益々僕を檻に入れ樣とするんだね」

 房子に突掛る樣に言つた。

まあ兄さん。あんまりですわ、兄さんこそひがんで……」

 房子もむきに成つてむか腹を一寸立てた。だが二人の小い爭ひも直ぐ消えてしまつた。

それから三四日すると東京から小包と菰包が着いた。小包の中には、兄の外出着や新らしい袴。それから里の定紋の付いた黑紋付の羽織に紐もチヤンと揃へてあつた。外に、大變世話になるからとて、房子や子供達へめいめい色々と、美しいものが入れ添へてあつた。房子の好物の海苔の箱入もあつた。こまこました是等の送りものを一々見入つて居た房子は事滋い母が年寄りの手に、かうして何から何迄心配して整へて下さるのが勿體なくて涙のこぼれる樣な心地がした。

 菰包の方は布團とかいまきだつた。寒がりの透は、其癖ゴロゴロ寢卷を着て寢(やす)む事の出來ない性で嚴冬でも洗ひざらしの單衣一枚で毛布の柔かい布團にくるまつて寢る癖がついてゐたので此夜頃俄かに寒く成つて來たので初め持つて來た薄布團では足りなかつた。有難い母の情けが、あればこそ、彼は、小使錢からはきものかうして布團迄も送つて貰へるのであつた。

 父は或點に於ては非常に鷹揚で、かうした子供四人の世話から家事一切、總て母が細心に苦勞して行くのであつた。布團の中には更にまだ、縫はない絣の反物が裏地もそへて「これは、不斷着も澤山持つて行かなかつたから綿入にして着せて貰たい。倂し房さんも子持ちで忙がしからうから外へ縫ひに出してくれ」とて、仕立代までも添へられてあつた。母から自筆の手紙が來たが其中には、「透も不自由であらうが辛棒して呉れ。この三圓は小使に」と、小爲替が封入してあつた。手紙は短かいけれど母の温情は溢れる程に認められ流石の透も母の情がしみじみと胸にしみた樣であつた。

「兄さん御覽なさいな。この通りお母樣はあなたを案じていらつしやるのですわ! この夏からのお母樣の心配をお知りに成つたら兄さんも、今迄の樣にお母樣を水臭いなんて思はないで下さい」

 感激した房子は熱心に母の心持を説いた。そして、兄自身も、進んで老いた、長い間世と戰つて來たあの母を喜ばせてほしい。何も品物や金錢で喜ばせなくても母は唯眞心さへ捧げれば嬉しがるのだ。例へば手紙一つにしろ報告文の樣にせず母の氣の安まる樣優しく、老人に得心のゆく樣書いてほしい。子の爲めに若い時から苦勞し續けた母は、只わづかな注意で、母に優しくすれば母は滿足する。そんな事を色々に話した時透ははじめて「さうだ。僕は今迄格別親不幸したとは思つてなかつたが、自分から進んで喜ばせ樣なんて思つた事は一度もなかつた。母の得心する樣僕の氣持も書いて送らう」兄のすなほに答へるのを聞いて房子は非常に喜んだ。

芥川龍之介 手帳4―1・2

芥川龍之介 手帳4

 

[やぶちゃん注:大正八(一九一九)年の丸善株式会社発行の手帳。

 底本は現在最も信頼の於ける岩波書店一九九八年刊行の「芥川龍之介全集」(所謂、新全集)の第二十三巻を用いつつ、同書店の旧「芥川龍之介全集」の第十二巻を参考にして正字化して示す。取消線は龍之介による抹消を示す。底本の「見開き」改頁の相当箇所には「*」を配した。適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。

 なるべく同じような字配となるようにし、表記が難しいものは画像(特に注のないものは底本の新全集)で示した。各パートごとに《4-1》というように見開きごとに通し番号を附け、必要に応じて私の注釈を附してその後は一行空けとした。「○」は項目を区別するために旧全集・新全集ともに一貫して編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。判読不能字は底本では字数が記されているが、ここでは「■」で当該字数を示した(画像で私が判読出来ない字も■で示した)。

 本「手帳4」の記載推定時期は底本後記には示されていないが、構想メモのある決定稿作品から推すなら、大正六(一九一七)年(「偸盜」同年七月『中央公論』)から「おぎん」(大正一一(一九二二)年九月『中央公論』)をまず措定出来るが、下限の方は未定稿(旧全集仮題「天主の死」は末尾に『(大正十二年)』とクレジットする)から翌大正十二年まで延伸し得る。]

 

《4-1》

professor

 文鳥(tamed

 Sneers of the merchant

 But I found the bird’s happy. 'tis something.

[やぶちゃん注:「tamed」人に飼い馴らされた、人に馴れた。「Sneers of the merchant」商売人の冷笑・嘲笑。商人(あきんど)が人を鼻であしらうこと。「'tis」は「It is」の短縮形。ベルギーの劇作家モーリス・メーテルリンク(Maurice Maeterlinck 一八六二年~一九四九年)の童話劇(五幕十場)「青い鳥」(L'Oiseau bleu 一九〇八年)をインスパイアしようとしたものか。]

 

〇夏の夕暮午後 女中 恒子 靜子 人が呼ぶ 靜子去る 恒子 一人のこるmonologue) 子供來る(antipathy) 恒子去る 子供と女中(note をのこす) 靜子來る 恒子暫くして follows. 二人談話――夕立 恒子去る 靜子 monologue 恒子バルコンより來る Monologue

[やぶちゃん注:「antipathy」は「反感・毛嫌い・性に合わないこと」の意であり、子が自律的に来て恒子が去るのであれば、これはその「子」(静子の子か)に対する恒子の生理的忌避感と捉えるべきであろう。「note をのこす」というのは、次の《4-2》の頭から子どもの帳面に何かを「書き残した」という意味である。]

 

《4-2》

子供の note へ手紙をかく 直人音に慌てて去る 靜子子供來る 子供來る 靜子手紙をことづく 靜子手紙をよむ 虹

[やぶちゃん注:前項から続いて、かなり具体な場面構想で、しかも細部に亙ったソリッドなシチュエーションであるが、現行の決定稿や未定稿にはこうしたシークエンスを持つものは見当たらない(なお、細かいことを言っておくと、英語の“note”には“notebook”の意味はない)。]

 

○噓を御つきになつた 噓はつかないよ

○共同の evil を犯すものは親密なり

[やぶちゃん注:この後者は、既に亡くなった仏教徒の実父母が「いんへるの」にいるのに自分だけが「はらいそ」に行くことは出来ないとして棄教する「おぎん」、それを聴いた切支丹の養父母の養母「おすみ」も自分はただ夫の「お供」をするだけだと告解するに至り、「おぎん」の「お父樣! いんへるのへ參りませう。お母樣も、わたしも、あちらのお父樣やお母樣も、――みんな惡魔にさらはれませう。」という呼びかけに、遂には養父「孫七」も堕落して棄教してしまい、それを知った『惡魔はその時大歡喜のあまり、大きい書物に化ばけながら、夜中(よぢう)刑場に飛んでゐたと云ふ。これもさう無性に喜ぶ程、惡魔の成功だつたかどうか、作者は甚だ懷疑的である』と結ぶところの、切支丹物の佳品「おぎん」(大正一一(一九二二)年九月『中央公論』)の構想のように私には思われる。]

 

大事件の omen として a crowd of butterflies を見る事

[やぶちゃん注:「omen」前兆。「a crowd of butterflies蝶の群れ。本邦では古えより、妖し蝶の群飛するは凶兆(オーメン)とした。そもそも蝶は人の死体にさえも群がったのである。いろいろなテクストで繰り返し既に何度も述べているが再掲しておくと、実は古来、蝶は必ずしも美しく愛でるものとして一般に認知されていたわけでは実は、ない。例えば、一九七八年築地書館刊の今井彰氏の「蝶の民俗学」によれば(私の長い愛読書の一冊である)、「万葉集」には蝶を直接歌った歌がない。即ち、古えには蝶はなんらかの不吉なシンボルとして認識されていた可能性が極めて高いということである。蝶が多く棲息するのは市中ではなく、相対的に緑の多い都会の辺縁部であって、そこは古くはイコール、死んだ者の亡骸を遺棄・風葬し、埋葬するべき触穢の時空であり、死と生の境界であった。そこに白く空を浮遊する対象物は容易に死者の霊魂を想起させたと思われる。遺体の体液を吸うために蝶が群がるというシークエンスもなかったとは言えない。清少納言や「虫愛ずる姫君」の虫女(むしじょ)カルチャー以前に、死後の世界や霊界とアクセスする回路の虚空を――白昼夜間も問わず――こそ、蝶や蛾は――実は跳梁していたのではなかったか? と私は思うのである。

 

○心中せんとする男女――汽車心中の男女をひく 心中を思ひとまる

赤字路線は犯罪である   梅崎春生

 

 玩具屋に組立材料を売っている。それを買って来て、軍艦や飛行機を組立てる。子供雑誌などの付録にもそれがある。戦艦武蔵をつくったとか、零戦(ぜろせん)をこしらえたとか言って、子供はよろこんでいる。いや、子供だけじゃなく、年甲斐もなく大人が没頭しているのもいるようだ。

 復古調ということもあるだろう。しかし根本的には軍艦や飛行機は、形に無駄がない。その点に人は魅力を感じるらしい。全部合目的的につくられて、余分な出っ張りはひとつもない。そこに美がある。

 汽車の模型が大好きというのもいる。これは案外大人に多い。病膏肓(やまいこうこう)に入ると、駅舎や踏切やシグナルなども自分でつくって、各種の機関車や客車を走らせて悦に入っている。自分の意のままに走ったりとまったりするところが、何とも言えないのだそうである。その気持は判らないでもない。

 先年せがまれるままに、子供に電気機関車の一式を買ってやったが、子供が学校に出かけた留守、私たち夫婦はそれを取り出して、散々汽車を走らせてたのしんだ。汽車を走らせることには、何か郷愁みたいな快感がある。

 汽車の模型で遊んでいる分には差しつかえないが、国鉄は今年も赤字路線をたくさんつくるのだという。模型と違ってほんものだから、これは金がかかる。路線をきめるのは鉄道建設審議会で、その席上で、

「赤字路線の新設はもうやめようじゃないか」

 との意見も出たが、大勢は新設に踏み切った。今建設中の二十五新線の工事を進める上に、また八つの赤字路線をつくることに決定した。

 なぜ赤字路線が次々出来るかというと、審議会の実権を国会議員が持っているからで、つまり鉄道をつくってやるからと恩を売って、票を集めようとの魂胆である。

 国民の税金を使って選挙運動しているようなもので、怪しからんと思うが、また選挙民の方もどうかしてやしないかと思う。どうして鉄道に偏執するのだろうか。

 鉄道より何故道の方をえらばないのか。一定の広さの舗装路さえあれば、バスも通れるしトラックも通れる。人も歩ける。鉄道というやつは、いったん敷設(ふせつ)すれば、そこは汽車しか通れないのだ。その点非常に効率が悪い。

 狭い国土に汽車だけしか通れない路をつくるのは、住民にとっても損な話ではないか。

 しかし現実には、鉄道を通せば票があつまるのだから、汽車がよろこばれていることになる。その心理はよく判らないが、忖度(そんたく)するに、鉄道というものが文明開化の象徴のように感じられているせいだという気がする。

 現に私の遠い親類の老女が九州の片田舎に住んでいて、最近上京して来た。その地方にこの度鉄道路線(もちろん赤字の)がつくられることになったそうで、私が如上の意見を控え目に開陳すると、

「そんなことを言ったって、あんた、お祖父さん、お父さんの代から、汽車が通らんかのう、汽車が通らんかのうと、待ち望んでいたんですのに」

 と、事もなげに一蹴された。これはもう考え方とか理屈ではなく、皮膚感覚であり、むしろ信仰みたいなものだろう。

 鉄道が文明開化のシンボルであるとは、すでに明治の感覚であるが、その感覚が父祖代々受けつがれ、今の住民の皮膚や内部に蓄積されている。誰もこれをわらうことは出来ない。ただそんな田舎の人(赤字線のほとんどが田舎だ)の盲点みたいな感覚を利用して、国民の税金を濫費(らんぴ)することが、悪質な犯罪だというのである。

 こんなやり方に対して、国鉄も少なからず迷惑しているらしく、

「審議会が決めたんだから、国鉄自体で中止するわけには行かない。同じ金を使うなら、国鉄としては、もっと有効に使いたいのだが――」

 と言っている。赤字路線の新設はもうやめましょう、という正論を無視したことで、審議会のメンバーはその資格をうしなったんじゃないか。解散して出直すべきだと私は考える。

 鉄道というのは世界的にもう斜陽的な事業の由だが、日本の鉄道利用の大部分は主要線に集中している。

 日本の人口は九千余万人。東京、大阪、名古屋市の合計が約二千万人。それに横浜、京都、神戸、その周辺都市を入れると、日本人口の半分が東海道線にへばりついていることになる。これらの都市は産業が活発だから、人の往来も多いし、荷物の輸送も大量で、実質的には七割、八割が東海道線に集まっているとみなしていい。だから東海道(その他主要線)の混み方ははげしくて、ウィークデイに東京駅から一等車に乗ったら、大阪まで立ちずくめというのが、ふしぎでない状態になっている。

 それなのに山間僻地(へきち)に大金を使って鉄道を敷き、がらがら列車を走らせようなんて、どんな了見なのだろう。目先の利にくらんだとばかりは、言えないような気もして来る。思うに連中には、判断力も想像力もないのだろう。それならもうにわとりと同じである。

 審議会のことばかりを難じたが、国鉄だってどうかと思う。どうも国鉄にはずるいところがある。(国鉄のみと限らないが。)他力本願で値上げをしながら、それに見合うサービスを怠っている。

「もっと有効に金を使いたいのだが……」

 という内容を、簡潔に具体的に国民に示そうということをしない。どこか口の奥でもぞもぞ口ごもっているような具合で、そのくせ威張る時は、日本鉄道の正確さは世界一であるとか、狭軌では最高速度を出したとか、大いに誇らかに語るのである。

 個人にもそんなのがよくいる。自分の都合の悪い時は知らんふりして、威張る時には大いに威張る。個人のつき合いでは、そんなのは大体つまはじきにされ、仲間外れにされてしまうのだが。

 話はすこし違うかも知れないが、役人の朝の出勤時が遅いということが国会の問題になり、総理府が抜き打ち(?)に調べたところ、でたらめだということが判明した。

 八時半出勤ということで、八十パーセント前後が出ていたそうだが、役所の時間には「出勤簿調整時問」というのがあって、始業から一定時間内に姿をあらわせば遅刻にならないのだそうである。その調整時間が四十分だとのことで、つまり九時十分までに行けば遅刻の取り扱いをうけない。

 調整時間とはまったく身勝手な、都合のいいことを考え出したものだ。四十分の許容があれば、人情として誰だって利用するにきまっている。

 朝遅くてもその分だけ夜働いているから同じだ、と彼等は弁解しているが、それは絶対に同じではない。同じである道理がない。それは悪いところを見つけられてふてくされた小学生の論理である。

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第五十七回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年五月二十一日号掲載分。

「忖度(そんたく)」老婆心乍ら、「忖」も「度」も「はかる」の意で、他人の気持ちを推し測ること。]

2016/07/20

芥川龍之介 手帳3―41~45 / 手帳3~了

《3-41》

○神奈川縣足柄下郡吉濱村  力石平造

[やぶちゃん注:「力石平造」「平三」などとも記されるが、「力石平藏」が正しい。しかも姓は「りきいし」の読みが一般に通行しているようであるが、正確には「ちからいし」と読むのが正しい。彼は神奈川県湯河原町の石材業者の家に生まれた。芥川龍之介の愛読者で、龍之介と実際の初見は(推測)芥川が大正一〇(一九二一)十月に湯河原に南部修太郎と静養に行った折り辺りか(それ以前の可能性もある)。彼は明治三一(一八九八)年生まれで昭和五〇(一九七五)年に亡くなっている(龍之介より六歳年下)。この大正一〇(一九二一)前後に近くの素封家の娘リン(二歳年下)と駆け落ちして上京、龍之介の口利きで金星堂などの出版社に勤務していた(大正十年には長男が生まれているが、平蔵は彼に「龍之介」と名づけている。但し、五歳で夭折した)。彼は芥川の名作「トロッコ」(大正一一(一九二二)年三月『大観』。リンク先は私の古い電子テクスト)や「百合」(大正一一(一九二二)年十月『新潮』)(孰れも平蔵の少年期の思い出に基づくもので主人公良平は平蔵がモデルである。それらは龍之介自身が作品末で語ってはいる)、芥川文学中では異色の農民文学「一塊の土」(大正一三(一九二四)一月『新潮』)(平蔵の祖母と義理の母の話が原型である)の素材を提供した。しかし、これらは孰れも平蔵が書いた原稿に龍之介が大幅に手直しして截ち入れしてしまい、芥川龍之介作として発表したものであった。特に原「トロッコ」は力石の自信作であったが、龍之介の改稿によって平蔵は『永久に俺のものぢゃ無うなった』と龍之介に呟き、悄然としていたとし(滝井孝作「純潔」に載る、芥川龍之介が直接に滝井に語ったとする場面より引用)、その改竄に激しい不満を持っていたことが判る。詳しくは石井茂氏の論文『芥川龍之介の小説「トロッコ」の基礎的研究――素材提供者・力石平蔵をめぐって――』(PDF)を参照されたい。]

 

○靜岡縣志太郡島田町  森

[やぶちゃん注:「志太郡島田町」「志太」は「しだ」と読む。現在の静岡県中部の大井川両岸に位置する島田市。この「森」は森幸枝(生没年未詳)である。彼女については、私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句(明治四十三年~大正十一年迄)」の「星赤し人無き路の麻の丈」の注から引いておく。

   *

 まず中田雅敏氏の「書簡俳句の展開」より引用する。『静岡県島田町出身の女性、日本女子大学国文科に籍をおき小説家として世に出ようとしていた。こうして龍之介の交際がはじまった。写真も送っている。』次に鷺只雄氏の「年表作家読本」から。『身長一六三センチをこえるグラマーで、顔立ちは彫が深く美貌であった(中略)三月十七日に我鬼窟を訪ねて以来玉かんざし、博多人形、菓子などを芥川に贈り、翌年八月頃まで交際があった。』。その後の彼女は、中退して結婚し、破鏡、洋画や長唄を習い、周囲の反対をものともせず、長唄の師匠であった七つ年下の杵屋勝吉次と結婚するも、『生活は苦しく、結核に冒された幸枝は昭和五年四月に二七歳で命の火を烈しく燃やして駆け抜けて行った。幸枝は芥川の他に市川猿之助とも関係があったといわれている』とある。まさに火車の如く芥川の前を過ぎていった女である。蛇足ながら、ネットを検索すると彼女に宛てた菓子の礼をしたためた芥川書簡が五十五万円で取引されている……。ちなみに、この同じ時期には、「秋」の執筆の際の参考にする女性風俗について、妻文が紹介した彼女の幼馴染み平松麻素子との交際も、同時に始まっている。

   *]

 

○中里一八一 宮澤

[やぶちゃん注:前に注した海軍機関学校の同僚で物理担当の「宮澤虎雄」であろう。]

 

○松町二ノ二  大彦

[やぶちゃん注:「大彦」が「だいひこ」なら、芥川龍之介の幼馴染みの野口真造或いはその兄功造の可能性はある。彼等の生家は日本橋で知られた呉服商「大彦」であったからである。]

 

○東區農人橋二ノ二  赤木

[やぶちゃん注:「農人橋」「のうにんばし」は、現在の大阪府大阪市中央区にある東横堀川に架かる農人橋(中央大通平面道路内)及びその橋の東詰周辺の町名。マルクス主義者で歌人の赤木健介か。赤木というと、親しかった中には評論家の赤木桁平(こうへい)がいるのであるが、龍之介は多くの彼への書簡では常に本名の池崎忠孝(忠孝)を用いており、かくメモするとはちょっと思えないのである。]

 

○巣鴨千八十二  岩野

[やぶちゃん注:作家岩野泡鳴か。]

 

○東片町一三四  小穴

[やぶちゃん注:盟友の画家小穴隆一。]

 

〇三組町三十九  折柴

[やぶちゃん注:「折柴」は「せつさい(せっさい)」と読み、作家で俳人の滝井孝作の俳号。]

 

○十字町三丁目七〇六  谷崎

[やぶちゃん注:谷崎潤一郎。]

 

○駒込坂下町四十八  雄

[やぶちゃん注:「雄」というのは不審で不詳。名前の一部であろう。彼がかく書く親友となると、一番に思い出すのは「久米正雄」であるが、彼はここに住んだ事蹟が見当たらない。]

 

○小石川區原町一五  中西

[やぶちゃん注:英文学者中西秀男(明治三四(一九〇一)年~平成八(一九九六)年)であろう。茨城県土浦市生まれで、最初、東京高等工業(現在の東工大)に入学、文芸部に入り、その活動で芥川龍之介と知り合い、学生時代に頻繁に芥川龍之介の家に出入りした。後に移籍して大正一〇(一九二一)年に早稲田大学高等師範部英語科卒業、早稲田中学校専任教諭となり、戦後には早稲田大学教育学部教授から退任して同大名誉教授となった。多くの英文学研究や翻訳がある。終生、芥川龍之介に傾倒した。]

 

○豐島柳三

〇中里二〇九  豐

○千駄木町四十九  ヨシ雄

[やぶちゃん注:どうも気になる。最初の姓「豐島」に最後の「ヨシ雄」を接合すると、芥川龍之介が常に注目していた同世代(龍之介より三つ年上)の作家(仏文学者・児童文学者)豊島与志雄(明治二三(一八九〇)年~昭和三〇(一九五五)年)となるからである。彼はこの頃の大正一二(一九二三)年に法政大学法文学部教授となっている。]

 

《3-42》[やぶちゃん注:編者によって、この見開きは天地逆に書かれているという注がある。]

La Martine

[やぶちゃん注:フランス近代抒情詩の祖とされてヴェルレーヌや象徴派にも大きな影響を与えたロマン派の詩人で、二月革命にも拘わった政治家でもあったアルフォンス・ド・ラマルティーヌ(Alphonse Marie Louis de Prat de Lamartine 一七九〇年~一八六九年)のことか?]

 

Stolen Baties

[やぶちゃん注:「盗まれた赤ん坊たち」の意味だが、当時の作品名や作者には行き当たらない。識者の御教授を乞う。]

 

○市丸

○スミ左

[やぶちゃん注:孰れも源氏名っぽい。]

 

○して義の字を書かれしは

 

《3-43》

The meaning of Poe's importance on

  1) self-conscious technique Baudelaire

  2) his man ―― always enterprising ―― Balzac

  3) inhalt 1) pseudo-scientific stories

       2) psychological stories

    
  3) symbolic stories

 searching spirit, never satisfied by mere natural science

[やぶちゃん注:ポーは芥川龍之介が終生一貫して尊敬した作家であり、手記や講演・手稿などに多くのポー論や敬意を持った深い言及がある。

The meaning of Poe's importance on」エドガー・アラン・ポーの重要性の意味に就いて。

self-conscious technique Baudelaire」(ポーに)自覚的であるところのボードレールの技法。

his man ―― always enterprising ―― Balzac」彼という男――常に進取で冒険的である存在――(それはまた)バルザック(と同じ)、という謂いか?

inhalt」ドイツ語で「内容」の意。

pseudo-scientific stories」疑似科学的物語群。

psychological stories」心理学的物語群。

symbolic stories」象徴的物語群。

searching spirit, never satisfied by mere natural science」精神をテツテ的に精査すること、決して単なる自然科学によって満足することはない。]

  

《3-44》

H. Bordeaux : The Fear of Living

 The Parting of the Ways

[やぶちゃん注:「H. Bordeaux」アンリー・ボルドー(Henry Bordeaux 一八七〇年~一九六三年)はフランスの反自然主義のカトリック作家。初めは法律を学んだが、一八九四年、評論「近代人の魂」(Âmes modernes)で文壇にデビュー、弁護士の父の死により一旦、後継者となるが、一九〇〇年に小説「故郷」(Le Pays natal)を発表、再び作家活動に入った。一九〇二年に「生の恐怖」(La Peur de vivre)でアカデミー賞受賞、他に一九〇六年の「ロックヴィヤール家の人々」(Les Roquevillard)、一九〇一一年の「足跡の上の雪」(La Neige sur les pas)等がある。「The Fear of Living」一九〇二年のLa Peur de vivreの英訳題。「The Parting of the Ways」一九一一年にアメリカで英訳されたもの(原題不詳。上の同年作の「足跡の上の雪」か?)(以上は主にウィキを参考にしたが(日本語はない)、これが私の読解限界である)。]

 

G. Gissing New Grub Street

[やぶちゃん注:イギリスの小説家ジョージ・ギッシング(George Robert Gissing 一八五七年~一九〇三年)の一八九一年のNew Grub Street(邦訳題「三文文士」)。ウィキの「ジョージ・ギッシング」によれば、『イングランド北部のヨークシャー州・ウェイクフィールドに生まれる。少年時代は秀才で古典教養も深かったが、マンチェスターにあるオーエンズ・カレッジ』『在籍時に、街の女(ネル)と関係を持って恋に落ち、彼女を助けるためにカレッジで窃盗を繰り返し、逮捕・放校されて学者としての人生を棒にふった。その後、一年ほどアメリカで逃亡生活をし、『シカゴ・トリビューン』紙などに短編を寄稿していた。帰国後、ロンドンに出て小説家を目指したが、再会したネルとの最初の結婚は、彼女の売春とアルコール依存症などで失敗した。彼女の死後にミュージックホールで知り合った労働者階級の娘との』二回目の『結婚もうまくいかなかった』。『労働者階級の悲惨さを自然主義的に描いた初期作品は売れずに苦労したが、そうした売れない作家の実生活を描いた』ここに出る「三文文士」が『皮肉なことに文壇の注意を引いた。本作と、階級的な疎外で苦しむ知的な若者の心境を語る「流謫の地に生まれて」(Born in Exile 一八九二年)、十九世紀後半に登場した〈新しい女〉との関連で論じられることが多い「余計者の女たち」(The Odd Women 一八九三年)が〈ギッシング三大小説〉と言われる。「三文文士」の『翻訳許可を求めてきた中産階級のフランス人女性』ガブリエル・フルリ(Gabrielle Marie Edith Fleury 一八六八年~一九五四年)と『同棲するようになったが、すぐに健康を害したギッシングはピレネー山脈のふもとで養生したものの』、四十六歳の『年末に心筋炎で死亡した』。『日本では従来は、最晩年の随筆集』「ヘンリー・ライクロフトの私記」(The Private Papers of Henry Ryecroft 一九〇三年)、紀行文「イオニア海のほとり」(By the Ionian Sea 一九〇一年)や評論「チャールズ・ディケンズ論」(Charles Dickens 一八九八年)の『作者として有名だったが、近年は小説作品が再評価されている』とある。]

 

Leblanc  The Confessions of Arsène Lupin

 The Crystral stepper

[やぶちゃん注:「Crystral」はママ。「Leblanc」怪盗アルセーヌ・ルパンの生みの親として知られるフランスの小説家でモーリス・マリー・エミール・ルブラン(Maurice Marie Émile Leblanc 一八六四年~一九四一年)。「The Confessions of Arsène Lupin」はルブランのルパン・シリーズの第二短編集Les Confidences d'Arsène Lupin(「ルパンの告白」:一九一一年~一九一三年)の英訳題。The Crystal stepperはルパン・シリーズの長編物の一篇Le bouchon de cristal(「水晶の栓:」一九一二年)の英訳題。]

 

G. Moore  Memoirs of My Dead Life

[やぶちゃん注:アイルランドの小説家ジョージ・ムーア(George Moore 一八五二年~一九三三年)の一九〇六年刊の作品。「我が死せる自己の備忘録」の意。私の先日の仕儀、『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) ムアアの言葉』を参照されたい。]

 

The Honour of the □ and other Tales

[やぶちゃん注:□は底本のママ。「□の栄光とその他の物語」。不詳。]

 

His Masterpiece

[やぶちゃん注:これはフランスの自然主義の祖、小説家エミール・フランソワ・ゾラ(Émile François Zola 一八四〇年~一九〇二年)の一八八六年作のL'Œuvre(ル・ウヴル:「作品」の意。邦訳では「製作」などとも訳されている。ウィキの「エミール・ゾラ」の簡単な梗概によれば、『画家クロード・ランティエは、理想の女を描こうと苦闘するが、やがて敗れて自殺する。妻のクリスティーヌは心を病む』とある)の英訳題。]

 

Money

Chatto & Windus

[やぶちゃん注:下は一九八七年創業のロンドンの老舗の出版社。かの Random House の子会社である。]

 

《3-45》

Valda

[やぶちゃん注:不詳。幾つかの地名や人名(神名や架空も含め)があるにはあるが、どうも今一、ピンとこない。識者の御教授を乞う。]

 

○室生 里見 小宮 谷崎 佐々木 生田 久米 田中 森田 多田 菊池 南部 中戸川 森田 齋藤 成瀨 小島 邦枝 香取 岡 澤木 岩野

[やぶちゃん注:以下、ピンとくるものは断定的に名前のみ附した。不詳は「?」を附した。

「室生」犀星。

「里見」弴。

「小宮」豊隆。

「谷崎」潤一郎。

「佐々木」茂索。

「生田」長江。

「久米」正雄。

「田中」貢太郎、或いは「田中」純であろう。

「森田」今一人後にも「森田」が出るが、一人は「森田」草平と考えてよい。今一人は?

「多田」?

「菊池」寛。

「南部」修太郎。

「中戸川」吉二(明治二十九(一八九六)年~昭和十七(一九四二)年)は小説家・評論家で芥川龍之介が期待した作家の一人。里見弴に師事し、代表作に「イボタの虫」がある。

「齋藤」茂吉。

「成瀨」正一。

「小島」政二郎。

「邦枝」『三田文学』系の小説家邦枝完二(くにえだかんじ 明治二五(一八九二)年~昭和三一(一九五六)年)か。

「香取」秀真。隣人で彫金師。

「岡」栄一郎。

「澤木」梢(こずゑ(こずえ))。美術史家沢木四方吉(明治一九(一八八六)年~昭和五(一九三〇)年)のペン・ネーム。ヨーロッパ留学後に慶大教授となり、西洋美術史と美学を教え、『三田文学』の編集主幹も務めた。

「岩野」泡鳴。]

 

○巣鴨1082  岩野

[やぶちゃん注:同前。]

 

○小石川茗荷谷町95

○牛込天神町五三  生田

[やぶちゃん注:「生田」長江であろう。]

 

○糀町隼町5

[やぶちゃん注:「糀町隼町」は「かうじまちはやぶさちやう」と読んでおく。ウィキの「隼町」によれば、現在の『隼町(はやぶさちょう)は、東京都千代田区の町名』で『千代田区の西部に位置する。北部は東京FM通りに接し、これを境に麹町』(こうじまち)『に接する。東部は内堀通り・桜田濠に接し境に皇居(千代田)になる。南部は青山通りに接し、これを境に永田町に接する。西部は半蔵門駅通りに接し、これを境に平河町に接する(地名はいずれも千代田区)』。『隼町は国立劇場と最高裁判所があるところとして知られ、両施設が町域内の主体的な存在となっている。他にビルのほか、少数ながら住宅も見られる』とあり、『本来、隼町とは現在の隼町の北隣にあたる麹町一丁目南側の地域をいった』とあるから、この町が二つ重なる異様な旧住所は、これによるか。]

芥川龍之介 手帳3―34~40

《3-34》

歓樂極まつて哀傷を生じ 功名成つて災害來る 歡樂を寫して哀傷を寫さざるものは Romanticism なり 哀傷を寫して歡樂を寫さざるは Naturalismなり 歡樂を写寫して歡樂を忘れしめざるもの夫 Classicism の大道乎

[やぶちゃん注:我鬼子、言い得て妙たり!]

 

The Mystery of Dr. Fu-Manchu.

[やぶちゃん注:イギリス、バーミンガム生まれの作家サックス・ローマー(Sax Rohmer 一八八三年~一九五九年)が『ストーリー・テラー』誌に一九一二年から一九一三年に十回に亙って連載した最初の「怪人フー・マンチュー(傅満洲)博士」シリーズThe Mystery of Dr. Fu Manchuウィキの「サックス・ローマー」によれば、『元ロンドン警視庁のデニス・ネイランド・スミス卿と彼の友人である化学者ペトリー博士が、東洋人による世界征服と帝国建設を目指して暗躍する怪人フー・マンチュー博士と対決するスピード感あふれる物語』とある。ウィキの「フー・マンチュー」によれば、フー・マンチュー博士を主演とした映画は数多く製作されており、『最初に映画化されたのは』一九二三年の『イギリス、ストール社によりハリー・A・ライアンズ(Harry Agar Lyons)主演で「フー・マンチュー博士の謎(The Mystery of Dr. Fu Manchu)」が映画化される。この作品は日本でも「倫敦の秘密」の題名で』大正一三(一九二四)年に『公開された。またライアンズは翌年の「The Further Mysteries of Fu Manchu」にも主演している』とあるから、芥川龍之介は或いは映画も見ているかも知れない。]

 

The Devil Doctor

[やぶちゃん注:同じく「フー・マンチュー」シリーズの第二弾で一九一六年の作。アメリカ版は“The Return of Dr Fu-Manchu”と改題。]

 

The Si-Fon Mysteries

[やぶちゃん注:ウィキの「フー・マンチュー」によれば、「フー・マンチュー」シリーズの初期のフー・マンチューは「シ・ファン(Si-Fan)」という首魁『配下の暗殺者であったが、急速に頭角を現して、秘密結社の長に上り詰めた』とあるので、初期の作を集めた選集かも知れない。]

 

The Yellow Claw

[やぶちゃん注:「黄色い爪」一九一五年作の犯罪物。怪盗アルセーヌ・ルパンの子という設定のガストン・マックス物の一つ。]

 

The Golden Scorpion by Sax Rohmer

[やぶちゃん注:一九一九年作のガストン・マックス物。]

 

Best Psychic stories compiled by J. L. French

[やぶちゃん注:一九二〇年刊のアメリカの作家で編集者であったジョセフ・ルイス・フレンチ(Joseph Lewis French 一八五八~一九三六年)The Best Psychic Stories(「ベスト心霊譚集」)。]

 

《3-35》

○大阪西區靭上通り二丁目  あぶら屋

[やぶちゃん注:「靭上通り」「うつぼかみどおり」と読むか。現在の大阪府大阪市西区靱本町(うつぼほんまち)内と思われる。ウィキの「によれば、『豊臣秀吉がお供を従えて市中巡視をした際、町で魚商人たちが『やすい、やすい』と威勢のよい掛け声で魚を売っていたのを聞き、『やすとは靱(矢を入れる道具。矢巣とも言った)のことじゃな』と洒落たことからその名が付いた。また別説として、永代浜の形が、その矢巣の形に似ていたからというものもあるが、海部堀川が開削されたのは大坂の陣後で、もともと天満の鳴尾町に居た魚商人たちが船場へ移転した際に靱町』(後の本靱町で現在の中央区伏見町一丁目に相当)『がすでに見える』とある。]

 

○細川忠興夫人の自殺 自殺と聞いて悲觀してゐたクリスチアン 他殺と聞いてよろこぶ

[やぶちゃん注:細川忠興正室で明智光秀三女であった細川ガラシャ(明智珠(玉) 永禄六(一五六三)年~慶長五(一六〇〇)年)こと「秀林院」の侍女であった小侍従(こじじゅう 生没年不詳)が記した形をとる擬古文小説「糸女覚え書」の構想メモ。

「細川忠興」(ほそかわ ただおき 永禄六(一五六三)年~正保二(一六四六)年)は豊前小倉藩初代藩主で、足利義昭・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と時の有力者に仕えて肥後細川家の基礎を築いた大名。

「夫人」ウィキの「細川ガラシャ」によれば、天正一〇(一五八二)年六月の本能寺の変の後(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『父の光秀が織田信長を本能寺で討って(本能寺の変)自らも滅んだため、珠は「逆臣の娘」となる。忠興は天正十二年(一五八四年)まで彼女を丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉する。この間の彼女を支えたのは、結婚する時に付けられた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原マリア(公家清原枝賢の娘)らの侍女達だった』。『珠の幽閉先とされる場所であるが、丹後味土野の山中(現京丹後市弥栄町)に天正十年九月以降に幽閉されたことは史実である。しかし一方、「丹波史」には丹波味土野に珠が隠棲していたとの伝承「丹波味土野説」がある。この伝承が事実とすると、本能寺の変直後には、細川忠興は珠をまず明智領の丹波味土野屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後味土野に屋敷を作って珠を幽閉したとも考えられる』。『天正十二年(一五八四年)三月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻し、厳しく監視した。この年に興秋が生まれている。それまでは出家した舅・藤孝とともに禅宗を信仰していた珠だったが、忠興が高山右近から聞いたカトリックの話をすると、その教えに心を魅かれていった。もっとも忠興の前ではそ知らぬ風を装っていた』。『天正十四年(一五八六年)、忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、珠は日頃から心配していた。天正十五年(一五八七年)二月十一日(三月十九日)、夫の忠興が九州へ出陣すると(九州征伐)、彼女は彼岸の時期である事を利用し、侍女数人に囲まれて身を隠しつつ教会に行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、珠は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。珠はその場で洗礼を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からず、彼女の身なりなどから高い身分である事が察せられたので、洗礼は見合わされた。細川邸の人間たちは侍女の帰りが遅いことから珠が外出したことに気づき、教会まで迎えにやってきて、駕籠で珠を連れ帰った。教会は一人の若者にこれを尾行させ、彼女が細川家の奥方であることを知った』。『再び外出できる見込みは全くなかったので、珠は洗礼を受けないまま、侍女たちを通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいた。この期間にマリアをはじめとした侍女たちを教会に行かせて洗礼を受けさせている。しかし九州にいる秀吉がバテレン追放令を出したことを知ると、珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意。ただしラテン語名に関して、ローマ・バチカン式発音により近い片仮名表記は「グラツィア」)という洗礼名を受けた』。『それまで、彼女は気位が高く怒りやすかったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになったという』。『バテレン追放令が発布されていたこともあり、彼女は夫・忠興にも改宗したことを告げなかった』。『九州から帰ってきた忠興は五人の側室を持つと言い出すなど、ガラシャに対して辛く接するようになる。ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けた。キリスト教では離婚は認められないこともあり、宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説き、思いとどまるよう説得した』。慶長五(一六〇〇)年七月、『忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じていた』。『この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出』、『兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。その後、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。『細川家記』の編著者は、彼女が詠んだ辞世として「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」と記している』。『ガラシャの死の数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長六年(一六〇一年)にオルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬した。他にも、京都大徳寺塔中高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがある』。『なお、細川屋敷から逃れた婦人のなかには、ガラシャの子・忠隆の正室で前田利家の娘・千世もいたが、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。しかし、これに激怒した忠興は、忠隆に千世との離縁を命じ、反発した忠隆を勘当・廃嫡した(忠隆子孫はのちに細川一門家臣・長岡内膳家〔別名:細川内膳家〕となり、明治期に細川姓へ復している)。彼女の死後、忠利が興秋を差し置いて家督を相続、不満を抱いた興秋が大坂の陣で豊臣側に与する原因となった』。『ガラシャが死を選んだことによる他家への影響は非常に大きく、西軍に味方するものが減り、東軍に恭順するものを増やした原因となっている』。『一般には上記の通り』、彼女は『キリシタンの戒律及び夫の命を守り、自害することなく、少斎の手にかかって死亡したとされている。しかし太田牛一の『関ヶ原御合戦双紙』蓬左文庫本では、彼女が自ら胸を刺した、とあり、河村文庫本ではさらに、十歳の男児と八歳の女児を刺殺した後に自害した、とある』。「言経卿記」(ときつねきょうき:公家の山科言経による日記)の『慶長五年七月十八日条にも「大坂にて長岡越中守女房衆自害。同息子十二才・同妹六才ら、母切り殺し、刺し殺すなりと云々。」とあり、玉子の子供たちの犠牲について、当時噂になっていたことが伺える。また、侍女らが全員脱出した、との点に関しても』、「慶長見聞集」には『「御内儀竝子息弐人、供の女三人自害」とあり、少斎の他にも殉死者がいたとの噂は広がっていたようである』とある。]

 

○金鼎藥 靈犀角 碧桃枝 山花白 古蕨翠

[やぶちゃん注:「金鼎藥」文字列から当初、漢方処方薬と踏んだが、どうも違う。気になるのは最後の「藥」で、一般的には漢方処方では末尾に「藥」はつかないことである。しかし「金鼎」では中華料理店の店名ばかりが挙がってくる。なお、「金鼎藥局」といった台湾や成都に同名の薬剤製造会社や薬局が検索では一番に掛かってくるが、無関係であろう。そこではたと気がついて、推理方針を変えたこれは実際の漢方生薬調剤名ではなく、仙薬ではないか? それなら「藥」を末尾に持つのは少しも異例ではない。道士が懐から徐ろに出すそれに「金鼎藥」と書かれているのは、如何にもそれらしいではないか!

「靈犀角」「犀角」(さいかく)は動物のサイ(脊椎動物亜門哺乳綱獣亜綱奇蹄目サイ科 Rhinocerotidae に現生種五種)の角で、中国医学における生薬や、それから派生した漢方薬などとして古くから使用されている。角質化した皮膚の一種であり、成分の大半はケラチンである。処方としては粉末を、一日宛二~四グラムを使用すると、麻疹の解熱薬として顕著な効果があるとされるが、科学的な薬効は実はほぼないと断定されている。それでも現在でも角は工芸品や犀角の材料として珍重され、乱獲が進んでおり、五種総てが絶滅の危機に瀕している。「靈」はありがちな霊妙の謂いの接頭辞であろう。サイの角の形状と言い、希少性と言い、仙薬に相応しい

「碧桃枝」「碧樹」は実在する木ではなく、青い宝玉で出来ているという伝説上の仙木であり、その種を示すような「桃」も、その辺にあるただの桃(もも)じゃあなくて、「西遊記」で孫悟空が過剰に食って千年も寿命が延びてしまった上にとんでもない霊力を身につけてしまうところの、謂わば「仙桃」を実らせるところの「宝碧樹」の「枝」、これだけのパワーを持った霊木である以上、その「枝」はただの枝ではない。当然の如く、仙薬である。

「山花白」この文字列から直ちに想起するのは私の好きなモクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン亜科モクレン属ハクモクレン(白木蓮)Magnolia heptapeta の花だ。あの花、如何にも女仙の霓裳羽衣(げいしょううい: 虹のように美しい裳(も:腰から下に纏う衣服)と羽衣(はごろも)で天人や仙女などの着る衣)で、仙薬っぽいではないか。

「古蕨翠」まずは「こくゑつすゐ(コケツスイ)」と音読みしておく。「古」は熟成された仙薬の接頭辞としてはずし、「蕨翠」を調べる。するとひっくり返した「翠蕨」(スイケツ)が中文の植物百科サイトのここで引っ掛かる。「翠蕨」はHemionitidaceae(これは和名でイヌアミシダ科のことであるが、同科をイワガネゼンマイ属Coniogramme とする別分類説もある)の Anogramma microphylla (Hook.) Diels とする。即ち、これはシダ植物の一種で、まず一つ分類説を示そうなら、

シダ植物門シダ綱ウラボシ目イヌアミシダ科(或いはイノモトソウ科Pteridaceae)アノグランマ属アノグラマ・ミクロフィラ(翠蕨(スイケツ))Anogramma microphylla

を名指すと言える。参照したそのページに載る草体画像を見よ! いや! 団扇のような擬葉は如何にも仙薬っぽいぞ! なお調べると、「翠云(「雲」の簡体字)蕨」というのも見出せる。而してこれは、

ヒカゲノカズラ植物門ミズニラ綱イワヒバ目イワヒバ科イワヒバ属コンテリクラマゴケ Selaginella uncinata

である(ヒカゲノカズラ植物門は広義のシダ植物群に含まれる)。ウィキの「コンテリクラマゴケ」によれば、『この類では比較的大柄で、それに青みを帯びた葉が美しいので栽培される。中国原産だが、日本では野生化している地域もある』とあって、本邦にも自生していることが判る。『和名は葉の表面が紺色で光沢があることから。漢名は翠雲草と言い、これも同じ理由である』とある。『中国南部から西南部に分布する。日本には観賞用に持ち込まれ、あちこちで野生化している』が、実際には『この種は中国からまずヨーロッパに入った。日本へ入ったのが明治初年頃』(一八七〇年前後)『のことで、ヨーロッパかあるいはアメリカからとされる』。『その美しさから観賞用に栽培される。よく繁茂し、温室などでは勝手に床一面に広がることも多い』。『また、薬草として解毒、利尿などの効果があるとされる』とある。こちらは名実ともに漢方薬である。シダを美味そうに食う仙人というのは如何にも絵になる。これも仙薬に相応しい!

 

○利休の話 human 新體

[やぶちゃん注:千利休は個人的には生臭く胡散臭くて大嫌いだが、彼の数奇な生活史については精神分析的興味は強い。読んでみたかった一つではある。]

 

○宗由――小幅

[やぶちゃん注:不詳。識者の御教授を乞う。芥川龍之介の同時代の香道家で蜂谷宗由(はちやそうゆう 明治三五(一九〇二)年~昭和六三(一九八八)年)なる人物がいるが、龍之介より十歳も若く、家元継承は龍之介の死後の昭和六(一九三一)年であるから違うだろう。]

 

女男を愛す

○畫家田舎ずみの話

Inakazumzumitizu

[やぶちゃん注:図のキャプション。右上「大槻」、上中央「円山」、下道角「■座」、左下「京阪電車」。「■」は「本」か「事」か「車」か? 識者の御教授を乞う。]

 

《3-36》

○山形県五色温泉 宗川旅館

[やぶちゃん注:「五色温泉」(ごしきおんせん)は現在の山形県米沢市にある、約百二十年の歴史をもつ宗川旅館一軒宿の温泉である。同旅館の公式サイトの五色温泉の歴史によれば、大正一三(一九二四)年に『日本最初のスキーロッジとして皇族のための六華倶楽部が建設されました。宗川旅館が建築された後、六華倶楽部が管理運営をしてき』た、とあることから、新全集編者のこの手帳の推定記載の下限大正十二年はもう一年ずれるのではないかと思われる。大正一四(一九二五)年には、ここで日本共産党第三回大会が非公式秘密裡に開催されているが、『当時、弾圧されていた日本共産党が組織再建のため、大会を開催し』たが、『参加者は身分を隠すためばらばらに来館したため、当時の主人も』一年後に『警察からの事情を聴』かれる『まで全く分か』らなったとある。龍之介没後ながら、昭和四(一九二九)年には『竹下夢二が女性同伴で訪れ』、『スケッチブック2冊を残して行』ったとある。龍之介がここに行った形跡はない。]

 

○板谷(奥羽線 福島乘換)

[やぶちゃん注:山形県米沢市大字板谷(いたや)であるが、これは以下の記載から駅名と考えてよく、現在の板谷駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)奥羽本線の駅として無人乍ら現存する。「山形線」の愛称区間にあり、相対式ホーム二面二線を有する地上駅。かつてスイッチ・バック駅であった頃に、ポイントを豪雪から守るために設置されたシェルターの中に現在の駅のホームは置かれている(但し、スイッチ・バックは一九九〇年九月に廃止され、ホーム位置も移動している。以上はウィキの「板谷駅に拠った)。ここも芥川龍之介が行った形跡はない。彼は結構、鉄ちゃんだったかも知れない。]

 

○あひびき

○平塚とJ

○菅藤君の love

[やぶちゃん注:「菅藤」不詳。読みも「すがふじ・すかふじ・すがとう・すげとう・すげふじ・かんとう・かんどう」などがあるが、全国の姓の中ではかなり珍しい部類の姓ではある。]

 

《3-37》

○半藏の城門見れば思ふかな幕府時代のさまや如何にと

[やぶちゃん注:「半藏の城門」江戸城(現・皇居)の半蔵門。城の西端に位置し、真っ直ぐに甲州街道(現・国道二十号)に通ずる。大手門とは正反対の位置にあり、住所は東京都千代田区麹町一丁目。ウィキの「半蔵門によれば、『この門内は、江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居とされた。現在は吹上御苑と呼ばれ、御所(今上天皇の住居)、吹上大宮御所(かつての香淳皇后の住居)、宮中三殿、生物学御研究所、天皇が田植えをする水田などがある。天皇及び内廷皇族の皇居への出入りには、主にこの門が用いられている。他の皇族は乾門を使用することが多い。一般人の通行は認められていない。太平洋戦争で旧来の門は焼失し、現在の門は和田倉門の高麗門を移築したものである』。『半蔵門の名称については、この門の警固を担当した徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するとする説と、山王祭の山車の作り物として作られた象があまりにも大きかったために半分しか入らなかったことに由来するとする説がある』。『定説は前者であり、服部家の部下』(与力三十騎・伊賀同心二百名)が『この門外に組屋敷を構え、四谷へと通じる甲州街道』(現在の国道二十号及び通称「麹町大通り」と「新宿通り」)『沿い一帯が旗本屋敷で固められていたことに由来するという』。『半蔵門は江戸城の搦手門にあたる』とある。]

 

《3-38》

○藤森氏

[やぶちゃん注:これは高い確率で小説家・劇作家の藤森成吉(せいきち 明治二五(一八九二)年~昭和五二(一九七七)年)のことであろう。長野県上諏訪生れで東京帝大独法科卒(芥川龍之介(彼は英文科)と同期で年齢も同じ。彼の文壇志向は多分に龍之介らのデビューに刺激されたものである)。大正三(一九二八)年発表の処女長編「波」(後に「若き日の悩み」と改題)で認められ、後に社会主義に傾倒、昭和三(一九二八)年には全日本無産者芸術連盟(ナップ:同連盟のエスペラント語表記“Nippona Proleta Artista Federacio”の頭文字を発音し易く「NAPF」と組み替えたもの)初代委員長。戦後は共産党に入党。作品に戯曲「磔(はりつけ)茂左衛門」「何が彼女をさうさせたか」・歴史小説「渡辺崋山」などがある。]

○窓べに煤煙の火の子見えそむる日暮

○日暮るゝ大根畠ひろし土を掘る一人

 

《3-39》

○新菊 森松 米菊

[やぶちゃん注:芸妓の源氏名っぽい。]

 

海原に光はうすしむらむらと鋸山はなか空に見ゆ

海原は今は音なしいちにんの女の顏は黃に照らひ居り

もろむきに笑む黃顏のありどころ海は煙りて居たりけるかも

峯々は ゆうべ奇(クス)しき 夕波の涯(ハテ)に生き物すむと誰かしらめや

蒸暑き曇り久しき水平にのぼりもあへず月古りんとす

蒸暑き曇よどめる 海の涯(はて)はまどけき月の上り久しも

[やぶちゃん注:私は二〇一〇年にやぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注を公開しているが、手帳類はその採録対象としていない(俳句はしている)ので、これは総て削除乍ら、かなり纏まった短歌草稿の初電子化ということになる。さっと見ても、その後の短歌類に類型相似歌は、ない。]

 

《3-40》

○漬物にまぢる竹の枯葉なり含みたり

○年のくれこの夜うどんをたべ勞れがでる

○我が厭や厭やお飾をこしらへてをる也

○お飾をしとる俺をいふ妻のこゑ

[やぶちゃん注:孰れも、音数律の意識的変調や表現語句の口語性などが認められ、当時、流行った新傾向俳句傾向を持った句(若干の自由律の影響も見受けられる)と断定してよい。]

 

○相馬原の町元町一丁目  小泉屋

[やぶちゃん注:かの東北大震災と津波及び深刻な原発事故で甚大な被害を受けた現在の南相馬市原町区本町は旧原町市本町(もとまち)であり、現在も原町区旭町にあるJR東日本常磐線の駅である原ノ町駅(はらのまちえき)は「ノ」が入る。ここも芥川龍之介が訪れた形跡はない。]

うまくてタダの井戸水   梅崎春生

 

 夏にそなえて、わが家もとうとう井戸を掘ることにした。

 わが家はとくに高台にあるわけでもないのに、夏になると上水道の出が悪くなる。いや、悪くなるという程度ではなく、全然出ないと言った方が正しい。五六月頃からちょろちょろ出となり、七月に入れば日中はぱったり、夜中に辛うじて雀の涙ほどの出を見せる。

 その度ごとに役人は弁解して、どこそこの浄水場を拡張するとか、配水管を増設するから、来年度は不便をかけないと約束するのだけれども、冬を越して、さて来年の夏がやって来ると、また前年の繰返しでさっぱり出ないのである。

 役人の方にどんな事情があるのか知らないが、こちらとしては四度まるまるだまされた。仏の顔も三度というが、もうこれ以上だまされるのは厭だとの気持から、ついに井戸掘りに踏み切った。井戸屋さんに電話をかけたが、忙しいとのことで、なかなか来て呉れない。あちこちから井戸掘りの需要があるらしい。

 申し込んでずいぶん経って、三人ばかりやって来た。本式に掘るのかと思ったら、今日は吉日だから鍬先(くわさき)を入れるだけだとのことで、どのくらい掘ったら水が出るかと質問したら、

「場所によるから、掘って見なくちゃ判らないけれど、まあ大したことはあるまい」

 とのことだった。こちらは費用を心配したのである。

 東生田に引越した庄野潤三君は、七十五尺掘って初めて水を得たというし、逗子に住む堀田善衛邸の井戸の深さは百二十尺あるという。

 百二十尺というと三十数メートルで、丸ビルの高さぐらいある。この間水の出が悪くなったので井戸掃除を頼んだら、井戸屋さんがやって来て、蠟燭(ろうそく)を紐につるして入れたりして、いろいろ実験した結果、

「これはとてもあっしの手に負えません」

 と帰って行ったそうだ。

 そんな深い井戸を掘るのには、さぞかし費用がかかっただろうと、他人事ながら心がかりである。

 それから四五日経って、今度は六人連れでやって来た。午前中に三メートルほど掘ったら、もう泥水が出た。七十五尺だの百二十尺でおどかされていた関係で、がっくりと気抜けがして、またうれしくもなって、

「何だ。もう出たのか」

 とひとりごとを言ったら、ここらは大体こんなものですよ、とほりやさんが答えた。

 しかし泥水が出たからと言って、まだ井戸の体裁をなさない。午後からはその水をかい出しながら、どんどん掘り進める作業にとりかかる。井戸掘りの仕事は、噴出する水との戦いである。

 のぞいて見ると、粘土質か赤土質かは知らないが、井戸の壁からきれいな水が、しゅっしゅっとほとばしり出ている。

 中にいるほりやがそれを桶にみたす。井戸の入口に立っているげんばが合図をすると、三人のつなこが綱を引いてかけ出す。桶が入口に達すると、げんばが水を道路にぶちまける。道は泥だらけ水だらけになるから、それを整理する人が必要だ、それを泥かきというのである。

 私の見たところではほりやが大将で、泥まみれになって、一番忙しい。次に重要なのはげんば(現場の意か?)で、引っぱりのタイミングを狂わせないように緊張している。

 つなこと泥かきは大したことはない。つなこはかけ出せばいいのだし、泥かきはスコップを振っていればよい。見習いにも出来る仕事で、私も及ばずながら物置からスコップを取り出して、泥かきの加勢をした。仕事は五時頃終った。

 翌日もやって来て、電気モーターその他の取付けを終り、夕方には栓(せん)をひねると清冽(せいれつ)な井戸水が勢いよくほとばしり出る。

 隣に並んだ水道の方は、栓をひねってもしょぼしょぼで、井戸栓の方を青年だとすると、水道の方ほまるで前立腺肥大にかかった老人みたいだ。

 それに水の味が違う。お茶にたててみるとすぐに判る。断乎として井戸の方が上味である。しかも水道と違ってただと来ているのだから、こたえられないようなものである。

 などといろいろ水道の悪口を書いたが、今まで散々出なかった腹いせの意味もあるのであって、素直に出て呉れれば私は悪口を言わないし、井戸を掘りもしない。態度が悪いからこそ、叱りもするのである。

 東京都広報室で発行している「東京広報」四月号を読むと、「練馬、板橋、世田谷などの給水不良地区」云々というにくたらしい文句が出ている。不良なのは四年前から判っている。

 同じ税金を取り立てながら、どうしてここらだけ辛抱せねばならぬのか。

 大体東京には人間が多過ぎるのじゃないだろうか。江戸時代にだんだん人口がふえて、神田上水だけではまかない切れなくなり、玉川上水をつくったのが四代将軍家綱の頃だというが、今では人口のスケールが違う。

 だからあちこちの河の水を、引っぱって来ちゃ飲み引っぱって来ちゃ飲みしても、まだ足りない。多摩川、荒川の水はほとんどフルに飲んでいるし、遠く相模川の水にまで手を伸ばし、それでも足りなくて川崎市から水を買っている。

 まだまだ足りなくて大利根の河水に眼をつけているというのだから、無茶と言おうか、スケールが大きいと言おうか、ここらでいい加減に手を打たないと、飛んでもないことになりそうな気がする。

 規模が大きくなるにつれて、水道の水はますます不味くなる、という因果関係が成立するらしい。

 河べりに工場がどんどん建つ。するとその廃液や下水などが、容赦なく河に流れ入って、水が汚染する。それを浄水場できれいにするために、今までより余計に消毒薬を使う。消毒薬を使えば使うほど、水の味は落ちるのだ。

 今の多摩川がそうだそうである。冬の渇水期に調べてみたところ、大腸菌ならびに一般細菌がうようよで、江戸川系にくらべて数倍もあった。

 だから玉川浄水場ではあわてて、今まで水一トンに一・四グラムの塩素を入れて消毒していたところを、七倍の十グラムにふやした。

 塩素を広辞苑でしらべてみると、さまざまの記述がある。「黄緑色で悪臭がある」と書いてある。また「酸化力強く、植物性の色素を褪色する作用があるから、酸化剤・漂白剤の原料、また殺菌剤・毒ガスなどとして用いる」

 いいですか。毒ガスですよ。いくら微量とはいえ、毒ガスは毒ガスだ。しかもその毒ガスの量を一挙に七倍にふやした。

 塩素をそんなにふやしたので、水が酸性になって、給水管の赤さびをとかす。方々で赤い水が出るようになったし、それでお茶をたてても、いっこうにうまくない。といって、そうしなければ大腸菌がうようよというわけで、大東京の水道はじたばたすればするほど不味くなるし、毒性がふえて来るのである。一体当局はこの状態に、どんな対策を持っているのか?

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第五十六回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年五月十四日号掲載分。底本の傍点「ヽ」は太字に代えた。

「東生田」現在の神奈川県川崎市多摩区東生田であろう。

「庄野潤三」(大正一〇(一九二一)年~平成二一(二〇〇九)年)は大阪生まれの小説家で、所謂、「第三の新人」(昭和二八(一九五三)年から昭和三〇(一九五五)年頃にかけて文壇に登場した新人小説家を、第一次戦後派作家(梅崎春生はここに含まれ、他に野間宏・武田泰淳・埴谷雄高・椎名麟三・福永武彦など)・第二次戦後派作家(次の堀田善衛の他、大岡昇平・三島由紀夫・安部公房・島尾敏雄など)に続く世代として評論家山本健吉が命名した。安岡章太郎・吉行淳之介・遠藤周作などが含まれる)の一人。昭和三〇(一九五五)年に「プールサイド小景」で芥川賞を受賞(私はこの一作以外に読んだことがない)。春生より六歳年下。

「七十五尺」二十二メートル七十三センチ弱。

「堀田善衛」(大正七(一九一八)年~平成一〇(一九九八)年)。春生より三つ年下。富山県高岡市伏木生まれ。生家は伏木港の廻船問屋。僕の出た中学校はここの伏木中学校であるが、恐らく日本中でただ一校、校歌のない中学校である。校歌の代わりに「伏木中学校の歌」というのがある。その作詞者は彼である。私のブログ記事を参照されたい。曲も聴ける(伏木中学校公式サイト内リンク)。

「百二十尺」三十六メートル三十六センチ強。]

2016/07/19

芥川龍之介 手帳3―32・33

《3-32》

108 類從 淸獬眼抄

[やぶちゃん注:「淸獬眼抄」は「せいかいがんしやう(しょう)」で鎌倉前期の京都の検非違使の日誌で火事による焼亡記録などをも載せる。「108 類從」はそれが「群書類従」の「公事部」の「百八」に載ることを意味している。王朝物のメモらしい。]

 

○十五日間 4日――廿日

 

Four horsemen in Apocrypha

[やぶちゃん注:Four Horsemen of the Apocalypse で『「(ヨハネの)黙示録」の四騎士』のこと。ウィキの「ヨハネの黙示録の四騎士」から引いておく。「新約聖書」よくもまあ載せてしまった(しかし、あれがあるから「新約聖書」は確かな幻想文学である。私は「旧約聖書」の「ヨブ記」と、「新約聖書」の「マタイによる福音書」に次いで好んで読む聖書である)イッちゃってる「ヨハネの黙示録」第六章の第二節から第八節までに記されている四人の騎士で、『小羊(キリスト)が解く七つの封印の内、始めの四つの封印が解かれた時に現れるという。四騎士はそれぞれが、地上の四分の一の支配、そして剣と飢饉と死・獣により、地上の人間を殺す権威を与えられているとされる』。『日本語では「騎士」といわれるが、「馬に乗る者」(英語では「Horseman」)の意訳であり、原典には身分階級としての「騎士」に相当する単語は無い』。「第一の騎者」は第一の封印が解かれた時に現れ(以下、同じなのでここは省略する)で、『白い馬に乗っており、手には弓を、また頭に冠を被っている。勝利の上の勝利(支配)を得る役目を担っているとされる』。「第二の騎者」は『赤い馬に乗っており、手に大きな剣を握っている。地上の人間に戦争を起こさせる役目を担っているとされる』。「第三の騎者」は『黒い馬に乗っており、手には食料を制限するための天秤を持っている。地上に飢饉をもたらす役目を担っているとされる』。「第四の騎者」は『青白い馬(蒼ざめた馬)に乗った「死」で、側に黄泉(ハデス)を連れている。疫病や野獣をもちいて、地上の人間を死に至らしめる役目を担っているとされる』。多くのキリスト教徒は四人の騎者を『未来の苦難の予言と解釈している。 黙示録が既に実現したという解釈では』、一世紀の『ローマ帝国とパルティア王国の闘争の歴史という解釈』があり、他に赤い騎者を共産主義、黒い騎者をアフリカなどと勝手に置き換える噴飯物のトンデモ解釈もある。それはリンク先をどうぞ。]

 

○大阪市南區難波新地五番四二  治(Fujita

[やぶちゃん注:どうも「治」は、お「はる」で芸妓っぽくないか? おまけに昔の大阪の花街として知られた「難波新地」(なんばしんち)じゃねえか?! 但し、明治四五(一九一二)年一月の大火によって難波新地(現在の中央区難波)は潰滅的被害を受け、飛田遊郭(現在の大阪市西成区山王附近)に移っていた。]

 

○奈良県生駒新道  濱繁席

[やぶちゃん注:「濱繁席」名称から推して、ちょっぴり怪しげな芸妓の置屋と踏んだ。それに「生駒」には何か妙な記憶がある。調べて見ると、やっぱりそうだ! 宇野浩二の「芥川龍之介」の初め(私のブログ分割版)に限りなくここと思しい場所が出て来るがね! さら「浜繁席」で検索したら、今井照容氏のブログ「文徒アーカイブス」の「初公開!『宝山寺―悪所「原風景」の探訪』ノーカット版」に以下のように載っているのも発見出来た!(下線やぶちゃん)

   《引用開始》

宝山寺新地[やぶちゃん注:奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山の生駒山宝山寺の近く。]の旅館群が一般的な日本旅館と違うのは玄関に「十八歳未満の方のご利用は固くお断りします」といった類の文字が書かれた札が目立たないように掲げられていることだろう。宝山寺のお膝元というか、足元にこうした日本旅館が立ち並び、この一帯が宝山寺新地と現在では呼ばれているのである。宝山寺新地の歴史は生駒新地と呼ばれていた時代にまでさかのぼる。それは大正三年のこと。西暦でいうと一九一四年。第一次世界大戦の始まった年である。大軌鉄道と当時は呼ばれていた現在の近畿日本鉄道が大阪・奈良間に開通し、生駒停留所が設けられたことに端を発する。停留所から宝山寺まで約一・四キロの参道が新たに開設し、ここに料理屋や旅館が軒を並べることになり、芸妓も出入りするようになったのである。置屋が誕生したのは大正四年末のこと。大正七年には日本初のケーブルカーが開通する。『生駒市史』の記述に従いながら生駒新地の歴史を追ってみることにしようか。

最初に誕生した置屋の名前は巴席という。この巴席は芸妓に赤穂浪士にちなんだ、例えば「不破」というような芸名をつけていたという。第一次大戦後の好景気に支えられ、大正七年頃には浜繁席という二軒目の置屋も誕生し、やがて都席、千歳席、浪花席など増加を重ね、大正十年の町制施行の頃になると置屋が十五軒、芸妓が約百三十名という規模に膨らんでいった。検番は既に大正八年頃に発足していたというが、この検番は大阪に拠点を置く大坂党と呼ばれていた面々によって創設された。しかし、生駒出身の生駒党と呼ばれる料理屋側と対立するようになり、生駒党も検番を発足させるなど揉め事が続いた。大正十年になって、置屋側と料理屋側が共同で検番を株式会社として発足させる。芸妓数は昭和五年になると一六二人を数えた。昭和十八年になると戦争のため置屋、検番は解散。料理屋は旅館として営業を続けた。昭和十七年の芸妓数は一四六人。戦後は昭和二十三年に「芸妓あっせん所」が開設され、翌年には芸妓置屋組合が発足した。しかし、昭和四十年代後半からキャバレーやアルサロに押され気味となり、芸妓が華々しく闊歩する花街としての生駒新地は次第に廃れ始め、現在では所謂「裏風俗」として命脈を何とか保っているのである。もっとも、昭和六年の段階で生駒芸者は三味線一つ持てないし、三味線一つ弾けないと新聞に批判されたこともあったというから、現在のような形になることがさほど不自然なことではないのである。現在も検番・置屋制度は健在なのである。旅館は検番を介し、置屋から女性を呼ぶのである。ただし、置屋は今やたったの三軒しか残っておらず、地元の消息筋によれば、そのうち一軒は開店休業中であり、実際に稼動しているのは二軒ということである。二軒で抱えている「女神」の数は三十名程度だそうだ。

   《引用終了》

芥川龍之介は芸妓遊びは勿論、かなり危険な売春婦を買うことも好んだ。宇野浩二「芥川龍之介」(こちらはサイト版上巻全)にかなり際どい描写が出る。今度は自分でお探しあれ。]

 

○辯解二つ

怪物――種類の進歩

     
 setting oscillatory

○書き方<         >psychical research John silence

     
 spotty 或月夜の路

[やぶちゃん注:「oscillatory」何か奇怪な振動のような設定するというのか? 「spotty」月光が道にさすが、それが点々と不気味にまだらになっているというのか? 或いは「むらのある書き方」の謂いか? 「psychical research John silence」「psychical research」は「心霊現象研究家」であるが、これは私の偏愛するイギリスのホラー作家アルジャーノン・ブラックウッド(Algernon Henry Blackwood 一八六九年~一九五一年)の、デビュー二年目に書き溜めた心霊現象学者ジョン・サイレンス物を纏めた一九〇八年作のJohn Silence, Physician Extraordinary(「心霊現象特命研究家ジョン・サイレンス」。私の所持する紀田順一郎・桂千穂氏共訳の平成六(一九九四)年角川書店刊では「妖怪博士ジョン・サイレンス」と訳されている)のことと考えてよかろう。もう二十二年前に読んだので記憶が薄れている。近いうちに再読して、ここに確実な注追加をしたいと思っている。]

 

○種類 elementals First Dimension never thing

[やぶちゃん注:「First Dimension」(第)一次元。

 

○戰爭物二つ

 

《3-33》

○猿が帽をとる話を発端にす

○強者女を愛す 女弱者を愛す 強者その女よりより美人にあひ それをめとらんとす 女の周囲女の意を強ひ強者にとつがしむ 強者知らずめとる 後 然る事を発見し弱者に誇りしを思ひ悄然とす 且女と絶つ

女一度嫁ぎし名譽を如何にするかと問ふ 荅へず 同棲す(この case は女の social standing を重ずるやう書く)(強者の親戚に対する女の愛も可)

[やぶちゃん注:「social standing」社会的地位。]

 

○阿部仲麻呂の文明讃美

[やぶちゃん注:「阿部」はママ。言わずと知れた奈良時代の遣唐使で科挙に登第、唐朝に於いて諸官を歴任して高官に登ったものの、帰国を果たせず客死した阿倍仲麻呂(文武天皇二(六九八)年~宝亀元(七七〇)年)のことだが、はて、その「文明讃美」とは?。]

 

A女を愛したる甲 B女と結婚出來す 乙A女にホレル A女乙を愛する如くにしてB女より甲を離さんとす 甲 B女を去りA女と出來んとす その時A女いつしか乙を愛しつつありしを發見す(幸福なる悲劇)(花柳小説)

[やぶちゃん注:アフォリズム集「貝殼」(大正一六(一九二七)年一月)の中の以下の構想メモ。

   *

 

       七 幸福な悲劇

 

 彼女は彼を愛してゐた。彼も亦彼女を愛してゐた。が、どちらも彼等の氣もちを相手に打ち明けるのに臆病だつた。

 彼はその後彼女以外の――假に3と呼ぶとすれば、3と云ふ女と馴染み出した。彼女は彼に反感を生じ、彼以外の――假に4と呼ぶとすれば、4と云ふ男に馴染み出した。彼は又急に嫉妬を感じ、彼女を4から奪はうとした。彼女も彼と馴染むことは本望だつたのに違ひなかつた。しかしもうその時には幸福にも――或は不幸にもいつか4に愛を感じてゐた。のみならず更に幸福だつたことには――或はこれも不幸だつたことには彼もいざとなつて見ると、冷かに3と別れることは出來ない心もちに陷つてゐた。

 彼は3と逢ひながら、時々彼女のことを思ひ出してゐる。彼女も亦4と遠出をする度に耳慣れない谷川の音などを聞き、時々彼のことを思ひ出してゐる。……

 

   *

これは誰彼というよりも、芥川龍之介の好んだ、「これ見よがし」調、「意味深長」系、「ダンディ・噓臭(うそくさ)」ポーズと読んでおくのが健康上はよろしい。穿鑿は必ずラビリンスへ陥るからである(それも龍之介の確信犯なのだが)。尤も、龍之介の周囲を衛星のように経巡っていた男女の中には「彼女」や3」や「4が私だ自分だと思い込んだ輩は多いと言えよう。それが龍之介のあざとい罠、というより、龍之介が関わったあらゆる女性に対する異様な互換性を持ったところの懺悔だとも知らずに、である。]

芥川龍之介 手帳3―29~31

《3-29》

Sergée (Seryósha) sensitive

 Ilyá sensuous 14

           {母型也

 女 Tánya  (Tatyána)  1614

           {母似

 Masha (Maria)  10才 weak & sickly intelligent and ugly

 Pietro

[やぶちゃん注:これは、一八八〇年にヤスナヤ・ポリヤナのトルストイを訪れたツルゲーネフを描いた「山鴫」(大正一〇(一九二一)年)の構想メモである。

Sergée (Seryósha)」「セルゲイ(セリョージャ)」ロシア人に一般的な男性名括弧内はその愛称形であるが、これは上記の構想であるから、一見、イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(Ивáн Серге́евич Турге́нев:ラテン文字転写(以下同じ):Ivan Sergeyevich Turgenev 一八一八年~一八八三年)を指しているかのように見えるが、以下との対応と「山鴫」から見て、これは「山鴫」にちょっと顔を出す、レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Лев Николаевич ТолстойLev Nikolayevich Tolstoy  一八二八年~一九一〇年)の音楽家の長男Сергей(一八二六年~一九〇四年)である。

sensitive」感じ易い・傷つき易い・霊感がある等の意もあるが、ここは「神経質な」であろう。

Ilyá」トルストイの三男(「山鴫」では「二男」とする)イワリヤ・トルストイ(Илья́ Льво́вич Толсто́йIlya Lvovich Tolstoy 一八六六 年~一九三三年)のこと。小説家となった。

sensuous」敏感なの意もあるが、「山鴫」にやはりちょっと顔を出すイリヤからは「気持ちのよい」であろう。「14」はまさにこの時のイリヤの年齢である。

Tánya  (Tatyána) 16」(Графиня Татья́на Льво́вна Сухо́тина-Толста́яsTatiana Lvovna Sukhotina-Tolstaya 一八六四年~一九五〇年)はトルストイの第二子で長女。当時十六歳。

Masha (Maria)  10才」(Мария Львовна Толстая 一八七一年~一九〇六年)はトルストイの第五子で次女。数えなら十歳。

weak & sickly intelligent and ugly」「か弱くて病弱 知性的で(あるが)不細工」。決定稿「山鴫」では描かれていない。マーシャは肺炎で三十五の若さで亡くなっている。彼女が綺麗でないかどうかは、これ、個人の好みではある。

Pietro」第六子で四男に夭折したピエトロ(ピーター)(Пётр 一八七二年~一八七三年)がいるが、ご覧の通り、この時は生まれていない。]

 

○村の子Sheep Skin Jacket の匂)

[やぶちゃん注:「山鴫」では冒頭で村の子供らが描かれている。]

 

licorice (子供の咳)10 drops

[やぶちゃん注:「licorice甘草のこと。生薬や甘味料として根(一部の種では根茎を含む)を乾燥させたものを用いるマメ目マメ科マメ亜科カンゾウ Glycyrrhiza の類。漢方薬に広範囲にわたって用いられ、本邦で製造販売されている漢方薬の約七割に用いられている。「日本薬局方」に於いてはウラルカンゾウ(別名「東北甘草」)Glycyrrhiza uralensis 又はスペインカンゾウ(別名「西北甘草」・「リコリス」Glycyrrhiza glabra から採取されるものを「甘草」の基原植物(生薬の原材料である植物を狭義で示す場合の謂い)とされており、グリチルリチン(グリチルリチン酸)を二・五%以上含むものと規定されている。生薬としては喉の痛みや咳を鎮める効果があるとされる(主にウィキの「カンゾウ属」に拠った)。]

 

Tatyana Alexandrovna Yergólski

[やぶちゃん注:Tatyana Alexandrovna Yergolsky(ロシア語では Татьяна Александровна Ергольский か?)で、これは英文サイトなどを見るとイリヤの叔母(父方か母方か不明)と出るので、トルストイの妹(或いは義妹)であるらしい。]

 

《3-30》

Yas 井戸

[やぶちゃん注:不詳。ロシア語で井戸は“колодец”(カロージェッツ)で「Yas」ではない。]

Tolstoi 仕事中さはがせぬ 子供の心を見ぬく

[やぶちゃん注:ここまでは総て「山鴫」のかなり踏み込んだメモである。]

 

《3-31》

Pater noster qui es in cœlis  Ave Maria gratia plenta

[やぶちゃん注:ラテン語で、前半は「主の祈り」(イエス・キリスト自身が弟子たちに教えたと新約聖書に記されている祈禱文)の冒頭「天にまします我らの父よ」であり、後半は「アヴェ・マリア」(聖母マリアの祈り)の冒頭で、「恵みあふるる聖母マリア」の意である。]

 

○裸で死ぬのは嫌だと云ふのに風呂中裸で死ぬ

 戸じまり 夫(外出中)の著物を揃へる

                   }心麻

 平生自殺しても夫に迷惑はかけぬと云ふ}腦溢

[やぶちゃん注:ブラウザでの不具合を考え、底本の字配と異なる処置を施した。「}」は底本では大きな一つの「}」。重度の急性心臓麻痺や、脳溢血でも動脈瘤破裂による大出血であれば「迷惑はかけぬ」速やかな突然死に至る。]

 

○星ですよ 意地深重 眞鍮の金盥

[やぶちゃん注:「地」はママ。]

 

Pelion ―― giants

 Parnassus ―― gods

[やぶちゃん注:「Pelion」ペリオン(ピリオン)山.ギリシア東岸に近いテッサリアにある山でギリシア神話ではケンタウロスの智慧者ケイロン(Chiron)の棲みかとされる。標高千六百メートル。英語には「困難に困難を重ねる」という意味の“pile Pelion on [or upon] Ossa”という表現があるが、これが同神話の巨人アローアダイ(Aloadae)が天に登ろうとしてオッサ(Ossa)山に Pelion 山を積み重ねたという神話に由る成句で、「giants」(アローアダイは一説に双子とするから複数形でもおかしくない)と連関はある。

Parnassus」パルナッソス山は中央ギリシャのコリンティアコス湾の北、デルポイの上に聳える石灰岩で出来た山。古代には。ゼウスと女神レトの子で太陽神ヘリオスとも同一されたアポロや芸術神ミューズを祀った聖山で、ギリシア神話ではニンフやパンが住むとされた。]

芥川龍之介 手帳3―21~28

《3-21》

待(2種)手形を振出し その手形に對し他より爲替手形をとり その振出した手形に對してを他よりとりし手形で割引きをして支拂ひをす 銀行は不景氣の爲割引をやむ(十二月より)(信用ある家は三月下旬)(拒絶さる) 支拂不能 家を担保し 定期貯金を担保にす 不能 振出した手形に現金を二割拂ひ八割は手形にす(四月下旬)

○メリヤス問屋 老婆内閣の解散 品物 株の暴騰 一般に贖ふ 毛糸 棉糸を毛紡 紡績 製品を同業者と約定し手形を振り出す(信用手形の割引休止) 卽品物を安く賣る(株暴落が原因 入超 泡沫會社)賣れず 商行爲不能

[やぶちゃん注:「メリヤス」綿糸又は絹糸などの内、機械を用いてよく伸縮するように編んだもので靴下や肌着などに用いる。「靴下」を意味するスペイン語medias」(メジアス)或いはポルトガル語「meias(メイアシュ)が転訛した語で、本邦への伝来は十六世紀後半から十七世紀後半とされる。難読漢字の一つとしてしばしば「莫大小」と書くが、これはメリヤス持つ伸縮性から「大きくも莫(な)し、小さくも莫し」の意の当て字という。]

 

〇法事をのばす爲叔母怒る

 

《3-22》

2300

老爺 メリヤス屋若林商店が五萬圓の資本で百二十萬の手形をふり出す その取引銀行で自分の振出した手形の期日が來 それを拂ひ得ず 他の割引手形を持ち行くも割引せず 卽銀行不渡りになり整理を發表す 卽松岡が若林よりとりし手形あり その手形既に銀行にて割引しあり 整理發表の日を期日と見なし松岡に銀行より支拂を命ず(代拂ひ) のみならず若林と取引多き店が又整理を發表す その直接間接影響 故に予期せざる金を拂ふ 大商店 50(東)50(大)大小450

[やぶちゃん注:「メリヤス屋若林商店」不詳。]

 

放免

[やぶちゃん注:おや? 「藪の中」(大正一一(一九二二)年一月『新潮』。リンク先は私の古い電子テクスト。私渾身の授業案『「藪の中」殺人事件公判記録』も未読の方は是非、参照されたい。私はそこで、あの「放免」を真犯人とする一仮説(解の一部)として提示している。同末尾に附した「今昔物語集」からの参考資料を読まれた方はあまり多くいるとは思われない)か?!]

 

○船へ品をつむ 郵船會社で證明す 正金銀行で space爲替手形)を切つてくれる 不能 商館より品物を返さる(一日でも遲れれば) セオドル商會も四割しか拂はず のみならず品物を全くとらず

[やぶちゃん注:「正金銀行」「しやうきん(しょうきん)ぎんこう」と読む。横浜正金銀行。明治一三(一八八〇)年国立銀行条例(一八七二年制定)に基づいて設立された貿易金融の専門銀行。当初の資本金は 三百万円(内、政府出資分百万円)で、その目的は正貨によって為替取引を行い、貿易金融に資することにあった。敗戦後、第二次世界大戦中に於いて日本の軍需に必要な外国通貨収集の為の機関と見做されたため、昭和二一(一九四六)年にGHQの指令で解体清算され、外国為替銀行としての役割は新たに設立された東京銀行に引き継がれた。「space」に為替手形の意味を見出せない。「セオドル商會」不詳。]

 

《3-23》

一軒の毛糸屋から品物を買つて利をとつてよそに賣つて 賣先から手形を貰ひ 銀行にて割引きせしも期日になりて買り手拂はず 代拂ひ 二軒買ひ手(二軒の毛糸屋)破産

40萬圓――品物20萬 現在の見つもり10

○主人 女房 子供四人 店員十八人 女中三人 工場(目黑) 四五十人

○手形の濫發と割引停止

○製品が半額

〇毛糸 14.0 13.5(一斤)――6、7

○棉糸 1│3、1│2

[やぶちゃん注:「1│3、1│2」は分数。ここまでの詳細な記載は作品の構想ではなく(その素材としようとしたものではあるかも知れぬ)、事実を綴ったものであると思われる。芥川龍之介のメモ魔の一面が知れる。]

 

○義眼の人――通夜

○父の羽織の襟を直す

 

《3-24》

○畫家 sitter を見ずに sitter vision を見てかく vison と實際と區別がつかなくなる

[やぶちゃん注:「sitter」モデル。「vision」幻像。]

 

○死ねば好い(好意から)と思ふと病人がどんどん惡くなつて死んでしまふ

○古事記のやうな極安全な本を讀んで危險思想にかぶれる話

[やぶちゃん注:「古事記」は出て来ないが、シチュエーションとして酷似する新全集の未定稿断片(?)に「危險思想」(執筆年不祥)がある。以下に全文を恣意的に正字化して示す。

   *

 

   危險思想

 

どうもこの頃(ごろ)の若い者が、兎角社會主義だの、無政府主義だのと云ふ危險思想にかぶれたがるのには、殆手がつけられませんよ。私の悴(せがれ)なぞも、まだ學校を出たばかりなのですが、やれマルクスだとか、やれレニンだとか、飛(と)んでもない西洋のならず者を神樣のやうに思つてゐるのですからね。おや、御宅(おたく)の御子息(ごしそく)もさうですか? それはさぞ御困りでせう。え、何か適當な矯正法はないか? 何(なに)、ない事はありませんよ。私はずつと學校時代から、嚴重(げんじう)に悴の讀物(よみもの)へ監督を加へてゐるんです。何しろ危險思想と云ふやつは、ペストが傷口から侵入するやうに、書物から侵入するんですからね。云はばまあ私の家庭では、私が父親(ちちおや)と兼帶(けんたい)に、センサアも務(つと)めてゐるんです。

 私が最初實施したのは、專問の工業書以外には、一切洋書を讀ませない事です。え、文學書も讀ませないか? 勿論ですよ。西洋の文學書と云ふ中には、隨分怪しからん危險思想を宣傳してゐるのがありますからね。何でもバアナアド・ショウとか云ふ、英吉利の脚本作家なぞは、レニンが褒めてゐると云ふぢやありませんか? して見ればあの先生あたりは、同穴(どうけつ)の狐狸(こり)のたぐひですよ。

 すると悴は仕方なしに、漢籍(かんせき)ばかり讀んでゐました。漢籍にはまさか臣子(しんし)の道(みち)に、違(たが)ふやうな思想はありますまい。漢(かん)の高祖(かうそ)が赤幟(せきし)を樹(た)てたと云つても、赤化(せきくわ)を訣(わけ)ぢやありませんからね。所(ところ)が或時(あるとき)悴の机に、墨子(ぼくし)がのつてゐるのを見ると、――驚きましたよ。私は始めて讀んだんですが、あれは恐るべき社會主義の教科書も同樣ぢやありませんか? それから孟子を開けて見ると、これも君(きみ)君爲(きみた)らずんば臣(しん)臣爲(しんた)らずなぞと云ふ文句が書いてあるんです。私はその時から斷乎として、漢籍も一切禁止しましたよ。

 悴は今度は漢籍の代りに、和書(わしよ)ばかり讀んでゐるやうでした。和魂漢才と云ふ位ですから、和書には國體と矛盾するやうな思想はないのにきまつてゐます。紫式部が參政權運動も起した事もなければ、紀(き)の貫之(つらゆき)が革命歌を作つた事もなささうです

   *]

 

Ghost or ghostly phenomena と思ひし事 然らずして 却つて然らずと思ひし事 Ghostlyになる件

[やぶちゃん注:怪談蒐集癖のあった芥川龍之介好みの話或いは設定と言える。無論、私自身の最も好むリアル怪異譚の典型でもある。]

 

日本人の revengeful なるnurse(支那) 子供を悼む 子供の顏に人面瘡を生ず

[やぶちゃん注:「日本人の」「の」は「への」或いは「対して」の謂いではあるまいか?「revengeful」は復讐心に燃えた・執念深い、の意。]

 

《3-25》

○夕暗中を自轉車行く よく見れば黑洋服の人その傍を歩みつゝあるなり

○夢中一室にあり 何者か戸を叩く

nature dependency 雌雄蕊は蟲を待つ 人も然り 動物も然り

[やぶちゃん注:「dependency」依存。]

 

○素性をかくす女 男怒る 女には素性をかくす事 その事に bliss ありしなり

[やぶちゃん注:「bliss無上の喜び・至福。]

 

○藝者子とめぐり合ふ 子は母に disillusion し、母は子と名乘合ふ爲に旦那を失はん事を恐る

[やぶちゃん注:「disillusion語義は「幻滅を感じさせる」であるが、ここは「幻滅を感じ」の意。これは「貝殼」(大正一六(一九二七)年一月)の以下の章の構想メモである(リンク先は私の古い電子テクスト)。

   *

 

       十四 母と子と

 

 彼は近頃彼の母が藝者だつたことを知るやうになつた。しかも今は彼の母が北京の羊肉胡同(ヤンルウホオトン)に料理屋を出してゐることも知るやうになつた。彼は商賣上の用向きの爲に二三日北京に滯在するのを幸ひ、久しぶりに彼女に會つて見ることにした。

 彼はその料理屋へ尋ねて行き、未だに白粉の厚い彼女と一時間ばかり話をした。が、彼女の空々しいお世辭に幻滅を感ぜずにはゐられなかつた。それは彼女が几帳面な彼に何かケウトイ心もちを感じた爲にも違ひなかつた。しかし又一つには今の檀那に彼女の息子が尋ねて來たことを隱したかつた爲にも違ひなかつた。

 彼女は彼の歸つた後、肩の凝りの癒つたやうに感じた。が、翌日になつて見ると、親子の情などと云ふことを考へ、何か彼に素つ氣なかつたのをすまないやうにも感じ出した。彼がどこに泊まつてゐるかは勿論彼女にはわかつてゐた。彼女は日暮れにならないうちにと思ひ、薄汚い支那の人力車に乘つて彼のゐる旅館へ尋ねて行つた。けれどもそれは不幸にも彼が漢口へ向ふ爲に旅館を出てしまつたところだつた。彼女は妙に寂しさを覺え、やむを得ず又人力車に乘つて砂埃りの中を歸つて行つた。いつか彼女も白髮を拔くのに追はれ出したことなどを考へながら。

 彼はその日も暮れかかつた頃、京漢鐵道の客車の窓に白粉臭い母のことを考へてゐた。すると何か今更のやうに多少の懷しさも感じないではなかつた。が、彼女の金齒の多いのはどうも彼には愉快ではなかつた。

 

   *]

 

○賣笑婦の二重生活 virtuous life を送りつゝ死ぬ

[やぶちゃん注:「virtuous life高潔ぶった人生。]

 

○三月に一月の割

 

《3-26》

○A 玩具のやうな劍を持つB輕蔑す Aその劍にて巨人を斬る

[やぶちゃん注:童話で三幕物の戯曲「三つの寶」(大正一一(一九二二)年二月『良婦之友』)の構想メモ。]

 

Mangeuse d’hommes

[やぶちゃん注:「男好き」或いはもっと強く「男を喰らう」(女)の意。]

 

〇王昭君 724 西京雜記

[やぶちゃん注:「王昭君」紀元前一世紀頃の前漢の元帝の時期の女性。諱は牆(しょう)、字が昭君。後宮に仕えていたが、元帝の命によって匈奴の呼韓邪単于(こかんやぜんう)に嫁した。単于の没後、再嫁したが、漢土を慕いながら生涯を胡地に送った、古代中国の美人の一人に数えられる悲劇の美女。ウィキの「王昭君によれば、『前漢の元帝の時代、匈奴の呼韓邪単于が、漢の女性を閼氏』(あっし)『(匈奴の言葉で君主の妻)にしたいと、元帝に依頼したところ(逆に漢王朝が持ちかけたという説もある)王昭君が選ばれた。以後、王昭君は呼韓邪単于の閼氏として一男を儲けた』が、『その後、呼韓邪単于が死亡したため、当時の匈奴の習慣に倣い、義理の息子に当たる復株累若鞮単于』(ふくしゅるいじゃくていせん)『の妻になって二女を儲けた。漢族は父の妻妾を息子が娶ることを実母との近親相姦に匹敵する不道徳と見なす道徳文化を持つため、このことが王昭君の悲劇とされた』。「後漢書」によると、『呼韓邪単于が亡くなり、匈奴の習慣に習い息子の復株累若鞮単于の妻になった。そのとき、王昭君は、反発したが漢王朝から命令されしぶしぶ妻になったとの記述がある。 こうした悲劇は』ここに出る「西京雑記」(せいけいざっき:晋の葛洪(かっこう))の編になるとされる歴史故事集で全六巻。前漢末の劉歆(りゆうきん)が原著者といわれるが定かではない。西京とは前漢の都長安を指し、この王昭君の故事など前漢に於ける有名人の逸話や宮室・制度・風俗などに関するエピソードを簡潔な文章で記録したもの)『などで書き加えられ、民間にその伝承が広まった』。『後世有名になった似顔絵師への賄賂の話は』、この、「西京雑記」で初めて見られ、『それによると、元帝の宮女たちはそれぞれ自分の似顔絵を美しく描いてもらうため、似顔絵師に賄賂を贈っていたが、王昭君はただ一人賄賂を贈らず、似顔絵師は王昭君の似顔絵をわざと醜く描いたため、王昭君は絶世の美女でありながら元帝の目に全く留まることがなかった。折しも元帝の宮殿を訪れた匈奴の王が宮女の一人を嫁に欲しいと要求した際、元帝は宮女たちの似顔絵を見て、最も醜く描かれていた王昭君を匈奴への嫁として選んだ。そして王昭君が匈奴へ旅立つ際、別れの儀式の場で王昭君の顔を初めて見た元帝は、彼女の美しさに仰天したが、この段階になって王昭君を匈奴へ贈る約束を撤回すれば匈奴との関係が悪化することは明らかだったため撤回はできず、元帝はしぶしぶ王昭君を送り出した。その後の調査で、宮女たちから賄賂を取り立てていた似顔絵師の不正が発覚したため、元帝は似顔絵師を斬首刑に処した。当時の有名な似顔絵師であった毛延寿もこの事件で死刑になったという』。但し、『これには疑問が多い。匈奴は当時の漢にとって最も重要な外交相手であり、その相手に対して敢えて醜い女を渡すといった無礼をするとは考えにくい。これらの話は五胡十六国時代・南北朝時代に鮮卑に支配されていた漢族たちが自分たちの境遇を託したものではないかと考えられる』。「西京雑記」の他、『後宮に入ったものの数年間天子の寵愛を受けることがなかったことを怨み自ら志願した』(「後漢書」南匈奴伝)とか、『子との結婚を拒否して服毒自殺した』(「世説新語」賢媛篇注に引く「琴操」)など、『様々に潤色された王昭君の物語は、王朝と異民族との狭間で犠牲となり、文化・習俗・言語の異なる塞外の地で辛苦した薄幸の美女として好んで題材にされ』、晋代の「王明君辞」、元の馬致遠の雑劇「漢宮秋」などで『作品化された。日本では』、「今昔物語集」の『巻第十第五に「漢前帝后王昭君行胡国語」として取り上げられて』おり、他にも「和漢朗詠集」に『大江朝綱が王昭君をうたった漢詩が見え』、「後拾遺和歌集」には『赤染衛門が王昭君をうたった和歌を載せる』。『王昭君はしばしば馬上に琵琶を抱いた姿で絵に描かれるが』、「漢書」などでは『王昭君が琵琶を弾いたことは見え』西晋の傅玄(ふげん)の「琵琶賦」(「初学記」や「通典(つてん)」が引用)に『烏孫公主のために琵琶を作ったという古老の説が見えており、それが王昭君の話にすりかわったものらしい』とある。「724」の数字は不詳。龍之介が覚書した所持する「西京雑記」の彼女の載る書の頁数か。]

 

     吝嗇

○女の愚<下らぬ德義心

     甘いセンチメンタリズム

[やぶちゃん注:「<」は底本では下の三語句を包含。]

 

○燒き場へ娘を持つて行く せめて一等でやかせたい 一等滿員なり 燒き場人足感激して特等とす

[やぶちゃん注:未定稿「冬心」(私の推定で大正一二(一九二三)年の年末)の終りに出る話(実話)のメモである。リンク先は私の新・旧全集併載版である。別に新全集の原稿形態指示から起こした私の縦書版もある。あまり読まれる作品ではないので未読の方はどうぞ。私には印象的な作品である。]

 

○罪人四首を切られ方を談す 伸べ首 締め首

○獄門ぶり 40 新藏兄弟

[やぶちゃん注:惹かれる構想メモであるが、作品化はされなかったものと思われる。]

 

《3-27》

○畫描き田舍にて注文をとる 二重橋の畫を描かせらる

○頭に手紙の刺青(偸盜)}

            }沙金 屍骸の髮の毛をぬすむ

 頭骨厚きとうすきと  }

[やぶちゃん注:「}」は底本では大きな一つの「}」。これはやはり「偸盜」(大正六(一九一七)年四月二十日脱稿)であるが、どうもこの手帳に書かれているのはやはりおかしい。或いは、芥川龍之介は「偸盜」(続編構想はあったが、すでに公開された決定稿で沙金は殺されている)を大々的に改稿する意図があったのかも知れない。]

 

○レエルに血が流れる話

[やぶちゃん注:無論、偶然だが、後に義兄の弁護士西川豊(姉ヒサの再婚相手)が鉄道自殺することを考えると、不吉なメモではある。]

 

Singer(北海道小豆)――旦那二人(二軒待合より競爭にて電話)

――――――――――――――――――――――

 電話帳を一日中見てゐる│父親(大工)來る

            │何しに來たんだい

――――――――――――――――――――――

 客をつれてくる    │母親

 浴衣出來てゐる    │娘ゐる時は穩なり

 果物をかひにやる   │(さんや)

            │留守の時はおだてて

            │おけば好いと云ふ

            │女中をきやうさす

――――――――――――――――――――――

 ケチ故川向うへやる  │ソバ3

            │(客かへりし後來る)

            │「かへしておいで」

            │「出來ません」

            │「ぢや一つお前にと

            │ つたのかい」

――――――――――――――――――――――

 旦那を自動車にて送る │妹 あさね ひるね

 (12頃)       │三味線のみひく

            │ふてくされ 産婆

            │飯を食はないと云つて

            │二階へ上る

            │あとで何故起さぬと云

            │ふ

――――――――――――――――――――――

 肌か湯もじ一つの   │弟金をかりて帶をつく

 立て膝にて啖呵    │る かへさず 

            │盆に姊曰

            │「お母さん返して貰つ

            │ ておいで。

            │ 金は他人だよ云々

            │

[やぶちゃん注:表下部は底本の原本再現よりも読み易く活字化したつもりである。

Singer(北海道小豆)」意味不明。以下の記載を見ると、前者は小唄の師匠或いは門付けの歌唄いのことか? 後者はその下の記載から先物取引か? よく分らぬ。

「さんや」複数の意味はある。例えば(主に「日本国語大辞典」に拠った)、

・胴突き(杭を打ったり、地盤を突き固めること或いはそれに用いる道具)の異名。

・漁船を陸(おか)に引き上げる際に用いる縦巻き轆轤(ろくろ)。

・盗賊仲間の隠語で「合鍵」。

・「三谷」尺八の曲名で普化(ふけ)宗の虚無僧が吹いた芸能曲。

・「産屋」出産のための小屋。うぶや。

・「三夜」月の第三日目の夜。或いは、その夜の月。

・「三夜」三日月。

・「三夜」誕生から三日目の夜。或いは、その祝い。産養(うぶやしない)。

・「三夜」新婚三日目の夜。古くは餅を食べて祝う風習があった。

・「山夜」山中での夜。

・「山野」野山の他に田舎の意がある。

・「山谷」東京都台東区北東部の地名で、隅田川西岸の日本堤の北及び東浅草・清川などに相当する。

・「山谷」「山谷掘(さんやぼり)」の略。隅田川の今戸から前記の山谷に至る間にあった掘割で、江戸時代は新吉原通いの遊客の舟で賑わった。

・「山谷」元吉原の焼失後に新吉原移転まで遊郭が置かれたことから、吉原遊郭の別称。

しかし、どれもピンとこない。]

 

《3-28》

○先に燈火(石油)二

○片側三つ 窓   [やぶちゃん注:ここに以下の図。]

Katagawamitumado

[やぶちゃん注:図中のキャプションは「倉」か?]

○出入り 鐘なる 天井に廣告 板臺の電燈   [やぶちゃん注:ここに以下の図。]

Akanopuragu

[やぶちゃん注:図中のキャプションは右が「柱」で、左下は「赤のプラグ」か?]

 

○閨中にて女 曉天(夏) 絽刺しをする

[やぶちゃん注:「絽刺し」「ろざし」と読む。夏用の透ける和服地である絽の、目に沿って刺繡をすること。絽の織糸をすくって、絽刺し用の特殊な強撚糸を上から下へ規則的に渡しながら縦・横・斜めに刺しては図柄を構成する、日本や中国の独特な手芸技法。本邦では奈良時代頃には既に行われていたらしく、細工物として上流階級の婦人の間に始まり、江戸時代には公卿たちの趣味として流行、「公卿絽刺し」と称されて珍重された。また、室町時代や江戸時代の繡仏(しゅうぶつ:刺繡で仏像或いは仏教的主題を製作したものを指す)にもこの技法が使われている(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

 

○美の Kinds Räumlich?  卽アングルの美がレンブランのそれより淺いと云ふ事なく全然別種なりとす。しからば俗美と美との限界如何。

[やぶちゃん注:「レンブラン」はママ。

Kinds」は英語で「種類」か? 後がドイツ語ではあるが、「子ども」を意味する「Kind」(キント)の複数形を「Kinds」とするのは稀れで(ないわけではないが)、しかも次の語との間が有意に空いているように新全集は字配している(ように見える)。

Räumlich?」はドイツ語で「空間的」「立体の」の意。

「アングル」フランスの新古典主義の代表的画家ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres 一七八〇年~一八六七年)。

「レンブラン」バロック期を代表するネーデルラント連邦共和国(オランダ)の画家レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn 一六〇六年~一六六九年)。彼の名はオランダ語の発音を聴くと、音写「レンブラン」でもおかしくはない。]

人間通行止   梅崎春生

 

 遠足バスで学童が即死するという事件がおきた。窓から顔を出していて、電柱に頭をぶつけたのである。何という悲惨な事故だろう。

 新聞の報道によると道幅が二・八五メートルしかないのに、バスの幅が二・四メートルで、ギリギリだったそうだ。引き算をすると余地は〇・四五メートルになり、両側だから片方二十二センチ強ということになる。人はおろか犬も通れない。

 そんなところに大型車を乗り入れるなんて、無茶もはなはだしいと思うが、警視庁交通部の意見によると、観光バスの通行を規制する手は今のところないのだそうである。

 つまり観光バスが通る時は、人は通るなということらしい。自動車専用道路じゃあるまいし、ずいぶん人間を踏みつけにした話だ。

 観光バスだけでなく、路線バスも狭い道をのっしのっしと横行している。

 警視庁の調べでは、路線バスのコースで、道幅がせまくて危険なところが二十七箇所もあるそうだ。私がよく利用するバスにも、それがある。

 私の家は練馬だが、練馬から中野を経由して新宿に出るバスがある。それが沼袋の商店街を通る。

 このバスはバスの中でも大型車で、夜前燈をたくさんつけて近づいてくる姿は、まるで花魁(おいらん)道中を連想させる。それに反して沼袋の街幅はせまい。すれ違うどころか、一台でいっぱいになってしまう。

 だから沼袋の通行人は、バスが乗り込んでくると、右往左往して逃げまどい、商店の軒下に身体を小さくして、ひたすらバスのお通りを待つのである。

 三年ほど前に、ついに事故がおきた。女車掌さんが車体と電柱に頭をはさまれて死んだのだ。

 なにしろせまい道なので、ちょっと下手な運転をするとぶつかるおそれがある。車掌が首を出して、オーライとかストップとか絶えず叫んでいなければならない。

 その車掌さんもそれをやっていたのだが、うしろに眼がないのであっという間にはさまれてしまったのである。

 それからしばらくして、そのバスの路線が変更になった。商店街はさけて他のひろい道を走って中野に向かう。商店街の方は入口に杭を打って、車の乗り入れ禁止となった。

 通行人の人権を尊重し、かつ危険防止のための措置かと考えていたら、近頃それがそうでないことが判った。車禁止は商店街舗装のためのものであり、この間舗装が完了したら、杭は坂り外されて、またバスがそこを通ることになったのだ。

 私はあきれた。折角広い道があるのに、何故せまい道にゴリ押しに乗り込んで、同じ愚をくり返そうとするのか。

 このやり方がバス会社の意向なのか、商店街の利益のためなのか、私は知らない。

 前者だとすれば、通行人を犠牲にしてバスを通そうとする会社のエゴイズムを憎むべきだし、後者なら客へのサービスを忘れた卑しい商魂を難ずべきだろう。

 そうすることで迷惑するのは通行人だけでなく、バスの乗客も大迷惑をしているのである。

 せまいからバスやタクシーやオート三輪が輻輳(ふくそう)する。ラッシュ時になると私設の整理員が出て、叫んだり旗を振ったりしているが、それでも二百メートルばかりの街を通り抜けるのに、二十分か三十分かかることもある。

 通行人を逃げまどわせ、乗客をいらいらさせてまで、せまい道に乗りこむ資格が、大型バスにあるのだろうか。

 また道の側からすれば、あんなのを乗り込ませる資格が、沼袋商店街にあるのだろうか。どちらにもその権利も資格もない。

 今からでも遅くない。大型バスは路線を変更すべきだし、道もその非を悟って人間が歩行する本来の道に立ち返るべきだろう。

 この間題についてあれこれ談義があったが、朝日新聞の天声人語子は、

「ただでさえせまい道が電柱によってさらにせまくなる。とりあえずの応急策としては、こんな電柱は取り除くべきだ」

 と書いている。電柱で頭を打ったんだから電柱を取り除け、というのは筋が通っているようだが、現場の感覚から程遠い。

 私も時々沼袋に買いものに行くが、あんなせまい道では電柱は、通行人にとって有力な楯となるのである。

 向うからバスがやって来る。あぶない、と思ったら電柱のかげに飛び込めばいい。バスが通過したら飛び出して次の電柱まで小走りに走る。

 こんな意味でせまい道の電柱は、空襲時における防空壕のような役目を果たしているのだ。もし電柱を除去すると、通行人はバスと商店にはさまれて、身体ごとつぶされる危険にさらされることになり、事故も今よりふえるだろう。

 バスやトラックは年々歳々大型になって行くようだ。大型の方が効率がいいからだ。

 先日多摩川に草つみに行ったら、丁度じゃりトラがジャリを取っている現場にぶつかった。ごしごし積み込んで号笛一声さっと引き上げて行く。

 じゃりトラは他の自動車やバスから恐れられているのだそうである。無鉄砲な運転とその重量のためである。

 人間はバスやタクシーをこわがり、バス、タクシーはじゃりトラをこわがる。じゃりトラは自動車界において、憲兵みたいな存在らしい。

 そいつが河原から引き上げて行くと、あとにぽこりと穴がある。見渡すと穴だらけで、河原の風情もはちの頭もない。

 あの河原のじゃりは誰の所有なのか知らないけれど、年年景色が損じて行くのはかなしいことであり、怪(け)しからんことだ。いくらビル建築、道路工事などでじゃりが必要だとしても、風景を毀損するまでに無茶取りをする権利は、誰にもない筈である。

 この現象は東京だけでなく、各地におこっているようだ。福岡県博多湾は海の中道という細長い腕のような岬でかこまれている。

 その海の中道がじゃりトラのためにちょん切れかけているという。

 あそこは玄海国定公園に含まれているので、外海の砂をとると自然公園法に引っかかるし、内海の砂は港湾法に引っかかる。

 まん中の部分は私有地で、所有者が砂の採取権をある業者に売ってしまった。業者はそれっどばかりじゃりトラをあつめて、どんどん砂を運び出した。

 もし木が生えていたら、営林署や県知事の許可が必要だが、それも生えていない。ことごとく法の盲点をついたやり方で、取り締りようがないのだそうだ。

 海の中道のその部分は、四百メートルぐらいの幅しかない。そこをどんどん掘ったものだから、直径百五十メートルぐらいの大穴が出来、水がたまって池になってしまった。

 放って置けばその穴はますます拡り、ついには外側と内側の砂浜だけになって行くだろう。砂浜は自分自身では保ち切れず、雨や風に流されて、ちょん切れてしまう。

 折角の名勝をちょん切ってしまうなんて、言語道断である。ちょん切られる前に、早く手を打て!

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第五十五回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年五月七日号掲載分。

「沼袋」東京都中野区の北部で現在、沼袋一丁目から沼袋四丁目までがある。地図上で見ると、確かに、西武池袋線練馬駅とJR新宿駅との最短直線上に沼袋が位置していることが判る。

「はちの頭もない」私はこの慣用表現を五十九になる現在まで口にしたことがない。「~ももへちまもない」という謂い方なら使ったことがある。「はち」と「へちま」は何となく発音が似ているから、用法としては同源であろう。小学館の「日本国語大辞典」には「はちの頭」で『何のやくにもたたないもの。つまらないもののたとえ。へちまのかわ。』とある。そこで今度は「へちまのかわ」を引いた。すると「へちまの皮」の三番目に『つまらないもの。役にたたないものもたとえ。へちまの皮のだん袋。へちまの根。』と出、用例に浄瑠璃やが引いてあり、「へちまの皮のだん袋」では発句集や仮名草子が用例として出る。さらに戻って「へちまの皮」の四番目には『「へちま(糸瓜)の皮とも思わず」の略。』とあって浮世草子・浄瑠璃が例示されてあった。「へちまの皮とも思わず」を見ると、『つまらないものとさえ思わない。少しも意に介しない。何とも思わない。へちまとも思わない。へちまとも思わず。へちまの皮。へちとも思わず。』とより徹底的に無視する意向がありありと出、浄瑠璃の他に、かの「醒睡笑」からも例文を引いている(時に言っておくが、私が「日本国語大辞典」を引く場合は本物の書籍版からの手打ちであって、お手軽コピー・ペーストの電子版ではないのでお断りしておく)。「大辞林」を見ると、主に「~も蜂の頭もない」「~だの蜂の頭だの」などと使って、『ある言葉や考え方を真っ向から否定するときに使う言葉』で「論理も蜂の頭もあるものか」と用例が出る。ネットで検索すると、Q&Aサイトの答えで私と同様に「あたま」と「へちま」の発音が似ているとし、或いは「~も糸瓜も~」という言い方が先にあって、それがさらにゴロの良さから「~も糸瓜も、蜂の頭もあったもんじゃない!」などと使ったのではないか、『「しかし」も案山子(かかし)もあるか!」』という言い方もあるとあって腑に落ちた。この回答者は全くの自分の推測としつつ、「へちま」は実がぶら下がっているさまが「ぶらぶらしている」ことから、「役立たず」の意味に充てられたのではないかとされ、他にも「~もへったくれも~」「~もくそも~」などあり(これらは確かに私もよく使う)、「へったくれ(つまらないと思うものや価値を認めないものをののしっていう語)」「糞」の孰れも「役に立たないもの」で何かしら共通点が見られるとあり、眼から鱗。その方も先の「日本国語大辞典」と同じように浄瑠璃(但し、こちらは知られた名作二篇)を引かれ、『遣りたい暇もやり難い義理も糸瓜も一つ書』(「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」/二代目竹田出雲・三好松洛・初代並木千柳合作/寛延二(一七四九)年初演)、『イヤ、白狀も糸瓜もゐらぬぞ』(「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)/菅専助(すがせんすけ)作/安永五(一七七六)年初演)であるから、これらの「へちま」の根は深く、かなり古くから用いられた口語(当時の)表現であることが判った。また、とある別な記載では、何故、「蜂の頭」なのかというに、多くの虫は口で嚙みつくが、蜂は尻(針)で刺す、だから「蜂の頭」は大して役に立たないという意味だという解があった。実際にはスズメバチのような大型の蜂類は尻の針以上に巨大な顎で蜜蜂などを襲って捕食するけれども、これはこれで面白いし、一考に値する解釈であって、先の御仁風にここも「河原の風情も、糸瓜(へちま)も、蜂の頭も! これ、あったもんじゃねえヤイ!」と口に出して言い直してみると、実に全否定よりも、春生の憤懣の気分が滲み出てくるではないか!

「海の中道のその部分は、四百メートルぐらいの幅しかない。そこをどんどん掘ったものだから、直径百五十メートルぐらいの大穴が出来、水がたまって池になってしまった」地図で計測してみると、砂洲幅と池の直径から、これは現在のカモ池であることが判る。]

2016/07/18

反吐が出る奴ら

政治思想も性認識も、如何にも偉そうに日常的に自己主張しながら、その実、いざとなると弁解に長ける輩ぐらい、最下劣な奴は、いない。反吐が出る、ね。

お前らは下劣の極みだ

ユダヤの紋章を日本の投票箱に勝手にアイコラして日本の投票が操作されているという記事を見た。それをフェイスブックでシェアして民主主義が冒されていると主張している自称「人権主義者」どもはしかし、自分が反ユダヤ主義者だと表明し、ユダヤの人々をヘイトしているということにほかならないということを理解しているのだろうか? 理解している確信犯だから私の知り合いもシェアしているのであろうと断ずる。とすれば、最早、救い難い最下劣な状況であるとしか、私には言いようがない。

女中天下の家   梅崎春生

 

 朝起きる。寝巻をふだん着に着かえて、書斎におもむく。雨戸やガラス戸をあけ放って換気、それから机上を整理し七、次に掃除に取りかかる。道具は電気掃除機である。

 ぶんぶんいうやつをあちこちにつっ込んで、芥(ごみ)を吸い取る。近頃うちには猫が二匹いて、自由に書斎に出入りするから、微細な毛が散乱していて、箒では掃き切れない。

 やがて掃除が終り、洗顔して歯をみがき、庭に出てかるい体操などこころみて、朝餉(あさげ)の卓に向かう。

 適当な労働のあとだから、朝食のうまいこと言語に絶する。しかし腹八分目でやめといて卓を離れる。

 というのが、二日酔いをしていない時の私の日課だが、週に一回か二回しかその機会が廻って来ないのは残念だ。

 電気掃除機の使用法に習熟するに至ったのは、女中がやめたからで、それまではあれはぶんぶん泣き叫ぶうるさい道具だと思っていた。

 自分で使ってみると、そうでない。うるさくないだけでなく、快感がある。子供の頃水道にホースをつないで放水することが大好きだったが、あれを陽の快感とすれば、これは陰の快感である。

 性科学的にはどんな解釈するのか知らないが、何でもかでもどんどん吸い取るところがやたらに面白い。使ったことがない人は、一度こころみてごらんなさい。

 目下東京の人手不足はたいへん深刻で、前号出前持ちの件でもふれたが、女中のなり手がない。家政婦も引っぱりだこで、電話で申し込んでも、全然だめである。

 巷には人があふれているような気がするが、それがこんなに人手不足になったのは、今年の中学卒業者がすくないのが原因のひとつだそうである。

 今年の中卒者は昭和二十年生れで、あの頃は食うのがせいいっぱいで、エネルギーが子供を産む方に廻らなかった。すくないのも当然だ。

 そのすくないのに求人が殺到、そしてその余波が他の年代にも及んで、こんな人手不足の局面に相成った。

 私の家は東京の郊外にあって、押売りがしょっちゅう訪れていたが、半年ぐらい前からすこしずつ減り始め、今年になってまだ一人もやって来ない。やはりこれも人手不足の方に吸い取られたのではないかと思う。押売りみたいな邪業をやらずとも、ちゃんとした正業がいくらでもあるからだろう。

 でも押売りなんてものは、続々と来るのも困るが、全然来ないのも淋しいものである。

 この人手不足で女中という職業の性格も大きく変るだろう。主婦の命にしたがって家事に使用される女のことを、昔は下女と呼んだ。

 夏目漱石「吾輩は猫である」を読むと、下女と書いてある。御三(おさん)という言葉も使用している。

 辞典でしらべると、おさんは(おさめ、道具方)の意らしい。その下女が女中に名前が昇格し、今ではお手伝いさんと呼ぶ。

 新聞の投書欄で、あるテレビドラマでは女中という言葉を使っていたが、お手伝いさんという言葉があるのにけしからん、というのを読んだことがある。

 しかしお手伝いさんという言葉はなまで、こなれが悪い。名前を変えることに反対はしないが、変えるならも少しましな名にするべきだろう。

 さて同じ辞典によると、女中には二つの型があって、一を出稼ぎ型、一は家事見習い型だという。

 その出稼ぎ型がすべて人手不足の方に吸い取られてしまった。出稼ぎならすこしでも条件のいい方がいいし、気分も楽な方をえらぶのは当然である。

 また家事見習いあるいは行儀見習いは、必ずしも報酬を問題とせず、花嫁教育や花嫁修業を目的にしていたが、これも戦後はあやしくなった。

 行儀見習いといっても、見習うべき行儀は戦後にはない。あるいは通用しない。主人が帰って来たら、三つ指をついて、

「且郡さま。お帰りなさいませ」

 と教え込まれたって、何の役にも立たないのだ。

 家事見習いにしても、昔は掃除のしかた、御飯のたきかた、洗濯のしかたを奥さまに仕込んでいただいて、自分が結婚した時に役立たせようという筋だったが、今は電化ばやりで、電気掃除機、電気釜、洗濯機などの使い方は、別に奥さまに仕込んでもらわなくても、製品の説明書を見ればちゃんと書いてある。その通りに操作すれば目的が足せるようになっている。

 奉公などをする必要は全然ないのである。

 こうして女中の権限は大きくなり、主婦としては出て行かれるのがこわいものだから、自分の権限を縮小して、ひたすら機嫌をとりむすぶ。

 女中の部屋はあるが、主婦の部屋はなく、どちらが主婦か判らないという状態も生じて来る。意識的に主導権を握ろうという女中さえあらわれた。

 私の友人にQ君というのがいて、夫婦子供でかなり大きな家に住んでいる。一昨年のことだが、奥さんも病弱だし、掃除もたいへんだというわけで、やっとのことで女中をさがし当てた。

 五十ぐらいの女だったが、お目見えの態度もしとやかで、よく働きそうで、Q君は気に入って家に来てもらうことになった。

 ところがその婆さんはやって来て十日間ばかりの中に、たちまち一家の主導権をにぎってしまったのである。どんな方法でにぎったかというと、物の位置を全部変えることによって、Q家の天下を掌握したのだ。

 たとえば御飯をたこうとすると、お米がない。しまい場所が変更されている。だから婆さんにうかがいを立てねばならない。すると婆さんはやおら腰を上げて、どこからか米を持って来るのである。

 御飯がすんで爪楊枝(つまようじ)が欲しい。あるべきところを探してもない。婆さんに頼むと、とんでもない方向からちょこちょこと持って来る。

 友人が遊びに来る。上等の食器がない。婆さんに頼むと、ちょこちょことどこかに行ったから、あとをつけると、たんすの中からごそごそ取り出していたそうだ。

 そんな具合に食品や食器から子供のパンツに至るまで、婆さん独特の体系で位置を変えたから、一家の行事はすべて婆さんにうかがいを立てて、その指図を受けねばならなくなってしまった。

 主導権を完全ににぎったと見るや、婆さんは俄然横着になり、ほんとかうそか神経痛もおこして、Q君夫婦や子供を顎でこき使うようになったそうである。

 それから後もいろんな事件があったが、いずれ小説に仕立てるつもりだから省略するとして、ついにQ君はたまりかねて婆さんを首にした。

「盗んだりかくしたりするんじゃなく、自分の働きいいように整理したんだと言い張るので、処置なかったよ」

 人の好いQ君は述懐した。

「今でも時々、妙な場所から、思いもかけぬ品物があらわれて、びっくりするよ」

 こんな極端なのはめずらしいが、人間が自分の家庭内で他人を使うということが、だんだん成立しなくなっているのではないだろうか。

「求女中」の時代は過ぎたのだ。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第五十回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年四月二日号掲載分。本文中に「前号出前持ちの件でもふれた」とあるが、この前回分(第四十九回)は底本にはない。ここに出る「物の位置を全部変えることによって、Q家の天下を掌握した」婆さんというのは如何にも梅崎作品好みのキャラクターである。

 因みに、私には忘れられない一人の「お手伝いさん」がいる。

 無論、うちの、ではない。うちはお手伝いさんを雇うような裕福な家ではなかった。

 それは幼稚園の頃に住んでいた練馬の大泉学園(まさにこの記事の頃でしかも梅崎春生の住んでいた同じ練馬区内である)の、近所の米谷さんちの、お手伝いさんである。これは既に昔、忘れ得ぬ人々15 米谷さんちのお手伝いさんで書いたが、私は死ぬ前に、彼女に今一度、逢いたくてたまらない。

 されば、ここに写真とともに再掲しておく。――少年は五十四年も前の、私である――

   *

 幼稚園の頃、僕が住んでいた練馬の東大泉の、家の隣りの広っぱ(懐かしい響きだ。短い雑草が生え、時々砂やヒューム管が訪れては消えてゆくあの、正真正銘の広っぱだった)を隔てたところに米谷さんちはあった。ブチとクロのグレイハウンドを二匹飼っていた。昭和三十年代初頭のそんな家を想像されたい。そこに、岩手から集団就職で来た、小太りのお手伝いさんがいた。頬がすっかり赤くって、いつも割烹着を着たお姉さん……それが、今日の僕の「忘れ得ぬ人」である……

 僕は弱虫で泣き虫だった。広場で遊んでいても、きっと二日に一度はいじめられて泣いていた。そんな時、夕暮れのグレイハウンドの散歩をさせる彼女は、その体を左右に揺すって(それは二匹の犬に引っ張られていたからでもある)、いじめっ子の前にやってくると、ブルトーザーのように彼らを駆逐し、洟と涙でくしゃくしゃの僕の顔を、その割烹着の袖で拭ってくれると、彼女は決まって笑いながら言ったものだった――「泣ぐな、坊ちゃん。」――頼もしい大きな紅い頬の彼女の向うに、今はもう見ることのない美しい武蔵野の夕陽があった――

 彼女は、たまの日曜日の許された休みになると、何故か、僕のうちに訪ねてきては、

「奥さん、坊ちゃん連れて買い物行ってはいけんでしょうか?」

と懇願して、僕を池袋のデパートに連れてゆくのだった。月に一度か二度の彼女の少なかったであろう自由な時間に、彼女は必ず僕を連れてデパートへ行くのだった。

 母の記憶では、彼女は、自分に同い年の末っ子の弟がいるのだと言っていたようだ。

 僕は今でも、不思議に覚えている映像がある。

……池袋のごった返した年末のデパート……僕はきっと疲れたと言ったのだと思う……彼女は僕をオンブしている……エスカレーターに乗っている……ふと上を見ると上階に向かうエスカレーターの底が鏡張りになっていた……僕が見上げる……僕をおぶった彼女……人いきれと暖房で彼女は額に汗をかいている……僕を背負った上に買い物を両手にぶら下げている(それは故郷の親族や兄弟への正月のお土産であったかも知れない)……口でふうふう息している……ふと彼女が見上げた……鏡の中で眼が合った……

――その時、彼女はさっと満面の笑みを浮かべた……

……あの、いつものあの紅い頬で……

 僕の記憶にあるのは、それだけである。

 僕の母は、残念ながらもう彼女の名を覚えていない[やぶちゃん注:私の母は二〇一一年に筋委縮性側索硬化症のために天に召されたが、この記事は二〇〇七年七月三日のものである。]。

 今はただ、父が撮った、その二匹の犬と戯れる僕と割烹着の頬の紅い(しかしそれはモノクロームなのだが)、はにかんだ彼女とその広っぱで一緒の写った写真が一葉あるだけである…………。

……僕は彼女を、時空を越えた僕の永遠の恋人のように、今も、愛している……確かに、僕は愛している……あの真っ赤な頬と厚い背中の温もりと共に…………

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   *]

税金払って腹が立つ   梅崎春生

 

 私の家のすぐ近くを環状七号線が通っている。通っていると言っても、完全に開通しているわけでない。千五百メートルぐらいが舗装されているだけで、その先は尻つぼまりになり、自動車も通れない。

 こちら側の方はどうかというと、練馬の十三間道路と交叉するあたりからがたがた道と相成り、これまた使用出来ない。

 では、その千五百メートルの完全舗装路は、何に使われているか。何にも使われていない。子供がローラースケートをして遊んでいるのみである。

 つまり都は巨費を投じて、無料のローラースケート場をこしらえたことになる。巨費と言っても、もちろん都知事が私財を提供したのではない。われわれ都民からしぼり上げた税金である。

 十日ほど前も税吏が私の家にやって来て、特別区民税をむりやりにもぎ取って行った。もぎ取られる分には差支えないけれども、それがこんな具合に使われているかと思うと腹が立つ。

 私は小学校の頃、人間は恥を知らなければならぬと教わった。彼等のやり方は恥知らずである。

 その千五百メートルだって、完成までに実に時間がかかった。私が今の家に引越して来たのは六年前だが、その時から、ちゃんと道のような恰好をしていた。

 ただし整地も舗装もしてないので、風が吹くと黄塵天に達し、だからここら近所の家々では洗濯物を干すことが出来ず、洗濯屋だけが大儲けをした。

 その道路らしき遊休地に、のろのろと整地作業が始まり、のろのろと舗装工事が終ったのが昨年のことで、おどろくべしその間に五年もかかっている。その揚句がローラースケート場である。もう税金を払うのはよそうではないか。

 などと八つ当りをするのがこの小文の目的ではない。

 実は昨日私はこの舗装路を散歩していた。春先のこととて風が吹いて、道はぬめぬめとしている。ぼんやりと歩いている中に、アスファルトの上にたばこの吸殻が一本落ちている。吸殻と言っても先の方五分の一ぐらい吸って捨てたものらしい。

「しめた!」

 と思ったのか、

「あ。もったいない!」

 と思ったのか覚えはないけれども、私は腰をかがめてそれを拾おうとして、はっと気がついた。今は終戦直後ではない。たばこも巷(ちまた)にあふれている。そのことに気がついたのだ。条件反射的に拾おうとしたなんて、我ながらよほどぽかんとしていたものとみえる。

 うちへ戻ってから、いろいろ連想をたぐって見た。

 あのぬめぬめ道は日比谷あたりの舗装路に似ている。捨てられていたたばこも丸々ふとっていて、洋モクの如き感じがした。終戦直後の日比谷は占領軍兵士がよく往き来していて、実に彼等は惜しげもなくたばこを投げ捨てた。その光景が時空を越えて今の私にむすびつき、つい腰をかがめようとするに到ったらしい。

 我ながらあさましい話だと思うが、戦争の惨禍、は大げさかな、戦争の爪跡みたいなのが、まだ強く私の心に残っている。夢の中ではよく出て来るけれども、白日夢のような放心状態ででも、そいつはこっそり私を訪れて来るのだ。

 放心して裏街を歩いている。芥溜(ごみため)に残飯がごっそり捨ててある。残飯と言ってもくさっているやつではない。真白にぴかぴか光ったのが惜しげもなく捨ててある。

「あ。なんてもったいないことを!」

 思わず前後左右を見廻しそうになって、初めて気がつく。めしが捨ててあろうとなかろうと、おれとは何の関係もないことだと判るまでに、一秒やそこらはかかる。うなされるような気持で現実に戻るのだ。

 実際あの頃は売り屋さんがたいへんいばっていた。たばこ屋さんにしても、配給というからには配って歩くのが本筋だと思うが、取りに来させた。

 ピース、コロナなんてたばこが自由販売になる。朝七時から売り出すと掲示する。われわれは六時頃行って行列し、寒いから足踏みをしながら待っている。

 やがて七時になる。着ぶくれたたばこ屋のおやじがやおら現われて、すぐ売るかと言えばそうでない。表戸を全部のろのろとあける。それからお茶の一杯も飲んで、飲みびらかすようにして飲み終えて、やっと売り出す。

 われわれの握りしめた金は湯気が立っている。おつりなどを要求すると、おやじに怒られるから、きちんとそろえて差し出し、やっと一箇をいただいて家に戻る。

 外食券食堂なんてのもそうだった。外食券に金をそえて差し出す。食うのは当然の権利であるが、実状はそうでない。食を乞うという言葉がぴったりする。

 つまり向うではわれわれに食わせてくれるのであって、こちらはありがたくいただくという恰好である。

 あの頃は食事の時間もきまっていた。午後三時頃腹がへったから、食堂に行って食べようなどというのは現在のことであって、あの頃は時間を外すと絶対に食えなかった。

 時間内でも、いろいろ種類があるというのではない。水団(すいとん)なら水団、それ一色である。他には何も食えない。今日は腹具合が悪いから、水団はやめて、お粥(かゆ)にしたいと言っても通らないのである。

 時間切れを心配しつつ食堂にかけつけると、無情や表戸はおろされて、内をのぞくと従業員たちが食事をしているのが見える。幾度涙を呑み、空腹を押さえて、家に引き返したか判らない。

 外食券食堂のねえちゃんたちの肉付きのよかったこと、われわれがやせ細って膝ががくがくしているのに、彼女らは血色もよく、顎なんか二重になっているのもいた。

 そう言えばたばこ屋のおやじも、しよっちゅうくわえたばこで、街を歩いていたような気がする。思うに彼等も恥を知らざる徒であったのだろう。

 そんな恥知らずの世界の中で、ある裁判官はヤミを拒否し、その結果栄養失調で死亡した。

 何だか話が回顧的になったが、今年(昭和三十六年)の三月八日、米屋さんが決起大会を開くのだそうである。

 何故大会を開くか。豊作でめしが食えないからだ。十五年前は国民の方がめしが食えなかったが、今は米屋さんがめしが食えないのである。

 豊作であるからして、誰も米屋から配給米は買わない。配給米はまずい。役人のやりくり操作が不手際で、古米がまじっているし、したがって栄養価も低い。闇米の方がずっとおいしく、値段も時としては配給米を下廻る。

 誰が配給米なんか食ってやるもんか、という気持になるのも当然だろう。

 ふつう豊作なら、商品が活発に動いて、それを取り扱う米屋さんは大いに儲かり、血色もよくなる筈だが、そうならないところに現在のふしぎ、いや、歪(ゆが)みがある。

 その歪みをつかさどる官庁のために、われわれは税金を払っているのだと思えば、またむらむらと腹が立って来る。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第四十八回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年三月十九日号掲載分。因みに当時の東京都知事は東京大学名誉教授で医学博士であった東龍太郎(あずま りょうたろう 明治二六(一八九三)年~昭和五八(一九八三)年:都知事在任は昭和三四(一九五九)年から二期で昭和四二(一九六七)年)。因みに彼の住所は東京都練馬区下石神井で、梅崎春生の居住地練馬区豊玉中(とよたまなか)とそう遠くない(因みに私は幼稚園から小学一年の途中まで練馬区大泉学園で過ごした)。

「ある裁判官はヤミを拒否し、その結果栄養失調で死亡した」佐賀県出身の裁判官で、敗戦後の食糧難の中、闇市の闇米を拒否、食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続けて栄養失調によって餓死した山口良忠(大正二(一九一三)年~昭和二二(一九四七)年)氏のことである。ウィキの「山口良忠」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『佐賀県杵島郡白石町に、小学校教師の長男として生まれる。鹿島中学校(旧制)・佐賀高等学校(旧制)・京都帝国大学を卒業。大学院に進み宮本英脩・佐伯千仭に師事、高等文官試験司法科試験に合格、判事となる。一九四二年(昭和十七年)に東京民事地方裁判所に転任後、一九四六年(昭和二十一年)十月に東京区裁判所の経済事犯専任判事となる。この部署では、主に闇米等を所持していて食糧管理法違反で検挙、起訴された被告人の事案を担当していた』。『食糧管理法違反で起訴された被告人を担当し始め、配給食糧以外に違法である闇米を食べなければ生きていけないのにそれを取り締まる自分が闇米を食べていてはいけないのではないかという思いにより、一九四六年(昭和二十一年)十月初め頃から闇米を拒否するようになる』。『山口は配給のほとんどを二人の子供に与え、自分は妻と共にほとんど汁だけの粥などをすすって生活した。義理の父親・親戚・友人などがその状況を見かねて食糧を送ったり、食事に招待するなどしたものの、山口はそれらも拒否した。自ら畑を耕してイモを栽培したりと』、『栄養状況を改善する努力もしていたが、次第に栄養失調に伴う疾病が身体に現れてきた。しかし、自分が職を離れたら「担当の被告人百人をいつまでも未決でいさせなければならない」ことになると療養も拒否した。そして、一九四七年(昭和二十二年)八月二十七日に地裁の階段で倒れ、九月一日に最後の判決を書いたあと、やっと故郷の白石町で療養する事となる。同年十月十一日、栄養失調に伴う肺浸潤(初期の肺結核)のため』、三十三歳の若さで『死去した』。『死後二十日ほど経った十一月四日に、山口の死が朝日新聞で報道され、話題を集めた』。なお、『その自らに厳しい態度から、食糧管理法違反で逮捕された人々に対しても過酷であったのではないかと思われがちであるが、むしろ同情的であり、情状酌量した判決を下す事が多かったと言われる』。『この事件から、闇米を食べなければ生きて行く事それ自体が不可能であり、食糧管理法それ自体が守る事が不可能な法律であったという意見もあり、食糧管理法違反事件ではしばしば期待可能性・緊急避難の法理の適用が主張されたが、裁判所によってことごとく退けられていた』。『食糧管理法を遵守して餓死した者として、山口の他には東京高校ドイツ語教授亀尾英四郎、青森地裁判事保科徳太郎の名が伝えられている』。『敗戦によって満州・朝鮮・台湾といった穀物の供給源を失い、またそれら外地からの引揚者によって人口が激増、日本の食糧事情は極めて劣悪なものとなっていた』。『それでも、例えば「食えないための一家心中」といったような記事は、社会不安を煽り、占領政策がうまく行っていないことを印象づけるおそれのあるものとしてGHQ』(General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers:連合国軍最高司令官総司令部)『の検閲基準により報道できないものとされていたこともあって、餓死について報道がなされることはほとんどなかった』。『ところが、一九四五年(昭和二十年)十月、幣原内閣の大蔵大臣であった渋沢敬三は、米国UP通信記者に対して、一九四六年(昭和二十一年)度内に餓死・病死により一千万人の日本人が死ぬ見込みであると語り、国際的ニュースとなった。これに対し、同年十二月二十一日』、GHQ公衆衛生福祉局長衛生局長クロフォード・サムス(Crawford Sams 一九〇二年~一九九四年:医学博士で米国陸軍軍医准将。占領化の日本で医療政策に多大な影響を及ぼしたが、昭和二六(一九五一)年の陸軍元帥で連合国軍最高司令官であったダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur 一八八〇年~一九六四年)の更迭とともに同グループであった彼も辞任・帰国し、翌年のマッカーサーの大統領再出馬失敗によって以後の出世は閉ざされた。ここはウィキの「クロフォード・F・サムスに拠った)は、『「日本がいまや飢餓線上にあるとか、病院は飢餓患者で満員だとか、上野駅だけでも毎晩数十人の餓死者を出しているというのは、巧妙な流言戦術である。それはアメリカから食糧をもっと送らせようとして、故意に事実をねじ曲げていることなのだ」と批判』。『結局、日本側は、成人一人一日当りの栄養摂取量を千五十キロカロリーという生命維持に必要な最低ぎりぎりの限界(現在の平均摂取量の半分以下)まで絞って食糧輸入を要請、このままでは追加の軍隊派遣が必要になると踏んだアメリカ側の判断により、輸入が許可された』。『また、農家による食料供給の意欲の減退も食糧危機の要因であったことから、農林大臣副島千八の決断により、全農家に対して強権的に米を供出させる緊急勅令第八六号を発動するなどしている』。『一方で、上記のようなGHQ側からの批判に応えるため、一九四六年(昭和二十一年)七月十五日には勅令第三百十一号「連合国占領軍の占領目的に有害なる行為に対する処罰等に関する件」を公布・施行。食糧統制に違反する行為は、単なる経済犯ではなく、占領軍に対する敵対行為の中に含まれるという公権的な解釈が確立、ほとんど必罰主義による解釈適用がなされるようになる』。『加えて、当時の裁判官の地位は非常に低く、ヤミ物資を買うにも十分な給与があるとは言い難く、複数の裁判官が栄養失調に苦しんでいる状態であり、過労や結核に栄養不足が加わって死ぬ者も少なくなく、裁判官の給料では到底食えぬとして、弁護士に転職する者が非常に多く、個々の裁判官の負担をますます重いものとしていた』。『山口の死を伝えた朝日新聞の第一報(西日本版)は、社会面トップに「食糧統制に死の抗議 われ判事の職にあり ヤミ買い出来ず 悲壮な決意つづる遺書」との四段ぬきの大見出しで報道され、死の床につづられた日記の一節であるとして以下の文章が掲載された』。――『食糧統制法は悪法だ。しかし法律としてある以上、国民は絶対にこれに服従せなければならない。自分はどれほど苦しくともヤミの買出なんかは絶対にやらない。従つてこれを犯す奴は断固として処断する。自分は平常ソクラテスが悪法だとは知りつつも、その法律のために潔く刑に服した精に敬服してゐる。今日法治国の国民には特にこの精神が必要だ。自分はソクラテスならねど食糧統制法の下喜んで餓死するつもりだ。敢然ヤミと闘つて餓死するのだ。被告の大部分は前科者ばかりだ。自分等の心に一まつの曇があり、どうして思ひ切つた正しい裁判が出来やうか。弁護士連から今の判検事諸公にしてもほとんどが皆ヤミの生活をされてゐるではないか、としばしばつき込まれたではないか。自分はそれを聞かされた時には心の中で実際泣いたのだ。公平なるべき司直の血潮にも濁りが入つたなと。願はくば天下にヤミを撲滅するために、よろこんでギセイとなることを辞せない同志の判官諸公があつて、速かに九千万国民を餓死線上から救ひ出したいものだ。家内も当初は察してくれなかつた。それもそのはずだ。六つと三つのがん是ない子をもつ母親として「腹がへつた、何かくれないか」と要求される度に全く断腸の思ひをし、夫が判官の精神を忘れること、世のたとへに言ふ「親の心は盲目だ」で、ついアメの一本でもと思つたのも実に無理もなかつたであらう』。――『翌五日の東京版では文面が異なっている』。――『食糧統制法は悪法だ、しかし法律としてある以上、国民は絶対にこれに服従せねばならない、自分はどれほど苦しくともヤミ買出しなんかは絶対にやらない、従つてこれをおかすものは断固として処断せねばならない、自分は平常ソクラテスが悪法だとは知りつつもその法律のためにいさぎよく刑に服した精神に敬服している、今日法治国の国民にはとくにこの精神が必要だ、自分はソクラテスならねど食糧統制法の下、喜んで餓死するつもりだ、敢然ヤミと闘つて餓死するのだ、自分の日々の生活は全く死の行進であつた、判検事の中にもひそかにヤミ買して何知らぬ顔で役所に出ているのに、自分だけは今かくして清い死の行進を続けていることを思うと全く病苦を忘れていい気持だ』。――『この病床日記は、スクープした分部照成』(「わけべてるなり」と読むか。当時の『朝日新聞』佐賀支局記者であった)『によれば、山口の父から受け取ったものであるという。しかし、山口の妻子はこの日記の存在を承知しておらず、他の判検事を悪し様に批判し、自己の価値観を押し付けるかのごとき過激な文面が生前の言動と矛盾するとして、真贋に疑問を呈している。これに対して、分部は、我が身を鼓舞するためにあえてそのように書いたのではないかとしている』。『なお、妻矩子』(「のりこ」と読むか)『の回想によれば、山口は生前以下のように語ったという』。『人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。私はよい仕事をしたい。判事として正しい裁判をしたいのだ。経済犯を裁くのに闇はできない。闇にかかわっている曇りが少しでも自分にあったならば、自信がもてないだろう。これから私の食事は必ず配給米だけで賄ってくれ。倒れるかもしれない。死ぬかもしれない。しかし、良心をごまかしていくよりはよい』。

「今年(昭和三十六年)の三月八日、米屋さんが決起大会を開く」確認出来なかった。識者の御教授を乞う。]

芥川龍之介 手帳3―17~20

《3-17》

○自動車の前方 火光現る [やぶちゃん注:ここに以下の図が入る。] 坂へ來りし也 礫をひく音 丸の内なり

[やぶちゃん注:これは怪談構想ではなく、芥川龍之介の実体験の怪異記載ではあるまいか?]

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○△⑴窓 △⑵寒山 △⑶■ ⑷龍 ⑸徐福 ⑹蛾 ⑺賊 ⑻稻種蒔き 鍊金術 ⑼劍 ⑽應擧

[やぶちゃん注:これは恐らくアフォリズムの構想であろうが、当該作はない。]

 

○松本ひよ 山口巴の女將 三州屋筒井與八(旦) 米屋町 明治十三年

[やぶちゃん注:「山口巴」は「やまぐちともゑ」と読むか。昭和初期まで吉原にあった引手茶屋の名と思われる。個人サイト「吟醸の館」の『落語「木乃伊取り」の舞台を歩く』の「茶屋」の注に、『一級の角海老楼と一級の茶屋・山口巴がタッグを組んでいた。山口巴は吉原大門を入って右側6軒(大正時代)の内の2軒目に有った。山口巴は終戦後廃業し、料亭松葉屋がその周辺を買い取り料亭として栄えたが、昭和33年の公娼廃止後は花魁ショーで賑わったが』、平成一〇(一九九八)年に廃業した、とある。「旦」は旦那であろう。「米屋町」不詳。少なくとも現在の吉原(東京都台東区千束四丁目及び三丁目の一部)近辺には存在しない。「明治十三年」西暦一八八〇年。]

 

○美男にして金の鎖帷子を着る

○古銅先生傳

[やぶちゃん注:不詳。]

 

《3-18》

a husband not love ―― crippled ―― a husband loved by for the first time

[やぶちゃん注:「crippled」不具の状態の。]

two men (仲ワルシ)

 absolute contempt 仲ヨシ

[やぶちゃん注:「absolute contempt」完全なる蔑視。一方が一方をそうしながら、仲が好いということは、これ、有り得る。]

 

○元祿武士評

○老人

 

[やぶちゃん注:以下、「〇22」から「〇職長をやめる」までは旧全集にはない。]

 

22

     形紙 船で電話をかける

[やぶちゃん注:「形紙」の下線は底本では「形紙」二字の右側に大きな丸括弧「(」が附されてある。]

〇水道――淸水――壁上

〇ヨコサス

[やぶちゃん注:意味不詳。「寄越させる」の謂いか。]

 

〇千圓――利子――水元

〇兄の死――家ヲヤル

〇松井町

[やぶちゃん注:旧本所区(現在の東京都墨田区)の内に、この町名はあった。]

〇職長をやめる

にせ 賣立てに見る にせを井上侯展覽出來ず 千草帖

[やぶちゃん注:「井上侯」内務大臣など数々の要職を歴任した元老井上馨(天保六(一八三六)年~大正四(一九一五)年)。「千草帖」不詳。]

 

○死人の來るやうにとよぶ燒場の茶屋

        {世之助女を口説き失敗す

○第二世之助の話{

{女に惚れし爲失敗す

[やぶちゃん注:「{」は底本では大きな一つの「{」。前にも述べたが、「第二」とあるが、「世之助の話」(大正七(一九一八)年四月『新小説)』)の内容と、大差はない。そもそも女護ヶ島へ渡る別れの酒宴という設定で、女に対する反復性にすっかり白けてしまった「第一」の「世之助」に「第二」は、ない、と私は思う。]

 

○坂崎 一のイズムにてすべてを説明す O. Henry.

[やぶちゃん注:「坂崎」不詳。「O. Henry」言わずもがな乍ら、私の好きなアメリカの短編の名手オー・ヘンリー(O. Henry:本名:ウィリアム・シドニー・ポーター William Sydney Porter 一八六二年~一九一〇年)。ウィキの「オー・ヘンリー」によれば、彼のこのペン・ネームは一八九六年、三十四の時、『以前に働いていたオハイオ銀行の金を横領した疑いで起訴され』(真相は本人が亡くなるまで何も語らなかったため、不明)、一八九八年二月七日に懲役八年の『有罪判決を受け』て服役したその間に決められたものらしいが(模範囚として減刑されて三年後の一九〇一年七月に釈放)、『新聞の社交欄にあった平凡な名前ヘンリーに、もっとも呼びやすいOをくっつけた』とする説、『可愛がっていた野良猫の名前を呼ぶときの「おーい、ヘンリー」から取った』とするもの、『オハイオ州立刑務所“Ohio Penitentiary”から取った』、『刑務所の看守、または逃亡中に出会った強盗Orrin Henryから取った』など『さまざまな説はあるが、獄中から検閲を経ないで出版社に投稿をしていたことは規約違反であり、それを隠蔽するために一役買ったことは事実である』とある。]

 

《3-19》

active artist――occidental

 passive artist――oriental

[やぶちゃん注:「occidental」(オックシデンタル)西洋人の。ラテン語「日が落ちる所」の意。“occidere”(落ちる)+“-ent”(ラテン語の現在分詞語尾に由来する状態・性質を表わす名詞語尾)の形容詞化。同様に「oriental」もラテン語「昇りつつある(日)」の意 で、“orīrī”(昇る)に由来する。]

 

drama of Kesa

[やぶちゃん注:「袈裟と盛遠」(大正七(一九一八)年四月『中央公論』)は手帳の執筆推定上限より前である。或いは芥川龍之介は「袈裟のドラマ」としての別ヴァージョンでの戯曲化の再構想を持っていたのかも知れない(リンク先の私の電子テクストの末尾の草稿を見よ。当初から、龍之介にはシナリオ形式の案があったのである)。]

 

〇二つのアプリオリがあるんだね さうださもなけれやあんなにあせりやしない

[やぶちゃん注:「アプリオリ」ア・プリオリa priori:ラテン語で「より先のものから」の意)は、ここでは近代哲学に於ける「先天的・生得的・先験的」の意で特にカントの認識論での認識・概念などが後天的な経験に依拠せずに論理的に先立つものとして与えられていることを指す。反対語は「ア・ポステリオリ」(a posterioriラテン語で「より後なるものから」の意。結果或いは属性を受けての認識や推論を指し、伝統的に真理性が低い評される。経験的であることから「感性的」と同義に用いられることも多い)。]

 

○メタルを澤山持つてゐる waitress そのメタルを投げ捨てる

[やぶちゃん注:この「メタル」の意味がよく判らない。]

 

○岸駒の虎を賣つて海水浴にゆく

[やぶちゃん注:「岸駒」は「がんく」と読み、江戸中・後期の絵師の号。宝暦六(一七五六)年或いは寛延二(一七四九)年生まれとし(近年は前者がやや有力)、天保九(一八三九)年に没した。ウィキの「岸駒によれば、『姓は佐伯。名は昌明』、『岸派(きしは)の祖』。『出身地は越中国高岡(現、富山県高岡市)説と加賀国金沢(現、石川県金沢市)という二説がある。近年は、岸家の家譜や門人の白井華陽が記した『画乗要略』など諸書の記述から、金沢説が取られる事が多い』。『岸駒は生前から年を偽って』いた(理由は不明)。『母は越中国東岩瀬の高岡屋きよという。きよは宝暦』六年、『金沢の仕立屋豊右衛門と再婚し、岸駒もこの地で育つ。生活は苦しかったらしく』、十一歳頃、には手習いに通うことも出来なかったことから『店の暖簾や看板で字を覚えた』。十二の頃、紺屋に丁稚奉公に上ったという。『金沢時代は矢田四如軒あるいは森蘭斎に絵を習ったと伝わる』ものの、『確証はない。しかし、画風から岸駒が蘭斎の画系である南蘋派』(なんぴんは:中国清代の画家で長崎に二年弱滞在して写生的な花鳥画の技法を伝えた沈南蘋(しんなんびん 一六八二年~?)から直接技法を受けた熊代熊斐(くましろようひ)とその門人などの画派。写実的な彩色花鳥画に特徴があり、一時かなり流行したが、やがて円山応挙の創始した新しい花鳥画が盛んになるにつれて衰退した)『に学んだことは間違いない。系図では』宝暦一三(一七六三)年頃、『狩野花信と称し絵を描いたと』する説があるが、当時の岸駒は未だ八~十五歳で『信憑性は薄く、花信落款の作品も確認できない』。安永四(一七七五)年に『名を岸矩、号を蘭斎と改め』た。安永七(一七七八)年、『絵師として名を立てようと上京するが、折悪く父が亡くなり』、『一旦帰郷。翌年、母を連れて再度上洛、通称を健亮と改め、翌年斉藤氏の娘菊と結婚。この頃、丹丘、黄筌、李思訓、呂紀などの中国画から学んだことを作品に記し、沈南蘋派の画法を取り込んだ精密な絵や洋風画を学習していった。また、岸家の系図には円山応挙の名は全く出てこないが、円山派を独学で学んだか、原在中が応挙の弟子ではないと偽ったのを岸駒は詰問し、応挙の息子応瑞の家に行って門人帳を見せて貰うと、在中自筆の入門名簿があったという逸話(『古画備考』)から、岸駒も上洛当初は応挙に師事」していたとも考えられる。再上洛から』三年後の天明二(一七八二)年版の「平安人物誌」に『名前が記載され、一流絵師の仲間入りを果たす』。以後も同じ「平安人物誌」に『死の年の版まで漏れ無く岸駒は記載されており、生涯京都を代表する絵師であり続けた』ことが判る。『この名声を岸駒は活用し』、天明四(一七八四)年には『有栖川宮家の近習となり、同家の御学問所の障壁画を描く。翌年、宮家より雅楽助と称すことを許され、名を岸駒に改め、字を賁然(ひねん)、号を華陽とする。有栖川宮の庇護のもと、天明の大火で焼失した御所の障壁画制作に活躍し、同家の推挙もあって』享和二(一八〇二)年に』右生火官人(ういけびのかんにん)』(正式には太古から伝えた火を守護し、天皇即位の際にはこれで蘭奢待を焼く役目とされるが、有名無実の単なる名誉職に過ぎない)『に補せられて従六位下主殿大属(とのものだいさかん)に叙任』、文化五(一八〇五)年には越前介を兼ね、天保七(一八三六)年には『蔵人所衆に推補』され、『従五位下叙爵』、翌八年には『越前守に任ぜられ』た。文化六年には『加賀藩主の招きに応じて金沢に赴き、金沢城二の丸御殿に障壁画を描いて故郷に錦を飾っ』ている。『岸駒は生前から画料の高さなどから悪評が高く、山師などと呼ばれたが、晩年に隠棲した岩倉の証光院が荒れ果てているのを私財を投じて建て直した逸話がある。東寺の食堂の天井に龍を描いたことで名声を得、『依頼者が殺到したため』、『号の「同功館」を印形にしたものを織り込んだ表装地を商い、「この手即天下の至宝」であるとして金襴の袋に右手を入れていたという』。『現在、一般に岸駒を初めとした岸派は認知されているとは言いがたいが、京都の社寺のみならず町家の至る所にまで岸派の作品が残っている』とある。さて、「岸駒の虎」の項。『岸駒は自他共に認めるほど、迫力ある虎の絵を得意としていた。皆川淇園が著した「淇園詩文集」に、そのリアルさの秘密が記されている。岸駒は』寛政一〇(一七九八)年のこと、『中国の商人に「富嶽図」を贈った礼として虎の頭蓋骨を手に入れ、それに知人から借りた虎の頭の皮を被せ、その姿を様々な角度から精密に写生した。さらに各部分の寸法を計測し、牙と歯の本数や形状まで記述している。また、少し後に虎の四肢も入手し、やはり詳細な観察記録が残っている。富山市佐藤記念美術館には岸駒旧蔵の虎の前後脚が所蔵されている(頭部は戦前出産のまじないに貸し出されて以来、行方不明)。当時は解剖学の発展期で、円山応挙らによって人体を描くにあたり、骨の構造を把握することの重要性が説かれていた。従来の猫を手本とした作風とは打って変わった迫真の虎図誕生の裏には、岸駒のこうした努力があったのである』とある(太字下線は私)。]

 

Bizarre 霸王樹と女

[やぶちゃん注:「Bizarreは「奇怪な・異様な」の意、「霸王樹」は「はわうじゆ(はおうじゅ)」と読み、仙人掌(サボテン)の別名である。]

 

Romanticism is a tendency to find the golden age in the primitive stage of culture. (Return to Nature!)

[やぶちゃん注:「ロマン主義はプリミテイヴな(原始的)文化段階の中に黄金時代を見出だそうとする嫌いがある(自然に帰れ!)。」といった謂いか。ルソーの根本思想を表現する“Return to Nature!”は言わずもがなであるが、この英文全体は何かからの引用ではないように私には思われる。]

 

《3-20》

○光長の年中行事

[やぶちゃん注:名を「光長」とする歴史上の人物は複数おり、これでは同定不能。]

 

○宮本 おかめそば

[やぶちゃん注:「宮本」蕎麦屋の屋号か? 「おかめそば」現行のそれは蒲鉾・海苔・青菜・椎茸などの具を乗せた温蕎麦。名前は具の並べ方が「おかめ」の面を連想させることに由来する。Q&Aサイトの答えによれば、幕末に下谷の「太田庵」が原型を考案したとする。]

 

○小學校で代數      }

 三年――開析      }Mathematical Genius

 四五――微分積     }

 二年――Smith の大代數 }

[やぶちゃん注:「{」は底本では大きな一つの「{」で「Mathematical Genius」(数学に於ける天才)は四項の下の中央にある。「開析」はママ。生涯で一度だけテストで零点をとったことがある大苦手の数学であるから私にはよく判らぬが、「Smith の大代數」というのは、国立国会図書館デジタルコレクションにあチャールス・スミス氏大代数学講義並例題詳解辺りのことか? 彼なら、Charles Smith(一八四四年~一九一六年)と思われる。]

 

○作者の友だちなりとして( )中にエチェガレエを入れる。

[やぶちゃん注:「( )」は底本では一字分左右で( )(中は空白)である。「エチェガレエ」一九〇四年にノーベル文学賞を受賞したスペインの数学者・政治家・劇作家であったエチェガライ(José Echegaray y Eizaguirre 一八三二年~一九一六年)のことか? 工学者・数学者として教鞭を執ったが、後に政界に転じて建設大臣・大蔵大臣を務め。スペイン銀行の創立者としても知られる。劇作家としての活躍は一八七四年からであったが、現在では彼の演劇はあまりにも非現実的で、俗受けを狙った仰々しさの目立つ騒がしいだけのものと評価が低い(これはしかし当時の有識者の意見でもあった)。メロドラマ的な作品と社会派的傾向の作品とがあるが、デュマやイプセンなどの影響が認められる(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

 

○女。落語家の子。高座に父の滑稽なる話をきく。

活動寫眞の film に己自身現る mystery

[やぶちゃん注:これは、いいね。筑摩全集類聚版脚注では、これを「影」(大正九(一九二一)年九月『改造』)の構想とするようだが、採らない。確かに映画が連関し、ドッペルゲンガーも登場するから関係するメモと言えなくはないが、しかし、見ている映画の中に見ている自分が登場するという構想は自ずと異なる次元のもののように私には思われる。芥川龍之介がこの興味深い設定を遂に作品にしなかったのは、同工異曲のシークエンスが出る(主人公の女優が自分が演じた記憶がない映画に自分が出ているのを観る)、谷崎潤一郎の「人面疽」(大正七(一九一八)年三月号『新小説』)が発表されてしまっていたからであろうと私は踏んでいる。]

 

〇御祭の日に家財を競賣する爲自動車にて運ぶ

茸の独白   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年五月号『新小説』初出、後に昭和三二(一九五七)年一月現代社刊の単行本「馬のあくび」に再録された(底本解題に拠る)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。]

 

   茸の独白

 

 押入れも無い北向きの三畳間に、もはや一年近く住みついた。昨年雹(ひょう)が降った時屋根に穴があいたらしく、雨が盛んに漏るので、現在では畳は腐れ壁は落ち、変な形の茸(きのこ)が七八本生えている。机が一脚、行李(こうり)に寝具、本が十冊程、これが私の全財産だ。他には天にも地にも何も持たぬ。旦暮此の部屋に起臥し、茸の生態を観察などしているが、侘しいと言えば佗しい限りである。

 生れて以来こんなひどい部屋に住むのも始めてだし、こんなに何も持たないことも始めてだ。しかし何も持たないということ程強いものはない。近頃特にそのことを感じる。こんな部屋にいると、市民的な幸福というものが自分に無縁のものであることがはっきりして来るから、その点でも気持に踏切りがつく。生活の幸福を断念出来なかったからこそ今までは苦しかったので、思い諦(あきら)めてしまえばサバサバと愉しい。気持の起点を此処に置いて、今年は書いて行こうと思う。

 今日は正月三日、朝十時に起きて自由ヶ丘の食堂まで飯を食いに行って、今帰って来たところだが、街で見た男女は何処にしまっていたのかと驚くような綺麗な着物を着て、苦労を忘れたような顔をして往来していた。ぼんやり眺めると、昔と少しも変っていないようにも見えるが、それも今日迄の話で明日からはまたもとの恰好に戻るにきまっている。戦争に負けてこのかた、何も彼も変ってしまった。風俗にしても人情にしても、戦争前に比べるとどこか狂っている。人間も変ってしまった。

 人間が変ったなどと言うと、人間というものは太古から変らないものだぞと叱られそうな気もするが、人間が変らないという言い方は、飲み物の中で水が一番旨(うま)いという言い方と同じで、飲み物の中では酒が一番旨いと信じている私ですら、水が一番旨いぞと鹿爪らしい顔で言われたら、御説御もっともと引下る他はない。誠にたちの悪い言い方である。人間は不変である。などとやに下るような真似は私はしたくない。とにかく人間は変った。

 どんな具合に変ったかというと一言にしては言えない。あらゆる点で微妙な歪みとなってあらわれて来る。異常と言うのは正常があってこそ言えることだが、今は皆が少しずつ狂っているので、異常は存在しない。皆胸の中に異常を蓄えているから、不思議なことを見たり聞いたりしても少しも驚かない。泰然として事に処している。これはおそろしい事だと思う。これをとらえなくてはならぬ。

 我が国の伝統に私小説というシステムがあって、正常な市民生活を描くには最も都合が良かった。之は精巧につくられた網のようなもので、たいていの魚はこれで捕えられ、そして料理された。私といえども戦前までは之を賞玩(しょうがん)することでは人後に落ちなかったけれども、現今の魚はもはや此の網から遠く逸脱しているのではないかと疑われる。捕えたと思ったのが魚ではなくて、魚の影ではないのか。もしそんな仕儀なら、どんなに精巧に拵(こしら)えられてあっても実用に使うわけには行かない。街で見た男女の正月の晴着と一緒で、時々取り出して美しさを嘆賞する分には差支えないけれども、日常の用を足すには役立たぬ。更に別の形の網をつくるより他はない。現今の魚族を捕えるのに最も適当した様式の網をつくらねばならない。

 終戦後、日本の文学が混乱をするだろうと私は思っていたが、それも形だけの混乱にとどまり、本質的には何も変っていないようである。それも在来の網で魚影だけは捕えられたからで、魚の形はしているが魚の味はしないぞとお客はぶつぶつ言ったけれど、他に生き生きした魚の入荷もないから諦めて食べていた感がある。縄で焚火をすると燃え尽きた後に、縄そのままの形をした灰が残る。あれは縄の形はしているが、縄の用には立たないのだ。新しい風が吹くと皆飛散してしまう。今の小説はそれに似ている。

 日本の今の現実に身を処するに、在来のやり方では駄目だということは、日常生活において誰も経験していることにちがいない。電車に乗るのに小笠原流のやり方では駄目だし、おいしそうな果物に対して俳諧的精神を以て眺めるなどということは誰もやらない。電車には人を押し分けて乗り、果物をいきなりもいで食慾を充たそうと試み、そんな態度を我ひと共におこなって怪しまない。生活の上では皆、簡単に過去の亡霊と訣別しているのである。文学の世界でもそうあらねばならぬのに、まだリアリズムと称する自然主義や、私小説的精神や、花鳥風月の精神や、日本的ロマンティシズムと言う不思議な精神が、玉石入り乱れて此の現実を処理しようとひしめき合う有様は、徒労と言うも愚かである。

 私はそんな亡霊たちと訣別したいと思う。

 勿論私も長い間そのような生活の中にいたのだから、簡単に帽子を振って訣別出来るとは思っていない。しかし日常生活の上で肉体が既に訣別しているのに、精神だけが昔の亡霊と奇怪な交歓をつづけていることは不自然にきまっている。私は、雨の漏らぬ部屋に住み、ふかふかした蒲団に寝、三度三度鬼の牙みたいな白い飯を食っているのではない。傾いた陋屋(ろうおく)で茸と共に起き臥ししているのだ。考えることだって昔は考えなかったようなことを考え、感じ、行なっている。物差しを持って来て小説を作ることなら、私にでも楽に出来る。しかしそれでは仕方がないではないか。誰だって昔とは変って来ている。ただ自分が変って来たことを自覚するかしないかが問題だ。そして昔のものと、意識的に訣(わか)れようと思うか思わないかが。

 私は私小説的精神と訣れよう。俳諧とも風流とも訣れよう。義理人情とも訣れよう。何物にも囚われることを止そう。そして何も持たない場所から始めて行こう。自分の眼で見た人間世界を、自分で造った借物でない様式で表現して行こう。

 私は今まで誰をも師と仰がなかったし、誰の指導をも受けなかった。それは文学上のことだけでなく、生活の上でもそうだった。私は何ものの徒弟でもなかった。また私は徒党を組まなかった。曲りなりにもひとりで歩いて来た。今からも風に全身をさらして歩きつづける他はない。

 私だけが歩ける道を、私はかえりみることなく今年は進んで行きたいと思う。私の部屋に生えた茸のように、培養土を持たずとも成長し得るような強靭な生活力をもって、私は今年は生きて行きたいと思う。

エゴイズムに就て   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年執筆。掲載誌・掲載月日不詳(底本解題に拠る)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。]

 

   エゴイズムに就て

 

 今のような時代に生存を保って行くためには、法網をくぐって買出しをやらねばならないし、電車に乗るためには他人を突き飛ばさなければならない。書斎の奥で閑日月を送るという訳には行かないのだ。今や心身の全部をあげて此の世相と対決しなければならなくなった。生きて行くという事は既に、高度の狡智と他人の犠牲の上にのみ可能である。こんな時代にあって何を信じて僕等は生きているのだろう。

 現今各雑誌に発表される諸小説を読んで、僕は不思議で仕方がない。そこにあるものは相も変らぬ善意への郷愁であり、清列なものへの思慕である。此の世相でかよわい善意など何の力があるか。現代にあっては無力なるものは既に悪徳である。善意などというものは今や没落者の擬態に過ぎない。実生活の上では結構抜け目なく逞(たくま)しく生活している作家達が、いざ原稿用紙を前にすると、何故始めて思い直したように世相の頽廃を嘆き善意を待望しようとするのか。何故居もしない青い鳥を描いて見せようとするのであるか。

 今の世で善意を信じることは、山の彼方の空遠くに幸福を信じるよりもっとはかない事である。今時のある種の小説を読んで見たまえ。世相はかくかくだが自分一人は善意を信じて生きているのだぞという厭(いや)らしい顔を、背後に必ず隠しているから。もう嘘つくのは止そう。世相の悪に対決して今まで生きて来たのは、当方にも充分毒を持ち合わせていたからだ。己れの内部の毒から目を外らして、何故叱られた子供のように山の彼方の夕焼ばかり眺め呆(ほう)けているのか。

 今までの小説はエゴイズム否定の歌をうたうことで終った。戦争前まではそれで安心出来たのだ。しかし今はそれで安閑とした顔をしているわけには行かぬだろう。ルネッサンスが個人の自覚に始まったと言うなら、今の時代はエゴイズムの自覚と拡充から始まる。どの途現世の頽廃は底まで行き着かずにはおかぬ。生き抜く事が最高の天徳であり、犠牲や献身が最大の欺瞞であることを僕等は否応なしに思い知るだろう。かくて僕等は僕等のエゴイズムと徹底的に抱き合わねばならぬだろう。

 新しい文学の出発は此の性格を除外してはあり得ない。

芥川龍之介 手帳3―16

《3-16》

○平和祭の上場の時壁に錦繪を貼る 主人公 日本へ來た事のある Doctor

[やぶちゃん注:「上場」は「じやうぢやう(じょうじょう)」で、ここは上演の意であろう。]

 

             {prose

〇近松門左衞門を詰問する文{手紙

             {prose

[やぶちゃん注:「prose」散文体の意とも思えない。以下の内容(手紙の筆者の心的状況)から「平凡・単調」の謂いであろう。これは以下に全文を示す未定稿「河内屋太兵衞の手紙」の構想メモである(底本は岩波旧全集を用い、新全集と校合した)。なお、新全集の後記によればこの原稿は総ての欄外に『中央公論小説四』の印が捺されており、『「中央公論」に発表を予定しながら、何かの都合でみあわされたものであろう』とあり、底本には『(未完』『(大正十一年頃)』とあるものの、元版全集には『(大正十年頃)』とあるとする。さても、前項《3-15》に「×三月十日〆切 中央公論」とあったのと(「×」に着目)、これは関係するのかも知れぬ

   *

 

   河内屋太兵衞の手紙

 

 まだお目にかかつた事はありませんが、是非ともあなたの御所存を承りたいと存じますから、失禮をも顧ず、この手紙を差上げる事にしました。勿論近松門左衞門樣と申せば、日本六十餘州の中にも、隱れのないあなたの事ですから、かう云ふ手紙をお受けとりになるのも、珍らしい事ではありますまい。しかしどうかこの手紙は、うるさいなどと思召さず、兎に角御披見を願ひたいと存じます。その上もし御差支へなければ、折り返し御意見をお聞かせ下さい。あなたにこんな事をお願ひするのは、勿論僭上の沙汰とは存じてゐますが、何しろ下にも申し上げる通り、これはわたし、河内屋太兵衞の命にも關る一大事なのです。いや、或は大阪を始め、津々浦々の若いものの命にも關る一大事なのです。ですから虫の好いお願ひにもしろ、わたしの心をお察しの上、どうか一概に却けないで下さい。

 恥を申さなければわかりませんが、わたしはこの一二年、曾根崎の茶屋津の國屋の小まんと云ふ白人に、深い馴染みを重ねて來ました。あなたに聞いて頂きたいのも、實はこの小まんとわたしとの、二人の間に持ち上つた、泣いたらば好いか、笑つたらば好いか、方返しのつかない出來事なのです。と云つても格別自慢さうに、一々二人の睦じさ加減を吹聽する次第でもないのですから、その邊は御心配には及びません。わたしが小まんと馴れ染めたのは、――そのいきさつを申し上げる前に、わたしの身の上はどうなつてゐるのか、それを一通り書いて見ませう。さもなければ肝腎の話も、なぜさう云ふ始末になつたか、はつきりしない惧がありますから。

 わたしの父、河内屋德兵衞は、わたしが七つ、弟の與兵衞が四つの時、故人の數へはひりました。その後母へ入夫をしたのが、今の父の德兵衞です。それから母はもう一人、お近と云ふ妹を儲けました。現在はわたしだけ順慶町に、あとは皆ずつと本天滿町に、どちらも油屋を渡世にしてゐます。いづれお近にでも婿を取れば、親讓りの見世はそちらに渡し、與兵衞はやはりわたしのやうに、分家する事になるのでせう。

 わたしは順慶町に見世を持つた時、お種と云ふ女房を貰ひました。お種は美人ではありません。が、素直な、技巧のない、その代り多少子供じみた、云はば善良な女房なのです。わたしは世帶を持つた當座、この正直すぎる位、無邪氣な所が氣に入つてゐました。いや、今でも其處だけは、何にも換へられないと思つてゐます。確か祝言をすませてから、一月とたたない頃だつたでせう。まだ風の寒い時分でしたが、お種は買ひ物に行つた歸りに、牡丹を一枝買つて來ました。輪の大きい、薄い紅をさした、目のさめるやうな寒牡丹です。わたしは時候が時候ですから、これは安い價段では賣るまい、どの位とられたと尋ねて見ました。するとずゐぶん高うございました、二十何匁とか云ふではありませんか? わたしもさすがに驚きました。このせち辛い世の中に、いくら里の母に貰つた、小遣ひが殘つてゐるにしても、そんな金を使ふやうでは、さき行きも氣づかはれると云ふものです。しかしお種が嬉しさうに、その花を活けてゐるのを見ると、小言を云ふ氣になるよりは、まづ頰笑んでしまひました。本天滿町の父や母は、鼻紙一枚使ふのにさへ、二つに切らなければ使ひません。それがかう云ふ所を見たら、どんな顏をするだらうと思つたのです。同時に人の思惑などには、善かれ惡しかれ氣のつかないお種が、(つけば悄氣てしまふのですが、)妙に可憐な氣がしたのです。お種も今では子持ちですから、如何に世間を知らないと云つても、その時程の事はありません。が、お種の善良さには、少しも變りは見えないのです。

 もう一つ次手に申し上げれば、丁度子供が生まれた年、――太吉は今年三つですから、もう一昨年になりますが、小さい頸や胸のあたりに、ひどい汗疹の出來た事があります。わたしはそれへつけてやるのに、天瓜粉を買へと云ひつけました。所が朝云ひつけたのに、夕方行水を使ふ時になつても、未に天瓜粉は買つてありません。わたしはお種に小言を云ひました。するとお種はあやまる所か、そんな事を仰有つても、外に手のある訣ではなしなどと、不服がましい理窟を並べるのです。わたしは腹が立ちましたから、二言三言云ひ合つた末、里へ歸れと怒鳴りつけました。その日はありふれた夫婦喧嘩のやうに、それぎり無事にすんだのです。が、ずつと後になつてから、もう彼是大晦日に間もない時分の朝の事ですが、例年通り神棚を淸めてゐると、ふと氏神の御札の陰に、扇を一本見つけました。しかもこの無地の扇は、何時か何處かへ見えなくなつた、わたしの古扇ではありませんか? わたしはお種に扇を見せながら、妙な事があるものだ、お前は知らないかと尋ねて見ました。しかしお種はどうしたのか、笑つてばかりゐるのです。勿論笑ふ所を見ると、お種の仕業には違ひないのですが、なぜ神棚へ隱して置いたのか、その訣はとんとのみこめません。それでも眞面目に問ひつめられると、お種はとうとう極り惡さうに、こんな事を白狀しました。「何時か夏天瓜粉の事から、出て行けと仰有つた事がございませう。あの時もしどうしても、此處へ置かないと仰有つたら、その扇を一本だけ、頂いて參るつもりで居りました。所があれぎりになりましたから、つい神棚へ載せて置いたなり、出し忘れてしまつたのでございます。」わたしはお種の話を聞きながら、つまらない事を思ひ出しました。それは丁度四年前に、お種と祝言をした時にも、この扇を持つてゐたと云ふ事です。

 もうこれだけ申し上げれば、わたしの女房はどう云ふ女か、大抵御推察がついたでせう。又わたしがかう云ふ女房に、何の不足も感じてゐないのは、格別不思議でもありますまい。ではなぜ小まんと深い仲になつたか、――あなたはさう仰有るでせう。いや、心中物の作者たるあなたは、そんな事を仰有るには、餘りに人間の本性を知り過ぎていらつしやるかも知れません。が、もし假にさう仰有つたとすれば、かうわたしは申し上げたいのです。成程お種自身には、何の不足も感じてゐません。しかし我々の夫婦暮らしは、時々退屈に感ぜられるのです。我々の、――これは我々ばかりでせうか? わたしはひとり我々に限らず、誰のでもさうらしい氣がするのです。なぜと云へばお種のやうに、不足のない女房を持つてゐてさへ、退屈さに變りはないのですから。

 わたしはこの退屈さの爲に、時々曾根崎へ遊びに行きました。これはわたしに云はせると、たとひ惡い事にしても、やむを得ない事だつたのです。しかし小まんに夢中になつたのは、のみならず飛んでもない人騷がせをしたのは、「やむを得ない」だけではすまされません。なぜわたしはああなつたか、わたしは忘れ難い一昨日の夜、小まんと二人歩きながら、その事ばかり考へてゐました。すると突然、――實際それは花火のやうに、突然心に浮んだのです。――わたしはずつとあなたの爲に、欺されてゐた事を發見しました。

 あなたに欺されてゐたと云ふのは、――その訣は少時お待ち下さい。わたしはまづ小まんの事から、申し上げなければなりません。小まんは前にも書いた通り、津の國屋の抱への白人です。これも美人ではありません。が、どう云ふ因緣か、小まんは殆ど何から何まで、わたしの女房とは反對なのです。お種がすらりと瘦せてゐれば、小まんは園々と肥つてゐる、お種が地味なつくりをすれば、小まんは派手なつくりをする、お種が技巧を知らなければ、小まんは技巧を知り過ぎてゐる、お種の右の頰に黑子があれば、小まんは左の頰に黑子がある、――あなたはまさか黑子まではと、お笑ひになるかも知れません。が、それもほんたうなのです。わたしは最初小まんを見た時、この何一つわたしの女房と、似てゐるもののない所に、人知れない興味を感じました。もし小まんに少しでも、お種と變らない所があつたら、たとひあなたに欺されたにしても、あれ程のぼせつめはしなかつたでせう。ああ、女房と裏腹な女に、どんな誘惑がひそんでゐるか、わたしはそれを考へると、常に變化を求めるのは、避け難い人間の宿命とは云へ、今更のやうに恐しい心もちがします。しかもこれはわたしばかりか、御前町の紙屋の主人、治兵衞もさうではありませんか? 紙治はやはり曾根崎の茶屋、紀の國屋の小春に通つてゐます。小春は瘦せた女ですが、治兵衞の女房を御覽なさい。あの位象のやうに大きい女が、一人でも外にゐるでせうか?……しかしそんな事は餘談です。

 ゎたしは小まんの誘惑が、大きかつた事を申し上げました。しかしその誘惑と一しよに、始終わたしを支配してゐたのは、恐しいあなたの噓の力です。ではその噓とは何だつたか、あなたはわたしと小まんとの、二人のいきさつをお聞きになる内に、自然とおわかりになるでせう。これは去年の秋ですが、わたしは掛け先を𢌞つた戾りに、生玉の社へさしかかりました。すると誰か後ろから、「たあ樣、たあ樣」と聲をかけるのです。わたしは編笠をかぶつたなり、聲のする方をふり返りました。と、出茶屋の床にゐるのは、投島田に結つた小まんです。「何だ、お前か?」――わたしはさう云つた時には、もう其處へ腰かけてゐました。聞けば小まんは田舍の客と、三十三番の觀音を𢌞り、あとは日暮らし酒にする爲、此處に來てゐると云ふのです。そんな話を聞いてゐる内に、わたしはだんだん色男らしい、しんみりした氣もちになつて來ました。あなたは勿論さう云ふ氣もちが、どんなものだかも御存じでせう。あの「曾根崎心中」の中に、丁度これと同じやうな、生玉の一場をお書きになつたあなたは。わたしは今考へれば、既にもうその時から、あなたの犧牲になつてゐたのです。しかしその時は小まんと二人、唯しみじみと寄り添つた儘、舌たるい話に耽つてゐました。いや、そればかりではありません。わたしは人目のないのを幸ひ、簾のかげに隱れながら、ちよいと小まんの口を吸ひました。と同時にわたしの口には、苦いものが一ぱいに擴がりました。何でもこの苦いものは、今し方胸の痛んだ爲、小まんの呑んだ熊の膽なのださうです。あなたはこんな事をお聞きになれば、お笑ひになるのに違ひありません。しかしわたしは笑ふ所か、氣の毒がる小まんの手をとつたなり、もう一度眞面目に話し出しました。この笑ひさへしなかつたのを見ても、如何にわたしが莫迦だつたか、容易に御想像が出來るでせう。

   *

私は……この続きを読むことが出来ないことを、心から残念に思う…………]

 

Cupid になつた女が love を得ない話 SSS五月號

[やぶちゃん注:「SSS」は「サンエス」という当時の日本の草分け的存在であった万年筆メーカーで、広告を兼ねた雑誌として『サンエス』を発刊、横光利一や小川未明も小説を発表している。これは芥川龍之介の作品構想ではなく、その『サンエス』に載った佐藤惣之助の散文作品のメモ書きである。これについては芥川龍之介は「野人生計の事」(大正一三(一九二四)年一月『サンデー毎日』)の「三 キュウピッド」で以下のように記している(リンク先は私の古い電子テクスト)。

   *

 

       三 キュウピッド

 

 淺草といふ言葉は複雜である。たとへば芝とか麻布とかいふ言葉は一つの觀念を與へるのに過ぎない。しかし淺草といふ言葉は少くとも僕には三通りの觀念を與へる言葉である。

 第一に淺草といひさへすれば僕の目の前に現れるのは大きい丹塗りの伽藍である。或はあの伽藍を中心にした五重塔や仁王門である。これは今度の震災にも幸と無事に燒殘つた。今ごろは丹塗りの堂の前にも明るい銀杏の黃葉の中に、不相變鳩が何十羽も大まはりに輪を描いてゐることであらう。

 第二に僕の思ひ出すのは池のまはりの見世物小屋である。これは悉く燒野原になつた。

 第三に見える淺草はつゝましい下町の一部である。花川戸、山谷、駒形、藏前――その外何處でも差支へない。唯雨上りの瓦屋根だの、火のともらない御神燈だの、花の凋んだ朝顏の鉢だのに「淺草」の作者久保田万太郎君を感じられさへすれば好いのである。これも亦今度の大地震は一望の焦土に變らせてしまつた。

 この三通りの淺草のうち、僕のもう少し低徊したいのは、第二の淺草、――活動寫眞やメリイ・ゴウ・ランドの小屋の軒を竝べてゐた淺草である。もし久保田万太郎君を第三の淺草の詩人とすれば、第二の淺草の詩人もない譯ではない。谷崎潤一郎君もその一人である。室生犀星君も亦その一人である。が、僕はその外にもう一人の詩人を數へたい。といふのは佐藤惣之助君である。僕はもう四五年前、確か雜誌「サンエス」に佐藤君の書いた散文を讀んだ。それは僅か數頁にオペラの樂屋を描いたスケッチだつた。が、キュウピッドに扮した無數の少女の𢌞り梯子を下る光景は如何にも潑剌としたものだつた。

 第二の淺草の記憶は澤山ある。その最も古いものは砂文字の婆さんの記憶かも知れない。婆さんはいつも五色の砂に白井權八や小紫を描いた。砂の色は妙に曇つてゐたから、白井權八や小紫もやはりもの寂びた姿をしてゐた。それから長井兵助と稱した、蝦蟇の脂を賣る居合拔きである。あの長い刀をかけた、――いや、かういふ昔の景色は先師夏目先生の「彼岸過迄」に書いてある以上、今更僕の惡文などは待たずとも好いのに違ひない。その後ろは水族館である、安本龜八の活人形である、或は又珍世界のX光線である。

 更にずつと近い頃の記憶はカリガリ博士のフイルムである。(僕はあのフィルムの動いてゐるうちに、僕の持つてゐたステツキの柄へかすかに絲を張り渡す一匹の蜘蛛を發見した。この蜘蛛は表現派のフィルムよりも、數等僕には氣味の惡い印象を與へた覺えがある)さもなければロシアの女曲馬師である。さう云ふ記憶は今になつて見るとどれ一つ懷しさを與へないものはない。が、最も僕の心にはつきりと跡を殘してゐるのは佐藤君の描いた光景である。キュウピッドに扮した無數の少女の𢌞り梯子を下る光景である。

 僕も亦或晩春の午後、或オペラの樂屋の廊下に彼等の一群を見たことがある。彼等は佐藤君の書いたやうに、ぞろぞろ𢌞り梯子を下つて行つた。薔薇色の翼、金色の弓、それから薄い水色の衣裳、――かう云ふ色彩を煙らせた、もの憂いパステルの心もちも佐藤君の散文の通りである。僕はマネジャアのN君と彼等のおりるのを見下しながら、ふとその中のキュウピッドの一人の萎れてゐるのを發見した。キュウピッドは十五か十六であらう。ちらりと見た顏は頰の落ちた、腺病質らしい細おもてである。僕はN君に話しかけた。

 「あのキュウピッドは悄氣てゐますね。舞臺監督にでも叱られたやうですね。」

 「どれ? ああ、あれですか? あれは失戀してゐるのですよ。」

 N君は無造作に返事をした。

 このキュウピッドの出るオペラは喜歌劇だつたのに違ひない。しかし人生は喜歌劇にさへ、――今更そんなモオラルなどを持ち出す必要はないかも知れない。しかし兎に角月桂や薔薇にフット・ライトの光を受けた思ひ出の中の舞臺には、その後もずつと影のやうにキュウピッドが一人失戀してゐる。……

   *

先のテクストで私は以下の注を附している。参考までに掲げておく(一部を本テクストに合わせてブラッシュ・アップした)。

   *

■「三 キュウピッド」やぶちゃん注

・「淺草」明治四五(一九一二)年二月に刊行された久保田万太郎の作品集の名。

・「サンエス」サンエスは当時の日本の万年筆メーカーの草分け的存在で、万年筆の広告を兼ねた雑誌として『サンエス』を発刊、横光利一や小川未明も小説を発表している。

・「砂文字」:砂絵とも言う。大道芸の一つ。五色に彩色した砂を手で握って指の間から落としながら絵や文字を描く。

・「佐藤君の書いた散文」詩人・作詞家であった佐藤惣之助は浅草オペラ誕生に関わるなど、浅草文士の一人である。岩波版新全集の石井和夫氏注解の「サンエス」の注(断っておくが、私の「サンエス」の前記注は別ソースで全く参考にしていない)の最後に、「サンエス」の『二〇年五月号に、佐藤の「白鷺」を掲載。』とある。その「白鷺」なるものが浅草オペラを素材としているという記載はないが、石井氏はこれが芥川がここで言う「散文」であると同定していると読める。[やぶちゃん注:太字傍線は今現在(二〇一六年七月十八日)の私が附した。]

・「白井權八や小紫」「白井權八」は「お若えの、お待ちなせえ」の名台詞で有名な歌舞伎「御存鈴ヶ森」の登場人物(もとは四世鶴屋南北「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなづま)」の一部)。浅草の繁華街の一角、花川戸が舞台となっている。本作は幡随長兵衛も登場する義侠ものであるが、この話には実話のモデルがある。寛文年間に鳥取藩を殺傷事件で脱藩した平井権八なる人物で、江戸に来て強盗を働いては吉原に通い、そこの遊女小紫と恋仲になるが、その遊興の為に百数十人の辻斬りに及んだが、最後は自首して磔刑となった。現在、目黒不動仁王門前の東昌寺跡に権八と後を追って自害した小紫が眠る比翼塚があるという(以上は「民俗学的歌舞伎鑑賞」なる頁の同外題の解説を参照させて頂いた)。

・「長井兵助」「ながゐひやうすけ(ながいひょうすけ)」と読む。江戸後期の香具師(やし)。安永(一七七二年~一七八一年)頃、江戸浅草蔵前に住み、近くの奥山・上野山下などで歯磨きや陣中膏がまの油なる民間薬を売ったり、簡単な口腔の治療等を施したりした。特に人集めのために演じた大太刀の居合抜きと四六の蝦蟇の口上で有名となった。生没年未詳であるがこの名は十一代、明治の中頃まで続いた。

・「安本龜八」(やすもとかめはち 文政八(一八二五)年~明治三三(一九〇〇)年)は熊本出身の人形師。仏師の家に生まれるも明治維新後の排仏毀釈運動の影響で、人形細工師として身をたてる。兄と共に上方・江戸と人形見世物を興行、「忠臣蔵」等を題材とした本物と見まごう活(いき)人形で好評を博す。明治八(一八七五)年には海外へ進出して上海興行も果たし、明治一〇(一八七七)年の内国勧業博覧会では等身大の艶麗な女性の活人形を出展して、活人形師としてはもう一人の名匠松本喜三郎と双璧であった(以上はウィキペディアの「安本亀八」を参照させて頂いた)。

・「珍世界のX光線」「珍世界」は興行館の名称。明治四〇(一九〇七)年元旦の「都新聞」に浅草の娯楽施設についての記事があって、そこには十二階・江川の玉乗り・珍世界・電気館・木馬館の名が挙がっていると「もう一つの木馬館」という記事にある。「X光線」は見世物興行の一つであると思われるが、不詳。多様な物をレントゲン撮影したフィルムを展示していたか、それとも怪しげな透視術か。

・『「彼岸過迄」に書いてある』夏目漱石「彼岸過迄」の第二パートに当たる「停留所」の中間部「十六」章以下に、長井兵助を初めとした浅草の景観が描かれている。

・「カリガリ博士」一九二〇年制作のドイツ映画。七十一分・モノクローム(部分的にフィルム自体のパート着色有)・サイレント。原題はDas Kabinett des Doktor Caligari「カリガリ博士の箱」。ローベルト・ヴィーネ監督(Robert Wiene 一八七三年~一九三八年)。今見ても極めて斬新、幻術的にして芸術的な二十世紀初頭の表現主義の名作である。個人的には大変好きな作品である。是非、一見をお薦めする。なお、本作は日本では大正一〇(一九二一)年五月にキネマ倶楽部封切とあるが、この時、芥川は中国行の最中であるので、帰国(七月二十日頃田端帰着)後の比較的早い時期に、浅草六区の活動写真館キネマ倶楽部での鑑賞と推定される。

   *]

 

○小さん一代記 新小説にあり

[やぶちゃん注:これは落語家三代目柳家小さん(安政四(一八五七)年~昭和五(一九三〇)年:生家は一橋家家臣)のそれであろう。「朝日日本歴史人物事典」の山本進氏の同人解説の参考文献によって『新小説』明治三六(一九〇三)年一月号に載ったものであるが分かったが、筆者は突き止められなかった。なお、2―8の注で述べた通り、芥川龍之介の落語への関心は極めて本格的なものであった。]

 

○夫婦共通の suffering あり 夫は落語家 Jokes を高座にて云ひ後それを聞きゐたる妻にあひ赤面す

[やぶちゃん注:「suffering難儀。前の「小さん一代記」にでも載る内容か?]

芥川龍之介 手帳3―15

《3-15》

〇×二つの情死 一つは成功し一つは失敗す love は同じ or 成功せる方少し

[やぶちゃん注:「×」があるが、私はこれも未定稿の「河内屋太兵衞の手紙」のプレ構想のような気がしてならない(同未定稿は次の《3-16》で示す)。]

 

現在關係しつつある女の事をと初めて逢つた時の事を考へる さうしてその時の she の美しかつたのに驚く she はその時子供らしく今は動物的なり

[やぶちゃん注:これは構想というよりも、秀しげ子との関係の変化を示すものと一致する。「或阿呆の一生」の、

   *

 

       二十一 狂人の娘

 

 二台の人力車は人氣のない曇天の田舍道を走つて行つた。その道の海に向つてゐることは潮風の來るのでも明らかだつた。後(うしろ)の人力車に乘つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。それは決して戀愛ではなかつた。若し戀愛でないとすれば、――彼はこの答を避ける爲に「兎に角我等は對等だ」と考へない譯には行かなかつた。

 前の人力車に乘つてゐるのは或狂人の娘だつた。のみならず彼女の妹は嫉妬の爲に自殺してゐた。

 「もうどうにも仕かたはない。」

 彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり強い彼女に或憎惡を感じてゐた。

 二台の人力車はその間に磯臭い墓地の外へ通りかかつた。蛎殼(かきがら)のついた粗朶垣(そだがき)の中には石塔が幾つも黑んでゐた。彼はそれ等の石塔の向うにかすかにかがやいた海を眺め、何か急に彼女の夫を――彼女の心を捉へてゐない彼女の夫を輕蔑し出した。………

   *

である。]

 

○×三月十日〆切 中央公論

[やぶちゃん注:不詳。これはこの辺りの記載の年が判る情報ではあるのだが。]

 

○ペンギン鳥悶絶す 白瀨中尉の芝居 七月

[やぶちゃん注:これはアフォリズム「貝殼」(大正十六(一九二七)年一月『文藝春秋』)の以下の章となる素材メモである(リンク先は私の古い電子テクスト)。

   *
 
 
       五 失敗

 

 あの男は何をしても失敗してゐた。最後にも――あの男は最後には壯士役者になり白瀨中尉を當てこんだ「南極探險」と云ふ芝居へ出ることになつた。勿論それは夏芝居だつた。あの男は唯のペングイン鳥になり、氷山の間を歩いてゐた。そのうちに烈しい暑さの爲にとうとう悶絶して死んでしまつた。

   *

「白瀨中尉」白瀬矗(しらせのぶ 文久元(一八六一)年~昭和二一(一九四六)年)は日本の陸軍軍人(最終階級:陸軍輜重兵中尉)で南極探検家。出羽国由利郡(現在の秋田県)金浦村の浄土真宗浄蓮寺住職白瀬知道とマキエの長男として生まれ、明治五(一八七二)年に近所の医師佐々木節斎の寺子屋で北極の話を聞き、探検家を志した。明治十二年に陸軍入隊、明治二十六年には千島探検隊に加わり、二年間を越冬している。日露戦争で負傷、中尉となり、明治四十二年、米国ペアリー隊が北極点初到着に成功したことを知り、目標を南極に変更、朝日新聞社が読者に呼びかけた寄金約五万円を中心に準備を整え、明治四三(一九一〇)年十一月に開南丸で芝浦沖を出帆した(現在から見れば大型漁船並のもの)。ノルウェーのアムンゼン、英国のスコット両隊との先陣争いを目指したが、大正元(一九一二)年一月に白瀬がロス海に入った時には既に両隊は極点に達していた(スコット隊は帰途に遭難)。白瀬隊はカラフト犬の橇で同年一月二十八日に南緯八〇度五分まで進み、そこを「大和雪原」と命名した。しかし帰国後は、多額の借金返済に二十年に亙って苦しみ、貧窮のうちに敗戦の翌年に病死した(ここまでは「朝日日本歴史人物事典」の武田文男氏の解説に拠った)。ウィキの「白瀬矗によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、同年『二月四日に南極を離れ、ウェリントン経由で日本に戻ることとなった。いざ南極を離れようとすると海は大荒れとなり、連れてきた樺太犬二十一頭を置き去りにせざるを得なくなった(そのうち六頭は生還)。このため、参加していた樺太出身のアイヌの隊員二名(山辺安之助と花守信吉)は犬を大事にするアイヌの掟を破ったとして、帰郷後に民族裁判にかけられて有罪を宣告されたと伝えられる』。『ウェリントンに戻ると、白瀬隊の内紛は修復出来ないほど悪化しており、白瀬と彼に同調するもの四名は、開南丸ではなく貨客船で日本に帰ってきた。他の者は開南丸に乗って六月十八日に館山に到着し、十九日に横浜へ回航、そして二十日に出発地である芝浦へ帰還した。約五万人の市民が開南丸の帰還を歓迎し、夜には早大生を中核とした学生約五千人が提灯行列を行った。帰国後、後援会が資金を遊興飲食費に当てていたことがわかり、白瀬は四万円(現在の一億五千万円)の借金を背負い、隊員の給料すら支払えなかった。自宅、家財道具、軍服と軍刀を売却して、転居につぐ転居を重ね、実写フィルムを抱えて娘と共に、日本はもちろん台湾、満州、朝鮮半島を講演して回り、二十年をかけて渡航の借金の弁済に努めた。南極地域観測隊第一次隊越冬隊長である西堀栄三郎は京都南座で白瀬の南極公演を聞いて、南極探検を志すに至っている。その時、西堀は白瀬が南極探検を志した年齢と同じ十一才であった』。『南極へ出発する当初、日本国中で「小さな漁船で南極へ向かうのは無謀」などと散々な罵声や嘲笑があったものの、白瀬ら全員が帰国した際は日本中が歓喜に沸いた。白瀬も皇太子との謁見や各地での歓迎式典が開かれたほか、学術的資料としても南極の気象や動植物の記録、ペンギンの胃から出てきた百四十個あまりの石の分類も行われた。昭和十一年(一九三六年)には東京科学博物館(現・国立科学博物館)にて「南極の科学」展が開かれ、白瀬はその講演で出席したほか、同十二年(一九三八年)には国から「大隈湾」「開南湾」命名による感謝状が手渡された』。『昭和二十一年(一九四六年)九月四日、愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)の、白瀬の次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室で死去。享年八十五。死因は腸閉塞であった。床の間にみかん箱が置かれ、その上にカボチャ二つとナス数個、乾きうどん一把が添えられた祭壇を、弔問するものは少なかった。近隣住民のほとんどが、白瀬矗が住んでいるということを知らなかった』。『白瀬の死後、遺族はその窮状を見かねた浄覚寺の住職が引き取った。奇しくも、後に第一次南極観測隊隊長となる永田武は、白瀬の遺族と同じ浄覚寺に疎開していた』とある。私はこの数奇な末期を今日まで知らなかった。ここに掲げて哀悼の意を表したい。]

 

○宿屋の亭主 女房はおしやく上り(農科大學生の子) 前に張り合つた男とまる 夫婦間の緊張

戦争が始まった日   梅崎春生

 

 昭和十六年十二月八日の日記を左に記す。

「朝、便所にいたら、米国、総動員令を発したというラジオのニュースにつづいて、重大発表があるから、スイッチを切らないで待ってほしいという意味のラジオがきこえた。すぐ便所を出て、朝御飯をたべながら、そして、朝の新聞には、何も出ていない。

 菊坂の煙草屋で、西太平洋において、日本は英米と戦争状態に入ったというニュースを聞く。

 それから、研究所で、次々に、歴史的なニュースを聞く。

 夜は道灌(どうかん)山でM君と飲み、E氏とあった。

 かえり、ウエストヴァージニアを沈めたニュース」

 心覚えのための日記だから、意味の通らないところもあるが、そのまま書き写した。

 昭和二十年八月十五日の日記は、あちこちで発表されたようであるが、開戦の日の日記はあまり読んだことはない。開戦日記は終戦日記より意味がないということか。

 私の日記は平々凡々で、何のへんてつもない。何を感じ、どう考えたかということも一切記してないが、私はその日烈しいショックを感じ、また非常に憂鬱であった。

 というのは、私にはその三日前の十二月五日に陸軍(対馬(つしま)重砲隊)から召集令状が来ていたのである。英米と戦争を始めたからには、もう一生帰ることは出来ないだろう。その感じがまず私に来た。

 当時私は二十六歳。紅顔の美青年。独身。本郷の下宿屋から勤め先に通っていた。月給は七十五円。下宿代は朝夕二食つきで二十五円くらいだったと思う。朝便所にいたら、というのは下宿の便所のことで、隣の家のラジオが聞えていた。

 米国が総動員令を発した、ということの意味が、私にはよく判らなかった。何でものものしくあんな具合に放送しているんだろう、と私はいぶかった記憶がある。あの当時から私ははなはだかんが悪い。

 だから本郷菊坂の煙草屋で聞いた、戦争状態に入ったというニュースは、かなりのショックで、これはたいへんなことになったとあわてた。

 あの頃の新開や雑誌で、一部の文人歌人俳人などが、暗雲一時に晴れた感じがするなどと、威勢のいい文や歌などを発表していたが、私はそうは全然感じなかった。むしろ暗雲一時にかぶさって来たという感じがした。

 今思うと、暗雲一時に晴れた連中はたいてい老人(あるいは中老)で、したがって戦争だからと言って銃をとる義務のない輩ばかりである。

 こちらは直ちに銃をとらねばならぬし、まかり間違えば命を差出さねばならないのだから、一時に晴れたなどとうそぶいておれる立場ではなかった。実際大人というやつは、身勝手なものである。その身勝手な年齢に、今や私もなってしまったけれども。

 勤め先は東京都(東京市だったかな?)教育局教育研究所というところで、上野の山の中にあった。

 市政会館という建物の中で、現在その建物は竹ノ台高校が使用していると思う。私は毎日東大構内を通り抜け、不忍池の中道を渡り、上野の石段を登る。通勤路としては、静かで快適で最高の道であったが、その日はさすがに気持が屈して、快適というわけには行かなかった。

 開戦の報を聞いた時、前途に対する強い不安(前途というのは個人の前途と共に国家の前途も含まれる)が先ず来たというのが、あの日の朝の一般日本人の気持じゃなかったかと、私は思っている。

 もっともその不安は、あちこちで戦果が上ったために、何となくごまかされてしまった。軍部の方も、その不安が復活するのをおそれて、敗戦の報は一切国民に伝えない方針を取った。

 天皇の放送も、その建物の中の一室で聞いた。皆が立ち上って首をうなだれたから、私もそうした。私の年代、それ以上の年代は、勅語などを聞く時には、条件反射的にそんな姿勢をとるように仕込まれている。

 そういう姿勢をとっても、それは外見だけで、内心何を考えているか、それは各人各様であったが。

 で、その日は、あまり仕事に手がつかなかった。割に暇な役所で、しかも私は公吏としてあまり有能でなかったから、責任あるような仕事は与えられていなかった。

 あれで月給だけはちゃんと取っていたのだから、昔の役所はのんびりしていたと思う。ラジオを聞いているだけで、一日の勤務が終ってしまった。

 役所が終ると、早速道灌山にかけつける。

 まだその頃は物資がそれほど窮屈でなく、酒も店で充分に飲めた。実際窮屈になって飲屋に長い行列するようになったのは、昭和十八年以降である。

 ただ一般的に酒が非常に薄くなって来ていた。醸造元から薄いのか、飲屋で水を割るのか、金魚酒なんて名前のついているのもあった。金魚を入れても生きているという意味だ。

 その道灌山の飲屋では、そんな金魚酒なんか飲ませなかった。歯ごたえ、いや、咽喉ごたえのある酒を飲ませた。

 よそで五本飲まなくちゃ酔わないのに、この店では三本で酔うから、われわれはこの店を格別ひいきにした。

 この日もこの店は満員であった。飲まずにいられないようなものが、各人にあったのだろう。

 私もそこで酔っぱらい、徒歩で本郷台町まで戻る途中、街角の交番の前で、ウエストヴァージニアを沈めたというラジオのニュースを聞いた。だから真珠湾の戦果は、夜になって発表されたのだと思う。

 私の漠然たる記憶では、道灌山から下宿に戻る途中の街が、非常に暗かった。燈火管制をしていたんじゃないか、と今にして考えられる。

 この日の日記はこれでおしまい。

 翌日からどういうことになったかというと、昭和十六年の当用日記は、十二月八日で終っていて、あとは全部空白。

 何故書かなかったのか、その理由は今どうしても思い出せない。召集のことが気になって、日記をつける気にならなかったのかも知れない。

 ついでながら召集のことを書くと、召集日は翌年一月の十日であった。

 私は九州に戻り、荒天下の玄海灘を押し渡り、対馬厳原(いずはら)についたのが真夜中で、それから部隊所在地の鶏知というところまで夜道の三里を、強行軍させられた。

 船に酔ってくたくたになっていたから、その夜行軍はひどくつらかった。

 夜が明けて、寒風が自由自在に吹き通る兵舎の中で、裸になって身体検査。たいへん寒くて、がたがた慄えた。今でも対馬を考えると、あの寒風のことを思い出す。

 こんな荒涼たる島におれの青春を埋めるのかと、絶望的な気分になったが、辛か不幸か軍医の聴診器が私の軽微な胸部疾患を発見して、即日帰郷ということになった。何百人か召集されて、即日帰郷は五人か六人であった。

 評論家の大西巨人君も私といっしょに召集され、彼は終戦まで四年間、この島で艱難辛苦をとげた。そのいきさつを新日本文学に「神聖喜劇」と題して、彼は書いている。

 私は帰れてよかったと思う。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第三十六回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年十二月十八日号掲載分。

「昭和十六年十二月八日の日記」底本の同巻には梅崎春生の日記の一部が活字化されてある(敗戦の昭和二〇(一九四五)年の分(これも抄録)はこちらで電子化済)が、非常に残念なことに紙幅の都合から昭和一六(一九三一)年分は割愛されている。

「研究所」後に出る東京都教育局教育研究所(春生は東京市だったかと述べているが、底本年譜では『東京都』とある)。東京帝国大学文学部国文科(一年間自主的に留年。因みに、殆んど講義には出ていなかった)を卒業した昭和一五(一九四〇)年に就職した。但し、後で春生は、その場所を「市政会館という建物の中で、現在その建物は竹ノ台高校が使用していると思う。私は毎日東大構内を通り抜け、不忍池の中道を渡り、上野の石段を登る」とあるのであるが、これらの位置は現行の「市政会館」や都立「竹ノ台高校」とは一致しない。識者の御教授を乞う。

「道灌山」現在の東京都荒川区西日暮里四丁目にある高台。上野・鶯谷・田端・王子へ連なる台地の一際狭く、少し高い場所にある。名称は『江戸城を築いた室町時代後期の武将・太田道灌の出城址という説、鎌倉時代の豪族・関道閑(せきどうかん)の屋敷址という説がある』(ウィキの「道灌山」に拠る)。

でM君と飲み、E氏とあった。

「ウエストヴァージニア」アメリカ海軍戦艦ウェスト・バージニア (USS West Virginia, BB-48)。昭和一六(一九四一)年十二月八日の日本海軍による真珠湾攻撃(日本時間年十二月八日未明・ハワイ時間十二月七日)により大破(雷撃機からの最初の魚雷が同艦に命中したのは現地時間午前八時前)、着底して戦闘不能となり、その後に浮揚、改修工事をうけて一九四四(昭和十九年)年には太平洋艦隊に復帰しており、ウィキの「ウェストバージニア戦艦によれば、同年十月二十五日の『深夜、レイテ沖海戦でのスリガオ海峡で、オルデンドルフ中将の指揮の下の艦隊に参加し、扶桑・山城をはじめとする日本海軍の西村祥治中将の艦隊を撃破している』とある。

「対馬厳原(いずはら)」現在の長崎県対馬市厳原対馬の島の南部にある対馬振興局(旧対馬支庁・旧対馬地方局)の所在地。

「鶏知」現在の対馬市美津島町(みつしまち)鶏知(けいち)で島の中南部の町。町役場も同地に置かれている。

「三里」十一・八キロメートル弱。

「大西巨人」福岡市出身の左派作家大西巨人(きょじん 大正五(一九一六)年~平成二六(二〇一四)年)。梅崎春生より一つ年下である。

「神聖喜劇」ウィキの「大西巨人」によれば、『兵隊経験を基に、日本軍を舞台にした全八部約四七〇〇枚の大長編小説『神聖喜劇』を約四半世紀を費やして著す。この作品には、野間の『真空地帯』が資本制経済下における階級社会の縮図としてある軍隊を描いていないという問題意識も反映している。最初は雑誌『新日本文学』に掲載されたが、大西が新日本文学会を退会したために、『文芸展望』『社会評論』(活動家集団思想運動機関誌)に移り、最後のほうは書き下ろしで』、昭和五五(一九八〇)年に『刊行が完結した。この題名は』ルネサンスの先駆者とされ、イタリア文学最大の詩人であるフィレンツェ出身のダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri 一二六五年~一三二一年)の「神曲」の原題である“La Divina Commedia”(同「地獄篇」は一三〇四年から一三〇八年頃に執筆されたと考えられおり、一三一九年には「地獄篇」「煉獄篇」が既に多くの人に読まれてダンテは名声を得ていた。「天国篇」は一三一六年頃から死の直前の一三二一年にかけて完成された。なおこの作品は当時に知識人が執筆に用いたラテン語ではなく、イタリア語トスカーナ方言で執筆されたことも多くの人に読まれた理由である。ここはウィキの「神曲」に拠った)『(神聖なる喜劇)から採ったものである』とある(同じくウィキの「神曲によれば、現在の一般に知られる邦題「神曲」は森鷗外訳になるアンデルセンの「即興詩人」の中で用いられたもので、『その一章「神曲、吾友なる貴公子」において』“La Divina Commedia”の『魅力が語られ、上田敏や正宗白鳥ら同時代の文人を魅了し、翻訳紹介の試みが始まった』。これが本邦最初期の“La Divina Commediaの紹介であって、『ダンテ作品の受容はここから始まったとも言える。故に、今日でもほぼ全ての訳題が』「神聖喜劇」ではなく「神曲」で統一されているとある)。ウィキの「神聖喜劇」によれば、この記事が書かれた昭和三五(一九六〇)年に『新日本文学』に掲載を開始していることが判る。]

2016/07/17

芥川龍之介 手帳3―8~14

《3-8》

Rodin’s designs are exquisite, because they are not only simplified Nature, but the images of God which can created by the sacred fire of his genius.

[やぶちゃん注:「ロダンのデザインは絶妙で、何故なら、それらは単に自然が単純化されたものが在るだけではなくて、彼の神聖なる火によってこそ創造し得たものが、そこには確かに在るからである。」と言った謂いか?]

 

〇雛

[やぶちゃん注:「雛」(大正一二(一九二三)年三月)はあるが、前後を見てもピンとこない。これだけでここで既に同作構想があったとは言い難い。]

 

○子女と食つく 父女を子に醜と云ふ 後〻 人に美と云ふ 親の噓(どちらが噓か?) Pathos

love-letter を石垣(神社の)にかくす男

[やぶちゃん注:孰れも不祥。]

 

《3-9》

夫婦あり 夫今までの love affair を皆妻に明かす。故に平和あり 偶然最も innocent love affairsacred な氣がする故)を妻にかくし置きしがその發見する所となりその爲夫婦間に gap を生ず à la Goncourt

[やぶちゃん注:「偶然最も innocent love affair」であってだからこそ「sacredな氣が」し、それ「を妻にかくし」続けたというのだから、この「sacred」は浮気・不倫でありながら、神聖なものであったという謂いである。「à la Goncourt」の「à la」はフランス語で「~を真似て」「~風の」であり、フランスの兄弟作家エドモン・ド・ゴンクール(Edmond de Goncourt 一八二二年~一八九六年)と弟ジュール・ド・ゴンクール(Jules de Goncourt 一八三〇年~一八七〇年)の小説風に、の謂いであるが、私は彼らの小説を読んだことがないのでこれ以上は注をつけられない。]

 

○お律の話

[やぶちゃん注:「お律と子等」(大正九(一九二〇)年十月・未完)はある。以前に述べた通り、この主人公の名で芥川龍之介は全く異なった人物設定の小説構想を複数、持っていた。]

 

《3-10》

○心如工畫師 畫種〻五陰 一切世界中 無法而不造 華嚴經

[やぶちゃん注:「華厳経」正式名称「大方広仏華厳経」の「第十九」、「夜摩宮中偈讃品第二十」、別名「唯心偈」の第六節目で、

 心は工(たく)みなる畫師の、種々の五陰(ごいん)を畫(ゑが)くがごとく、一切世界の中(うち)、法として造らざるは無し。

と訓ずるか。吉田叡禮氏のサイト「華嚴無盡海」の「<唯心偈> ─訓読と現代語訳─」によれば、『心は、巧みな画家が、〔物質・感受・想念・意思・認識という〕さまざまの五陰〔から成る人〕を描き上げるように、一切の世界においてあらゆるものを造り出す。』と訳しておられる。「五陰」は「五蘊(ごうん)」に同じい(「蘊」は梵語の「五つの集積」の意の漢訳)。存在を構成する五つの要素の意。即ち、物質的・身体的なものとしての「色蘊(しきうん)。」、感覚作用としての「受蘊」、表象作用としての「想蘊」、意志・欲求などの心理作用としての「行蘊(ぎょううん)」、対象識別作用としての「識蘊」を指す。]

 

○日本 aeroplane 發明の事

[やぶちゃん注:主に英国で用いられる「飛行機」の意で、“airplane”は米国で用いられると英和辞典にはある。これは近代の純国産航空機の発明者のことではなく、芥川龍之介が日本で初めて空を飛んだとされる浮田幸吉(うきたこうきち 宝暦七(一七五七)年~弘化四(一八四七)年)を主人公とする小説を考えようとしていたメモではあるまいか? ウィキの「浮田幸吉」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『備前国児島郡八浜(現在の岡山県玉野市八浜)の浮田(櫻屋)清兵衛の次男として生まれた。七歳で父を亡くし岡山の紙屋に奉公に出て表具を習う』。『空を飛ぶ鳥に興味を持ち、鳥が空を飛ぶメカニズムを熱心に研究した。「鳥の羽と胴の重さを計測し』、『その割合を導き出す。それを人間の体に相当する翼を作れば人間も鳥と同じように空を飛べるはずである」と結論づけた』。『表具師の技術を応用し、竹を骨組みに紙と布を張り柿渋を塗って強度を持たせた翼を製作した。試作を繰り返し一七八五年(天明五年)夏』、現在の岡山市の中央を流れる『旭川に架かる京橋の欄干から飛び上がった。風に乗って数メートル滑空したとも、直ぐに落下したとも言われる。河原で夕涼みをしていた町民の騒ぎとなり、即座に岡山藩士によって取り押さえられた。時の藩主池田治政により岡山所払いとされた。この出来事は同時代の漢詩人菅茶山の著書『筆のすさび』にも言及されている』。『その後、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)に移り、「備前屋幸吉」の名で郷里児島の木綿を扱う店を開いた。軌道に乗ったところで兄の子に店を継がせた。自身は歯科技師「備考斎」として技術力の高い義歯を製作することで評判となった』。『晩年は、駿府でも再び空を飛んで見せて騒乱の廉で死罪となったとも、遠江国見附(現在の静岡県磐田市)に移り妻子を得て平穏な余生を送り、一八四七年(弘化四年)に九十一年の長寿を全うし死去したとも伝えられる』。『墓は静岡県磐田市の大見寺にあり、戒名は「釋帝玄居士」』。『幸吉の飛行が事実であるならば、それは一八四九年のジョージ・ケイリーのグライダーによる有人滑空実験よりも六十年以上早い。とはいえ、幸吉はこの種の実験を試みた最初の人物というわけではなく、古くは九世紀から同様の実験家たちが存在したことが知られている』。『また、重航空機に限らなければ、有人飛行はモンゴルフィエ兄弟の熱気球によって幸吉の飛行の二年前の一七八三年十一月に達成されている』とあるが、我々が有人動力飛行機として認識するアメリカのライト兄弟の初めての飛行(一九〇三年)よりも百十八年も前に相当する。]

 

○月九分あれ野の薔薇よ花ひとつ(前書アリ) 荒野カ九分アルカ

[やぶちゃん注:この句については、私は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」で以下のように注を附した。

   *

旧全集では「薔薇」は「蕎麦」とある。旧全集の誤植か。また、旧全集では「荒野」の前に一字空けはない。「(前書アリ)」は芥川龍之介全集元版編者の注で、判読不能の意であり、「荒野」か「九分ある」という詞書が書かれている、ということであろうかと以前は思っていたのだが、新全集を見るにそうでないことが判明した。これはすべて、芥川の記載である。後の三句が素堂の句であることを考えると、これは詞書を忘れた他者の句の備忘録であって、中七が「荒野」か、はたまた上五の字余りで「九分ある」の意か、という意味であろうか? ともかく芥川龍之介の句でない可能性が極めて高い感じがする。一応、採っておく。それにしてもこの句は芥川のものでないとすれば、古俳諧でもない。読みによっては如何にも斬新な新傾向にも見える。

   *

本句が芥川龍之介の句でないことが判る方は、是非、御教授戴きたい。]

 

○雲なかに岩を殘して紅葉けり

[やぶちゃん注:下線は底本では二重下線。この句は芥川龍之介の句ではなく、江戸前期の俳人で芭蕉の友人でもあった山口素堂(寛永一九(一六四二)年~享保元(一七一六)年)の句であるので注意。平成三年永田書房刊の新装版村山古郷編「芥川龍之介句集 我鬼全句」で明らかにされている。]

 

○和布刈遠し王子の狐見に行かん

[やぶちゃん注:同じく芥川龍之介の句ではなく、山口素堂の句。同前。]

 

○朝顏よおもはし鶴と鴨のあし

[やぶちゃん注:同じく芥川龍之介の句ではなく、山口素堂の句。同前。]

 

《3-11》

Memoirs of Heinrich Heine Lite.

[やぶちゃん注:ドイツの詩人クリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の伝記らしいが、作家最後の「Lite.」が不詳。]

 

Villiers de L’Isle-Adam His Life & Works

[やぶちゃん注:フランスの作家ジャン=マリ=マティアス=フィリップ=オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン伯爵(Jean-Marie-Mathias-Philippe-Auguste, comte de Villiers de l'Isle-Adam  一八三八年~一八八九年)の伝記らしい。]

 

Memoirs of Victor Hugo

[やぶちゃん注:フランス・ロマン主義の作家ヴィクトル=マリー・ユーゴー(Victor, Marie Hugo 一八〇二年~一八八五年)の一八九九年に盟友ポール・ムーリス(Paul Meurice 一八一八年~一九〇五年)らによって編せられた伝記の英訳本か。]

 

The Life of Henrik Ibsen Jaeger

[やぶちゃん注:ノルウェーの劇作家ヘンリク・イプセン(Henrik Johan Ibsen 一八二八年~一九〇六年)のノルウェーの研究家ヘンリック・イェーガー(Henrik Bernhard Jaeger  一八五四年~一八九五年)の英訳本であろう。]

 

○壁に射こまれた銃彈の如き tightly fixed idea

[やぶちゃん注:「tightly fixed idea強い、固着した、頑固な固定観念の謂い。]

 

《3-12》

○朗讀中少女の顏を見てどぎまぎすHeine  Prose Writing

[やぶちゃん注:ハイネの「Prose Writing散文詩らしいが、「Ⅺ」はどの詩を指すのか分らない。

 

department-store に刑事二十人あり 番頭 大番頭 外にて巡査によびとめらる

○海水浴場にて女の着物をぬすむ 女裸で出られず 罪名不法監禁罪

[やぶちゃん注:これは刑法二百二十条の逮捕・監禁罪に相当し、正しい。監禁とは人を一定の限られた場所から脱出することを不可能或いは著しく困難にすることによって場所的な移動の自由を制限することを指すが、その移動の自由を奪う手段には法文上の制限はない。従って、鍵を掛けたり、身体の抑制をしていなくても、裸体であることによって脱衣所から恥ずかしくて出られなくしてしまう事態は立派な監禁罪に相当する。これは「雜筆」(大正九(一九二〇)年九月分。リンク先は私の電子テクスト)の「奇聞」に、

   *

 亞米利加の何處かの海岸なり。海水浴の仕度をしてゐる女、着物を泥棒に盜まれ、一日近くも脱衣場から出る事出來ず。その後泥棒はつかまりしが、罪名は女の羞恥心を利用したる不法檻禁罪なりし由。

   *

と使われている。同「奇聞」の最後に「皆小穴一遊亭に聞いた」と記し同年七月二十三日のクレジットがある。]

 

○電車中女の尻を抱く その刹那これが友人の尻であれば好いと思ふ

[やぶちゃん注:意味不明。或いは「友人」とは男で、ホモセクシャルかとも私は考えている。これはただの思いつきではない。実は芥川龍之介にはその傾向が強くあると私は考えているのである。]

 

○電車中老婦人に足を踏まれ怒つてその足をける 老婦人「この人は私が誤つて足を踏んだのにわたしの足をけました」と演説す

[やぶちゃん注:これも前の前に示した「雜筆」(大正九(一九二〇)年九月分)の「奇聞」に、

   *

 電車の中で老婦人に足を踏まれし男、忌々しければ向うの足を踏み返したるに、その老婦人忽ち演説を始めて曰、「皆さん。この人は唯今私が誤まつて足を踏んだのに、今度はわざと私の足を踏みました。云々」と。踏み返した男、とうとう閉口してあやまりし由。その老婦人は矢島楫子女史か何かの子分ならん。

   *

と使われている。そこで示したように盟友の画家小穴隆一談とし、同年七月二十三日のクレジットがある。]

 

○A幇間と隣同志に間借す 二階 天ぷらやの女中遊びに來た(下の荒物屋の女髮結の姪) 幇闇女中に惚る 女中Aに惚れ幇間を斷る 幇間怒り一軒隣の二階に移る(揚羽屋卍)(附 封間の姊は萬世庵の妾 わかれて婆藝者となり弟と共にすむ。後淸元の師匠となる) その關係よりA天ぷら屋に月六

 

《3-13》

圓で食はせて貰ふ(天ぷら屋は藝妓屋の辨當屋を兼ぬ) 天ぷら屋の女房Aに惚る 亭主は船員

[やぶちゃん注:これだけ細かなプロット書いている以上、未定稿が存在してよいと思われるが。]

 

人をのみ相手に生くる男 家にかへると Wooden face になる。人中へ出ると lively になる symbolic に書く

[やぶちゃん注:「Wooden face」無表情。]

 

○西太后 西洋曲馬を見るの記

○或男姦通せる婦人に飽きこれと離れんとして亭主にアノニマスレタアをやる話

[やぶちゃん注:「アノニマスレタア」(anonymous letter)匿名の手紙。私はこれと酷似した現象や行動が不倫相手であった秀しげ子との間で芥川龍之介が実行した可能性を疑っている。

 

或男甲 乙にこれを讀んでくれと云ふ 英語なり 乙よむ 乙は英語を學びし事なし 自ら啞然とす medium.

[やぶちゃん注:「medium」手段。]

 

〇×情死 小春治兵衞の如き case に治兵衞反つて Frau と心中するThema

[やぶちゃん注:「小春治兵衞」は言わずもがな、近松門左衛門「心中天網島」の「紙屋治兵衛」と曽根崎新地の遊女「紀伊国屋小春」のことであるが、私はこれは未定稿の「河内屋太兵衞の手紙」のプレ構想のような気がしてならない(同未定稿は《3-16》で示す)。]

 

《3-14》

○關の小唄一幕切れの愚劣

蘭丸の聲變り 立𢌞りの新案。左團次のimpetuosity 損をするものは個人也。光秀惟忠景圓阿闍梨 iconoclast. 火を持つて行く技巧。

Grotesque beauty of Ōkura(實は阿部の貞任) ideal-lebens-führung des Ōkuras はかるはかると思ひしが反つてはかられる人間。

[やぶちゃん注:これら三つは芥川龍之介の「九年一月明治座評」(「点心」所収で初出未詳であるが、大正九(一九二〇)年一月の明治座の演目通りの「増補信長記」(岡本綺堂作)・「一條大藏譚」(「鬼一法眼三略巻」四段目:文耕堂・長谷川千四他合作)・「關の小唄」(大森痴雪作)・「小猿七之助」の観劇順に書かれたかなり辛口の劇評のためのメモと思しいものである。大切の「春霞廓鞘當」(はるがすみくるわさやあて)は龍之介も述べているように見ていない)特にこの「關の小唄」(ストーリーは私も知らぬ)評はボロクソのボッコボコもいいところで、作者が読んだら確実に怒るであろう内容である。以下に全文を示す(底本は岩波旧全集)。

   *

 

   九年一月明治座評

 

 明治座を見た。一番目の信長記は綺堂氏の作である。脚本は決して拙くはない。いや、寧ろ巧妙に纏りがついてゐる。が、遺憾ながら深さが足りない。この芝居だけで見ると、信長の叡山を焼く理由が餘りに簡單明瞭すぎる。(史實は問題でない。戲曲としての效果の上から云ふのである。)よしその理由はあれだけで好いとしても、愈山門破却となるまでにほ、もつといろいろな葛藤がなければならぬ。更に又一步を讓つて、あれだけの葛藤で好いとしても、その葛藤にはもう少し内面的な機微がなければならぬ。左團次の信長が一度眼を瞋らせて叱咤すると、造作なく解決されてしまふやうな葛藤では、どうも僕等には物足りない。

 それからもう一つ氣附いた事を云ふと、この芝居の中で一番莫迦な目を見るのは、小團次の漁師六右衞門で、娘を山法師に攫はれた上に、自分は流れ矢に中つて死んでしまふ。如何にも琵琶湖の漁師らしく、ぢぢむさく成功した小團次にも御氣の毒の至りであるが、由来戰爭と云ふものは、てんで個人の運命などを問題にしないのだから仕方がない。聊か皮肉の言葉を弄するなら、之からの芝居の語つてゐる最も大いなる眞實である。

 役者では猿之助の悪僧善住坊が、就中樂々と成功してゐた。尤も餘り樂すぎると云ふ非難もあれば――何、ついでに吉野山へまはつて、橫川の禪師覺範を兼帶すれば好い。

 中幕の上は大藏卿である。中車の大藏卿の作り阿呆は、殆ど入神の妙技だつた。僕は未嘗あの位現實的な作り阿呆を見た事はない。あれでは好人物の惡人たる八劍勘解由如きものが、計る計ると思ひながら、反つて計られるなどは當然である。その代り愈本性を現すと、どうも一條大藏卿とは假の名まことは阿部の貞任か何かの觀があつた。だから大藏卿は阿呆になる事に成功したが、中車は大藏卿になる事に失敗したと云はなければならぬ。

 中幕の下は關の小唄である。が、これは脚本そのものが、到底東京明治座の舞臺へ載るべき代物ではない。壽三郎の手代和助を始め、自由劇場の名優たちが愚昧な臺辭を並べてゐるのは、實際聞くに堪へぬ程悲慘を極めた光景だつた。殊に京屋内の場の幕切れの如きは、御店の茶番以下である。斯るすき切れのした錦繪の如き、乃至落丁の多い情話新集の如き拙作を演じさせるには、新劇團の下𢌞りたる書生と雖も勿體ない。況んや壽美藏、松蔦、秀調等を登場させるに至つては、殆ど一種の人權蹂躙である。

 二番目の小猿七之助は、岡鬼太郎氏の作ださうである。手際よく纏めた上に、新しみもあつて面白いと思つたのは、何も關の小唄に惱まされた後だつたからばかりでもあるまい。唯、この芝居に小唄に纏綿する因果の気味惑さを感じさすべく、概してどの幕の舞臺面も陽氣すぎるのは遺憾である。だから燈明の丁子がはねて御摩の眼が痛んだと云つても、一向陰慘たる心もちになれない。折角暮六つの鐘が何だとか云つて、車輪になつてゐる左團ん次の七之助にも甚だ気の毒な心もちがした。その外秀調のお瀧、猿之助の白旗金太いづれも惡くはなかつたが、中でも中車の網打の七藏は、今度こそはほんたうに敬服すべき入神の技だつたと云つて差支へない。大切の鞘當は御免を蒙つた。

   *

「關の小唄」は実はこの時が初演であった。作者の大森痴雪(ちせつ 明治一〇(一八七七)年~昭和一一(一九三六)年)は東京生まれで慶応義塾大学卒業後、『大阪毎日新聞』などの記者を経、大正六(一九一七)年に松竹に入社、座付き作者として初代中村鴈治郎や二代目代実川延若ら関西歌舞伎のために脚本を手掛けていた。代表作に「恋の湖」「あかね染」「お夏清十郎」などがある。

impetuosity」せっかち。

「惟忠」不祥。「一條大藏譚」の登場人物らしいが、私は未見なれば、識者の御教授を乞うものである。

「景圓阿闍梨」不詳。同前。

iconoclast」聖像破壊者。

Grotesque beauty of Ōkura(實は阿部の貞任)」「ideal-lebens-führung des Ōkuras」後者はドイツ語で「大蔵卿の理想的ライフ・スタイル」の意であろう。これらは先の龍之介の劇評にやや皮肉っぽく語られてある。]

芥川龍之介 手帳3―7

《3-7》

○信長の小姓の黑奴

[やぶちゃん注:現在、未定稿「織田信長と小姓」と仮題されているものが存在する。旧全集は末尾に『(昭和二年)』『(未完)』と記す。旧全集にも大半が載るが、より完備し、校合されたテクストである新全集のものを以下に旧全集表記を参考にしつつ、総て正字化して示す。やや長く、しかも断片である。新全集編者に拠る調整記号は総て排除し(全体の一字下げも無視した)、( )でないト書き箇所は全体が二字下げであるが、無視し、前後を空けてト書きであることが判るようにした。

   *

は何にもならぬ。その代りに僕一人先に起せば、みんながまだ慌ててゐるまに兜もかぶれれば槍も持てる。稼(かせ)ぎが出來るのは僕ばかりだ。

黑ん坊。そりや君の言ふ通りだ。

小姓の一人 だからまつ先に僕を起せよ。好いか? きつと忘れるなよ。

黑ん坊。手前勝手なことを言つてゐるなあ。

小姓の一人。何、誰が手前勝手だ?

黑ん坊。ううん 何とも言びはしないよ。

小姓の一人。新參ものの癖に生意氣なやつだ。(それぎり又寐入つてしまふ。)

 黑ん坊は暫く欠伸をしたり、つまらなさうにあたりを眺めたりしてゐる。そのうちに篝火はかすかになり、次第に月夜に變つてしまふ。すると黑ん坊は驚いたやうにぢつと何かに聞き入つてゐた後、獵犬のやうに飛び立つたと思ふと、風上へ鼻を反らせながら、――

黑ん坊。おや、馬の匀ひもする。焰硝の匀ひもするやうだぞ。あの音は、――あれは蹄の音だな。待てよ。まだ足音も聞える。差し物が風に鳴る音も聞える。こりやあいつが言つたやうに……

 黑ん坊は忽ち四つ這ひになり、靜かに陣幕の外へ這ひ出してしまふ。尤も黑ん坊が言つたものは聞えても來なければ、匀つても來ない。あとには唯ひつそりした月の光ばかり照り渡つてゐる。

 傍らに肘を枕にした小姓の一人。(急に寐返りを打ちながら、)この黄粉(きなこ)をつけた餅を一人で食へとは忝けない。(これも勿論寐語に違ひない。)

 二三分たつたかたたぬうちに黑ん坊は四つ這ひになつたまま、陣幕の中へ歸つて來ると、身輕に體を起すが早いか、松千代の側へ飛んで行き、――

黑ん坊。(小聲に)松ちやん! 松ちやん!

松千代。(目を開き)誰だい? ああ、君だつたか?

黑ん坊。大へんだよ。君。夜打ちがかかつたんだよ。さあ、早く槍を持つんだ。

松千代 え、何がかかつた?

黑ん坊。夜打ちだつてばさ。

松千代。何、夜打ちがかかつた?(急に槍を執つて立ち上る。)よし、初陣の功名に……

黑ん坊。(松千代の腕を抑へ)まだここへは來ないんだよ。唯向うの葦の中を大勢こつちへ忍んで來るんだよ。

松千代。君は確かに見屆けて來たんだね?

黑ん坊。ううん、そうつと聞き屆けて來たんだよ。その前にも嗅ぎ屆けては置いたんだけどね。

松千代。え、嗅ぎ屆けて置いたつて?

黑ん坊。(得意さうに鼻を指さしながら)僕の鼻はすばらしいんだよ。君たちは一町先にゐる尨犬(むくいぬ)の匀さへわからないだらう? けれども僕は風下(かざしも)にゐりや、三町先に蛙を呑んでゐる蛇の匀ひでもわかるんだぜ。(突然又松千代の腕を抑へ)ああ、だんだんやつて來やがつた。夜露にしめつた指し物だの草鞋(わらぢ)だのの匀もし始めたよ。

松千代。ありがたう。僕は君のおかげで今夜だけは遲れをとらずにすむよ。

黑ん坊。實は夜打ちでもかかつたら、眞つ先に起してくれろつてね、あいつに(具足櫃によりかかつた小姓の一人を指さし)賴まれてゐたんだけれど、君だけ今起しに來たんだよ。

松千代。どうして又僕だけ起しに來てくれたの?

黑ん坊 だつて

[やぶちゃん注:新全集はここ以下を別原稿群とする。]

松千代。それでもほんたうにお禮を言ふよ。

黑ん坊。(突然そこへあぐらをかき、兩手に顏を隱してしまふ。)そんなことを言つちやいけないよ。そんなことを言つちやいけないよ。

松千代。どうしてさ?(黑ん坊の顏を覗きこみ)おや、君は泣いてゐるね? 何か急に悲しくなつたの?

黑ん坊。ううん、悲しくはないんだよ。ちつとも悲しくはないんだけれどね、唯僕は生まれてから、一度もお禮つてものを言はれなかつたんだよ。それを今君に言はれたもんだから……(俄かに又飛び上り)さあ、そこまで押し寄せて來た! 今度はもう具足や槍の匀もする。(短刀をひき拔き)松ちやん。君はこわくはないかい? 僕は膝頭ががくがくしてゐるんだよ。

松千代。敵を恐れるのは侍ぢやない。僕のお父さんも十七の年に一番槍の功名を立ててゐるんだ。

黑ん坊。だつて君も震へてゐるぢやないか?

松千代。これは武者震ひと云ふもんだよ。

 かう云ふ松千代の言葉のうちに忽ち鬨の聲や鐵砲の音。續いて夜打ちの本願寺勢が大勢、槍や刀を閃かせながら、ばらばら陣幕の中へ亂れ入つて來る。小姓たちも前後して飛び起きるが早いか、手ん手に得物を執つて戰ひ合ふ。一本の槍を二人がかりで引き合つたりするものも少くない。具足檀によりかかつてゐた小姓の一人は槍を提げて飛び起きると、――

小姓の一人。黑ん坊のやつはどこへ行つた? 約束を守らぬ不屆ものめ! 黑ん坊のやつはどこへ行つた?

 本願寺勢のまつ先に立つた身の丈拔群の法師武者が一人、大薙刀をふりまはしながら、――

法師武者。(大音を擧げ)敵味方の中に人も知つたる大夫坊覺明(かくめう)を黑ん坊などとは緩怠至極!

 小姓の一人は槍を合はせるが早いか、忽ち一薙ぎに薙ぎ倒されてしまふ。

覺明。小倅どもでは相手に足らぬ。大將の織田殿はどこへ行かれた? さあ、織田殿に見參しよう。

松千代。竹村松千代! 參る!(不相變がたがた胴震ひをしながら、一心に覺明に突いてかかる。)

覺明。この小わつぱめ! 邪魔立てするな!

 黑ん坊。敵味方の間を縫ひまはりながら あぶないよ。松ちやん、あぶないつてば。そいつは一番強さうだよ。

 覺明は二三合渡り合つた後、大薙刀の石突きで無造作に松千代を突き倒してしまふ。それを見た黑ん坊は一生懸命になり、短刀を片手にふりかざしながら、思はず本國の言葉を發し、――

黑ん坊。チャック、ラック、バアル!

覺明。何だ、貴樣は? 人間か、猿か?

 覺明はさすがに驚きながら、それでも黑ん坊に打つてかかる。黑ん坊は忽ち辟易し、あちらこちらと逃げまはつた後、短刀を口に啣へたなり、するすると柳の木に登つてしまふ。

覺明。大將の織田殿はどこへ行かれた? さあ、織田殿に見參しよう。

 松千代はやつと起き上り、怯づ怯づ覺明に突いてかからうとしてゐる。が、覺明の勢ひに呑まれ、容易に槍をつけることが出來ない。

[やぶちゃん注:新全集はここ以下を別原稿群とする。]

       四

 鐵砲の音や人聲に滿ちた、火かげ一つ見えない暗やみの中を例の黑ん坊がたつた一人、やはり口に短刀を啣へ、右から左へ一目散に氣違ひのやうに走りつづけてゐる。

[やぶちゃん注:新全集はここ以下を別原稿群とする。]

       五

 竹藪を負うた荻江の住居。一段高い住居の床に古疊が一二枚敷かれてゐる。土間の左は戸口になり、そこに崩れかかつた土竃など。土間の右に接した壁には犬もくぐり兼ねない穴が一つ。穴の上の竹格子の窓から月明りが一すぢ土間に落ちてゐる。遠近に人聲や鐵砲の音。そこへ正面の暖簾の中から帶に懷劍をさしたまま、行燈をかかげて走り出したのは勿論この住居の女主人である。

荻江。さては合戰が始まつたと見える。若しや殿の御本陣に敵の夜打ちでもかかつたとしたら、……(行燈をおろす)と云つて女の身一つでは松千代の安否も尋ねには行かれぬ。をう、さうぢや。どちらが夜打ちをかけたものやら、隣の甚兵衞殿に見て來て貰はう。尤も耳の遠い甚兵衞殿はこの騷ぎも知らずに寐入つてゐるかも知れぬ。

 かう云ふ荻江の言葉のうちに右の壁に明いた穴の中から黑い脚が二本見えはじめる。

荻江。(ふとこの黑い脚を見つけ)や、何ぢや、あそこにあるのは?(黑い脚はかう言ふうちに黑い尻に變つてゐる。)犬猫のたぐひでもないやうな。(ひらりと土間へ飛び下りると、片手に黑ん坊の褌を捉へ、片手に懷劍を拔きながら)こりやその方は何ものぢや? たとひ見る影はないあばら家にもせよ、案内もなしに侍の家へ泥脚(どろずね)を入れるとは無禮であらう。女ながらも織田殿の身うち竹村權之丞の女房荻江、返答によつては用捨はせぬぞ。

[やぶちゃん注:新全集はここ以下を別原稿群とする。]

黑ん坊。(壁の向うから)僕だよ。おばさん。僕だつてば。おばさんは松ちやんのお母さんだらう。

荻江 松千代のことも知つてゐる上は妖怪變化であらうも知れぬ。妖怪變化でも恐しくはない。さあ、その方は何ものぢや?

黑ん坊。(同上)だから僕だつて言つてゐるぢやないか? 僕だよ。あの黑ん坊だよ。瓶の中から出た黑ん坊だよ。

荻江 何、黑ん坊!(まだ少しも油斷せずに)成程さう言はれて見れば、あの時の黑ん坊のやうでもある。その又黑ん坊が何の爲に來たのぢや?

黑ん坊。(同上)敵の夜打ちがかかつてね、殿樣さへどこかへ行つてしまつたから、命あつての物種だと思つて一生懸命に逃げて來たのだよ。

荻江。(思はず手を放して立ち上る。)何、殿のお行くへもわからぬ?

黑ん坊。(同上)そこへこの家の明りが見えたのだらう? 僕はしめたと思つてね、兎に角這ひこまうとしかけたのだよ。

荻江。(ぼんやりと)さては味方の總崩れぢやな。

黑ん坊(同上)ねえ、おばさん、家の中へ首を入れても好いだらう? ここの藪つ蚊のひどいことと言つたら。

荻江。(はつとしたやうに懷劍をおさめ)をう、はひつても好い所ではない。おばさんが足を引つぱつて上げようか? 瓶の中から出た時のことを思へば、懷しさは又人一倍ぢや。おばさんもお前の顏が見たい。

黑ん坊。(やつと壁の穴から這ひ出し)譃をついてゐらあ。松ちやんの話を聞かせて貰はうと思つて。

[やぶちゃん注:新全集はここ以下を別原稿群とする。以下は旧全集には不載。前の場面のヴァリエーションである。]

 貧しい家の内部である。左に戸口。右に竹格子の窓。窓の下の壁は破れてゐる。正面に奧へ通ずる暖簾、暖簾の右に押入れがある。

 前幕の終と同じ時刻。

 始は唯暗い中に、遠近の鬨の聲が響いてゐる。一二分の後、正面の暖簾の中から、今眼を覺ましたらしい荻江が一人、火のともつた行燈を下げた俵、慌てたやうに登場する

荻江 あの聲は、――あの鬨の聲は、――もう合戰が始まつたのか、――(落着かなさうにあたりを眺めながら)おお、鐵砲の音も聞える。もしや殿の御本陣に、夜打ちでもかかつたのでなければ好いが、――(行燈を置き、戸口ヘ走り寄る)ええ、この戸の立てつけの惡い。(戸を明ける。同時に思はずよろめきながら)あの火の手は、――確かにあれは御本陣あたりぢや。松千代――ああ、松千代はどうしたであらう?(延び上るやうに火の手を眺める)丁度又運の惡い、――初陣に夜打ちをかけられるとは、――(帶の懷劍へ手をやる)一そ其處らまで行つて見ようか? いやいや、行つて見ても仕方がない。(突然又行燈の側へ走り寄ると、べつたり其處に坐つてしまふ)あ あ、どうすれば好い事やら、――男山正八幡宮、何とぞ倅松千代の武運長久守らせ給へ。武運長――ええ、かう云ふ内にも松千代一人に、大勢槍をつけてゐるかも知れぬ。――

 鬨の聲は愈盛になる。この時窓の下の壁の破れ目から、黑い足が二つによきりと出る。しかし荻江は氣がつかない。以下荻江の獨臺の間に、その黑い足は黑い脚となり、又黑い膝となり、最後に赤い褌となり、――結局わが崑侖丸が、壁に破れ目のあるのを幸ひ、尻から先へ這ひこんで來た

   *

なお、新全集後記によれば、山本有三の「芥川君の戯曲」(『文藝春秋』昭和二(一九二七)年九月)には作者芥川龍之介の『内で構想されていた梗概などが詳しく記されている』とある(私は未読)。]

 

○德川時代の儒者の自然科學

 {雹 想山著聞集

 {梟 假名世説

[やぶちゃん注:二つの「{」は底本では大きな一つの「{」。「想山著聞集」は「しやうざんきちよもんきしふ(しょうざんちょもんきしゅう)」と読み、尾張名古屋藩士で右筆を務めた書家三好想山(みよししょうざん ?~嘉永三(一八五〇)年)が動植物奇談・神仏霊異・天変地異など五十七話の奇談を集めた全五巻の随筆集。嘉永二(一八四九)年完成。「雹 想山著聞集」という当該条は、同書の「卷の三」の末尾にある「雹(ひよう)の降(ふり)たる事」。【2017年5月26日改稿:これを注した後に始めた「想山著聞奇集」の電子化注で同条に辿りついた。より本文を正確に校合、注も多量に附したので、リンクさせて、ここに置いたものは削除した。】 

「梟 假名世説」の「假名世説」は「かなせせつ」と読み、天明期を代表する文人で狂歌師として知られる大田南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)が著わしたものを、後に文宝堂散木が補した、南畝没後の文政八年に刊行した随筆。当該箇所は以下(底本は所持する吉川弘文館「日本随筆大成 第二期 第二巻」を用いつつ、恣意的に正字化した)。

   *

 支唐禪師は、源子和が父の方外の友なり。諸國行脚の時、出羽國より同宗の寺あるかたへゆきて、其寺にしばし滯留ありしに、庭前に椎の木の大なるが朽て、半よりをれ殘りたり。一日住持、此木を人して掘とらせけるに、朽たるうつろの中より、雌雄の梟二羽出て飛さりぬ。其跡をひらきみるに、ふくろふの形を土をもて作りたるが三つ有。其中にひとつははやくも毛少し生て、啄(クチバシ)足(アシ)ともにそなはり。すこし生氣もあるやうなり。三つともに大さは親鳥程なり。住持ことに怪しみけるに、禪師のいはく、これは聞及びたる事なりしが、まのあたり見るはいとめづらし。古歌に「ふくろふのあたゝめつちに毛がはへて昔のなさけいまのあだなり」と、此事をいひけるものなるべし。梟はみな土をつくねて、子とするものなりと。住持も禪師の博物を感ぜり。

   *

文中の和歌は不詳。]

 

○半鐘の聲を聞きつゝ深夜の町を歩む(友と友との間)

○(子供 捨子 女の噓 僧)現代

[やぶちゃん注:「捨兒」(大正九(一九二〇)年七月)の構想メモ。] 

 

○女と落合ふ 落合ふまで捉はれたる感じ 落合はんとして遲れ 女に遇はざる時の loneliness

夫婦の愛が漸く薄くなる時 夫婦別れをしなければならないやうな事情が起る 急に二人の愛が深くなる Thema

 

即席文化   梅崎春生

 

 ベビーフードを買いにデパートに行った。

 うちにべビーがいるわけでなし、ベビーフードなんて必要ないのであるが、ちょっと小説の中に使うことがあって、買いに出かける羽目になった。

 入口の案内嬢に聞くと、地下で売っておりますとのことで、早速地下へもぐる。

 考えて見ると、デパートというやつは、どこでも食料品部は地下ということになっているようだ。あれは何か理由があるのだろうか。

 食料品部は生物(なまもの)をあつかう関係上、温度が低いところがいい。地下は温度が低い、とも考えたが、掘立小屋じゃあるまいし、デパートみたいな近代建築で、地上地下の温度が違うとは考えられない。

 あるいはここは人間の生(なま)の欲望(つまり食欲だ)をみたすところである故、人目を避けて地下にもぐらせたのかとも思うが、それならば大食堂を八階あたりに開いている意味が解せない。一種の商習慣みたいなもので、あまり意味はないのだろうと思う。

 デパートの地下に、この数年間私はもぐつたことはない。もぐる必要を認めなかったせいだが、いざもぐって見ると、実に活気があふれていて、衣服売場や書籍売場とまた違った雰囲気があつて、たいへん面白かった。

 時刻が時刻で、地下は満員で、肩をすり合わせて人が右往左往している。その大部分は女性で、男性の姿はちらほらとしか見えない。何かハレムにでも行ったようで、いい気分である。

 もっとも女性たちは、食料品をにらみつけるのに忙しくて、われわれ男たちには眼もくれないけれども。

 目指すべビーフード・コーナーにおもむき、乳児用粉(こな)野菜その他を買い求める。

 いろんな種類のベビーフードがあり、いたれりつくせりといった感じで、これなら乳児であることも、また乳児を育てることも、楽であろうという感じがした。

 われわれが乳児である頃は、母乳が出なくなると、台所の片すみでせっせと土鍋で煮て、重湯(おもゆ)を飲ませられたものである。

 重湯とベビーフードと、どちらが乳児の身体にいいか、どちらが栄養価が高いか、「胃袋パトロール」の杉博士に聞かずとも、自明のことである。なにしろ便利になったもんだ。

 それで興味をもよおして、地下を一巡して廻った。そして品物のおそるべき豊富さに一驚した。

 一驚したのは私のうかつのせいであって、戦後十五年も経っているのだから、売り屋の総元締みたいなデパートに、品物があふれているのは、あたりまえのことである。

 でも、そうは言うものの、眼に具体的に迫って来る食料品の大群は、しばしの間私の感覚を圧倒した。もし戦中戦後のひょろひょろ日本人を、いきなりここに連れて来たら、刺戟に耐え切れないで、卒倒してしまうかも知れない。

 冷凍食品や即席食品などのコーナーが眼についた。地下のかなりのスペースを取っている。

 戦前のデパートには、そんなものはなかった。罐詰か、煮豆や塩昆布がある程度で、あとは煮たり焼いたり加工しなければ食べられないものばかりであった。

 今は違う。お湯に溶かしたり、あたためたり、かんたんな手続きだけで、すぐに食べられる仕掛けのものが、ずらずらと並んでいる。あらゆる種類がある。冷凍や即席になっていない食物は、もうおそらくないのではないか。家庭では、手続きが面倒で食べられないような食物も、即席になっていて、買って帰ればすぐに食べられる。

 こんなのが出廻って来ると、主婦はますます暇になり、ついには暇を持て余すようなことになりはしないか、と心配である。

 味の方はどうであろうか。

 二三品買って帰ろうかと思ったが、何だか侘しいような気分になって、中止した。

 食べた人の話によると、何だか一本筋がぬけているような味で、あまりいただけなかったと言う。ずらずらと並んでいる様子では、

「栄養がありやいいんだろう、栄養が!」

 と居直っているような気配があって、つまり味なんかは二の次で、健康のためにおれ達はあるんだぞ、と啖呵(たんか)を切っている概がある。

 それならそれでいい。それが文化というものならば、私は黙って引き過るより仕方がない。

 しかし、限られた材料で、出来るだけうまいものをつくり上げるのが、本当の文化というものではないか。私の内部の古風なるものが、そう私にささやきかける。文化とは、普及ではなく、つくり出すものではないのか。

 でも、すべての栄養物が、一部にかたよらずに、万人に普及することは、いいことだ。

 味よりも栄養が第一だという文化観があって、その先輩国にアメリカがある。アメリカというところは、食物がひどい。ひどいというのは栄養学的ではなく味覚の上である。

 先年私がアメリカに行った時、いや、まだ私は行ったことがないが、行った人は異口同音にそれを指摘する。よほどひどいものらしい。

「……たいていのレストランの料理は、ふつう私たちが『うまい』とか『まずい』とか文句をいう対象の範疇(はんちゅう)にははいらないのだ。まったく説明に窮する。私たちのいう『まずい』ものが『まずい』という系列において、アメリカ料理が『ひどくまずい』とはいえない。それはぜんぜんべつの次元に属する。つまり味がないのだ」

 と、福田恆存氏も書いている。前記のような考え方の窮極の位置に、アメリカ料理は到達しているらしい。 

 

 凩(こがらし)のはては有りけり海の音(言水) 

 

 そのアメリカ流を海の音とすれば、後進国日本の食料品界に、インスタント(即席)という凩(こがらし)が吹きそめている。

 食は腹を充たせば足りるという日本式精神主義も、前記アメリカ流も、食の本質を知らざる点においては同罪だと思うが、時代の好尚がそんな風に流れて行くとすれば、私など何も言うことはない。

 もっともそんな即席化は、食料界だけにとどまらず、日本文化の一般を犯しているようである。

 小説を例にとっても、昔の小説は作家が一刀三拝して筆をとり、読者は襟を正して(というほどでもないが)読んだものである。

 ところが今の小説は、どうだろう。

 材料をちょっとお湯に溶かしたり、あるいはあたためただけで、はい一丁上り、と差し出したようなものばかりで、一向にこくがなく、今日読んだら明日は忘れてしまうようなのが多い。

 一刀三拝もくそもない。即席だから量産もきく。また読者の方でも、へんにひねったような小説は敬遠して、口当りのいい即席小説に殺到するから、ますますその手のものが量産されるということになる。なげかわしいことだ。

 もっともそう申す私にしても、毎週一回八枚のインスタント文章を書き、「うんとかすんとか」という名において発表しているのだから、あまり他人の悪口は言えないのである。ああ! 

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第三十三回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年十一月二十七日号掲載分。

「うちにべビーがいるわけでなし、ベビーフードなんて必要ないのであるが、ちょっと小説の中に使うことがあって、買いに出かける羽目になった」作品名不詳。分かり次第、追記する。

「デパートというやつは、どこでも食料品部は地下ということになっているようだ。あれは何か理由があるのだろうか」RICOH ommunication Club『「デパ地下」に関するうんちく』によれば、幾つかの説があるとし、まず、デパートはヨーロッパで生まれ、扱う商品はインテリアやファッションが中心であり、食品売り場というものは存在しなかった。食品売り場は後から出来たため、地下になったというのが一つで、『新しく出来たデパートも老舗に習って地下にし』、また、『地下にしたら色々便利だった。他には変えられない便利さがあった』からだとする。利便性は『水廻りの施設や臭いの問題』で、『食品売り場は、冷蔵施設や水道やガスなど、配管の設置のしやすさを考慮して地下に配置したほうが合理的で』、『水なども事故や不注意で洩れた時に上の階にあると』、万一の時、『下の階の洋服商品などが水浸しになると困』るからだとする。他にも、臭気の問題があり(私はこれが一番大きいのではなかったかと考える)、『臭いの粒子には空気より重いものが多い(上の階だと臭いが下へ降りてくる)』ことから、『地下だと臭いが他のフロアに流れる心配が少な』からとする。また、地下と云うのが客の流れや客自身の出入りの便利さと繋がるともし、『食品関係は、買い物の最後にするのが普通だし、仕事帰りとかに食品だけを買う人も多いので、そういうお客さんはわざわざ上層階まで上がるのは面倒で出口に近いほうが便利』で、例えば、『最近は昼休みにデパチカの弁当などを買いにいくOLが多』いが、彼に『にとっても地下は便利』で、『又、地下鉄の駅や地下街、地下駐車場と出入りしやすい地下にあるのが合理的』であるという。他にも『業者(デパート)にとっての便利さ』もあり、『食料品は新鮮さが売り物、商品の出入り(車での搬入搬出)が激しい。
荷物の搬入搬出のための駐車場は地下が多い』。(一階に置くと客にとって迷惑となる)『つまり地下は荷物(商品)の運び込み、運び出しに便利である』とある。更に、『マーケティング戦略の立場から』は『「噴水効果」を狙ったものだと言う説』があって、『最近はデパチカが有名になり、デパチカ情報誌などもできたり、インターネットでもデパチカサイト情報が出来たりして注目度が高くなった』。『そこで戦略として、地下の売場に特徴を持たせて客を集め、そこから順に上階へ移動して買い物をしてもらう』という流れを作るが、『それをマーケティング業界の専門用語で「噴水効果」と』言うのだそうだ(但し、『これとは逆に上階から下階への「シャワー効果」というのも』あって、『これは上のほうの階に催し物(特売や○○展等)を持ってきて集客し』、『そこから順次下へ』流すというのもある。かつては屋上遊園地が設けられ、子供連れを引き寄せたりしたのがそれであるが、今ではすっかり寂れてしまい、『時代は変わって今は下から上へ』だそうである)。『お客さんの流れも、少し前までのデパートは「服などを買いに来た人が、ついでに食料品を買っていく」という「シャワー型」であったのに対し、現在のデパートは「地下の食料品目当てで来たお客さんが、ついでに上の階も見に行く」という「噴水型」に移り変わっているそうで』ある。概ね合点出来、大変、勉強にもなった。

『「胃袋パトロール」の杉博士』生理学者で医学評論家でもあった医学博士(昭和一五(一九四〇)年・東京帝国大学)杉靖三郎(すぎ
やすさぶろう 明治三九(一九〇六)年~平成一九(二〇〇二)年)が、梅崎春生がこの「うんとかすんとか」を連載していた同時期(国立国会図書館の書誌情報では少なくとも前年には連載している)に『週刊現代』に連載していたのが「胃袋パトロール」である。

「概がある」「おもむきがある」と読む。

「福田恆存氏も書いている」出典不祥。識者の御教授を乞う。

「凩(こがらし)のはては有りけり海の音(言水)」江戸初期の松尾芭蕉と同時代の俳人である池西言水(ごんすい 慶安三(一六五〇)年~享保七(一七二二)年)の私の好きな句の一つ(特に出さぬが、近現代の誰彼の名句とされるものは粗方、この言水の名句の剽窃に過ぎぬとさえ私は思っているほどに好きな句である)ウィキの「池西言水」によれば、言水は奈良生まれで、十六歳で法体(ほったい)して『俳諧に専念したと伝えられる。江戸に出た年代は不詳であるが』延宝年間(一六七〇年代後半)に『大名俳人、内藤風虎』(ふうこ:陸奥磐城平藩第三代藩主内藤義概(よしむね 元和五(一六一九)年~貞享二(一六八五)年)の諡号。ウィキの「内藤義概」によれば、『晩年の義概は俳句に耽溺して次第に藩政を省みなくな』ったとある)『のサロンで頭角を現した』。延宝六(一六七八)年に『第一撰集、『江戸新道』を編集した。その後『江戸蛇之鮓』『江戸弁慶』『東日記』などを編集し、岸本調和、椎本才麿の一門、松尾芭蕉一派と交流した』。天和二(一六八二)年の『春、京都に移り、『後様姿』を上梓した後、北越、奥羽に旅し』、天和四(一六八四)年まで『西国、九州、出羽・佐渡への』三度の『地方行脚をおこなった』。貞享四(一六八七)年、『伊藤信徳、北村湖春、斎藤如泉らと『三月物』を編集した。但馬豊岡藩主・京極高住』とも交流した、とある。

「一刀三拝」或いは「一刀三礼(らい)」とも言う。元は仏の尊像を彫刻する際に一刻みする毎に三度礼拝を成して像に仏の魂がこもるように彫琢することを指し、転じて慎みを持って深く成している行為や対象を敬いながら仕事をすることを言う。]

2016/07/16

ブログ840000アクセス突破記念 ウヰリヤム・ジエイコツブス作・菊池寛譯 猿の手

[やぶちゃん注:イギリスの小説家WW・ジェイコブズ William Wymark Jacobs 一八六三年~一九四三年)が一九〇二年に書いた、私の偏愛する何とも言えぬ哀感を帯びたホラー短篇の名品、The Monkey's Pawの全訳である。因みに私は、高校教師生活の最後に、この一篇を、たった一人の女生徒相手(二・三年の選択授業で二年生は一人しかいなかったために三年が自宅学習に入った二ヶ月余り、私は彼女一人の授業をした。浦沢直樹の漫画「プルートゥ」をコマを一つ一つ追いながら全篇朗読したのも、実にこの時であった。あれを読み終えた時、私と彼女は少し涙ぐんでしまったのを懐かしく思い出す)に生涯一度だけ全文朗読(以下に示す平井呈一氏の訳で)出来たことを稀なる幸せであったと心底思うているほどに愛する一篇なのである。

 底本は菊池寛著「文藝往來」(大正九(一九二〇)年アルス刊)に所収するものを、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認して電子化した傍点「ヽ」は太字とした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部のカタカナの活字が異様に小さいが、拗音でもない箇所なので原則、無視した。章番号の前後は行空きのない底本に従わず、一行空けた。歴史的仮名遣の誤りが幾つか見受けられるが特に注せず、そのまま電子化してある直接話法の末尾の句点の有無も統一されておらず、一部には句読点さえないが、それは総て原則、ママとした。但し、誤植誤訳がかなり散見され、読解上、看過出来ない箇所がある。中には以下に示す通り、一部で特異的に勝手に訂した箇所もある。それは本作の正常な読後印象を阻害するもの以外の何ものでもないと私が勝手に判断したからである。悪しからず。

なお、原文は昔からお世話になっている英文サイト“Gaslight etext”のフル・テクストTHE MONKEY'S PAW (1902) from The lady of the barge (1906, 6th ed.) , London and New York Harper & Brothers, Publishers by W.W. Jacobsを使用した。是非、原文でも味わって戴きたい。

 修正箇所と語注を以下に示す。注記載ではなるべくネタバレしないように配慮はしたつもりであるが、本作を未読の方は、本文を先に読み、気になった箇所があれば、ここに戻って戴いてもよい(但し「」の注だけは如何ともしがたい箇所であり、私のミス・タイプとしか思われないであろうから、先に読んで戴きたい)。私の、翻訳作品の電子化の中では例外的にかなり私が恣意的に手を加えている(以下の太字傍線注部。実に全十二箇所にも及ぶ)ので、ここで注せざるを得ないのである。

   *

【第「一」章】

・「息」「そく」。息子。

・「とつけもない」の「とつけ」(或いは「とっけ」)は「途方」「方途」のことで、「途方もない」「とんでもない」という意。各地に方言としても今もあるが、菊池寛は香川県香川郡高松生まれであるが、調べてみると香川弁に「とんでもない」の意で存在することが確認出来た。

・「ホワイト夫人はチエツと舌鼓を打つた」この何気ない描写は実はホワイト夫人がこの客(曹長)の来訪を内心、生理的には好ましく思っていないことを意味していると読む。後で判るように、彼は酒を吞み、ディナーを食って終列車で帰る。無論、手土産もなしといった雰囲気だ。彼の軍人という職業も恐らく嫌悪の対象の一つなのではないかと私は思う。ともかくも家の借金を抱えたホワイト家の主婦にとって、彼が実は有り難くない常連客であることは言うまでもない。そうして、それだけでは、なくなる、のである。

・「柔しく咳をして居た」「柔しく」は「やさしく」。「軽く」の意。

・「鑵子」は「くわんす(かんす)」と読み、青銅や真鍮などで作った湯沸かしのこと。

・「曹長の瞬は輝いて來た」の「瞬」は「まばたき」と訓じておく。「瞳」「眸」の誤植が疑われもするが、「瞬」が全くおかしいとも言い切れぬ。暫くママとする。

『「猿の手、ほう」とホワイト夫人は物珍らしげに云つた。』の「云つた」は底本では「行つた」であるが、例外的に誤植と断じて、訂した。

「お客は飮み干した盃を、うつかり口ヘ持つて行きながら、再びそれを下に置いた。主人がそれに酒をついだ。」の箇所は底本では「お客は飮み干した盃を、うつかり口ヘ持つて行きながら、再びそれを下に置いた。主人がそれに酒をい だ。」と脱字になっている。原文を見ると最後の箇所は“His host filled it for him.”であるから、「ついだ」或いは「注いだ」であろう。取り敢えず暫く「ついだ」と恣意的に補っておいた。

『「見たところ」と云ひながら、曹長はポケツトを探りながら』は底本では『「見たところ」と云ひながら、軍醫はポケツトを探りながら』である。しかし、本文では客モリスは一貫して“sergeant-major”と呼称され、ここも同じであるから「曹長」でよい。軍医の“surgeon”の誤認語訳と断じ、恣意的に「曹長」に換えた。

『「もし入らないのなら。僕に呉れたまへ」と、老ホワイトは云つた。』の「は云つた」は底本では「と云つた」であるが、恣意的にかく訂した。

「終列車」は底本では「終例車」である。誤植と断じて訂した。

息子ハーバートの台詞「第一、お父さんが皇帝になるとしたら、今のやうにお母さんのお尻に敷かれて居ちや駄目ですからね」は底本では「第一、お父さん皇帝になるとしたら、今のやうにお母さんのお尻に敷かれて居ちや駄目ですからね」であるが、恣意的に「が」を入れた。読点よりはよいと判断した。但し、ここは原文では“Wish to be an emperor, father, to begin with; then you can't be henpecked.”であり、昭和四四(一九六九)年東京創元社刊の平井呈一氏(小泉八雲他、私の愛する訳者である)の「怪奇小説集 1」の「猿の手」では、『おとうさん、最初にまず皇帝になることを願いなさいよ。そうすりゃ、かあさんの尻の下に敷かれなくてもすみますから』と訳しておられるから、読点であった可能性も否定は出来ない

・前の注のシークエンス、その直後のホワイト夫人の行動で、彼女が「椅子の腕木」を取ってハーバートを追い掛けるシーンがあるが、原文のそれに相当するのは“antimacassar”で、これは「椅子の背覆い」のことである。「腕木」(うでぎ)は柱状の物から横に突き出して附けた木のことで、原語とは印象が異なる。

・「二百磅」の「磅」は「ポンド」と読む。翻訳されたこの当時(大正九(一九二〇)年)の価値換算でも百五十万円ほどはあると思われ、本作はそれよりも十八年も前の一九〇二年(明治三十五相当)であるから最高額で四百万円ぐらいにはなるか。

・「扭ぢた」現代仮名遣なら「よじた」或いは「ねじた」と読む。「よじた」が自然。

・「思ひ做し」は「おもひなし(おもいなし)」と読み、気のせい、の意。

【第「二」章】

「ひやかし」の部分は底本では「ひやか」までしか傍点「ヽ」が打たれていないが、かく「し」までを太字とした。

「ホワイト氏は、ビアをつぎながら」は底本では「ホワイト氏は、ビアをつきながら」である。この原文前後は“"I dare say," said Mr. White, pouring himself out some beer;”であるので、かく訂した。

「その有用な品物」如何にもおかしな感じがする。先の平井氏訳では『万能前かけ』と訳しておられる。腑に落ちる。

「彼は恐縮したやうにホワイト夫人を見て居た、などを聽いて居た。」これはご覧の通り訳が破綻している(或いはひどく長い脱落のある)箇所である。簡単な接ぎようもないのでママとした。先の平井氏訳では『客はホワイト夫人のことをチロリチロリとぬすむように見ながら、しきりと彼女が部屋の散らかっていることや、夫が庭いじりの上着を着ている詫言(わびごと)を言うのを、上(うわ)の空で聞いていた。』と訳しておられる。これで補って読んで戴きたい。

・「洋袴」「ズボン」と読む。

・「凶い」「わるい」。

・「厶います」これで「ございます」と読む。「厶」は記号ではなく、れっきとした漢字で部首「厶」の部を作り、音は「シ・ボウ・ム」(但し、カタカナの「ム」とは直接の関係はない)、訓読みでは「わたくし」(私)・「ござる」(御座る)と読む。江戸時代の文献に既によく見かける用字である。

「死人の如く床の上に崩れかゝつた。」は底本では「死人の如く床の上に崩れかゝた。」である。脱字と断じ、訂した。

【第「三」章】

・「二哩」二マイルは約三・二キロメートル。

・「擽りながら」「まさぐりながら」と訓じておく(「擽り」を普通に訓読みするなら「くすぐり」であるが、ここには相応しくない)。

「彼は彼の手を差し延べた。」は底本では「彼は彼の手を差し延へた。」である。訂した。

・「叩音」音は「コウオン」であるが、私としては「たたくおと」と訓で読みたい。

最後に近いホワイト夫人の台詞中の――「あなたは」(ネタバレ防止のため中略)「恐がつて居るのですか。」――は底本では――「あなたは」(同前中略)「恐がつて居るのだすか。」――である。ここだけ関西弁で訛るのはおかしい。恣意的に訂した。

同じ台詞のその直後にある、「今行つて上げるから、今行つて上げるから」は底本では、「今行つて上げるから、今云つて上げるから」とある。原文を見ても後者の「云つて」は語訳であることは言を俟たぬ。ここも恣意的に訂した。

・「閂」「かんぬき」。

・「除づす」「はづす(はずす)」。外す。

   *

 本テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、840000アクセス突破記念として公開した。【2016年7月16日】]

 

 

猿の手

 

      (ウヰリヤム ジエイコツブス)

 

        一

 

 戸外には冷たい濕つぽい夜があつた、がレイクスナム邸の小座敷の中では、窓掩ひは閉され、爐の火は華やかに燃えて居た父と子は將棋を指して居た。父は局面が捗どらないのをもどかしがつて、自分の王を際どい用もない危險な場所に立ち入らせたので、爐の傍で靜かに編物をして居た白髮の老夫人迄が、「ああ王樣が危い」と云つた程だつた。

「聞えないかい! あの風が」と。ホワイト氏は取り返しの付かない惡手を指したのに氣が付いたので、息に感づかれないやうに、息の注意を外らさうとして、そんなことを云つた。

「聞いて居ますとも」と、息は手を指し延べながら盤面をムツチリと、見詰めて居たが、「王手」と云つた。

「今晩はあの男は到頭やつて來ないなあ」と、父は盤面の上に手を中ブラリにしながら云つた。

「詰です」と息が答へた。

「之だから田舍住ひは嫌になつてしまふのだ」と、ホワイト氏は急にとつけもないやうに、荒々しく云つた「むさくるしいじめじめした邊鄙な住居の中でも、玆が一番いけない。路次と云へば沼だ、道と云へば急流だ。こんな家に住まつて居るのは、人聞きだつてよくはない。それかと云つて、此往來で借家は二軒だけしかないのだが、世間の人達はそんなことを考へて呉れないのだからな」

「そんなことは何うでもいゝぢやありませんか。此の次ぎの勝負にはお勝になりますよ」と。彼の妻はなだめるやうに云つた。

 ホワイト氏は直ぐ顏を上けたので、母と子とが意味ありげに、目くばせしようとしたのを妨げた。彼は何か云はうとしたのを嚙み潰して、薄い灰色の髯の中で、そつといまいましげな齒嚙をした。

「あ、やつて來たな」と、息のハアバアトホワイトが云つた。門が音たかく開けられ重い足音が扉の方に近づいた。

 老人はお客大事と云つたやうに、急いで立ち上つて、扉をあけて、客に「ひどかつたでしよう」と慰めて居るのが聞えた。客自身も「隨分ひどかつた」と云つたので、ホワイト夫人はチエツと舌鼓を打つたが、夫が脊の高い赤ら顏の眼のくるりとした男と、一緒にはいつて來ると、柔しく咳をして居た。

「曹長のモリスさん」とホワイト氏が紹介した。

 曹長は皆と握手をした。爐の傍の勸められた座に着いた。主人がウヰスキイと盃を取り出し、銅製の小さい鑵子を爐の上に置くのを、落着いて見詰めて居た。

 三杯目の盃を重ねると、曹長の瞬は輝いて來た。彼は語り始めた、この小家族の團欒は異常な興味を以て、この遠い國から來た客を見詰めて居た。客は椅子の上で廣い肩を聳やかし、珍らしい光景や荒々しい事業や、戰爭や珍しい人種のことなどを話し續けた。

「二十一年になるんだよ」とホワイト氏は妻や息の方を顧みながら云つた、「彼方へ行つた時は倉庫會社のホンの子供上りだつたのが。こんなになられたんだ」

「あまり苦勞を、なさつたやうでもありませんね」と、ホワイト夫人が丁寧に云つた。

「わしも印度へ行つて見たいな。一寸見物をするためにだが」と、老人が云つた。

「いや、住み馴れた所が一番いゝものだ」と、曹長は頭を振つた。飮み干した盃を措きながら、輕い溜息をして頭を再び振つた。

「いや古いお寺や、波羅門の行者や、魔術使ひなどを見たいものぢや。そうそう此間君が僕に話しかけやうとした話があつたね。猿の手か何かの話だつたが」

「つまらない話だ。兎に角聞く値價もない話だ」と、軍人は忙いで打ち消した。

「猿の手、ほう」とホワイト夫人は物珍らしげに行つた。

「そう、あなた方に云はすれば、魔術とでも云ふものかな」と、曹長は何氣なく云つた。

 三人の聞き手は乘り氣になつて膝を進めた。

 お客は飮み干した盃を、うつかり口ヘ持つて行きながら、再びそれを下に置いた。主人がそれに酒をついだ。

「見たところ」と云ひながら、曹長はポケツトを探りながら、「當り前の小さい手です、からからになつて木乃伊になつて居ます」

 彼はポケツトから何か取り出して、それを差し出した。ホワイト夫人は顏をしかめて後退りした。

「ほゝう、之について何か變つた所があるのかね」と訊きながら、ホワイト氏は息の手から、それを受け取つて、仔細に見ながら卓の上に置いた。

「孝行者が、之に魔力をかけてあるのです。その行者と云ふのは、非常に高德な男なのだが、彼は運命と云ふものが人生を支配して居る、そしてその運命に逆はふとするものは、却つて禍を受けるものだと云ふことを教へようとしたのだ。彼は此の猿の手に、かう云ふ符呪をかけた。三人の人が別々に此の猿の手に依つて、三つの願ひを叶へることが出來ると云ふ符呪だ」

 曹長の態度が非常に力強く眞面目であつたので、聞手は自分たちの輕い笑聲が少し震ひを帶びて居るのを感じたほどであつた。

「さうですか、それなら何うしてあなた御自身、三つの願ひを起さないのですか」と、息のハアバアトホワイトが云つた。

 曹長は、よく中年の人が小生意氣な靑年を見るやうな眼付で、彼をヂロリと見たが、

「起しましたとも」と、靜に云ふかと思ふと、その斑點のある顏の色がサツと蒼ざめた。

「それで、本當に叶ひましたか」と、ホワイト夫人が訊いた。

「叶ひました」と、曹長が答へた。彼の盃が強い齒に觸れてカチリと音がした。

「あなたの外にも、やつた人がありますか」と、老夫人が訊いた。

「最初の持手が三つの願ひを叶へました。その中の初の二つの願は、何だつたか知りません。が、最後の願は、死ぬと云ふ事だつたのです。そのために之が私の手に、は入つたのです」

 彼の聲が餘りに重苦しかつたので、一座がシンとしてしまつた。

「君が三つの願ひを叶へてしまつたなら、君には差詰め用のないものだね。何のためにそれを持つて居るのだ」と、暫くしてから老ホワイトが訊いた。

 曹長に首を振つた。

「まあ考へて御覽なさい。私も賣らうと思つたことがあります。が、どうも賣る氣にはなれないのです。もう充分此の手は持手に、禍をして居るのです。それに買手だつてありません。ある人達は荒唐無稽な話だと思ふのです。そう思はない人は、先づ試めしに願ひを叶へて見てから後で金を拂はうと云ふのです。」

「もしもう一度、君の三つの願ひが叶ふとしたならば、やつて見る氣があるかね」と、老ホワイトは曹長を鋭く見詰めながら訊いた。

「それは分らない。それは分らない」と、彼が答へた。

 彼は猿の手を、人指し指と親指とで、ブラブラさせて居たが、いきなりそれを、ストウヴに投じた。

 ホワイトは、アツと云ひながら、身をかゞめてそれを手早く拾ひ上げた。

「やいた方がいゝ」と、曹長は眞面目で云つた。

「もし入らないのなら。僕に呉れたまへ」と、老ホワイトは云つた。

「いや、與らない。俺に火に投け込んだのだ。もし、君が持つて居るとしたら、どんな事か起つても俺は知らないぞ。さあ火にくべてしまひなさい、その方が賢い」

 が、相手は首を振つて、彼の新らしい所有物を、ぢつと見つめた。

「一體之を何うすればいゝのだ」と訊いた。

「右の手で高く差し上げて、聲高く願ふのだ。然し後が恐ろしいからな」と、曹長が云つた。

「アラビアンナイトにでもありさうな」と、云ひながらホワイト夫人は立ち上つて、夕飯の仕度をし始めた。「私に手が八本も出來るやうに祈つて下さらないかな」と云つた。

 彼女の夫は、そのポケツトからかの魔の符を取り出した。親子三人は大聲を出して笑つた。曹長は色をなしながら、彼の腕を取つた。

「是非ともやるのなら、餘り無理でないことを願ひたまへ」と、荒々しく云つた。

 ホワイト氏は再び猿の手を、ポケツトに藏つた。そして椅子を並べながら、友人を卓に招いた。

 食事の間、魔の符の事は、一時忘れられた。それが終ると三人は、曹長の印度に於ける冒險談に再び聞き惚れて居た。

 お客が終列車の間に合ふやうにと歸つて行つた後で、息のハアバアトは云つた。

「猿の手の話も、あの人の外の話と同じやうにいゝ加減のものなら、餘りアテにもなりませんね」

 ホワイト夫人は。ぢつと夫を見守りながら、

「それで、幾何か代金を、上げたのですか」と訊いた。

「ホンの少し」と、ホワイト氏は顏を一寸赤くしながら「向ふぢや入らないと云つたのだが、無理に取らせたのだ。彼は呉れ呉れも、捨てゝしまへと云つて居つた」

「本當だ」と、息はわざと恐らしさうにしながら「何も金持になつたり、有名になつたり、幸福になつたりする必要はありませんからね、第一、お父さんが皇帝になるとしたら。今のやうにお母さんのお尻に敷かれて居ちや駄目ですからね」と云つた。

 ホワイト夫人は怒つて椅子の腕木を持ち上げて、息を追ひかけたので、彼は卓の周圍を逃げ廻つた。

 ホワイト氏は猿の手を、再びポケツトから取出して居た。そして、それを半信半疑で見て居た。

「何を願つていゝか、それが判らない。本當に判らない。實際大抵欲しいと思ふものは持つて居るやうにさへ思ふ」と靜に云つた。

「家が抵當になつて居る借金を拂つてしまふのですな。さうするより外に望みはない。ねえお父さん。」

と、息のハアバァトが、父の肩に手を置きながら云つた。「二百磅欲しいと云ふのですな。二百磅なら丁度いゝ」

 父は自分が魔の符を餘りに、輕々しく信じて居るのを、少し耻づるやうに微笑しながら、それを高く差し上げた。すると、息は眞面目な顏をしたが、母の方を見てそれを少しく緩めながら、ピアノに向つて坐ると、二三の力強い絃を打つた。

「俺は二百磅の金が欲しい」と。父親がハツキリと云つた。

 ピアノの華々しい混亂した響が、その言葉に應じた。何故と云へば父が急に悲嗚を擧げたので、息は鍵盤の手を放した爲である。

 妻と子とが、彼の傍にかけ寄つた。

「あゝピクツと動いた」と、彼は床に橫つて居るものを苦々しげに見ながら「俺が願ひを云ふと、あれが蛇か何かのやうにビクッと身を扭ぢたのだ」

「それにしても、お金は出ませんな。また出たら大變だ」と、云ひながら息は猿の手を取り上げて、卓の上に置いた。

「お父さんの思ひ倣しだらう」と、妻は夫を見ながら心配さうに云つた。

 彼は首を振つた。「心配しないでいゝ。何も怪我をした譯でもない。が何しろ駭かせた」と云つた。

 父と子が煙草を吸ひ終ると、彼等はストウヴの傍に坐つて居た。戸外では風か益々吹き募つて來た。父は二階の扉がパタンと音をさせるたびにピクピク驚いて居た。いつもとは違つた壓倒するやうな靜寂が三人を包んで居た。それは老夫婦が、寢室へ退く迄續いて居た。

「お父さん。寢床の眞中に大きい袋に入れた現金がきつと有りさうですよ。そして、あなたがそのアブク錢をポケツトに藏ひ込むところを、衣裝戸棚の上に蹲まつて居る魔物がぢつと見つめて居るでしようよ。ぢやお休みなさい」と息が別れる時云つた。

 

        二

 

 翌日は、冬の日がアカアカと照つて居た。それが食卓に流れ込んだとき、ハアバアトは父の恐怖を嗤つた。

 昨夜は、全く缺けて居た散文的な健全な空氣が、部屋に充ちて居た。そして汚い干からびた猿の手は棚の上に投げ捨てられて居た。その力を誰もが信じて居ないことを明に示すやうに。

「年寄の軍人と云ふものは、皆あんなものだ。私達があんなに一生懸命に聽いたのが、馬鹿げて居たのです。今時、願が叶ふなんて云ふことがあるものでない。もし叶つたところで。その二百磅はきつと害こそすれ得にはなりませんよ」と、ホワイト夫人が云つた。

「お天道樣から眞逆樣に落ちら位が落ちですよ」と、冗談好きなハアバアトが云つた。

「が。モリスは非常に本當らしく話した。まあさう云ふ事が起つたのは暗合だつたと云つてしまへばそれまでだが」と、父が云つた。

「兎に角、私の歸つて來る迄、その金には手を付けないやうにして下さい。その金を握ると、お父さんが急にケチン坊の握り屋になつて、その爲にお父さんと義絶しなけりやならなくなりはしないかと、心配して居るのです」と、云ひながら彼は卓から立ち上つた。

 彼の母は笑ひながら、息を送り出した。そして息が歩いて行く姿を見送ると、朝食の卓に歸つて來た。彼女は、夫が輕卒に猿の手を信じたことを、やりこめるのが愉快であつた。が、さうしながらも郵便が來ると馳け出したり、又その郵便が洋服屋の勘定書であることが分ると、酒好きの曹長の話をしたりした。

「ハアバァトが歸つて來ますと、またきつと何かひやかしを云ひますよ」と、晝食のときに彼女が云つた。

 ホワイト氏は、ビアをつぎながら

「然し、あれが俺の手の裡で、ビクリと動いた丈はたしかなのだ。それ丈は誓つてもいゝ」

「さう思つた幻でしよう」と、老夫人はなだめるやうに云つた。

「いや思つたのぢやない、確に動いたのだ。思つたりしたのぢやない、實際――」

 と云ひけたが、妻が向ふを向いて居るので「何うしたのだ」と訊いた。

 妻は返事をしなかつた。彼女は戸外に居る一人の男のあやしげなそぶりを見つめて居た。その男は中へは入らうとして、は入りかねて居る樣子であつた。妻は心の中にふと二百磅の事が浮んだので、その男の身裝が立派で、帽子が新しく光つて居るのに氣が付いた。その男は、門の前で三邊立ち止まつて、そして通り過ぎた。四回日に到頭門に手を掛けながら立ち止まつた。そして急に決心したと見え、門をあけると、玄關の方へ步いて來た。それと同時に、ホワイト夫人は、手を後にやつて、エプロンの紐を外づし、その有用な品物を椅子の座蒲團の下へ置いた。

 彼女は、内心穩でなさゝうなその客を、導いて來た。彼は恐縮したやうにホワイト夫人を見て居た、などを聽いて居た。それから、彼女は女性と云ふ性が、許すかぎりの辛抱強さで、相手が話を切り出すのを待つて居た。が、相手はしばらくは不思議な程默つて居た。

 到頭その男が切り出し始めた。

「私はえー此方樣へ參るやうに」と、云ひかけて、洋袴から落ちた糸屑を拾ひ上げたりした「實はモーエンドメギンス會社から參りました。」

 老夫人はビクリとした。

「何か事件が起りましたか。何かハアバアトの身の上に事件が起りましたか、一體何です、何です」と、息を切らせて訊いた。

 彼の夫が、橫からそれを制した。

「これこれ! お前のやうに、さう急いではいかん。まあお坐りなさい。決して凶い知らせぢやありますまいね」と、相手の顏を憂はしげに見つめた。

「大變お氣の毒なことですが――」と、その客が話し始めた。

「怪我をしたのですか」と、女親が訊いた。

 客は肯いて見せた。そして靜に云つた。

「大怪我です。が、苦痛はありませんでした」

 年寄つた女親は、彼の手を合せながら、

「有難い、苦しまないと云ふ丈でもどんなに――」と、云ひかけたが、ふと「苦痛はない」と云ふ事の凶い意味が分ると、彼女はハツと言葉を途切らせた。見ると相手の男は、顏を橫へ背けて居るので彼女の恐怖が恐ろしくも、當つて居るのを知つた。彼女はホツと息を吐くと、まだそれとは氣の付いて居ないらしい夫の手の中に、彼女の打ち震ふ老いた兩手を托した。

 其處に長い沈默があつた。

「機械に身體を捲き込まれたのです」と客が到頭おしまひに、低い聲で云つた。

「機械に捲き込まれた。なるほど」と、ホワイト氏がうつゝのやうに繰り返した。

 彼は窓の方角を、ぼんやりと凝視して居た。そして妻の手を自分の手の裡に握りしめて居た、もう四十年も昔の、戀人同志であつた頃にやつて居たやうに。

「あれは私達に取つて、取替へのない一人子です。お察し下さい」と、靜に客の方を振向きながら云つた。

 客は咳拂ひをして、席を立つて靜に窓の方へ步んだ。

「會社の重役も御愁傷の程を心からお察し申すと、申しました。」と、彼は窓の方を見ながら云つた「が、一寸お斷りして置きます。私は會社の使用人で、會社の命令通り申上げますのです」

 それに對して返事はなかつた。年取つた夫人の顏は白かつた、眼は引きつり、息は絶えるばかりであつた。夫の顏は、彼の友なる曹長が最初の戰場に、望んだやうな顏をして居た。

「會社の方でかう申して居るので厶います。會此の方で責任は持てない。一切責任は持てない。が。御子息樣のこれまで御功勞に對するお禮として慰藉金若干を差し上げようと申して居ります」

 ホワイト氏は妻の手を放すと、立ち上つた。そして恐怖に充ちた面でぢつと客を見つめた。彼の渇いた唇が

「金額」はと云ふ言葉を思はず吐いた。

「二百磅です」と、客人が答へた。

 妻の悲嗚を揚げたのにも、氣が付かず、老人はかすかな微笑を洩すかと思ふと、盲目のやうに手を泳ぐやうに突き出しながら、死人の如く床の上に崩れかゝつた。

 

         三

 

 二哩ばかり離れた、新しい大きい墓地へ死人を葬つてから、老夫婦は陰と沈默とに閉ざされて、家の中へ歸つて來た。

 凡てが夢の如く、現の如く去つてしまつたので、彼等は何うしても、それが實際の事だとは諦めかねて居た。まだ何か起るに違ひない、この老いた心には堪へがたい重荷を緩めて呉れるやうな、何事かゞ起るに違ないと云ふやうな、期侍の心さへ殘つて居た。

 が、然し日は空しく去つた。さうした期待の心はあきらめに移りかけて居た。時々は冷淡と間違はれる。年寄特有のあきらめに、移りかけて居た。

 時には彼等は言葉さへ交はさなかつた。もうそれに就いて話すべき對象がなかつたのである。そして日が退屈になるほど、長かつた。

 息が死んでから、一週間ばかり經つたある夜だつた。老人は、夜中眼がさめて、手を延ばして寢床の上を探つた、そして目分一人であるのに氣が付いた。

 部屋は暗かつた。聲を潛ませた泣き聲が、窓の所から聞えた。彼は起き直つて聽いて居た。

「さあ來てお休み、身體が冷えるだらう」と、物やさしく言つた。

「あの子が、どんなに冷えるでしよう」と、云ひながら老夫人は更に聲をあげて泣いた。

 いつか妻の泣き聲が聞えなくなつて居た。寢床が温かかつた。彼の眼は眠むく重かつた。彼がとろとろまどろみかけた時であつた。彼はいきなり妻の烈しい叫聲によつて、急に覺された。

「猿の手! 猿の手!」と、彼女はすさまじく叫んだ。

 彼は駭いて起き上つた。

「何處に何處に。それが何うしたのだ」

 彼女はよろめくやうに、彼の所へ馳けつて來た。そして靜に云つた。

「あれが欲しいのです。無くしはしないでしよう」

「座敷の棚の上にある。それが何うしたのだ」と、いぶかりながら答へた。

 彼女は大きな叫び聲と笑ひ聲を、一時に揚げた。そして彼の上に身を掩ふて、頰にキスをした。

「今丁度あのことを思ひ付いたのです。何うしてあのことを今迄忘れて居たのだらう。あなたも何故考へ付かなかったのです」と。彼女はヒステリツクに云つた。

「考へ付くつて何の事だい」と、彼が尋ねた。

「もう二つの願の事です、私達はまだ一つしか願つてありません」と、彼女は口早に答へた。

「一つで懲々したぢやないか」と、夫が烈しく云つた。

「いゝえ」と、彼女は威力丈高に答へた。「もう一つ願ひを叶はして貰ふのです。はやく行つてあれを取つて來なさい、そしてあの子を生き返らすやうに願つて下さい」

 夫は寢床の中に立ち上つた。そして打ち震ふ手で夜具を投げ捨てた。

「馬鹿な。お前は氣が違つたな」と、蒼白な顏をして叫んだ。

「取つておいでなさい」と彼女が喘いだ。「早く取つておいでなさい。そして願を立てゝ下さい、あああの子を、あの子を」

 夫はマツチを擦つて、蠟燭を灯した。

「さあお寢みなさい。お前は途方もないことを云つて居る」と、夫はおづおづ答へた。

「私達は初の願が叶つたのです。二度目の願が叶はないと云ふことがあるものですか」と、彼女は熱狂して云つた。

「あれや偶然さ」と、夫が口ごもつた。

「行つて取つて來なさい! そして願を立てゝ下さい」と、年寄つた妻は夫を扉の戸へと、引きづるやうにした。

 夫は闇の中を手探りに座敷ヘ降りて行つた。そして爐の傍へ近づいた。あの魔の符はやつぱり一元の所にあつた。彼はふと、まだ願を口に出さない前に、はやくも身體を打ち碎かれた血まみれの息の姿が室を出ない前に、眼の前に現はれはしないかと云ふ恐怖が、恐ろしく襲つて來た。扉の方角を忘れた時には、彼はハツと息を止めた程であつた。彼の額は、冷汗をかいて居た。彼は卓の周圍を擽りながら廻つた。それからやつと壁を傳ひながら、小さい入口の方へ出た。その間始終あの物騷な品物は彼の手中にあつた。

 部屋に歸つて見ると、彼の妻の顏色も前とは變つて居るやうに思はれた。蒼白でしかも緊張して居た。そして此世の入と見えないやうな顏付をして居ることが、彼の心を怖れしめた。彼は彼女を薄氣味惡く思つた。

「さあ願をお立てなさい!」と妻は強い聲で云つた。

「馬鹿らしい、正しい事ぢやない」と彼は呻くやうに云つた。

「願をお立てなさい!」と、妻は嚴然と繰返した。

 彼は彼の手を差し延べた。

「彼はもう一度子供が生きかへるのを望む」

 魔の符は床上に落ちた。彼は戰きながら、それを見た。そして震へながら長椅子に腰を下した。老いた妻は燃えるやうな眼をしながら、窓の所へ步いて行つて、その窓掩ひを揚げた。

 彼は身の裡が、冷えるまで坐つて居た。そして窓から表を覗いて居る老いた妻の姿を、時々見て居た。蠟燭のはしが、支那製の燭臺の緣よりも低く燃えつきて、天井や壁にたゆたふやうな光を投げて居たが、パッと燃え上ると同時に消えてしまつた。

 老人は、魔の符の利き日のないのにホツと安心して寢床には入つた。二三分經つと、妻も靜にあきらめたやうに彼の傍に來た。

 兩方とも物を云はなかつた。靜かに時計の音を聞いて居た。階段の板が鳴る響がした。鼠が鳴きながら壁の中を走つた。闇は堪へがたいほど重くるしかつた。夫はやつと元氣を引きたゝして、マツチを點けながら、階下へ蠟燭を取りに行つた。

 階段を降りた所、マッチが消えた。二本目を擦るために立ち止まつた。丁度その瞬間であつた。やつと聞えるか聞えないかの、かすかな戸を叩く音が、表から聞えて來た。

 マツチは彼の手から、滑り落ちた。彼は叩く音がもう一つ繰り返へされると、息を凝らして立ちすくんでしまつた。それから急いで、部屋へ馳けもどつて、後の戸をハタと閉ざした。

 三度目の叩音は、家中に響いた。

「何でしよう」と、年取つた妻は、驚いて立ち上つた。

「鼠だよ。鼠だよ、今階段のところで、擦れ違つたんだ」と、夫は震へながら云つた。

 妻は寢床の上に坐り直して聞耳を立てゝ居た。音高いノツクが家中に響いた。

「あゝハアバアトだ。ハアバアトだ」と、妻は叫んだ。

 彼女は戸の所へ馳け寄つた。が夫は前に立ち塞がつた。そして彼女を取へて放さなかつた。

「何うする氣なのだ」と彼はうつろになつたやうな聲で云つた。

「あの子です。ハアバアトです。二哩もはなれて居るので來るのに時間がかゝつたのです。何うして止め立てするのです。はなして下さい。戸をあけてやらねばなりません」と彼女は機械的に夫と爭つた。

「後生だから入れてはいけない」と、夫は打ちふるへながら云つた。

「あなたは自分の息を恐がつて居るのですか。はなして下れい。ハアバアトや、今行つて上げるから、今行つて上げるから」と、彼女は叫びながら爭つた。

 ノックは又一つ、又一つ續いた。老いた妻はいきなり身を振り切ると部屋から走り出た。夫は階段の中段に追すがつて、賴むやうに姿を呼び止めやうとしたが、彼女は階下へ馳け下りてしまつた。彼は表戸の鎖がはづされ、下の閂が徐々に重々しく、環から取り除けられる音を聽いた。それから老いた妻の緊張して喘いで居る聲をきいた。

「降りて來て下さい。閂が。閂に手が屆かないのです」と、彼女が聲高く叫んだ。

 が、彼女の夫は四つ這ひになつて、懸命に床に落ちた猿の手を探して居た。表に居る者が家に入らぬ間に探せたらと思つて居た。

 殆ど間斷なき射擊のやうに、戸を叩く音が家中に響き渡つた。彼は妻が閂を除づす踏臺のために戸に寄せかけて置いた椅子が、ギチギチ音がするのを聽いた。彼は、閂がだんだん音を立てながら、外づされるのを聽いた。丁度その瞬間に、彼は猿の手を見付けた。そして狂せんばかりに彼の第三番目にして而して最後なる願を立てた。

 戸を叩く音が、急にピタリと止まつた。まだその反響は家の中に殘つて居る位であるのに。彼は椅子が取り除けられ、戸が開かれるのを聽いた。冷めたい風がサッと階段を傳ふて流れ上つた。妻の悲しみと失望との長い呻きが、彼に妻の所へ馳け下りる勇氣を與へた。そして門の所まで出て見る勇氣を與へた。

 街の向ふ側にまたゝいて居る街燈が、靜かな人跡の絶えた深夜の通を照して居たばかりであつた。

ブログ840000アクセス突破直前記念 火野葦平 羅生門

[やぶちゃん注:断わっておくが、これは、かの芥川龍之介の「羅生門」を巧みにインスパイアした、否、今一つ、別のキャメラから撮影した『芥川龍之介「羅生門」火野葦平による河童主人公版』なのである。

 火野葦平は昭和一二(一九三七)年に日中戦争に応召していたが、出征前に書いた「糞尿譚」が同年(下半期)に第六回芥川賞を受賞したことを陣中で知った(戦地で行なわれた授賞式には小林秀雄が赴いているという)。無論、彼は芥川龍之介を敬愛していたが、ウィキの「火野葦平によれば、『芥川が「フィクションによってしか語れぬ事実がある」と、河童を通して社会を風刺したのに対し、葦平は「私の描く河童が理屈っぽく、風刺的に、教訓的になることを警戒していた」と書いている。また、「河童が私の文学の支柱であることになんの疑いもない」と書いている』とあり、また、葦平は六十年安保発効五日後の昭和三五(一九六〇)年一月二十四日に自宅書斎で享年五十三で死去しているが、『晩年は健康を害していたこともあり、最初は心臓発作と言われたが、死の直前の行動などを不審に思った友人が家を調べると、「HEALTH MEMO」というノートが発見された。そこには、「死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるしください、さようなら」と書かれていたという。その結果、睡眠薬自殺と判明した。このことは』葦平の十三回忌の際、『遺族によりマスコミを通じて公表され、社会に衝撃を与えた』ともある。

「姥口(うばぐち)の沼」不詳。平安末期の羅城門外以南は複数の川が合流し、湿地も多かったので設定としては無理がない。

やたけに」(太字部は底本では傍点「ヽ」)は形容動詞「弥猛なり」の連用形で、盛んに勇み立つさま・はやりにはやるさまの謂いである。

「襖(あを)」袷(あわせ:裏地をつけて(合わせて)仕立てた着物。通常は秋から春先にかけて用いた。読みは「合(あ)はす」の連用形に由来する当て読みである)の衣。「襖子あおし)」とも呼ぶ。読みは「襖」の字音「アウ」の音変化したものである。芥川龍之介の「羅生門」にも出るが、そこでは下人の着る「紺の襖」として出る。

 本テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、840000アクセス突破直前記念として公開した。突破記念テキストは別に用意してある。【2016年7月16日】]

 

 

   羅生門

 

 

 或る日の暮れがたのことである。一匹の河童が羅生門(らしやうもん)の下で雨やみを待つてゐた。

 廣い門の下にはこの河童のほか誰もゐない。ただところどころ丹(に)塗りの剝げた大きな圓柱に蟋蟀(こほろぎ)が一匹とまつてゐる。羅生門が朱雀(すざく)大路にある以上は、この河童のほかにも、雨やみをする市女笠(いちめがさ)や揉烏帽子(もみゑぼし)がもう二三人ありさうなものである。それがこの河童のほかには誰もゐない。

 何故かといふと、この二三年、京都には、地震とか、辻風とか、旱魃(かんばつ)とか、火事とか、饑饉(ききん)とかいふ災(わざはひ)がつづいて起つた。そこで洛中(らくちゆう)のさびれかたはひととほりでない。舊記によると、佛像や佛具をうち碎いて、その丹(に)がついたり金銀の箔(はく)がついたりした木を路ばたに積みかきねて、薪の料に賣つてゐたといふことである。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などはもとより誰もすててかへりみる者がなかつた。するとその荒れはてたのをよいことにして、狐狸が棲む。盜人が棲む。賣女が棲む。たうとう河童までが來て棲むことになつた。なぜ水中に棲みなれた河童が羅生門などに來て棲むやうになつたかといへば、格別の理由はなく、旱魃のためにこれまでゐた姥口(うばぐち)の沼が干あがつてしまつたので、いつも沼から見なれてゐた羅生門へ行かうとなにげなしに考へついたにすぎない。思へば永い日照りつづきであつた。馬の足跡のたまつたのにさへ、三千匹も棲むことのできる河童のことであるから、沼にわづかでも水が殘つてをれば不自由はなかつたのであるが、それこそ一滴の水氣もなくなり、水底を露出した沼は鱗(うろこ)のやうに縱橫に龜裂が入り、はては乾燥した泥は粉末となつて、風とともに濛々と砂塵をまきあげる始末であつた。密生してゐた葦もきびがらのやうに枯れて、日中は火を發することもあつた。これではいかな河童も棲息はできぬので、心ならずも棲みなれた場所をすててとりあへず羅生門へ來たのであるが、ここもまた棲み心地のよい塒(ねぐら)といふわけにはいかなかつた。狐や狸や狢(むじな)のたぐひが棲むのは話し相手ができて惡くはなかつたし、盜人や賣女が棲むのも知らん顏してをればよかつたが、ほとほと閉口したのは、この門に引きとり手のない死人を持つて來て、棄(す)てて行くことであつた。饑饉のうへに疫病(えきびやう)が流行して、洛中では連日何十人といふ人間が死んだが、それらの屍骸をここへ運んで來る習慣がついて、日ごとに屍骸が增し、その汚穢(をわい)のさまと腐爛した臭氣とは耐へがたかつた。且つ、不愉快なのはこれらの腐肉を啄(ついば)みに來る鴉(からす)の群で、高い鴟尾(しび)のまはりを旋囘しながら賤しげな啼き聲を發し、容赦もなく天上から糞をたれ落して憚らぬのであつた。それらの糞は崩れ目に長い草のはえた石段や、ペんぺん草に掩はれた屋根や、丹の剝げた壞れかけた樓門の欄干(てすり)や、はては柱などを、時ならぬ雪を降らしたやうにまつ白く染めてゐた。

 河童は昔の沼に對してはげしい郷愁を感じ、歸心は矢のごとくではあつたけれども、水のない沼にかへるよすがもなく、ひたすら天を仰いでは雨を待望してゐたのであつた。そこへ今日の雨である。實に百日に近い早天つづきであつた。ぼつりと雨の一滴が落ちたとき、あまりのよろこびに思はず頓狂な高い聲が出て、友だちの狢(むじな)や狸から笑はれた。河童は皿に水分がなくなれば力は拔け、はては命をも失ふ仕儀になるのだが、旱魃になつて以後、皿に水氣を絶やさぬためにはひとかたならぬ苦勞をした。方々からわづかの水を集めて來て皿に入れ、辛うじて健康を保つてゐたが、どこにも水が切れて來ると、唾を塗ることでごまかしたり、はては尿(いばり)をつけたりして保全を計つた。もとより應急の姑息(こそく)手段であるために、榮養不良と相俟(ま)つて、次第に體力が衰へた。甲羅や蝶番(てふつがひ)や水かきの潤ひもなくなると、身體中にリユウマチスのやうな痛みを覺え、歩行すらも困難になり勝ちであつた。もう十日も炎天がつづいたら、寢こんでしまはねばならぬとすこぶる恐慌(きようくわう)を來してゐるところへ、この雨であつた。河童が歡喜のあまり多少狂氣じみた言動をしたとて、すこしも咎むるところはないであらう。水といふものがただちに生命につながつてゐるほどの切實感をもたぬ狸や狢どもは、河童がなにかしきりに喚(わめ)いては泣きだしたのを見て、どつと笑ひくづれた。

 樓門の欄干にもたれて雨のなかに出ると、皿の上につめたい水の感觸が心臟にまでひびくやうなこころよさで傳はり、みるみる身内に元氣の溢れて來るのが自分でもわかつた。口をひらき天から落ちる雨滴をべろべろと舐(な)めのみこんだ。失はれてゐた精氣をとりもどして、河童は久しぶりで跳躍をしてみた。長い間の不健康で膝頭がうまく彎曲(わんきよく)しなかつたが、それでも門の舞臺の端から端まで五囘で飛ぶことができた。多くの屍骸の中を飛んだのだが、そのときは日ごろは鼻持ちならぬ臭氣などまつたく氣にならなかつた。

 興奮がをさまると、河童は故郷のことを思ひだした。姥口(うばぐち)の沼にまた水がたまる。昔の沼へかへれるといふ思ひはさらに河童を有頂天にした。しかしながら、この河童は、思ひがけぬ幸福にめぐりあつたときにあまりに慌てれば、その道をとり逃がすといふ、あの苦勞人の愼重さを失つてはゐなかつた。心はやたけにはやつてゐるのに、河童はわざと悠容とした足どりで、梯子(はしご)段を降り、門の下に出て彳(たたず)んだ。はじめに「一匹の河童が暮れがたの羅生門の下で雨やみを待つてゐた。」と書いたのは、かういふわけであるが、尤も河童が單に雨の止むのを待つてゐたのでないことは斷るまでもなからう。雨をよろこびこそすれ、雨に濡れて困る河童ではない。またどんな土砂降りのなかでも格段傘を必要としない。かれが門の下に彳んでゐたのは、實ははやる心をおさへつつ、故郷たる姥口の沼にすこしでも多くの水のたまるのを待つてゐたのであつた。

 雨は羅生門をつつんで、遠くからざあつといふ音をあつめて來る。夕闇はしだいに空を低くして、見あげると門の屋根が斜につきだした甍(いらか)の先に、重たくうす暗い雲を支へてゐる。

 雨の音を聞きながら彳んでゐるうらに、河童はこれまでは忘れてゐたはげしい空腹を感じはじめた。早魅と饑饉と疫病と相ついで起つたために、河童は家と食とを同時に奪はれた。大好物である胡瓜はいはずもがな、唐黍や茄子なども影をひそめ、魚類も涸渇(こかつ)して口にする術がなくなつた。人間の尻子玉はかへつて得る機會が多くなつたが、それらのほとんどが腐敗し靡爛(びらん)してゐて、たまに若干新鮮なものを得ても、滋養分に乏しくて、腹の足しにはならなかつた。食餌の不足のときでも水さへ飮んでをれば、相當期間耐へることができるのだが、その水はすでに先刻切れてゐた。榮養失調となつて、河童は日とともに瘦せ細り、往年の面影は見るべくもなつてゐた。さうして今日の雨に會ひ、雨を飮んでいくらか元氣はとり戾したものの、胃袋のなかはまつたく空で、ほんたうの力が湧いて來ないのだつた。門の下に彳んで頃ほひをうかがつてゐた河童は猛然たる食慾に襲はれ、腹がぐうぐうと鳴り、眼前を胡凧や唐黍や魚などの幻影が、蜃氣樓(しんきらう)のやうに浮んで來て消えなかつた。

 わづかに西空にほのかな明るみだけを殘すころになつて、雨がやんだ。どれくらゐ故郷の沼に水がたまつたかと樂しい想像に、久しぶりに唇をほぐしつつ、河童は羅生門の下を出て歸路についた。歩くたびにすき腹にこたへたが、歸家のよろこびにしばらくはその苦痛を忘れて急いだ。

 それから何分かの後である。さして遠くはないので、河童はまもなく姥口の沼にたどりついたが、來るときのよろこびはどこへやら、期待に反した落膽にほとんど呆然となつて、沼の緣に立ちつくしてゐた。胸ときめかせつつかへつて來た故郷の沼の思ひがけなく荒廢したさまは、まさに眼を掩はしむるものがあつた。いつたいどうしたといふのであらうか。思考力のにぶつた河童は悲しげに首をひねるのであるが、とはいへ、そこには格別に意外な現象がおこつてゐたわけではなかつた。羅生門へ引き取り手のない死人を棄てに來るやうに、姥口の沼にも同樣に死人を持つて來て棄てたにすぎなかつた。沼は山蔭になつてゐて人目にはつきにくいし、距離としても手ごろなので、日夜續々と發生する洛中の死亡者の埋葬地としては、むしろ絶好の場所といつてもよかつた。河童が水の乾いた沼を出た後に、つぎつぎに棄てられる死者はしだいに數を增し、いま久しぶりに河童がかへつてみれば、屍骸は重なりあつて堆積し、沼を埋めつくしてゐるのみならず、もりあがつて岸の土堤にさへあふれてゐた。男や女や老人や子供やのさまざまの屍骸は、ことごとく饑餓のために骨をつきだした瘦軀(そうく)のまま投げすてられ、その多くのものは腐爛して鼻孔をはげしくつきさす臭氣を發散し、蛆がわいてむちむちと不氣味な音を立ててゐた。なかにはすでに白骨となつてゐるものも多く、諸所から靑白い燐光が人魂のやうにぼうと立らのぼつてゐた。その屍骸の山の底からくぐもるやうな呻(うめ)き聲がときどきかひびいて來る。どうもそれは棄てられてから生きかへつた者か、或ひは半死のまま棄てられた者の斷末魔の呻きのやうに思はれた。降つた雨はこれらのうへにたまつて、沼全體が一つの腫物(はれもの)のやうに見え、雨は膿(うみ)のやうに淀んでゐた。それらのうへに黑豆をまいたやうに鴉が群れて、いやな聲で啼いてゐた。

 落膽のために淚すらも出ない河童は、魂を奪はれたやうに、長いこと立ち疎(すく)んでゐた。ふいに眩暈(めまひ)を感じてよろけることもあつたが、やつとの思ひで身體を支へて、なほもいつまでも動かなかつた。そのうちに、すでに闇黑となつた夜の沼の妖景のなかに、なにやらしきりに蠢(うごめ)いてゐるもののあるのが、うつろな河童の瞳にうつつた。それは人影らしく、その人彰は屍骸の間をかきわけるやうにして右往左往し、ときに立ちどまつてなにかを探すやうにきよろきよろしてゐた。なにをしてゐるのか、ときに身體を屈してうづくまると、屍骸の間にふかく顏をつつこむこともあつた。手にしてゐる明りで、ときどきうす汚ない顏が見える。鋭く削(そ)いだやうに顴骨(かんこつ)のとび出た頰と、尖つた顎と、血走つた賤しげな眼の光とが浮かび、男か女かわからぬやうに髮をふりみだしてゐて、亡靈のやうにも見えた。氣がつくと、それは一人ではなく、左の方にも、右の方にも、思ひがけなくすぐ足元にも、默々と、そして默々と、同じやうな動作をしてゐる者があつた。

 河童の瞳は無意識にそれらの動きに向けられてゐたけれども、格別ふかく注意してゐたわけでもなかつた。姥口の沼に現出された地獄圖繪は全體としてその強烈な印象で、氣弱な河童の神經を錯亂させてしまひ、思考力や判斷力といふやうなものはまるで河童の心から消えてゐた。蠢いてゐる人間たちがなにをしてゐるかもわからなかつたし、またなにをしてゐようと今の河童には無關係のことであつた。そんな他人事にかかづらふよりは、胸とどろかせてかへつて來た故郷の沼がかういふ狀態で、棲むことは愚か、ここに止まることさへもできない悲しみにうちひしがれてゐたのである。しかしながら、いくら思案してみたとてはじまることではなかつた。やがて、河童はふかい吐息をつくと、沼に背を向け、跛(びつこ)をひきながら、とぼとぼと羅生門への道を引きかへした。脱け殼のやうな步きぶりであつた。

 それから、また何分かの後である。羅生門の樓の上に出る幅のひろい梯子の中段に、河童は猫のやうに身をちぢめて、息を殺しながら、上の樣子をうかがつてゐた。樓の上からさす火の光がかすかに河童の憔悴した頰を照らしてゐる。河童はやむなく羅生門を第二の故郷とすべく心にさだめて、氣をひきたたせながらさきほどかへつて來たのであるが、かへつてみると、どうも羅生門の樣子が出るときとちがつてゐた。たれかが火をとぼして、その火をそこここと動かしてゐる。その濁つた黃色い光がすみずみに蜘蛛(くも)の巣をかけた天井裏にゆれながらうつつてゐた。河童は奇妙なことに思ひながら、足音をひそませて梯子を登り、上の樣子をうかがつた。上のありさまは常に棲みなれてゐることとてよくわかつてゐた。屍骸が投げ棄てられて腐爛した臭氣のただよつてゐるさまになんの變りもなかつたが、ただ、見ればそれらの屍體の間にうづくまり、ごそごそとなにか探しまはつてゐる一人の見なれない老婆の姿があつたのである。檜皮(ひはだ)色の着物をきた背のひくい猿のやうな老婆の瘦せた顏は、火をともした右の手の松の木片にくつきりと照らしだされたが、そのぎらぎらと光る鳶(とび)のやうな眼は、樓の臺上に轉がされてゐる女の屍骸の一つに釘づけにされてゐた。老婆はやがて、松の木片を床板の間にさすと、その屍骸の首に兩手をかけ、ちやうど猿の親が猿の子の虱をとるやうに、その長い髮の毛を一本づつ拔きはじめた。髮は手にしたがつて拔けるらしい。

 河童には老婆がなんのために髮など拔くのかわからなかつた。しかしながら、老婆の不思議な擧動を見てゐるうちに、河童の腦裡にありありと先刻見た姥口の沼の凄慘な狀景がよみがへつて來た。あのときはただ無意識にながめてゐただけであつたが、いま思へばあそこでもこの老婆と同じ動作をしてゐたものがあつたやうに思はれる。いや、もつといろいろなことをしてゐた。死人の懷をさがしたり、着物を脱がせたり、帶をほどいたりしてゐる者もあつたやうだ。不思議なことにあの時はただぼんやりした眼に、いくつかの人影がうごめいてゐたことのみが焦點もあはずにうつつてゐたのに、いまここに來て、その人影のおのおの異つた行動が明瞭に浮かんで來るのであつた。そして、それらの行爲と今この老婆の行爲とにはたしかに共通したものがあつた。河童ははじめて人間がなにをしてゐたかを悟つて、驚きの思ひにうたれた。さうして、ふたたびいひやうのない空腹に襲はれたが、氣の弱い河童はただ途方に暮れるのみであつた。

 このとき、突然、眼前に展開された事件のために、仰天した河童はあやふく梯子をふみはづして、落ちるところであつた。どこに潛(ひそ)んでゐたのか、これまで全く氣づかなかつたが、突然一人の下人(げにん)が樓上に飛びあがつて、老婆の前に立ちはだかつた。おそらく、もう一つ門の外側にある梯子を登つたものであらう。床板にさされた火の光のなかに赤く膿をもつた面頗(にきび)だらけの頰が照らしだされた。河童もおどろいたが、もつとおどろいたのは老婆である。下人が兩足に力を入れて、聖柄の太刀に手をかけながら、大股に老婆に近づいて行くと、老婆は頓狂な聲を發して、弩(いしゆみ)にはじかれたやうに飛びあがつた。老婆が屍骸につまづきながら、あわてふためいて逃げようとする行手を、下人はふさいだ。おのれ、どこへ行く、と喚くのと、老婆の襟首をつかんで屍骸のなかに扭(よ)ぢたふすのと同時であつた。下人はいきなり太刀の鞘をはらつて、白い鋼のいろを老婆の眼前へつきつけた。

「なにをしてゐた。きあ、なにをしてゐた。いへ。いはぬと、これだぞよ」

 老婆は默つてゐる。兩手をわなわなふるはせて、肩で息を切りながら、眼は眼球が瞼(まぶた)のそとへ出さうになるほど見ひらいて、啞のやうに執念(しふね)く默つてゐる。それを見ると、下人はすこしく聲を柔げて、俺は檢非違使(けびゐし)の役人ではない、今しがたこの門の下を通りかかつた旅の者だ、だからお前に繩をかけてどうしようといふやうなことはない、ただ今時分この門の上でなにをしてゐたのだか話しさへすればよいのだ、といつた。老婆は肉食鳥のやうな鋭い眼で下人を見あげてゐたが、ほとんど皺で鼻とひとつになつた唇をもごもごさせて、喘(あへ)ぎ喘ぎ、この女の髮を拔いて、鬘(かつら)にするつもりであつた旨を返答した。

「わしのすることは惡いことかも知れぬ。したが、このほかに、わしのやうな老いぼれになにができよう。わしはもう永いこと、飯(いひ)を食はぬ。これこのとほり、手も、足も、胸も、骨と皮ばかりぢや。このままならわしは飢ゑて死ぬるほかはない。飢死せまいためなら、仕方がないのぢや。わしにできることをして、生きねばならぬ。さうぢやらうが。おぬしにもそれはわからう。な、わかるぢやらう」

 屍骸の頭からとつた長い拔け毛をふりまはすやうにしながら、老婆は蟇(がま)のつぶやくやうな聲でさういつて、下人の顏をおづおづと覗いた。その瞳は不安の色をたたへてはゐたが、犯すべからざる確信にも滿らてゐた。それを聞いた下人の眼が急に妖しく光りだしたが、なほも襟首をつかんだまま、きつと、さうか、それにちがひあるまいな、と苦しげな聲で二三度念を押した。老婆はまちがひないと答へると、下人はとつぜん新行動にうつつた。ではおれが引剝(ひきはぎ)をしようと恨むまいな、おれもさうしなければ飢死をする身體なのだ、と、下人はこれも不思議な勇氣と確信とを持つた聲でいふと、すばやく老婆を手荒く屍骸のうへへ蹴たふした。下人は剝ぎとつた檜皮いろの着物をわきにかかへると、またたく間に急な外側の梯子を夜の底へかけ下りた。老婆はいつまでもたふれてゐて動かなかつた。

 眼前に展開された思ひがけぬ活劇に、河童はさらに途方に暮れるばかりであつた。腦裡にはいよいよ鮮やかに姥口の沼の光景が浮かびあがつて來たが、いづくにもくりかへされてゐる人間の行動の意味が、暗愚鈍重の河童にはわかつたやうでわからないのである。生活の勇氣と正義といふもののもたらす昏迷に、思考力のにぶつた河童はいたづらに疲れるばかりで、それでは自分はどうすればよいのかといふ決斷はまつたくつかなかつた。自分も飢死しかかつてゐるが、それでは老婆や下人のやうに、また、姥口の沼の人間たちのやうに、なにをしてもよいなどといふ颯爽たる生活の方途を考へつかなかつた。河童は自分の優柔不斷と勇氣のなさが情なくなつた。

 しばらく死んだやうにたふれてゐた老婆は、やがて屍骸の中から醜い裸の身體をおこした。老婆はつぶやくやうな聲を立てながら、まだ燃えてゐる光をたよりに、外側の梯子の口まで這つて行つた。さうして、そこから短い白髮をさかさにして、門の下をのぞきこんだ。そこにはもう下人の姿はなく、黑洞々(どうどう)たる夜があるばかりであつた。老婆はにたりと笑みを浮かべると、また這つたままもとの位置へ引きかへして來た。きよろきよろと屍骸を物色してゐる樣子であつたが、一つの屍骸へ近づいて行つて、帶をときはじめた。よごれ破れた紺の襖(あを)の着物を屍體から脱がせてしまふと、鼻をひくひくさせてにほひを嗅いだ。それから、にほひと埃と虱とを一時にふるひおとすやうに、着物をうちふつたが、またにたにたと會心の笑みを浮かべて、その着物の袖に鷄のやうに瘦せた手をとほした。それは男物で似あふといふわけにはいかなかつたが、ともかくも老婆の押しつぶされた蟇のやうな裸身はかくされた。老婆は大きな嚏(くさめ)をひとつして手洟(てばな)をかみすてた。それから、床板にさした松の木片の火をうごかして屍骸の間をさがしまはり、さつきの女の死骸のかたはらにうづくまると、ふたたびその毛を拔きはじめた。ときどき、老婆は闖入(ちんにふ)者をおそれるもののごとく、拔く手をやすめて、首を斜にし、外の氣配に耳をかたむけた。蜘蛛の巣のはりめぐられた天井に、うごめく老婆の黑い影が巨大な蝙蝠(かうもり)がはりついたやうに息づいてゐた。

 梯子の上の河童はやがてすごすごと門の下へ降りた。やうやくにして決心のついたことといへば、もはやこの羅生門には二度と棲むまいといふことにすぎなかつた。どうして飢ゑをしのいだらいいか、またどこに棲んだらいいかについても、更によい思案も浮かばなかつたけれども、ともかくここは棲むべきところでないときめて、河童は憤然とした足どりで、黑洞々たる夜のなかへ消えていつた。

 河童の行方は、たれも知らない。

外国に恥かしいとは   梅崎春生

 暴漢が社会党委員長を刺殺した。何という野蛮。外国に対して恥かしい。

 定員の十四倍も乗せた船が転覆して、五人が溺れ死んだ。何という悲惨。外国に対して恥かしい。

 何々がどうしてこうなった。何たる愚劣。外国に対して恥かしい。

 何か事件が超きる。新聞や週刊誌に報道され、そのあと事件の説明や論評が出る。無署名のもあれば、いわゆる文化人や有名人なるものの署名原稿もある。

 事件の論評なんてものは、たいてい千篇一律で、御説御もっともというのが多いが、読んでいて時々私は気持にひっかかりを感じることがある。前記の、外国に対して恥かしい、と言った表現にだ。

 有名人などの原稿にその表現は多いようだが、恥かしいと感じる前に、何か持つべき感情があるんじゃないか。

 日本的野蛮、悲惨、愚劣、私たちはだいたいその根を知っている。

 事件というものは、たまたまその根が露呈したところに生起するものであって、極言すれば、それは起るべくして起きたと言ってもいいのである。

 もちろん私たちはその野蛮や悲惨や愚劣をなくす方向に力を合わせねばならないが、現在のところ私たちの国は、それ以上の国でもなければ、それ以下の国でもない。

 それをどうして外国に対して恥かしがって見せねばならないのか。何も外国に迷惑をかけたわけでもないのに。

 思うに日本は戦後十五年経って、一応文化国家、民主主義国家(怪しいものだけれど)として、世界各国とおつき合いを願っている。PTAの虚栄マダムのように、あれこれ取りつくろって、やっと一人前みたいな顔をしているのに、時々厭な事件が起きてお里が知れて、

「まあ恥かしい!」

 と、面をおおっているような趣きがある。

 恥かしいというのは、原則的には個人的な感情だと思うが、前記有名人たちは何も個人として恥かしがっているわけではなかろう。彼等は国民を代表して、恥かしがって見せているのである。国民こそいい面の皮だ。

 昨日私は家の近所を散歩していたら、向うから男の子をつれた四十前後の母親が歩いて来た。男の子が突然尿意を催したと見え、道端にかけつけて放尿した。するとその母親は、子供と私を七分三分ににらみながら、

「まあ、恥かしいから、やめなさい!」

 と叱りつけた。この叱り方は教育上よくないな、と思いながら私はその傍を通り抜けた。

 立小便は悪いことだからやめなさい、というのなら話は判る。そう叱るべきなのである。

 恥かしいからやめろ、というのは筋が通らない。人が通っていなくて、恥かしさの対象がなくなればやってもよろしい、という風に取れる。

 それでは困る。事件論評の、外国に対して恥かしいは、それにちょっと似ている。

 どうして彼等は外国の評判を気にし、一喜一憂するのか。

 恥かしいの方は一憂だけれども、一喜の方の例をあげると、たとえばアメリカやヨーロッパで日本ブームという現象があるそうだ。

 なにもブームを起すほど、日本の文化や習俗は、卓越したものでない。どうも過大評価されていると思うが、誰もその点は指摘しない。

 やはり日本の文化はすぐれているのだ、それがやっと毛唐にも判って来たのだというような論評が、時折見られる。恥かしさを裏返しにしたものが、そこにある。

 どうして日本人はこんなに外国のことを気にするのだろう。一種のナショナリズムと言うべきか。

 もっとも教育がよくなかったと思う。今考えてよくなかったと思うのであって、当時としては仕方がなかったことかも知れぬ。

 明治大正という時代は、先進の資本主義国家に対して、後進の日本が、それ追いつけ追っ越せと頑張っていた時代だから、自然教育がその点に重点が置かれたのも、やむを得なかったことだろう。外国を意識しないことには、国威は進展しない。

 明治末期大正初期の小学校の教科書に、日本は世界の八大強国の一つ、という風に書かれていたようだが、私が小学校に入った頃は、世界五大強国の一つと教わった。

 五大強国とは、日英米仏伊である。ロシアは革命のため強国の座から降りたし、ドイツは第一次世界大戦の敗北で、これまた強国でなくなった。

 それから私が中学校にいる頃は、日本は世界三大強国の一つに出世していた。三大とは、日英米である。仏と伊は可哀そうに日本の後塵を拝することになった。

 強国の基準とは何か。本来ならば、経済や文化を含めた広汎なものでなくてはならないのに、今考えてみると、日本が勝手に強国の基準としたものは、海軍の保有トン数だったようである。

 軍艦がたくさんあるから強国であって、あとの条件を全部捨ててしまったのだから、これは無茶とも何とも言いようのない基準である。

 でも、子供たちは素直だから、なるほど五大強国の一つか、三大強国の一つかと、いくらか鼻を高くして、勉学に励んだ(?)ものである。

 その子供たちが今大人になって、事件の論評を書いたりしているから、三つ子の魂百までで、どうしても外国を意識せざるを得ないのじゃないかと思う。

 今、小学校ではどんな教育をしているのかよく知らないが、まさか昔のようなことはないだろう。

 ところがこの頃枢要な地位にある老人が、愛国とか何とか妙なことを言い出して来た。ほんとに困ったものである。

 以上のようなことをある人に話したら、その人答えて曰く。

 でもやっぱり恥かしいこともあるよ。たとえば日本の代議士が外国に出かけ、衆人環視の中で胴巻をずるずると引っぱり出したり、ローマの廃墟を見て、まだイタリアも復興しておらんな、と感想をもらしたりしている。話半分としても、恥かしい話じゃないか。

 しかし、それについて、私は思う。恥かしい話であるのは事実であるが、それは当人が恥かしがるべきであって、我々が別に恥かしがる必要はない。

 もっとも当人は恥という感情が欠如しているようだが、だから当人にかわって誰かが恥かしがる必要はない。

 でも彼は、国民からえらばれた代議士だよ。

 うん。それはそうだが、現在の段階では、日本の代議士にはそんなのが時々いる。仕方がない話である。

 そういう人物をえらばない方向に、私たちは力を合わせればいいことであって、何も国民こぞって恥かしい、恥かしいと、面を染める必要はない。

 幸い総選挙も近づいたし、ここらでも少しましな人物を出すことに心がけようではないかと、話を総選挙に持って行ったのが、この一文のみそである。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第三十二回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年十一月二十日号掲載分。本当に「恥ずかしい」のは、口では天皇を奉ったようなことを言い、まともに「古事記」さえ読んだこともないような、顔だけが売りの輩が神武天皇の実在を述べながら、その実、戦争放棄を柱とする憲法を守らんとされておおらるる天皇をあろうことか無視している、「天誅」に値する逆臣佞臣に満ち満ちているところの、本日只今の売国奴たる日本政府こそ「恥ずかしい」と私は思う。

「暴漢が社会党委員長を刺殺した」昨日、電子化した「三代目の個人主義」及び私の注を参照されたい。

「定員の十四倍も乗せた船が転覆して、五人が溺れ死んだ」かなり調べて見たが、具体的に当時の本邦でのどの水難事故を指しているのか分らなかった。識者の御教授を乞う。

「胴巻」「どうまき」は金銭などを入れて腹に巻きつける帯状の袋のこと。近年の海外旅行では寧ろ、盗難防止で同じタイプのものが当たり前にはなったが、もっと恰好はよい。]

2016/07/15

芥川龍之介 手帳3―6

《3-6》

○ランデヴウ 停車場 女來る 男見る 女男を見ず まづ化粧室に入る 男微笑す 至る 鏡中にて會ふ

○人力 or 自動車 速力早くなりし如し 氣づけば唯狹き路に入れるのみ

[やぶちゃん注:これがその元だなどとはさらさら思わぬが、私はこの一条を読むと「或阿呆の一生」のあの章を思い出すのを常としている。

   *

 

       二十一 狂人の娘

 

 二台の人力車は人氣のない曇天の田舍道を走つて行つた。その道の海に向つてゐることは潮風の來るのでも明らかだつた。後(うしろ)の人力車に乘つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。それは決して戀愛ではなかつた。若し戀愛でないとすれば、――彼はこの答を避ける爲に「兎に角我等は對等だ」と考へない譯には行かなかつた。

 前の人力車に乘つてゐるのは或狂人の娘だつた。のみならず彼女の妹は嫉妬の爲に自殺してゐた。

 「もうどうにも仕かたはない。」

 彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり強い彼女に或憎惡を感じてゐた。

 二台の人力車はその間に磯臭い墓地の外へ通りかかつた。蛎殼(かきがら)のついた粗朶垣(そだがき)の中には石塔が幾つも黑んでゐた。彼はそれ等の石塔の向うにかすかにかがやいた海を眺め、何か急に彼女の夫を――彼女の心を捉へてゐない彼女の夫を輕蔑し出した。………

 

   *]

 

世界英雄傳を讀む Balzacian  ブルジヨア

[やぶちゃん注:「世界英雄傳」不詳。「Balzacian」はフランスの作家「オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac 一七九九年~一八五〇年)の著作の」、或いは、「バルザックに関連した」の意。社交界では多くの貴族女性と関係したが、彼の名の「de」は貴族を気取った自称に過ぎず、彼自身は彼は裕福な市民階級の出身で貴族ではない。しかし典型的な無頼系「ブルジヨア」とは言えよう。ウィキの「オノレ・ド・バルザック」によれば、バルザックは毎日、小説『執筆が終わると、疲れをおしてすぐに社交界に顔を出した』。『小説を書いている以外の時間は、社交界でご馳走をたらふく食べるか、知人と楽しく過ごすかのいずれかに費やされた。もはや伝説になっているバルザックの大食いは、(糖尿病が原因と思われる)晩年の失明や、死因となった腹膜炎を引き起こしたと思われる。借金も豪放、食事も豪胆であった。事業の失敗や贅沢な生活のためにバルザックがつくった莫大な借金は、ついに彼自身によって清算されることはなく、晩年に結婚したポーランド貴族の未亡人ハンスカ伯爵夫人』(エヴェリーナ・ハンスカ(Ewelina Hańska 一八〇一年~一八八二年)『の巨額の財産がその損失補填にあてられた』。]

 

○父 昔小説を書かんとせし事を語る 哀情

[やぶちゃん注:やや興味が惹かれる構想メモである。]

 

○乞食が煙突をだく話 ヂヤンケン

[やぶちゃん注:これはなかなか面白そうじゃないか!]

 

○我鬼居士の誘惑 句 畫 書 陶銅器 香

[やぶちゃん注:芥川龍之介の号「我鬼」が手帳で登場するのは実はここが初めてである。現在、海軍機関学校教官時代の大正六(一九一七)年十二月十一日下島空谷(勲)(芥川家の主治医で龍之介の死亡診断を下した人物でもある。空谷は彼の俳号。井上井月の研究家でもあった)宛書簡(旧全集書簡番号三六一)を初見とする。田端の書斎の最初の号「我鬼窟」が知られるが、これは機関学校を退職し、大坂毎日新聞社客員社員となって鎌倉から田端の実家へ移った大正八(一九一九)年四月二十八日以降のことである。但し、『ホトトギス』への「我鬼」署名の投句(当初、自分が芥川龍之介であることは伏せていた)は大正七(一九一八)年六月号以降である。]

 

○南榎町五十三 近藤浩一路

[やぶちゃん注:「南榎町」(みなみえのきちやう(ちょう))は東京都新宿区の現存町名。泉鏡花が永く住まいした地として知られる。「近藤浩一路(こういちろ 本名・浩(こう) 明治一七(一八八四)年~昭和三七(一九六二)年)は水墨画家・漫画家。ウィキの「近藤浩一路」によれば、山梨県南巨摩郡睦合村(現在の南部町)に生まれで、『近藤家は江戸時代に南部宿の本陣を務めた家柄で、父は浩一路の幼少時に病没しているが、祖父の喜則は初代県会議長を務めたほか地元で私塾を営んでおり、裕福な家庭に育つ。父の療養のため幼少時には静岡県庵原郡岩渕村で過ごし』、明治三五(一九〇二)年に韮山中学校(冤罪の静岡県立韮山高校)『を卒業すると上京』、『祖父からは医者になることを期待され』、『英語学校や予備校へも通うが、文芸誌への投稿や俳句など文芸活動に熱中』、明治三七(一九〇四)年には『画家を志して洋画家の和田英作の白馬会研究所に所属し』、同年九月には『東京美術学校西洋画科へ入学する。在学中には白馬会へ出展しており、この頃の画風には外光派の影響が見られる。同級生の影響で水墨画をはじめたほか、文芸活動も行っている。また、同級生には親友となった藤田嗣治らがいる』。『美術学校では一年落第し』、明治四三(一九一〇)年に卒業、『卒業制作は連作「五十三駅」。卒業後は白馬会や文展への出展を行い入選もしており、京都で女子の絵画指導も行っているほか、藤田らと水墨画や漫画の展覧会を主催している。この頃には結婚もしていたため』、大正四(一九一五)年に『読売新聞社に入社して漫画記者となり、政治漫画や挿絵を担当する。漫画記者としては美術学校時代の同級生で朝日新聞記者であった岡本一平と双璧で「一平・浩一路時代」と評され、漫画記者の団結のため結成された東京漫画会へも所属し作品を出展しているほか、赤甕会や珊瑚会などの活動にも参加し』、『日本画家としても注目され』た。『大正前期の美術界では珊瑚会を中心に新南画が流行していたが、近藤も』大正八(一九一九)年に日本美術院第六回展で『初入選を果たし、翌年の第七回以降でも入選し、本格的に日本画へ転向する。近藤の画風は第六回入選作では浦上玉堂や川端龍子の色彩表現、群青派などの影響を受けており、同時代に流行していた写実主義的手法や光線表現など洋画手法取り入れ、「カラリスト浩一路」と評された』。大正一〇(一九二一)年には『日本美術院(院展)に入会し、横山大観らに評価される』。大正一一(一九二二)年には『岡本や小寺健吉や鈴木良治らの画家友人とヨーロッパ各国を旅行する。この旅ではフランスを拠点にスペインやイタリアへも足を伸ばし和田や藤田らを訪ね、各国の名所や美術サロン、美術館を訪ねる物見遊山的なものであるが、帰国後には旅行記を美術誌に寄稿し後に『異国膝栗毛』としてまとめている。『膝栗毛』ではスペインでのゴヤやエル・グレゴの作品観賞が一番の目的であったとし、最も印象深いものとして記している。浩一路はこの旅で伝統的な西洋美術を絶賛する一方で、同時代の前衛美術に対しては批判的見解を示しており、日本画壇が同時代の西洋美術に強い影響を受ける中で、自身の日本人意識を強めるものであったと記している。同年には中国へも旅行しているが、ヨーロッパ旅行が作品に反映されていなのに対し、中国旅行では帰国後に中国風景を描いており、近藤がこの時期に日本人や東洋人としての意識を強めていたと指摘されている』。大正一二(一九二三)年(年)の第十回院展では『「鵜飼六題」を出展し、これは近藤の代表作と評されている。同年には関東大震災で自宅を失い、一時静岡へ滞在したのちに妻の故郷であった京都市へ移住する。京都時代には「炭心庵」と名付けたアトリエで「京洛十題」「京洛百題」などの風景画を手がけている。また、茨木衫風ら門弟たちの育成にも務め、山本有三や吉川英治、芥川龍之介らの文人や俳人らとも交遊している。画風は大正から昭和初期にかけて、墨の濃淡による面的表現から描線による線的表現へと変遷していることが指摘されている』(この記載から見ても、この住所は震災前のそれであり、本底本である新全集の編者が、この「手帳3」の記載推定時期の下限を大正一二(一九二三)年辺りとする根拠とも言えよう)。その後、昭和六(一九三一)年には『個展開催のためフランスのパリへ渡る。パリでは小松清』(明治三三(一九〇〇)年~昭和三七(一九六二)年):フランス文学者・評論家)『の助力を得て個展を開催し、小松を通じて美術批評家であるアンドレ・マルローと親交を結』んでいる。昭和一一(一九三六)年には『日本美術院を脱退。東京府下久留米村』(現在の東久留米市)『で「土筆居」と名付けたアトリエで捜索を続け、百貨店での個展開催や画集の刊行などを行っている。戦時中には静岡県や故郷山梨の山中湖の別荘などに疎開している。戦後は再び東京都豊島区巣鴨(北大塚)でアトリエを構え、墨心会に所属しながら日展に出展するなど創作活動を行い、院展脱退後の戦前から戦後にかけても画風の変化が指摘されている』。『漫画や新南画、水墨画など日本美術史における浩一路の画業に対する位置づけは未だ不確定であるが、「孤高の画家」「異色の水墨画」といった異端的評価がなされている』とある。芥川龍之介には「近藤浩一路氏」(大正九(一九二〇)年一月『中央美術』)と題する人物評が載る。短いし、アフォリズムとしても面白いので、以下に旧全集を底本として示す。

   *

 

 近藤浩一路氏   芥川龍之介

 

 近藤君は漫畫家として有名であつた。今は正道を踏んだ日本畫家としても有名である。

 が、これは偶然ではない。漫畫には落想の滑稽な漫畫がある。畫そのものの滑稽な漫畫がある。或は二者を兼ねた漫畫がある。近藤君の漫畫の多くは、この二者を兼ねた漫畫でなければ、畫そのものの滑稽な漫畫であつた。唯、威儀を正しさへすれば、一頁の漫畫が忽ちに、一幅の山水となるのは當然である。

 近藤君の畫は枯淡ではない。南畫じみた山水の中にも、何處か肉の臭ひのする、しつこい所が潜んでゐる。其處に藝術家としての貪婪が、あらゆるものから養分を吸收しようとする欲望が、露骨に感ぜられるのは愉快である。

 今日の流俗は昨日の流俗ではない。昨日の流俗は、反抗的な一切に冷淡なのが常であつた。今日の流俗は反抗的ならざる一切に冷淡なのを常としてゐる。二種の流俗が入り交つた現代の日本に處するには、――近藤君もしっかりと金剛座上に尻を据ゑて、死身に修業をしなければなるまい。

 近藤君に始めて會つたのは、丁度去年の今頃である。君はその時神経衰弱とか號して甚意氣が昂らなかった。が、殆丸太のやうな櫻のステツキをついてゐた所を見ると、いくら神経衰弱でも、犬位は撲殺する餘勇があつたのに違ひない。が、最近君に會つた時、君は神経衰弱も癒つたとか云つて、甚元氣らしい顔をしてゐた。健康も恢復したのには違ひないが、その間に君の名聲が大いに擧り出したのも事實である。自分はその時君と、小杉未醒氏の噂を少々した。君はいが栗頭も昔の通りである。書生らしい容子も、以前と變つてゐない。しかしあの丸太のやうな、偉大なる櫻のステツキだけは、再び君の手に見られなかった。――

 

   *

「落想」は着想に同じい。]

 

○クリスト買春婦の梅毒を癒す――賣春婦自身の話

[やぶちゃん注:「南京の基督」(大正九(一九二〇)年七月『中央公論』)である。]

 

ピエルロチ

[やぶちゃん注:ロティを登場させる「舞踏会」は大正九(一九二〇)年一月『新潮』初出である。]

 

○第二鼠小僧 分銅伊勢屋の子 復讐的

[やぶちゃん注:「鼠小僧次郎吉」は大正九(一九二〇)年一月『中央公論』初出であるが、「分銅伊勢屋の子」というのは決定稿には出ないし、「復讐的」というのも合致しない。しかし「第二鼠小僧」は偽物の鼠小僧のニュアンスではある。或いは鼠小僧次郎吉の正体を明かす別構想作が芥川龍之介にはあったのかも知れない。]

 

○恩返しの心(親分の手助けをしたい)

○クリスチアンの聟の死

三代目の個人主義   梅崎春生

 

 去る十二日(昭和三十五年十月)、社会党浅沼委員長が刺殺された。

 私は丁度その時大洋大毎の第二回戦を見ていて、野球中継が中断されて、そのビデオテープが出た。

 それはまことにショッキングな場面で、浅沼委員長がれいのだみ声で演説をしている。ちらと左方を向く。その左方から白面の少年がラグビー選手のように体当りをかけて来る。委員長の巨軀が、よろよろとよろける。

 翌日の東京新聞に、その印象記を書いた。

 少年の思慮の足りないばかな行動に腹が立ったこと。あのビデオテープは暴力否定の効果があると同時に、ばかな若者たちの安っぽいヒロイズムを誘発する危険がありはしないかということ。近頃の生命軽視の傾向が、映画やテレビや小説の影響でないかということ。暗殺などは、腹黒い大人に、若者がおどらされているだけだということ。それをまとめて「暴力を否定する」という題の小文である。

 夕刊が発行されたその夜の十一時頃、知らぬ男から電話がかかって来た。あの文章を読んで、非常に不愉快だったというのである。

 私は今まで文章を発表して、はがきや手紙をもらったことはしばしばあるが、電話がかかって来ることはめったにない。

 電話をかけるためには、電話帳で番号をしらべねばならぬ。その煩をいとわず、電話をかけて来たというのも、はがきには盛り切れない胸中のむらむらがあったからだろう。

 でも、この人の電話は、あまり論理的でなかった。私をおどすつもりではなく、説得しようとするのだが、何だか情に走って、説得力がなかった。

「あんなにばかだ、ばかだと書いては、少年が可哀そうじゃないか。その家族の身になって考えてみたらどうだ」

 少年そのものをばかだと書いてやしない。その行動をばかだと言っているんだ、と私。

「山口少年ばかりを非難せずに、全学連の若者どもをやっつけたらどうか。片手落ちじゃないか」

 刺殺事件の印象を新聞から頼まれたのであって、全学連は自ら別問題である、と私。

 浅沼委員長も犠牲者だが、少年もある意味において犠牲者だ。そのことを貴君も書いているではないか。犠牲者を鞭うつことはよせ、などと飛躍したことを言い出して来たが、いくら電話で、言葉があとに残らないとは言え、そんな言説に賛成するわけには行かない。

「君の名は?」

 と私が訊ねたら、名前は言わない。年齢は四十二歳。右翼とも自衛隊とも関係なし、との答えであった。

 電話はそれで切れた。何者とも判らない。家族の身にもなって見ろ、としきりに言っていたところを見ると、家族と何かつながりがある男なのかも知れない。

 しかし私の小文は、過激でも何でもなく、ごく普通の平凡な感想だから、特に文句をつけられる覚えはない。

 犯人を狂犬にたとえて、野犬狩りをしろと主張する評論家もいて、そのことも電話の相手に言ったら、

「いや。あれは増長慢にかかっているから相手にする価値がない。あれにくらべると、貴君はまだしも良心的だから――」

 というわけで、私に電話して来たらしい。

 良心的とほめられたのはよろしいが、相手の真意がはっきりしないので、あまり有益な応対ではなかった。それに、知らない男との電話応対は、気骨が折れて厭だ。

 その翌日あたりに、自衛隊にいる少年の父親が進退伺いを出したという記事を読んだ。

 進退伺いというのは、辞表ではなく、辞めましょうか、それともとどまっていましょうかと、決定を向うにあずけることだろう。

 幸い(?)それは向うの決定によって辞表を出せということになった。父親は辞表を出した。そしてこう感想を述べた。

「昔、知人で共産党員の娘をもっているという理由だけでやめた役人がいる。しかし私は個人主義者だから、息子の犯した罪のために、親が辞表を出すというやり方に、賛成はできない。だが未成年だったということで、私に対する風当りも強い。だから辞表を出したのだ」

 この談話には、よく判らないところがある。前半と後半を「だが」で結んだ、その結び具合がよく判らない。

 でも個人の談話は、新聞に載る時などに、省略されたり妙にゆがめられたりして、本人の真意を伝えないことがしばしばある。これもおそらくそれとしよう。

 また事件後、少年の父はこうも述べている。

「私は非常に自由主義者で、子供が右翼団体に入りたいと言った時、一人前にならないうちはよせ、とたしなめたが、めしが食えたらいいのですか、と聞くので、それならいいだろう、と答えた。すると子供は学校をやめ、家を出て、さっさと愛国党に入った」

 これもどうも理解しがたい。一人前になるというのは、精神的な意味で一人前なのかと思ったら、めしが食えりゃいいだろうと息子から生活的に反撃されて、それならいいだろうと、あっさりかぶとを脱いでしまう。

 そのへんの呼吸が私には理解出来ない。談話の途中に脱落があったのだろうか。それが自由主義とどんな関係があるのか、それも分明でない。

「すると子供は学校をやめ、家を出て、さっさと愛国党に入ってしまった」まるで他人ごとみたいだが、そこが自由主義ということなのか。

 私の少年時代の経験からすれば、友達にぐれたのや過激なのが出る家庭には、一種のタイプがあった。たとえばおやじが軍人とか教師とか牧師とか、わりに世間を重んじるようなきびしい家庭に、とかく不良が出たものである。

 家庭に対する反逆、おやじのきびしいしつけ、世間を気にする偽善に対する反抗から、その息子たちは往々にして不良におもむくのだ。それがまあ定石になっている。

 ところがこの少年の父親は、そんな定石では律し切れない。全然逆である。

 息子の側からすれば、反逆しようにも何にものれんに腕押し、柳に風と言った具合である。そこでめどがつかなくなって、暴走ということになったのではないか。

 きびしいおやじがいる。やがてその息子が成人しておやじとなる。自分はあんなきびしいしつけを受けて苦しかったから、自分の息子には放任主義を振ろう、というケースが間々(まま)あるが、この父親はそれにも該当しない。

 この父親に「白い役人」という著書があり、その中に「酒と私」という章があり、それに、

「しかし、父は徹底的な個人主義者で、自分は飲まないが、私の飲むことには干渉しなかった」

 という一節がある。

 すると個人主義が二代つづいて、三代目にあんなのが出た。個人主義や自由主義に対する誤解が、どこかにあったのではないかと思う。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第三十回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年十一月六日号掲載分。所謂、浅沼稲次郎暗殺事件(あさぬまいねじろうあんさつじけん)は、昭和三五(一九六〇)年十月十二日に東京都千代田区の日比谷公会堂に於いて日本社会党委員長浅沼稲次郎が十七歳の右翼の未成年の少年山口二矢(おとや 昭和一八(一九四三)年~昭和三五(一九六〇)年)に暗殺されたテロ事件を扱っている。ウィキの「山口二矢によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、彼は『後の陸上自衛隊員山口晋平と大衆作家村上浪六の三女の次男として東京都台東区谷で生まれた。次男として生まれたことから、父親が姓名判断をした上で、「二の字に縁が多い」ことによって彼の名前を二矢と名付けた。彼の父は東北帝国大学出身の厳格な人物で、兄も学業に秀でていた。大衆作家の村上浪六は、母方の祖父にあたり、文化史家の村上信彦は伯父にあたる』。『幼年時代から、彼は新聞やニュースを読み、国体護持の闘争に身を投じて政治家たちを激烈に批判した。彼は早くから右翼思想を持った兄の影響を受けて右翼活動に参加することになった。中学から高校の初めまでは父親の勤務地の関係で、札幌で生活した。彼は一九五八年(昭和三十三年)玉川学園高等部に進んだが、しかし、父親の晋平の転勤が発令されたため、彼は札幌の光星学園へ転校。しかし、再び東京へ戻って玉川学園に転入した』。『一九五九年(昭和三十四年)五月十日、十六歳で愛国党総裁赤尾敏の演説を聞いて感銘を受け、赤尾敏率いる大日本愛国党に入党し、愛国党の青年本部員となった。赤尾の「日本は革命前夜にある。青年は今すぐ左翼と対決しなければならない!」という言葉に山口は感動し、赤尾が次の場所に移動しようとした時、山口はトラックに飛び乗り、「私も連れて行って欲しい」と頼み込んだ。しかし、この時には赤尾に静かに拒絶された。その後、玉川学園高等部を中退。小淵沢町で嶽南義塾をしていた杉本広義のもとでしばらく厄介になり、彼の紹介で大東文化大学の聴講生となった』。『山口は赤尾の演説に対して野次を飛ばす者がいると、野次の者に殴りかかっていくこと等を継続した。彼は左派の集会解散と右派人士保護を率先して行った。ビラ貼りをしているときに、警察官と取っ組み合いの乱闘をしたこともあった。愛国党の入党後半年で、彼は十回も検挙された。一九五九年(昭和三十四年)十二月に保護観察四年の処分を受けた』。『一九六〇年(昭和三十五年)五月二十九日、同志党員二人らとともに愛国党を脱党し』ている。彼は警察の供述の中で、『左翼指導者を倒せば左翼勢力をすぐ阻止できるとは考えないが、彼らが現在までやってきた罪悪は許すことはできないし、一人を倒すことで、今後左翼指導者の行動が制限され、扇動者の甘言に付和雷同している一般の国民が、一人でも多く覚醒してくれればよいと思った。できれば信頼できる同志と決行したいと考えたが、自分の決意を打ち明けられる人はいず、赤尾先生に言えば阻止されるのは明らかであり、私がやれば党に迷惑がかかる。私は脱党して武器を手に入れ決行しようと思いました』と述べているという。『一九六〇年(昭和三十五年)六月十七日、右翼青年たちが社会党顧問である河上丈太郎を襲撃する事件が起こった時、山口は「自分を犠牲にして売国奴河上を刺したことは、本当に国を思っての純粋な気持ちでやったのだと思い、敬服した。私がやる時には殺害するという徹底した方法でやらなくてはならぬ」と評価した』。同年『七月一日、同志たちと一緒に全アジア反共連盟東京都支会の結成に参加』、『十月四日、自宅でアコーディオンを探していたところ、偶然脇差を見つけた。鍔はなく、白木の鞘に収められているもので、山口は「この脇差で殺そうと決心した」という。二矢は明治神宮を参拝し、すぐに小林武日教組委員長、野坂参三日本共産党議長宅にそれぞれ電話。「大学の学生委員だが教えてもらいたいことがある」と面会を申し込む計画だったが、小林委員長は転居、野坂議長は旅行中だったので、共にすぐに実行できず、失敗した』。『十月十二日、彼は自民・社会(現在の社会民主党)・民社の三党の党首立会演説会において、当時、日本社会党の委員長だった浅沼稲次郎を殺害する計画を立て、刀袋などを準備し、東京都千代田区の日比谷公会堂に向かって歩いていった』。『一九六〇年(昭和三十五年)十月十二日に山口は日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎を刺殺、現行犯逮捕された(浅沼稲次郎暗殺事件)。山口は当時十七歳で少年法により実名非公開対象であったが、事件の重大さから名前が公表されている』。『浅沼殺害時に山口がポケットに入れていたとされる斬奸状の文面は以下の通り』。――『汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀二千六百二十年十月十二日 山口二矢。』――『彼は自決を試みたが、すぐに飛びついた巡査によって逮捕された。事件直後、警察は「背後関係を徹底的に洗う」としたが、山口はあくまで単独犯行だと供述した』。『一方自衛隊は、父の晋平が自衛官(一等陸佐)であることから批判の累が及ぶことを恐れ、晋平の辞職を望んだ。晋平は親と子は別と考え当初は拒んでいたが、結局』、事件三日後の十月十五日に依願退職している(一等陸佐は最上位である将官の陸将・陸将補に次ぐ佐官の最上位で上級幹部に属する)。『山口は十一月二日、東京少年鑑別所の東寮二階二号室で、支給された歯磨き粉で壁に指で「七生報国 天皇陛下万才」(原文ママ)と記し、シーツを裂いて縄状にして天井の裸電球を包む金網にかけ、首吊り自殺した』。『なお、辞世の句「国のため 神州男児 晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅路に」も残している』。『右翼団体は盛大な葬儀を行い』、、『山口を英雄視し』また、沢木耕太郎の「テロルの決算」昭和五三(一九七八)年文藝春秋刊)によれば、『山口はテロの標的として浅沼委員長のほか』、『河野一郎や野坂参三など政治家もリストに加えていた』とある。

 「白い役人」事件前八年前の昭和二七(一九五二)年北書房刊で山口晋平著。ここに記されているように山口二矢の実父である(次男)。本書の装幀をしている画家吉岡憲氏についてのサイト「BAR Yoshioka」内にある「(3)新宿~戦争~ジャワ」に本書の内容が少し書かれてあり、そこには富永太郎・大岡昇平・中原中也・菊岡久利・古谷綱武といった錚々たる作家が登場するとある。

 なお、ご覧の通り、犯行当時の実行犯山口二矢は未成年であった。それを事件発生当初から実名報道し(この事件の二年前の昭和三三(一九五八)年八月に起きた小松川高校女子生徒殺人事件で未成年であった犯人(及び被害者)が実名報道されたが、この事件を受けて日本新聞協会は最高裁側と協議を行い、同年十二月に「少年法第六十一条の扱いの方針」を定め、「犯人が逃走中の場合など、社会的利益の擁護が強く優先する場合を除いて原則として二十歳未満の少年については推知報道(不特定多数の一般人がその者を事件の当事者であると推して知ることが出来る報道)をすべきでないとしている。ここはウィキの「実名報道」を参考にした。仮に確信犯であった犯人山口二矢自身が名を知られることを望んだとしてもこれは明らかにおかしい)、しかも父親がかく辞職をすることとならざるを得なかった経緯は、白色テロへの義憤や梅崎春生の見解とは全く別に、大いに問題があると私は思う。その辺りのことが記されている、サイト「海軍経理学校 三七会」内の中瀬直明氏の「迷走する日本・その国民感情」をもリンクして公平を期すこととしたい。]

2016/07/14

芥川龍之介 手帳3―1~5

芥川龍之介 手帳3

 

[やぶちゃん注:大正八(一九一九)年の大阪毎日新聞社発行の手帳で、扉には『職員所持之證』『NO.623』と印が押されてあると底本(後述)後記にある。

 底本は現在最も信頼の於ける岩波書店一九九八年刊行の「芥川龍之介全集」(所謂、新全集)の第二十三巻を用いつつ、同書店の旧「芥川龍之介全集」の第十二巻を参考にして正字化して示す。取消線は龍之介による抹消を示す。底本の「見開き」改の相当箇所には「*」を配した。適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。

 なるべく同じような字配となるようにし、表記が難しいものは画像(特に注のないものは底本の新全集)で示した。各パートごとに《3-1》というように見開きごとに通し番号を附け、必要に応じて私の注釈を附してその後は一行空けとした。「」は項目を区別するために旧全集・新全集ともに一貫して編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。判読不能字は底本では字数が記されているが、ここでは「■」で当該字数を示した(画像で私が判読出来ない字も■で示した)。

 なお、底本編者によれば、本「手帳3」の記載推定時期は大正八(一九一九)年から大正一二(一九二三)年辺りとする。]

 

《3-1》

Le Journal de Saint Taro  Abbé Jireaud

[やぶちゃん注:不詳。「聖タローの日誌」? 作者と思しいフランスの人名らしい後者の「Jireaud」はあまり見ない綴りなので、「Jiraud」或いはもっと一般的な「Giraud」の誤記ではないか?]

 

○冬夏社 新潮

[やぶちゃん注:「冬夏社」というのは直木三十五が大正七(一九一八)年に設立した出版社のことと思われる(倒産して現存せず)。]

 

〇三中 雄辯 中央美術

[やぶちゃん注:「三中」府立第三中学校は芥川龍之介の母校。同校には『学友会雑誌』という学内雑誌があり、龍之介は中学生の時、この編集委員を務め、「義仲論」(明治四三(一九一〇)年二月・卒業直前で満十八になる直前)などを発表している。以下の二冊が雑誌であるとすれば、これも『学友会雑誌』のことを指している可能性が高い。

「雄辯」同名の雑誌がある。講談社の創業者野間清治が明治四二(一九〇九)年に「大日本雄弁会」(講談社の前身)を設立した翌明治四十三年に創刊した月刊誌。野間は当時東京大学法科の書記をしており、弁論部の誕生に尽力したのが本誌発刊の契機となった。第一号の弁論部発会記念の口絵写真には政治家芦田均・鶴見祐輔らの顔が見える。当初は主として雄弁家の演説速記を掲載していたが、大正六(一九一七)年頃から次第に総合雑誌化し、大正九(一九二〇)年十月『現代』が創刊されるまで、その傾向を続けた。その後は本来の弁論雑誌に戻ったものの、政府の雑誌統合策によって昭和一六(一九四一)年十月号を以って終刊となり、『現代』に統合されている(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。芥川龍之介は「或敵討の話」(大正九(一九二〇)年五月)などをこの『雄弁』に発表している。

「中央美術」これも同名の美術雑誌がある。大正四(一九一五)年に日本美術学院から作家で美術評論家であった田口掬汀(きくてい)が創刊したもので、大正期の洋画壇や新興美術の動向を最もよく捉えた雑誌とされる(昭和四(一九二九)年に休刊し、昭和八(一九三三)年に復刊したが、昭和一一(一九三六)年に終刊した。平凡社「マイペディア」に拠る)。芥川龍之介は「小杉未醒氏」(大正一〇(一九二一)年三月・初出時は「小杉未醒論」の一編「外貌と肚の底」という表題。私の「芥川龍之介漢詩全集 二十八」に全文を載せてある)などをここで発表している。]

 

○ハヤミ タタミ コツプ

 

[やぶちゃん注:この《3-1》相当部分は旧全集には全くなく、旧全集の「手帳(三)」は次の《3-2》相当箇所から始まっている。]

 

《3-2》

○刀屋の店で若い者が二人のしかかるやうに刀をといでゐる 若竹の鉢 刀の光(日蔭町)

[やぶちゃん注:江戸物のメモ。

「若竹の鉢」若い青竹の大きなものを、竹の中空の途中と節の下で切り、節を底にして作った鉢。研ぎ水を入れているのであろう。

「日蔭町」は恐らく芝日蔭町で、東海道筋の芝口二丁目・三丁目・源助町・霜月町・柴井町の表通りの一本西をやや斜めに南北に走っていた狭い裏通り。現在のJR新橋駅汐留口付近が北の端に相当する。江戸切絵図を見ると、東に各町を挟んで大名の大きな屋敷が三つと海に浜御殿があり、この通りの西側も武家屋敷が多い。]

 

○花曇り 風の音 空に飛行機 カアキ色

[やぶちゃん注:「カアキ色」カーキ色。ウィキの「カーキ色より引く。本来は『「土埃」を意味する言葉で、通常の用法としては主に』旧日本帝国『陸軍の軍装色を指す。JIS慣用色名において「カーキー色」として定義されている色は「茶色がかった黄色」と表現され』ており、外に「砂色」「枯草色」などと『呼ばれる場合もあり、「黄土色」や「オリーブ色」、「ベージュ」なども広い意味でのカーキ色に含まれる』。『英語の「khaki」はヒンディー語の』「khākī」『(土埃色の)の借入語。これは更にペルシャ語の』「khāk」『(土埃)から』借り入れた語である。]

 

○夜 丁字の香 春が來たなと思ふ

[やぶちゃん注:「丁字」「ちやうじ(ちょうじ)」と読む。バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノ Syzygium aromaticum 。所謂、香辛料のクローブ(Clove)はこの開花前の花蕾を乾燥させたものである。しかし、もしこれが「夜」にチョウジの香が薫ってきて「春が來たなと思ふ」というのであるなら、構想作品のロケーションは日本ではない可能性が高い。何故なら本種の原産地は熱帯多雨のインドネシア・モルッカ群島で、本邦では温室で十分に管理するならば栽培は可能なものの、「夜」薫ってくる露地植えというのはごく限られてしまうからである(一部でウィキの「クローブ」を参考にした)。]

 

○捨子の小説をよむと皆親にあへる なぜおれはあへんかと思ふ(マツタケ松竹梅)

[やぶちゃん注:芥川龍之介に「捨兒」(大正九(一九二〇)年七月)があるが、ここに書かれたような内容は出て来ない。]

 

○お律 頭が半分生まれる 顏ヘガアゼをかけて醫者を迎へに行く

○同上 遲くかへりし父を非難する心もち

[やぶちゃん注:「お律と子等」(大正九(一九二〇)年十月・未完)の恐らくは全く別ヴァージョンの構想の一つである(決定稿は腹膜炎で亡くなる後妻お律の臨終に至るものでしかなく、このようなシークエンスはない)。同作はかなり苦しんで書いており、「書き直し」という書入れの原稿がかなりあったらしく(平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介全作品事典」(関口安義・庄司達也編)の同作の解説に拠る)、実際、書き直し草稿の一部の外にも「お律の死」や異なった設定と思しい「お律」「或女の一生」(孰れも「お律」なる女性が主人公)という草稿断片が存在している。]

 

《3-3》

○金メダル 翌日うる Winter Over-Coat

○希臘悲劇

Hamburg 1870 象

[やぶちゃん注:判じ物のような「Hamburg  1870 象」は一八八〇年にヤスナヤ・ポリヤナのトルストイを訪れたツルゲーネフを描いた「山鴫」(大正一〇(一九二一)年)の一節のメモである(底本は岩波旧全集であるが読みは振れそうなものだけに留めた)。

   *

 一家の男女(だんぢよ)はトウルゲネフが、輕妙な諧謔を弄する度に、何れも愉快さうな笑ひ聲を立てた。殊に彼が子供たちに、ハムブルグの動物園の象の聲だの、巴里(パリー)のガルソンの身ぶりだのを巧みに眞似て見せる時は、一層その笑ひ聲が高くなつた。が、一座が陽氣になればなる程、トウルゲネフ自身の心もちは、愈(いよいよ)妙にぎこちない息苦しさを感ずるばかりだつた。

   *]

 

Rajput Painting50

[やぶちゃん注:ラージプート絵画のこと。「Rajput」(ラージプート)とは現在のインド西北部のラージャスターン州に居住する民族で、クシャトリヤ(古代インドのバラモン教社会に於けるヴァルナ(varna:「色」の意で、四層の種姓に分割された宗教的身分制度。共同体の単位であるジャーティも併せて「カースト」と総称される。上位からバラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラの大きな身分区分が存在する)の第二位である王族・武人階級)を自称するカースト集団。サンスクリット語のラージャプトラ(「王子」の意)からきた言葉で、インドいに於ける正統的な戦士集団たるクシャトリヤの子孫と自称する(ここはウィキの「ラージプートに拠った)。「Rājpūt painting」はインドのパンジャブ(パキスタンとインドに跨る広大な地域)やラジャスタン地方のヒンドゥー教徒の間で発達したミニアチュール(細密画)。土俗的宗教画が主流を占め、クリシュナ伝説やシバ神話などを主題としたものが多い。ラージャスターニー派とパハーリー派の二流派に大別され、十六世紀から十九世紀後半に流行した(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。大正から戦前の一円は平均して現在の五千円相当という分かり易い換算を用いるなら、五十円は二十五万円相当となる。]

 

《3-4》

○和辻 小宮 三重吉(童話と文藝) 平塚雷鳥 谷崎潤一郎 澤木梢

[やぶちゃん注:「和辻」哲学者和辻哲郎(明治二二(一八八九)年~昭和三五(一九六〇)年)。芥川龍之介より三歳年上。谷崎潤一郎らと第二次『新思潮』に参加、龍之介より二年程早く漱石山房の常連となった。かの「古寺巡礼」は大正八(一九一九)年の刊行で、翌年に東洋大学講師となり、大正一〇(一九二一)年からは岩波書店の雑誌『思想』の編集に参画開始、翌大正十一年には法政大学教授となっている。兵庫県生まれ。

「小宮」漱石門下のドイツ文学者で文芸評論家の小宮豊隆(明治一七(一八八四)年~昭和四一(一九六六)年)。漱石の「三四郎」のモデルとして知られる。福岡県生まれ。

「三重吉」漱石門下の児童文学者鈴木三重吉(明治一五(一八八二)年~昭和一一(一九三六)年)。広島県生まれ。

「平塚雷鳥」作家平塚らいてう(明治一九(一八八六)年~昭和四六(一九七一)年:本名・平塚明(はる))。大正八(一九一九)年から大正十二年頃の彼女は「婦人参政権運動」「母性の保護」「治安警察法第五条改正運動(女性の集会・結社の権利獲得)」等に取り組む女性解放運動家の印象が強い。

「澤木梢」の「梢」「こずゑ(こずえ)」で美術史家沢木四方吉(明治一九(一八八六)年~昭和五(一九三〇)年)のペン・ネーム。ヨーロッパ留学後に慶大教授となり、西洋美術史と美学を教え、『三田文学』の編集主幹も務めた。秋田県出身。]

 

○女Aの名を利用してBとあびびきす 女とAと未知 女よそにてAに叮嚀にす その恩を報ぜないと變な氣がしたからなり

 女始めて丸髷に結ふ 影が自分でないやうな氣がする

[やぶちゃん注:かなり細かな設定であるが、不詳。]

 

○女城を守る 男攻む 女男に惚れ 妻としてくれれば城をひらくと思ふ 男許す一夜の後男女を礫刑にす

[やぶちゃん注:これは芥川龍之介が好んだ京劇の「馬上縁」辺りの設定と終りを除いてよく似ているように思われる。]

 

《3-5》

○兄弟 婢を愛す 兄結婚す 婢不貞 弟その不貞の愛を拒ぐ 姊弟を憎む 兄 弟を劬はる 弟姊の憎に苦しみ 兄の愛に苦しみ自殺するに了る

[やぶちゃん注:かなり際立った愛憎劇であるが不詳。「拒ぐ」は「ふせぐ」、「劬はる」は「いたはる(いたわる)」(労わる)と訓ずる。]

 

○月の話

 prologue

 支那人 ⑵⑶⑷⑸⑹⑺⑻⑼⑽

 

[やぶちゃん注:未定稿(以上は私の旧全集に拠る電子テクスト。新全集ではこれは前半の「作者が去る。三日月ばかり。」までが「人と死(小戯曲七篇)」、後半部が「人と死と(小戯曲)」として別未定稿として分離されている。の構想メモ。以上から、この括弧書きの数字が戯曲の場数であろうことが類推出来る。]


       
Frau が夫の人格を理解せざる時夫

○姦通の case < 夫より卑しき人格Frau 

       
  Frau より卑しき人格の夫

 >故に夫がの夫を同類と思ふは僭越 の妻のの妻に於けるも同じ

[やぶちゃん注:実際には「」の「Frau が夫の人格を理解せざる時夫」の抹消の下に「夫より卑しき人格Frau」があり、⑴と⑵を受けた「>」以下が下に続いて改行される形である。「Frau」はドイツ語(英語化もしている)で「夫人・マダム」の意。]

インチキの許容量   梅崎春生

 

「三幌のロース大和煮」のにせものから出た蝿一匹がもとになって、ほんものの方も中身が鯨と判り、更に三転して、すべての牛罐(かん)がわずか二社をのぞいて、中身が馬か鯨かということが判った。

 まことに驚き入った話で、また悪質な話で、前号において現代のおやじとロース大和煮を同一視したことは、まことに私の短見だったと思う。

 今のおやじたちは、おやじの実力をそなえようと心がけながら、いろんな悪条件で、心ならずもおやじの座からずれ落ちたのであって、その点が牛罐とは違う。

 牛罐は牛肉の実力をそなえようと全然心がけず、儲けたい一心で世人をだまし、牛肉の座からずり落ちたのである。それをいっしょにしたら、おやじが可哀そうだ。

 虎は死して皮を残すというが、あの一匹の蝿は死して、実に偉大なるいんちきをばくろして呉れた。あの蝿も、自分の死が犬死(?)でなかったことを知ったら、さぞかし満足することだろう。

 それに反してかんづめ業者たちは、その蝿に対して、絶大の憎しみを感じていることだろう。八つ裂きにしてもあきたりない、と内心歯ぎしりしているに違いない。

 近所の酒屋に聞いてみると、あれ以来牛罐の売行き、いや、牛罐のみならず、各種かんづめ類の売行きが、がた落ちだそうである。

 画家の秋野卓美君が昨日遊びに来て、

「実にけしからん話ですなあ。もううちでは当分、かんづめ類を一切買わないことにしました。そのためにかんづめ業者の四軒や五軒、倒産してもやむを得ないです」

 と、どこかで聞いたことがあるようなせりふで、しきりに憤慨していたが、大体それが消費者の気持だろう。牛罐の売行きががた落ちするのも当然で、まあお気の毒だが自業自得というべきだろう。

 わが家でもあれ以来、かんづめ類の購買を手控えているが、この稿を書くために外出、牛罐を一箇買い求めて来た。

 あけて見ると、一番上っ面にはいかにも牛肉牛肉とした肉が乗っているが、それを引き剝がすと少し品が落ちるのが乗っていて、それを引き剝がすと更に品が落ちるという具合で、一番底の方になると、何だか千切れたような、お粗末なのがごてごてと入っていた。道路舗装に似ている。

 一番底はごろ石や砂利で、一番上がなめらかなアスファルト、あの構造にそっくりなのである。

 で、一番底の方は、馬か鯨か、食べなかったから判らなかったけれど、食べてみても判らなかっただろう。

 牛のエキスをかけた馬や鯨肉、それとほんものの牛肉の区別は、かなりむつかしいらしく、蛋白質の血清学的反応、化学反応、顕微鏡利用、その他さまざな方法で、総合的な検査が必要なのだそうである。

 味わうだけでは判らない。それが一層消費者の憤激を買ったのだろう。

 亭主のかりそめの浮気を知った女房の怒りと、亭主にずっと前からかくし女があって、しかも十を頭(かしら)に三人の子供まであることを知った女房の怒りとでは、怒り方が違うだろう。

 不器用にだまされたのと、巧妙にだまされたのは、言うまでもなく後者の方の怒りがはげしい。

 今度の消費者の怒りは、後者に近い。

 しかし、今度の事件の被害者の最大は、馬であるかも知れない。人々は巧妙にだまされたとばっちりを、馬に向けている気配があるからである。

 馬肉には口がないから弁解出来ないし、生きていても人語がしゃべれないから、ただ哀しげにひひんといななくだけだろう。

 都会人はあまり馬肉を食わない。馬肉というと、眉をひそめる傾向すらある。馬は食うべきでないという意識は、どこから来るのか。

 食牛にしても、豚や鶏にしても、彼等は人間の食用に供されるために育てられている。だから食べてもいいけれど、馬はそうでない。馬は農耕や乗用のためにある。

 生きている間、散々その目的でこき使って置いて、その揚句に食べてしまうのは、情において忍びないし、感覚的にも反撥する。そういう気持だろうと私は推察している。

 つまり犬の肉を食わないのと同じだ。もし犬肉が牛肉以上にうまかろうと、人々は犬肉を常食しないだろう。

 なぜかというと、犬は食うために育てられているのではなく、他の目的、猟のためだとか泥棒よけとか、そのために飼われているからである。

 しかし馬肉というのは、食べてまずいものではない。今夏私が行っていた田舎では、肉と言えばふつう馬肉を指すのである。店で肉うどんを注文すると、うどんの上に乗っているのはたいてい馬肉だ。

 肉屋に行っても、豚肉、鶏肉、馬肉の三本立てで売っている。馬肉が一番安い。牛肉はほとんど売っていない。どういうものかあの地方の牛肉はかたくて、値段も安くないので、ほとんど店に置いてないのだ。

 私もあの地方の牛肉よりも、馬肉の方を愛好する。馬肉の生(なま)を刺身にして、わさび醬油をつけて食うと、まぐろのような味がする。

 だから今度の事件で、馬肉自身に責任はないのだ。馬を牛といつわった業者に責任があるのであって、主婦連が怒ってつるし上げたのも、まずまず当然の成行きだろう。

 新聞の報道によると、つるし上げられたかんづめ協会理事の態度は慎重だったとあるが、テレビニュースで見た感じでは、そうでもなかった。

 かなりの高姿勢で、教えさとすような口調で、

「これは数十年来の商習慣でございまして――」

 などと弁解していた。

 消費者に一言の相談もなく、一方的に商習慣を確立するなんて、まことにいんちきなものである。

 でも、いんちきという点では、牛罐のみを責められない。

 文芸春秋十月号の三鬼陽之助氏の「選挙違反大福帳」を読み(これは面白い読みものである)、選挙の内幕がいかにいんちきに充ち満ちているか、したがってそれで選ばれた政治家がいかにいんちきなものであるかを知って、あきれた。まさしくこれは牛罐以上である。

 しかし私は、いんちきを全然否定するものではない。人間であるからには、多少のいんちきはあるだろう。

 最も公正なるべきスポーツ界、今度のオリンピックなどでも、八百長があったそうである。人間のやることだから、仕方がないと思っている。

 蒸溜水のような、全然いんちきのない世界は、かえって住みにくかろう。少しはいんちきがあった方が、刺戟にもなるし、生甲斐があるというものだ。

 ただ問題はいんちきの許容量ということであって、何十分の一、何百分の一以下なら許せるが、それ以上になると困るという限界があるのだ。

 つまり牛罐や政治家のように、オールいんちきじゃ困る、ということを言いたいのである。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第二十五回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年十月二日号掲載分。本文で言及される第二十四回は底本には不載。ウィキの「不当景品類及び不当表示防止法」の同法(この記事の二年後の昭和三七(一九六二)年五月十五日法律第百三十四号)が制定された経緯の項に、「一匹の蠅がきっかけになった法律」と言われるとして、まさにここで梅崎春生が取り上げている昭和三五(一九六〇)の『ニセ牛缶事件が契機となった。牛の絵が貼ってあった』「三幌(みほろ)ロースト大和煮」の缶詰に『蝿が入っていたとの報告が保健所に寄せられた』([やぶちゃん注:但し、外のネット記載を見ると、この蠅が入っていたのは当時知られていた人気の「三幌ロースト大和煮」にそっくりな偽せ缶詰であって、缶には牛の絵を印刷しながら、鯨肉を使っていたために摘発された。ところが、ためしに調べてみたところが本家も中身は鯨肉であった、ともある。])『東京都と神奈川県が調査を進めるうちに、当時、「牛肉大和煮」と表示していた』二十数社の商品のうち、牛肉百%のものは二社しかなく、『大部分は馬肉や鯨肉だったことが判明した(当時は馬肉や鯨肉は、安価であり牛肉よりも低級品と見なされていた)』。『事業者はこれらのニセ牛缶を大幅に安い価格で販売していたため、刑法の詐欺罪は適用できなかった。また消費者に健康被害をもたらすものでもなかったため、食品衛生法も適用できなかった』。『このような不当表示に対して、主婦連合会など消費者の批判が高まり、すでに消費者問題となっていた過大な景品類とあわせて、これらを規制する景品表示法が』制定されることとなった、とある。

「インチキ」ふと、気になった。この語源は何だろう? Q&Aサイトの答えなどによれば、この語はかなり新しく、昭和の初期に一般化した言葉であって、その語源や発生時期などは明確でないとしつつも、ものの本によっては、もともと明治期の賭博用語とし、不正手段を使った詐欺的賭博「イカサマ」から転訛したと記すものもある(「イン」は「イカサマ」の「イカ」から変化し、「チキ」は「高慢ちき」や「とんちき」など人の状態を表す接尾語「ちき」からとされるともある。「いか」は或いは「平家物語」などに既に出る、厳しく見えるように外装を凝らした「いかものづくり」(怒(厳)物作り)の「いか」が発祥ではないかと私などは思う)。しかし、江戸中期の旗本幕臣で有職故実家として知られた伊勢貞丈(さだたけ 享保二(一七一八)年~天明四(一七八四)年)の「安斎随筆」(成立年不祥)の中に、駿河国(現在の静岡県中部)小笠郡の方言に釣りの際にエサを使わず釣り針だけで魚を騙(だま)して釣る方法を「インチキ」と呼ぶと書かれているともあり、別の説では、福井県の方言で「人をごまかすこと」を「インチク」と言い、これが転訛したという説もあるという。しかし、仮にそんな古い言葉があったとしても何故にそれが明治・大正期の文献に全く登場せず、昭和になってから突如、出現して流行語のように広まったのかが如何にも不審であり、ある言語学者は外来語なのではと調べて見たものの、英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語などの中にも該当する言葉はなかった、ともある。しかしまあ、孰れも「インチキ」臭い。

「秋野卓美」(大正一一(一九二二)年~平成一三(二〇〇一)年)は「立軌会」同人。元「自由美術協会」会員。春生(大正四(一九一五)年生)より七つ年下で、春生の作品は風変わりで怪しい友人として出るのは概ね彼のようである(例えば実名フル・ネーム登場では「カロ三代」を参照されたい)。作家色川武大の麻雀仲間としても知られる。

「三鬼陽之助」(みきようのすけ 明治四〇(一九〇七)年平成一四(二〇〇二)年)は経済評論家。三重県尾鷲市生まれ。昭和六(一九三一)年に法政大学法学部卒業後、ダイヤモンド社入社、経済記者となり、その後、昭和一九(一九四四)年に東洋経済新報社、「投資経済」編集長などを経、昭和二八(一九五三)年に「財界研究所」を設立、社長に就任す、雑誌『財界』」を創刊、戦後の経済復興に取り組む企業経営者を取り上げた。著書は「東芝の悲劇」「日産の挑戦」「毛沢東語録入門」など百一冊にも上り、〈財界のご意見番〉とも呼ばれた。「経営トップは常に現場に立って」と説き、自らの会社評論・経済評論に於いてもこの現場主義を貫き通した(ウィキの「三鬼陽之助」に拠る)。

「今度のオリンピックなどでも、八百長があったそうである」一九六〇年(開会式:八月二十五日/閉会式:九月十一日)にイタリアのローマで開催された第十七回夏季オリンピック大会であるが、どの競技で、どんな八百長があったのか、ネット検索をかけてもよく判らない(というか、スポーツに全く興味がない私は調べる意欲が今一つ湧かない。悪しからず)。識者の御教授を乞うものである。]

2016/07/13

世の中にはな……

世の中には不思議な縁(えにし)は、ある……お前さんが愛しても、のぅ、お前さんの同類やあちきどころか、誰も好いてはくれはらへんおなごも……世には……おるんやで……

芥川龍之介 手帳2―32~37及び2-補 / 手帳2~了

《2-32》

James Joyce  The Portrait of the artist as A Young man, The Egoist Ltd. Samuel Butler

[やぶちゃん注:アイルランドの小説家で詩人のジェイムズ・オーガスティン・アロイジアス・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce 一八八二年~一九四一年)の初期作品で自身の半生記風の小説“A Portrait of the Artist as a Young Man”(「若き芸術家の肖像」 一九一六年刊)は最初雑誌“Egoist”に発表されている。しかし、何故、その後ろに続くようにイギリスの作家サミュエル・バトラー(Samuel Butler 一八三五年~一九〇二年)の名が記されているのは、やや不審。]

 

○鳥を胡瓜と白味噌のぬた

○日ざかりや靑杉こぞる山の峽

○瓦屋根にも毛氈干して御蟲干

 

《2-33》

○カルモチン 八十錢 鎭靜劑

[やぶちゃん注:「カルモチン」ブロムワレリル尿素(bromovalerylurea)のかつての商品名。以前はしばしば自殺に使用された薬物として目にした。ウィキの「ロムワレリル尿素から引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『一九〇七年に登場し、危険性から二十世紀前半にはバルビツール酸系が主流となり、これも現在では一九六〇年代に登場したベンゾジアゼピン系に取って代わられている』。『日本では「乱用の恐れのある医薬品の成分」として、含有される一般薬の販売が原則で一人一箱に制限されている。日本ではブロムワレリル尿素の催眠剤は習慣性医薬品、劇薬である』。『急性の過剰摂取ではブロム中毒をきたす。血中濃度の半減期が十二日と著しく長く、連用により慢性ブロム中毒をきたすことがあり、症状は多彩で精神、認知、神経、また皮膚の症状を生じる。小脳の萎縮を引き起こすことがある』。『一九〇七年にSoamが創薬し、一九〇八年にドイツのKnoll社がブロムラル(Bromural)の商品名で発売した』。『日本で処方箋が必要な医薬品には、一九一五年発売のブロバリン(Brovarin、日本新薬)が存在する』。『鎮静剤として市販されている商品としては、「ウット」(伊丹製薬)がアリルイソプロピアルアセチル尿素などとの合剤、「奥田脳神経薬」(奥田製薬)がチョウトウ、ニンジンなどの生薬やカフェインなどとの配合剤である。また、鎮静作用から市販の鎮痛剤にも配合されている。ナロン、ナロンエース(大正製薬)がそうである。販売中止となったものに、リスロンS(佐藤製薬)、カルモチン(武田薬品工業)がある』。『ブロムワレリル尿素は一九〇七年(明治四十年)に登場した。名古屋医科大学内科での、自殺を目的とした急性中毒は一九二五年から四年間では催眠劑は』十三・八%で『あったものが、一九三二年(昭和七年)から二年間で』五十五%と『著しく増加し、研究ではブロムワレリル尿素を含有する商品カルモチンに言及されている』。『低用量の使用の際には危険性がより少ないということで、二十世紀前半にはバルビツール酸系が主流となった。さらに、一九六〇年代にこれらより死亡の危険性や依存の危険性が低いベンゾジアゼピン系が登場し、主流となった。アメリカでは、ブロムワレリル尿素を含む臭化物は医薬品としては禁止されている』。『しかしながら、日本の一九五〇~六〇年代の第二次自殺ブームの主役となった薬であり、多くの若者がこの薬で自殺を試みた。毎年約四千人が臭化物中毒で死亡し、ブロムワレリル尿素によるものが最も多かった。そのため、自殺を防ぐ目的で、市販薬では一定量を超えた薬は発売が禁止され、医師が発行する処方箋の必要な処方箋医薬品に変更された。一九六五年に「かぜ薬の承認基準」が設けられた時、ブロムワレリル尿素とアリルイソプロピルアセチル尿素については主作用が催眠作用であるため使用できる薬剤から削除された』。『日本中毒情報センターへのブロムワレリル尿素の問い合わせ件数では、一九九〇年代前半では毎年四十件、二〇〇三年では四件であり(注・日本中の事故の総数ではない)、中毒診療では重要とされる。二〇一〇年の報告でも、不審死からの検死解剖から五年分二千九百三十八件中で六十件と主な原因となっているものではないが、検出が微増して続いているとされる。過量服薬や乱用の危険性があるのに、なぜ現在でも用いられているか理解に苦しむという専門家のコメントがある。薬物乱用(や自殺対策)の専門家である松本俊彦によれば、論外の薬である』。『自殺目的などで大量服用し急性中毒を引き起こす場合がある』。『「カルモチン」で自殺を完遂した、及び同所見が見られた実例(芥川龍之介、金子みすゞ、勝精と勝の知人女性など)もある。一方、太宰治は生涯心中を含めカルモチンによる自殺を幾度と無く図るも何れも未遂に終わり、つげ義春は一九六二年に「ブロバリン」を用いて自殺を図ったが、知人に見つかり未遂に終わっている』。『急性中毒では、見当識(いつ、どこ、だれの認識)の障害、言語障害、歩行障害などをきたす。呼吸抑制も生じる。服薬中止や輸液により数日から、遅くて数週間で回復するが、それ以降に残る症状は障害となったものと考えられる』とある。]

 

○芋蟲の皮 薸蛆(指はらし)

[やぶちゃん注:「薸蛆」は旧全集では「薸疽」となっている。以下の「指はらし」(腫らし)の記載から見て、これは手指や足の指(足趾(そくし))に細菌が感染して起こる、指趾(しし)末節の細菌感染症の一種である蜂窩織炎(ほうかしきえん:白血球の一種である好中球の浸潤病巣組織内に瀰漫(びまん)的に広がってしまい、細胞間質を広範囲に融解して細胞実質を壊死分解させる進展性の化膿性炎症。「蜂窩」とは蜂の巣のことで、病巣標本を顕鏡すると好中球をハチの幼虫に、融解し切らずに残っている間質を巣の仕切り板に見立てた呼称である)を言う、「瘭疽」(ひょうそ:歴史的仮名遣「へうそ」)の誤記である。「爪囲(そうい)炎」「化膿性爪囲炎」とも称し、黄色ブドウ球菌による感染により指先の爪の周りが赤く腫れて痛む疾患である。特に手指の瘭疽」難治性で慢性化し易い。これは民間療法か、芋虫の皮を患部に張るとそれに効く、というメモであろうとは思われる。]

 

○痰咳――セネガ根(甘草ヲマゼル)(一匁餘リヲ一合の水デ五勺)5匁二十錢 三囘

[やぶちゃん注:「痰咳」痰が絡む咳の意で「たんせき」と訓じておく。

「セネガ根」マメ目ヒメハギ科ヒメハギ属セネガ Polygala senega の根。ウィキの「セネガ」によれば、『北アメリカに自生する多年生草本』であるが、『日本薬局方においては本種または変種のヒロハセネガ(P. senega var. latifolia)の根を生薬・セネガとしている。日本ではヒロハセネガを北海道、兵庫県、京都府などで栽培している』。『セネガには去痰作用があり、セネガシロップとして使う他、龍角散、改源咳止液Wなどに配合される』。『元々はアメリカインディアンのセネガ族がガラガラヘビに咬まれた時、応急に用いたもの』とされるが、実際には『そのような効果は期待できず、迷信と思われる』。なお、近年、『セネガ根のセネガサポニン(senegasaponin)類には小腸でのグルコースの吸収抑制等による血糖値上昇抑制活性が認められ』ている、とある。

「甘草」生薬や甘味料として根(一部の種では根茎を含む)を乾燥させたものを用いるマメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza の類。漢方薬に広範囲にわたって用いられ、本邦で製造販売されている漢方薬の約七割に用いられている。「日本薬局方」に於いてはウラルカンゾウ(別名「東北甘草」)Glycyrrhiza uralensis 又はスペインカンゾウ(別名「西北甘草」・「リコリス」Glycyrrhiza glabra から採取されるものを「甘草」の基原植物(生薬の原材料である植物を狭義で示す場合の謂い)とされており、グリチルリチン(グリチルリチン酸)を二・五%以上含むものと規定されている。生薬としては喉の痛みや咳を鎮める効果があるとされる(主にウィキの「カンゾウ属に拠った)。

「一匁」「いちもんめ」は三・七五グラム。

「五勺」一合の十分の一である一勺(しゃく)は十八ミリリットルだから、九十ミリリトル。

「5匁」十八・七五グラム。]

 

〇土瓶に入れ更に鍋に入れて蒸ず 一日二匁を水一合 三囘

[やぶちゃん注:これは前の鎮咳薬の別処方か。即ち、「二匁」(七・五グラム)の「セネガ根」に「水一合」を「土瓶に入れ」、それを「更に」水を張った「鍋に入れて蒸」(くん)じたものを一日に「三囘」服用すると読んでおく。]

 

○古釘のきず――蘇鐡の葉の黑燒 飯でねる

[やぶちゃん注:「蘇鐡」裸子植物門ソテツ綱ソテツ目ソテツ科ソテツ属ソテツ Cycas revoluta。葉は問題ないは(止血・解毒・止痛効果があるとされ、胃薬や血止めの薬にもされる)が、種子には神経毒で発癌性を持つアゾキシメタン(Azoxymethane)を含む配糖体サイカシン (Cycasin) を含み、有毒である。澱粉分が多いことから、沖繩や奄美群島などでは救荒食物として皮を剥いで時間をかけて水に晒した後、それを発酵させたものを乾燥して粉にするといった手間のかかる処理を施して食用としたが、処理不全から有毒物質が残り、それで死んだり苦しむ人が出た。こうした飢饉時の有毒なソテツ食の惨状を特に「蘇鉄地獄」とも呼んだ。なお、一部参考にしたウィキの「ソテツ」によれば、『グアム島など、ソテツ澱粉を常食している住民がいる地域ではALS/PDC(筋萎縮性側索硬化症/パーキンソン認知症複合、いわゆる牟婁病)と呼ばれる神経難病が見られることがある』とある。母を東北大震災の直後の二〇一一年三月十九日、ALSで母を亡くした私としては引用しない訳には行かぬ。]

 

○レウマチス――酢莖菜(スイバ)を大根下しで下す(7勺) 玉子の白味(1個) 胡椒の粉(1匙) 葱の白根少々入れる 摺鉢でする 固める爲メリケン粉を入れる 玉にして患部(外でもよし)へつける

[やぶちゃん注:「(スイバ)」はルビではなく、本文同ポイント。

「レウマチス」関節痛や関節変形を生じる関節リウマチ(Rheumatoid ArthritisRA)のことであろう。病因は現在でも判然とはしていないが、概ね自己の免疫システムが誤認を起こし、主に手足の関節を侵すところの炎症性自己免疫疾患で、遺伝的素因も疑われる代表的な膠原病の一つである。しばしば血管・心臓・肺・皮膚・筋肉といった全身臓器にも障害が及ぶ(以上はウィキの「関節リウマチ」に拠る)。

「酢莖菜(スイバ)」田畑や道端によく見られるナデシコ亜綱タデ目タデ科スイバ属スイバ(酸葉)Rumex acetosa。「ギシギシ」や「スカンポ」「スッカンポ」(私は最後がしっくりくる。但し、これらは別種でやはり食用にするタデ科ソバカズラ属イタドリ(虎杖)Fallopia japonica の方言名としても用いられるので注意されたい)のこと。なお、同種は雌雄異株でX染色体とY染色体を持つことが大正一二(一九二三)年に発見・報告されている(木原均&小野知夫)が、これは種子植物に性染色体があることを初めて示した発見の一つであることは余り知られているとは思われないので特に記しておく。参考にしたウィキの「スイバ」によれば、『スイバの性決定はショウジョウバエなどと同じく、X染色体と常染色体の比によって決定され』る、とある。

「7勺」百二十六ミリリットル。]

 

○百日咳――梅干の種(核なり種を割りて出す)を7、8個 氷砂糖の大三個 水一合 水飴とす

[やぶちゃん注:「百日咳」主にグラム陰性桿菌のプロテオバクテリア門βプロテオバクテリア綱バークホルデリア目アルカリゲネス科ボルデテラ属百日咳菌(ボルデテラ・ペルツッシス)Bordetella pertussis 或いはパラ百日咳菌(ボルデテラ・パラペルツッシス)Bordetella parapertussis による急性気道感染症。潜伏期は一~二週間で、感冒様の症状を呈した後、特有な痙攣性の咳の発作を繰り返す時期が二~六週間続き、通常はその辺りから落ち着くが、その後でも時折、忘れた頃に発作性の咳が出、全経過約二~三ヶ月で回復する。但し、乳幼児では肺炎(二〇%)や脳症(〇・五%)を合併して危篤状態に陥ることもあるので注意が必要である。]

 

○疵藥――沃度丁幾

[やぶちゃん注:「疵藥」は「きずぐすり」。「沃度丁幾」は嘗て家庭用消毒剤として広く流布していた暗赤褐色の液体「ヨードチンキ」(ドイツ語:Jodtinkturの当て字。ヨウ素(ヨード)の殺菌作用を利用した殺菌薬・消毒薬。原液は劇薬であるが、消毒に用いられるものはヨウ素とヨウ化カリウムとをエタノールに溶かした二倍希釈の「希ヨードチンキ」である。]

 

〇群れ渡る海豚の聲や梅雨の海

 

《2-34》

○烏鷺交々落ちて餘寒の碁盤かな

[やぶちゃん注:「烏鷺」は「うろ」カラスとサギのことであるが、言わずもがな乍ら、ここはそれらの鳥の実景ではない。「烏鷺」には別に、黒い石と白い石を烏と鷺に見立てて「囲碁」を指す。]

 

 春日さす海の中にも世界かな

 冴え返る魚の背砂にまがひけり

 石稀に更けて餘寒の碁盤かな

 井目に餘寒の碁盤畫しけり

[やぶちゃん注:「井目」は「せいもく」で「聖目」「星目」などとも書き、囲碁で盤面に記された九つの黒い点を指す。或いは、囲碁で力量に大差がある場合、下手(したて)の者が予めその九点に石を置くことをも言う。この場合は下五から後者の感じである。]

 

 寺の春暮れて蘇鐡の若葉かな

 群れ渡る海豚の聲や大南風

 黑南風の沖啼き渡る海豚かな

 黑南風の沖群れ渡る海豚かな

 白南風の沖に群れ鳴く海豚かな

 笹原や笹の匀も日の盛

 黃昏るゝ榾に木の葉や榾焚けば

 

《2-35》

〇夏山や空はむら立つ嵐雲

 日は天に夏山の樹々熔けんとす

 雲荒れるゝ下に畠のキヤベツかな

[やぶちゃん注:「雲荒れるゝ」はママ。「雲荒るゝ」の誤記であろう。]

 

 まばら咲く桃や

 ぢりぢりと向日葵枯るる殘暑かな

 初虹や屋根の菖蒲の靑む頃

 夕立に鬼菱せめぐ水の面かな

 五月雨の川に何やら簀卷きかな

 秋の後架の窓に竹二本

 孟竹の一竿高し秋動く

 炎天や切れても動く蜥蜴の尾

 一鉤の月に一羽の雁落ちぬ

 夕立や銀杏ある城下口

[やぶちゃん注:「城下口」「じやうかぐち(じょうかぐち)」城の下の入口付近ではあろうが、「しろしたぐち」では張りを欠く。]

 搔けば何時も片目鰻や殘る月五月雨

[やぶちゃん注:鬼趣の句と読む。]

 

《2-36》

〇夏山や峯押し  嵐雲

 夏山の空荒れぬべきけはひかな

 夏山や嵐や來

 夏山の空や小暗き嵐雲

 夏山や空に怪しきは小暗き嵐雲

 日は天に夏山の樹々熔けぬべし

 溯る

 夏山の下行く路や

油照り夏山の樹々や熔けなん

 夏山の尾の上

 朝燒くる夏山松の

 夏山

 夏山や空はむら立つ嵐雲

Samuel Popy’s Diary

[やぶちゃん注:サミュエル・ピープス(Samuel Pepys 一六三三年~一七〇三年)は十七世紀に活躍したイギリスの官僚。ウィキの「サミュエル・ピープス」によれば、『王政復古の時流に乗り、一平民からイギリス海軍の最高実力者にまで出世した人物であり、国会議員及び王立協会の会長も務めた。一般には』一六六〇年から一六六九年にかけて『記した詳細な日記で知られているが、官僚としての業績も大きく、王政復古後の海軍再建に手腕を発揮したことにより「イギリス海軍の父」とも呼ばれている』とある、彼の日記である。この日記は『王政復古期の世相を描いた史料的価値があり』、一六六五年の『ペスト流行や』一六六六年の『ロンドン大火についても記述している。また、自己の女性関係(浮気)などを赤裸々に(と言っても都合の悪い部分は外国語や暗号を用いて)記述した「奇書」である。眼を痛めたため』、一六六九年を以って『日記の執筆はやめてしまった』とある。]

 

《2-36》

Crimson Emerald Green Prussian Blue Cobalt Blue

[やぶちゃん注:総て色名。「Crimson」は真紅、「Emerald Green」は鮮緑色、「Prussian Blue」は「紺青(こんじょう)」と呼ばれる顔料に由来する青色。紺青色とも呼ぶ。この「プルシアン・ブルー」とは「プロイセン(プロシア)風の青色」といった意味である。「Cobalt Blue」は顔料の「コバルト・ブルー」などが示すところの強く鮮やかな青。]

 

○太郎と次郎 ――と爺 ――と沙金 次郎と沙金――と阿濃 婆と爺 婆と沙金 沙金鴉に食はる

[やぶちゃん注:「偸盜」のメモであるが、同作は大正六(一九一七)年四月二十日脱稿であるから、どうも位置がおかしい(底本編者によれば、本「手帳2」の記載推定時期は大正七(一九一八)年か大正八(一九一九)年頃である)。]

 

《2-補》

[やぶちゃん注:岩波旧全集「手帳(二)」の末尾に存在するも、新全集が底本とした写真版手帳には見出されない句稿十一句(原資料は現存しない模様)。ここは岩波旧全集を底本とした。これを以って「手帳2」は終わる。]

 

○爪とらむその鋏かせ宵の春

 春風にふき倒されな雛仔ども

 島ぶりの簪は貝や春の風

[やぶちゃん注:「簪」老婆心乍ら、「かざし」と読んでいる。]

 

 脚立して刈りこむ黃楊や春の風

[やぶちゃん注:「黃楊」老婆心乍ら、「つげ」で、ツゲ目ツゲ科ツゲ属 Buxus microphylla 変種ツゲ Buxus microphylla var. japonica。]

 

 魚の眼を箸でつつくや冴返る

 二階から簪落して冴返る

 春寒くすり下したる山葵かな

 靑蛙おのれもペンキぬり立てか

 瓦色黃昏岩蓮華ところどころ

[やぶちゃん注:岩蓮華ユキノシタ目ベンケイソウ科センペルビヴム亜科テレフィウム連オロスタキス(イワレンゲ)属イワレンゲ Orostachys iwarenge。葉は多肉質でよく水分を貯蔵し、乾燥に強く、実際に岩の上でも生える。属名の Orostachys は、ギリシャ語の「oros」(山)+「stachys」(穂)で、高山に生える穂のような花序を持ったもの、の謂いである。]

 

 秋風や水干し足らぬ木棉糸

 松二本芒一むら曼珠沙華

靑い眼   アポリネエル 堀辰雄譯

 

[やぶちゃん注:ギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire 一八八〇年~一九一八年)の短篇小説L'Œil bleu(一九〇三年:音写するなら「ル・ウィュ・ブルゥー」。「Œ」はフランス語他で用いられる「O」と「E」の合字)の堀辰雄による全訳である。二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」の解題によれば初出は以下の底本である。

 底本は昭和一一(一九三六)年山本書店刊の堀辰雄の訳詩集「アムステルダムの水夫」を、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認した。傍点「ヽ」は太字とした。

 第三パートの第一段落の「級中(クラス)」の「クラス」のルビは前記の岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」では「級」のみに振られているが、底本は「ス」が「中」の右上半分まで占めているので、「級中」全体のルビと採った。以下、少し、いらぬ語注を附しておく。

「彌撒」老婆心乍ら、「ミサ」と読む。

「フランソア一世」(François Ier 一四九四年~一五四七年)はヴァロワ朝(dynastie des Valois)第九代フランス王(在位:一五一五年~一五四七年)。フランス・ルネサンス期を代表する国王。

「シヤルマァニユ」(七四二年~八一四年)はフランス語で「シャルルマーニュ(Charlemagne)」、ドイツ語で「カール大帝(Karl der Große)」と呼称した、フランク王国(フランス語:Royaumes francs/ドイツ語:Fränkisches Reich:五世紀~九世紀に西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国で現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリア及びスロベニアを領土とし、最大版図(はんと)はイベリア半島とイタリア半島南部を除く西ヨーロッパ大陸部のほぼ全域に及んだ。国名はゲルマン系フランク人であるサリー・フランク族が建国したことに由来する。首都は五〇八年にパリに置かれが、このカール大帝時代は現在のベルギー国境に近いドイツ西端のアーヘン(Aachen)に王宮が置かれ、ここが事実上の首都となっていた)の国王(在位:七六八年~八一四年)。

「ルイ一四世」(Louis XIV 一六三八年~一七一五年)はブルボン朝(dynastie des Bourbons)第三代フランス王国国王(在位:一六四三年~一七一五年)。言わずもがな医、王朝の最盛期を築いて「太陽王」(Roi-Soleil)と呼ばれた王である。以上の三人の人物の事蹟を踏まえて戴くと、堀辰雄の、「フランソア一世は誰の後継者かと質問されたとき、それはシヤルマァニユです、と出まかせに、自信もなく、答ヘました。すると私の知らないことを教へてくれることになつてゐた私の隣席の者が、彼はルイ一四世の後を繼いだのだと密告してくれました。佛蘭西の王樣の年代を考へることなどより、もつと他にすべきことが私たちにはあつたのでした。」という訳がやや不親切であることが判る。原文は“comme on me demandait à qui avait succédé François Ier, je dis à tout hasard, mais sans conviction, que c’était à Charlemagne, et ma voisine, chargée d’éclairer mon ignorance, fut d’avis qu’il avait succédé à Louis XIV. On avait bien autre chose à faire que de penser à la chronologie des rois de France :”であるが、例えば、一九七九年青土社刊「アポリネール全集Ⅱ」の窪田般彌氏の訳では、ここは『フランソワ一世は誰のあとを継いだかときかれて、何の確信もないままに、ほんの出まかせにシャルルマーニュ大王と答えたりしました。そして、わたしの無知を教えただす役目の隣りの娘(こ)は、フランソワ一世はルイ一四世のあとを継いだと思いこんでいました。誰の頭にもフランス王家の年代記のことなどはまったくなく、別のことを思いめぐらしていたのです。』となっており、本来、語っている老婦人が少女であった頃のこと、本来ならいつも正しい答えをこっそり教えて呉れていた、博識の救いの天使であった隣りの席の少女でさえ、とんでもない誤りを口にしてしまったほどにクラス中の少女たちが皆、上の空だった、というのである。高校時代に世界史を選択した方には釈迦に説法であろうが、私は生憎と地理と政経であったので(極めて珍しい。高校時代の所属した演劇部の顧問であった世界史の先生からは「藪野君、それじゃ、大学に受かりませんよ」と言われたものだった)、蛇足の注を敢えて附した。悪しからず。]

 

 

   靑い眼

 

 私は老婦人たちが彼女らの少女だつた時分のことを話すのを聞くのが好きだ。

「私が十二の時でした、私は南佛蘭西の或る修道院に寄宿してをりました。(と記憶のいい老婦人の一人が私に物語るのであつた。)私たちは、その修道院に、世間から全く離れて、暮らしてをりました。私たちに會ひに來られたのは兩親きりで、それも一月に一遍宛といふことになつてゐました。

「私たちは休暇中も、その廣い庭園と牧場と葡萄畑にとりかこまれた修道院の中で過したのでした‥‥

「私はその幽居には八つの時から入つてゐましたが、やつと十九になつた時、結婚をするため、はじめて其處を出たやうなわけでした。私はいまだにその時のことを覺えてゐます。宇宙の上に開いてゐるその大きな門の閾を私が跨いだ刹那、人生の光景や、自分の呼吸している何だかとても新しいやうな氣のする空氣や、いままでになかつたはど輝かしく見える太陽や、それから自由が、遂に、私の咽喉をしめつけたのでした。私は息がつまりさうになつて、もしその時腕を組んでゐた父が私を支へて其處にあつたべンチヘ連れて行つてくれなかつたら、私はそのままぼうと氣を失つて倒れてしまつたでせう。私はしばらくそのべンチに坐つてゐるうち、やつと正氣を取戾したのでした。

 

       *

     *

       *

 

「さて、その十二の時のことですが、私はいたつて惡戯好きな、無邪氣な少女でした。そして私の仲間もみんな私のやうでした。

「授業と遊戯と禮拜とが私たちの時間を分け合つてゐました。

「ところが、コケツトリイの魔が私のゐた級(クラス)のうちに侵入してきたのは、丁度その時分でありました。そして私は、それがどんな策略を用ひて、私たち少女がやがて若い娘になるのだといふことを、私たちに知らせたかを忘れたことはありません。

「その修直院の構内には誰もはひることが出來ませんでした。彌撒をお唱へになつたり、説教をなさつたり、私たちの微罪をお聽きになつたりする司祭樣を除いては。その他には、三人の年老いた園丁が居りました。が、私たちに男性といふ高尚な觀念を與へるためには殆ど何の役にも立たないのでした。それから私たちの父も私たちに會ひに來ました。そして兄弟のあるものは、彼等をまるで超自然的なもののやうに語るのでした。

「或る夕方、日の暮れようとする時分に、私たちは禮拜堂から引き上げながら、寄宿舍の方へ向つて、ぞろぞろと步いてゐました。

「突然、遠くの方に、修道院の庭園をとりまいてゐる塀のずつと向うに、角笛の音が聞えました。私はそれをあたかも昨日の事のやうに覺えてゐます。雄々しい、そしてメランコリツクなその角笛の亂吹が、黃昏どきの深い沈默のなかに鳴りひびいてゐる間中、どの少女の心臟も、これまでになかつたくらゐ激しく打ちました。そして木魂となつて反響しながら、遠くの方に消えていつたその角笛の亂吹は、なにやら知らず、神話めいた行列を私たちに喚び起させるのでした‥‥

「私たちはその晩、それを夢にまで見ました‥‥

 

       *

     *

       *

 

 翌日、教室からちよつと出てゐたクレマンス・ド・パムブレといふ名前の、小さなブロンドの娘が、眞靑になつて歸つてきて、隣席のルイズ・ド・プレセツクに耳打ちしました、いま薄暗い廊下でばつたり靑い眼に出會つたと。そしてそれから間もなく級中(クラス)の者が、その靑い眼の存在を知つてしまひました。

「歷史を私たちに教へくれてゐる修道院長の言葉も、もう私たちの耳にははひりませんでした。生徒たちは今は突拍子もない返事をしました。そしてこの學科のあんまり得意ではなかつた私自身も、フランソア一世は誰の後継者かと質問されたとき、それはシヤルマァニユです、と出まかせに、自信もなく、答ヘました。すると私の知らないことを教へてくれることになつてゐた私の隣席の者が、彼はルイ一四世の後を繼いだのだと密告してくれました。佛蘭西の王樣の年代を考へることなどより、もつと他にすべきことが私たちにはあつたのでした。私たちは靑い眼のことを夢見てゐたのでした。

 

       *

     *

       *

 

「そして一週間足らずのうちに、私たちは誰もかも、その靑い眼に出會ふ機會をもちました。

「私たもはみんな眩暈をもつたのでした。それに違ひはありません。が、私たちはみんなそれを見たのでした。それはすばやく通り過ぎました、廊下の暗い蔭へ美しい空色の斑點をつくりながら。私たちはぞつとしました、が、誰一人それを尼さんたちに話さうとはしませんでした。

「私たちはそんな恐しい眼をしてゐるのは一體誰なのか知らうとして隨分頭を惱ませました。私たちのうちの誰だつたか覺えてゐませんが、或る一人のものが、それはきつと、まだ私たちの記憶の中にその泣きたくなるまでに抒情的(リリカル)な響が尾を曳いてゐる、あの數日前の角笛の亂吹の眞中になつて通り過ぎた獵人らの中ので一人の眼にちがひないといふ意見を述べました。そしてそれにちがひないといふ事に一決いたしました。

「私たちは皆、その獵人の一人がこの修道院の中にかくれてゐて、靑い眼は彼の眼であることを認めました。私たちは、そのたつた一つの眼が片眼(めつかち)なのだとは思ひませんでしたし、それから古い修道院の廊下を眼が飛ぶのでもなければ、彼等の身體から拔け出してさまよふのでもないと考ヘました。

「そんなうちにも、私たちはその靑い眼と、それが喚び起させる獵人のことばかり考へてをりました。

「とうとうしまひには、私たもはその靑い眼を怖がらなくなりました。それが私たちを見つめるため、ぢつとしてゐればいいとさへ思ふやうになりました。そして私たちはときどき廊下の中へ唯一人で、いりのまにか私たちを魅するやうになつたその不思議な眼に出會ふために、出てゆくやうなことまでいたしました。

 

       *

     *

       *

 

「やがてコケットリイの魔がさしました。私たちは誰一人として、インキだらけの手をしてゐる時など、その靑い眼に見られたがらなかつたでしたらう。みんなは廊下を橫ぎるときは、自分がなるたけ好く見えるやうにと出來るだけのことをしました。

「修道院には姿見も鏡もありませんでした。が、私たちの生れつきの機轉がすぐそれを補ひました。私たちの一人は、踊場に面してゐる硝子戸のそばを通る度毎に、硝子の向うに張られてゐる黑いカアテンの垂れを卽製の鏡にして、そこにすばしつこく自分の姿を映し、髮を直したり、自分が綺麗かどうかをちよいと試したりするのでした。

 

       *

     *

       *

 

「靑い眼の物語は約二ケ月ばかり續きました。それからだんだんそれに出會はなくなりました。そしてとうとうごく稀にしか考へなくなりましたが、それでもときたまそれに就いて話すやうなことがありますと、やはり身顫ひしずにはゐられませんでした。

「が、その身顫ひの中には、恐怖と、それからまたあの快樂――禁斷の事物について語るあの祕やかな快樂に似た或る物がまざつてゐたのでした。」

 君たちは決してそんな靑い眼の通るのを見たことなんぞはなからうね、現代の少女諸君!

 

[やぶちゃん注:原文を見ると、最後の一行の前には、例のアスタリスクによる行間が空けられてある。空けるべきである。最後の一文の原文を見ておこう。

 Vous n’avez jamais vu passer l’œil bleu, ô petites filles d’aujourd’hui !

 

 なお、底本ではこの後に堀辰雄による「ノオト」がある。以下に電子化しておく。

   *

 アポリネエルは一八八〇年八月羅馬に生れた。母はポオランドの或る將軍の娘であつたが、彼はその私生兒であつた。彼は少年時代をモナコとニイスとで送つた。暫く南獨逸に遊んだこともある。それから巴里に行つて、彼は詩や小説や美術批評などを書き出した。一九一四年、彼も戰爭に行つた。そこから彼は一九一六年に重傷を負ふて歸つて來た。戰地でも彼は詩を書いて、謄寫版刷りの詩集を出したりした位であつた。そして彼は一九一八年十一月に死んだ。それはしかしスペイン感冒のためであつた。

   *]

字の上手下手   梅崎春生

 時々、文書や口頭で、字を書いて呉れ、と依頼されることがある。字といっても、原稿を書けというのではない。色紙や短冊に字を書けというのである。私ははたと困って、顔を曇らせる。原稿の字を書くことはきらいではないが、色紙に字を書くのは、苦手なのだ。

 個人的に依頼されるのも困るが、色紙展をやるからと頼まれるのはもっと困る。

 色紙展というのは、たいてい大義名分がついていて、孤児を救済するためとか、なんとか運動のためだとか、その色紙を売って財源あるいは使途に当てると称す。そして色紙を送って来る。

 たいていこういうのは、口頭でなくて文書なので、趣旨は賛成だが字は書きたくないし、どうしようかなあと考えている中に、数日あるいは数週間が過ぎる。

 すると催促の手紙がやって来る。先般送付した色紙がまだ到着せぬが、締切も迫ったゆえ至急書いて返送せられたし。弱ったなあと腕組みをして、しばらくすると締切日が来て、とうとう出さずじまいになってしまう。

 だから私の家の押入れには、未使用の色紙がたくさんたまっていて、押入れをあける度に、横領したみたいで、気がとがめて仕方がない。

 何故色紙に書きたくないか。その理由の第一は、字が上手でないからである。

 では、どうしても色紙は書かないかというと、そうでもない。文書の方は黙殺(心ならずも)出来るが、口頭、ことに膝詰め談判ということになると、ついに私も「書きゃいいんだろう、書きゃ」というような気分になって、つい筆を取る。

 私がいつも色紙に書くのは「平和」とか「自由」という字である。どちらも字数がすくないし、字劃もかんたんだからである。

 私もたまには「鷲(わし)の如く大胆であれ」とか「山の端に夕日の沈むのはさびしい」とか、気のきいたようなことを書きたいのだが、どうもそういうのを書くと、ぼろが出る。平仮名が入るからだ。

 漢字は大体直線をもって構成されているから、棒状のものを重ねることでごまかしがつくが、平仮名はそうは行かない。あれはくにゃくにゃと、世田谷区の道路みたいに、曲っている。その曲り具合のところでぼろが出る。

 だからもっぱら「自由」と「平和」。

 一方からいうと「自由」とか「平和」を書くのは、損だという説も成り立つ。

 しゃれた文句を書くと、色紙展を見に来る人は、その文句の方に気を取られて、字体の巧拙にあまり注意しない。自由や平和は平凡だから、

「これはなかなかうまい」

 とか、

「これは下手くそだな」

 と、すぐに字の上手下手を品さだめする。私の色紙はおおむね「これは下手くそだな」の方に属するので、だから出品するのがつらいのである。

 どうにかして、もう少し字の上手になる方法はないものか。

 字の上手な女房をもらうと、亭主も字が上手になるのだそうだ。

 私はかねてから、男と女が結婚すると、その奥さんの字体が旦那の字体にそっくりになる現象に注意をはらっていた。

 やはり女房というのは、亭主に影響されるのだなと考えていたが、ある時見学のために警視庁をおとずれ、鑑識課の筆跡鑑定係の人に会い、その現象をただしてみたら、女房が亭主に影響されるのではなく、字の上手な方に字の下手な方が影響されるのだ、との答えであった。

 なるほど、と私は膝をたたいた。私の友人の遠藤周作君が、そのケースに、ぴったりあてはまるのである。

 遠藤周作君の独身時代の手紙を、私は数通所蔵しているが、その頃の彼の字はお弁当箱みたいに四角四面で、一字一劃をゆるがせにせぬというと聞えがいいが、小学生が一所懸命に書いたような稚拙な字であった。

 その遠藤君が結婚をすると、しだいに字体が変って来た。四角四面がくずれて、だんだんつづけ字やくずれ字が混って来る。

 平仮名なんかの曲り具合が板について来て、ことに「遠藤周作」という署名に到っては、映画俳優のような達筆のサインになって来た。

 ふしぎなこともあればあるものだ、といぶかっている中、遠藤夫人からある時はがきを貰って、はたと永年の疑問が氷解した。

 遠藤夫人はまれに見る能筆家で、水茎のあともうるわしく、さらさらと書き流してある。思うに遠藤君はその奥さんの影響を受けて、だんだん字体がやわらかになり、あんな風に上達をしたものだろう。

 字が上手になったという点だけでも、遠藤君は奥さんにどんなに感謝しても、感謝し過ぎることはないと言っていい。

 幸か不幸か私の女房は、私の字体を改変するほどの能筆家ではないので、私の字もいっこう上達のきざしはないが、思い起してみると私は小学校時代、かなり習字がうまかったのである。

 どうしてうまかったかというと、実に熱心に練習したからで、熱心というのは私が熱心なのでなく、私の母親が大熱心で、毎朝早くお母さんは私たち兄弟をたたき起す。井戸端につれて行って、冷水浴なり冷水摩擦などをさせる。それから各自自分の机に向かって新聞紙を四つ折りにしたのに向かって、習字をする。

 一面に六字で、六面三十六字書かねば、朝飯が食べさせて貰えない。字を書くだけでなく、その前に墨をする時間もあるから、かなり早く起きねばならない。

 冬なんか夜があけるのが遅いので、暗い中から起き出で、水をかぶったり墨をすったりする気分のつらさは、今でもありありとよみがえって来る。

 そんな猛練習をしていたおかげで、私は習字はいつも評点「甲」で、土地の新聞社が一年に一遍やっていた書き方大会にもいつも出品して、いい成績を取り、賞状を貰っていた。

 その私が、数十年後の今となって、自分の字のまずさを嘆じているのだから、話がおかしい。何のために朝起きしてあんなに練習したのか。全然無駄じゃなかったのかと、時に考えないでもないが、しかしあれはあれでよかったのだろう。

 教育なんてものは、必ず無駄な半面を持っているものである。あの早朝の習字も、そうそう世の中は楽なことばかりじゃないぞ、と私に思い知らせて呉れたし、また毎朝新聞紙に向かって手を動かすことは、運動神経の練磨にもなっている。

 教育とは、そういうものである。

 中学時代に代数や幾何を学び、定理や公式をさんざん苦労して覚えたが、今はさっぱり忘れている。実生活に代数や幾何を応用した記憶も、ほとんどない。

 しかし、それでいいのだ。人間の頭脳は、人間の肉体と同じで、しょっちゅう体操か何かしていなければ、なまくらになって、まさかの用に立たなくなってしまう。代数や幾何は、また地理や歴史なども、つまりは頭の体操なのである。

 そうとでも考えねば、何のために自分が長い勉学生活(大いに怠けはしたけれど)を続けて来たか、自分で納得出来ないではないか!

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第二十三回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年九月十四日号掲載分。太字は底本では傍点「ヽ」である(以降、同様の仕儀をするが、この注は略す)。なお、この前に底本では第十八回目(昭和三五(一九六〇)年八月十四日号掲載分)の「桜島の八月十五日」が載るが、これは既に梅崎春生の「桜島」「幻化」の関連作品として、こちらで私が電子化しているので参照されたい。
 
 因みに、私の妻は相応に字が上手いが、私は一向に上手くならない。但し、結婚した直後(満三十二歳)に妻が私の書く「漢字の書き順が慄っとするほど気持ちが悪い」と宣わったので、その翌年の一夏、小学生用の四角マスの漢字練習帳と漢字の書き順の指南書を買い、常用漢字総てと、私の好む画数の多い常用漢字表外の漢字を一日二十字、一字に附き五十回書き取りをし、書き順をテツテ的にマスター出来たのは、妻のお蔭ではあった。私は既に神奈川の公立高校の国語教師であったが(因みに私の妻は一つ年上である。同じく神奈川の公立高校国語教師で、大学時分は中古の和歌文学を専攻していた)、多分、あれほど自律的に自己目標を設定し、集中して頑張った経験は私の小学校時代や青年時代にも全くなく、今後も恐らくは、ない、であろう。]

出家夢

私は出家するために、とある御堂に居る。

他に二人の若い女性が同じ目的で私と並んでいる。

この宗派には在家・仮修学・出家遁世の三種がある。

二人の女性は先に立って、在家と仮修学の御堂内のそれぞれの厨子の前に坐った。
そこしか空いていなかったからではなく、私は始めからそうするつもりで出家遁世の厨子の前に坐る。厨子の中には黒い小さな如来像[やぶちゃん注:種字不詳。]が鎮座している。

そこで眼を瞑った。

するとその厨子の中の如来像が脳内に直截、意を伝えて来る。

――私の教えはあなたの機に基づいてあなたがそう感じた時に私へそれを告げることで成就される――

眼を開くと、私は怖ろしく巨大な樹の頂点に坐している。
下界は雲霞に覆われていて緑も人屋も見下ろせぬ。
この巨木も緑の葉もなく、白っぽいつやつやした樹皮が剝けた木肌を露わにしたものである。

そして――面前にはさっきの厨子の中の小さな如来像が後光を放って空中に浮いているのである。

『私は既にして悟ったのであろうか?』

と思うた瞬間

――かなかなかなかな…………

と蜩が鳴いた。そうして

――月、日(ひ)、星、ほいほいほい! 月、日、星、ほいほいほい! 月日星、ほいほいほい!

と目の覚めるような大きな通る声で三光鳥が、三度、啼いた…………

   *

…………と、思うたら、目が醒めていた。そうして実際に、開いた枕上の窓の外の森の奥で、蜩が

「かなかなかなかな」

と遠く鳴いており、直ぐ近くの梢では三光鳥が

「目覚めよ!」

と促すように驚くべき大きな声で、

「月、日(ひ)、星、ほいほいほい! 月、日、星、ほいほいほい! 月日星、ほいほいほい!」

と――三度、高く、啼いた。
4時20分であった。

私の家の裏山には二年程前からスズメ目カササギヒタキ科サンコウチョウ属サンコウチョウTerpsiphone atrocaudata が初夏になると渡って来るようになった(残念なことに姿は未だ一度として見たことがないのであるが)。

その泣き声は確かに不思議に何か妖しい見知らぬ教えの呪文のような魅力を持っているのである…………





2016/07/12

芥川龍之介 手帳2―28~31

《2-28》

男を飜弄して scandal を得ざる女=淫婦 その反對=愚婦(so called(淫婦))

妲己のお百より毒惡にして誰にでもよく思はれる女と contrast して書くべし 女の云ふ事を男の云ふ事より true をする世間

[やぶちゃん注:二つは同じ作品構想らしいが、これほどの真正悪女物、ちょっと読んでみたかった気がする。個人的には、その女の描き方に非常に興味があるからである。

「妲妃のお百」「だつきのおひやく(だっきのおひゃく)」と読む。生没年未詳。江戸後期に講談や実録物などで、御家騒動の謀略方の毒婦型ヒロインとして喧伝された女性。中国殷の紂(ちゅう)王の妃で病的な残忍性と淫蕩で知られる妲己(だっき)にちなんでかく呼ばれた。実際の「お百」は京都祇園の遊女の出とされ、たびたび主人や旦那を換え、奉公先の廻船問屋や歌舞伎役者と密通、吉原で花魁(おいらん)に出たところが、揚屋の主人の妻に納まるも、一転して秋田騒動の際に秋田藩家老那河(なか)忠左衛門(実録物では中川采女(うねめ))の囲い者として毒婦ぶりを発揮したといわれる。歌舞伎脚本に河竹黙阿弥作で慶応三(一八六七)年初演の「善悪両面児手柏(ぜんあくりょうめんこのでがしわ)」(通称「妲妃のお百」)があり、江戸末期から流行した毒婦物狂言の代表作の一つであった(以上は小学館「日本大百科全書」の稲垣史生氏の解説に拠った)。]

 

髮赤の女 lover を外の女にと lover を戀ふ その戀をすてる時髮黑くなる 木との結婚をする爲山へはいる

[やぶちゃん注:《2-26》の末尾に出た「春の彼岸に山へ入れば木と夫婦になつてしまふ。(出雲の神々)」の適応である。次も、その後の《2-29》、或いは《2-30》もその構想メモらしい。]

 

○聲 狐罠 ⑴長者の家 ⑵同庫 ⑶山の中

 

《2-29》

或女男に身を任かせず ごめんなさいと云ふ 後ちよいとした時にも同じ emphasis でごめんなさいと云ふ 男怒る

[やぶちゃん注:「emphasis」語勢。]

 

〇男

 ↑

 姊(髮赤)

 ↓

 妹

○姊 男を戀ふ 男 妹を戀ふ△ 姊 石神の婆にそそのかされ妹を木の妻とす(手段未考) 姊 又男を口説く 男却く 姊 婆より代れば妹を助くと云ふを聞く 代らんとす climax 姊の死

妹を木の妻とするまで 男に却けらるるまで(代る suggestion) 妹に代りて死するまで

[やぶちゃん注:「代る suggestion 」木の妻となる妹の身代わりとなる「提案」を姉がするのであろう。木と人の女の異類婚姻譚という妖しい民話風のものらしい。私などは大いに興味がそそられる。]

 

《2-30》

○⑴山:母父と姊 母父と男 男と妹 男と妹と姊 妹と姊 姊一人 姊と妖婆 姊と妹 姊一人 ⑵家:姊と妖婆 姊と母 姊と妖婆 姊と男 姊一人 ⑶妖婆

 

《2-31》

〇苦の世界 藏の中 悲しき夜 五十五階の建物 大野一家 哀れな男 流行性感冒と石

[やぶちゃん注:少なくとも「苦の世界」と「藏の中」は大正八(一九一九)年に芥川龍之介の盟友宇野浩二の発表した作品、「悲しき夜」は小説家でドイツ文学者の舟木重信(明治二六(一八九三)年~昭和五〇(一九七五)年)の大正八年『新小説』六月号に載った小説(芥川龍之介我鬼窟日錄附やぶちゃんマニアック注釈を必ず参照されたい)、最後の「流行性感冒と石」とは、かの志賀直哉の大正八年三月『白樺』初出の小説である(後に「流行性感冒」に改題)。そう考えると、中に挟まってある「五十五階の建物」「大野一家」「哀れな男」の三作も雑誌か何かで見出した気になった小説の題名なのではなかろうか? 識者の御教授を乞う。]

 

du temps que j'étais belle.

[やぶちゃん注:「私がきれだった時」。ルネサンス期フランスの詩人で「詩人たちの君主」(le prince des poètes)と讃えられたピエール・ド・ロンサール(Pierre de Ronsard 一五二四年~一五八五年)の詩Quand vous serez bien vieille(「あなたがひどく年をとってしまったなら」)の第一連末尾の引用と思われる。

   *

Quand vous serez bien vieille, au soir, à la chandelle,

Assise auprès du feu, dévidant et filant,

Direz, chantant mes vers, en vous émerveillant :

Ronsard me célébrait du temps que j’étais belle.

   *

冨樫剛氏のブログ「英語の詩を日本語で English Poetry in Japanese」のRonsasrd ("Quand vous serez bien vieille")にある(原詩も提示されてある)訳文によれば、第一連第四行は『「昔、ロンサールはわたしのこときれいっていってくれた」って。』である。]

芥川龍之介 手帳2―26・27

《2-26》

○冬空や二階に拂きかくる音

[やぶちゃん注:この句、見落としていた。今朝方、やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏に追加した。]

 

○二人の肺病患者の話 妻に「お前の病氣はもう好いよ。すぐに癒るよ」 and さびしき氣 egoism 海岸でもう一人の肺病患者に遇ふ

[やぶちゃん注:この後半は明らかに一読忘れ難い芥川龍之介の「彼」(大正一六(一九二七)年一月一日(実際には崩御によってこのクレジットは無効となる。実際には言わずもがな乍ら、昭和二年である)発行の雑誌『女性』)の内容である。]

 

○自然に因果存す されど因果的なるが故に自然ならず(必然性は偶然を寛容する所に生ず)

The Way of Destiny 踏切に汽車來らば 來らずば 待つ事ありて來たらば

[やぶちゃん注:「The Way of Destinyは「運命の道」の意。三者択一問題。]

 

○春の彼岸に山へ入れば木と夫婦になつてしまふ。(出雲の神々)

[やぶちゃん注:「春の彼岸」は春分を挟んだ前後三日合計七日間。この女神である山の神に纏わる入山の禁忌であるが、ここで初めて読んだ(夏彼岸の海に入るを禁ずるのは知れているけれども)。私はでは、春の彼岸に山に入ろうぞ――]

 

《2-27》

○象牙の雙六 蒔繪の瓢 珊瑚の緒〆に堆朱の印籠 錦のひたたれに緋羅紗の陣羽織 花瓶 瓦鴛子 瓦雞子 硯屛 文鎭 筆架 墨脚 渾天儀 望遠鏡 自鳴鐘 蔓製の搖籃 唐木の机 螺盃 椰子盆 羽根箒 雛人形 金匙 銀箆 天眼鏡 算木 印傳の莨入 琵琶尺八 動植物の化石(木の葉石 鏡 櫛筐 麪鉢 鐡漿壺 朧銀の燭臺 耳盥

[やぶちゃん注:俄かにはどの作の表現集・単語帳とも指摘は出来ぬが、こうした羅列は映画好きの私にはこたえられないモンタージュである。いや、妖しいフェティシズムである。

「雙六」「すごろく」。

「蒔繪の瓢」「まきえのふすべ」。これは文宝などに蒔絵で施された、描かれた瓢簞(ひょうたん)のことである。

「緒〆」「をじめ(おじめ)」は緒締め・緒止めのこと。袋物で、その口にある緒を束ねて通しておき、口を締めるために附けられてある穴のあいた玉を指す。

「堆朱」「ついしゆ(ついしゅ)」と読む。中国漆器を代表する技法である彫漆(ちょうしつ)の一種。ウィキの「堆朱」によれば、『彫漆とは、素地の表面に漆を塗り重ねて層を作り、文様をレリーフ状に表す技法を指すが、日本では表面が朱であるものを「堆朱」、黒であるものを「堆黒」』(ついこく)『と呼ぶ。ちなみに中国では、黒漆の層に文様を彫り表したものを「剔黒」』(てきこく)、『朱漆の層のものを「剔朱」という。通常の漆は硬くて彫刻が困難だが、油を混ぜることで、軟らかくなり彫刻が可能になった』とある。

「緋羅紗」「ひらしや(ひラシャ)」羅紗(織り上げた後に収縮させて地を厚く密にした上で更にケバ立たせた毛織物。古ポルトガル語の“raxa”に由来するという)の赤い色の非常に強いもの。

「瓦鴛子」「ぐわゑんし(がえんし)」と読み、鴛鴦瓦(えんおうのかわら)のことであろう。一対で一組となっている瓦。或いは実際におしどりの形に作った一対になっている瓦かも知れぬ。

「瓦雞子」焼き物の鶏のであるが、これは鶏鳴しない形だけで役に立たないものの譬えとして使われるよくない意味である。或いは、何時までも睦び合いたい閨房にはそういう鳴かない鶏の置物や瓦が配されたものか? 識者の御教授を乞う。

「硯屛」「けんびやう(けんびょう)」は硯(すずり)の傍らに立ておいて、埃などを防ぐ小さな衝立(ついたて)のこと。

「筆架」「ひつか(ひっか)」。筆を置いたり、凭せたり、掛けておくための台。

「墨脚」ネット検索では出て来ないが、筆架同様に固形の墨を磨った後、垂れて下を汚さぬよう、固定安置する台であろう。

「渾天儀」「こんてんぎ」は古く中国や日本に於いて天体の位置や運行を観測するのに使った器械。天空の円形を模(かたど)り、地平環を附し、黄道・赤道の遊動環を交錯させたもので、諸環の中央にある小軸によって一個の覗き筒が自由に回転する。これを天体に向けて観測した。

「自鳴鐘」「じめいしよう(しょう)」歯車仕掛けになっていて自動的に鐘が鳴って時刻を知らせる時計。十二世紀末頃に日時計や砂時計に替わってヨーロッパで発明され、日本にも室町末期には伝えられていた。これから、構想作の時制の上限は判明する。

「唐木」「からき」或いは「たうぼく(とうぼく)」と読み、紫檀(したん)・黒檀・鉄刀木(たがやさん)・白檀など、熱帯地方原産で中国を経て輸入された香木や高級銘木全般の総称。

など熱帯産の銘木。中国を経由して輸入された。とうぼく。

「螺盃」「らはい」は大型の腹足類(巻貝)などを酒杯に加工したもの。よく見かけるものでは、腹足綱古腹足目リュウテン科リュウテン属 Lunatica 亜属ヤコウガイ(夜光貝)Turbo marmoratus、イカ・タコの仲間である頭足綱四鰓(オウムガイ)亜綱オウムガイ目オウムガイ科オウムガイ属 Nautilus の代表種であるオウムガイ(鸚鵡貝) Nautilus pompilius などが素材対象となる。後者は私の『毛利梅園「梅園介譜」鸚鵡螺』を参照されたい。

「椰子盆」「やしぼん」と訓じておく。渡来の椰子の実を加工して作った入れ物であろう。

「金匙」「きんし」。金製の匙(さじ)。

「銀箆」「ぎんぺい」。「箆」は「へら」であるが、この場合は銀の櫛のこと。

「算木」「さんぎ」。元来は、易で占いのために使う長さ約九センチメートルの正方柱体の木。六本を一組みとし、筮竹(ぜいちく)を操作して得た卦(け)の形に並べて判断した。但し、奈良時代以降、一般生活に於いて使用された和算で用いる計算用具で、木製の小さな角棒で「算籌(さんちゅう)」とも呼ぶ。ここは後者であろう。

「印傳」「いんでん」。「印伝革」の略。羊や鹿の皮をなめした加工品を指す。ウィキの「印伝」によれば、『細かいしぼが多くあり、肌合いがよい。なめした革に染色を施し』、『漆で模様を描いたもので、袋物などに用いられる。名称はインド(印度)伝来に因むとされ、印伝の足袋が正倉院宝庫内に見られ、東大寺に文箱が奈良時代の作品として残る』。『印伝または印傳という名称は、貿易を行った際に用いられたポルトガル語india)又はオランダ語 indiënの発音にインド産の鞣革を用いた事から印伝と言う文字を当てたとされる。専ら鹿革の加工製品を指す事が多い。印伝は昔において馬具、胴巻き、武具や甲冑の一部、巾着、銭入れ、胡禄、革羽織、煙草入れ等を作成するのに用いられ、今日において札入れ、下駄の鼻緒、印鑑容れ、巾着、がま口、ハンドバッグ、ベルトなどが作られている』。

「莨入」「たばこいれ」。

「櫛筐」「くしばこ」。

「麪鉢」「めんばち」。麺鉢。丼ほど深くない縁のやや開いた鉢。

「鐡漿壺」「かねつぼ」。お歯黒を入れる壺のこと。小学館の「日本大百科全書」の「お歯黒」によれば、『鉄屑を焼いたものを濃い茶の中に入れ、これに五倍子(ふし)の粉を加えてその液で歯を染める。この中に酒、飴(あめ)、粥(かゆ)を加えることもあるのは、口中に入れるものゆえ、不快さを和らげて使いやすくするためであった。ごく普通の家の女は、いろりの隅に小さな壺(つぼ)を用意して濃い茶を入れておき、その中にたき火の中の古釘(ふるくぎ)などの鉄屑を入れて金けを出しておいた。これに五倍子の粉を加え、前に述べたようなものを加えて温めて歯につけた』とある「壺」である。この「五倍子」はそのまま「ごばいし」とも読み、ウィキの「ヌルデ」によれば、ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデヌルデ(白膠木)Rhus javanica 或いは変種ヌルデ Rhus javanica var.chinensis の葉にカメムシ目アブラムシ上科アムラムシ科タマワタムシ亜科 Schlechtendalia 属ヌルデシロアブラムシSchlechtendalia Chinensisが寄生して形成される大きな虫癭(ちゅうえい:所謂、「虫瘤(むしこぶ)」)から抽出した染料、或いは漢方薬を言う語である。この虫癭には『黒紫色のアブラムシが多数詰まっている。この虫癭はタンニンが豊富に含まれており、皮なめしに用いられたり、黒色染料の原料になる。染め物では空五倍子色』(うつぶしいろ:やや褐色がかった淡い灰色)『とよばれる伝統的な色をつくりだす。インキや白髪染の原料になるほか、かつては既婚女性』及び十八歳以上の『未婚女性の習慣であったお歯黒にも用いられ』、『また、生薬として五倍子(ごばいし)あるいは付子(ふし)と呼ばれ、腫れ物、歯痛などに用いられた』とある(但し、猛毒のあるトリカブトの根も同じく「付子」で「ふし」と読むので混同しないよう注意を要する、と注意書きがある)。

「朧銀」「らうぎん(ろうぎん)」或いは「おぼろぎん」と読む。「四分一(しぶいち)」とも呼ぶ金属工芸に於ける本邦古来の色金(いろがね)の一つ。銀と銅の合金で、仕上げたものが美しい銀灰色を示すことからの呼称で、合金の銀の比率が四分の一であることから後者の呼称が附いた。

「耳盥」「みみだらひ(だらい)」。左右に耳状の取っ手のついた小形の盥(たらい)。多くは漆器で鉄漿付(かねつ)け(お歯黒をつけること)の際、口を漱(すす)ぐのに用いた。]

 

wonder を求むる人間の心 欺かれたい ――欺かれぬ時の失望 アンニユイ

○本田子爵のMesmerism

[やぶちゃん注:「Mesmerism」は催眠術。「本田子爵」「本」多「子爵」なら二本開化物「開化の殺人」(大正七(一九一八)年)と「開化の良人」(大正八年)に出るが、本多子爵の語りが催眠術のような妖しい効果で迫ってくる後者の初期構想のように私には感ぜられる。]

芥川龍之介 手帳2―25

《2-25》

○齒――裝飾品

 靴――人皮

 何を書いても一度前に書いたやうな     >Los Caprichos

 氣のする小説家の話――過去身

 水夫の妻――老乞食

[やぶちゃん注:底本では「齒――裝飾品」から「水夫の妻――老乞食」まで総てが「>」の斜線に含まれて「Los Caprichos」に収束するように書かれている。芥川龍之介にはスペインの画家フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes 一七四六年~一八二八年)の寓意的幻想に満ちたエッチング連作「LOS CAPRICHOS」(ロス・カプリチョス:スペイン語で「気まぐれ」の意)に因んだ同名の散文詩風の作品があるが、決定稿と一致するのは「氣のする小説家の話――過去身」が同作中最後の「幽靈」ぐらいである。ゴヤの「LOS CAPRICHOS」は好きで何度も全作を見ているが、そのメモというのでもない。]

 

○長崎でお菊さんに遇ふ話。

[やぶちゃん注:鹿鳴館で老婦人明子がフランス海軍将校(実はかの「お菊さん」Kikou-San Madame Chrysanthème 一八八七年)を書いたピエール・ロティ(Pierre Loti 一八五〇年~一九二三年))と出逢った若き日のことをロティと知らずに追懐するという、芥川龍之介の佳品「舞踏會」(大正九(一九二〇)年)の逆転的構想か。]

 

作家が己の作品の immortality を得る爲に soul devil に賣る話 紫式部 or 羅貫中

[やぶちゃん注:遺稿「闇中問答」(昭和二(一九二七)年九月『文藝春秋』(芥川龍之介追悼号))は芥川龍之介と「或聲」の対話形式ながら、一番、こうした悪魔の硫黄の臭いを感じさせるものではある。但し、これは悪魔に魂を売らなかった龍之介の自裁直前のぎりぎりの懺悔のようにも私には思われる。或いは、龍之介はキリスト教にも帰依しなかったから、彼はまさにあたかも現世に現われた「リンボー」(辺獄:ラテン語:Limbus/英語:Limboの永遠の闇の錯覚の中で、この「或聲」と対峙しているようにも読めなくはない。それにしてもその作家を「紫式部」又は「羅貫中」に擬えていたというのは、これ、面白い! 実に、面白い! 個人的には紫式部で、お願いしますよ! 芥川先生!]

 

○精神的に冒險的精神つよきものあり これをデカダントを云ふ 猛獸使

人は苦難に處する case すら第三者の地に身をおく程茶氣を有す(己が死ぬ時は aromatic に想像する如き)

[やぶちゃん注:「aromatic」これは「かぐわしく」ではなく、「しみじみと趣深く」の意であろう。]

甲子夜話卷之二 5 京都總撿校の藏、神祖拜領壺の事

2―5 京都總撿校の藏、神祖拜領壺の事

豐川勾當の話しは、京の總撿校の所に、嘗て神祖の賜し御物ども有り。一つは色ある大壺に【色は忘る】葵の御紋つきたり。此壺の故は、其始め三宅撿校【稱忘る、猶正すべし】に賜しものにして、其時撿校この壺の名は何と申候やと申上げれば、御答には、名は無し。今かく治平の世となりぬれば、泰平の壺とも云べしとの上意にて、撿校忝く拜領してける夫より今に其御名を傳稱して、年首の佳儀には、撿校勾當の盲人、皆この御物を拜奉り、中に入りたる酒を頂戴して禮飮すと云。又鳴戸と名づけし御琵琶も同じ撿校賜りて、今に傳ふ。これも上意には、戰爭の際にはかゝるもの用にも立ず。今治安なれば、平曲【平家なり】の如きも、心安く聽べし。因て下さるるとなり。今に至て總祿所の傳寶とす。盲人の坐までも御手の屆くこと不思議なる計なり。

■やぶちゃんの呟き

「京都總撿校」「撿」は「檢」に同じい。近世日本の盲官(盲人の役職)の最高位である検校(けんぎょう)でも日本国中の盲官の座を纏めるために京都に置かれた最高位。江戸には関東の座の取締をするために総録(そうろく)検校(文中の「總祿所」はその本部)が置かれていた。こうした序列化や権利は江戸幕府が障碍者や被差別者らに行っていた組織内階級化による抜け目ない支配構造の一つである(但し、その中で被差別者や障碍者らが組織立った自律的で理想的な集団生活や教育的組織を実現し得た利点も見逃してはならない)。ウィキの「検校」によれば、その起源は『仁明天皇の子である人康(さねやす)親王が若くして失明し、そのため出家して山科(現在京都市山科区)に隠遁した。その時に人康親王が盲人を集め、琵琶や管絃、詩歌を教えた。人康親王の死後、側に仕えていた盲人に検校と勾当の』二官が『与えられた。これが検校と呼ばれる盲官の始まりといわれている。また、人康親王が坐って琵琶を弾いたという琵琶石は後に盲人達により琵琶法師の祖神として諸羽神社に祭られている。「法師」と呼ばれるのは、検校は剃髪し、正式な検校専用服(検校服)は僧服に近く、また実際に僧職となる者もいたからである』とし、南北朝から室町時代にかけて平家琵琶(一方流)演奏家であった検校明石覚一(あかしかくいち 正安元(一二九九)年頃~応安四年/建徳二(一三七一)年)が「平家物語」を纏めたが、彼は『また、足利氏の一門であったために室町幕府から庇護を受け、当道座』(中世から近世にかけて存在した準公認の男性視覚障碍者の自治的互助組織。視覚障碍者の地位向上や生業の安定を図るものであったが、生業に関して師匠から弟子へ技能を継承する教育機関としての役割も担った)『を開き、検校は当道座のトップを務めた』。『江戸時代に入ると、幕府は盲人が当道座に属することを奨励し、当道組織が整備され、寺社奉行の管轄下ではあるがかなり自治的な運営が行なわれた。時代の趨勢により、平曲はこの時代においては次第に下火になり、代わって三曲つまり地歌・箏曲・胡弓が台頭する。検校の権限は大きなものとなり、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。当道座に入座して検校に至るまでには』実に七十三もの『位階があり、検校には十老から一老まで』十の『位階があった』。『当道の会計も書記以外はすべて視覚障害者によって行なわれたが、彼らの記憶と計算は確実で』、一文の『誤りもなかったという。また、視覚障害は世襲とはほとんど関係ないため、平曲、三絃や鍼灸の業績が認められれば一定の期間をおいて検校まで』七十三段に『及ぶ盲官位が順次与えられた。しかし、そのためには非常に長い年月を必要とするので、早期に取得するため金銀による盲官位の売買も公認されたために、当道座によって各盲官位が認定されるようになった』。『検校になるためには平曲・地歌三弦・箏曲等の演奏、作曲、あるいは鍼灸・按摩ができなければならなかったというが、江戸時代には当道座の表芸たる平曲は下火になり、代わって地歌三弦や箏曲、鍼灸が検校の実質的な職業となった。ただしすべての当道座員が音楽や鍼灸の才能を持つ訳ではないので、他の職業に就く者や、後述するような金融業を営む者もいた。最低位から順次位階を踏んで検校になるまでには総じて』七百十九両が『必要であったという。江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった』。『江戸時代には地歌三弦、箏曲、胡弓楽、平曲の専門家として、三都を中心に優れた音楽家となる検校が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となった。磐城平藩の八橋検校、尾張藩の吉沢検校などのように、専属の音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいた。また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる』。『その一方で、官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にするため、元禄頃から幕府により高利の金貸しが認められていた。これを座頭金または官金と呼んだが、特に幕臣の中でも禄の薄い御家人や小身の旗本らに金を貸し付けて暴利を得ていた検校もおり、安永年間には名古屋検校が十万数千両、鳥山検校が一万五千両など多額の蓄財をなした検校も相当おり、吉原での豪遊等で世間を脅かせた』。元禄七(一六九四)年には『これら八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受け』てもいる。

「豐川勾當」「とよかはこうたう(とよかわこうとう)」。江戸で活躍した平曲家。盲官には位階順に検校・別当・勾当・座頭などがあった。

「神祖」家康。

「賜し」「たまひし」。

「故」由緒。

「三宅撿校」不詳。同名の検校はいるが、文化年間なので話にならない。

「忝く」「かたじけなく」。

「年首の佳儀」定例の高等盲官の年始の祝儀式。

「鳴戸」不詳。現存しない模様。篳篥(ひちりき)の名器にならば同名のものが嘗てあった。

「聽べし」「きくべし」。「べし」は可能。

「計」「ばかり」。

譚海 卷之一 羽州深山つなぎ蟲の事

羽州深山つなぎ蟲の事

出羽國深山(しんざん)中(ちう)つなぎ蟲と云ものありて人をさす、甚(はなはだ)難義なる事也。土用過(すぎ)より出て秋の彼岸まで盛(さかん)なり。其かたちあぶのごとし、蠅の小なる如きものにて、人の聲をきけばむれ來り、面(をもて)をうち眼をさしぎり堪(たへ)がたき事いふばかりなし。是にさゝれたる跡はれかゆがりいたみ、ぶとにさゝれたるが如し。山民(やまのたみ)は案内(あない)を知(しり)て夜分ばかり往來するゆへ是にあふ事なし。晝行(ちうかう)の人は壹二尺の竹を左右の手にもち、つなぎをうちはらひくして通行する事也。

[やぶちゃん注:「つなぎ蟲」ネット検索をかけると、現在でも秋田南部で現在の「つなぎ」と呼んでいることが判る。Q&Aサイトの質問記載であるが、『ハエ程の大きさで黒っぽく、動きが素早』く、『刺されると非常に痛く腫れ』、『家の中や山などの水辺でよく見かけ』るとある。その同質問への答えから、

双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目アブ下目アブ上科アブ科ツナギアブ属の吸血性のアオコアブ Hirosia humilis

或いは

イヨシロオビアブ Hiurosia iyoensis

を指すらしい(彼らは地方名ではその腹部の色合いから「腰白(こしじろ)」「白帯(しろおび)」などとも呼ばれるようである)。「ツナギアブ属」の呼称は、ここに見るように古くからあった彼らの名「つなぎむし」(恐らくは白色或いは黄色の腹部の節の横縞の繋がった感じからの命名であろう)が明治以降に属和名となったものと考えてよい。これらの画像を複数見たところ、眼の色と言い、腹部の縞と言い、これはかつて私が栃木県日光市川俣の加仁湯の露天の休憩所で蠅叩きで多量に叩き殺し、湯守の方からコップ酒一杯を献呈された、あのギャングどものことであることが判明した。あれは、刺される(「磨り削られると」と言うのが厳密には正しい)と相当に痛く、出血もかなり酷い。なお、吸血するのは蚊や蚋(ぶよ;次注参照)同様、のみである。

「ぶと」双翅目カ亜目カ下目ユスリカ上科ブユ科 Simuliidae に属する吸血性の蚋(ぶゆ)類の総称。関東では「ブヨ」、関西では「ブト」と呼ばれることが多い。

「案内(あない)を知(しり)て」昼間に山中を通行すると「つなぎ」が多く飛来して刺されるという事情・様子をよく知っているから、の意。

「壹二尺」三十一~六十一センチメートル弱。]

おせっかいの鐘   梅崎春生

 先週のこの「うんとかすんとか」欄で、デパートの案内広告がふえたために郵便物の配達が渋滞する、という郵便局の言い分を非難する文章を書いた。もちろんこの郵便局の言い分は、公僕精神をうしなった、筋の通らないものである。

 が、デパートも少々広告を出し過ぎやしないか。日本にどのくらい紙が余っているのか知らないが、浪費し過ぎていやしないかと思う。

 これはデパートだけに限らない。朝起きる。郵便受けから朝刊を取って来る。すると各紙にごってりとはさみ込み広告が入っている。赤だの黄だの青だの、俗悪な色調にいろどられた広告類がはさまっている。

 それが腹が立つので、玄関でばさばさと広告類をふるいおとして、新聞だけ持って上るという誰かの随筆を読んだことがあるが、私も共感する。

 私は玄関にまき散らしはしないが、茶の間に持って来て、広告類を束ねて抜き出し、そのままねじって、くず籠にたたき込んでしまう。

 実際あのはさみ込み広告は、何の役にも立ちはしない。私の友人に、あの広告を便所の落し紙に使用したら、お尻が赤や費や青に染まって、恥をかいたという人がいる。

 恥をかいたというからには、お尻を人前にさらした(自分で自分の尻を眺めるのは恥でない)のだろう。

 どういう機会に、どういう状況でさらしたのか、それはつい聞きもらしたが、しかし色のついたお尻なんてグロテスクで、好ましいものでないことは確かである。

 せめて無地無印刷の紙なら、まだ役立つだろうに、印刷してあるばかりに、落し紙にもならないやくざ紙となり下った。紙としても、不本意であろうと思う。

 やがて郵便が来る。書斎でより分ける。デパートの案内広告、銀行、証券会社の案内、それらをひとまとめにして、原則として開封せず、ひとまとめにぐいとねじって、くず籠にたたき込む。大急ぎでその作業を遂行する。

 大急ぎでそれをやるのは、私が見たくないせいもあるが、もう一つ、うちの者に見せたくないせいもあるのである。あんなのを見せて、もしうちの者が猛烈な購買慾をおこし、それを実行にうつしたらどうなるか。迷惑するのは私であり、私のふところである。

 近頃の広告というやつは、うちではこういう品物を売っておりますという報告の範囲を脱して、挑発の域に達しているようで、私はそれが気に食わない。それを毎日毎日、倦きもせず、手をかえ品をかえて送りつけて来る。

 正当防衛が行き過ぎると、過剰防衛ということになるそうだが、近頃の広告も過剰広告というべきであろう。ごわごわして落し紙にも向かないし、ほんとに紙の浪費という他はない。

 でも、送りつけて来る分には、にぎりつぶして事は済む。この世には、にぎりつぶせないことが多々ある。

 この間の朝日新聞の「素描」欄で、目黒区在住の慶大文学部教授白井浩司氏が、目黒区役所屋上の「明日への鐘」に関する陳情書を、目黒区議会に提出した記事が出ていた。

 私はその鐘を聞いたことはないが、その記事によると「この鐘は朝八時、夕の五時、夜の十時の三回鳴りひびくが、拙宅前では、自動車の前方二メートルできいた警笛にひとしい。私は勉強の関係で夜おそくまで起きているので、八時に起されるのは非常に困る……」

 デパートの広告ならにぎりつぶせるが、音というやつはにぎりつぶせない。

 白井さんの闘争は数年来のことで、あちこち関係者に陳情したり談判したりしたが、依然として鐘は鳴りつづけている。

 区役所に談判に行った時には、しかるべき役人が出て来て、

「八時に起されるのは困る」

 と言ったら、

「起キルノガワルイ」

 という返答だったそうだ。

 何とまあ冷酷な返答であろう。大きな音を出せば、起きるのがあたり前で、これは生理的必然なのである。いい、わるい、とかいう問題でない。

 小役人根性まる出しの返答で、態度もたいへん横柄だったそうであるが、その後「もの申す」欄などにこの問題が出ると、とたんに態度がていねいになって、横柄でなくなった。

 私はこの小役人の横柄さを憎むが、新聞に出たとたんに横柄でなくなったという、その卑屈な根性をも憎むのである。

「明日への鐘」実行委員会の婦人たちに談判に行ったら、「あなたの気持はよく判るが、慣れたらどうか。飛行場や踏切のそばに住んでいる人たちのことも考えたらどうか」との返答だった由で、この婦人連は役人でない筈だが、返答だけは役人なみの横着さを持っている。

 慣れろ、というのは乱暴な言い方だ。おそらくこの婦人連は、想像力という点で、極度に貧乏な女たちだろうと思う。

 日本の夏は暑い。暑いからといって文句を言わず、慣れろというのなら、話は判る。夏の暑さというのは宿命的なものだからだ。

「明日への鐘」は違う。宿命的なものでない。人工的なものであって、やめようと思えばやめられるものを、慣れろ、と押しつけるのは、傲岸不遜(ごうがんふそん)というものだ。

 あなたの気持がよく判るのなら、そこを基調として、早速その音を撤廃するなり、制限するなりすべきである。

 私はもともと「愛の鐘」とか「明日への鐘」とかいうものに、大きな疑問を持っている。

 何が「愛」であり「明日」であるのだろう? 判ったような判らないような、あいまいな言葉使いで、これでは言葉が泣きはしないか。言葉は大切なものであるから、そんなお手軽な使い方をしてはいけない。

 曰く「進め一億火の玉だ」「一億総ざんげ」、これでは一億という言葉が泣く。言葉の実質がすりかえられて、他のものになってしまうのだ。「愛」も「明日」も同じことだ。

 目黒の鐘は、午前八時と午後五時と午後十時に鳴るそうだが、推察するに、八時のは子供たちに早くめしを食って学校に行け、午後五時のは夕食時だから遊びをやめて帰宅せよ、午後十時のは夜遊びをやめて家に戻れ、というような意味を持つのだろう。その他に考えようがない。

 とすれば、ずいぶん人をばかにした話で、鐘の音で人を指図するようなもので、まるで牧笛で指導される羊群みたいに人間を考えていることになる。

 人間は羊とは違う。時間の観念もあるし、また時計というものを持っている。正確な時間を知らせるためなら、ラジオやテレビがそれをやっているし、何も特別に鐘を鳴らす必要はない。

 それなのに四百万円也を投じて「愛」の鐘をつくり、三度三度打ち鳴らす。

「愛」というからには、誰かが誰かを愛するあまりに、鐘を鳴らしているのだろうか。

「明日」という名をつけたのは、その鐘を鳴らすことが、明日と関係があるのだろうか。しかし、どういう関係があるのか、私も判らないし、おそらく誰にも判らないだろう。

 言葉を実質的に使うのなら、「おせっかいの鐘」「いやがらせの鐘」、そんな具合に是非改名するように、私は目黒区当局に勧告する。

 それが言葉を尊重する唯一の道である。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第十六回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年七月三十一日号掲載分。本文出る前回(第十五回)分は底本には不載である。なお、ここに出る「おせっかいの鐘」は、ネットを見る限りでは現在は鳴らされていない模様である。

「白井浩司」(大正六(一九一七)年~平成一六(二〇〇四)年)はフランス文学者。東京生まれ。暁星中学校を経て、慶應義塾大学仏文科卒。昭和一七(一九四二)年にNHK国際局海外放送フランス語班に勤務、昭和二〇(一九四五)年九月にNHKを退職、昭和二二(一九四七)年、慶應義塾大学予科講師、サルトルの「嘔吐」を翻訳して実存主義ブームのきっかけを作り、その後もカミュ・ロブ=グリエなどを翻訳紹介、昭和三三(一九五八)年慶應義塾大学文学部教授、昭和五一(一九七六)年にはフランス政府より「パルム・アカデミック勲章」を授与されている。昭和五三(一九七八)年、「アルベール・カミュ その光と影」で読売文学賞受賞、昭和五七(一九八二)年、定年退任して同大名誉教授となった(以上はウィキの「白井浩司に拠った)。]

2016/07/11

芥川龍之介 手帳2―18~24

《2-18》

○兄 父 母 家族

○家族 love affair

○俊助(大學)

○朱鷺子との會合(雨)春雷

[やぶちゃん注:「路上」(大正八(一九一九)年六月三十日から八月八日まで『大阪毎日新聞』連載。未完)の最初期設定。後の《2-20》から《2-22》を参照。love affairは情事・浮気の意。]

 

《2-19》

夏物安し for 高い時の糸でつくりし品 それが英國へ輸出を禁止されし爲 輸出屋が急に内地へとかゝり 且季候さむく夏物の需要少く且 又不景氣で買ふものなければ下落す 昨年に比して二三十錢高きものと同價にてうる メリヤス屋の損(暑くなればよいかも知れん) 昨年の暮シヤツ高し for 昨年は外國へ輸出す 内地もの少し 且景氣よく品物賣れ(15圓のシヤツ25 or 26)たり

一駄(40把) 500(現在)or 550圓 一駄100圓(戰爭前)

○支那 英國 亞米利加へはゆかず南米のみ ロシアでもよければよし

[やぶちゃん注:総て、メモ魔の芥川龍之介の市販品の価格崩落の覚え帳。小説の直接の素材ではないが、将来遡って時間設定をする際のためとも考えられる。それとも芥川センセ、先物取引でもしようと言うのかしら?]

 

《2-20》

○俊助 平田柴田

    高等學校教授(有福)

 俊助ノ叔父┐

      ├辰子

    叔母┘ │

       房子

[やぶちゃん注:「路上」の初期設定。決定稿の主人公の名は安田「俊助」、彼の知人女性(但し、ここに出るような彼の親類縁者ではなく、俊助の友人野村の親類筋)が初子(野村が一筋に愛している)で、その従妹として「辰子」が俊助と大きく絡んでくる。]

 



      interest
      
love of conquest

love

    
practical bearing
    
sex

 平田小島

[やぶちゃん注:「<」は底本ではかく英語句へ四分線。

love of conquest」(征服による愛)とあるが、これは前に示した「路上」でトリック・スター的に描かれる俊助の友人で、『女が嫌になりたいために女に惚れる。より退屈になりたいために退屈な事をする』などと嘯く「大井」なるデカダンな友人を感じさせる言葉ではある。そこに「practical bearing」実利をのみ目的とした挙動を「sex」と絡める「loveとなると、やはり前の注で示した「路上」の「大井」の影が私には濃厚に感ぜられる。次もまたまだ「路上」の構想メモが続くからでもある。「平田」も「小島」も「路上」には出ない名であるから、ますます「大井」っぽい。]

 

《2-21》

 Begining                    Beginning

 辰子との會合    房子との會合(以前より)

 1st stage of love Ditto

 2nd stage of love                 Ditto

 3ed stage of love          Ditto

 房子のdespair     兩親の許可

 房子の約婚     結婚

 true love 發見     新婚旅行

 Catastrophie

 俊助         淺井柴田

⑴俊ノ部屋 西洋カブレ 顏 ⑵電話デ辰子から帝劇行をすすむ ⑶學校 平井 柴田ヲ順天堂へとふ ⑷春雷 雨 first impression 順天堂

[やぶちゃん注:引き続き、「路上」の踏み込んだ設定。「Ditto」は同上の意。「房子のdespair(絶望)とあって婚約「結婚」以降の記載は明らかに、未完に終わった「路上」(第「三十六」章掲載末尾にここまでを『前篇』とし、『後篇は他日を期することとすべし』と記しながら、遂に後篇は書かれなかった)の後篇の設定と思われる。「帝劇」も「順天堂」も「路上」(前篇相当)には登場しないロケーションである。]

 

《2-22》

○火事 音樂會 朝燒 博物館declaration 病院

○空明暗甚し 木の若芽の梢明し 椎の花の香 紺白セル 白茶と金の帶 帶止めの紐綠 金物銀 足袋白(トンビ足) 簪ヒスイ 半襟水色 顋より喉 胸ヘノ感じ 靈活な眼 睫毛 

[やぶちゃん注:太字にした「指」には底本では傍点「◦」が附されてある。これも「路上」用の表現集であろう。というか、浮かんだシークエンスを映像として残して忘れないようにするためのメモと私は思う(私は夢記述を寝起きにする際、この方法を嘗てよく採った。この記載法は私のそれと酷似しているのである)。次の系図も「路上」用の系図である(但し、決定稿のそれとは全く異なる)。]

 

        柴田――俊助

   實業家  │    │

○俊介の叔父┐┌辰子   │

    | ├┤   >房子

    伯母┘└愼一

 

《2-23》

magician 女を trance にし その所見を語らしめ書く(自己がやればさめて忘るる故) 女 戀人あれど magician の離さざるを惧れ男と計りて trance を裝ひ男と一しよにせずば魔術師死すべしを云はんとす さて magician 女を trance に導くや女之に陷らざらんとして得ず 遂に陷る 覺めて後 magician 悵然たり 女家へかへれば程なく魔術師より手紙と金と來る 女の trance に語りし所語らんとせし所と一致せるなり

[やぶちゃん注:憑依のトランス状態(催眠変性意識状態)云々、妖術師という設定などは、大正八(一九一九)年の「妖婆」及び、それらと有意な設定上の相似性が認められる後の「アグニの神」(子供向け・大正一〇(一九二一)年『赤い鳥』)に繋がるところの初期設定のように読める。二作に先立つ原型であるならば、「妖婆」との連関性をまず考えるべきではあろう(「妖婆」の後の中間のメモとしては正直、ショボ過ぎる)。]

 

show-window を通る影土藏にもうつる 黑き揚羽二羽とぶ 車の人音 眼 煙草の煙字となる 盆を40度にす 猪口落ちず 空中卍になるうすき靑と黑 油が浮く 水死 珈琲に顏うつる 電話の婆の聲(ダメデスヨ) 己の double 娘の毛と男の毛婆の手にあり それに■■あり茶を出さず cup やく

[やぶちゃん注:前に続いてやはり「妖婆」のショット断片である(二羽の揚羽が飛ぶシーンは「妖婆」に出る。)。映像モンタージュとして読むと非常に面白い。感染呪術的な「毛」髪は小道具としては決定稿には出ない。]

 

mysterious なる園遊會 mask せる男女の群 印度人の magician 月を𢌞す 孔雀を吐く

[やぶちゃん注:或いは「魔術」(大正九(一九二〇)年)に結実する初期構想か。「魔術」の魔術師「ミスラ君」は印度人である。]

 

○衣服と人と離れて活動す

[やぶちゃん注:所謂、妖怪の付喪神(つくもがみ)の類いである。芥川龍之介はまず何よりも私と同様、怪奇談蒐集癖があった。私の電子テクストである芥川龍之介「椒圖志異(全)附斷簡ノートは未見の方には是非、お薦めである。序でに、それを確信犯で真似した私藪野直史の怪奇実録談集淵藪志異もよろしければ、どうぞ。]

 

《2-24》

○長崎圖書館

[やぶちゃん注:芥川龍之介は生涯に二度、長崎を訪問している。最初は大正八(一九一九)年五月(四日出発で到着は五日、十一日に長崎を発っている)と大正一一(一九二二)年四月(二十五日出発であったが、京都で半月ほど遊び、五月十日までに長崎着、長崎を発ったのは五月二十九日で、この時は実に二十日近くも滞在している)である。本手帳の記載推定からは、前者関連である。この一度目で切支丹物への関心が再燃したものと推定されている。]

 

○穴

Christ 果物賣の小娘

○牧師の林檎 林檎の中に Christ あり

○敵をとりひしぐ クリスト敵に似たり

[やぶちゃん注:これは切支丹物というより、西洋を舞台にキリストを主人公に描こうとしたのか? 或いは「南京の基督」(大正九(一九二〇)年)の初期構想か?]

 

○マリヤ クリストの love story 信ずる信徒の傳道

[やぶちゃん注:これは母マリアに対する子キリストの愛の物語の謂いである。「じゆりあの・吉助」(大正八(一九一九)年)で聖母マリアに恋するイエスが言及される下り(引用は独自に岩波旧全集に拠った。下線は底本のママ)、

   *

奉行「そのものどもが宗門神となつたは、如何なる謂れがあるぞ。」

吉助「えす・きりすと樣、さんた・まりや姫に戀をなされ、焦れ死に果てさせ給うたによつて、われと同じ苦しみに惱むものを、救うてとらせうと思召し、宗門神となられたげでござる。」

   *

が出る。このイエスのエディプス・コンプレクスに就いては、既に芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或孝行者で述べた。]

 

○――心中 かけ落ちの途中 女 rape さる 男を殺すstory beyond the sea  French Mediæval legend

[やぶちゃん注:「French Mediæval legend」は「フランス中世の伝説」。不詳。識者の御教授を乞う。]

 

娘の後夫知らずして前夫の僕を sebastian にせんとす 娘夫にこひてゆるしを得 他の囚人に代ふ 他の囚人は前夫なり 前夫死す 娘夫の僕を殺さんとして得ず 共に泣く 後夫來る scene.

[やぶちゃん注:「僕」(しもべ)「を sebastian にせんとす」の意味が不明。識者の御教授を乞う。まさか、「アルプスの少女ハイジ」の執事ではあるまいよ。]

ヒルデスハイムの薔薇   アポリネエル 堀辰雄譯

[やぶちゃん注:ギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire 一八八〇年~一九一八年)の短篇小説La Rose de Hildesheim ou les Trésors des Rois mages (一九〇三年)の堀辰雄による全訳である。二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」の解題によれば、初出は雑誌『山繭』(昭和二(一九二七)年五月刊の通巻第二十号)である。なお、原題はご覧通り、「ヒルデスハイムの薔薇或いは東方三博士の財宝」が正しい。

 底本は昭和一一(一九三六)年山本書店刊の堀辰雄の訳詩集「アムステルダムの水夫」を、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認した。傍点「ヽ」は太字とした。

 「ヒルデスハイム」“Hildesheim”はニーダーザクセン(Niedersachsen)州南部の都市で、北部ドイツの最高峰ブロッケン(Brocken)山(標高一一四一メートル)などがあるハルツ(Harz)山地の北方、北ドイツ平原の南、現在のドイツ連邦共和国の中央やや北に位置する。中世から近世にかけては聖俗両面に於いて有力な都市で、学問の分野でも「中心地」と目された。第二次世界大戦によって『歴史的建造物を含む街の多くが破壊されたが、現在までにその多くが再建され、かつての中世風の町並みも再現されている』。(ここはウィキの「ヒルデスハイム」に拠った)。ここはヒルデスハイム聖マリア大聖堂(Hildesheimer Dom St. Mariä Himmelfahrt)及びヒルデスハイム聖ミヒャエル聖堂(St. Michael zu Hildesheim)で知られ(初期ロマネスク様式の荘厳美を持った二つのこの聖堂も、やはり一九四五年の空襲によって孰れも完全に破壊されたが、戦後に再建されている)、ウィキの「ヒルデスハイムの聖マリア大聖堂と聖ミカエル聖堂によれば、前者の『大聖堂には中庭があり』、一三二一年に『建造されたゴシック様式のアンネのチャペルがある。大聖堂の後陣の中庭側の壁には』、樹齢千年のバラが『茂っている。このバラはヒルデスハイムの繁栄を象徴していると信じられており、伝説によると』、このバラが繁茂する限り、ヒルデスハイムは繁栄すると伝える。一九四五年に『この大聖堂が爆撃されたときもバラの根は残り、現在も毎年花を咲かせている』とある。ドイツ語版ウィキの“Hildesheimer Dom” (前の日本語版とはリンクしていないので注意)によれば、この薔薇はDer Tausendjährige Rosenstock(千年の薔薇の木)・Hildesheimer Rose(ヒルデスハイムの薔薇)と呼ばれていることが判る。なお、この小説の主人公の女性の名はドイツ語「イルゼ」Ilseであるが、これはフランス語や英語のElisabethで、その語源はギリシャ語の「Elis(s)avet」に由来し、元は「旧約聖書」の登場人物アロンの妻に当たるエリシェバ(Elisheva)に濫觴する。ヘブライ語の「エリシェバ」の「エリ」は「我が神」、「シェバ」は「誓い」「守り続けること」を意味し、併せて「我が神は我が誓い」「我が神は我が支え」の意となり、また、洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ:ラテン:Ioannes Baptista)の母エリサベトにもちなんでいる(ここは主にウィキの「エリザベス」に拠った)。

 因みに冒頭で堀辰雄は、ここを「ハンノワに近い」と訳しているが(原文は“à Hildesheim, près de Hanovre,”)、“Hanovre”はヒルデスハイムの西北三十キロメートルほどのところにあるハノーファー(Hannover)のこと。ライネ(Leine)川沿いにある北ドイツの主要都市で現在のニーダーザクセン州の州都である。また、主人公の発音を「ハンノワのアクセント」と言っているが、これは所謂、低地ドイツ語(Niederdeutsch:低ザクセン語Niedersächsisch)のオストファーレン語(Ostfälisch)と呼ばれる方言ではあるが、参照したウィキの「低地ドイツ語」によれば、『発音に関してはハノーファー都市部の発音が最もドイツ語の標準語に近いとされる』とある。]

 

 

   ヒルデスハイムの薔薇

 

 前世紀の末、ハンノワに近いヒルデスハイムにイルゼといふ一人の少女がいた。彼女の薄いブロンドの髮はすこし金色の反射をして月光のやうな印象を與へた。彼女の身體はすらりとしてゐた。彼女の顏は明るくて愛嬌があつて、笑ふときにはそのふつくらした下顎にすばらしい靨が出來た。鼠色の眼はそんなに美しくはなかつたが、彼女の姿にはよく似合つて、小鳥のやうにたえず動いてゐた。彼女の優しさには比べるものがなかつた。彼女は、大抵のドイツ娘がさうであるやうに、家政や裁縫が非常に下手だつた。家事を終へてしまふと、彼女はピアノの前に坐つて、人魚について物語られてゐることを唄ふのだつた。でなければ彼女は本を讀むのだつた。その時の彼女は一人の女詩人を思はせた。

 彼女が話すときには、馬の言葉だと言はれてゐるドイツ語も、婦人の言葉であると言葉はれるイタリイ語よりいつそう優美になつた。それに彼女はハンノワのアクセント( S が決して Ch の音をしない)を持つてゐるので、彼女の會話は、實に魅惑的であつた。

 ずつと前に、アメリカへ行つてゐたことのある彼女の父は、そこでイギリスの女と結婚し、それから數年の後、親ゆづりの家に住むため故郷へ歸つて來たのである。

 ヒルデスハイムは、世界の中で最も美しい小都會の一つである。その町は、並はずれた屋根のある、異樣な恰好の、彩られた家々とともに、まるで妖精物語から拔け出して來たやうであつた。その町役場の前の廣場の風景は、いかなる旅人も、忘れることが出來ないであらう。實に、それは、詩の額緣をつけるために描かれた一枚の繪であつた。

 イルゼの兩親の住居もヒルデスハイムの多くの家のやうに非常に高かつた。ほとんど垂直である屋根は正面(ファサード)全體より高まつてゐた。鎧扉のない窓がそとに向つて開かれていた。窓はいくつもいくつもあつた。そしてその窓と窓との間には、わづかしか空間が無いのであつた。門と梁との上には、敬虔なのや顰め顏をしている像が彫刻されてあつた。それには古い獨逸語の詩か、それとも羅典語の銘かで註釋がついてゐた。對神三德、最高四德、七大罪、四福音書著者聖徒、乞食に外套を與ふる聖マルタン、聖女カテリイヌと車輪、鵠、楯形、等等がそこにあつた。それらすべては靑と赤と綠とで彩られてゐた。上の階が下の階よりも突き出してゐるので、家全體はさかさまの階段のやうだつた。それは多彩な、愉快な家であつたのである。

 イルゼはごく小さい時分からこの住居に移つて來て、ここで大きくなつたのであつた。彼女が十八の頃には、彼女の美しいといふ評判はハンノワまで擴がり、そこからさらにベルリンにまで達してゐた。千年の薔薇の木や寺院の寶物を見るためにヒルデスハイムの美しい町を訪れる者で、「ヒルデスハイムの薔薇」といふ綽名をつけられてゐるこの少女を讃美しに來ないものはなかつた。彼女は何度も結婚を申込まれた。しかしいつも、いま歸つて行つたばかりの求婚者の長所を賞めちぎつてゐる父に向つて、彼女は眼を落しながら答へるのであつた。自分はもつと娘でゐて自分の若さをたのしみたいのだと。すると父は言ふのであつた。

 ――お前は間違つてゐる。だが、お前の好きなやうにするがよい。

 そして求婚者は忘れられていつた。

 イルゼが散步から戻つて來ると、家の上に浮彫にされていゐるすべての像は、彼女に、お歸りなさいと云ふかのやうに微笑むのだつた。そして、「諸罪」らは合唱しながら、彼女にこう叫ぶのだつた。

 ――私たちを御覽なさい、イルゼ。私たちは七大罪を象徴しているのです。しかし私たちを浮彫にして彩つた人たちは、私たちを恕すべからざる罪とするほどの惡意は、私たちには持つてゐなかつたのです。私たちを御覽なさい。私たちは恕さるべき七つの罪です。ごく輕い罪なのです。私たちはあなたを誘惑しようとは思ひません。むしろ反對です。私たちはこんなにも醜いのですから。

 そして「諸德」らは、輪舞をするためのやうに手と手をとりあひながら、かう歌ふのだつた。

 ――リンゲル、リンゲル、ライエ(踊れ、踊れ、輪になつて踊れ。)私たち七人の者はあなたの德を象徴してゐるのです。だが、私たちを御覽なさい。私たちのどの一人だつて、あなたほど美しくはありません。リンゲル、リンゲル、ライエ。

 

       *

     *

       *

 

 ところが、イルゼには、ハイデルベルヒで勉強をしている一人の從兄があつた。彼はエゴンと言つた。彼は大きくて、金髮で、肩幅が廣く、そして空想家だつた。休暇中、ドレスデンで暮してゐるうちに、この若い二人はお互に愛し合つた。彼等はその戀をラフアエルの讃美すべきマドンナ・シクスチイヌの畫の前で打ち明けたのであつた。その時から、イルゼはいくらか天使に似た優しい顏だちを持つやうになつた。

 エゴンはイルゼとの結婚を申込んだ。しかし彼女の父は、もちろん財産と地位とを要求した。そこで、この靑年はハイデルベルヒに歸つてからは、勉強とヒルシユガツセの決鬪との閑暇さへあれば、城のほとりの哲學者の小徑へ行つては、自分に從妹を娶(めと)らせてくれる財産を手に入れるための手段を夢みるのであつた。

 

       *

     *

       *

 

 一月の或る日曜日、彼が説教を聞きに行つたとき、牧師が、馬槽のなかの基督のところへ訪ねて行つた東の博士たちのことを話した。牧師はマタイ傳福音書の一節を引用した。そのとき牧師は、基督のために黃金や乳香や沒藥を持つて行つた博士たちの數や身分については少しも觸れなかつた。

 それからと云ふもの、エゴンは東の博士たちのことを考へずにはゐられなかつた。彼は新教徒ではあつたが、カトリツクの傳説に從つて、王冠をかぶつたガスパルとバルタザルとメルヒオルとの三人を想像した、それらの東の博士たちは、黑人を眞中にして彼の前を練り步くのであつた。彼には彼等が三人とも黃金を携へているごとくに思はれた。それから數日過ぎると、彼はもはやその三人を、通りすがりにあらゆるものを黃金にしてしまふ魔法使の、錬金術師の顏だちと服裝との下でしか、見ないようになつた。

 かういふあらゆる幻覺は、從妹と自分とを結婚させてくれる、黃金を愛するがためにのみ生じたのであつた。彼はそのために食ふことも飮むことも忘れた。恰もこの新しいマイダスは、その食物としては、ケルンの本寺がその殘骸を所持していることを誇りとしてゐる、あの占星家らによつて變質せられた地金以外には、何も持つてゐないかのやうであつた。

 彼は圖書館を漁つて、三人の東の博士たちを問題にしてゐる、あらゆる書物を讀んだ。ヴエネラブル・ベエド、古傳説、福音書の眞正を論じた現代のあらゆる著書等。それから步きながら、彼はその金色の空想を走らせるのであつた。

 ――そのすばらしい黃金の寶は、測り知れない價格になるに違いない。そしてその寶が、分配されたとか、使用されたとか、消費されたとか、盜まれたとか、又は發見されたとか云ふやうなことは、何處にも書かれてはいないのだ。

 遂に或る晩、彼は自分が東の博士たちの寶を欲しがつてゐると云ふことを自覺した。それを發見することは彼に、戀人としての幸福のほかに、動かしがたい名譽をも與へるであらう。

 

       *

     *

       *

 

 彼の奇異な振舞はやがてハイデルベルヒの教授や學生たちを氣づかはせだした。彼の仲間でないものは、彼を狂人と呼ぶのに躊躇しなかつた。彼の仲間のものは彼を辯護した。それがために決鬪の果しない連續が生じたくらゐであつた。(ネツカ河畔ではそれはいまだに物語られてゐるのである。)それからまた彼に關するさまざまな逸話が擴がつた。彼が田舍を散步しているとき、或る學生が彼の後をつけていつた。そしてその學生は、エゴンが一匹の牛に近よつて行つてこんな風に話しかけてゐたと告げるのであつた。

 ――僕は小天使(ケルビム)を探してゐるのだ。それに似てゐるものは僕を感動させる。僕は一匹の牛を見つけたぞ。小天使(ケルビム)は、もつとも翼のある牛なのだが。‥‥だが、どうか僕に言つておくれ、草を食んでゐる美しい牛よ、‥‥氣立のいいお前はきつとあの天使の中でも最高階級に屬する動物どもの知識の一部を保存してゐるだらう。どうか僕に言つておくれ、お前たちの種族の間ではクリスマスの慣例はすこしも續けられてゐないのか? それにしてもお前はお前の仲間の一人が馬槽のなかの幼兒をその息で温めてやつたことを名譽としてはいないのか? それにしてもお前はきつと知つてゐるだらう。小天使(ケルビム)に型どつてつくられた氣高い動物よ、お前は知つてゐるだらう、東の博士たちの寶が何處にあるのか? 僕は、僕を神聖な財産で富ましてくれるその寶をば探してゐるのだ。ああ、返事をしておくれ、牛よ、僕の唯一の希望よ! 僕はそれを駿馬にも聞いて見たのだがあいつらは獸(けだもの)に過ぎないのだ。そうしていかなる天使にも似てはゐないのだ。ああ、あいつら精力的な動物どもの知つてゐた返事といつたら、唯、しやがれた獨逸語の肯定詞だけだつたのだ。

 それは丁度黃昏が終らうとする時分だつた。遠くの家々の中にはランプがともされてゐた。そして村々は四方にかがやきはじめてゐた。牛はしづかに首を動かしてモオモオと唸つた。

 

       *

     *

       *

 

 ヒルデスイムでは、イルゼはすつかり信賴して、從兄からの狂ほしい愛の手紙を受取つてゐた。彼女とその兩親は、エゴンが財産をつくりかけてゐるのだと思つてゐた。

 冬になつた。雪がふつた。それは見たところ白鳥のうぶ毛のやうに溫かさうであつた。家々の彫刻した聖人らは、雪に掩はれながら寒さにふるへてゐるやうに見えた。クリスマスがやつて來た。そしてきらめいてゐる木のまはりで人々は唄ふのだつた。

    クリスマスの木は

     木のなかで一番美しい木だ

    なんと不思議な木よ

    なんと綺麗な花の咲いてゐることよ

     小さな花がきらきらしてゐる

     小さな花がきらきらしてゐる

      ああ きらきらしてゐる

 

       *

     *

       *

 

 小さな町の中を橇が滑り出した結氷期の或る朝、エゴンの兩親の住んでゐるドレスデンの消印のある一通の手紙が屆いた。イルゼの父は眼鏡が見つからなかつたので、それをイルゼに高い聲で讀ませたのであつた。その手紙は短かつた。しかし悲しかつた。エゴンの父は、彼の息子が戀のために氣の狂つてしまつたことを告げるのであつた。そして彼の息子がどうしても東の博士たちの寶を欲しがつてゐることを、彼の發作が彼を餘儀なく隱れ家のなかへ閉じ込めさせてゐることを、それから彼が發作中たえずイルゼの名前を繰り返してゐることを告げるのであつた。

 イルゼは、その手紙以來、急に衰弱していつた。頰は瘦せ、唇は靑ざめ、眼はいつそう光を增した。彼女は家事や針仕事をすつかり止めてしまつた。そしてすべての時間をピアノの前で過すか、または、ぼんやりと夢見てゐるのであつた。そして二月の半頃になると、彼女も床へつかなければならなくなつた。

 

       *

     *

       *

 

 その同じ頃、一つの噂がヒルデスハイムの全町民を動搖させてゐた。その町の創立のふしぎな立會人、あの千年の薔薇の木が、寒氣と老齡とのために死んでしまつたのである。本寺の裏の、閉鎖された墓地の中を匍ひまはつてゐた、その古い木が、枯れてしまつたのである。人々は心痛した。町役場では最も熟練した植木屋たちに救助を依賴した。しかし、どの植木屋も自分にはそれを蘇らせることは出來ないと言ふのであつた。遂に、ハンノワから一人の植木屋がそれを療治にやつて來た。彼は彼の技術の中で最も巧妙な手段を用ひた。すると三月の始めの或る朝、ヒルデスハイムの町中に、突然大きな歡聲が起つた。人々はみんな近づきあつてお互に祝ひ合ふのだつた。

 ――薔薇の木が蘇つた。ハンノワの植木屋が牛の血を巧妙に利用して、あの木に再び生を與へたのだ。

 

       *

     *

       *

 

 その同じ朝、イルゼの兩親は、戀のために死んだ娘の棺の側で泣いてゐた。白い布で掩はれた棺が持ち運ばれていつたとき、彩られた浮彫の聖人らは、雪に掩はれながら、古びた家の正面(ファサード)の上に震へて、啜り泣いてゐるかのやうに見えた。

 ――リンゲル、リンゲル、ライエ。(踊れ、踊れ、輪になつて踊れ。)さようなら、イルゼ、永久に。さようなら、お前の德義に適つた諸罪よ、お前より美しくはなかつたお前の諸德よ。さようなら、イルゼ、永久に。

 その葬列の前を、軍隊が通つた。太鼓と軍笛(ファイフ)とが輕快な悲しい音樂を奏してゐた。女たちは目たたきをしながら言ふのだつた。

 ――傳説の薔薇の木は蘇された。それだのにヒルデスハイムの薔薇は埋められてしまふのだ。

 

 

[やぶちゃん注:「そうして」「さようなら」など一部の表記に歴史的仮名遣でないものが混じるが、面倒なので注記しないこととした。以下、原文は仏語サイトのこちらを参照した。

「家事を終へてしまふと、彼女はピアノの前に坐つて、人魚について物語られてゐることを唄ふのだつた。」これは堀辰雄に悪いが、語訳の類いである。原文は“Les travaux domestiques terminés, elle se mettait au piano et chantait qu’on eût dit d’une sirène,”で、一九七九年青土社刊「アポリネール全集」の窪田般彌氏の訳では『家事を片づけてしまうと、かの女はピアノに向い歌うのだったが、それは』セイレーン(人魚)の『歌声をきくようだった。』と訳しておられ、読んでいても躓きがない(引用途中のセイレーン(人魚)の箇所は窪田氏は『シレノス』と訳された上で、割注で『半人半魚の魔女。その美声は船人を難破させたという』と附しておられる)。

「對神三德」原文は“les Trois Vertus Théologales”。同前の窪田氏の訳では『三つの神徳』とあり、割注で『信仰、希望、慈悲のこと』とされておられる。

「最高四德」原文は“les Quatre Vertus Cardinales”。同前の窪田氏の訳では『四つの主徳』とあり、割注で『慎み、正義、節制、能力のこと』とされておられる。

「七大罪」原文は“les Péchés Capitaux”。同前の窪田氏の訳では『七つの大罪』とあり、割注で傲り(「倣り」とあるので外して示した)、『吝嗇、淫蕩、妬み、大食、怒り、怠惰の七つの罪』とされておられる。ウィキの「七つの大罪」によれば、『キリスト教の正典の中で七つの大罪について直接に言及され』たものはなく、これは四世紀の『エジプトの修道士エヴァグリオス・ポンティコスの著作に八つの「枢要罪」として現れたのが起源である』とある。『八つの枢要罪は厳しさの順序によると「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憂鬱」、「憤怒」、「怠惰」、「虚飾」、「傲慢」である』。六世紀後半、ローマ教皇グレゴリウス一世によって『八つから現在の七つに改正され、順序も現在の順序に仕上げられた。「虚飾」は「傲慢」に含まれ、「怠惰」と「憂鬱」は一つの大罪となり、「妬み」が追加された』とある。

「乞食に外套を與ふる聖マルタン」原文は“l saint Martin donnant son manteau au mendiant”。同前の窪田氏の訳では『乞食にマントを与える聖マルタン』とあり、割注で『フランスで最も尊敬されている聖人。ツールの司祭だった』とされておられる。ウィキの「トゥールのマルティヌスによれば、ラテン語で“Sanctus Martinus Turonensis”、また「マルタン」「マルチノ」とも音写され、『キリスト教の聖人で』、『殉教をせずに列聖された初めての人物で』『ヨーロッパ初の聖人でもある』。『日本のカトリック教会では聖マルチノ(ツール)司教』『と表記される』とし、三一六年頃、『ローマ帝国領パンノニア州(現ハンガリー)サバリア』生まれで、三九七年(一説には四〇〇年)に『トゥーレーヌのカンドで没。ローマ帝国軍の将校であった父の転任で、子供の頃パヴィーアへ移住し、のちにローマ軍に入隊した。所属する連隊が、しばらくしてガリアのアミアン』(Amiens:現在のフランス北部の都市(コミューン:commune))『に派遣された時、「マントの伝説」が起こる』。『ある非常に寒い日、アミアンの城門で、マルティヌスは半裸で震えている物乞いを見た。彼を気の毒に思ったマルティヌスは、マントを』二つに『引き裂いて、半分を物乞いに与えた。この物乞いはイエス・キリストであったといわれ』、『これが受洗のきっかけとなり、その後軍を除隊した。マルティヌスが持っていたほうの半分は、「聖マルティヌスのマント」として、フランク王国の歴代国王の礼拝堂に保管された』。『ちなみに、フランクの王朝「カペー朝」は、マントを意味する「cape」にちなんでいる。礼拝堂(英 chapel、仏chapelle も、もともとはマントを保管した場所という意味である』。『除隊すると、マルティヌスは、聖ヒラリウスの弟子となるためにポワティエ』(Poitiers:現在のフランス西部の都市)『に向かうも、その前に、両親のいるロンバルディアに行こうとした。しかしアリウス派の信奉者が多く、カトリックを敵視していたため、ガリアへ戻ろうとしたが、アリウス派の勢力により聖ヒラリウスが追放されたことを知り、ティレニア湾に浮かぶガリナリア島(現アルベンガ島』(Albenga:現在のフランス国境に近いイタリア共和国リグーリア州サヴォーナ県)『)に逃れた』。『その後の勅令により、聖ヒラリウスがガリアに戻ったのを知ったマルティヌスは、ポワティエに急ぎ』、三六一年、『ポワティエから少し離れた地域(現リグージェ』(Liguge:フランスのポワトゥー=シャラント地域圏のヴィエンヌ県)『)を教化する許可を得て、多くの修道士が彼の周りに集まった』。『これが、西方教会初の修道院、リグージェ修道院である』。『マルティヌスは、伝道活動も積極的で、病気を治療したともいわれている』。三七一年(または三七二年)にトゥール』(Tours:現在のフランス中部にある都市でトゥーレーヌ(Touraine)州州都にしてアンドル=エ=ロワール県の県庁所在地)『の二代目の『司教である聖リドリウスが亡くなり、聖職者たちは、マルティヌスに新たな司教への就任を求めたが、あまり乗り気でなかったため、策略が施された。あるトゥールの市民がマルティヌスのもとを訪れ、死期が近い妻に会ってやってほしいと言って、共にトゥールの町に入ったところを、人々の喝采が出迎えたのである』。『司教となった後も、彼は、マルムーティエ修道院を作り、トゥーレーヌ一帯のキリスト教化の拠点とした』。『また、司教管区を離れて、現ドイツ領のトリーアに足を運ぶこともあった。ここはローマの皇帝たちが屋敷を構えたところで、ここで、皇帝に、犯罪者への赦しを請うこともした。異端者とされたイベリア半島の聖職者、プリスキリアーヌスへの赦しをも願ったが、結局は斬首の刑に処せられ、マルティヌスはそのことを大いに嘆いたという』。『ローマへの最後の訪問の後、マルティヌスはカンドに行き、そこで』八十一歳で没している。『その謙遜と禁欲を重視した生き方は、人々の崇拝の対象となり、偉大な聖人とたたえられた。存命中、あるいは死後に起きた奇跡についての記録も多く、多くの教会や礼拝堂が奉納され、また聖マルティヌスにちなんだ地名も多い』。『フランス、ドイツの守護聖人であ』り、『また、騎士や兵士、毛織物関連業者、靴屋、物乞い、家畜、そしてホテル経営者の守護聖人でもある。ロワール川流域でのブドウ栽培の先駆者としても知られ、イタリアではワインの守護聖人ともなっている。また、酩酊を避けたい時にも、この聖人に祈りを捧げる』とあるから、向後、私もこの聖人に祈りを捧げよう。

「聖女カテリイヌと車輪」原文は“sainte Catherine et sa roue”。同前の窪田氏の訳では『聖女カトリーヌとその車輪』とあり、『聖女カトリーヌ』の割注で『アレキサンドリアの聖女。車輪の拷問をうけた』とされておられる。ウィキの「アレクサンドリアのカタリナ」より引く。聖カタリナ又はアレクサンドリアのカタリナ(ラテン語:Sancta Catharina Alexandrina 二八七年~三〇五年)は『キリスト教の聖人で殉教者』。『正教会では聖大致命女エカテリナとして敬われ、ローマ・カトリックでは伝統的に『十四救難聖人』の一人とされている。ジャンヌ・ダルクと話したとされる聖人の一人』。『彼女の象徴として、壊れた車輪、剣、足下の王冠、霰、花嫁のヴェールと指輪、鳩、鞭、本、異教の哲学者と論争する女性、などが用いられる。キリスト教の弁証者、車輪作りの職人(陶工と紡績業者を含む)、記録保管係、教育者、研ぎ職人、弁護士、少女、機械工、製粉業者、看護師、図書司書、学者など多くの分野の守護聖人』などとされる。『聖カタリナの生涯は多くの種類の伝説で成り立っている。最も知られる話は以下のとおりである。カタリナはエジプト・アレクサンドリア知事コンストゥスの娘だった。彼女は当時最高の教育を受けたと言われる。カタリナは両親に向かって、名声、富、容姿と知性で自分を超える男でなければ結婚しないと宣言した。カタリナの母は秘密裡にキリスト教に改宗しており、娘を隠者の元へ送り出した。その隠者はカタリナに「その方(キリスト)の美は太陽の輝きよりも勝り、知性は万物を治める。富は世界の隅々にまで広がっている」と説いたという』。『幻視をした彼女は洗礼を受け、キリスト教徒となった。彼女は幻想の中で天国へ運ばれ、そこで聖母マリアによってキリストと婚約させられたという(神秘の結婚)』。『皇帝を訪問して話したいというカタリナの物語は時のローマ皇帝マクセンティウスの元にも届き、彼女は皇帝にキリスト教徒を迫害するやり方は間違っていると説こうとした。伝説では、カタリナは皇后を改宗させることに成功し、彼女は皇帝が送り込んだ』五十人の『異教の賢者たちを論破したため、彼らの多くはすぐに殺されてしまった。皇帝はカタリナに言い寄って失敗すると、彼女を牢へ入れるよう命じた。彼女が改宗させた人々がカタリナを訪問すると、彼女は車輪に手足をくくりつけられて転がされるという拷問が命じられた。しかしカタリナが車輪に触れるとひとりでに壊れてしまったため、彼女は斬首刑にされた』。『伝説は後にさらに推敲され、天使がカタリナの遺体をシナイ山に運んだという。そこには』六世紀、東ローマ皇帝ユスティニアヌス一世によって聖カタリナ修道院が建立され、この『修道院は今も残り、初期キリスト教芸術、建築、輝かしい手書き写本など有名な所蔵品』がある。『彼女の第一の象徴となるのは釘打ちされた車輪である。このことから、『カタリナの車輪』として知られるようになり、多くのキリスト教会で』十一月二十五日の『カタリナの祝祭日が祝われる』。但し、『歴史家たちはカタリナは実在しなかったと信じており、彼女は歴史上の人物というよりは理想化された人物像であったとみなしている。彼女は、異教徒の哲学者ヒュパティア』(Hypatia 三五〇年から三七〇年頃~四一五年:ローマ帝国アエギュプトゥス(ラテン語: Aegyptus:古代のエジプトがローマ帝国の属州だった時代の地名。エジプト(Egypt)の語源)の数学者で天文学者・新プラトン主義哲学者であった女性。「ハイパティア」「ヒパティア」とも呼ばれる。キリスト教徒によって異教徒として虐殺された)『と相対する像として作り上げられたというのである。カタリナがその目的のために特別に創造されたとするのは疑わしい。ヒュパティアのように、カタリナは高い知性を持ち(哲学と神学において)、非常に美しく、汚れなき処女であったと伝えられており、ヒュパティアの死ぬ』一〇五年前に『むごたらしく殺されたことも共通している』とする。一九六九年に『ローマ・カトリック教会は』『彼女の実在が歴史的根拠に欠けるという理由から』『典礼秘蹟省が発行する聖人の祝日を記載した暦から』カタリナの祝日十一月二十五日を一度除いたが、二〇〇二年になって『カタリナの祝日は再び暦に記載され』ている。『多くの場所で、カタリナの祝日は最上の厳粛さを持って祝われている。フランスのいくつかの司教区では』、十七世紀初頭から『聖なる日の義務とされてきた。数え切れない数の礼拝堂が彼女を守護聖人としており、カタリナ像はほとんどの教会のほど近くで、彼女の拷問の道具であった車輪を象徴化した姿の像が見つけられる。その間、カタリナの生涯に起因する象徴化が進み』、『聖カタリナは乙女と女学生の守護聖人となった。釘打ちされた車輪は聖人の象徴となり、車輪製造者と機械工の守護聖人となった。また車輪はケンブリッジ大学セント・キャサリンズ・カレッジなどの紋章になっている』とある。

「鵠」「くぐひ(くぐい)」。白鳥の古い名。但し、原文は“des cigognes”で、“cigogne”はフランス語でコウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana を指す。同前の窪田氏の訳でも『こうのとり』とあり、割注で『敬愛と感謝の象徴』とされておられる。但し、ウィキの「コウノトリ」によると、『ヨーロッパでは、「赤ん坊はコウノトリのくちばしで運ばれてくる」「コウノトリが住み着いた家には幸福が訪れる」という言い伝えがあるが、生物学的にはコウノトリ Ciconia boyciana ではなく』、同じコウノトリ属のシュバシコウ(朱嘴鸛)『Ciconia ciconia である(ヨーロッパにコウノトリはいない)』とある。ウィキの「シュバシコウ」にも、『高い塔や屋根に営巣し雌雄で抱卵、子育てをする習性からヨーロッパでは赤ん坊や幸福を運ぶ鳥として親しまれている。このことから欧米には「シュバシコウが赤ん坊をくちばしに下げて運んでくる」または「シュバシコウが住み着く家には幸福が訪れる」という言い伝えが広く伝えられている。日本でもこのため「コウノトリが赤ん坊をもたらす」と言われることがある』と記す。ともかくも、堀辰雄はせめて「鸛(こうのとり)」とするべきであったとは思う。

「楯形」原文は“des écussons”。これは「エキソン」で「楯形紋地」、西洋でよく見かける武具の楯の形をした紋章のことである。

「リンゲル、リンゲル、ライエ」原文は斜体でRingel, Ringel, Reihe.。これはドイツの遊び唄の題名でもあり、調べたところ、一八四八年に出版された本に既に載るとする。短いが、その童謡はこちらの動画で少女たちの遊び方と一緒に視聴出来る。

「ラフアエルの讃美すべきマドンナ・シクスチイヌの畫」原文は“le tableau de Raphaël, l’admirable Madone Sixtine,”。最盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi 一四八三年~一五二〇年)がその晩年の一五一三年から一五一四年頃に、祭壇画の一翼として描いた「システィーナの聖母」(Madonna Sistina:ドイツ語:Sixtinische Madonna)。ラファエロが描いた最後の聖母マリア像であり、ラファエロが自分だけで完成させた最後の絵画でもある。一七五四年にドイツのドレスデン(Dresden)に持ち込まれ、その後、ドイツの美術界に大きな影響を与え続けた。第二次世界大戦後にモスクワへと持ち去られたが、十年後にドイツに返還され、現在はアルテ・マイスター絵画館の最重要なコレクションの一つになっている。『聖シクストゥスと聖バルバラを両脇にして、聖母マリアが幼児キリストを抱きかかえている。マリアは曖昧に描かれた何十もの天使を背景に雲の上に立ち、画面下部には両翼を持つ、頬杖をついた特徴的な天使が描かれている』。『アメリカ人作家、歴史家リック・スティーヴス』(Rick Steves 一九五五年~)は、『通常では慈愛に満ちた表情で描かれるマリアがこの絵画では厳しい顔をして描かれているのは、もともとの祭壇画では中央にキリスト磔刑画が描かれていたことを反映しているためではないかとしている』。(以上はウィキの「システィーナの聖母」に拠った)。

「ヒルシユガツセの決鬪」原文“les duels de la Hirschgasse”。ハイデルベルク(Heidelberg)にあるヒルシュガッセの森は、十九世紀にドイツの大学で盛んに行われた、「学生決闘」などと訳される、一種の学生の通過儀礼的な疑似決闘行為である「メンズーア」(ドイツ語:Mensur)の決闘場所としてすこぶる有名であった。ウィキの「メンズーア」によれば、『決闘の方法は、二人の参加者が剣を持ち合い、フェンシングのようなスタイルで戦うというものである。当事者の片方に一定の負傷、流血が認められれば、決闘は終了となる。決闘の際には、審判を務める学生および医学の講師が立ち会う。決闘は規律に則って行われるが、あくまでも学生の通過儀礼あるいは喧嘩の延長のようなものだとみなされており、スポーツだと考えられることは少ない。また、体育の授業とは異なり、大学は医務室を開放するほかは積極的に関与していない』。『メンズーアは、学生同士の口論や暴力を発端として開始された。誰かと決闘したい、または上級生から決闘を命じられているが自分から喧嘩を仕掛けるのが憚られる場合には』、“Du bist ein dummer Junge!”(ドイツ語:「この馬鹿たれ小僧!」)『という合言葉を掛けることにより、申し込みをしたものとみなされた』。一八五〇年代に『なると、体力的に等しい者が平等に戦えるよう、学生団体同士で参加者を斡旋し合う制度が生まれてきた。また、大学によっては、あらかじめ複数の学生団体の幹部が協議を重ね、面識も反目の経験もない互いの構成員同士を決闘させる、一種の腕試しのようなことも行われた』。『一人の学生が在学中にメンズーアを経験する回数は』決闘しない者から、多い者では三十回から五十回ほどで』、フリードリヒ・バクマイステル(Friedrich Bacmeister 一八四〇年~一八八六年:同人のドイツ語版ウィキで確認)という学生は、実に在学中、百回もの『学生決闘を成し遂げたことで歴史に名を遺している。メンズーアに参加するか否かは当事者の意思に委ねられたが、郷友会やサークルの上級生によって無理やり参加させられる例もあったという。特に郷友会は、新入生に対して最低でも』一回は『メンズーアを経験する義務を課しているところが多かった。カトリックの学生団や文芸サークルなど、決闘とは縁の薄い団体は、しばしば価値の劣る存在だとみなされた。学生時代に幾度もメンズーアを経験した者は、軍隊において優遇され、早期に昇進することができた』とある。

哲學者の小徑」ハイデルベルク城の対岸に当たる河畔からハイリゲンベルク(Heiligenberg)山(聖人山)をやや上ったところをハイデルベルク旧市街アルトシュタット(Altstadt)を望みながら通る散歩道。後期ロマン派のドイツの小説家で詩人のヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ(Joseph von Eichendorff 一七八八年~一八五七年)はこの道からハイデルベルクを眺めながら、新しい作品のインスピレーションを得たと言われる。二十数年前、私もたった一度だけ歩いたことがあるが、忘れ難い素敵な小道であった。

「馬槽」そのままでは「うまぶね」であるが「かいばおけ」と当て読みしたい。馬の飼料を入れる桶 ・飼い葉桶・秣(まぐさ)入れのことである。

「乳香」「にゆうかう(にゅうこう)」はムクロジ目カンラン(橄欖)科ボスウェリア属のボスウェリア・カルテリィ Boswellia carterii などの同属の北アフリカ原産の常緑高木から採取される樹脂。芳香があり、古代エジプト以来、薫香料として用いられた。

「沒藥」「もつやく」も同じくカンラン科の低木コミュフォラ(ミルラノキ)属コミフォラ(ミルラ) Commiphora abyssinica から採取されるゴム樹脂。堅い塊状をなし、黄黒色で臭気が強い。エジプトでミイラ製造の防腐剤や薫香料に用いた。痛み止め・健胃・嗽(うがい)薬などにも利用される。

「ガスパルとバルタザルとメルヒオル」「新約聖書」に於いて、イエスの生誕の際にやって来て、礼拝した東方三博士(はかせ)(個人的には私は「東方三賢人」の方がしっくりくる)の名。ウィキの「東方の三博士」によれば、Casper(カスパール)は没薬に対応し、「将来の受難として死」の象徴で老人の姿で、Melchior(メルキオール)は黄金に対応し、「王権」の象徴で青年の姿で、Balthasar(バルタザール)は乳香に対応し、「神性」の象徴で壮年姿の賢者で描かれるとある。一般にはバルタザールが黒人として描かれるが、地域によってはメルキオールが黒人である場合もある。

「マイダス」原文“Midas”。ギリシア神話に出る、プリュギア(Phrygia:古代アナトリア(現在のトルコ)中西部の地域名)の都市ペシヌス(Pessinus)の王ミダスのこと。触れたもの全てを黄金に変える能力がったことで知られている。

「ケルンの本寺がその殘骸を所持していることを誇りとしてゐる、あの占星家らによつて變質せられた地金」ゴシック様式の建築物としては世界最大を誇るケルン大聖堂(Kölner Dom:正式名「ザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂」(Dom St. Peter und Maria:「聖ペトロとマリア大聖堂」)にある、同聖堂の最も大事な聖遺物とされる、中央祭壇にある東方三博士の頭蓋骨を納めた「柩」のことか。添乗員サイト「新婚旅行~ヨーロッパ|世界遺産を巡る旅」のこちらの記事によれば、三賢人の頭蓋骨は一一六四年にミラノからケルンに齎されたもので、これによってケルン大聖堂はヨーロッパでも最も重要な教会の一つとなったとある。高さ一・五三メートル、幅一・一メートル、長さ二・二メートルの木製で、金細工を施した銀・銅板が張られ、一千個の宝石と真珠、三百以上の準宝石とカメオが取り付けられており、彫刻は「新約聖書」が「旧約聖書」に基づく正当なものであることを示し、全面の中央には幼子イエスを抱いたマリアを礼拝する三賢人の彫刻が施してあって、聖櫃の中に王冠を被った三賢者の頭蓋骨が収められてあるという。私も見たはずなのだが、とんと記憶にない。氷の柱のようにそそり立った聖堂に慄然とした感覚だけが残っているばかりである。

「ヴエネラブル・ベエド」原文“le vénérable Bède”“vénérable”「尊(たっと)い・貴(とうと)い」の意で、これはイングランドのキリスト教聖職者で歴史家でもあった「尊者」ベーダ(BedaBadeBæda 六七二年又は六七三年~七三五年)のことである。ウィキの「ベーダ・ヴェネラビリス」によれば、カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会では聖人とされ、九世紀以降からは「尊敬すべきベーダ」(ラテン語:Beda Venerabilis)と呼ばれる。現代の英語では、名は「Bede」と綴られ「ビード」と発音される。『ベーダは北イングランドの方ノーサンブリアのウェア河口に生まれ、生涯タイン川河口の町ジャローから出ることはなかった。イングランド教会史を齢』五十九歳で『書き終えていると自ら書いており、また校了は』七三一年頃とされる事から彼の生年は六七二年乃至六七三年頃と推定される。『彼が高貴な生まれであったかは分かってはいないが』、七歳で修道院に入り、三十歳で司祭となっている。『ノーサンブリア貴族出身の修道士ベネディクト・ビスコップと彼の後継者チェオフリドにギリシア語とラテン語、詩作、ローマの主唱を学ぶ。古いアイルランド出身の先師たちが築いた伝統により、聖書解釈に進んだ。在世時のベーダの名声も、主として聖書解釈の方面にあった』。『ベーダは多くの著作を残した。その記述は多岐にわたる。ギリシア・ローマの古典はベーダによって初めてイングランドで再生し、スコラ学の先駆者となった。ギリシア・ローマの古典を引用し、天文・気象・物理・音楽・哲学・文法・修辞・数学・医学に関してその時イギリスで集められるかぎりの文献を渉猟した。ベーダが引用した文献はプラトーンやアリストテレス、小セネカ、キケロ、ルクレティウスやオウィディウス、ウェルギリウスなどである。その絶大な勤勉さによって、弟子たちにとっては、ベーダ自身が百科事典の役割を果たしたように思われる』。『今日ベーダの主著として知られるのは』「イングランド教会史」(ラテン語:Historia ecclesiastica gentis Anglorum/英語:Ecclesiastical History of the English People)五巻で、『この書はしばしば彼の名を付して『ベーダ』とのみ呼ばれる。これは現存する最古のイングランドの通史であり、ベーダはイギリス最初の史家として』も知られる。『ベーダはブリタンニアの地理・住民とローマの支配を概括することからはじめ、聖人たちの業績や修道院の歴史を縦糸とし、イングランド各王国の盛衰を横糸として、その間にいくつかの奇跡(火災や難病治療についての)や教会内部の問題をつづり、最後に事件を年代記風に整理して、自己の略歴と著作を記して終わる。このときベーダが模範としたのは、ヨセフスの古代ユダヤを扱った歴史書、またエウセビウスの教会史であった』。この「イングランド教会史」は『イングランド初期のキリスト教の発達についてだけでなく』、七世紀初めから八世紀前半にかけての『信頼すべき史料となっている。ローマ支配下のブリタンニア、カンタベリーのアウグスティヌスの伝道、テオドルス、チャド、ウィルフリッドなど偉大な司教たちの事績や、サクソン人やジュート人の進入、スコットランド・アイルランドの当時の状況について、平易なラテン語で詳細で迫力ある叙述をおこない、文学としても高く評価されている』とある。

「ネツカ河畔」ネッカー(Neckar)川はドイツ中南部の流域を流れるライン川の支流。ハイデルベルク城はネッカー渓谷に建つ。なお、「ネッカー」の名はケルト語由来で「荒れた川」の意である。

「小天使(ケルビム)」(ラテン語 cherub/複数形:cherubin, cherubim)は天使の一種で「智天使」などとも訳される。ウィキの「智天使によれば、天使の九階級では第二位に位置づけられている(但し、出典は偽書)。「旧約聖書」の「創世記」によれば、『主なる神はアダムとエバを追放した後、命の木への道を守らせるためにエデンの園の東に回転する炎の剣とともにケルビムを置いたという。また、契約の箱の上にはこの天使を模した金細工が乗せられている。神の姿を見ることができる(=智:ソフィア)ことから「智天使」という訳語をあてられた』。「旧約聖書」の「エゼキエル書」十章第二十一節によれば、『四つの顔と四つの翼を持ち、その翼の下には人の手のようなものがある。ルネッサンス絵画ではそのまま描写するのではなく、翼を持つ愛らしい赤子の姿で表現されている。これをプット(Putto)という』。『「彼はケルブに乗って飛び、」』(「サムエル記」の下の二十二章十一節)『「主はケルビムの上に座せられる」。』(「詩篇」九十九編第一節)『といった記述があり「神の玉座」「神の乗物」としての一面が見られる』。その『起源はアッシリアの有翼人面獣身の守護者「クリーブ(kurību)」といわれている』。『旧約聖書によるとケルビムの姿は「その中には四つの生き物の姿があった。それは人間のようなもので、それぞれ四つの顔を持ち、四つの翼をおびていた。その顔は人間の顔のようであり、右に獅子の顔、左に牛の顔、後ろに鷲の顔を持っていた。生き物のかたわらには車輪があって、それは車輪の中にもうひとつの車輪があるかのようで、それによってこの生き物はどの方向にも速やかに移動することができた。ケルビムの全身、すなわち背中、両手、翼と車輪には、一面に目がつけられていた(知の象徴)ケルビムの一対の翼は大空にまっすぐ伸びて互いにふれ合い、他の一対の翼が体をおおっていた(体をもっていないから隠しているという)またケルビムにはその翼の下に、人間の手の手の形がみえていた(神の手だという)」とされている』。『なお絵画表現において、セラフィム』(ラテン語:Seraph, Seraphim:先の階級説では最上位の天使とされ、「熾天使(してんし)」などと訳す。三対六枚の翼を持ち、二つで頭を、二つで体を隠し、残り二つの翼で羽ばたく。「熾」(やく)はヤハウェへの愛と情熱で体が燃えていることに由来する)『と混同されて描かれているものもある』とある。

「ああ、あいつら精力的な動物どもの知つてゐた返事といつたら、唯、しやがれた獨逸語の肯定詞だけだつたのだ。」原文は“Hélas ! ces énergiques animaux ne savent qu’une réponse : la rauque affirmation. germanique.”で、青土社刊「アポリネール全集」の窪田般彌氏の訳では、『ああ! あの元気のいい動物ときたら、たった一つの返事しかできないんだからな。「ヤア」というドイツ語のしゃがれた肯定語を繰り返すだけさ。』と訳しておられ、腑に落ちる。

「彼の發作が彼を餘儀なく隱れ家のなかへ閉じ込めさせてゐることを、」原文では“puis ses fureurs qui l’avaient fait interner dans un asile,”の箇所だが、このアジール(asile)はある種の収容所・保護施設、ここでなら、精神病院のことであろう。同前の窪田般彌氏の訳でも、『狂乱状態のかれをさる精神病院に軟禁したが、』と訳しておられ、やはり腑に落ちる。

――リンゲル、リンゲル、ライエ。(踊れ、踊れ、輪になつて踊れ。)さようなら、イルゼ、永久に。さようなら、お前の德義に適つた諸罪よ、お前より美しくはなかつたお前の諸德よ。さようなら、イルゼ、永久に。」ここは原文の響きが実に哀しく美しい。以下に掲げる。

 « Ringel, Ringel, Reihe. Adieu, Ilse, pour toujours. Adieu, tes péchés vertueux et tes vertus moins belles que toi. Adieu, pour toujours. »”

「軍笛(ファイフ)」原文“les fifres”“fifre”は横笛。]

味方同士の喧嘩   梅崎春生

 去る二十三日、全学連の主流派が日共本部に押しかけ、四人の負傷者が出るという騒ぎがおこった。

 新聞の報道では、「樺美智子さんの死は全学連主流派の冒険主義にも責任がある」と「アカハタ」紙が主張し、それに対する抗議のデモだそうである。

 その「アカハタ」の記事を読んでないから、どういう書き方で主張したのか、またデモの現場も見ていないから、それに対して全学連主流派がどんな反応を示したのか、私は知らない。そう深く知りたいとも思わない。

 その後日共書記長は記者会見をして、「全学連指導部は反ソ反共主義者であるとともに、反革命挑発者集団、アメリカ帝国主義者の手先である」ときめつけた。手先というのは、アメリカの命令を受けて働いているというのではなく、その言動がアメリカを利するというほどの意味だろう。

 そうすると、そうきめつけることも、アメリカを利することになりはしないか。両方で手先呼ばわりをして、果てしなき泥沼に沈んで行く。泥仕合と言うべきだと思う。

 全学連は千駄ヶ谷のバス通りまで追い出され、そこで坐り込んで、抗議集会を始めた。日共側の労組員が、

「おれたちの方が闘争歴は長いんだぞ」

 と叫ぶと、学生側が、

「さきに生れていりゃあたり前じゃないか」

 と、やり返したというくだりを読み、思わず失笑してしまった。労組員の言い分はあたり前で、しかも可笑(おか)しいし、学生側の言い分も当然で、しかも可笑しい。笑ってすむことではないと思うけれども、やはり笑いが浮んで来て、とめどがなかった。

 こんな内輪もめ(当事者に言わせると、内輪もめでなく、公然の敵だと言うかも知れないが)は、案外に根深くて、かんたんに片がつかないものである。よほど強力な第三勢力が出たって、泥試合は解消しそうにもない。

 なにしろ、行きがかりというのが強く作用していて、しかもそれが累積していて、どうにもならないのである。

 どうも人間は、遠くにある敵よりも、近くにある味方を、時として憎み合う傾向があるらしい。

 この前の戦争でも、陸軍と海軍がとかくいがみ合っていて、いやがらせをし合った。もちろん陸海の緊密な協同ということもあっただろうが、逆の場合も多かった。

 極端な例になると、陸軍が米軍にやっつけられると海軍がよろこび、海軍がやっつけられると陸軍が手を打ってよろこんだ、という話もないではなかった。

 行きがかりというものが、感情を倒錯させて、大いなる敵を見失わせてしまうのである。

 私も戦争末期海軍の一兵士であった時に、班長からきびしく申し渡された。

「上陸して陸さんに会った時、将校には敬礼してもいいが、下士官兵には敬礼する必要はないぞ!」

 私自身は陸軍とはり合う気持はなかったから、今でもこの申し渡しは理不尽なものだと思っている。相手は陸軍でなく、アメリカ軍じゃなかったのか。

 その当のアメリカでも、陸海は兄弟の如く仲がよかった、というわけには行かなかったらしい。

 社会党と民社党の間も、そんな傾向があるし、自民党の主流派と反主流派にも、その関係が成立している。どうせ宿命であるからには、遅く分裂した方が得である。ということは、先に分裂していがみ合った方が損である。

 しかし、どっちにしても、そんないがみ合いを見るのは、たいへん陰湿でうっとうしい話だ。スポーツを眺めている方が、さっぱりしていい。

 スポーツというやつは、時には多少の八百長はあるものらしいが、試合場に臨んで敵を前にして、味方同士で分裂することは、先ずあり得ないようだ。

 ラグビーだの野球だのが、味方の中で分裂していがみ合い始めたら、もうこれは収拾がつかない。大負けに負けるだろうし、観客は怒るだろうし、勝負そのものが成立しなくなるだろう。やはり団結して事に当ることが、スポーツとしての最低の条件である。

 では、相撲などの個人スポーツはどうなるか。これは個人だから、分裂しようにもしようがない。いや、時には分裂しないこともないが、分裂した場合にその人は、精神病院行きということにこの世の約束はなっている。精神分裂病者はスポーツはやれない。

 近頃は相撲の方も若手が進出して来て、テレビを見るのがたのしみになった。さっきの労組員対学生の言い分ではないが、古手の力士が、

「おれたちの方が相撲歴は長いんだぞ」

 と叫び、若手の方が、

「さきに生れていりゃ、あたり前じゃないか」

 とやり返すことはあり得ない。そんな議論をする前に、むずと取組んで見ればはっきりすることなので、だから力士は黙々として組み、行司がかざす軍配には「天下素平」と書いてある。物ごとがはっきりすれば、すなわち天下は泰平ということになるのであろう。

 相撲のような単純な原始的な競技と、複雑な人間生活とを、ひとしなみに論ずるつもりは毛頭ないが、今の天下がもう泰平でないのは、物ごとにけじめをつけないでおこう、蒙昧(もうまい)のままにしておこうというような考え方が、一部にはびこっているせいなのである。

 だから怒れる若者たちは、まなじりを吊り上げて、それらの勢力に突進して行くのだ。相撲の世界なら、若さはすなわち強みであって、いくら相撲歴が古くても、体力が衰えれば引き退らざるを得ないが、現実社会はそうかんたんには行かない。

 同じ勝負ごとでも、碁とか将棋とは少々事情が違う。大山名人は若武者加藤一二三八段の挑戦を、四対一という圧倒的な成績でしりぞけて、名人位を確保した。

 テレビの「春夏秋冬」という番組を見ていたら、大山名人が出て来て「加藤八段はまだ若いから、やはり名人位を意識し過ぎて、こちこちになっていた」という意味のことを発言していた。

 ここでは加藤八段の若さ、勝負歴の浅さが、マイナスに働いたと言うことが出来る。

 碁の方でも高川本因坊が、若い藤沢秀行八段を四対二で降し、本因坊を確保した。これは九期連続というたいへんな偉業で、なみたいていなことではない。

 高川本因坊という棋士はふしぎな人物で、本因坊戦になると俄然強くなって取りこぼしがなく、たいてい相手の方があたふたとして取りこぼして負けてしまう。

 だから、高川本因坊は本因坊戦ばかりに力を入れてずるい、あれは狸(たぬき)だとの説も一時横行したが、その狸説も近頃消滅した。やはり実力を認めざるを得なくなったのである。

 実力もないくせに、ごり押しに次ぐごり押しで、政権にしがみつこうとするような輩とは、根本的に違うのだ。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第十四回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年七月十七日号掲載分。

「精神分裂病」現在は差別病名として「統合失調症」と名称が変わっている。

「引き退らざる」「ひきしさらざる」と訓じていよう。「しさる」は後退するの古語で「しざる」とも濁る。「後(し)り去(さ)る」の意からとも言う。

「大山名人」将棋棋士十五世名人大山康晴(大正一二(一九二三)年~平成四(一九九二)年)。岡山県浅口(あさぐち)郡河内町(こううちちょう)西阿知(にしあち)(現在の倉敷市内)生まれ。公式タイトル獲得八十期(歴代二位)・一般棋戦優勝四十四回(歴代一位)、通算千四百三十三勝(歴代一位)等の記録を持つ。他に永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将という五つの永世称号を保持する(ウィキの「大山康晴」に拠る)。

日本将棋連盟会長でもあった。

「加藤一二三」(ひふみ 昭和一五(一九四〇)年~)は福岡県嘉穂(かほ)郡稲築(いなつき)村(現在の嘉麻市内)生まれの将棋棋士。二〇一六年現在、現役最年長の棋界最古参で、戦前生まれの名人経験者最後の存命者である。「神武以来の天才」の異名を持つ(ウィキの「加藤一二三」に拠る)。

「高川本因坊」囲碁棋士本因坊戦九連覇の名人で二十二世本因坊(昭和になって創設された囲碁の棋戦の一つである「本因坊戦」に優勝した棋士に贈られるタイトル)秀格(しゅうかく)。本名は高川格(たかがわかく 大正四(一九一五)年~昭和六一(一九八六)年)。和歌山市生まれ。二十二世本因坊九段(ウィキの「高川格」に拠る)。

「藤沢秀行」(ひでゆき/しゅうこう 大正一四(一九二五)年~平成二一(二〇〇九)年)は横浜生まれの囲碁棋士。名誉棋聖九段(ウィキの「藤沢秀行」に拠る)。]

2016/07/10

安倍は「非国民」であり「売国奴」である

護憲を表明している現天皇を安倍が無視しているのは「天誅」に値する。自民党を始めとする保守主義者や右翼は何故、それを指弾し、直截行動に移さないのか? 彼は「非国民」「売国奴」である。彼によって日本が滅びるのは言を俟たぬ。これは政治思想以前の誰にでも判る民衆の「怒り」そのものである。

あの梢に 小さな巣箱をかけて

あの梢に 小さな巣箱をかけて そこにささやかな小鳥の家族がやってきて 子が生まれ 巣立つのを 二人して見上げて見たかった 僕が望んだのは多分 それだけのことだったのだけれど それは でも 「それだけのこと」だったのか それは でも 「それだけのこと」ではないと僕は今も思っている

死後の許嫁   アポリネエル 堀辰雄譯

[やぶちゃん注:ギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire 一八八〇年~一九一八年)の短篇小説La fiancée posthume(一九一一年)の堀辰雄による全訳である。二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」の解題によれば、初出は雑誌『若草』(昭和八(一九三三)年七月号)である。

 底本は昭和一一(一九三六)年山本書店刊の堀辰雄の訳詩集「アムステルダムの水夫」を、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認した。

 老婆心乍ら、題名の「許嫁」は「いひなづけ(いいなずけ)」と訓ずる。フィアンセ。] 

 

   死後の許嫁 

 

 ヨオロツパを旅行中であつた或る若い霹西亞人がカンヌヘ冬を過ごしに行つた。彼は、季節(シーズン)の間だけ外國人相手に佛蘭西語を敎へてゐる、或る敎師の家に下宿をした。

 この敎師は、五十がらみの男で、ミュスカァドと云ふ苗字であつた。彼は地味な身裝(なり)をしてゐたので、もし彼がいつも蒜(にんにく)の臭ひをさせてゐなかつたならば、何處へ行つても彼は人目につかなかつたにちがひない。

 ミュスカァド夫人は三十八から四十ぐらいの年だつたが、どう見ても三十から三十二ぐらゐにしか見えぬ、溫順(おとな)しい婦人だつた、かの女は金髮(ブロンド)で、肌は生き生きとしてゐたし、胴もすらりとしてゐた、が、その胸部と腰とはちよつと突き出てゐた。しかし、そのうちには微塵も挑發的なところはなかつた。そしてかの女は悲しげに見えるのだつた。

 若い露西亞人はかの女に目をつけた。そしてかの女を綺麗だなあと思つた。

 ミュスカァド夫妻はシュケェ海岸に臨んだ、小さなヴィラに住んでゐた。其處からは海の上にレランの諸島が見え、夏ならば、日の暮れ方になると、裸のしなやかな子供たちの遊び戯れる、長い沙濱が見えるのであった。ヴィラはミモザや菖蒲や薔薇や大きなユウカリプタスなどの植わつてゐる庭をもつてゐた。

 ミュスカァド家の間借人は散步をしたり、煙草をのんだり、讀書をしたりして冬中を過ごした。彼は町に一ぱい居る可愛らしい少女たちも見なければ、美しい外國婦人たちも見なかった。彼の目は海岸の砂の上だの、往來の地面の上だの、又は壁の上だの、いたるところにキラキラしてゐる雲母のきらめきしか見ないのだった。そして彼の想ひは、海の方から吹いてくる風に押されるままになって步いてゐる間、すつかりミュスカァド夫人の上にあつた。しかしその戀は甘く、うつとりとしたものではあつたが、決して熱情的なものではなかつた。彼はそれを打明けようとはしなかつた。

       *
     *
       *

 ユウカリプタスは香りのよい細かい毛で地面を埋めた。それは庭の小徑をすつかり埋めて、雲母のかけらを消してしまつてゐるほど、そこには澤山落ちた。そしてミモザはいい匂のする花をひとつ殘らず燃え立たせた。

 或る夕方、窓をすつかり開け放した部屋のなかの薄くらがりで、ミュスカァド夫人がランプをつけているのを若者は見たのであつた。かの女の動作は緩やかであつた。そしてその影繪(シルエット)はいかにも淑やかで、それでゐて何處か投げやりなところがあるやうに見えた。若者は思つた、「もう我慢がならない。」そしてかの女に近づいて行きながら、彼は言つたのである。

「マダム・ミュスカァド、なんといふ素晴らしい苗字でせうね! まるで呼名みたいですね。‥‥ほんたうにこの苗字は、東洋の太陽のやうにかがやかしい毛髮をなさつてゐる貴女にはよくお似合ひです。あの肉豆蔲(ミュスカァド)のなかでも一番いい匂のする實のやうにいい匂のする貴女には。‥‥鳩がそれを嚥み込んでは元のまんま排泄する、あのミュスカァドの實のことですよ。‥‥いい匂のするすべてのものは貴女の匂がします。そして貴女はあらゆる氣持のいいものの持つてゐる味がするのにちがひありません。私は貴女を愛してゐます、マダム・ミュスカァド!」

 

 ミュスカァド夫人はしかし、怒つたような樣子もしなければ、嬉しさうな樣子もせず、ただ全く無感動のやうに見えた。さうして窓から彼の方をちらりと一目見たきりで、部屋を去つて行つた。

 若者は一瞬間ぽかんとしてゐた。やがて彼は笑ひ出したくなつた。それから彼はシガレットに火をつけて外へ出て行つた。

 五時頃、彼は歸つてきた。さうしてヴィラの栅にミュスカァド夫妻が凭りかかつてゐるのを認めた。夫妻の方でも若者を認めると、人氣のない往來の方に二人して出てきた。ミュスカァド夫人はヴィラの栅を閉めてから、かの女の夫のそばに寄り添つた。かの女の夫が言つた。

 ――あなたにちよつとお話したいことがあるんですが‥‥

 ――往來でですか? 若者が訊いた。 

 

 さうして彼はミュスカァド夫人の方を見つめた。かの女は落着き拂つて、身じろぎもしないのだつた。

 ――そうです、往來で、とミュスカァド氏は答へた。 

 

 さうして彼は話し出した。‥‥

「あなた、どうぞ私の話を、――いや、これはまたマダム・ミュスカァドの話でもありますから、私達の話と云うべきでせう、――まあ、どうぞ最後までお聞きになつて下さい。

「私はいま五十三になります、そしてマダム・ミュスカァドは丁度四十になります。私ども、私と妻が、結婚いたしましたのは今から二十年前です。妻はダンスの敎師の娘でした。私は孤兒でしたが、私の生活狀態は世帶をもつのに必要な位の餘裕はあつたのです。私たちは戀愛結婚をいたしました。

「御覽のとほり、妻はいまだに綺麗で、ちよいと惚れ惚れいたす位でございませう。しかし、もしもその當時、これがどんな繪にだつて描いてないような色をした毛髮を編んで結つてゐるところを御覽になつたのでしたら! それもみんな昔のことです、あなた、そしてこれの毛髮は、今じゃ、お誓ひしてもよろしいが、これが十七位だつたときの面影はまるで無くなつてしまひました。その頃は、この毛髮と云つたら、まるで蜜のやうでした。さもなくば、それが月かそれとも太陽のどちらに似てゐるかを決めるのに、ほとほと困つたものでした。

「私は妻を熱愛しました。そして妻の方でもまた(敢えて保證しますが)私を愛してくれました。そして私たちは結婚いたしました。それは限りのない喜び、ありとあらゆる感覺の法悅、夢にも似た幸福、幻滅のない夢でした。私の仕事はますます繁昌し、私たちの夢は續きました。」

       *

     *

       *

「それから數年經つと、すでにかくも一杯な私たちの幸福の盃をもつともつと一杯にすることが神樣のお氣に召しました。マダム・ミュスカァドは私を可愛らしい女の子の父親にさせて吳れました。神樣がその女の子を私たちに下さいましたものですから、テオドリィヌと云ふ名前をつけてやりました。マダム・ミュスカァドはその赤ん坊を自分の乳で育てたがりました。そして私はこの天使のやうなベビイの美しい乳母を愛することによつてどんなに餘計幸福になつたことでしよう。ああ、夜になつて、ランプの下で、赤ん坊に乳を飮ませてから、マダム・ミュスカァドがそいつの着物をぬがせてやるときは、何といふチャァミングな光景だつたでせう! 私たちの唇はその赤ん坊の、やはらかな、艷のよい、匂のする身體の上で、しばしば出會ふのでした。そして私たちの愉しい接吻は、その可愛らしいお尻だの、小さな足だの、むつくりした股だの、いたるところの上で音を立てました。そして私たちはいろんな愛稱を見つけました。小さな魔女、私の目の眸、鼬、貂(てん)、等々‥‥

「それから最初の步行、最初の言葉、そしてそれから、あゝ! かの女は五つの時に死んでしまひました。

「私はいまだに、小さな寢臺の上に、小さな殉敎者のやうに美しく死んでゐるかの女の姿が目にちらついてなりません。私はかの女の小さな棺をはつきり覺えてゐます。私たちはかの女を奪ひ去られました。そしてあらゆる喜び、あらゆる幸福を失つてしまひました。私たちは、私たちのテオドリィヌがいまなほ生き續けてゐる天國にでも行かなければ、もうそれらのものを見出す譯には行かないのです。」

       *

     *

       *

「かの女の死んだ日、私たちの心は急に老ひ込んでしまつたやうに感じられました。そして私たちには最早この世には何一つ面白いものがなくなりました。しかし、私たちは死なうとは思ひませんでした。私たちの生活は悲しくこそありましたが、氣持のよいくらゐ、それは靜かな生活でした。

「どうしても私たちを離れない悲しみ、そして私たちが娘のことを話し合ふ度每に私たちを泣かせずにはおかなかつた悲しみも次第に薄らいで行くうちに、數年が過ぎました。

「ときどき私たちは娘のことを話し合ひました。

「――あれが生きてゐたら十二になるんだがね、最初の聖體拜領(コミュニョン)の年だよ‥‥」

「そして或る時なぞは私たちは燒香の絶えない墓地の中のかの女の墓のかたわらで一日中泣き暮らしました。

「――あれが生きてゐたら今日で十五になるんだがなあ、そして多分もうとつくの昔に結婚を申込まれてゐるだらうに。」

 

「そんなことを言つたのは私でした、もう二年前のことです。私の妻は悲しげに微笑をしました。私たちは同じやうなことを考へてゐたのでした。翌日、私たちは貼札を出しました。「獨身者に部屋をお貸し致したし。」そして私たちは大ぜいの若い方たちに部屋をお貸ししました。イギリス人を二三人、デンマアク人とルウマニア人とを一人宛‥‥そして私たちは考へるのでした。

「――あれはもう十六になるんだよ。どうだろうね? 私たちの間借人はあれに氣に入つてゐるだろうかしら?」

       *

     *

       *

「それからあなたが來ました。そして私たちはときどき考へました。

「――テオドリィヌは十七になるんだよ。さうして若しまだ結婚してゐなかつたら、あれには屹度、この氣のやさしい、教育のある、すべての點であれに似つかはしい、この靑年が氣に入つただらうになあ‥‥」

「あなたは感動してゐますね、私にはそれがよく分ります。あなたはほんたうに好いお方で‥‥ 

 

「いや、いや、あゝ、私は間違つてゐます。あなたが今日の午後なさろうとしたことは、殆んど罪惡にも等しいことです。何故つて、本當のことを云ひますと、マダム・ミュスカァドが私にすつかり打明けてしまつたからです。あなたはこの立派な女の心をかきみだしました。私の心をかきみだしました。さうして、もうこんなことが起つてしまつた上は、あなたを私の家へお入れすることの出來ぬことぐらいはあなた御自身でもお解りだらうと思ひます。ごらんなさい、柵は閉つてゐます、これで何もかもお仕舞ひです。もう二度と私の庭をお通り下さいますな。あなたはそれを禁斷の快樂の庭だとお考へになつた、そしてそのお考へがあなたをそこからいま追ひ出すのです。

「あなたはもう、母親がその息子を愛するやうにあなたを愛してゐたこの女にひどく悲しい思ひをさせた、この靜かな家の中へ這入らうとなさいますな。ああ、私はどんなにあなたを何時までも私の家に置いておきたかつたことでせう! が、あなたもお解りでせうが、あなたがたとへそれを御承諾なさつても、もうそれは不可能なことです。もう何もかもお仕舞ひなのです。今夜はあなたはホテルにお泊りなさい。そしてあなたが何處へお泊りになつたかを私のところへお知らせ下さい。私はあなたの荷物をお屆けいたします、さようなら、ムッシウ。さあ、おいで。マダム・ミュスカァド、日が暮れるよ。さようなら、ムッシウ、お達者で、さようなら。」 

 

[やぶちゃん注:複数の「さようなら」の表記はママ。「影繪(シルエット)」のルビは本文内の外来語の拗音表記から拗音化し、二度目に出る娘の名も二箇所とも「テオドリイヌ」であるが、最初の表記と統一して拗音化した。「聖體拜領(コミュニョン)」のルビも「コミユニヨン」であるが同様に処理した。

「シュケェ海岸」原文“côté du Suquet”。フランス南東部の地中海に面したカンヌ(Cannes)市街の西側のシュヴァリエ山一帯に広がる旧市街の海浜地区。旧港の東側をカバーする地域で、現行では「ラ・シュケ」と表記される。

「レランの諸島」原文“les îles de Lérins”。カンヌ沖合のレランス諸島。サン=トノラ島(Île Saint-Honorat)、サント=マルグリット島(Île Sainte-Marguerite)、サン=フェレオル島(Îlot Saint-Ferréol)、ラ・トラドリエール島(Îlot de la Tradelière)から成る。

「ユウカリプタス」原文“eucalyptus”。オーストラリアの原産のフトモモ目フトモモ科ユーカリ属 Eucalyptus の仲間。多様な品種を持つ。

「肉豆蔲(ミュスカァド)」原文“noix muscades”“Noix de muscade”で、実が生薬(肉荳蔲(にくずく))やスパイス(「ナツメグ」)として知られる、モクレン亜綱モクレン目ニクズク科ニクズク(ミリスティカ・肉荳蔲・肉豆蒄)属 Myristica のこと(属名はギリシャ語で「香油」を意味する「ミュリスティコス(myristicos)」に由来)。元来は熱帯性常緑高木。代表種はナツメグ Myristica fragrans。香辛料としては独特の甘い芳香と辛味と苦味を有する。ここの主人の姓も全く同じ綴りである。

「聖體拜領(コミュニョン)」原文“communion”。カトリック教会に於いてキリストの体と血となったパンと葡萄酒に身に授かること。]

アムステルダムの水夫   アポリネエル 堀辰雄譯

[やぶちゃん注:ローマで私生児として生まれ、フランスで詩人・小説家・美術評論家として活躍、「surréalisme」という単語の生みの親ともされるギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire 一八八〇年~一九一八年:母はポーランド貴族の血を引く。父親は現在、スイスの名家出身のシチリア王国退役軍人とほぼ確実視されている。以上の事蹟は所持する一九七九年青土社刊「アポリネール全集」の年譜に従った)の短篇小説Le matelot d'Amsterdam(一九〇七年)の堀辰雄による全訳である。二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」の解題によれば、初出は雑誌『辻馬車』(昭和二(一九二七)年一月号)である。

 底本は昭和一一(一九三六)年山本書店刊の堀辰雄の訳詩集「アムステルダムの水夫」を、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認した。]

 

 

   アムステルダムの水夫

 

 オランダの帆船、アルクマアル丸は、香料や其他の高價な物品を滿載して、ジヤバから歸つてきた。

 船がサザムプトンに寄港すると、水夫たちは上陸することを許された。

 彼等の一人のへンドリク・ウエルステイグは、左の肩には猿を、右の肩には鸚鵡をのせてゐた。その上、印度の織物の包を負ひ革で背負つてゐた。彼は町でそれをその動物らと一しよに賣らうと思つてゐたのである。

 春のはじめ頃だつたので、早くからもう日が暮れた。ヘンドリク・ウエルステイグは瓦斯の光がわづかに照らしてゐる、霧のすこし下りた町を足輕に步いていつた。水夫はもうぢきアムステルダムヘ歸れることや、もう三年以上も會はない母のことや、モニケムダムで彼を待ちわびてゐる許嫁のことなぞを、考えてゐたのである。さうして彼は彼の動物と織物から得られる金を計算しながら、それらのエキゾチツクな品物を賣ることの出來さうな商店を探してゐたのである。

 するとアバブ・バア街の中で、一人の立派な洋服を着た紳士が彼に近づいて來た。その紳士は彼に鸚鵡の買手を探してゐるのかと訊いて、それから言つた。

「この鳥は私に丁度いい、私は誰か、私がそれに答へないでゐても、私に話しかけてくれるものを欲しいと思つてゐたのだ。私はまつたく一人暮らしなのだ。」

 ヘンドリク・ウエルステイグは、オランダの水夫の大部分のやうに、英語を話した。彼はその知らない男にふさはしいやうな値段を言つた。

 するとその知らない男は言つた。

「ぢやあ、私と一しよに來てくれたまへ。すこし遠くの方に住んでゐるのだが。さうして君の手で、その鸚鵡を、私のうちにある籠に入れてくれたまへ。それにたぶん、君がその包を開けて見せてくれたら、私の好みに合ふものがあるかもしれない。」

 こいつはお誂向きだと大層喜んで、ヘンドリク・ウエルステイグはその紳士に引張られて行つた。途々、彼は、これもーしよに賣つてしまひたいと思つたので、その紳士に自分の猿の自慢をした。これはごく珍らしい種のもので、イギリスの氣候には一ばんよく耐へるし、自分の主人には大へんよくなじむ、さう彼は言つたのである。

 けれども、すぐ、ヘンドリク・ウエルステイグは話すのを止めてしまつた。彼は彼の言葉をまつたく無駄に費してゐたからである。と言ふのは、その知らない男は彼に答へぬばかりではない。もう聞いてさへも居ないやうに思はれたのだ。

 二人は並びながら默つて道をつづけて行つた。ただ、ときどき、故郷の森をなつかしむやうに熱帶の方を向きながら、猿が、霧を怖がつて、生れたばかりの赤ん坊の泣聲に似た小さな叫びを發したり、鸚鵡が羽ばたきをしたりしてゐた。

 その知らない男が突然に口をきいたのは、それから一時間ばかり步いた後だつた。

「もうすぐ私の家だ。」

 二人は郊外へ入つて行つた。道は大きな園でふちどられたり、柵で圍はれたりしてゐた。ときどき小屋の明るい窓が、立木をよぎりながら、かがやいてゐた。さうして、遠くの、海の方からは、汽笛の不吉な叫びがときたま聞えてきた。

 その知らない男は一つの柵の前に立止ると、衣囊から鍵の小束を出して門を開けた。さうしてヘンドリクが中へ這入つてしまふと、彼はそれを閉めてしまつた。

 水夫はすこし變な氣がした。彼は、庭の奧の方に、非常に恰好のいい小さな別莊を、漸つと認めることが出來たが、その閉つてゐる鎧扉は内側からすこしの光をも洩らしてはゐないのである。

 この無口の知らない男といひ、この死んだやうな家といひ、すべてが彼を非常に氣味惡がらせた。だが、ヘンドリクはふと、この知らない男が一人住ひをしてゐることを思ひ出した。

「この人は變り者なんだらう。」さう彼は考へた。そしてオランダの水夫なんぞは、追剝が目的でこんな家へ引つぱり込まれるほどの金持ではないので、彼はその一瞬間の不安を寧ろ羞しいものにさへ思つたのであつた。

 

       *

     *

       *

 

「マツチを持つてゐたら一寸つけてくれたまへ。」

 さう、その知らない男は、小屋の門を閉めるため、その錠のなかへ鍵をつつこみながら言つた。

 水夫は言はれる通りにした。さうして二人が家のなかへ入つてしまふと、その知らない男はランプを何處からか持つてきた。ランプはすぐ、好い趣味で飾られた客間を照らしたのである。

 ヘンドリク・ウエルステイグはまつたく安心した。そして彼はこの奇妙な同伴者が自分の織物をどつさり買つて呉れるやうな期待さへも持ちはじめだした。

 客間から出ていつたその知らない男は、籠を持つて、再び歸つてきた。彼は言つた。

「君の鸚鵡をこの中へ入れて呉れたまへ。私がそれを仕込んで、私の言つて貰ひたいことをこれが言ふやうになるまでは、私はこの鳥を止り木の上へ置いてやらないのだ。」

 それから、そんな中に入れられて鳥がびつくりしてゐる籠を閉めてしまふと、彼は水夫にランプを持つて隣りの部屋へ行くやうにと乞うた。そこには織物をひろげるのに便利なテイブルがあるのだとふのである。

 そこでヘンドリク・ウエルスティグは自分に指定された部屋の中へ、言はれる通りに入つていつた。すると突然、彼は自分のうしろのドアが閉められて、鍵がまはされるのを聞いた。彼はとりこにされてしまつたのだ。

 狼狽しながら、彼はランプを机の上に置いて、ドアを破るため、それに飛びかからうとした。そのとき一つの聲が彼を止めた。

「一足でも動くと、貴樣の命はないぞ!

 顏をあげたへンドリクは、そのとき始めて氣のついた明り窓ごしに、彼の上ヘピストルが向けられてゐるのを見たのである。ぎよつとして彼は立ち止まつた。

 抵抗は不可能であつた。彼の短刀は、かういふ狀況では、彼を助けることは出來なかつたし、それにピストルがあつたつて無駄だつたのである。もうすつかり彼をわが物にしてしまつた、その知らない男は、明り窓のところの壁のうしろに身をかくして、そこから水夫を監視してゐた。そしてそこから出てゐるのは、ただピストルを向けてゐる彼の手だけだつた。

 その知らない男が言つた。

「おれの言ふことをよく聞いて、おれに言はれた通りにしろ。もしお前がさうしたら、おれはお前に報酬をやる。だがお前は選んではいけない。躊躇しないでおれの言ふ通りにしなければいけないのだ。でないと、おれはお前を犬のやうに殺してしまふだらう。さあ、テイブルの抽出しをあけろ。‥‥そこに五發だけ彈丸の入つた、六連發がある‥‥それを取りあげろ。」

 オランダの水夫は、ほとんど無意識に、その通りのことをした。猿は、彼の肩の上で、恐ろしさに叫びながら、震へてゐた。するとその知らない男は續けて言つた。

「部屋の奧にカアテンがあるだらう。それを引きはがすのだ。」

 カアテンは引きはがされた。そこには床の間があつた。そしてへンドリクは見たのであつた、そこのベツドの上に、手と足を縛られて猿ぐつはをはめられた、一人の女が絶望にみちた眼で彼を見つめてゐるのを。

 知らない男は更に言つた。

「その女の繩をといて、猿ぐつはをはづしてやれ。」

 彼は言はれた通りのことをした。するとその若い、何とも云へずに美しい女は、明り窓のそばへ、かう叫びながら跪いた。

「ハリイ、まあ、なんてひどいやり方なの! あなたはあたしを殺すためにこの別莊へ引き込んだのです。あなたはあたし達の和解の最初の時を過すためにこの別莊を借りたのだと言つてゐました。あたしはあなたを説き伏せたのだと信じました。あたしはあなたが私に罪のないことをとうとう確信したのだと思つていました。‥‥ハリイ、ハリイ、あたしには罪はありません。」

「おれはおまへを信じない。」さう男は冷淡に言つた。

「ハリイ、あたしには罪はありません。」若い女はいかにも苦しさうな聲で繰り返した。

「それがおまへの最後の言葉になるだらう。おれはそれをよく記憶しておいてやる。

そしておれは生涯繰り返し繰り返しそれを聞くだらう。といふのは‥‥(そこで男の聲がすこし震へたが、すぐまた元の通りのしつかりした聲になつた。)おれはおまへをまだ愛してゐるからな。たとへ昔ほどはおまへを愛さなくなつてゐようとも。おれはお前を殺してやる。だが、それはこのおれ自身には出來ない。おれはおまへをまだ愛してゐるからな‥‥

 さあ、水夫、おれが十まで數へてしまはないうちに、お前がこの女の頭の中へ彈丸を射ち込まなかつたら、お前はその女の足許に死骸になつてころがつてしまふのだぞ。いいか、一つ、二つ、三つ‥‥」

 さうしてその知らない男が四まで數へてしまはないうちに、ヘンドリクは、跪ゐたまま彼をぢつと見つめてゐる女を、夢中になつて射つた。そのとき女が床の上へ顏を伏せたので、彈丸は額にあたつた。と同時に、明り窓からもピストルが射たれた。それは水夫の右の顳顬にあたつた。水夫はテイブルの上に倒れていつた。その間に、猿は、恐ろしさにとがつた叫びを發しながら、水夫服の中へもぐつていつた。

 

       *

     *

       *

 

 翌日、サザムプトンの郊外の一つの小屋から、異樣な叫びが聞えてくるのを、通行人が聞いて、それを警官に知らせた。すぐに警官はそこへ行つて門を破壞した。

 若い女と水夫の死骸が發見された。

 そのとき不意に、一匹の猿が、主人の水夫服の中から飛び出してきて、警官の一人の首に飛びついた。その猿は警官たちを怖がらせた。そのため警官たちは、猿が數步うしろへさがつたとき、再び近づいて來ない先に、それをピストルで擊ち殺してしまつた。

 裁判は下された。水夫がその女を殺したあとで自殺したことは明白だつた。けれども、その出來事の事情はどうも不可解であつた。二つの死骸の身許はすぐ分つた。さうして、イギリスの貴族の妻のフインガル夫人が、どうしてこんな寂しい田舍家の中にたつた一人で、前日サザムプトンに着いた水夫と一しよにゐたのだらうか、と人々は不審に思つたのである。

 別莊の持主も何等この裁判を明らかにさせるやうな報告を與へることは出來なかつた。小屋は出來事の八日前に借りられたのであつた。借りたのはマンチエスタアのコリンズと稱する男だつたが、その男はどうしても見つからなかつた。そのコリンズと言ふ男は眼鏡をかけて、どうも贋物らしい、長い焦茶色の髭をつけてゐたさうである。

 貴族は大いそぎでロンドンから到着した。彼は自分の妻を尊敬してゐた。そして彼の歎きは見るに堪へないくらゐだつた。彼も、世間のすべての人々と同樣に、この出來事を理解できないのであつた。

 彼は、この出來事以來、世間から隱遁した。彼はケンシントンの自分の家に住んで、啞の下僕と一匹の鸚鵡のほかは、誰も自分のそばへ寄せつけなかつた。さうしてその鸚鵡はたえずかう繰り返してゐたのである。

「ハリイ、あたしには罪がありません。」

 

 

[やぶちゃん字注:第二パートで一ヶ所、主人公の名前の「イ」が「ウエルスティグ」と拗音表記になっているのは底本のママ。

 「カアテンは引きはがされた。そこには床の間があつた。そしてへンドリクは見たのであつた、そこのベツドの上に、手と足を縛られて猿ぐつはをはめられた、一人の女が絶望にみちた眼で彼を見つめてゐるのを。」の「そこのベツドの上に」は。二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」では、「そこの床の間の上に」となっている。「ベツト」がよい。

「ハリイ、まあ、なんてひどいやり方なの!……」という女の台詞の中の「とうとう」はママ。

   *

 「モニケムダム」原文“Monikendam”。正しい綴りは“Monnickendam”。アムステルダムの北東郊外にある小さな港町。

 老婆心乍ら、「顳顬」は「こめかみ」と読む。]

芥川龍之介 手帳2―17

《2-17》

○明科(松本の先) 明科製材所ノ職工新村忠雄(兄善兵エ――村長) 巡査 勳八等白色桐葉章 桂首相(停車場) 爆彈7 fusils 裝塡三個

[やぶちゃん注:非常に具体な設定であるが、作品とはならなかった。

「明科」「あかしな」と読む。現在の長野県安曇野市明科中川手附近。幸徳事件の事実上の首謀者とされ、大逆罪で処刑された十二名の一人でアナーキストの宮下太吉(たきち 明治八(一八七五)年~明治四四(一九一一)年)が同志の新村忠雄(後注参照)とともにここで事前の爆裂弾の実験を行ったとされる。宮下太吉はウィキの「宮下太吉によれば、『山梨県甲府市若松町の出身。実業補習学校卒。東名阪など各地で機械工として働く』。明治四一(一九〇八)年、愛知県知多郡亀崎町(現在の半田市内)の『「亀崎鉄工所」で働いていた頃に秋水の『平民新聞』を読んで社会主義に感化された。平民社の人士と関わるようになり、赤旗事件の後、内山愚童の『無政府共産』を読んで、天皇崇拝を否定する考えを固め、一九〇九年、長野県東筑摩郡中川手村(現・安曇野市)の官立「明科製材所」に移った頃、当地で明治天皇を暗殺するためとして爆裂弾を試作、爆破実験を行ったという』。翌年五月二十五日、『爆発物取締罰則違反の容疑により長野県で逮捕され(明科事件)、宮下は管野スガ、新村忠雄、古河力作の三名と共に天皇暗殺の計画したとされ、官憲はこれをもとにしてフレームアップし、多数が秋水を首領に天皇暗殺を企てたとして幸徳事件(大逆事件)の端緒とした』。『秋水や宮下らは大逆罪で有罪となり』、明治四四(一九一一)年一月二十四日に処刑された。享年三十五であった。「松本・安曇野・塩尻・木曽をカバーする地域新聞 市民タイムス」公式サイト内の臼井吉見安曇野歩くの赤羽康男氏の七十六章「大逆事件の始まり」に、以下のようにある(アラビア数字を漢数字に代えた)。『明治四十二年六月十日、中川手村(現・明科町)の篠ノ井線明科駅に一人の男が降り立った。近くの官営明科製材所に勤めるためで、製材所は長野大林区署の直轄工場として、この秋から操業開始の運びとなっていた』。『男は宮下太吉と言い、甲府生まれの三十三歳。宮下は十六歳のときに郷里を離れ、機械工として技術を磨き、明科製材所には腕を買われて愛知県半田の鉄工場から移って来た。身分は臨時工だが、事実上の職工長だった』。『折り紙付きの社会主義者(無政府主義者)ゆえ、明科入りした当初から県警の徹底した監視下に置かれた。松本警察署は巡査に宮下の行動報告を義務づけたほか、巡査の息子を製材所に雇わせたり、元巡査を製材所の守衛に配した』。『宮下は明科に来る四カ月ほど前、東京巣鴨の平民社で幸徳秋水に会い、ある計画を打ち明けて賛同を得ようとした。しかし、秋水は「いずれ将来は、その必要があるかもしれない」と語るだけで、仲間入りをためらった』。『宮下の計画とは、爆裂弾を製造し、天皇に投げつけて暗殺するという過激なものだった』。『のちの彼の供述調書によると、明治四十年一月ころ、日刊平民新聞を講読以来、社会主義者となり、関係書物を読み尽くした。赤旗事件後は尋常な手段では主義の実現は困難だと思った。そこで、元首で生き神とされる天皇も同じ血の出る人間であることを国民にわからせ、迷信を打ち破るため、爆裂弾で天皇をやっつ ける決心をしたのだという』。『それによって社会主義革命が起きるとはとても思われないが、窮地に追い込まれた宮下ら青年たちはそう考えた』。明治『四十二年十一月三日、明科入りして五カ月ほどたった宮下は爆裂弾の試験を敢行する。この日は天長節(天皇誕生日)で、製材所は休み。彼は慎重に薬品を調合し、石粒二十個を混ぜてブリキの小缶に入れた。夜、山道を東に向かい、会田川の河原で対岸の絶壁を見上げる場所に立ち、岩肌をめがけて爆裂弾を投げつけた。瞬間、青い光を発し、爆風と耳をつんざくばかりの爆音が起きた。宮下は「呼吸が止まり、後ろに倒れんとする」くらいになって、慌てて逃げ帰った』。『この夜は松本で花火が打ち上げられており、爆発音は村人たちに花火の音と勘違いされ、怪しまれなくて済んだようだ。(『松本市史 歴史編Ⅲ近代』)。彼は翌日、成果のほどを現場に見に行こうとも思ったが、警戒してそれっきり近づかなかった』と実景をリアルに再現しておられる。

「新村忠雄」(にいむらただお 明治二〇(一八八七)年~明治四四(一九一一)年)は幸徳事件で処刑された一人で、宮下太吉とともに計画の首謀者ともされる。ウィキの「新村忠雄によれば、長野県埴科(はにしな)郡屋代町(まち)(現在の千曲市内)出身で、『生家は豪農。小学校、補習科一年卒』、『郷里で信仰に疑問を持って無神論者となり』、明治三九(一九〇六)年に『クロポトキンの『無政府主義の哲学』を読んでアナキズムを知った。同じ頃、幸徳秋水と堺利彦の『平民新聞』で社会主義思想にふれてその読者となって、講習会に出るために上京し』ている。その翌年頃から『長野市の「黒潮会」や上田市の「社会主義談話会」等の地方同志と盛んに交流するようになり、「高原文学」を発行。自身を直接行動論者と称した』。『後に友人の紹介で書生として秋水の平民社に住み込むが、赤旗事件などで同社は解散。この復讐の機会をうかがっていた。同志の宮下太吉らと皇太子の暗殺を計画して、爆発物を造る目的で塩酸カリを入手する。宮下が勤めていた明科製材所の近くで爆発実験を行った。しかし新村は予てより警察の尾行をうけていたために露見』、宮下太吉と同時に『長野県の自宅で爆発物取締罰則違反の容疑により逮捕され』宮下太吉らとともに処刑執行された。享年二十三歳であった。『事件を重大視した警察は、宮下太吉、管野スガ、古河力作ら』二十六名が『天皇暗殺の構想を抱いていたと断定したが、実際の暗殺計画は少なくとも当初は皇太子を標的としていて、宮下と新村が中心となって長野県で準備されていた。湯河原町(神奈川県)で湯治をしていた秋水や管野は、計画の具体的な関与はなかった。このため警察によるフレームアップ』として批判されることとなった。

「兄善兵エ――村長」新村忠雄実兄で富農の新村善兵衛(一八八一年~一九二〇年)は宮下に爆薬製造用の薬研(やげん)を貸与した容疑で、炸裂弾用のブリキ缶製造容疑の新田融とともに逮捕されて裁判にかけられたが、大審院判決では大逆罪を承知していたという調書は信用出来ないとして二人には爆発物取締罰則のみが認定された(この二人以外は全員死刑)。善兵衛は懲役八年の判決を受けて、大正四(一九一五)年に出獄している。「村長」とあるが、確認出来なかった。

「勳八等白色桐葉章」(くんはっとうはくしょくとうようしょう)は日本最初の勲章である旭日章(きょくじつしょう:「國家又ハ公共ニ對シ勲績アル者」に与えられる)の最下位。現在は七等とともに廃止されて存在しない。

「桂首相」当時の内閣総理大臣桂太郎(かつら たろう、弘化四(一八四八)年~大正二(一九一三)年)。在職はこの時は第二次で明治四一(一九〇八)年七月~明治四四(一九一一)年八月まで。彼は第一次と第三次で延べ二千八百八十六日に及び、歴代では最長在職期間記録を持つ。

「爆彈7 fusils 裝塡三個」大逆事件で製造され押収された炸裂弾の数は確認出来なかった。「fusil(フュゥーザァル)後の「装塡」から、広義の「小銃」の謂いであるが、彼らの爆裂弾はブリキ缶製でかなり大きいように感じるから、それを三個も装填出来る弾倉を持つ当時の小銃というのは私にはちょっと想像が出来ない。それとも散弾並に小さくしたものか? 識者の御教授を乞う。]

 

○フアウストの序曲を模すべし。

[やぶちゃん注:言わずもがな乍ら、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)の戯曲「ファウスト」(Faust 第一部は一八〇八年、第二部はゲーテの死の翌年の一八三三年に発表)の「天上の序曲」(Prolog im Himmel)。]

 

every manmorarity)の狂言化

               >

○踏繪の話の短篇

[やぶちゃん注:ここはご覧の通り、「>」で繋げてある。しかし編者は後者に「○」を附している。これは編者が前とは繋がらない独立項と認めたものにのみ、附す記号である。「>」があるなら、それは連続した記載ではないのか? 不審極まりない。この「踏繪」という題名はしばしばメモや書簡に出るのであるが、遂に書かれなかった幻しの作品である。思うに比喩的な題ではなく、切支丹物の実際の踏み絵を素材にしたものであったように私には思われ、ちょっとそのシーンを妄想すると、芥川龍之介の文章で読みたかった気がしてくるのである。]

 

○古侍の元祿武士評

[やぶちゃん注:「或日の大石藏之助」は大正六(一九一七)年九月発表なので、手帳の推定記載時期(大正七~八年)より前になるので違う。]

一億総鉄カブト   梅崎春生

 この間からデモ隊と警官隊の衝突、右翼の暴行の様相などを、テレビニュースで何度も何度も見た。

 パチンとスイッチをひねれば、きっとその場面がうつっているから、見ざるを得ないのだ。何も好きこのんでそんな場面ばかりを見たがったわけではない。むしろ私はそんな暴力場面を見るのはいやだ。あれはひどく眼を傷(いた)ませる。

 暴力場面と言っても、あんな集団的なものでなく、個人対個人のものなら、まだ救われる。もちろん見ていて愉快というものではないが、集団にくらべると、見る方の気持はぐっと楽である。

 おそらくこれは規模の大小によるものではなく、質の違いから来るのだろう。

 すなわち個人対個人の喧嘩は、原則として、お互いに相手を知っている。相手がどういう素姓(すじょう)の人間で、どんな意見を持っているか知っている。つまり相手の人格(?)を認めた上で、意見の相違から、あるいは事の行きがかりから、暴力行為におもむくのだ。

 だからその暴力行為も、喧嘩のルール(というものがあるかどうか知らないが)から、はなはだしく外れたことをしないのが普通である。それ故、見ていても、そうつらくない。

 ところが集団的衝突は、そうでない。警官隊の個人が、デモ隊の個人を知っているわけではない。そこに個人的な恨みや憎しみは何もないのである。

 不特定多数にぶつかって行って、警棒をふりかざし、任意の一点に向かってふりおろす。そこには微塵も人間的なものがなく、したがってそのやり方もルールを無視している。結果が残虐になるのも、当然のことだろう。

 これをさらに大規模にすれば、戦争ということになるのだ。何が愚劣だと言って、人間のやることの中で、戦争ほど愚劣なものはない。

 そういう集団的衝突の現場を、私はあまり見たことがない。八年前の血のメーデー事件を見たくらいのもので、あの時は私も催涙弾にやられて涙をぽろぽろ流したり、警官隊に追われて必死に逃げ廻ったりした。

 逃げ廻りながらも、警官隊のやり口を抜け目なく観察したが、あの時の警官隊と、今のテレビニュースでのやり口は、あまり変っていない。相手が暴力的な意味では素人だから、それほど変える必要を認めないのであろう。

 警棒で頭をなぐる。逃げる奴の後頭部をぶちのめす。頭というのは、皮膚がやわらかいのか、それとも薄いのか、すぐに破れてぱっと血をふく。

 警棒で力まかせに頭をなぐると、どんな音を立てるか。これは経験したものでないと判らない。何とも言えない不気味な音を立てて、犠牲者は即座に抵抗力をうしない、そこらにうずくまったり倒れたりするものだ。

 八年前に聞いたその不気味な音が、今でも私の脳裡にこびりついていて、テレビニュースで警官隊が棒をふりかざして迫る場面を見ると、いても立ってもいられないような気分になって来る。

 警官隊はなぜ相手の頭をねらうか?

 相手の抵抗力を出来るだけ早くたたきつぶす。その目的で頭をねらうのだろう。

 相手の肩だの腰だのをなぐつて、抵抗力をうしなわさせるためには、三度も四度も警棒をふりおろさなければならぬ。ところが頭なら一発ですむ。一発で相手はくにゃくにゃになってしまう。

 警官の方の論理はそうであろうが、やられる側からすると、これはたいへんなことである。

 人間の身体の中で、何が大切だと言って、頭ほど大切なものはない。人間の身体で、たまという字がついた器官には大切なものが多いが、中でもあたまが最も重要である。

 何しろ全身をつかさどる器官であるからして、ここを毀傷(きしょう)しては元も子もない。

 それにもう一つ、頭には他の器官と違った特色がある。たとえば腕なら腕を警棒でなぐられ、折れたとする。折れて三週間経って、元通りになったとする。元通りになったら、それは大体完全に元通りになったのだ。

 ところが頭はそうは行かない。頭をなぐられて、血をふいて、また頭蓋骨がいくらか傷ついたとする。治療をうけて、それが一応直ったとする。しかしこれは完全に直ったとは言えないのだ。

 外見上直って、何箇月、あるいは何箇年経ったある日のある時、突然脳に変調がおきて、社会生活が出来なくなったり、ひどい廃人になったりする例が、しばしばあるそうである。

 脳なんてものは、たいへんデリケートな器官だから、そういうことにとかくなるだろうと言うのが、私の知人の医師の説であった。

 だから、頭をなぐられてはいけない。悔いを千載に残す。なぐる方の側からすれば、相手の頭をなぐることは、絶対にいけないことなのだ。それにもかかわらず、彼等はなぐる。そして自分はなぐられないように抜け目なく、鉄かぶとをかぶっている。

 警官隊が鉄かぶとをつけているのに、何故デモ隊は鉄かぶとをかぶらないのか。頭ほど大切なものはないのに、しかも相手はこちらの頭をねらっているというのに、なぜデモ隊諸君は鉄かぶとをつけないのか。頭を保護することに、なぜ思いを致さないのか。

 私はテレビニュースを見る度に、残念で残念でたまらない。あの警棒がふり廻される度に、何人かの将来の廃人が確実に予想されるではないか。

 鉄かぶとと言っても、特につくらせる必要はない。オートバイやオート三輪乗りが、危険防止のために、よくかぶっている。かぶっているからには、どこかで製造販売しているのだろう。それを買って来て、きちんとかぶってデモに出るがいい。

 腕の一本や二本へし折られても(そうかんたんにへし折られても困るが)回復出来る。くり返して言うが、頭はそうは行かないのだ。

 こういうことを書くと、鉄かぶと製造株式会社から、いくらか貰っているように誤解されるかも知れないが、そんなことはない。私はただ頭を憂うるのみである。

 皆が鉄かぶとをかぶってデモに出れば、警官隊や右翼、またそれらを支配する兇悪な為政者は、それをいやがって、あるいは鉄かぶと着用禁止を言い出して来るかも知れない。しかし私をして言わせるなら、鉄かぶとは武器ではない。防具である。

 今の政府は、あきらかに兇器であるところの飛出しナイフの製造販売を許している。世論があんなに高まっているのに、飛出しナイフを野放しにしている。そういうものから自分の頭をふせぐためにも。我々は鉄かぶとを着用する権利がある。

 今の日本には危険が充ち満ちている。神風タクシーやオートバイは容赦なくすっ飛んで来るし、建築現場には「頭上注意」などと臆面もない注意札をかかげて、がたがたやっている。我々はそれらの危険から、頭を守ろうではないか。

 恰好という点では、いくらか欠けるところがあるけれども「一億総鉄かぶと」ということを、私は敢えて提唱したい。頭を割られてからわめいたって、もう遅いのだ。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第十三回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年七月十日号掲載分。昨年夏に転倒して後頭部を強打、その反側損傷によって右前頭部クモ膜下出血、前頭葉の一部をも挫滅、嗅覚をほぼ喪失してしまった私には、心底、滲みる内容である。

「鉄かぶと」因みに現行のヘルメットは鉄製ではない。ABS樹脂(アクリロニトリル(Acrylonitrile)・ブタジエン(Butadiene)・スチレン(Styrene)共重合合成樹脂(プラスチックの一種。レゴのようなブロック玩具の素材である)、PC(ポリカーボネート(polycarbonate):熱可塑性プラスチックの一種)、PE(ポリエチレン(polyethylene))、FRP(Fiber-Reinforced Plastics:繊維強化プラスチック。ガラス繊維などの繊維をプラスチックの中に入れて強度を向上させた複合材料)で、軍用ヘルメットもベトナム戦争頃までは材料として主に鋼鉄が使われていたものの、近年はケブラー(Kevlar:芳香族ポリアミド系樹脂の登録商標。正式名称は「ポリパラフェニレン・テレフタルアミド」(Poly-paraphenylene terephthalamide)などで強化したFRPなどの繊維を数十枚重ねた上にフェノール樹脂を含浸させて成形したものが主流である(以上はウィキの「ヘルメット」他に拠った)。

「神風タクシー」は、ウィキの「神風タクシーによれば、主に昭和三十年代(一九五五年~一九六四年)の日本で交通規制を無視し、『無謀な運転を行っていたタクシーのこと』を指す。昭和三十年代前半、『日本はモータリゼーションの進行に伴い、道路渋滞も起き始めた。歩合給を稼ぐために、速度制限無視、急停車、急発進、赤信号無視、強引な追い越しなどを行って、早く客を拾い、あるいは一瞬でも早く目的地に着いて、客回転を上げようと、無謀な運転を行うタクシードライバーが増加した』。『この無謀な運転ぶりを「神風特別攻撃隊」になぞらえて、人々は『神風タクシー』と呼んだ。その命名は誰によるものかは不明だが、「週刊新潮」の記事からと思われる』。『この無謀運転の主な原因は、運転手の固定給の少なさや、ノルマ制などの労働条件であった。これが社会問題になると共に、タクシー労働組合などの運動によって、神風タクシーは基本的に無くなった』。昭和三四(一九五九)年八月十一日、『優良運転者に個人タクシーが初めて認可された』が、『これも神風タクシーが無くなった要因となった』。同年には、昭和三九(一九六四)年の『東京オリンピック開催が、国際オリンピック委員会総会で決定されたこともあり、国家規模で日本のイメージアップのため、道路交通法が厳しく運用され、神風タクシーは警察の取締りにより厳しく摘発され、その姿を消した』とある。]

2016/07/09

夫婦喧嘩中の訪客   梅崎春生  (私藪野直史の若き読者の「明日」のためにパート2)

   夫婦喧嘩中の訪客

 

 近頃テレビニュースなどで見ると、岸首相の人相はだんだん悪くなって来るようである。

 私は他人の人相について、あまりあげつらいたくないが、しかし顔というものは、原則として他人のためにあるものだ。

 もちろん眼や鼻や口などの各器官は、その持主のためにある。持主はそれら器官を使って、見たり、呼吸をしたり、ものを食べたりする。

 しかし、眼や鼻や口の配置からなる顔というものは、持主のためにあるものでない。他人がその配置を見て、ああこれは××さんだと、区別するためにあるのだ。

 区別するだけでなく、その微妙な動きから、この人は喜んでいるとか、かなしがっているとか、その持主の感情をも見分けることが出来る。顔が他人のためにあるというのは、そういう意味だ。

 岸首相の顔は、以前は眼を細めたり、笑ったりして、なごやかな面があったようだが、近頃はあまり笑わない。険悪にとがっている。時には映画に出て来る追いつめられたギャングみたいな表情を見せることもある。

 実際追いつめられてはいるだろうけれども、彼は高姿勢をくずさず、声なき声を信じて、アイゼンハワーの訪日を頑張ったのである。

 ハガチーは風のように来たり、風のように去った。

 マッカーサー大使は十日のハガチー事件について、「全米を通じ、きわめて強い、悪い方向の反応が生れている」

 ことを指摘したし、米国側にもアイゼンハワー訪日を取り止める声も出ていた。

 日本の平凡な一市民としての感覚では、私もアイゼンハワーはむりをしないで、来ない方がよいと思っていた。旅行でも何でも、むりということが一番いけないのだ。

 それに一度事件がおこれば、連鎖反応的に次々に事件がおこるのが世の常である。一定の条件さえあれば、人間はどんなことでもするというのが私の考え方で、お互いに戦争中のことを考えればよく判る。一定の条件と書いたけれども、その条件はまだ取り去られていないのだ。警備を万全にしたところで追っつくものではないだろう。十五日のデモで、一人の女子学生の命を奪ってはじめて、大統領訪日の中止を要請した。大統領が訪日を中止しても一定の条件の方はまだそのままである。

 超党的な礼儀でアイゼンハワーを迎えよう、と言ったような議論もあった。夫婦喧嘩の真最中にお客が訪ねて来るようなもので、もし良識ある人間ならば一時喧嘩を中止して、にこやかに客を迎えるべきだ。喧嘩の続きは、客が帰ったあとでやればいい。それと同じように、日本も一時いがみ合いを中止して、アイゼンハワーを迎えるべきだ、という議論があった。

 この議論もちょっとおかしいところがある。日本人はすぐ比喩(ひゆ)を持って来て、あれはこういう具合のものさと、お互いに早呑込みをする癖があるが、これもその一種だ。

 第一に、今の日本のごたごたが、夫婦喧嘩と同じものとして片づけられるものかどうか。夫婦喧嘩というからには、亭主と女房がいなくてはいけない。そうすると今の日本で、誰が亭主で、誰が女房なのか。一握りの岸一派と右翼団体が亭主で、それ以外の国民が女房ということになるのか。

 まあ夫婦喧嘩という比喩を認めるとしても、お客がそこにやって来たら、喧嘩を中止して迎えるべきかどうか。喧嘩をやめても、夫婦間のしらじらしい空気が残っているだろうから、もしその客が敏感な人間なら、面白くなく、気まずい思いをするに違いない。

 そういう偽善的なにこにこ顔をつくるより、只今夫婦喧嘩中ですから、お気の毒ですがまた別の機会においで下さいと、率直に言った方がいいと私は思う。お客だってその方が気持がいいのではなかろうか。

 夫婦喧嘩だのおしっこだのは、途中でやめては具合が悪いし、身体にもよくないものである。(これも悪しき比喩か?)

 それにアイゼンハワー大統領は、今の日本の夫婦喧嘩と全然無縁の客ではない。

 全然無縁だったら、時と場合によっては無理に喧嘩を中止することも必要だろうが、今度の客は大いに関係があるのである。言わば痴話喧嘩の当の相手であるような客だから、どうして喧嘩を中止して、にこにこ顔になれるか。

 それに夫婦喧嘩というものは、内輪でこっそりやるものであり、客はそのことを知らぬのが普通だが、今の日本の内輪もめはこっそりやっているのではない。相当派手にやり合って、その結果は各種の電波に乗って、世界各国に報道され、米国でもちゃんと承知している筈である。

 客が来たから夫婦喧嘩を中止するのがエチケットだ、などと称す。すると、夫婦喧嘩をやっているのに、のそのそと来訪する方のエチケットはどうなるのか。その方が無神経であり、非礼であり、非紳士的だと思わないわけには行かない。

 その方の非はとがめずに、喧嘩をやめろやめろと言うのは、議論が逆立ちしてやしないかと思う。

 私が客なら、夫婦喧嘩をやっている最中の家庭には、絶対に訪問しない。相手の気持を傷つけることになるからだ。

 かくして、とうとうアイゼンハワーは極東に旅立った。出発前に、こんどの旅行は特定の政権や条約や政治論争を支持するものでない、国際理解の空気をもっとよくするためだ、という声明を発表した。

 仮りに大統領の真意がそうであるにしても、大統領がやってくること自体が、特定の政権や条約や政治論争を強化するという客観的条件が、すでにつくられていた。

 これは自然とつくられたものでもなければ、偶然につくられたものでもない。岸首相が巾着切りのようなずるいやり方で、来日の日数を計算して、つくり上げたものである。

 この間のハガチー事件の翌日、各新聞の論評や識者の言を読むと、あんな事件は理性を失った行為で寛容と弁護の余地なしとか、世界の人々に恥かしいことだとか、一応あの事件の非難の方につじつまを合わせたものが多かった。

 私はそうは思わない。ここにエレベーターがある。各階にその所在を示す指針がある。エレベーターが動くと、各階の指針がそれにしたがって動く。

 ハガチー事件も、なるほど不祥事ではあったが、本質的に言うと、その指針みたいなものに過ぎない。

 指針が動くのは、指針自体の責任ではない。エレベーターが動くから、指針も動かざるを得ないのだ。

 だから私は、ハガチー事件を世界に恥じるより、その大元のところの歪みを世界に恥じることの方が、本筋ではないかと思う。

 ともかく、アイゼンハワー大統領の訪日は中止になった。これで日本の信用がつぶれたという意見もあるが、それはおかしい。つぶれたのは無理を押し通そうとした岸首相の面目だけである。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第十二回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年七月三日号掲載分。この記事に出る人物や前後の背景については、ウィキの「岸信介の「安保改定と反対運動」より引用し、途中に補足しておく。昭和三五(一九六〇)年一月、全権団を率いて訪米した内閣総理大臣岸信介は、ドナルド・アイゼンハワー大統領Dwight David Eisenhower 一八九〇年~一九六九年:第二次世界大戦中の連合国遠征軍最高司令部(Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force 最高司令官・陸軍参謀総長・NATO軍最高司令官を歴任した第三十四代アメリカ合衆国大統領)と『会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意した。新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾』、五月十九日には『日本社会党議員を国会会議場に入れないようにして新条約案を強行採決したが、国会外での安保闘争も次第に激化した』。岸は『警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て暴力団組長の会合に派遣。錦政会会長稲川角二、住吉会会長磧上義光やテキヤ大連合のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意。さらに』三つの『右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。ひとつは岸自身が』昭和三三(一九五八)年に『組織した木村篤太郎率いる新日本協議会、右翼の連合体である全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者も入った日本郷友会(旧軍の在郷軍人の集まり)である。「博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。最終計画によると』一万八千人の博徒、一万人のテキヤ、一万人の『旧軍人と右翼宗教団体会員の動員』を画策したともいう。但し、『岸は「動員を検討していたのは消防団や青年団、代議士の地元支持者らである」と述べている』。こうした『政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。国会周辺は連日デモ隊に包囲され』、六月十日には『大統領来日の準備をするために来日した特使、』ジェイムズ・ハガティ新聞係秘書(James Campbell Hagerty 一九〇九年~一九八一年:アイゼンハワー政権期(一九五三年~一九六一年)に於ける唯一人のホワイトハウス報道官。安保闘争当時の日本の報道機関は「ハガチー」と表記していた)の『乗ったキャデラックが東京国際空港の入り口でデモ隊に包囲されて車を壊され、ヘリコプターで救出される騒ぎになった。岸は「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には声なき声が聞こえる」と沈静化を図るが(いわゆるサイレント・マジョリティ発言)』(前に電子化した梅崎春生の『「声なき声」の正体』を参照のこと)、『東久邇・片山・石橋の』三人の『元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、アイゼンハワーの訪日は中止となった』。『さらに六月十五日には、ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、国会構内では警官隊とデモ隊の衝突により、学生の樺美智子が圧死する事故』(既注であるが、再掲する。東京大学女子学生であった樺美智子(かんばみちこ 昭和一二(一九三七)年十一月八日~昭和三五(一九六〇)年)さんは同日、デモ隊(全学連主流派による先導)が衆議院南通用門から国会に突入、警官隊と衝突した際に亡くなった。満二十二歳)が発生、六月十五日と十八日には、『岸から自衛隊の治安出動を打診された防衛庁長官・赤城宗徳が拒否』、『安保反対のデモが続く中、一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と死を覚悟する所まで追いつめられた』が、六月十八日深夜には条約は自然成立し、同二十一日には『批准、昭和天皇が公布した。新安保条約の批准書交換の日の』六月二十三日、『混乱の責任を取る形で岸は閣議にて辞意を表明』した。

「マッカーサー大使」当時の駐日アメリカ大使(在任:昭和三二(一九五七)年一月~昭和三六(1961)年三月)ダグラス・マッカーサー二世(Douglas MacArthur II 一九〇八年~一九九七年)アメリカ合衆国の外交官。かの連合国最高司令官として知られているダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur 一八八〇年~一九六四年)の甥である(彼に因んでの命名)。ウィキの「ダグラス・マッカーサー2世」によれば、『、国務省参事官を経て駐日大使に着任する。当時の日米関係は、マッカーサーの着任に前後して米兵が日本人主婦を射殺するジラード事件が起きるなど、在日米軍の駐留によって生じる摩擦や反基地闘争が顕在化していた。日本国民の不満が米極東戦略の拠点である日本の反米化・中立化を引き起こすことを危惧したマッカーサーは、日本をパートナーとして遇することでこれを沈静化しようとし、本国政府に米軍戦力および基地の縮小再編や、不平等性を指摘されていた日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧日米安全保障条約)の改定を進言することになる。今日の研究ではこのような危機意識に基づくマッカーサーの積極的なイニシアティブが、アイゼンハワー政権を安保条約改定に踏み切らせた重要な要因となったことが指摘されている』。最近(二〇〇八年四月)では『砂川事件一審判決(被告無罪)が日米関係に及ぼす影響を危惧し、判決を破棄させるための跳躍上告をするよう日本政府に勧めていたことが判明したが、これも上記のような対日認識の反映であったと理解する見方もある(当時「日本政府は社会党が新たに司法を尊重せよと騒ぎたてていることを必ずしも不快に思っていない。というのは日本政府は『社会党の司法尊重』が最高裁の段階になったときブーメラン効果をあげることを期待しているからだ」と国務省宛てに訓電を打ったと伝わる)。安保闘争が激化した際には、反対運動が東側陣営の指導下・影響下にあるものと分析し、総理大臣である岸信介や吉田茂など保守政治指導者との接触を密にする一方、反対派との接触や対話を極力避ける路線をとった。このようなタカ派的政治姿勢は後任のエドウィン・ライシャワーの路線とは相違し、のちにライシャワーに暗に批判されることとなる。なお、岸および弟の佐藤栄作とは大使離任後も親密な関係を続け、佐藤のノーベル平和賞受賞が決定した際にはすぐに祝電を打っている』とある。]

「声なき声」の正体   梅崎春生  (私藪野直史の若き読者の「明日」のためにパート1)

   「声なき声」の正体

 

 近頃時勢が時勢だから、うちにじっとしている時は、かならずテレビのニュースだけは見ることにしている。本当なら外に出かけて飛び廻って、この眼で現場を見て歩くのが一番いいのだけれども、そうそう暇もないし、それに孫悟空みたいにあらゆる場所に飛び廻るのは不可能なので、ついテレビで間に合わせてしまうのだ。

 見慣れて来ると、各社のテレビニュースの編集のしかた、事実に軽重をつけるそのやり方について、いろいろ意見はあるが、ここでは何も言わない。ただカメラは器械だから、架空のものを映し出すことは出来ない。そこに信用を置いて、こちらの胸の中で修正、編集をし直すことにしている。

 それがうちの息子(小学三年生)の気にくわない。修正することがではなく、おやじがせっせとテレビニュースを見ることが、気に食わないのである。

 なぜ気にくわないか。テレビニュースとぶつかって、自分の好きな番組が見られないからである。

 あちこち聞いてみると、よそでもそうらしいが、何故子供というやつは、テレビというものを自分のもののように錯覚するのだろうか。

 あれはおやじが営々としてはたらき、やっと買い求めたものである。子供がこづかいをためて買ったというようなものとは、本質的に性質が違う。所有権はおやじの手にあるのだ。毎月のテレビ代だって、時々の修繕代だって、おやじの乏しいふところから出ている。子供は何も出していないし、いかなる犠牲も払っていない。

 それなのに、見る権利が自分だけにあると思い込むのは、どんな根拠によるのか。間違ってやしないか?

 私はこの欄を借りて、満天下の子供たちに警告を発したいのだが、子供は子供でまだおさないから、私のような高尚な文章を理解する力に欠けているだろう。

 だからそんな子供のおやじに同情を示す程度にとどめるが、テレビに関する限り、子供というやつはあまり説得がきかないものである。

 たとえば私がニュースの重大性をいくら説いても、子供はそれを首肯しようとはしない。

 この間私はあれこれとあらゆる角度から説き聞かせ、問いつめて行ったら、ついに息子はこう言った。

「あんなの、ただうつっているだけじゃないかよ」

 かよというのは気にくわないから、すぐに言い直させたが、彼が言おうとしていることを推察すると、つまりテレビドラマはこちらを面白がらせるためにやっている。これに反し、ニュースはただうつっているだけで、何の意味もないということらしい。

 なるほど、と私は思った。この言い方はこの間の岸信介の発言に、どこか似たところがある。新聞やラジオや、テレビ(も入っていたかどうか)などは、世論を代表しているとは考えない。

 新聞はただ書いてあるだけだし、ラジオはしゃべっているだけだし、テレビはただうつっているだけだ。我が大方針にはいささかの参考にもならぬ。我はただ声なき声を聞くのみだ。

 人間もだんだん齢をとって来ると、肉体だけではなくて精神も硬化し、融通がきかなくなって、聞きわけがない子供みたいになってしまうことがよくある。

 私は李承晩などがその典型的なものだと思っていたが、我が岸首相も声なき声というようなあやしいことを言い出すようになっては、もうよほど追いつめられて来たものらしい。声なき声だの、姿なき姿だの、これはテレビではうつし出せない。

 しかし少年向きのテレビドラマには、しょっちゅう出て来る。たとえば探偵が極悪人を追いつめると、悪人はマントの裾をひるがえしてぱっと姿を消し、姿なき姿となって、一天のどの方角からかは判らないが、おどろおどろと気味の悪い笑い声が降りて来る。

 あとは来週のおたのしみというのだが、あんなのがきっと声なき声というのだろう。

 聞きわけがない子供だの若者だのは、いくらでも、いや、少しはいてもいい。周囲に害を与える程度で、社会全体にはさして実害を与えないからだ。

 しかし社会的地位にある老人に聞きわけがないのがいては、これは困る。たいへん困る。社会的地位が高ければ高いほど、困るのだ。近頃枢要の地位にある老人連が、集団的に声なき声を聞きたがり、聞えもしないのに聞えたふりをしようとしている。

 私は老人を尊敬することにおいては人後に落ちないけれども、いくら尊敬といっても限度がある。そこまで逸脱されては、もう尊敬だの崇拝だの言ってはいられない。何らかの方法で処分しなければならないと思う。

 こういうわけで、私は毎日テレビニュースを見ている。息子は不平らしいが、我が家の家伝の方法で納得させている。

 どんな方法か書いてもいいが、これはかなりダイナミックな方法なので、一般家庭には向かないかも知れないから、発表しない。

 ニュースでこの一箇月間一番印象深かったのは、安保衆院通過と会期延長の時の清瀬議長の姿であった。

 この前の戦争中の軍歌に、

「何度聞いても眼がうるむ。あの日のいくさに散ったとか」

 という一節があったが、私はあの日のテレビニュースを各局、何度も何度も見た。何度見ても眠がうるみにうるんだ。

 この老議長の奮闘ぶりに眠がうるんだのではない。あまりの情けなさに、涙が出て来たのである。

 なぜこれが特に印象深かったかというと、ここには芝居だの演技がなかったせいもあるだろうと思う。

 他のニュースにうつし出される岸信介その他の政治家はある程度うつされていることを意識しているので、したがつてポーズが加わっている。本音をかくして、巧言令色を旨としているおもむきがある。

 ところがあの日の清瀬議長はそうでなかった。

 四五人の男たちに抱きかかえられ、あたふたと、またよろよろと議長席につき、はっきりしないおろおろ声で、

……御異議ございませんか。……全員起立をもって可決といたします」

 てなことを叫ぶ。

 微塵の芝居気もなく、ただもうひたすら何かをおそれているような具合で、彼はことを遂行した。

 私はあの議長のことはあまり知らない。テレビで眺めた程度の知識しかない。あの人は風貌からして、七十か、それを過ぎているのだろう。

 火急の場合、人間がどんなにあさましくなれるものか、この前の戦争でも私はいろいろ経験したが、あんな爺さんが、学識のある爺さんが、いくら火急の場合とは言え、あんなに取り乱すとは予想外のことで、眠がうるんだのもその辺に関係がある。

 あれは信念とか奮闘とかいうものでない。まぎれもなく老醜であり、生き恥というものである。

 七十年も生きて来た揚句、こんな生き恥をさらすなんて、当人も情けないことだろうと思うが、その後の彼の手記などを読んでみると、そうでもないらしい。死ななきゃ直らない性質のものだろう。

 老人に意見するようで悪いけれども、も少し近頃の老人達は恥を知り、なりふりをかまって呉れ。たのむ。今のままでは、あまりにもひどすぎる!

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第十一回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年六月二十六日号掲載分。当時の梅崎春生の年齢は満四十五歳。

「声なき声」現在の総理安倍晋三の祖父でこの当時の内閣総理大臣岸信介(のぶすけ 明治二九(一八九六)年~昭和六二(一九八七)年)が言った有名な台詞(当時、満六十三歳)。「国会周辺は騒がしいが」、デモの「参加者は限られている。野球場や映画館は満員で、銀座通りもいつもと変わりがない。私には『声なき声』が聞こえる」というもので、安保反対を訴える人々を不逞の輩とし(反対者は国民ではないという謂いである)、大多数の国民は安保に反対などしていない(というよりも野球場と映画館に興じることで満足しているというのだから、遙かに愚民扱いである)という、サイレント・マジョリティ(silent majority:「物言わぬ多数派」)発言を指す。今の最下劣な孫も全く同様に認識していることをお忘れなく。

「李承晩」(イ・スンマン 一八七五年~一九六五年)当時の、そして初代の大韓民国大統領(在任一九四八年~一九六〇年)。この年の四月に発生した四月革命(同年三月に行われた第四代大統領選挙における大規模な不正選挙に反発した学生や市民による民衆デモにより、当時、初代から続いて第四代韓国大統領となったばかりの李承晩が下野した事件。名称は最も大規模なデモの発生した四月十九日に由来)によって、本記事公開直前の一九六〇年五月二十九日に金浦国際空港からアメリカ(ハワイ)に亡命していた。

「清瀬議長」この記事の前月、昭和三五(一九六〇)年五月十九日に米安全保障条約の強行採決を行った衆議院議長清瀬一郎(明治一七(一八八四)年~昭和四二(一九六七)年)。当時、満七十五歳。因みに、この時、彼の護衛役として金丸信が突進、その結果、右足首を負傷骨折している。清瀬は兵庫県飾磨(しかま)郡夢前町(ゆめさきちょう:現在、姫路市内)生まれで、当初、弁護士としては小作争議裁判や思想事件等を手がけ、政界入りしてからも、普通選挙運動推進・台湾議会設置運動支援・治安維持法反対などのリベラルな政治家として知られたが、一九三〇年代(昭和五~十四年)以降は親軍派に転向、第二次世界大戦敗戦直後にも、この時点で依然として日本国籍を有していた旧植民地出身者の参政権行使を恐れて、参政権停止(実質上の剥奪)を行なうべきと主張、同年十二月に行われた衆議院議員選挙法改正によってこの参政権停止が実行されている。昭和二一(一九四六)年に戦前の親軍転向を理由にGHQから公職追放された。極東国際軍事裁判では日本側弁護団副団長とともに東條英機元首相の主任弁護人を務めたで知られる。昭和二七(一九五二)年に追放が解除されると改進党から政界復帰、改進党幹事長・日本民主党政務調査会長を歴任、昭和三〇(一九五五)年の第三次鳩山内閣に文部大臣として入閣、このまさに昭和三十五年、衆議院議長に就任していた。参照したウィキの「清瀬一郎」によれば、『追放解除後も憲法改正を主張するなど』、『典型的な戦前派の保守政治家と目されたが、清廉さを身上とするが故に』、『政界復帰後はハト派の三木武夫と行動をともにした。衆議院議長に就任した際も「公平さを期するため」と党籍を離脱した。当時は議長・副議長の党籍離脱は慣例化しておらず、清瀬の党籍離脱は異例ともいえる』とあり、最終的には自由民主党三木派に属したとある。]

芥川龍之介 手帳2―16

《2-16》

○芥川と龍之介と分れる夢 馬上龍之介を落とす

[やぶちゃん注:これ! 読んでみたかった!!!]

 

○舌だけ活きてゐる話――夢 テーマ未考

[やぶちゃん注:これは例えば、私も偏愛するもので、「日本靈異(りやうい)記」の「法華經を億持(おくぢ)する者の舌、曝(さ)りたる髑髏(ひとかしら)の中に著(つ)きて、朽ちずありし緣(えん)第一」や「今昔物語集」の「卷十三」に出る「一叡持經者聞屍骸讀誦音語第十一」などに出る髑髏(しゃれこうべ)に肉身の舌が残って経を唱えるというとびっきりの怪異譚の一つである。読み易さと分かり易さから「今昔物語集」のそれを示す(小学館の「日本古典全集 今昔物語集一」を参考にしつつも、表記を変え、恣意的に漢字その他を正字化、送り仮名も追加してある、私のオリジナルなものであるので注意されたい)。

   *

 

 一叡(いちえい)持經者(ぢきやうじや)屍骸(しにかばね)の讀誦の音(こゑ)を聞く語(こと)第十一

 

 今は昔、一叡と云ふ持經者、有りけり。幼(えう)の時より法華經を受け持(たもち)て、日夜に讀誦して年久しく成りにけり。

 而る間、一叡、志を運びて、熊野に詣でけるに、宍(しし)の背山(せやま)と云ふ所に宿りしぬ。夜に至りて法華經を讀誦する音(こゑ)、髣(ほのか)に聞ゆ。其の音(こゑ)、貴(たふと)き事、限り無し。

「若し、人の亦、宿りせるか。」

と思ひて、終夜(よもすがら)此れを聞く。暁に至りて一部を誦(じゆ)し畢(をは)りつ。曙(あけ)て後(のち)、其の辺(ほとり)を見るに、宿りせる人、無し。只、死骸(しにかばね)のみ有り。近く寄りて此れを見れば、骨、皆、烈(つらな)りて離れず。骸(しにかばね)の上に苔、生(お)ひて、多く年を積みたりと見ゆ。髑髏(ひとがしら)を見れば、口の中に舌、有り。其の舌、鮮かにして、生きたる人の舌の如し。一叡、此れを見るに、

「奇異也。」

と思ひて、

「然(さ)は、夜る經を讀み奉つるは、此の骸(しにかばね)にこそ有りけれ。何(いか)なる人の、此こにして死にて、此くの如く誦(じゆ)すらむ」と思ふに、哀れに貴くて、泣く泣く禮拜(らいはい)して、此の經を音(こゑ)を尚、聞かむが爲に、□日(か)其の所に留まりぬ。其の夜、亦、聞くに、前の如くに誦す。

 夜、曙(あ)けて後(のち)、一叡、屍骸(しにかばね)の許(もと)に寄りて禮拜して云く、

「屍骸(しにかばね)也と云へども、既に法華經を誦し給ふ。豈(あ)に其の心、無からむや。我れ、其の本緣(ことのもと)を聞かむと思ふ。必ず、此の事を示し給へ。」

と祈り請ひて、其の夜、亦、此の事を聞かむが爲に留まりぬ。其の夜の夢に、僧、有りて、示して云く、

「我れは是れ、天台山の東塔(とうたふ)の住僧也。名をば円善(ゑんぜん)と云ひき。佛道を修行せし間(あひだ)に、此の所に來て、不慮(おもは)ざる外(ほか)に死にき。生きたりし程に、六万部の法華經を読誦せむと云ふ願(ぐわん)、有りき。其れに、半分をば讀誦し畢はりて、今半分をば、讀誦せずして死たり。然かれば、其れを誦し滿(み)てむが爲に、此の所に住(ぢう)せり。既に誦し滿てむとす。殘り幾(いくばく)に非ず。今年許(ばか)り、此(ここ)に可住(ぢうすべ)き也。其の後には、兜率天(とそつてん)の内院(ないゐん)に生(むま)れて、慈氏尊(じしそん)を見奉らむとす。」

と云ふと見て、夢、覺めぬ。

 其の後(のち)、一叡、屍骸(しにかばね)を禮拜(らいはい)して、所を立て、熊野に詣でぬ。復た年、其の所に行きて、屍骸(しにかばね)を尋ね見るに、更に無し。亦、夜る留まりて聞くと云へども、其の音(こゑ)、不聞(きこえ)ず。一叡、此れを思ふに、『夢の告(つげ)の如くに、兜率天に生れにけり。』と知りて、泣く泣く其の跡を禮拜(らいはい)して返りにけり。

 其の後(のち)、世に廣く語り傳ふるを、聞き繼ぎて語り傳へたるとや。

  *]

 

○李太白酒をもらひ一生涯の 1 Moment をやる話

[やぶちゃん注:これも! 「超いいね!」]

 

○夫――妻――姦夫 弟が話す my jealousy perhaps?

[やぶちゃん注:「my jealousy perhaps?の「恐らくは私の嫉妬?」とは実は或いは芥川龍之介自身の秘やかな告解記載かも知れない。無論、龍之介は「姦夫」である。龍之介の大正八(一九一九)年当時の不倫相手であった秀しげ子には夫がいた。]

 

○夫   夫   夫

   >   >   >

 妻   姦夫  妻

○姊

芥川龍之介 手帳2―15

《2-15》

Princess は無關係とし平太夫は人柱に立ちし童子の父親雅平の臣とす 雅平去って後 Princess 平太夫を養ふ。要擊の事にて若殿の興味をひき姫君の臣とせしむ

[やぶちゃん注:未完の「邪宗門」(大正七(一九一八)年十月から十二月まで『大阪毎日新聞』連載)の設定メモ。作中、重要な役回りを演じる「姫君」の召使の老侍「平太夫」の初期設定として興味深い(決定稿の設定とは必ずしも一致しない)。]

 

○伊玖米天皇の子(垂仁) 1二能能入姫の命 2弟橘姫命 3大田牟別が娘布多遲姫 4大吉備建姫(吉備臣建日子の妹) 5玖々麻毛理姫 6或妃 ○七拳脛Pantler(久米直の祖)○御鉏友耳建日子

[やぶちゃん注:「伊玖米」「いくめ」と読む。「常陸国風土記」に見える第十一代垂仁(すいにん)天皇の呼称。

「二能能入姫の命」垂仁の娘の一人、両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)で、倭健の妃の一人。仲哀天皇の母に当たる。

「弟橘姫命」「おとたちばなひめのみこと」は倭建の妃の一人。既に注した通り、走水の海で倭健が遭難せんとした折り、自ら入水して彼を救った。

「大田牟別が娘布多遲姫」「おほたむわけがむすめふたじひめ」と読む。淡海安国造の祖の意富多牟和気(おおたむわけ)の娘で、倭健の妃の一人であった布多遅姫(ふたじひめ)のこと。「日本書紀」には不載。

「大吉備建姫」「おほ(おお)きびのたけひめ」は倭健の妃の一人。穴戸武媛(あなとのたけひめ)とも。

「吉備臣建日子」「きびのたけひこ」は第七代孝霊天皇皇子の稚武彦命(吉備臣祖)の孫又は子とされ、倭健東征の従者の一人。表記は「古事記」の記載のもの。吉備武彦。

「玖々麻毛理姫」「くくまもりひめ」は山代之玖々麻毛理姫(やましろのくくまもりひめ)でやはり倭健の妃の一人。

「或妃」「古事記」では以上の五人以外に今一人、妃がいたとする。

「七拳脛(Pantler)(久米直の祖)」倭健の東征に従ったとされる膳夫(かしわで:単に「膳」とも表記する。料理人のこと)七拳脛(ななつかはぎ)。「Pantlerは見馴れぬ単語であるが、貴族の邸宅に於いてパンや食料を管理する任に当たった執事を指す。「久米直」はウィキの「くめのあたい」と読み、久米氏の祖とされる集団。ウィキの「久米によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)、『古代日本における軍事氏族の一つで、「新撰姓氏録」によれば高御魂(タカミムスビ)命の八世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、神魂(カミムスビ)命の八世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の二氏があった。久米部(「くめべ」と読む。来目部とも表記することもある)の伴造氏族』。『「日本書紀」神代下天孫降臨章一書には、大伴氏の遠祖の天忍日命が、来目部の遠祖である大来目命(天久米命)を率いて瓊瓊杵尊を先導して天降ったと記されており、「新撰姓氏録」左京神別中の大伴宿禰条にも同様の記述がある。このことから、久米直・久米部は大伴氏の配下にあって軍事的役割を有していたと考えられている』。『ただ、「古事記」には天忍日命と天津久米命の二人が太刀・弓矢などを持って天孫降臨に供奉したとあり、大伴氏と久米氏を対等の立場として扱っており、両氏の関係を考える上で一つの問題点となると思われる』。『また、神武天皇東征説話に見える来目歌、戦闘歌舞の代表といえる久米舞は、久米氏・久米部の性格を考える上で重要である』とある。

「御鉏友耳建日子」「みすきともみみたけひこ」と読む。「古事記」景行天皇段に吉備臣らの祖の「御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)」が倭健の従者として東征に遣わされたことが記されている(但し、これが先の「吉備臣建日子」と同一人物かどうかは定かでない、とウィキの「吉備武彦にはある)。]

酒のサカナに肝臓薬   梅崎春生

 現代人はすこし売薬をのみ過ぎるのではないだろうか。

 そう言う私も、今書斎を見廻すと、酵母剤、肝臓薬、胃腸薬、消化剤、催眠薬、等々、十種類に余る売薬を常備しており、随時それらを食べたりのんだりしている。

 薬というものは原則的に、甘くもうまくもないものである。むしろ苦かったりまずかったりの方が多い。

 それを随時のむというのは、どういうわけだろう。きっとそれは習慣みたいなものに違いない。しかもそれは悪しき習慣である。

(と、ここまで書いて、頭をはっきりさせる薬を一服のもうと手を伸ばし、あわてて引っこめる。せめてこの一文を書き終えるまでは、売薬に手を出しては、文章の神様に相済まぬ)

 頭がぼやっとしているなら、神様に遠慮なんかせずに、はっきりさせる薬をのめばいいではないか、とあるいは人は言うだろう。ところが、ぼやっとはしていないのである。ぼやっとしているような気分がしているだけだ。

 胃が痛いのではなく、胃が痛いような気分がするから、胃腸薬をのむ。こなれていないような気分がするから、消化薬をのむ。すべてこれ気分である。

 気分で薬をのむのが、一番悪い。あれは製薬会社を肥らせるだけだ。気分でのむのなら、売薬より酒の方がよっぽど気がきいている。

 私の友達にも大の薬好きがいて、この間遊びに行ったら、皿の上に肝臓薬だの胃腸薬だのをきれいに盛りつけて、それを箸で一粒ずつつまんで食べながら、酒を飲んでいた。酒の肴にまで下落したんじゃ、薬も可哀そうだと思う。

「どうしてそんなばかな真似をするんだ?」

 と訊(たず)ねたら、いや、身体のために、とか何とか言っていたが、よく問いただしてみたら、薬を肴にしたって、二日酔いする時にはちゃんと二日酔いするのだそうである。じゃあ何のために薬を食べているのか判らない。

 だから現代人は売薬をのみ過ぎるというのだ。

 冗談を言うな。それはお前とかその友達とか、限られた一部の人間だけだ、という声もあろうが、そうではない。たしかに一般的にのみ過ぎている。

 私の家は東京都練馬区。新開地区であって、大根畠がつぶされて、どんどん家が建って行く。

 ひと渡りまとまって建つと、それらをめあてにして先ず開店するのが薬屋と雑貨屋などで、蕎麦屋だの風呂屋などはずっと遅れる。

 蕎麦だの風呂なんてものは、人間生活から切り離せないものであるが、そういう必需品に先立って薬屋が店を開くというのは、どういうことだろう。

 しかもその薬屋たちが潰れもせずに、一応繁昌しているところを見ると、それだけお客がついていることになる。これでも薬ののみ過ぎだとは言えないか。

 それからテレビを見たって判る。製薬会社がスポンサーになっている番組が、どんなに多いことか。

 うちでは子供たちの方が私よりも、テレビによって薬通になってしまって、たとえば私が仕事を終って疲労して、

「ああ、どうも少し血圧が高いようだ」

 などと呟(つぶや)くと直ぐに、古い河が泥で埋まるように血管にコレステロールがどうのこうのと、私に高血圧の説明をして呉れる。

 酒を飲んで二日酔いをしていると枕もとにやって来て、肝臓がどうのこうのと、うるさいこと果てしがない。

 こんなのを釈迦(しゃか)に説法というのか、負うた子に道を教えられるというのか。

 学校で教わることはろくに覚えないくせに、こんなことは直ぐに覚えてしまう。

 どうもテレビの売薬のコマーシャルを見ると、私は昔のお祭りの香具師(やし)の薬を連想して仕方がない。

 もちろん現代のちゃんとした売薬と、香具師の薬は違う。香具師のはいんちきで、今の売薬はまともなものであるが、どこが似ているかというと、番組がすむと、さあお立合い、てな具合に人物があらわれて、薬の効能をぺらぺらしゃべるところが似ているのである。

 香具師はごついおっさんで、テレビはたいていやさしい娘さんだとの違いはあるが。

 子供の私は銭を握って縁日に出かけ、香具師のさわやかな口上を聞いて、その薬を買いたくなることがしばしばであつたが、今私がわんさと薬を買い込むのも、半分はテレビのせいであるとも言える。

 そうすると製薬業者は、テレビにおいて、その所期の目的を果たしているわけだ。

 ほんとに昔は薬屋がすくなかった。薬屋がこんなに多くなったのは、終戦この方のことだと思う。

 私が生れたのは九州の一都市だが、その子供時代、薬屋にお使いに行くと、おふくろは私に駄賃を二銭呉れた。たばこ屋や豆腐屋に行く時は一銭なのだから、倍額ということになる。

 なぜ倍額かというと、薬屋が遠くにあるためで、薬屋が遠いということは、市中にそれだけ薬屋がすくないということになる。

 今の東京では、とても倍額というわけには行かない。せいぜい半額だ。

 そのかわり、昔の薬屋は堂々として.いて、老舗(しにせ)タイプが多くて、ごてごてと宣伝ポスターを貼り出すこともせず、もの静かに営業していた。現今の薬屋にくらべて、はるかに貫禄があった。

 もっとも少年の私は、しよつちゅう薬屋にお使いに行くことはなかった。二箇月に一遍か三箇月に一遍で、つまり市民が薬屋から売薬を買うことは、ごくめずらしいことであった。今みたいに、湯水のごとく薬をのむことをしなかったのだ。

 常備薬というと、富山の薬などで間に合っていたのではないかと思う。少年の私は何かというとひまし油をのまされて、うんざりした静見えがある。

 ひまし油なんて、私はこの三十年、のんだことはない。私の子供たちにものませたことはない。

 おやじの子供の時の苦労をしのばせるために、一度のませたいと思っているが、まだその機会がない。御承知の通り、あれはたいへんのみにくい薬である。

 それをのみたがらない子供の私に対して、おふくろはおどしつけるように言った。

「これなんかまだいい方だよ。肝油なんか、もっともっとのみにくいよ」

 これよりもっともっとひどい薬があるのかと、子供の私は人生に絶望しながら、涙と共にそのひまし油をのんだものである。

 ところでその上廻る肝油というのを、私はまだ一度ものんだことはない。経験のために一度のんどけば良かったと思う。何ごとも経験だ。

 でも、この間吉行淳之介に会った時、僕は喘息(ぜんそく)という病気に一度もかかったことはないが、経験のため一度かかってみたいものだ、と話したら、彼は突然すごい眼付きになって、人工的に喘息を起す薬がありますよ、と私をにらみつけた。

 彼はひどく喘息に悩まされた経験があるから、このような初心(うぶ)な甘っちょろい心構えに、腹を据えかねたのだろう。私はぞっとして、即座にあやまった。

 何はともあれ、吾ひと共に、売薬をのみ過ぎる傾向があると思うが、どんなものだろう。

 しかし、人工的に喘息を起す薬があるなんて、本当かしら?

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第六回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年五月二十二日号掲載分。因みに、梅崎春生の死因(昭和四〇(一九六五)年七月十九日逝去)は肝硬変である。

 「ひまし油」漢字では「篦麻子油」と書く。「篦麻」はトウダイグサ目トウダイグサ科トウゴマ(唐胡麻)Ricinus communis のことを指し、その種「子」から採取する植物油の謂いである。但し、その強い毒性は必ずしもよく認識されていないと思うので(ごく最近、本邦で夫をこれで殺害しようとした妻が逮捕されたニュースを見た)、ウィキの「トウゴマ」から引いておく。『種子から得られる油はひまし油(蓖麻子油)』が知られるが、この『種にはリシン(ricin)という毒タンパク質がある』。『学名の Ricinus はラテン語でダニを意味しており、その名のとおり果実は模様と出っ張りのため、ダニに似ている。トウゴマは栽培品種が多くあり、その植生や形態は個体によって大きく変化し、あるものは多年生で小さな木になるが、あるものは非常に小さく一年生である。葉の形や色も多様であり、育種家によって分類され、観葉植物用に栽培されている』。『一属一種。原産は、東アフリカと考えられているが、現在では世界中に分布している。公園などの観葉植物として利用されることも多い』。種子は四〇~六〇%の『油分を含んでおり、主にリシノリン』『などのトリグリセリドを多く含むほか、毒性アルカロイドのリシニンも含む』。『トウゴマの種は、紀元前』四千年頃に『つくられたエジプトの墓所からも見つかっている。ヘロドトスや他のギリシャ人旅行者は、ひまし油を灯りや身体に塗る油として使用していたと記述している。インドでは紀元前』二千年頃から『ひまし油を灯りや便秘薬として使用していたと記録されている。中国でも数世紀にわたって、内用・外用の医薬品として処方されている。日本では、ひまし油は日本薬局方に収録されており、下剤として使われる。ただし、猛毒であるリシンが含まれているため、使用の際は十分な注意が必要である。特に妊娠中や生理中の女性は使用してはならない。また、種子そのものを口にする行為はさらに危険であり、子供が誤食して重大事故が発生した例もある』とする。ウィキの「リシン」によれば、リシンは『猛毒であり、人体における推定の最低致死量は』体重一キログラ当たりたったの〇・〇三ミリグラムで、毒作用は服用から十時間後程度で発生、その機序は『たんぱく質合成が停止、それが影響していくことによる仕組み』拠るとある。『リシン分子はAサブユニットとBサブユニットからなり、Bサブユニットが細胞表面のレセプターに結合してAサブユニットを細胞内に送り込む。Aサブユニットは細胞内のタンパク質合成装置リボゾームの中で重要な機能を果たす28S rRNAの中枢配列を切断する酵素として機能し、タンパク質合成を停止させることで個体の生命維持を困難にする』。『吸収率は低く、経口投与より非経口投与の方が毒性は強いが、その場合の致死量はデータなし。戦時中はエアロゾル化したリシンが、化学兵器として使用された事もある。また、たんぱく質としては特殊な形をしているため、胃液、膵液などによって消化されず、変性しない』。また、『現在、リシンに対して実用化されている』科学的に有効と断定される『解毒剤は存在しない』とある。

 「この間吉行淳之介に会った時、僕は喘息という病気に一度もかかったことはないが、経験のため一度かかってみたいものだ、と話したら、彼は突然すごい眼付きになって、人工的に喘息を起す薬がありますよ、と私をにらみつけた」「第三の新人」の作家吉行淳之介(大正一三(一九二四)年~平成六(一九九四)年:梅崎春生より九歳年下)は二十で気管支喘息と診断され(召集時で即日帰郷となるが翌年に再び甲種合格となっている。但し、召集前に終戦となった)、昭和二七(一九五二)年には肺結核も発覚するなど、多くの病気を抱えていた。満七十歳で肝臓癌により亡くなっている。

 「人工的に喘息を起す薬」梅崎春生は疑っているが、アスピリン(ドイツ語:Aspirin:正式名「アセチルサリチル酸」(acetylsalicylic acid)。代表的な消炎鎮痛剤のひとつで非ステロイド性抗炎症薬。「アスピリン」はドイツのバイエル社が名付けた商標名)や非ステロイド性抗炎症薬(Non-Steroidal Anti-Inflammatory DrugsNSAIDs:市販品を例にとるなら「バファリン」・「セデス」・「ノーシン」等が該当する)やNSAIDsが含まれる注射薬・座薬・湿布や塗り薬などで誘発される「アスピリン喘息(Aspirin-induced-asthma)」を考えるならば、ある、と言える。医学博士酒井康弘氏のサイト内の「アスピリン喘息(Aspirin-induced-asthma)」を参照されたい。]

2016/07/08

芥川龍之介 手帳2―13及び14

《2-13》

In a dream : an eye without lashes immense, undefined, covered with bluish mist, bleard, sightless. I said : “See it !  It has the look of someone crying out, ―― calling out night !”

[やぶちゃん注:力技で訳してみる。

夢の中でのこと、『睫毛のない一つの目……それは巨大で、茫漠としていた……青みがかった霧に覆われて、ぼやけていて、目に見えない。私は言った。「これを見よ! これは誰かが叫んでいるように見える、――それは夜を大声で呼んでいる!』……

よき訳の御教授を切に乞う。]

 

○海が一面に雲つてゐるが向うの山際だけ水銀のやうに細くふるへながら光つてゐる 山はうすい その海を時々帆を二枚張つただるま船がとほる

[やぶちゃん注:前の英文との関係性が何かありそうに私には見える。]

 

今昔の本朝六396 女 男に對するlove  男――蛇 觀音殺蛇 女――失戀

[やぶちゃん注:「今昔の本朝六396」の意味が不詳。『「今昔」物語集』の巻「六」は「本朝」部ではなく、『震旦(しんだん)部付佛法』でしかもこの叙述に合うような話は載っていない。但し、『「今昔」物語集』の巻十「六」の『「本朝」付佛法』にならば、『山城國女人依「觀音」助遁「蛇」難語第十六』(山城の國の女人(によにん)觀音の助けに依りて蛇(へみ)の難を遁れたる語(こと)第十六)というかなり有名な話が載る。これは京都府木津川市山城町綺田(かばた)にある真言宗普門山蟹満寺(かにまんじ)の縁起の古形種の一つである、「蛇の婿入」型と「蟹の恩返し」型の異類婚姻系に観音霊験譚を結合したもので、観音の信者である娘が捕えられた蟹を哀れに思って救って放生(ほうじょう)、農夫は同じように蛙を救おうと吞み込まんとした蛇にうっかり娘をやる約束をしてしまい(「猿の婿入」型と相同)、夜、その娘を蛇が貴人に化けて婿にしようとやって来るのを、娘が命を救った蟹が千万の同胞とともに襲って挟み殺すというストーリー展開である。当初、私の好きな原話(何を隠そう、この大挙して押し寄せて蛇を散々に挟み殺す蟹が好きなのである)を電子化しようとも思ったが、原話とこの記載は大きくずれており、ピンとこないのでやめた。悪しからず。]

 

《2-14》

○兩側は甘茶やつきあたりの松山に日が當つてゐる 路はその山に向つてなだらかに下りる 路も■すやも日はささぬ 松山のうしろの山も日はささぬ 空は鳩羽鼠の雲斑々 靑空の色はうすかつた

[やぶちゃん注:「甘茶や」続く描写から見て、「甘茶」に並列助詞の「や」でここで文は切れていると読む。而して「甘茶」は灌仏会で用いる甘茶の原材料となる双子葉植物綱ミズキ目アジサイ科アジサイ属アジサイ節アジサイ亜節アジサイ属原種(本邦自生種)ガクアジサイ Hydrangea macrophylla f.normalis変種アマチャ(甘茶) Hydrangea macrophylla var. thunbergii(これを乾燥させたものを煎じて作った飲料が真正の「甘茶」)をであろう。私自身も実は永らく誤認していたが、全く異なる種であるウリ科の蔓性多年草、双子葉植物綱スミレ目スミレウリ科アマチャヅル属アマチャヅル(甘茶蔓) Gynostemma pentaphyllu の葉または全草を使った茶も「甘茶」と称し、一時、健康野草飲料ブームで人口に膾炙したが、これは真正の「甘茶」ではないと思う。但し、ここで芥川龍之介が両サイドに繁っている(と読む)描写するのは後者でないとは言えない。寧ろ、雑草として繁茂して目立つのは後者のアマチャヅルの方だからである。]

 

Maternity 母と子(軍歌をうたひ步す 夕方) triumph of maternity

[やぶちゃん注:「triumph of maternity」とは「母であることの勝利」或いは「母の凱旋」か。]

 

○娘――shy

      >love

 妻――shy

[やぶちゃん注:流石にこの判じ物では意味不明である。幾らなんでも、母子レズビアンとも思われない。]

 

Enemy 妻夫の死後その情婦たる疑ある女にその祕密を明させんとす 然るにその女實は夫を love detest されしものなり その爲反つて情婦たりしものの如く裝ひ妻の心をやぶらんとす

[やぶちゃん注:「Enemy」は「敵」、「detest されし」は「ひどく嫌われた」の意。あんまり気持ちのいい作品にはなりそうに、ない。]

 

○今昔十四 保憲晴明共占覆物語第十七

[やぶちゃん注:これも数字がおかしいのであるが、「今昔物語集」の『卷二「十四」』になら「保憲晴明共占覆物語第十七」(保憲(やすのり)・晴明(せいめい)、共に覆物(おほふもの)を占ふ語(こと)第十七(じふしち))があるが、実はこれ、総ての伝本に於いて、題名のみで本文が残っていないのである。「保憲」は陰陽師(おんみょうじ)賀茂保憲(かものやすのり 延喜一七(九一七)年~貞元二(九七七)年:丹波権介賀茂忠行の長男で、安倍晴明の師とも兄弟子とも言われる)、「晴明」は言わずと知れた日本史上最強のゴースト・バスター安倍晴明(延喜二一(九二一)年~寛弘二(一〇〇五)年)のことである。昭和四九(一九七四)年小学館刊「日本古典文学全集 今昔物語集三」(馬淵・国東・今野校注・訳)の同章の解説には、『前々話および前話に関連づけて、陰陽道の双壁、賀茂保憲と安倍晴明の術道の神妙を伝えた話。表題より推察するに、覆いを透視して中の品物を言い当てる試合だったらしい。詳細が不明なので断定は避けるが、類話かと思われるのは』、「簠簋(ほき)抄」(安倍晴明が編纂したと伝承される占術書で正式には「三國相傳陰陽輨轄簠簋内傳金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)」であるが実際には晴明に仮託された後代の書である。「簠簋」とは古代中国で用いられた祭器具の名)や古浄瑠璃の「信田妻(しのだづま)」などで馴染み深い安倍晴明と蘆屋道満(あしやどうまん)との『術比べ譚である。その話では、両者互いに譲らず、最後に暗明が呪力で櫃(ひつ)中の品を別の品に変えて勝利を収めたとする。なお、賀茂家と安倍家は平安中期以降中世を通じて、本朝陰陽道の支配権を分かった二大勢力で、前者がいわゆる勘解由小路(かげゆのこうじ)流、後者がいわゆる土御門流の陰陽道である。こうした事実を踏まえる時、両統の始祖的存在である保憲と晴明を争わせた本話は、見方によっては、両流の優劣を寓した説話だったとも解せよう』とある。

 或いは芥川龍之介は、この欠本を補うべく、天魔自在のフェイクを構想したのではあるまいか? 或いは「奉教人の死」よろしく、確信犯偽書断簡を創ろうとしたのではなかったか? やってたら、ゼッタイ、面白かったろうになぁ!]

芥川龍之介 手帳2―12

《2-12》

○自分の尊敬する人の自分に對する評價を當てにして自信を保つてゐる男 相手の評價が實はnegativeなるを知ると共に自信を失ふ

[やぶちゃん注:「negativeは否定的で、尊敬する彼の評価は皮肉なものであったのであり、それに気づかずに「尊敬」もし、自身の「自信」としていた訳で、第三者見れば滑稽にして失笑せざること能わざるものであるが、それ以上に自身にとって救いようがない絶望である。芥川龍之介好みの主題であり彼の諸作の設定中にしばしば垣間見られるものではあるが、そのまま直球では作品たり得ない。]

 

○二人の友の話

[やぶちゃん注:ずっと後の短篇に「二人の友」(大正一五(一九二六)年二月)がある。一高で芥川龍之介がドイツ語を習った福間博先生が、実は森鷗外の小倉三部作の第三作とされる「二人の友」(大正四(一九一五)年)に登場する「F君」であることを最初に明かし、当時の福間先生の洒落の好きな好ましい人柄を親友久米正雄らをダシにして面白く語りつつ、福間先生が亡くなった折りの葬儀の導師を勤めたのは、まさにやはり鷗外先生の「二人の友」の今一人の友(書生)であった「若い僧侶」、鷗外の家内では「安国寺さん」と呼んでいた人物であった、と明かすという、実に洒落た小品である。しかし既に、龍之介には自裁計画が構想されていた時期の追懐文の一つでもある。]

 

○日本の歷史にもクリスト出現の當時奇蹟ありしを語る(或はオリンプス時代ありしをも)文書――南蠻僧に成るもの 或は

[やぶちゃん注:「オリンプス時代」Olympus」ギリシャの神々がその山頂に住んだオリンポス山からギリシャ神話の時代の意。キリストどころかギリシャ神話も日本にあったとする日ユ同祖論(これ自体は明治期に来日したスコットランド人のニコラス・マクラウド(ノーマン・マクラウド(Nicholas McLeod Norman McLeod 一八六八年~一八八九年)が日本と古代ユダヤとの相似性に気づいて調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱、体系化している。詳しくはウィキの「ユ同祖論を参照されたい)もぶっとんだ、日本神話とギリシャ神話を同一視する、私の愛する漫画家諸星大二郎と星野之宣をごった煮にして遙かに超える構想か!? 面白い! 読みたかった!!!]

 

うるがん伴天連京都へ入る話――美しき惡魔の告白

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年六月発表の「悪魔」の構想メモ。これは私の好きな短篇でごく短いので、注の後に電子化しておく(底本は岩波旧全集を用い、傍点「ヽ」は太字とした)。

「うるがん伴天連」は戦国末期の日本で宣教活動を行ったイタリア人宣教師でカトリック司祭(イエズス会員)グネッキ・ソルディ・オルガンティノ(Gnecchi Soldi Organtino 一五三三年~慶長一四(一六〇九)年)のこと。ウィキの「グネッキ・ソルディ・オルガンティノによれば、『人柄が良く、日本人が好きだった彼は「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」と多くの日本人から慕われ』、三十年に亙って『京都で過ごす中で織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者と』もなった。。元亀元(一五七〇)年五月一五日(ユリウス暦六月十八日)に来日、『天草志岐にその第一歩をしるし』、『まず日本語と日本の習慣について学』んだ後、天正元(一五七三)年から天正二(一五七四)年に『かけて法華経を研究した』。『オルガンティノははじめから京都地区での宣教を担当し、ルイス・フロイスと共に京都での困難な宣教活動に従事』、実に天正五年から三十年の永きに『わたって京都地区の布教責任者をつとめた。持ち前の明るさと魅力的な人柄で日本人に大変人気があった。パンの代わりに米を食べ、仏僧のような着物を着るなど、適応主義を取ったことで日本人からの受けがよく、着任』三年にして『近畿地方における信者数を』千五百人から一万五千人に『増やしたという』。最後は長崎で病いに倒れ、そのまま七十六歳で没している。

   *

 

 惡魔

 

 伴天連うるがんの眼には、外の人の見えないものまでも見えたさうである。殊に、人間を誘惑に來る地獄の惡魔の姿などは、ありありと形が見えたと云ふ、――うるがんの靑い瞳を見たものは、誰でもさう云ふ事を信じてゐたらしい。少くとも、南蠻寺の泥烏須如來を禮拜する奉教人の間には、それが疑ふ餘地のない事實だつたと云ふ事である。

 古寫本の傳ふる所によれば、うるがんは織田信長の前で、自分が京都の町で見た惡魔の容子を物語つた。それは人間の顏と蝙蝠の翼と山羊の脚とを備へた、奇怪な小さい動物である。うるがんはこの惡魔が、或は塔の九輪の上に手を拍つて踊り、或は四つ足門の屋根の下に日の光を恐れて蹲る恐しい姿を度々見た。いやそればかりではない。或時は山の法師の背にしがみつき、或時は内の女房の髮にぶら下つてゐるのを見たと云ふ。

 しかしそれらの惡魔の中で、最も我々に興味のあるものは、なにがしの姫君の輿の上に、あぐらをかいてゐたと云ふそれであらう。古寫本の作者は、この惡魔の話なるものをうるがんの諷諭だと解してゐる。――信長が或時、その姫君に懸想して、たつて自分の意に從はせようとした。が、姫君も姫君の双親も、信長の望に應ずる事を喜ばない。そこでうるがんは姫君の爲に、言を惡魔に藉りて、信長の暴を諫めたのであらうと云ふのである。この解釋の當否は、元より今日に至つては、いづれとも決する事が容易でない。と同時に又我々にとつては、寧ろいづれにせよ差支へのない問題である。

 うるがんは或日の夕べ、南蠻寺の門前で、その姫君の輿の上に、一匹の惡魔が坐つてゐるのを見た。が、この惡魔は外のそれとは違つて、玉のやうに美しい顏を持つてゐる。しかもこまねいた兩手と云ひ、うなだれた頭と云ひ、恰も何事かに深く思ひ惱んでゐるらしい。

 うるがんは姫君の身を氣づかつた。双親と共に熱心な天主教の信者である姫君が、惡魔に魅入られてゐると云ふ事は、唯事ではないと思つたのである。そこでこの伴天連は、輿の側へ近づくと、忽尊い十字架(くるす)の力によつて難なく惡魔を捕へてしまつた。さうしてそれを南蠻寺の内陣へ、襟がみをつかみながらつれて來た。

 内陣には御主耶蘇基督の畫像の前に、蠟燭の火が煤ぶりながらともつてゐる。うるがんはその前に惡魔をひき据ゑて、何故それが姫君の輿の上に乘つてゐたか、嚴しく仔細を問ひただした。

 「私はあの姫君を墮落させようと思ひました。が、それと同時に、墮落させたくないとも思ひました。あの淸らかな魂を見たものは、どうしてそれを地獄の火に穢す氣がするでせう。私はその魂をいやが上にも淸らかに曇りなくしたいと念じたのです。が、さうと思へば思ふ程、愈墮落させたいと云ふ心もちもして來ます。その二つの心もちの間に迷ひながら、私はあの輿の上で、しみじみ私たちの運命を考へて居りました。もしさうでなかつたとしたら、あなたの影を見るより先に、恐らく地の底へでも姿を消して、かう云ふ憂き目に遇ふ事は逃れてゐた事でせう。私たちは何時さうなのです。墮落させたくないもの程、益墮落させたいのです。これ程不思議な悲しさが又と外にありませうか。私はこの悲しさを味ふ度に、昔見た天國の朗な光と、今見てゐる地獄のくら暗とが、私の小さな胸の中で一つになつてゐるやうな氣がします。どうかさう云ふ私を憐んで下さい。私は寂しくつて仕方がありません。」

 美しい顏をした惡魔は、かう云つて、涙を流した。……

 古寫本の傳説は、この惡魔のなり行きを詳にしてゐない。が、それは我々に何の關りがあらう。我々はこれを讀んだ時に、唯かう呼びかけたいやうな心もちを感じさへすれば好いのである。……

 うるがんよ。惡魔と共に我々を憐んでくれ。我々にも亦、それと同じやうな悲しさがある。

   *

「泥烏須」は「でうす」と読む。]

 

○姦通されし夫とその妻(姦夫を憎める)とその姦夫(夫を憎める)とのtriangle 最後に夫、妻と姦夫とを殺す。

○村の習俗として姦夫姦婦を罪す 古代

[やぶちゃん注:「古代」「村の習俗として姦夫姦婦を罪す」とあるのが、古墳時代以前に遡る男女の三角関係構想だとすると(この頃の龍之介は実際、前の記載を見れば判る通り、神代物に強い関心を示していたことは事実である)、これまた、仮想龍之介ワールドが広がってくるぞ!]

芥川龍之介 手帳2―11

《2-11》

○(サイダの廣告を拜(オガ)む狂人)

[やぶちゃん注:「オガ」はルビ。このシチュエーションは結局、使用されていないものと思う。]

 

○(鐡嶺丸船中にコレラ起り馬關に上陸を禁ず 故に船中花歌骨牌をなす(莫連女二人))

[やぶちゃん注:「鐡嶺丸」明治三八(一九〇五)年の旅順開城とともに満州開発の先駆として日満航路(大阪大連線)が開設就航されたが、翌年、追加就航した旅客船に「鉄嶺丸」二千百四十三トンが神戸基隆線から配転されたことが須藤康夫氏のサイト「百年の鉄道旅行」の日満航路から確認出来る。なお、この船は明治四三(一九一〇)年七月二十二日(大連発大阪行)に木浦沖の海域で沈没、約二百人が亡くなっている。

「馬關」山口県下関の古称。中心部である下関港周辺は古く「赤間関(あかまがせき)」と呼んだが、これを「赤馬関」とも書いたことに由来する。

「花歌骨牌」「はながるた」と読む。花札。

「莫連女」「ばくれんをんな(ばくれんおんな)」と読み、すれていてずるがしこい女のこ「あばずれ」「すれっからし」と同義であるが、そもそも「莫連」自体がそうした不良少女や悪婦に用いられることが多い。語源は「連なふ莫(なか)れ」というこの語の訓読に由来する。]

 

○女 男が己を戀せるものと思ひ夫にそれをつぐ 夫男と絶ゆ 女後にそれを悔ふ 而して己のその男を戀せるを知る

[やぶちゃん注:「悔ふ」はママ。旧全集では「悔う」と訂されてある。この構造式をまともにとると、龍之介作品にはありそうで、ない。]

 

○三等切符で二等へのつたハイカラを車掌へ密告する海軍大尉夫人の話

[やぶちゃん注:「三等切符で二等へのつた」というシチュエーションだけならば、佳品「蜜柑」(大正八(一九一九)五月)に使われるが、ここに出る構想全体はあまり面白そうでない。]

 

     妻

○子供<  >adultery 子供の告白

    靑年

[やぶちゃん注:「adulteryは姦通。当該作は、ない。]

 

○聖母マリア吉原の女郎となる話 道中の途中より昇天す

[やぶちゃん注:個人的には、これは是非とも書いて欲しかった。]

 

○鎌倉の宮の案内人の話を噓なりと云ふ女の話

[やぶちゃん注:「鎌倉の宮」これは鎌倉市二階堂にある鎌倉宮のことであろう。ここにかつて後醍醐天皇皇子護良(もりなが)親王が「土牢(つちろう)に幽閉された」と伝え、現在もその復元された土牢があるが、これは嘘っぱちで(ここに建てられた通常の御所への軟禁)、この「噓」とよく響き合う。私の植田孟縉(うえだもうしん)著「鎌倉攬勝考七」の「大塔宮ノ土牢」から私の注も含めて引く。

   *

大塔宮ノ土牢 東光寺跡の山麓にあり。窟にはあらず。土穴なり。其中を覘(のぞ)き見るに、二階に掘て二間四方あまり、又一段低き所は凡九尺四方も有べき所。深さ六尺許、上の二間四方許の所も深さ七八尺、みな赤き地なり。【太平記】の作者、みだりに、尊氏將軍の爲に潤飾を設て、武威は嚴盛なることを書たるものなり、將軍の在世の内に、【太平記】全部出來し、將軍の一覽にも備へしといふこと、今川了俊が記にものせたり。夫ゆへ兵部卿親王を、地中の牢へ入奉ると記せしより、土俗口碑に傳へて、土穴の中、入置奉りしことにおもへり。是【太平記】の説に因て、此妄談は起りたるものならん。是に限らず、これに擬て造れるもの、所々の舊跡に多く見へたり、【保暦間記】【梅松論】等も、尊氏將軍の爲に書たるものゆへ、潤飾多けれども、是等の書には土の牢とはしるされず、藥師堂谷の御所にとめおけども、又は牢の御所ともかけり。四面を禁錮し入置奉れば、牢の御所なることは勿論なり。【保暦間記】にいふ、尊氏兵權をとらば、むかしの賴朝にも替るべからず。此次に誅罸せらるべしと、大塔宮申されけるを、帝、さしもの軍忠の人をとらへ、其儀なし。彼宮種々の謀を廻し、尊氏を討んとせしかど、東國の武士多く尊氏方なりし上に、譜代の武勇なれば、輙もうたれずと云云。此親王は、尊氏の武將の機あることを、能見給ひしゆへなり。武き親王にて渡らせ給へば、その思食立れしも謂れなきにしもあらず。尊氏やがて其叔母にして、准后につかへ申せしを、帝遂にまとひ給ふより、護良王の災厄となれり。尊氏將軍ならびに直義には、主君なれば、たとへおのれが讐敵なる親王にもせよ、帝より預り奉りければ、土中へ入置奉り、飮食滓穢(おんじきしわい)をひとつにすべきや。また弑し奉れることは、其翌年七月、凶徒鎌倉へ攻入しかば、上野親王成良〔十二歳。〕・義詮〔六歳。〕此人々を伴ひ出れば、兵部卿宮は容易に請ひかたく、且は足利家の仇にてましませば、直義が時に取ての幸ひとして、淵邊伊賀守義博に下知して弑し奉りしなり。直義が主君を失ひし罪惡、終には天の譴(せめ)を得て、おのれも毒殺せられ、跡たえけり。

[やぶちゃん注:「輙も」は「たやすくも」と訓じている。「飮食滓穢をひとつにすべきや」『いくらなんでも、親王を、飲食と排泄を一緒くたにするような劣悪なる土牢の中に籠め置くなんどということがあり得ようか、いや、ない』の意である。「滓穢」の「滓」もけがれの意で、「滓穢」で『けがれ』の意の熟語である。排泄の忌み言葉として用いている。大塔宮の土牢は、現在、鎌倉宮の中の「あったとされる場所」に、私の出た國學院大學の故樋口清之氏の「復元」によって、「リアルに再現」されている。植田の土牢への疑義にもある通り、この「復元」された土牢は、郷土史研究家の間ではすこぶる付きで評判が悪い、ということは付け加えておきたい。]

   *

これも鎌倉好きの私としては、是非、書いて欲しかったな、龍ちゃん!]

 

○小石川2719

芥川龍之介 手帳2―10

《2-10》

○日蓮の受難。【傘張/漁師】――俗人 若き禪僧――傍觀者 ◎良寛――反對者 侍――半信半疑 ◎放下師――一切を滑稽化せんとする世間智 ◎漁夫――信者 童子――Joyの人格化 ◎時宗――爲政者 最後の天變

[やぶちゃん注:「【傘張/漁師】」は底本では【 】や/があるのではなく、二行割注であることを示した。「Joy」は感性としての「心からの喜び」の意であろう。全く異なる構想のランダムなメモ書きなのか、良寛が入り込んでいるのが、寧ろ、面白い。日蓮と北条時宗の部分は丁度、最近、私が電子化注した「北條九代記 卷第九 日蓮上人宗門を開く」をリンクしておくのが注としてはこれ以上、最適なものはなかろうと存ずる。]

 

○病人と看護婦 蠅をつかまへると病人が寐ごとにいたいと云ふ話 赤い月

[やぶちゃん注:個人的には非常に面白い構想である。読みたかった。]

 

○妓王と妓女 姉妹の嫉妬 佛に對する感謝 而して後佛に對する嫉妬

[やぶちゃん注:「手帳8」にも「祇王 祇女」の記載があり、未定稿に岩波新全集が「妓王と妓女」と仮題した断片が存在する(但し、執筆は編者の推定で大正一三(一九二四)年とあり、本手帳の執筆時期からはかなり経過している)。新全集を底本としつつ、恣意的二正字化して示す。

   *

 治承二年二月……日

 人は皆わたしのことを仕合せだ仕合せだと云つてゐる。が、わたし自身に云はせれば羨まれるほど仕合せではない。侍はもとより女房たちさへ表にはちやんと愼んでゐながら、陰では始終わたしのことを白拍子の癖になどと輕蔑してゐる。殊に若殿ばらの惡ふざけをするには精も根も盡きてしまふ。一本立ちの白拍子ならば、ああ云ふうぬ惚れの強い靑二才などに指一本ささせはしないのだが、

 けふも亦お母樣から手紙が來てゐる。しかし又無心かと思ふと、封を切つて見る氣にさへならない。どうしてあんなにお母樣は慾に渇いてゐるのだらう? 誰か若い男にでもひつかかつてゐるのかも知れない。いや、さう云ふ素振りでも見えれば、妹から何とか云つて來る筈だ。何しろ祇女と來た日にはそれは又

   *

「治承二年」(ユリウス暦一一七八年)と「白拍子」「祇女」から、この構想の断片と見て間違いなかろう。

「妓王」(ぎわう(ぎおう) 生没年未詳)は、平安時代末期の白拍子で「祇王」とも書く。ウィキの「妓王によれば、『平家の家人・江部九郎時久の娘。近江国祇王村(現・滋賀県野洲市)に生まれる。生誕の地には妓王の菩提を弔うために建てられた妓王寺が現存する』。『母の刀自』(とじ:本来は固有名詞ではない。中年以上の婦人を尊敬して呼ぶ語である)、『妹の妓女』(ここに出る「妓女」がそれ)『とともに、京都で有名な白拍子となり、平清盛に寵愛された』。「平家物語」の第一巻六「祗王」に登場する。『干ばつで苦しむ故郷の村人を救うために、生まれ故郷の野洲に水路を作るよう清盛に頼んだ。そして、その川は祇王井川と呼ばれ現存する。その後、入道相国(清盛)の寵は仏御前に移り、祇王にはぱったりそばに召す沙汰がこなくなってしまう。仏はそもそも技量に恃んで飛び込みで芸を売込んだのだが、清盛に門前払いをくらうところを祇王に取りなしてもらった建前、彼女に恩義を感じ、声をかけるようにうながしたところ逆効果で、清盛は妓王を追い出せと命ずる。去り際に妓王が障子に書き残した一首が』、

   萌え出づるも枯るるも同じ野邊の草いづれか秋にあはで果つべき

『である。支給も止められた冷遇の末、仏御前の慰め役までやらされるという屈辱を味わわされ、自殺を考えるまでに至る。しかし、母の説得で思い止まり、母の刀自、妹の妓女とともに嵯峨往生院(現・祇王寺)へ仏門に入る』。当時数え二十一歳であったとされる。『祇王寺にある碑には「性如禅尼承安二年壬辰八月十五日寂」とあるが、その「性如禅尼」は妓王の事を指すとされており』、承安二年八月十五日(一一七二年九月四日)に死去したとされている。しかし、「祇王忌」は旧暦二月十四日とされ、『春の季語になっている。一方で、妓王がとりなし、清盛に寵愛された仏御前は』承安四(一一七四)年に『上京したとされているため矛盾が生』ずることにもなる。従って事蹟や没年の年代同定も確かには出来ないから、芥川龍之介が治承二年二月を設定したのも問題はなく、寧ろ、この二月は上記「祇王忌」の二月十四日との強い親和性を感じさせると言える。龍之介はもしかすると、祇王を生かしておいて、遁世を逝去に偽装した話などを構想したものではなかろうか?]

 

physical worldpsychologyに對するinfluence

[やぶちゃん注:「physical world」は「外界・自然界・物質界」の、「psychology」は「心理・心理学・心理状態」の、「influence」は「影響・感化」の意。]

 

○陸上生活}Lave の人造化■■にのぼるよりする

 海上生活}self-respects ■を加へよ

[やぶちゃん注:self-respectsは自尊心。ダーウィンの進化論を使ったSF的構想か? 或は両生類的生物である河童から、「河童」(大正一一(一九二二)年五月)に繋がる初期構想メモの可能性もある。]

ギョーム・アポリネール詩 イヴェット・ジロー唄 「ミラボー橋」

……小さな頃から……このレコードを聴いた……忘れられぬ歌、忘れられぬイヴェット・ジローの歌声……

警官隊について   梅崎春生

[やぶちゃん注:『新日本文学』昭和二七(一九五二)年七月号に初出。本日公開した梅崎春生の「被告は職業ではないで語られている、「血のメーデー」事件の当時の春生自身の生のサブ・リポートとも言えるものである(雑誌『世界』のための本リポートはこれに先立って公開した『世界』初出のである)。

 底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

 若い読者のために一言言っておくと、冒頭の「人民広場」は皇居前広場のことである。]

 

 

   警官隊について

 

 一九五二年五月一日。人民広場にて。

 青い鉄兜(てつかぶと)をかぶり、警棒をかまえて、警官隊がずらずらと整列している。それを見た時、私はなにか異様な感じにおそわれた。

 それは先ず、あたまの鉄兜の下の、あの一様な無気味な表情だ。それは表情というよりどんよりとした無表情にちかい。鋳型でつくられたような、あの動きのない仮面のような表情。

 あの表情は、軍隊以外にはない。

 あらゆる思考と感情を磨滅させ、一個の人間器械になったものの顔だ。

 単なる団体だったら、そんな一様な表情になるわけがない。濠ばたの自動車が炎上した時、消防隊がかけつけて来たが、さすがに消防隊の連中には、そんな表情の者は、一人もいなかった。もっと人間的な顔をしていた。

 ずらずらと並んだあの顔々を思い出すと、私は今でも、背筋がかすかにあわ立つような感じになる。単なる団体訓練が、ああいう表情を産み出す筈がない。意識的に何かを磨滅させるような教育や訓練方法が採られているにちがいないのだ。

 そしてその整列が、隊長らしい者の命令一下、すさまじい喚声をあげて、警棒をふりかざして、おそいかかってくる。

 軍隊の突撃の要領とまったくそっくりだ。

 眼を吊り上げ、顔の半分ぐらいを口にして、突撃してくる。

 戦時中、誰だったかある画家の、日本軍の突撃を正面から描いた戦争画があったが、その絵の中の顔と同じ顔だ。その絵はもちろん、当時の戦意昂揚のために描かれたものだが、ほとんど獣じみた顔に描かれてあって、ほんとにいやな印象だったことを、私は覚えている。

 ファナティックで、非人間的で、歯をむき出した獣のような表情。

 

 算を乱して逃げまどうデモ隊や一般市民に対して、彼等のやり方は、情容赦もなかった。倒れて動けなくなった者に対して、踏む、蹴る。そして、あの重い警棒で、力まかせに頭をなぐりつける。

 それは単に、デモ隊員の戦闘力をうばおうといった程度のものでは、絶対になかった。その程度をはるかに行き過ぎていた。血まみれになって、ぐったりと横たわっている女子に対しても、更にその警棒は打ちおろされた。

 鉄カブトと制服を捨てれば、ふつうの若い青年なんだろうに、そういう青年たちを、こんなに残虐な非人間的な方向に押し進めたのは、誰か。

 もう日本のあちこちで、新しい「真空地帯」が始まっているのだ。そしてそこで、集まってきた青年たちの思考と感情をすりへらし、その代りに非人間的なものを詰め込む作業が、組織的に大がかりに開始されている。

 その連中の一人が、濠ばたを通行中の一般市民にむかって、

「貴様ら。この売国奴!」

 という罵声をあびせかけた。警官隊の一人が、一般市民に向かってだ。

 なんという滑稽な、そしておそろしい倒逆だろう。

私はみた   梅崎春生

[やぶちゃん注:岩波書店発行『世界』昭和二七(一九五二)年七月号に初出、後に高見順編「目撃者の証言」(同年九月青銅社刊)に再録。本日公開した梅崎春生の「被告は職業ではないで語られている、「血のメーデー」事件の当時の春生自身の生のリポートである。

 底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

 文中に出る「永井潔君」は左派の画家永井潔(大正五(一九一六)年~平成二〇(二〇〇八)年)であろう。ウィキの「永井潔によれば、昭和八(一九三三)年に『第一高等学校に入学するも後に中退。梅崎春生・西口克己等と知り合う』ともある。]

 

   私はみた

 

 デモ隊第一波の先頭が、馬場先門に着いた時、そこからすこし広場に入ったところに、私はいた。私のすぐ傍では、三百名ほどの武装警官隊が、殺気立った風情で、待機していた。しかしどういうわけか、彼等はすぐに、ひとかたまりにまとまって、広場への道を開放し、デモ隊との衝突を回避する態度をとった。そしてデモ隊は、道いっぱいの幅で、二重橋めざして、広場になだれこんだ。二重橋前に、先頭が到着したのは、それから五分もかからなかったと思う。

 二重橋前の広い通路の両側には、人の背丈ほどの鉄柵(てっさく)があり、鉄柵の外側は幅一米ばかり余地があって、そこから濠になる。私はそこにいた。その狭い場所には、デモ隊ではなく、私同様の一般市民が、たくさんいた。柵にとりついていたかなり年配の男が、遠くを指さしながら、

「ほら警官が走ってくるぞ。あそこから走って来るぞ」

 と叫んだ。私も柵にとりつき、背伸びをすると、林立した組合旗の彼方に、急速に近づいてくる鉄兜(てつかぶと)の形がたくさん見えた。しかし老人のその叫びにも拘らず、デモ隊の連中は、あまりそちらに注意を向けていないように見えた。二重橋前に到着したという安堵感が、デモ隊の緊張をゆるめていたように思われる。

 そして、デモ隊の右側を駈け足で走り抜けた警官隊は、警棒をふりかざして、斜めにデモ隊に殺到した。私はあの一瞬の光景を、忘れることは出来ない。ほとんど無抵抗なデモ隊(一般市民も相当にその中に混っていた)にむかって、完全に武装した警官たちは、目をおおわせるような獰猛(どうもう)な襲撃を敢えてした。またたく間に、警棒に頭を強打され、血まみれになった男女が、あちこちにごろごろころがる。頭を押さえてころがった者の腰骨を、警棒が更に殴りつける。そしてそれを踏み越えて、逃げまどうデモ隊を追っかける。私は鉄柵の外側だったから、一応の安全地帯にあった。私はつぶさにそのやり方を見た。

 警官隊の襲撃は、なかなか組織立っていて、日頃の訓練を充分しのばせた。警棒は、立っているものに対しては、必ずその頭部をねらう。デモ隊に後頭部の負傷者が多かったのは、逃げて行くところを、背後からねらい打ちされた為だ。倒れている者に対しては、腰部又は腹部をねらう。そこを殴ると、動けなくなるということを、彼等は充分に知り、またその訓練を経てきたに違いない。デモ隊の散発的な反撃にくらべて、警官たちのそのやり方は、その非人間的な獰猛さにおいて、圧倒的であった。僅か三百名ほどの人数で、数千のデモ隊に対し得たのも、ひとえにその非人間的な暴力の故である。私の見た限りでは、最初に暴力をふるって挑発したのは、明かに警官側であり、「組織された暴徒」とは、デモ隊のことではなく、完全武装のこれら警官隊であった。 

 

 鉄柵を乗り越して、私たちのいる狭い通路に、警官が一人おどり込み、鉄兜を剝ぎとられて、濠の中に投げこまれた。顔面血だらけになって、立ち泳ぎしている。ふっと右手を水から出して、人差指でおいでおいでするような恰好をする。陸上の同僚に向かって、早くこの俺をたすけろ、という合図だ。どうやってたすけるのかなと思って、眺めていると、二三人の警官が狭い通路に飛び込んできて、矢庭に警棒をふりかざして、私たちに迫ってきた。私たちは押し合いへし合い、ほとんど濠の中におっこちそうになりながら、懸命に逃げた。逃げながら、ふっと横を向くと、スケッチ帖をかかえた永井潔君がいる。

「スケッチどころの騒ぎじゃないや」

 鉄柵を乗り越そうとする時、あぶなくひっぱたかれそうになった。ころがるようにして逃げた。一般市民の女までが、殴(なぐ)り倒されているのだから、俺はデモ隊員じゃないと言っても、それは通らない。狂犬みたいに、手当り次第飛びかかってくるのだから、逃げるより他に手はないのである。 

 

 女は、どうして、あんなに直ぐ、転ぶのだろう。男とくらべて、重心が不安定なのか。

 警官たちも、一人で深入りするのは恐いものだから、転んだ者にたかる傾向が大いにあった。転んで起き上ろうとする女の、腰部めがけて、三度四度とつづけざま警棒を打ちおろす。あるいは後頭部を殴りつける。頭には血管がたくさん集まっているせいか、ぱっと勢よく血がふいて、上半身はほとんど血まみれになってしまう。

 また、警官隊の一部には、女性に対する嗜虐的な傾向が、はっきりと認められた。単に殴るだけでなく、スカートの裾から、警棒をぐんと上へ突き上げる。女の髪をつかんで、あおむかせ、顔面を殴りつける。両三度、それを見た。

 もちろんこういう傾向は、デモ隊の抵抗が薄弱な時に、あらわれた。デモ隊が反撃に出ると、警官隊もそれどころじゃなくなり、女なんかほったらかして、当面の男たちと渡り合う。あるいは、算を乱して逃げる。彼等は、一人だけで群衆の中に残されたらどうなるか、よく知っているので、逃げる時はほとんど我先だ。同僚なんかは遺棄して逃げる。不運にして遺棄された同僚は、群衆(デモ隊外の者も含む)の怒りの真只中で、平たくなってしまう。退潮(ひきしお)に乗りそこねて、渚(なぎさ)に取り残された鰈(かれい)みたいなものだ。 

 

 ピストル発射について。

 私たちは初め、あれが実弾発射の音だとは、夢にも思わなかった。発煙筒(催涙ガス筒を、私は最初、ただの発煙筒だと思っていたのだ)の栓か何かを抜く音だろうと思っていた。日本人が同じ日本人を撃つなんて、とても信じられなかった。

 私が聞いた音だけでも、百発は優に越えていたように思う。

 催涙ガスにしても、威嚇(いかく)のためか気勢を上げるための発煙筒だと思っていたので、その煙にいきなり取り巻かれた時は、大いに狼狽した。涙がむちゃくちゃに流れ、眼なんかほとんどあいていられない。鼻や口腔が、ひりひりと痛む。その煙の彼方から、警官隊が追って来るのが見える。ハンカチで顔をおおい、時に眼をちらちらあけて、永井君と二人で夢中で逃げた。やっと煙のないところまで逃げのび、松の木の根元に坐りこんだ。眼が元通りになるまで、二十分ぐらいかかった。私などは、比較的煙がうすいところだったので、それで済んだが、濃厚な煙にあたったものは、もっと悲惨であった。松の根元に身体をくねらせ、もだえながら、

「お母さん。お母さん」

 と若い女が号泣している。煙でやられ、そこを警棒で打ちのめされたのだ。それを看護隊の人達が、かつぎ上げるようにして、手当所に連れてゆく。あちこちの急設手当所では、血まみれになった重傷者たちが、芝生の上にごろごろと、うめきながら横たわっている。

 その看護隊の自動車の運転手の免許状を、警官隊が没収したという。重傷者たちを、勝手に運び去らせないためである。免許状がなくては、自動車は動かせない。だから、至急に病院に運びこむ必要があるような重傷者たちが、応急の手当をうけただけで、草原に苦悶しながら横たわっているのだ。何という無茶な話だろう。 

 

 日比谷方面で黒煙があがるのを、私と永井君は広場の中から見た。そして私たちが、そこまで行くのに、三十分以上かかった。やっと祝田橋の上まで来た時、自動車はもう三四台燃え上っていた。

 もうその頃は、乱闘発生から二時間以上も経っていたので、デモ隊以外の一般市民や通行人たちも、明瞭な反警官気分を持っていた。警官隊のやり方が、あまり非人間的過ぎたからである。とにかく衆人環視の中で、自動車が引っくりかえされ、それに火がつけられる。警官隊がおしよせると、その犯人たちは、人垣にたすけられて、姿をくらましてしまう。手技カバンをさげた通行人たちも、むしろそれをかばい、警官隊から守るような傾向が、強くあらわれていた。

 そういう四面楚歌(そか)の雰囲気を、警官隊もはっきりと感知していたらしい。必要以上に神経質になったり、必要以上に威嚇的になったりしていた。罪もない通行人をなぐつたというのも、おそらくそういう心理からだ。鉄兜、警棒を持たない者は、全部敵に見えたのだろうと思う。孤立感のようなものが、たしかに彼等を烈しくいらだたせていた。

 私たちが、日比谷公園寄りの歩道を、交叉点に向かってゆっくり歩行していると、警官隊の一人が、目をつり上げ、警棒を威嚇的にふりかざしながら、

「貴様らあ、まごまごしてると、ぶったくるぞ。貴様らの一人や二人、ぶっ殺したって、へでもねえんだからな」

 それから、もう一人、

「一体貴様らは、それでも日本人か!」

 この罵声は、さすがに私たちを少なからず驚かせ、また少なからず笑わせた。まるで、犬か猫から、「こん畜生!」と罵られたような感じであった。しかしこの事は、笑いごとでは済まされない。翌日からの商業新聞の報道の仕方や、政府側、警察側の発表ややり方などは、ほとんどこの種の倒逆を示していたからだ。たとえば無抵抗の人間を警棒で殴って負傷させ、その被害者たちを、怪我しているという理由だけでもって逮捕するなど、言語道断のやり方である。

 以上、当日見たり聞いたり感じたりしたことの一部だけ。

 

被告は職業ではない 梅崎春生

  被告は職業ではない

 

 あの日――というのは昭和二十七年五月一日のこと、馬場先門を守っていた武装警官隊が、どうしてさっとひとかたまりにまとまって、広場への道を開放したのか、私にはよく判らない。

 阻止しようとするなら、そこで阻止すべきであったのだ。それをそうしなかったのは、衝突を回避するというより、何かたくらみがあったものとしか思えない。だからデモ隊は、遣いっぱいの幅で、二重橋めざして、なだれ込んだ。私もおくれじとばかり、デモ隊の横にくっついて走った。

 多少の危険も予測されたが(日比谷交叉点で両者の間に小ぜり合いがあった印象から)、私もまだ若かったし、それにデモ隊にくっついて行く義務みたいなものがあった。

 私は雑誌「世界」から頼まれて、この日のメーデー見聞記を書くことになっていたのである。多少の危険なんかで、尻ごみしてはいられない。五分後には二重橋前に到着した。

 そこでデモ隊は気をゆるめたらしい。私にはそう見えた。遠足の目的地についた小学生のように、緊張を解いて、汗をふいたり腰をおろしたり、歌をうたったりしていた。そのデモ隊の右側をかけ足で走り抜けた警官隊が、警棒をふりかざして、方向を変えて斜めにデモ隊に殺到したのだ。それはまことに問答無用、情容赦もないやり方で、デモ隊と言っても一般市民も相当にその中に混っていたが、それらがまたたく間に頭や身体を引っぱたかれ、血だらけになって、あちこちにごろごろころがる。ころがったものの腰骨に、警棒がさらに打ちおろされる。それを踏み越えて、逃げまどうデモ隊を追っかける。

 あの日のメーデー事件は、こういう形ではじまった。

 二重橋前の広い通路の片側に、人の背丈ほどの鉄柵があり、その外側は幅一メートルばかりの余地があって、そこから、濠になっている。

 臆病な私が逃げまどうことなく、つぶさにその暴行を眺め得たのも、鉄柵の外側にいたからだ。それに、こいつらのやることを見ておかねばならぬという使命感みたいなものが、私をそこに釘づけにした。

 そのうちに鉄柵外も安全地帯でなくなって、警官が一人おどり込み、勢い余って濠の中に墜落、顔中血だらけになって立ち泳ぎをしている。

 昔見た「目撃者」という映画で、ピストルで打たれたギャングの一人が、血だらけになって這い上った大写しがあつたが、そのシーンをその時私は思い出していた。というとたいへん呑気なようだけれども、どんな危急な場合でも、連想というものは奇妙にはたらくものである。

 それから続いて警官が二三人通路に飛び込んで来て、警棒を振り廻し始めたので、私たちは押し合いへし合い、ころがりそうになりながら逃げた。

 あとは安全地帯を求めて右往左往、途中でガス弾にやられて眼を痛めたので、もう広場の外に出たいと思ったけれども、馬場先門の入口は新着の武装警官が固めていて、這い出る隙間もないのである。

 結局騒動の最後までつき合い、祝田橋から脱出した。出不精の私にとっては、実に記録的な一日であった。そしてその日のことを「世界」の八月号に書いた。

 その記事のためだろうと思うが、それから四年後の三十一年春、私はメーデー事件の弁護側証人となり、五回にわたっていろいろなことを証言させられた。

 それまで私は裁判というものにあまり知識はなかったが、検事というものは弁護側証人から真実を引き出すというよりも、いかにしてこの証人の証言があてにならないか、そこに力点を置いているらしいことが初めて判った。小さいところをこつこつとつついて混乱させようとするのだ。

 これには私も困った。記憶というものは、碁盤の目みたいに整然と、頭におさまっているわけではない。四方八方からつつき廻されると、つい矛盾したことになったりするのである。

 また歳月のために若干変質している部分もあって、たとえばさっき警官が勢い余って濠の中に飛び込んだと書いたが、そして法廷でも私はそう証言したが、検事側はいきり立った。

 「それじゃあなたの書いたものと違うじゃないか」

 すると弁護人側から異議が出て、それじゃその文章を検事は証拠物件として提出せよ、と迫ったので、検事はその質問をあわてて引っ込めてしまった。もちろん私の文章が警官隊には不利であるからだ。

 その日家に戻って「世界」の文章を調べてみると、なるほど違う。私はこう書いている。

「鉄柵を乗り越して、私たちのいる狭い通路に、警官が一人おどり込み、鉄かぶとを剝ぎとられて、濠の中に投げ込まれた」

 そう書いたのが、どうして自発的に飛び込んだように記憶が変質したのか、自分ながらよく判らない。

 元来記憶というものは、そんなものであろうと思う。でも、そういう変質や矛盾は枝葉末節の部位であって、大元のところでは私は大体正確に証言し得たと思う。

 たとえば、どちらが先に手を出したか、こんなことは間違いようがないのだ。

 そのメーデー裁判が、今なお続いている。第一審の判決にまで、まだ到達しない。

 この間なんかは検察側証人として出廷した某警官が、偽証をおこなったことが判明した。

 偽証したからには、これは罰せられねばならぬ。ところが検事はこれを起訴しなかった。不起訴処分にしたのだ。

 これはたいへん無茶な話で、法廷でうそをついても起訴されないのなら、次々に証人として出て来る諸警官たちも、自分の都合のいいように曲言するにきまっている。これは子供にだって判る理屈だ。

 裁判長もこれにはあきれて(?)はなはだ遺憾であるとの意を表明したら、何とかという検察側のおえら方が、そんな発言は裁判官の行き過ぎだ、というようなことを言ったそうだ。

 何かが逆立ちしているんじゃないか。

 この長い裁判の最大の犠牲者は、被告たちである。私がメーデー事件につき合ったのは、当日と五日の証言日だけだが、被告たちはあれから八年、ずっとつき合い放しである。

 検事や判事もつき合っていると言えようが、彼等はそれが職業であるし、つき合っていることで月給もきちんきちんと上るし、また途中で転勤ということもある。

 ところが被告は、被告であることが職業ではない。他に職業を持っていて、その暇を無理にぬすんで出廷して来るのだ。

 またメーデー事件の被告ということだけで、まともな職業につけない、つまり雇う方で敬遠するという事情が多分に存在するらしい。

 それが一年や二年なら我慢出来ようが、すでに八年その状態が続いているし、これからもどのくらい続くか、はっきりした予想は立っていないらしい。

 人生の一番大切な時期を、そんなことについやすのは、泣いても泣ききれない気持だろうと思う。どうにかならぬものか。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第五回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年五月十五日号掲載分。

 ウィキの「血のメーデー事件」によれば、以下のように書かれてある(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した。下線は私が引いた。これは梅崎春生が実際に体験した事実とは全く異なる描写である)。『GHQによる占領が解除されて三日後の一九五二年(昭和二十七年)五月一日、第二十三回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「人民広場(注:皇居前広場)の開放」を決議していた。本来のデモ隊の解散予定であった日比谷公園から北朝鮮旗を翻した朝鮮人を含む一部のデモ隊がそのまま皇居前広場に乱入するなど暴徒化して混乱は午後五時半ごろまで続いた』。『この日、行進を行ったデモ隊の内、日比谷公園で解散したデモ隊の一部はその中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ二千五百名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出て、交差点における警察官の阻止を突破して北に向い、その途中では外国人(駐留米国軍人)の自動車十数台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら無許可デモ行進を続け、馬場先門を警備中の約三十名の警察官による警戒線も突破して使用許可を受けていなかった皇居前広場になだれ込んだ。これに対し、警視庁は各方面予備隊に出動を命じた』。『乱入したデモ隊は二重橋前付近で警備していた警察官約二百五十名に対し、指揮者の号令で一斉に投石したり、所持していた棍棒、竹槍で執拗な攻撃を繰り返して警察官一名を内堀に突き落とし、他の多くの警察官も負傷する状態に至り、警察部隊は止むを得ず後退を始めた応援の予備隊が到着して、その総数は約二千五百名となったが、デモ隊は数を増して約六千名となった上、組織的な攻撃も激しくなった。警察部隊は催涙弾を使用したが効果は上がらず、警察官の負傷者が増加したため、身体・生命の危険を避ける目的で止むを得ず拳銃を発砲し、ようやくデモ隊は後退を始めた』。『この間にもデモ隊は警察官三名を捕え、棍棒で殴打して重傷を負わせ外堀に突き落とし、這い上がろうとする彼らの頭上に投石した。同時に別のデモ隊は外国人自動車等に棍棒、石ころを投げ、駐車中の外国人自動車十数台を転覆させて火を放ち、炎上させた。デモ隊と警察部隊の双方は激しく衝突して流血の惨事となった。デモ隊側は死者一名、重軽傷者約二百名、警察側は重軽傷者約七百五十名(重傷者約八十名が全治三週間以上、軽傷者約六百七十名。さらに』四年後の昭和三一(一九五六)年一月に『頭部打撲の後遺症で法政大学学生一名が死亡)、外国人の負傷者は十一名に及んだ』。『当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。出動した警視庁予備隊は後の機動隊であり、警察予備隊とは異なる』とある。以下、その後の同事件の裁判経過の部分。『デモ隊からは千二百三十二名が逮捕され、うち二百六十一名が騒擾罪の適用を受け起訴された。裁判は検察側と被告人側が鋭く対立したため長期化し』、実にこの梅崎春生の記事が書かれてから十年後(その間、昭和四〇(一九六五)年七月十九日に梅崎春生は肝硬変のために死去している)、『一九七〇年(昭和四五年)一月二十八日の東京地裁による一審判決は、騒擾罪の一部成立を言い渡したが、一九七二年(昭和四十七年)十一月二十一日の東京高裁(荒川正三郎裁判長)による控訴審判決では、騒擾罪の適用を破棄、十六名に暴力行為等の有罪判決を受けたほかは無罪を言い渡し、検察側が上告を断念して確定した』。『国会では事件直後から事件の責任をめぐり、与野党間で激しい応酬があり、六月には相次ぐ騒乱事件の対処不手際や破壊活動防止法案・集団示威運動等の秩序保持に関する法律案の制定企図に反対する立場から衆議院で木村篤太郎法務総裁の不信任案が提出されたが、否決された』。『なお、同時期に白鳥事件、吹田事件、大須事件、曙事件や中核自衛隊・山村工作隊による事件など起こった。一方で、公安警察による菅生事件も起きた。事件発生の五ヵ月後に行われた総選挙で日本共産党は全議席を失った。同水準の議席数を回復したのは一九七〇年代のことであった』とある。因みに、東京大学女子学生であった樺美智子(かんばみちこ 昭和一二(一九三七)年十一月八日~昭和三五(一九六〇)年)さんが安保闘争で亡くなったのは、この「血のメーデー」から八年後の昭和三五(一九六〇)年六月十五日のデモ隊(全学連主流派による先導)が衆議院南通用門から国会に突入し、警官隊と衝突した際である。満二十二歳であった。

 『雑誌「世界」』昭和二〇(一九四五)年十二月創刊の岩波書店発行の総合雑誌。この当時の編集長(初代)は「君たちはどう生きるか」(初版は新潮社で昭和二三(一九四八)年刊)で知られる、作家で反戦ジャーナリストの吉野源三郎(明治三二(一八九九)年~昭和五六(一九八一)年)。]

2016/07/07

芥川龍之介 手帳2―9

《2-9》

○男 女を愛しその女他の男と結婚す 蓋女男を愛ししかも男の愛を知らざる也 後 男嫉妬の爲に夫を殺す 女はじめて男の love を知るの thema

[やぶちゃん注:強いて言えば、「開化の殺人」(大正七(一九一八)年七月)であるが、遙かに複雑で、しかも、「女はじめて男の love を知るの thema」ではないから違う。既に注したが「Thema」は「theme」(テーマ:主題)の語源のドイツ語の綴りであって誤記ではない。向後はこの注は略す。]

 

○利休のアンニユイ

[やぶちゃん注:「アンニユイ」はアンニュイ(フランス語ennuiで、退屈・倦怠。]

 

○新井白石――These + Antithese

[やぶちゃん注:「These」「Antitheseもドイツ語で、例のヘーゲルの弁証法の「テーゼ」(定立)と「アンチテーゼ」(反定立)。]

 

○荻生徂徠――紫雲

[やぶちゃん注:これは江戸中期の大儒荻生徂徠(をぎふそらい(おぎうそらい) 寛文六(一六六六)年~享保一三(一七二八)年)の末期に関わるエピソードと関係があるメモと読んだ。『日本医史学雑誌』第五十四巻第二号(二〇〇八年)の京都蘇生会総合病院の杉浦守邦氏の荻生徂徠の死因(PDF)に(ピリオド・コンマを句読点に代えた)、『徂徠の臨終にあたっての情況については中井竹山の「非徴」に、「徂徠の病むや、日々侍者に宣言して曰く『宇宙俊人の死に必ず霊怪あり,今当に紫雲の舎を覆う有るべし.汝等出でて之れをみよ』と。病せまるに及び、輾転呼号して、紫雲口を絶たず。……以て良死に非ずと為す」とある。これから死の直前に狂騒状態ともいえる脳症状のあったことが推測されるが、別に胸内苦悶を訴えたという記録はない』とあるのが注目される。因みに杉浦氏は徂徠の死因は、『医史学者富士川游は、原念斎の「先哲叢談」に「徂徠、浮腫ヲ病ミテ終ワル」とあるのをひいて、心臓病か腎臓病であろうとしている』のであるが、病態と年齢からみて『心臓病や衝心脚気』『は否定され』、『最初から浮腫が主症状であってこれが再燃を繰り返したこと、病気の経過が』二年にも『及んだこと、安静が保てないため徐々に重症化していったこと、死に際して狂騒状態を呈して妄想または幻覚と見られる尿毒症様症状を示しことなどから、その死因を慢性腎炎と判断して誤りないものと考えられる』と結論なさっておられる。]

 

○賴山陽――as man

[やぶちゃん注:頼山陽(らい さんよう 安永九(一七八一)年~天保三(一八三二)年)は大坂生まれの歴史家・思想家・漢詩人。主著「日本外史」は幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベスト・セラーとなった。詳しくは参照したウィキの「頼山陽を見られたい。]

 

○女が男だと思はれてゐる話 Saint Maria

[やぶちゃん注:芥川龍之介が死」のネタ元でありながら、終生隠し通した、パリ外国宣教会のカエル・スタイシェン神父Michael Steichen 一八五七年~一九二九)著「聖人伝」の「マリナ」のことである。リンク先は私の古い電子テクストである。]

芥川龍之介 手帳2―8

《2-8》

○地獄變。(右二ケ條書き加へよ)

 ⑴大殿は地獄變の屛風と共に娘を返す約束をす ⑵良秀始めは娘を忘れず次第に仕事に熱中す

[やぶちゃん注:「地獄變」は『大阪毎日新聞』及び『東京日日新聞』(毎日新聞東京本社発行)の夕刊に大正七(一九一八)年五月に連載された。但し、「⑴大殿は地獄變の屛風と共に娘を返す約束をす」るというシークエンスは現行のそれには、ない(リンク先は私の電子テクスト)。

 

       {パツチ

○田代金十郎傳{

       {反動的心理(例未定)

[やぶちゃん注:「{」は底本では大きな一つ。「田代金十郎」は不詳。「パツチ」は股引(ももひき)の意のパッチ(音は朝鮮語からとされる)のことか、それとも並列されている「反動的心理」(反動形成のこと。抑圧されて無意識になっている欲求が意識や行動に現れないようにするために、それと正反対の意識や行動に置き換えられる心理機制を指す。意識・無意識の両方で発生し得る防衛機制の一種である)に即すならば、意識の連絡を一時的に補正・修正・接続調整することを指すかは、不明である。「田代金十郎」なる人物が分かれば、答えは出るかも知れぬ。識者の御教授を乞う。]

 

○圓朝の研究(論文)

[やぶちゃん注:夏目漱石が落語好きであったことはよく知られているが、芥川龍之介が三遊亭円朝の落語研究を志していたことは余り知られているとは思われない。ここでも誰かの論文ではなく、芥川龍之介自身が目論んだ論文と読みたい。私の言が眉唾と思う方は、岩波書店の円朝全集」見本(リンク先は公式サイト内)の編集委員の二〇一二年六月の「編集にあたって」という文章に(ピリオド・コンマを句読点に代えた)、『それらの諸作は速記術による口語文体で書かれ、多くの読者に迎えられた。幸田露伴は明治文学に最も功労のある人物として、円朝と黙阿弥を挙げ、円朝の文章界における貢献を讃えている。この評価は、文体を模索していた二葉亭四迷に、円朝の落語(はなし)の通りに書いてはどうかと坪内逍遥が勧めたことでも、納得し得る。影響は文体のみに留まらない。夏目漱石の『琴のそら音』は『怪談牡丹燈籠』を念頭においての作であり、正岡子規は『名人競(錦の舞衣)』を聴いて、小説の趣向かくこそありたけれと悟るなど、枚挙に遑(いとま)がない。ただ残念なのは、芥川龍之介が円朝研究を志しながら、果たさず早世したことである』とあるのである。龍之介と落語の観点から見れば、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の中込重明氏の「落語・講談」の項の解説によれば、龍之介の「鼻」には落語「王子の狐」の、「首が落ちた話」には「首提灯」の影響があるとする村松定孝氏の論考があるという。]

 

○西廂記論

[やぶちゃん注:「西廂記」「せいさうき(せいそうき)」は芥川龍之介が大学時分から耽読し続けた元代の王実甫の手になる戯曲で全二十一幕。十四世紀初頭の元代の王実甫の作になるとされる戯曲で、中国戯曲史上最高傑作とも呼ばれる。唐中唐の詩人元稹(げんしん 七七九年~八三一年)が書いた小説「会真記」(別名「鶯鶯伝」)を、金の董解元(とうかいげん)が語り物した「西廂記(董西廂)」を戯曲化したもので、故宰相の娘崔鶯鶯(さいおうおう)と科挙登第を志す学生張君瑞が様々な障害を乗り越えた末に結ばれるハッピー・エンドの物語。これも従って誰かの論文ではなく、龍之介自身の目論んだものに違いない。「西廂記」への言及は龍之介全作品中でも本記載を除いても六回にも及び、特に上海の「十七 南國の美人(下)」では(リンク先は私の注附き電子テクスト)、

   *

 「芥川さん。」

 余洵氏は老酒(ラオチユ)を勸めながら、言ひ憎さうに私の名を呼んだ。

 「どうです、支那の女は? 好きですか?」

 「何處の女も好きですが、――支那の女も綺麗ですね。」

 「何處が好(よ)いと思ひますか?」

 「さうですね。一番美しいのは耳かと思ひます。」

 實際私は支那人の耳に、少からず敬意を拂つてゐた。日本の女は其處に來ると、到底支那人の敵ではない。日本人の耳には平(たひら)すぎる上に、肉の厚いのが澤山ある。中には耳と呼ぶよりも、如何なる因果か顏に生えた、木の子のやうなのも少くない。按ずるにこれは、深海の魚が、盲目(めくら)になつたのと同じ事である。日本人の耳は昔から、油を塗つた鬢(びん)の後(うしろ)に、ずつと姿を隱して來た。が、支那の女の耳は、何時も春風に吹かれて來たばかりか、御丁寧にも寶石を嵌めた耳環なぞさへぶら下げてゐる。その爲に日本の女の耳は、今日のやうに墮落したが、支那のは自然と手入れの屆いた、美しい耳になつたらしい。現にこの花寶玉(くわはうぎよく)を見ても、丁度小さい貝殼のやうな、世にも愛すべき耳をしてゐる。西廂記(せいさうき)の中の鶯鶯(あうあう)が、「他釵軃玉斜橫。髻偏雲亂挽。日高猶自不明眸。暢好是懶懶。半晌擡身。幾囘搔耳。一聲長歎。」と云ふのも、きつとかう云ふ耳だつたのに相違ない。笠翁(りつおう)は昔詳細に、支那の女の美を説いたが、(偶集(ぐうしふ)卷之三、聲容部)未嘗この耳には、一言(ごん)も述べる所がなかつた。この點では偉大な十種曲の作者も、當に芥川龍之介に、發見の功を讓るべきである。

   *

と原文まで引用し、本作への読みの深さと彼の並々ならぬ思い入れをよく伝えている。]

芥川龍之介 手帳2―7

《2-7》

○探偵。

○聯想實驗法の衝突する例

[やぶちゃん注:「聯想實驗法」は私の『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 無意識』の私の注を是非、参照されたい。]

 

Occurred objectivity =支考

[やぶちゃん注:これは明らかに以下と同じく、芥川龍之介の「枯野抄」(大正七(一九一八)年十月『新小説』)の支考の心理設定である。「Occurred objectivityとは、まさしくあそこ、瀕死の師芭蕉の枕頭にあって、自己内部に「発生してしまった」ところの冷徹にして打算的な「客観的実在性」、その認識である。これが最初に書かれていることによって、龍之介はやはり「枯野抄」のメインの登場人物として予め、支考を据えていたことが判明すると言える。]

 

○川舟 ○芭蕉の死に對する門弟の態度(花屋日記) F⑴支考去來 壓迫去る感 B⑵丈艸 利己的さびしさ A⑶乙州 悲哀享樂 E⑷支考 悔恨(一度師の死をねがひし) C⑸正秀 芭蕉門下なる事を師の柩と同舟する事によりて示さんとする心 ⑹惟然 今度は己の番だと思ふ心 D⑺其角 女に對する欲望

[やぶちゃん注:「川舟」これは非常に興味深い。芥川龍之介は実は当初、「枯野抄」の冒頭と末尾を当時制とし、義仲寺へ芭蕉の遺骸が川船で送られるシークエンスを配するつもりだったのである! 即ち、既に芭蕉が「屬纊」(しょっこう)に就いた後、揺られる川船の中で、門弟らがそれぞれに自己のおぞましい内実に想到して悔恨恐懼するという設定が初案であったということである。それは「⑸正秀 芭蕉門下なる事を師の柩と同舟する事によりて示さんとする心」によって確実と断定してよい。このアラビア数字へのアルファベットの附し方の相違が、描写順をどうするかを、技巧上、思案した跡がよく窺える。ここに出る弟子を(Ⅰ)アラビア数字順のもの、(Ⅱ)アルファベット順のもの(アルファベットのない惟然は同位置とする)、そして(Ⅲ)現行のそれ(正秀は慟哭のみ)と並べて見る。完成作で中核を成す三人、去来に下線を、支考を□で囲み、丈草を太字にしてみた。

Ⅰ 去来丈艸→乙州→支考→正秀→惟然→其角

Ⅱ 乙州→丈艸→正秀→其角→支考→惟然→去来

Ⅲ 其角→去来→正秀→乙州→支考→惟然→丈草

の順になる。ここではまず「其角 女に對する欲望」という設定を変更したことによって(私はこれは今の「惟然」との相似形より面白くなると思うが、それが最初の心理解剖に相応しいかというと、やや疑問でもある。ともかく「枯野抄」はもう少し整理するか、こうした思い切った意外の内心を暴露する方が飽きがこないとは思う。それでも私は芥川龍之介の作品中、十本指には入れたい佳作とは思うている)、それが枕として軽くなって先頭に配置換えとなり、去来の神経症的心理がコーダには相応しくないと考えて、丈草が俄然、重要人物として最後に繰り下がったことが判る。即ち、我々が強烈な衝撃を受けるところの、「丈艸のこの安らかな心もちは、久しく芭蕉の人格的壓力の桎梏に、空しく屈してゐた彼の自由な精神が、その本來の力を以て、漸く手足を伸ばさうとする、解放の喜びだつたのである。彼はこの恍惚たる悲しい喜びの中に、菩提樹の念珠をつまぐりながら、周圍にすすりなく門弟たちも、眼底を拂つて去つた如く、脣頭にかすかな笑(ゑみ)を浮べ」る丈草は当初は作品のメインではなかったということを意味するのである。因みに、私の高校教師時代の芥川龍之介「枯野抄」やぶちゃんの授業ノートなども御笑覧戴けると幸いである。

「花屋日記」真宗僧で俳人の文暁(ぶんぎょう 文曉享保二〇(一七三五)年~文化一三(一八一六)年:俗姓は藁井(わらい)。肥後八代の真宗仏光寺派正教(しょうきょう)寺(熊本県八代市本町に現存)住職。蕉風俳諧の復興に尽力した僧蝶夢らと親交があり、小林一茶は彼を慕って寛政四(一七九二)年暮から三ヶ月に渡って同寺に滞在したという)の著になる「芭蕉翁終焉記花屋日記」(文化八(一八一一)年刊)のこと。上下二巻。上巻には芭蕉の発病から終焉・葬送に至る模様を伝える門人たちの手記を、下巻には門弟・縁者の書簡を収めるが、多量の先行資料を組み合わせて文暁が創作した偽書である。正岡子規は本作を読んで落涙、「其角の書ける終焉記はこの日記などに據りて作る」「世界の一大奇書」「十數年間人の筐底にありて能く保存せられたるは我等の幸福にして芭蕉の名譽なり」(「芭蕉雜談」)と絶賛(彼は真作と思っていた)、芥川龍之介は「枯野抄」を書くに当って本作を主素材としたが、実は既にこの頃、学界では本作の偽作説が提出され、支持されており、芥川は本作が偽作であることを薄々感づいていたとも、知っていて確信犯で素材に用いたとも言われる。私は全文PDFしている。]

 

materialist 支考がやぶられる

[やぶちゃん注:「materialist」は「物質主義者・唯物論者」の謂い。ここは前者の方がしっくりくる。]

 

○第二世之助の話 最もよき妻は貞淑なる娼婦 業火燃える時のみ口説くに成功す 口説きたき女ほど口説く氣せざる矛盾

[やぶちゃん注:「第二」とあるが、「世之助の話」(大正七(一九一八)年四月『新小説)』)の内容と、大差はない。そもそも女護ヶ島へ渡る別れの酒宴という設定で、女に対する反復性にすっかり白けてしまった「第一」の「世之助」に「第二」は、ない、と私は思う。]

 

○カンガルーの話

[やぶちゃん注:大正九(一九二〇)年の動物園」に、

   *

 

       カンガルウ

 

 腹の袋の中には子供が一匹はひつてゐる。あれを出してしまつても、まだ英書利の旗か何かが、出て來はしないか。

 

(初出。作品集『夜來の花』に所収されたものは、『腹の袋の中には子供が一匹はひつてゐる。あれを出してしまつても、まだ英書利の旗か何かが、手品のやうに出て來はしないか。』と「手品のやうに」が加えられている。個人的にはこの追加は好ましく思わない)とはある。]

 

○漢竹楚帛

[やぶちゃん注:「漢竹」は「かんちく」或いは古くは「からたけ」と訓じ、中国渡来の竹(多くは笛材とした)で、寒竹(かんちく)・真竹(まだけ)・淡竹(はちく)・布袋竹(ほていちく)などを指し、また「かはたけ(かわたけ)」と読むと、清涼殿東廂の左奥にある植え込みの竹を指した(「河竹」とも書く)が、ここは次の「楚帛」との関連で、古代中国に於いて竹(或いは木片)の上に文字を書いて紐で繋いだ書簡「簡書(かんしょ)」のことである。「楚帛」(そはく)の「楚」は「漢」と同じく漠然とした中国を指すもので「帛」は絹、絹布を書写材として用いて文字を書いた「帛書(はくしょ)」のことである。]

芥川龍之介 手帳2―6

《2-6》

○紅茶 戀人の妊娠を墮胎せしむる話

○人面瘡 自分の顏が向うの膝へ出る話 役者立𢌞りの時膝をうつて怪我す

[やぶちゃん注:偶然か、或いはそれに触発されたメモか、全く同時期の谷崎潤一郎に大正七(一九一八)年三月号『新小説』発表の「人面疽」があるが、若き日に期待して読んだもののすこぶる退屈だっただけに(多分、これが私が大の谷崎嫌いになる濫觴である。「蘆刈」以外は好きな作品が一向ない)、芥川龍之介のこれは是非とも読んでみたかった。しかし谷崎の「人面疽」が出た後では、二番煎じを免れず(前半の叙述は、死んだ乞食青年の顔が、主人公の女優が撮った覚えのない映画で演じた作品の女の膝に、人面疽となって生きて出ているという、谷崎の捩じれた入れ子構造ホラーの「人面疽」に酷似している)、プライドの高い龍之介としては書きようがなかったではあろう。しかし、よく考えてみると、前の「戀人の妊娠を墮胎せしむる話」というのは如何にも谷崎好み(そのような小説を知らないが)であるものの、これも合わせて、龍之介の好みではないようにも思われてはくる。]

 

○素盞嗚尊――1Revolt  2Maturity 3Elder

[やぶちゃん注:「Revolt」は反逆、「Maturity」は成熟、「Elderは老年で、これは大正九(一九二〇)年三月から六月にかけて、全四十五回に亙って『大阪毎日新聞』に連載された「素盞嗚尊」(すさのをのみこと(すさのおのみこと)」の初期構想である。同作は第六作品集「春服」(大正一二(一九二三)年六月春陽堂刊)では、前半の三十五回分をカットした上、最後の五回分の後に十回分を加筆し、それを別に「老いたる素盞嗚尊」という別題に設えて一種の改稿続編の形で発表している。それによって初期構想の道筋は一応、踏んでいるものの、連載(第一回の掲載は三月三十日)直後から既に執筆は難渋を来たし、五日後の大正九年四月四日佐藤春夫宛書簡(旧全集書簡番号六九一)では『ボク每日糞を嘗めるやうな思ひをしながら素戔嗚尊を書いてゐる一日も早くやめたい一心だけだ』と早くも放棄感情を露わにしており、実際、追加した「老いたる素盞嗚尊」と続け合わせて読んでみても、「素盞嗚」という神でない生の人間としての彼の生涯を叙事詩(次注参照)的に描き切ることには(この構想メモは次の「日本武尊」と比較してもそういう意図を感じとれる)成功していない。次の私の注も必ず参照のこと。]

 

○日本武尊――⑴運命の輕蔑 Pride(熊襲) ⑵運命に祝さる(燒津) ⑶運命に呪はれつつ免る(姫) ⑷運命の勝利(伊吹山)

[やぶちゃん注:芥川龍之介の現存作には「日本武尊」(やまとたけるのみこと)を扱った作品はないが、しかし、先の「顧眄」で挙げた大正七(一九一八)年四月二十四日附薄田淳介宛書簡(岩波旧全集書簡番号四〇七)に近日中に『「顧眄」といふ隨筆を書きますそれがすんだら後で秋にでもなつたら「日本武尊」を書こうかと思つてゐます』と記しており、それが三ヶ月後の同じ薄田宛て葉書(同書簡番号四三八)では、『八月一杯はむづかしいかもしれません書きたいものがあるから書きますは日本武尊か或は素戔嗚尊』と変化している。そうして結局、薄田が文芸部長を務める『大阪毎日新聞』に翌年三月から「素盞嗚尊」を連載し始めることとなるのであるが、同大正九年三月二十七日附の同じ当の薄田宛書簡(同書簡番号六七九)で、『どうもこの間から素戔嗚尊の戀愛が書けないで殆閉口してゐます』、『神代小説なんぞ書き出さなければ好かつたと聊後悔してゐます但エピツクのやうなものを小説で行つて見たいと思つて書き出したのですから或程度うまくい行つたらあなただけでも喝采して下さい』ととんでもないことを言った(私が薄田だったら、微笑十分の一の微苦笑を浮かべている)後、口の乾ぬ間に『彦火々出見尊と日本武尊をも書いてみる心算です』とぬけぬけぬけぬけ言っている(私が薄田だったら、手紙を荒々しくデスクに放っている。だって、同作の連載開始はこの手紙の三日後の三月三十日なのだから)。書簡中の「彦火々出見尊」は「ひこほほでみのみこと」と読み、山幸彦の名で知られる、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の子(母は木花開耶姫(このはなのさくやひめ))。素戔嗚とともに私の愛する悲劇の英雄倭健(やまとたける)とともに、海彦山彦の神話譚を龍之介がどう料理したか、これも読みたかった気が強くする。

「⑵運命に祝さる(燒津)」相模の国で国造に欺かれた倭建が原野で火攻めに遭うも、倭比売から貰い受けたは倭建命に伊勢神宮の神剣草薙剣で草を刈り払って、同じく貰った袋の中の火打石で以って逆に迎え火を放って敵を焼き尽くし(焼遣(やきづ:現在の静岡県焼津)の語源とするもの)、脱出に成功することを指す。

「⑶運命に呪はれつつ免る(姫)」相模から上総に渡る際、走水(はしりみず)の海(現在の横須賀市沖)に於いて神が波濤を起こして遭難せんとした折り、「姫」即ち、后弟橘比売が自ら入水して救うエピソードを指す。

「⑷運命の勝利(伊吹山)」倭健を守護した剣を尾張の美夜受比売に預けたままに伊吹山(現在の岐阜県と滋賀県の境)の神を対決するも、出現した白い大猪を神の使いに過ぎないと誤認(実は神そのものの化身)したため、大氷雨を降らされて失神、病を得、能煩野(のぼの:現在の三重県亀山市)に至って国偲び歌四首を詠じて亡くなるシークエンスを指す。]

 

○寫樂――芝居に life を見 life に芝居を見る

[やぶちゃん注:因みに、芥川龍之介が東洲斎写楽の謎解き物を書いていたら、これはもう、わくわくものである。]

 

○鷗外氏――歌日記 二つの生と一つの死 動植物の生と人間の死

[やぶちゃん注:「歌日記」正確には「うた日記」とひらがな表記で、ウィキの「うた日記」などによれば、明治四〇(一九〇七)年に刊行された、森鷗外の日露戦争に従軍(明治三七(一九〇四)年二月から明治三九(一九〇六)年一月まで第二軍軍医部長として出征)した際の体験に基づく詩歌集。短歌三百三十一首・俳句百六十八句・新体詩五十八篇・長歌九篇から成る。鷗外は。『詩歌を生む戦場心理について、次のように説明している』。『「明治三十七八年役の時を思ふ。……猛烈な交戦が十日も続くやうなことがあつてもその前後に必ず数十日の準備と整頓とがいる。さういふ間に将卒の心は何物を要求するか。……人は神を要求する。……人は詩を要求する。人情の免れることの出来ない要求の常として此二様の心持が出て来る。高等司令部から兵卒の舎営迄(まで)、何処(どこ)にも詩の会がある」』『(与謝野鉄幹の歌集『相聞』に寄せた序文より)』「うた日記」に『ついては後年、佐藤春夫が「一個非常の記録であつてまた非凡な詩歌集を成してゐる」、「未来に寄与するところ多きもの」と絶賛した』(「陣中の竪琴」昭和七(一九三二)年冨山房刊)とある。芥川龍之介の鷗外観及び鷗外の詩歌についての評(かなり辛口)は私の芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 森鷗外を参照されたい。]

 

○畫壁――如夢幻泡影

[やぶちゃん注:「畫壁」は「ぐわへき(がへき)」で、芥川龍之介が偏愛した蒲松齢の「聊斎志異」の第一巻にある「画壁」という朱という青年が寺の壁画に描かれた少女に魅されてしまい、絵の中に導かれてしまうという夢幻譚を指していると考えてよい。少女と睦み合ううち、下界の侵入者を誰何する武者の出現から、結局、朱は現実に帰還するのであるが、その彼に対して寺僧は笑って「幻由人生」(幻しは人に由りて生ず)と答えるのである。

「如夢幻泡影」は一般には仏語として「によむげんはうやう(にょむげんほうよう)」と音で読む。訓ずれば、世は「夢(ゆめ)、幻(まぼろし)、泡(あは)、影(かげ)のごとし」で、この世のことは須らく、実体がなく、空(くう)であるという無常の譬えとしてよく用いられる成句である。]

 

○曾呂利新左衞門の死 洒落のめしつづける爲の死

[やぶちゃん注:「曾呂利新左衞門」(そろりしんざゑ(え)もん)は安土桃山時代の諧謔家で和泉生まれという。元は刀の鞘師を業とし、小口に刀を差入れると、よく「そろり」と入ったことから、この名を称したともいう。豊臣秀吉に仕えたが、話上手でその頓智咄(とんちばなし)は広く民衆にも親しまれた。また香道や茶道にも通じたというが、実在は不明とされる。参照した思文閣の「美術人名辞典」には一説に慶長八(一六〇三)年没とする。なお、岩波新全集の未定稿の中に以下の断片がある(旧全集未収録。新全集版を底本としつつ、恣意的に正字化した)。

   *

 

    曾呂利新左エ門

 

Fancioulle は驚嘆すべき道化ものであつたBaudelaire

 如何なる神のさだめけむ、アリストファネスの昔より、可笑しきものこそ悲しけれ。フォルスタッフあるはまた、ドン・キホオテが高笑ひ、若きハイネにあらねども、誰かは聞くに泣かざらむ。わが日の本の國とても、哀れは同じ道化もの、たとへばひとりワツトオの、薄ら明りに佇める、ピエロが兄か弟か、二股大根の肩衣に、紫裾濃の絹袴、かざす扇は金泥に、日の丸描きしめでたさよ、されど腰には長々と、繪の具眩ゆき大木太刀、さしもさしたる悲しさに、そろりそろりと歩み來る、その名も曾呂利新左エ門、けふは殿下のおん機嫌、よろしからずと聞きしかば、口に慣れたる頓作も、吐かじとよそふ眞面目顏、日頃にあらぬ可笑しさに、石田福島堀加藤、大名も、眼ひき裾ひき袴ひき、笑はぬものこそなかりけれ。さてもその日の御茶の湯は、利休好みのわび自慢、わざと夕に

   *

添え題染みた短文のFancioulle」は「ファンシウール」でシャルル=ピエール・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire 一八二一年~一八六七年)の小散文詩集「パリの憂鬱」(Le Spleen de Paris 一八六九年)の第二十七章Une mort héroïque(英雄的な死)の主人公である宮廷道化師の名。さわら氏のサイト「猫とかわうそ」ので、和訳が読める。その割注によれば、イタリア語“fanciullo”には「少年」の意が、英語の“fanciful”には「空想的」の意があるとする。「ワツトオの、薄ら明りに佇める、ピエロ」とはロココ時代のフランスの画家アントワーヌ・ヴァトー(Antoine Watteau 一六八四年~一七二一年)の異作にして一見忘れ難い名品「ピエロ(ジル)」(PierrotGilles) 一七一七年~一七一八年頃の作で本作の「ジル」は旧称)のことである(リンク先はサイト「Salvastyle.com」の同作の大画像)。]

四つんばいになるな   梅崎春生

 さる三月十九日(昭和三十五年)、山形県湯之浜温泉の亀屋ホテルで、四つんばい事件というのが起きた。

 高松宮が来るというので、保健所の職員がホテルの家族や従業員を四つんばいにさせ、検便のためにガラス棒で採取をしたのである。

 それが県議会の問題になり、国会にも波及して、また新聞や週刊誌がじゃんじゃんと取り上げた。あまり香ばしい話ではないけれども、取り上げる価値は充分にあるようだ。

 あの四つんばいになって便を採取されるのは、あまり気持のいいものではない。私も両三度、その経験がある。

 私は戦争中召集されて、一年余を海軍で過したが、海軍というところは検便が大好きで、しばしばそのやり方で便を振られた。だから亀屋ホテルの事件を新聞で読んだ時、まずその不快な記憶が私の胸によみがえった。

 亀屋ホテルのは室内でやったらしいけれども、軍隊では営庭に行列し、白日の下次々と四つんばいになって、ガラス棒を突っ込まれるのである。

 それをやるのは若い衛生兵で、彼等とても好んでやっている仕事じゃないから、どうしても手荒にならざるを得ない。まして相手は動作ののろい召集兵と来ているから、彼等は私たちを人間あつかいにしていない気配が濃厚であった。

 だから、なめらかなガラス棒でも、便を取られるのは、かなり痛かった。

 今考えても、あの頃の衛生兵なんてものはたいへん乱暴で、たとえば注射などにしても、一風変っていた。

 ふつう注射というものは、前後の消毒を厳重にして、筋肉に対しては斜めに突きさすものだと私は諒承していたが、軍隊式はそんなものではなかった。消毒なんか、ろくにやらない。いきなり注射器をふりかざし、はずみをつけてえいやっとばかり垂直に突きさすのである。

 たくさんの人間にやるのだから、その方が能率的といえば能率的だが、やられる側からすればそれは戦慄にあたいした。痛いと言って顔をしかめても、たいへんなことになるぐらいで、まして抗議なんか出来る筋合いのものでなかった。

 そういう連中がやる検便だから、痛いのも当然だが、私たちが検便が不愉快だったのは、もちろんその痛さのためでない。四つんばいという屈辱的な姿勢のためである。好きこのんで四つんばいになるのならともかく、強制されてそんな姿勢をとるのは、はなはだ面白くないことだ。

 子供におそろしい怪談を聞かせてやると、子供はどうするか。こわいからと言って子供は決して親に抱きついて来ない。親に背中をひしひしとすりつけて来るものである。

 人間というものは、眼だって鼻だって口だって、皆前についている。耳だけは横についているが、耳たぶは前方の音を聞き取る具合についている。

 つまり敵を認識したり嗅ぎ分けたりする器官は、おおむね人間の前(つまり人間の表側)についていて、裏側の方はお留守になっている。おおむね無防備状態になっている。

 子供たちがこわくなると、背中をすりつけて来るのも、その無防備の背面を守ろうという本能からなのだろう。

 子供だけでなく、大人だって同じだ。こわいと背筋がぞくぞくするというが、胸筋がぞくぞくするとは言わない。胸筋がぞくぞくするのは、得恋などをして嬉しい時に限っている。喜びは前面に来たり、恐怖は背面よりやって来る。一番守りのすくないところを、ねらってやって来るのである。

 そのおそれがもっとひどくなると、背筋のぞくぞくは後頭部に逆上、あるいは肛門のあたりにぐんと下って行く。どちらも人間にとって大事なところで、しかも守りが薄い場所である。

 ことに後者は、人間にとって一番弱昧みたいなものを引き受けていて、だから人間は特殊の嗜好を持った人をのぞけば、これを他人に見せたり白日にさらしたりすることを好まない。自分の最も無防備な恰好を見せることを嫌悪するのだ。

 高いところに登って下を見ると、かならず尻の穴がむずむずするものだが、やはりそこが一番弱くて敏感だからだろうと思う。

 高橋義孝さんか誰だったか、ほかのたいていのことは他人に見られても平気だけれども、大便をしているところを他人に見られるのは恰好がつかない、収拾がつかないものだ、と書いているのを読んだことがある。

 なるほど、あれは収拾がつかない。四つんばい式の検便はそれを上廻るものであって、やられている時でも、またやられたあとでも、言語道断な感じがするものである。

 では、それに似たようなことが、他にはないか。手術なんかが、外見上それに似ている。虫垂炎の手術、胃潰瘍(かいよう)の手術、痔の手術など。でもこれらの手術は、大体それ以外に方法がないような時に限って行うものであって、あの式の検便とは根本的に違う。

 あの式のを直接検便(なるほど、全く直接だ)というそうだが、マッチ箱などを使う間接検便という方法がある。その方式を使うのが本筋であって、直接検便を強制するなんて、人間を人間以下にしか見ていない証拠である。

 それに手術というものは、当人の苦痛や生命の危険をのぞくためにやるもので、つまり当人のためにやるものであるが、亀屋ホテルの直接検便はそこが違う。もし赤痢菌がいたら当人が困るだろうからと、親切心で四つんばいにさせたのではなく、もし赤痢菌がいたら高松宮にうつるかも知れない、という危惧のもとに無理に四つんばいにさせた。

 すなわち自分のためでなく、他人の利益のために四つんばいを強制された。それを強制したのは、鶴岡保健所の役人である。

 そこの池田所長という役人は「見るからに温厚な」とある週刊誌には書いてあるが、それでもその人がこう言っている。

「どうやら、四つんばい検便という言葉が誤解をまねいたらしい。徴兵検査などを連想させるからだ。しかし、亀屋ホテルの場合はちがう。両手と両膝をついて、しやがんでもらっただけだ。それが、本人にとって一番楽な姿勢なのだから……」

 一番楽とは、何だろう。所長さんはどうやら楽という言葉について、大きなかん違いをしているらしい。

 そんなに楽なものなら、自分がそんな姿勢をとって、皆の前で採便してもらえば判るだろう。楽とかそんなものではない筈である。想像力の貧困というより欠乏という点においては、旧軍隊のある種の下士官や兵とえらぶところはない。

 同じく高橋課長という役人は、

「十九日は全員四つんばいにした。私は法律にもとづいてやったのだ」

 と、顔色もかえずに語った由である。こういうのにかかると、もう言葉は通じない。

 しかし、こういう役人の個々を責めたって、仕方がない。彼等は一種の確信犯みたいなもので、どんなに責めようとも、口ではあやまるかも知れないが、心から悪いという意識を持てないのだろうと思う。

 軍隊の経験が、私にそういう考えを持たせる。手間のかかることだが、そんな人間の棲息する条件、そんな考え方の棲息する条件を、変えて行くことから始めねばならないのだ。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第二回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年四月二十四日号掲載分。「得恋」は「とくれん」で失恋の対語。恋愛が成就すること、であるが、「失恋」に対してこの語が死語化しているのは何やらん、面白いではないか。]

2016/07/06

芥川龍之介 手帳2―1~5

芥川龍之介 手帳2

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年の丸善株式会社発行の手帳で、記載可能のページ数は八十一ページ、龍之介によって書き入れられたページは七十三ページ分である。

 底本は現在最も信頼の於ける岩波書店一九九八年刊行の「芥川龍之介全集」(所謂、新全集)の第二十三巻を用いつつ、同書店の旧「芥川龍之介全集」の第十二巻を参考にして正字化して示す。取消線は龍之介による抹消を示す。底本の「見開き」改の相当箇所には「*」を配した。適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。

 なるべく同じような字配となるようにし、表記が難しいものは画像(特に注のないものは底本の新全集)で示した。各パートごとに《2-1》というように見開きごとに通し番号を附け、必要に応じて私の注釈を附してその後は一行空けとした。「○」は項目を区別するために旧全集・新全集ともに一貫して編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。判読不能字は底本では字数が記されているが、ここでは「■」で当該字数を示した(画像で私が判読出来ない字も■で示した)。

 なお、底本編者によれば、本「手帳2」の記載推定時期は大正七(一九一八)年か大正八(一九一九)年頃とある。]

 

《2-1》

○一力=万

 大川囘漕店

 神田明神店

[やぶちゃん注:高砂屋浦舟著「江戸の夕栄」(大正一一(一九二二)年紅葉堂書房刊)に寄席の一つとして日本橋万町一力亭というのが挙がっている。

「大川囘漕店」全く同名の海運業を営む会社が東京都中央区湊に存在するが、如何? これは寧ろ次の「神田明神店」と並べると、江戸時代の長屋の名称のように見えないか? 即ち「店」は「だな」と訓じるのである。識者の御意見を伺いたい。]

 

《2-2》

○本郷區千駄木町九六 竹谷方

[やぶちゃん注:以下の地図はこの場所を指すもの。上右に当該の「竹谷」方、そのやや左下の「↑」の上にあるのは「右」ではないか? 上左に「出井樣左」(? 「出」は自信がない。「左」は「方」かも知れぬ)と「王寫」(?)と思しい字(これが読図のポイントになるのだが、現代の地図ではそれと思しいものが見当たらない)、下右に「動坂」、下中央左に「千駄木町」、下左に明らかに違った筆致で「ねつ社」(根津社)か。私の地図の読みが正しければ、この道のこちらの方向には根津神社があるからである。これが限界。後は識者の御教授を乞うものである。なお、新全集は図の書き込みの活字化を放棄している。]

21jyunro

 

○府下下澁谷 伊達及伊東漬物

[やぶちゃん注:現在の國學院大學から恵比寿方面が旧渋谷村のようであるが、それらしい漬物店は現存しない。]

 

《2-3》

○合ひの子――遊女 繪師――信 碧眼の乞食

○身うけ―→客 唐物問屋

○アントニオ上人と華魁

[やぶちゃん注:切支丹物の構想メモ。老婆心乍ら、「華魁」は「おいらん」と読む。]

 

○朝寒や寐れば音する藁布團

 病室の膳朝寒し生玉子

 身熱のうつらうつらと夜長かな

 熱の夜の長さに伯母を思ひけり

 秋蚊帳の中に咳する病者かな

 氷囊や秋の氷のゆるゝ音

 頓服の新藥白し今朝の秋

 秋立てばまづ咳をする病者かな

[やぶちゃん注:自作句稿。「朝寒や寐れば音する藁蒲團」と「病室の膳朝寒し生玉子」は、大正八(一九一九)年八月二十三日(旧全集五六七書簡)に載る。遊覧していた金沢八景にて感冒のためにこの日に同地の田中病院に入院している(但し、芥川龍之介の名誉のために詳しくは述べないが、私はこの入院は実は別な医療目的があったのではないかと猜疑している。実際、句でもひどい発熱の様を詠みながら、実際には病院内で「妖婆」の前篇をさえ執筆・脱稿しているのである)。]

 

《2-4》

○象――安山岩の腹 大きな蛭に似た鼻 漆食のやうな牙 尾――肉根 鳶色の眼 うす紅い口

[やぶちゃん注:ルナールの「博物誌」風のアフォリズム「動物園」(大正九(一九二〇)年)の冒頭に以下のようにある(リンク先(前者は岸田国士訳)は孰れも私の電子テクスト)。

   *

 

       象

 

 象よ。キツプリングは昔お前の先祖が、鰐に鼻を啣(くは)へられたものだから、未だにお前まで長い鼻をぶら下げて歩いてゐると云つた。が、おれにはどうしても、あいつの云ふ事が信用出來ない。お前の先祖は佛陀御在世の時分、きつとガンヂス河の燈心草の中で、晝寢か何かしてゐたのだ。すると河の泥に隱れてゐた、途方もなく大きな蛭が、その頃はまだ短かつた、お前の先祖の鼻の先へ、吸ひついてしまつたのに違ひない。さもなければお前の鼻が、これ程大きな蛭のやうに、伸びたり縮んだりはしないだらう。象よ。お前は印度の名門の生れだ。どうかおれの云つた通り、あのキツプリングの説などは口から出放題の大法螺だと、先祖の冤を雪ぐ爲に、一度でも好いからその鼻をあげて、喇叭のやうな聲を轟かせてくれ。

 

   *]

 

omaesan wa kawaiiyo !

 

《2-5》

○顧眄

[やぶちゃん注:「顧眄」の「眄」は「見回す」或いは「横目で見ること」で、振り返って見ることの意であるが、これは或いは構想しながら、遂に書かれなかった随筆の題名メモかとも思われる。大正七(一九一八)年四月二十四日附薄田淳介(大阪毎日新聞社学芸部長。詩人薄田泣菫の本名)宛書簡(岩波旧全集書簡番号四〇七)に近日中に『「顧眄」といふ隨筆を書きます』とあるからである。]

 

○1先生 2志賀氏の家(松江) 3師走(山田との原稿いきさつ) 4第三新思潮時代のスクラツプ 5第四新思潮時代のスクラツプ(松岡の寐顏) 6鈴木三重吉の first impression(夏) 7成瀨の手紙 8

[やぶちゃん注:これは「あの頃の自分の事」(大正八(一九一九)年一月)の初期構想メモである。

「1先生」は同作の「一」に出る東京帝大英文科主任教授「ロオレンス先生」のことであり、「あの頃の自分の事」(別稿)(作品集「影燈籠」所収の際に削除された二章)の「六」にも登場している。

「2志賀氏の家(松江)」は、結局、「あの頃の自分の事」には書かれなかったが、大学二年終了の夏、大正四(一九一五)年八月三日から二十二日まで畏友井川(後に恒藤に改姓)恭の郷里松江に遊び、吉田弥生への失恋の傷心を癒した折り、同市中原の偶々泊まった家が偶然、前年に志賀直哉が滞在し、後に「濠端の住まひ」に書いた家であったことを書こうとしたものと推定される。志賀の話は出ないが、芥川龍之介は「松江印象記」という若書きながら印象的な小品を残している(リンク先は私の初出形復元版)。

「3師走(山田との原稿いきさつ)」は「山田」「の」件「と」「原稿いきさつ」ならば氷解する。「山田」は「あの頃の自分の事」の「四」に出る山田耕作で、この章は成瀬正一と二人で帝劇の音楽会を鑑賞に行き、そこで指揮者山田耕作や山田夫人の独唱が描かれているからである(この章の目玉はその後に帝劇喫煙室で谷崎潤一郎と邂逅するシークエンスにある)。「原稿いきさつ」は「五」で、その音楽会の翌日に松岡譲を彼の下宿に訪ね、彼が書いるはずの三幕物の戯曲の原稿を読ませてもらうはず(実際には疲れ切って寝ている松岡を見出し、彼が寝ながら泣いているのを見出すという印象的なコーダが「5第四新思潮時代のスクラツプ(松岡の寐顏)」である)のシークエンスと連関する。

「4第三新思潮時代のスクラツプ」は「あの頃の自分の事」の「一」に創刊前のエピソードが「ロオレンス先生」絡みで少し語られてあり、また「あの頃の自分の事」(別稿)(作品集「影燈籠」所収の際に削除された二章)の「二」にもかなり詳しく載る。

「6鈴木三重吉の first impression(夏)」「first impressionは「初対面の印象」か。「あの頃の自分の事」には、ない。鈴木は児童文学者として知られるが、実は誰か(私藪野直史のことである)と同じで酒癖が悪く、人の悪口しか言わない人物としてかなり文壇では有名である。因みに龍之介は甘いもの好きであったが、酒は殆んど飲めなかった。

「7成瀨の手紙」]

 

 {信房 イセティシストにしてレプラなり 法名 スケプティツクなり 否定家なり

○{

 {義信法師 フアナティツクにして肯定家なり 義信の戀人なりし女房

[やぶちゃん注:「信房」「義信法師」ともに不詳。これらの条件に一致する人物を探そうとしたが、徒労であった。識者の御教授を乞う。

「イセティシスト」不詳。「sadist」か?

「レプラ」ハンセン病。

「スケプティツク」skeptic。懐疑論者・無神論者。

「フアナティツク」fanatic。狂信者。]

 

Comfess しても猶 death を恐るる僧の心理。(即 punishment horror death horror との別を知りし horror

[やぶちゃん注:当該するストーリーを想起し得ない。
 
Comfess」告解する・懺悔する。

punishment」罰。]

 

死の horror の爲に自ら死す心理
 

[やぶちゃん注:同じく当該するストーリーを想起し得ない。]

ブログ創設11年記念梅崎春生エッセイ集起動 / 仰げば尊し

[やぶちゃん注:本日、ブログ創設11年記念として、梅崎春生のエッセイを、しばらく一日一話原則で電子化する。

 最初に「うんとか すんとか」から開始する。「うんとか すんとか」は講談社発行の『週刊現代』の昭和三五(一九六〇)年四月十七日号から翌年八月六日号まで、六十七回に亙って連載されたエッセイである。

 底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第七巻」に拠ったが、同書には上記の内の全二十八回分のみが収録されている。同全集は全集第一期とカタログでは名打っており、梅崎春生の全作は収録されておらず、私は刊行されたその年に直接、沖積舎に電話したが、第二期刊行は未定との返事であった。しかし、二〇一六年現在も第二期は刊行されていない。

 傍点「ヽ」は太字に換えた。

 以下の「仰げば尊し」は連載第一回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年四月十七日号掲載分である。【2016年7月6日 藪野直史】]

 

 

    仰げば尊し

 

 昨日はうちの娘の小学校の卒業式で、私も見に行った。小学校の卒業式には、郷愁みたいなものがある。

 今ふり返っても、自分の小学校卒業式のことはありありと憶えているが、中学や高校の卒業式のことはほとんど記憶に残っていない。

 年代順に言うと、小学校が一番昔だから、最も早く忘れてもよさそうなものだが、事実は正反対になっている。印象にとどまるような要素が多かったからだろう。

 それに小学校を卒業すれば大人になるのだから(汽車やバスも半額ではなくなるし、半ズボンから長ズボンに昇格する)、その曲り角の儀式として、忘れ難いものがあるのだろうと思う。

 昨日見た卒業式は、私の時分のとは違って、免状は総代に一括して渡すのではなく、一人一人名を呼び上げて渡す仕組みになっていた。

 なるほどこの方が親切であるし、長く印象にとどめるのに効果的だが、そのかわりに少々時間を食う。あとは校長の訓示だの来賓の祝辞だので、昔の方式とあまりかわりがない。

 うちに戻って娘に卒業式の印象を訊(たず)ねたら、来賓たちの祝辞が少し長過ぎて、退屈したとの話であった。

 しかし私の見た感じでは、そう長いとは思わなかった。なぜ子供たちが長く感じるかというと、壇上の大人たちの話が(あるいは言葉の使い方が)むつかし過ぎるのである。わけもわからない話を聞かされては、長く感じるのも当然だ。

「これからも体を大切にして」と言えばいいのに、「今後とも健康に留意せられまして」なんて言うものだから、子供たちは免状を扇のかわりにして顔をあおいだりして遊ぶのである。

 少年が強盗をやった。近頃の少年は、大人でもやれないようなことを平気でやる。大人に勝るような能力があるのだ。諸君も皆、その能力を持っている。だから諸君はその能力を、悪の方に使わないで、善の方に向けなさい。

 というような適切にして卓抜な訓示もあったけれども、子供たちは別段反応を示さなかったようである。祝辞は初めからむつかしいものときめてかかって、全然耳を傾けることをしていないらしかった。

 しかしその方がいいのかも知れない。中途半端に耳を傾けると、強盗を奨励しているように受け取るおそれがある。

 子供たちを前にして、どうして大人たちはむつかしい言葉を使うのだろう。やはり日頃の教養や学問が、つい堰(せき)を切ってほとばしり出て来るのであろうか。大人たちだって、四十年前や五十年前はやはり子供で、校長の訓示や来賓のあいさつにうんざりした覚えがある筈である。

 その恨みが心に残っていて、よし、いつの日にかおれが来賓になったら、むつかしい話をして子供たちをうんざりさせてやろうと、まさか心にきめたわけでもあるまい。

 しかし、子供たちにむつかしい話をながながと聞かせるのは、忍耐心の涵養(かんよう)になるし、人生とはたのしいことばかりでなく、退屈な時間やうんざりする時間もあることを思い知らせるには、たいへん有効な方法である。

 だから子供たちは、祝辞がすむとやっと自分を取り戻し、「仰げば尊し」などをうたって、離別の情にさめざめと感傷の涙をそそぐのである。

 卒業式の時に泣くのは、大体小学生に限られているようで、中学以上になると、特殊の人をのぞいては、あまり涙をこぼさない。

 私の経験でもそうである。離愁というのは小学卒業時に限るので、中学以上にはそれはあてはまらない。中学卒業の時なんかは、離別というより脱出という感じが強く、悲しみというより脱出の喜びにみなぎりあふれているようだ。

 私も中学を卒業することは、うれしくてうれしくて仕様がなかった。中学校の愚劣な戒律や退屈な講義から解放されることがうれしかったのだ。

 近頃新聞で読むと、式が済むと中学校や高校の卒業生たちがよってたかって、気に食わない先生を袋だたきにしたり、プールヘ授げ込んだりすることが流行(?)していて、余儀なく学校側も自衛上警官を臨席させて対抗しているところもあるそうである。

 気に食わぬ瞬間に袋だたきにしないで、卒業式のあとでたたくというところがみそであって、つまり卒業した瞬間に師は師でなくなり、弟(てい)は弟でなくなったという解釈なのだろう。

 人間が人間をなぐる分には、大したことはない。それが新聞にでかでかと出されることは、彼等にとって心外なことに違いない。

 私の経験から言うと、当時の中学校でも憎らしい先生や気に食わない先生はいたけれども、卒業式が済んでなぐってやろうなどとは、誰も考えなかったようである。先生をなぐるなどという発想法に、私たちは完全に無縁であったわけだ。気に食わなかったけれど、これでもう縁が切れるわけだからと、私たちはせいせいして卒業したと記憶している。

 当時の先生たちと私たち生徒の関係は、両者の間に冒すべからざるというと言い過ぎになるが、踏み込めないような層なり隔てなりがあって、その層を通じて教育が行われていた。

 すなわち先生と生徒はちょいと次元を異にしていて、向うには向うの生活、こちらにはこちらの生活があって、知識を授受するほかには通い合う部分が割合すくなかったようである。

 他人をなぐるなんていう事業は、感情の全振幅をふるい立たせなければ成立しない事業であって、当時中学生であつた私たちは、先生に対して感情のすべてをふるい立たせる基盤がなかったし、そういう条件もそなわっていなかった。

 ところが現代の中学生は、大いにそれをふるい立たせる条件がそなわっていると見えて、とかく新聞種になって、心ある(?)老人たちを慨嘆せしめている。

 しかし、逆に考えれば、これははなはだ喜ぶべき現象ではないのか。つまりなぐり合うということが成立するからには、戦前にあった師弟の間の妙な隔ては、新しい教育理念によって取り去られたということだろう。

 先生は自分の全部をさらけ出して教育に従事し、生徒はそれを自分の裸身をもって受けとめる。そうでなければ、なぐつたりプールに投げ込んだり、そんな烈しい愛憎が成り立つわけがない。

 という具合に考えれば、中学生たちの暴行も、いくらか恰好がつくのではないだろうか。その揚句の果てに警察に厄介になったりするのは、彼等がばかなためでなく、あまりにも愚直であり過ぎたのである。利口な奴は後足で砂をかけて、さっさと卒業して行く。

 暴行中学生を少し弁護し過ぎたような気がするが、本当のことを言うと、先生の憎たらしさと生徒の憎たらしさは、どちらが上か。

 これは疑うべくもなく、生徒の方がはるかに憎たらしいのである。私の四十五年の半生に賭けても、それは断言出来る。勉強はして来ないし、あだ名はつけるし、ちょっと気を許すとつけ上って騒ぎ立てるし、ほんとに中学生なんてものは憎たらしさの塊りみたいなものだ。

 どうして卒業式が済んだあと、先生たちがよってたかって、憎たらしい生徒を袋だたきにしたり、プールに投げ込んだりする事件がおきないのか、私にはふしぎで仕様がない。

2016/07/05

芥川龍之介手帳 1―26~41 / 手帳1~了

《1-26》

燒■■や中に

○靑蓮院の梅白し

落葉

泰山の

○日にかすむ水や

○雲か山か日にかすみけり比良地琵琶の滝

○日が■すむ

かすみつつ

○妻ぶりに葱切る支那の女かな

白梅や靑蓮院の屋根くもり

[やぶちゃん注:総てを俳句の草稿断片と認める(私は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏)」で既にそう認めて電子化している)。「滝」の字は新全集のママ。この「金剛」乗艦の二ヶ月前に養父とともに芥川龍之介は京都・奈良を、「金剛」から降りて帰る途中、岩国と京都を訪れている。この事実から、「靑蓮院」はまず、京都市東山区粟田口三条坊町にある天台宗門跡寺院青蓮院門跡と見てよいであろう。抹消の「比良地」は滋賀県の、琵琶湖西岸に連なる比良山地の藹藹たるを詠もうとした(滝ではなく)ではなかったか。それを「琵琶の滝」に模造したと読む。ただ、奈良県吉野郡川上村下多古の下多古川に「琵琶の滝」があるが、ここは相当に不便なところで、ここに養父を連れて行ったとは思えないので違うと思われ、この「琵琶の滝」というのは私には不祥である。識者の御教授を乞う。]

 

《1-27》

Lady Gregory Golden Apple

[やぶちゃん注:これは所謂、ケルト文学復興運動の中心的役割を担った、通称グレゴリー夫人、アイルランドの劇作家で詩人のイザベラ・オーガスタ・グレゴリー(Lady Isabella Augusta Gregory  八五二年~一九三二年)の三幕物の戯曲「金の林檎」(製作年未詳)のこと。]

 

Confessions of a Little Man during Great Days

The Crushed Flower & other stories  Andrew

[やぶちゃん注:これらは孰れも、ロシアの作家レオニド・アンドレーエフ(Леонид Николаевич Андреев:ラテン文字転写:Leonid Nikolaevich Andreev 一八七一年~一九一九年)の作品(前者は一九一七年、後者は一九一六年か。英文では確かに確認出来たが、邦訳名や原題は不詳である。識者の御教授を乞う)。]

 

Leon Shestov  Anton Tchekhov and other essays.

[やぶちゃん注:ロシア系ユダヤ人の哲学者レフ・シェストフ(Лев Исаакович Шестов:ラテン文字転写:Lev Isaakovich Shestov 一八六六年~一九三八年)のチェーホフについての随想集。彼には本格的なチェーホフ論「虚無よりの創造」(Творчество из ничего 一九〇八年)がある。]

 

Podmore Newer-spiritualism

[やぶちゃん注:イギリスの著述家で社会主義家として知られるフランク・ポドモア(Frank Podmore 一八五六年~一九一〇年)が亡くなる年に発表した「The Newer Spiritualism」(「より新しい神秘主義」)。ウィキの「ランク・ポドモアによれば、『超常現象の信憑性には個人的に確信を抱き、終生関心を持っていた。しかし思想としてのスピリチュアリズムには疑問を抱き、社会主義者ロバート・オーエンに傾倒。現在の英国の労働党の基礎となった「ファビアン・ソサエティ」創立に協力し、「スピリチュアリズムのよきライバル」と言われた』。一八八二年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで創設された「心霊現象研究協会」(The Society for Psychical ResearchSPR)には『創立時から長期間関わり続け、科学的厳正さと文才で、行過ぎた超常現象賞賛に対してブレーキの役割を果たしたという』とある。]

 

21―水ヨリ

 火

 水 1012 =二年

 木 1012 =一年

 金  910 =二年

 土  910 =一年

  4266633

 火 10121

 水 10122

 金 10122

 土  9101

[やぶちゃん注:思うに、これは海軍機関学校の英語の受持ち時間割ではないかと思われる。これが大正六(一九一七)年だとすると、二十一日が水曜なのは二月・三月・十一月で、これは十一月から施行された午前中の新時間割(新たに変更されたものだけで、これ以外に変更されない午後の授業もあったかも知れない。最初期の彼の週持ち時間は十二時間と年譜(新全集宮坂覺氏のそれ)にある。但し、少し後になるが、同年譜の大正七年の九月の条には『この頃、週平均授業約八時間。授業のない日もあったが、』午前八時から午後三時までは『拘束された』とある。他の手帳の時間割記載を見ると、例えば月曜は常時、授業がなかったように見える)の転記ではないか。学校の特殊性から時間割にこの時期、途中変更があったとしてもおかしくはない。「1012」が十時から十二時までを意味し、末尾は前の方と同じ学年であろう。ただ、中間に入る「4266633」という数字は説明出来ない。]

《1-28》

○赤阪福吉町一 35

[やぶちゃん注:現在の東京都港区赤坂二丁目にかつてあった町名。]

 

○重承とその弟子

[やぶちゃん注:全く不詳。「重承」は「しげつぐ」と読むか? 次の《1-29》に板倉家が出るが、同家系には「重承」という人物はなく、「弟子」というのも不審である。後に示す板倉重昌(しげまさ)の重昌流板倉家第七代で陸奥国福島藩藩主板倉勝承(かつつぐ 享保二〇(一七三五)年~明和二(一七六五)年)なる大名はいる。延享二(一七四五)年に藩内で「福島三万石騒動」と呼ばれる一揆が発生、その後も切米騒動などに悩まされ、明和元(一七六四)年には城代家老松原克昌に財政上の失態によって幕府から閉門処分を受けている。男子がなく、跡を弟の勝任が継いだ、とウィキの「板倉勝承」にある。彼ならば小説「忠義」(大正六(一九一七)年二月)にちらと「板倉式部」の名だけで出る(主人公は「板倉修理」板倉勝該(かつたね ?~延享四(一七四七)年:後注参照)で「板倉式部」は主家当主の名として二箇所に出るのみである。なお、一部の研究者の著作や注で、この「忠義」の主人公「板倉修理」勝該を板倉勝俊(天明八(一七八八)年~天保一二(一八四一)年)と誤っているので注意されたい)。参考までに記しておくが、やはり「弟子」というのがピンとこない。識者の御教授を乞う。]

 

○太中里 新文新公 早三新小 新星 白 大評 時野國 百万讀

[やぶちゃん注:この八つ、一見、どれも中国絡みで意味がありそうに見えるのだが、一つだに、分からぬ! 識者の御教授を乞う!!]

 

《1-29》

[やぶちゃん注:ここは見開きノートの天地を逆に使用した、数字と□○△と罫線のみの三種類(編者判断による「○」の数から。以下、同様に省略する箇所も同じなので、この注は略す)の表で意味も不明(一部は生徒の得点分布表のようにも見えないこともないが、分からぬ)なので省略する(当該部を画像で示そうとも思ったが、活字で組んであり、これは岩波新全集の編集権を侵害するので避ける。以下、同様に省略する箇所も同じなので、この注は略す)。]

 

《1-30》

○弟 重昌{ {宇右エ門

     { {主水

     {慶長10年4月   從五位下 内膳正 御近習出頭人 1万5千五句

     {寛永14年     島原亂

     {   15年正月一日

[やぶちゃん注:安土桃山から江戸初期にかけての大名で三河深溝(ふこうず)藩(現在の愛知県額田郡幸田町(こうたちょう)深溝)藩主板倉重昌(天正一六(一五八八)年~寛永一五(一六三八)年)の事蹟(「弟」とあるが、実兄は次の項の重宗)。駿河駿府生まれ。ウィキの「板倉重昌」によれば、徳川家康の家臣で江戸町奉行としてその名裁きで知られた板倉勝重の次男。慶長一〇(一六〇五)年四月十日、『主君・徳川家康の参内に伺候し従五位下内膳正(ないぜんのかみ)に叙任された』。『松平正綱・秋元泰朝とともに徳川家康の近習出頭人』(きんじゅうしゅっとうにん:江戸幕府初期の職名で将軍・大御所の側近として幕政の中枢に参与した)で、慶長一九(一六一四)年の『大坂冬の陣では、豊臣方との交渉の任にあたった』。寛永一四(一六三七)年十一月、『島原の乱鎮圧の上使となった。嫡子の重矩を伴い、副使の石谷貞清と出陣。動員された西国の諸侯を率いる命を受け下向するが、九州の諸侯は小禄』『の重昌の指揮に従わず』、『小身の重昌では統制が取れないことや一揆勢の勢いの強いこと、長期化した際に幕府の権威が揺らぐことや海外からの勢力の参加の恐れなどを鑑みた幕府は老中・松平信綱を改めて大将とし、大幅な増援も決定した』。『重昌は功を奪われることに焦慮を覚えたとされる』。翌寛永一五(一六三八)年一月一日に『総攻撃を命じるが、やはり諸軍の連携を失い』四千人とも『伝わる大損害を出す。重昌自身は板倉勢を率いて突撃を敢行し、眉間に一揆勢の鉄砲の名手・三会村金作が放った銃弾の直撃を受け、戦死』。享年五十一(三会村金作(みえむらきんさく)は駒木根友房(こまぎねともふさ ?~寛永一五(一六三八)年)の偽名。種子島出身で、糸針の穴をも撃ち通す銃の名手と呼ばれて「下針金作」と称されたという。当初は島津氏に仕えたが、故あって小西行長の家臣となり、慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦いに於いて主家小西家が敗れた後、島原の三会村に三会村金作と偽名して潜伏した。島原の乱では一揆軍に加わって評定衆を務め、この元日の幕府軍による原城再攻撃に於いて重昌を討ち取る戦功を挙げたものの、同年二月二十八日の原城落城の際に戦死した。以上はウィキの「駒木根友房」に拠った)。重昌の『辞世は、「あら玉のとしの始に散花の 名のみ残らば先がけとしれ」とされるが「咲く花の」とする説もある』。『残された嫡子の重矩は、元の副使石谷貞清と共に原城陥落の際、抜け駆けを行った佐賀藩に遅れじと突入を行った。この際、一騎打ちで敵将・有家監物を討ち取る功をあげているが、佐賀藩との抜け駆けと当初の敗戦の軍律違反により、一年ほど謹慎処分を受ける。しかしその後は老中や京都所司代を務め』、五万石にまで『加増する。重昌の子孫はその後、下野烏山藩、武蔵岩槻藩、信濃坂木藩、陸奥福島藩と転封され明治まで続いた』とある。]

 

     重郷◎

○重宗<

     重形

[やぶちゃん注:譜代大名・下総関宿藩初代藩主・京都所司代・板倉家宗家二代板倉重宗(天正一四(一五八六)年~明暦二(一六五七)年)。重昌の実兄(二歳年上)。ウィキの「板倉重宗」によれば、板倉勝重長男で徳川秀忠小姓組番頭の一人。弟と同じく慶長十年、秀忠将軍就任に伴い、従五位下・周防守に叙任されている。『大坂の陣では冬・夏の両陣に出陣し、小姓組番頭の職にあって家康・秀忠の間で連絡役を務めた。戦後、書院番頭に任命されて』六千石となり、元和六(一六二〇)年には『父の推挙により京都所司代となり』、二万七千石。元和九(一六二三)年に従四位下に昇位、同年末に侍従に任官、寛永元(一六二四)年四月に『父が死去すると、その遺領を弟の重昌と共に分割して相続し、重宗は』一万八百六十石を継いで合計三万八千石、さらに同月中に一万二千石を加増されて合計五万石となった。寛永三(一六二六)年には第三代将軍家光の参内に従っている。『家光の嫡男・家綱が生まれるとその元服・官位について朝廷と』の交渉に当たり、正保二(一六四五)年、『その功績により従四位上・右少将』となっている。承応三(一六五四)年に三十年以上に亙って『在職した所司代職を遂に退任した。しかし重宗の影響力は絶大で』、『家綱の補佐、徳川家の宿老として江戸で幕政に参与し、保科正之や井伊直孝ら大老と同格の発言力を持っていたという』。明暦二(一六五六)年、下総関宿(せきやど:現在の千葉県野田市関宿三軒家(さんげんや))五万石を与えられて藩主となったものの病に倒れ、年末に関宿で死去した。享年七十一。

「重郷」板倉重郷(元和五(一六一九)年~寛文元(一六六二)年)は板倉重宗の長男で下総関宿藩第二代藩主・板倉家宗家三代。ウィキの「板倉重郷」によれば、寛永一三(一六三六)年に従五位下・長門守に叙位・任官、寛永一四(一六三七)年、阿波守に遷任、父の死去により、明暦三年に家督を継いだ。明暦四(一六五八)年に奏者番、同年中に寺社奉行兼任したが、寛文元(一六六一)年には全職を辞職、同年末に弟重形に五千石と新田四千石を分与(都合、板倉氏は四万五千石の大名となった)した四日後に死去。享年四十三。跡は長男重常が継いでいる。

「重形」板倉重形(しげかた:「勝形」から改名 元和六(一六二〇)年~貞享元(一六八四)年)は板倉重宗の次男(兄重郷より一歳年下)。ウィキの「板倉重形」によれば、寛文元(一六六一)年に兄重郷より摂津の領地から九千石を分与され、一万石を領有、延宝九(一六八一)年には一万五千石で安中藩に入って初代藩主となった。『街道整備、土地政策に尽力し、藩政の基礎を固め』、天和三(一六八三)年には寺社奉行に任じられた。享年六十五。跡は養子の重同(しげあつ)が継いでいる。]

 

     重矩(主水正)

○重昌<

     重直5000

[やぶちゃん注:「重矩」板倉重矩(しげのり 元和三(一六一七)年~寛文一三(一六七三)年)は先の板倉重昌の長男。ウィキの「板倉重矩によれば、『島原の乱に際しては、上使となった父について島原に出陣』(数え二十一)、先の通り、寛永一五(一六三八)年元旦に父が戦死した『その際の不手際を問われて同年』十二月まで『謹慎処分に処される。その後』、寛永一六(一六三九)年に『家督を継承し、深溝藩主となる。その際、弟の重直に』五千石を『分与している』。『間もなくして藩庁を深溝から中島へ移転』、寛文五(一六六五)年には『老中となり、酒井忠清などと共に病弱だった』第四代『将軍徳川家綱を補佐した』。寛文八(一六六八)年に一旦、『牧野親成の退任を受けて後任の京都所司代に転じ』たが、二年後の寛文十年には再び老中職に再任されている。寛文一二(一六七二)年に『下野烏山へ移封』、翌年、五十七歳で死去した。『長男の重良は廃嫡、次男の重澄は早世していたため、三男の重種が跡を継い』でいる。

「重直」(?~天和三(一六八三)年前)重矩の弟。下総葛飾郡などに八千石を領した。子重行が跡を継いでいる。]

 

○第一  修理と病と登城 侮辱

 第二  板倉家の存在

[やぶちゃん注:「修理」小説「忠義」(大正六(一九一七)年二月)の主人公「板倉修理」こと、旗本で、熊本藩第五代藩主細川宗孝を殿中で殺害したことで知られる板倉勝該(かつたね ?~延享四(一七四七)年)のこと。但し、彼は板倉勝重の長男重宗・次男重昌の弟重大(しげひろ?)の孫で、板倉家では傍流である。ウィキの「板倉勝該」によれば、旗本板倉重浮(しげゆき)の『二男として生まれる。幼名は安之助。兄・板倉勝丘の養子となり』、延享三(一七四六)年に兄の遺領六千石を相続、延享四(一七四七)年に『将軍・徳川家重に拝謁した』が、同年八月十五日のこと、『江戸城大広間脇の厠付近において、月例拝賀で出仕した熊本藩主・細川宗孝に背後から脇差で斬りつけ、殺害した』。『伝えるところによると、勝該は日頃から狂疾の傾向があり、家を治めていける状態ではなかったため、板倉本家当主の板倉勝清は、勝該を致仕させて自分の庶子にその跡目を継がせようとしていたという。それを耳にした勝該は恨みに思い、勝清を襲撃しようとしたが、板倉家の「九曜巴」紋と細川家の「九曜星」紋が極めて似ていたため、背中の家紋を見間違えて細川宗孝に斬りつけてしまったとされる』。『一方で、人違いではなく』、『勝該は最初から宗孝を殺すつもりであったとする』ものもある。『白金台町にあった勝該の屋敷は、熊本藩下屋敷北側の崖下に位置し、大雨が降るたびに下屋敷から汚水が勝該の屋敷へと流れ落ちてきたので、勝該は細川家に排水溝を設置してくれるように懇願したが、無視されたため犯行に及んだという』説である。『事件後、勝該は水野忠辰宅に預けられ』、同月二十三日に同所で切腹させられている、とある。

 小説「忠義」には(引用は岩波旧全集に拠った)、

   *

 何よりもまず、「家(いへ)」である。(林右衞門はかう思つた。)當主(たうしゆ)は「家」の前に、犠牲にしなければならない。殊に、板倉本家(いたくらほんけ)は、乃祖板倉四郎左衛門勝重以來未嘗、瑕瑾(かきん)を受けた事のない名家である。二代又左衞門重宗が、父(ちゝ)の跡(あと)をうけて、所司代として令聞(れいぶん)があつたのは、數(かぞ)へるまでもない。その弟の主水重昌(もんどしげまさ)は、慶長十九年大阪冬の陣の和が媾ぜられた時に、判元見屆の重任を辱くしたのを始めとして、寛永(くわんえい)十四年島原の亂に際しては西國(さいごく)の軍に將として、將軍家御名代の旗を、天草征伐(あまくさせいばつ)の陣中に飜した。その名家に、萬(まん)一汚辱を蒙らせるやうな事があつたならば、どうしよう。臣子(しんし)の分(ぶん)として、九原の下、板倉家累代の父祖に見(まみ)ゆべき顏(かんばせ)は、どこにもない。

   *

と、ここで調べ上げたことが生かされてある(文中の「乃祖」は「だいそ」、「判元見屆」は「はんもとみとどけ」、「九原」は「きうげん(きゅうげん)」と読む。「九原」は中国の春秋時代の晋の卿(けい)・大夫(たいふ)の墓のあった地名に由来し、墳墓・墓地・あの世の意である)。

 芥川龍之介はまた「忠義」を書くに当たって、板倉家を宗家にまで遡って調べ上げ、その傍流に甘んじなければならなかった勝該の精神状態を、所謂、病跡学的にここで辿っていたのだとも私は考える。なお、前にも述べた通り、一部の研究者の著作や注では、この板倉勝該をずっと後の重昌流第十二代当主板倉勝俊(天明八(一七八八)年~天保一二(一八四一)年)と誤っているので注意されたい。]

 

○中峯廣錄

[やぶちゃん注:中国元代の禅僧中峰明本(ちゅうほうみょうほん 一二六三年~一三二三年)の語録。これは鎌倉から江戸初期頃まで日本仏教に大きな影響を与えたもので、その教えを受け継ぐグループを「幻住派」と呼ぶ。本書は龍之介の作品には出ない。板倉氏関連の中にメモされている理由は不詳乍ら、次の記載などから、板倉勝重は若き日に一度出家しており(後に還俗)、或いはこの書を愛読したか、この幻住派に属したのかも知れぬ。]

 

《1-31》

板倉家系圖

 中島永安寺にあり 香峯宗哲 勝重 甚平 or 四郎左エ門

 天正14 9 駿府奉行 小田原關東の代官 武藏の國一万石

 慶長6 5 京都所司代

勝重 香峯宗哲 中島永安寺 四郎左エ門 甚平

 天正十四年九月  駿府奉行 小田原關東の代官 武藏の國一万石

 慶長 六年五月  京都所司代

      九月  三河の國 6610万加增

    八年二月  從五位下 伊賀守

   十四年九月  山城の國 9860加增 從四位下 侍從

[やぶちゃん注:旗本・大名で江戸町奉行・京都所司代であった板倉家宗家初代板倉勝重(天文一四(一五四五)年~寛永元(一六二四)年)は、ウィキの「板倉勝重」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『板倉好重の次男として三河国額田郡小美村(現在の愛知県岡崎市小美町)に生まれる。幼少時に出家して浄土真宗の永安寺』(現在の岡崎市中島町にあったが、その後に移されて愛知県西尾市貝吹町に「長圓寺」として残る)『の僧となった。ところが永禄四年(一五六一年)に父の好重が深溝松平家の松平好景に仕えて善明提の戦いで戦死、さらに家督を継いだ弟の定重も天正九年(一五八一年)に高天神城の戦いで戦死したため、徳川家康の命で家督を相続した』。『その後は主に施政面に従事し、天正十四年(一五八六年)には家康が浜松より駿府へ移った際には駿府町奉行、同十八年(一五九〇年)に家康が関東へ移封されると、武蔵国新座郡・豊島郡で千石を給され、関東代官、江戸町奉行となる。関ヶ原の戦い後の慶長六年(一六〇一年)、三河国三郡に六千六百石を与えられるとともに京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視に当たった。なお、勝重が徳川家光の乳母を公募し』、『春日局が公募に参加したという説がある』。『慶長八年(一六〇三年)、家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた際に従五位下・伊賀守に叙任され、同十四年(一六〇九年)には近江・山城に領地を加増され一万六千六百石余を知行、大名に列している。同年の猪熊事件では京都所司代として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した。慶長十九年(一六一四年)からの大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件では本多正純らと共に強硬策を上奏。大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度を施行すると、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当たった。元和六年(一六二〇年)、長男の重宗に京都所司代の職を譲った』。享年七十九。『勝重と重宗は奉行として善政を敷き、評価が高かった。勝重、重宗の裁定や逸話は『板倉政要』という判例集となって後世に伝わった。その中には後の名奉行大岡忠相の事績を称えた『大岡政談』に翻案されたものもある。三方一両損の逸話はその代表とされる。また『板倉政要』も、明の『包公案』『棠院比事』などから翻案された話が混入して出来上がっている』。『『板倉政要』が成立したのは元禄期』とされ、『成立の経緯には、名奉行の存在を渇望する庶民の思いがあったという』 。『公明正大な奉行の存在を望む庶民達の渇望が、板倉勝重、重宗という優良な奉行に仮託して虚々実々を交えた様々な逸話を集約させ、板倉政要を完成させた』とある。なお、「香峯宗哲」とあるが、彼の法名は「香譽宗哲」で誤りである。]

 

兄 重宗 十三郎 五郎八 又右エ門

 慶長 14年    從五位下 周防守 小姓組番頭小十人徒士等の事 6000

 元和 6年    所司代 27000石を得る

    9年一月  從五位下 侍從

 寛永 元年    父の領をつぎ弟重昌と分つ 38000

 10年四月  12000

正保  二年5   右近衞權少將 從五位上 後水尾天皇菊の紋とを賜ふ

承應  三年7月  罷

明曆  二年    關宿城を賜ふ

    同十二月  死 年九十

[やぶちゃん注:前の《1-30》で既注。]

 

○岩田平次郎

[やぶちゃん注:不明何人か同姓同名の人物はいるが、ピンとこない。]

 

○尾上教雄

[やぶちゃん注:不詳。]

 

《1-32》

○中里瀨南病院下  岩邊季貴

[やぶちゃん注:日本海軍軍人に岩辺季貴(いわべすえたか 明治五(一八七二)年~昭和三〇(一九五五)年)なる人物がいる。ウィキの「岩辺季貴」によれば、明治三九(一九〇六)年に海軍機関少佐に進級、大正八(一九一九)年六月に海軍機関少将に昇進し、聯合艦隊機関長と第一艦隊機関長を兼任、同年十二月に横須賀鎮守府機関長に就任、大正一二(一九二三)年十二月、海軍機関中将に進み、大正一三(一九二四)年二月、予備役。昭和一四(一九三九)年、退役。予備役後は読書と謡曲を趣味としたとある。芥川龍之介は大正八年三月三十一日附で海軍機関学校を退職しているが、これは彼である可能性が大である気はする。「中里瀨南病院」不詳であるが、横須賀市上町の一丁目派出所から汐入三丁目に至る街に現在、「中里通り商店会」というのがある。]

 

《1-33》

Yeats,  Reveries over Childhood & Youth  4.40

[やぶちゃん注:アイルランドの詩人ウィリアム・バトラー・イェーツ(William Butler Yeats 一八六五年~一九三九年)の一九一五年の著作で邦題は「幻想録」(原題を訳すなら「少年期及び青年期の幻想」か)。後の数字は不詳。]

 

Sologub Little Demon 3.30

[やぶちゃん注:ソログープの小説「小悪魔」(Мелкий бес:ラテン文字転写:Melkiy Besロシア語サイトでは一九〇五年を初版とする)。本手帳の冒頭《1-1》に出、既注であるが、再掲する。ロシア象徴主義の詩人・小説家フョードル・ソログープ(Фёдор Сологуб:ラテン文字転写:Fyodor Sologub 一八六三年~一九二七年)。本名はフョードル・クジミチ・テテルニコフ(Фёдор Кузьмич Тетерников:ラテン文字転写:Fyodor Kuzmich Teternikov)。ウィキの「フョードル・ソログープ」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『世紀末の文学や哲学に特徴的な、陰気で悲観主義的な要素をロシアの散文に取り入れた最初の作家であり、しばしば死を主要な題材に選んでいる』。『最も有名な小説『小悪魔』は、ロシアで「ポシュロスチ(пошлость :ラテン文字転写:poshlost')」として知られる(邪悪さと凡俗さの中間の、野卑な人間像を指す)概念を活写しようとする試みであった。一九〇二年に連載小説として発表され、一九〇七年に定本が出版されると、たちまちベストセラー入りを果たし、作者の存命中に十版を重ねた。内容は、人間性にまるでとりえのない田舎教師ペレドノフの物語である。この作品は、ロシア社会についての辛辣な告発として受け入れられたが、豊かな形而上学小説であり、またロシア象徴主義運動が生んだ主要な散文作品の一つである』。『次なる大作『創造される伝説』(一九一四年)は、「血の涙」「女王オルトルーダ」「煙と灰」の三部からなる長編小説であり、同じような多くの登場人物が出てくるが、むしろ楽天的で希望に満ちた世界観を示している』。『ソログープは代表作が小説でありながらも、研究者や文学者仲間からは詩人として最も敬意を払われてきた。象徴主義の詩人ヴァレリー・ブリューソフはソログープの詩の簡潔さを称賛して、プーシキン並みに完璧な形式を有していると評した。 他の多くの同時代の作家が新たな文学や、自分たちを代弁する美学的なペルソナを創り出すことを誇った中で、ソログープは(自らたびたび記したように)、仮面の下を瞥見することと――そして内なる真実を探究する機会であると――喝破した』とある。私は中山省三郎訳になる「かくれんぼ 白い母 他二篇」(岩波文庫一九三七年刊)と幾つかの短篇を読んだだけだが、ロシアの作家の中ではとても好きな作家である。後の数字は不詳。]

 

12 45 1233 33 12

[やぶちゃん注:不詳。]

 

《1-34》

○□方  加藤績

[やぶちゃん注:「□」はママ(次も同じ)。「加藤績」は不詳。「績」は「いさを(いさお)」と読むか。]

 

○京都市外下鴨村八田方□


  
10―11

火    }2年

  
11―12

 

  12}

木    }1年

  23}
 
 

  10―11

土    }2年

  
11―12

[やぶちゃん注:「}」は底本ではそれぞれの曜日下で一つの大きな「}」(そのため、曜日ごとに一行空けた)。やはり海軍機関学校の時間割であろう。この時期、週六時間で月・水・金は授業がなかったか。]

 

《1-35》

[やぶちゃん注:ここは見開きノートの天地を逆に使用した、数字と英語(「Dictation」(書取)・「translation」(翻訳(英訳/和訳))・「Reading」(読解)及び「July」(七月)「bird」(意味不明。総計(英語なら「grand total」)に相当する位置にある))と罫線のみの四種類の表で最初の三つは年間の指導単元分配案(或いは結果)のように見える。省略する。]

 

《1-36》

Appreciations with an Essay on style  Miscellaneous Studies

[やぶちゃん注:これは恐らく、イギリス・ヴィクトリア朝時代の文学者ウォルター・ホレイシオ・ペイター(Walter Horatio Pater 一八三九年~一八九四年)の著作と思われる。前者はウィキの「ウォルター・ペイター」にある、「鑑賞批評集:「文体論」付」(Appreciations: With an Essay on "Style" 一八八九年)で、後者は「雑纂:一連の論文」(Miscellaneous Studies: A Series of Essays 一八九五年)であろう。]

 

○淸輪書畫譜

[やぶちゃん注:不詳。「輪」は別な字ではあるまいか? 近世近代の日本画家や書家には雅号の頭に「淸」を附ける作家は多い。]

 

6 5 6 16

[やぶちゃん注:数列不詳。]

 

Chats on Ukiyoé  A. Davison Ficke  T. Fisher Unwin

[やぶちゃん注:これは浮世絵の愛好家でもあったアメリカの詩人で劇作家のアーサー・デイヴィスン・フィッケ(Arthur Davison Ficke  一八八三年~一九四六年:彼の英文ウィキは)が一九一九年に刊行したUkiyoe hangashiChats on Japanese prints / Arthur Davison Ficke cho ; Ochiai Naonari yakuho ; Ueda Kazutoshi jo. 浮世繪版畫志Chats on Japanese printsと思われる。但し、これはこちらのデータによれば、出版書肆・出版年は“Tōkyō : Tonansha, Taishō 8 [1919]”とあり、この「T. Fisher Unwin」というのは、彼の別の浮世絵画関連書、例えばChats on Japanese prints, with 56 illustrations and a coloured frontispiece.“London : T. Fisher Unwin, [1922]”発行元と一致する。]

 

6511278

[やぶちゃん注:数列不詳。]

 

J. M. Barrie  Peter Pan Symbolistic play stories

 

○[やぶちゃん注:底本には「○」はない。何処かへの地図らしいが、判読が難しい。読もうなら、右側に「北伝馬町十七」とあり、英文(ローマ字?)で上下に二つ(上は「b」で始まり「i」で終る。下は全くお手上げ)、左に「南伝馬町」か(これは正直、次の《1-37》冒頭にある「なら市北傳馬天滿町」の抹消字からの類推に過ぎず、奈良市の現在の地図を確認する限り、どうも一致する町名が見えない。この接した二町(既に町名として消失しているかも知れぬ)或いはこの英文様のものが判読出来る方、或いはこの道筋を御存じの方、何でも結構、お教え願えれば幸いである。因みに新全集では図の中の邦文も英文も全く活字に起こしていない。先の「金剛」の図ではちゃんと起しているのに、である。判読を放棄したものらしい。]

Mitisuji

 

《1-37》

[やぶちゃん注:底本には『(住所録欄)』と注記がある。]

○なら市北傳馬天滿町 佐

[やぶちゃん注:奈良市北天満町として現存する。地図上では奈良市川之上突抜北方町とあり、しかもその南に奈良市川之上突抜北方町という町がある。どうも前の地図、ここ臭いのだが……。]

 

《1-38》

[やぶちゃん注:底本には『(住所録欄)』と注記がある。]

 

○牛込區喜久井町二〇竹内 井汲淸治

[やぶちゃん注:「井汲淸治」(いくみせいじ 明治二五(一八九二)年~昭和五八(一九八三)年)は文芸評論家で元慶応義塾大学教授。岡山県出身。慶応義塾大学文学部仏文科卒。慶大在学中から永井荷風の「火曜会」に出席し、卒業後『三田文学』の編集に携わる一方、本格的な評論活動を行った。大正一五(一九二六)年の第二次「三田文学」の発刊に尽力、編集兼発行人を務めている。昭和四(一九二七)年から昭和六年にかけてフランスに留学、帰国後、慶大文学部教授に就任。「ソリダリテの思想」「大正文学史考」などの評論があり、仏文学者としても多くの評論がある(ここは日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。「牛込區喜久井町」は現在の東京都新宿区喜久井町(きくいちょう)。]

 

○麻布笄町廿一 菊池

[やぶちゃん注:旧東京都港区麻布笄町(こうがいちょう)。この「菊池」は菊池寛のこと。小谷野敦氏のサイト内の「久米正雄・詳細年譜」に大正六(一九一七)年四月の条に『菊池は奥村包子と結婚し麻布笄町の借間に住まう』とある。]

 

○鹿島市木挽町中村病院内 倉田百三

[やぶちゃん注:劇作家倉田百三(明治二四(一八九一)年~昭和一八(一九四三)年)はウィキの「倉田百三」を見ると、大正七(一九一八)年の夏に『結核療養と肋骨カリエス手術のため』、『九州帝国大学医学部付属病院の久保猪之吉博士を頼り、妻晴子・長男地三と共に福岡県福岡市今川の金龍寺境内の貝原益軒記念堂に仮寓』していたとあり、この「鹿島市木挽町」というのが、佐賀県鹿島市内ならば、位置的にはあり得ない話ではない(但し、現在の鹿島市内に木挽町は確認出来ない)。]

 

《1-39》

[やぶちゃん注:底本には『(住所録欄)』と注記がある。]

 

○名古屋東區裏片端町二-一菅武時方 忠雄

[やぶちゃん注:名古屋市東区東片端町ならば現存する。この「忠雄」とはドイツ語学者菅虎雄(すがとらお 元治元(一八六四)年~昭和一八(一九四三)年)の子である小説家菅忠雄(すがただお 明治三二(一八九九)年~昭和一七(一九四二)年)のことであろう。上智大学中退後、文芸春秋社に入社、『文芸春秋』などの編集長を務める傍ら、大正一三(一九二四)年には川端康成らと『文芸時代』を創刊した。作品に「銅鑼(どら)」「小山田夫婦の焦眉」などがある。父虎雄は夏目漱石の親友でもあり、第一高等学校の名物教授としても知られ、芥川龍之介は師として非常に敬愛し、処女作品集「羅生門」(大正六(一九一七)年五月二十三日・阿蘭陀書房刊)の題字の揮毫も彼の手になるものである。]

 

セ 分  5.5 60.2

 表 分  4.0 40.0 8.0 40.0

 中   62.0 42.0

[やぶちゃん注:不祥な数値であるが、「セ」は背、「表」は表紙、「中」は中扉と読むなら、そのサイズを記したもののようにも思われなくはない。]

 

《1-40》

[やぶちゃん注:底本には『(住所録欄)』と注記がある。以下、宮坂覺氏の「芥川龍之介全集総索引」(一九九三年岩波書店刊)の人名索引に出ない人名(概ね不詳)は、原則、調べず、注さないこととする。]

 

中里百四十參  松井喜三郎

○公郷二四三五  荒川乙吉

○公郷二三七七  藤卷卯三郎

[やぶちゃん注:現在、神奈川県横須賀市公郷町(くごうちょう)が現存する。さすれば(次も横須賀である)抹消の「中里」は前にも出たが、やはり横須賀の内である可能性が高いように思う。]

 

不入斗三百廿四中里一八一  宮澤虎雄

[やぶちゃん注:現在、神奈川県横須賀市不入斗(いりやまず)が現存する。この地名は各所に見られ、もと、寺社領などで貢納を免ぜられた不入権をもつ田地の意であって、庄園地名の一種である。「宮澤虎雄」は海軍機関学校の同僚。物理担当。書簡が残る(岩波旧全集書簡番号七二二)。]

 

深田二百二十六 鈴木方中里二五  佐野慶造

[やぶちゃん注:「佐野慶造」(明治一七(一八八四)年~昭和一二(一九三七)年:芥川龍之介より五歳年上)は先に出した〈月光の女〉佐野花子(明治二八(一八九五)年~昭和三六(一九六一)年)の夫で海軍機関学校の同僚の物理担当教授。夫婦ともに芥川龍之介と親しかった。疎遠になった理由(それは不思議な妖しい謎でもある)など、詳しくは私の『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察 最終章』及びそこにリンク(記事下部に四種)した私の複数の考察を参照のこと。]

 

深田二二九(飯田山)公郷二二五四  玉井五嶽

[やぶちゃん注:現在、横須賀市深田台がある。]

 

○中里百三  富藤定藏

○中里百二  上村淸治

公郷田戸海岸  藤江逸志

[やぶちゃん注:現在の横須賀市米が浜通附近。海軍基地拡張のために大正二(一九一三)年に埋め立てられたため内陸化し、現在、白砂青松の海岸の面影は全くない。]

 

本郷區森川町一表北裏七一 松江方  上瀧

[やぶちゃん注:「上瀧」は高い確率で芥川龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)であろう。「學校友だち」(大正一四(一九二五)年一月)の冒頭に掲げられている人物である。一高には龍之介と同じ年(明治四三(一九一〇)年)に第三部(独語)に入学、東京帝国大学医学部を卒業して医師となり、後に厦門(アモイ)に赴いた。]

 

原町十三  谷崎潤一郎

[やぶちゃん注:大正五(一九一六)年に谷崎は東京小石川区原町に転居したが、大正八年には本郷区曙町に転居しているので、これは単にそうした旧住所の削除であろう(因みにこの間に谷崎は小林せい子との関係が始まっており、また、曙町に移ってからは近所に住んでいた佐藤春夫(後に谷崎の妻千代と関係を持って後二谷崎から千代を譲渡される)との交流が始まった)。]

 

横濱市南太田町二一六六 吉川方  中原安太郎

[やぶちゃん注:芥川龍之介の府立三中時代の同級生。龍之介は三中時代に彼と槍ヶ岳に登山している。]

 

中里二百十二 田丸方  黑須康之介

○本郷區湯島天神町一ノ九八  岡

[やぶちゃん注:名前を省略しているところから、芥川龍之介の友人の一高・帝大の同級生で漱石門下の劇作家岡榮一郎(明治二三(一八九〇)年~昭和四一(一九六六)年)であろう。]

 

《1-41》

[やぶちゃん注:底本には『(住所録欄)』と注記がある。]

 

○大阪市南區南炭屋町二五だるまや  とんだやさだ

[やぶちゃん注:現在の中央区西心斎橋附近。]

 

 火 1012 1年}

 水 1012 2年}

 

 金  911 2年}

 金  13    1年}

[やぶちゃん注:時間割。「}は底本は大きな「}」一つ。それを示しために、中央を一行空けた。]

 

19  2

 
14  1

[やぶちゃん注:意味不明。これを以って通称の「手帳1」は終わる。なお、旧全集「手帳一」には最後に以上に出ない部分が載るが、これは新全集編者によれば「手帳12」に記されているものとあるので、そちらで電子化する。]

4:17 蜩初音

涼風に目覚めた直後の4時17分に蜩の初音を聴く。7月5日。今年は遅いな。

2016/07/04

芥川龍之介手帳 1―19~25

《1-19》

Arumadori

[やぶちゃん注:この間取り図はどこのものか不明である。右手に「台所」とあり、中央の空間(?)に書かれてあるのは「湯殿」と読める(可能性の一つとしては、大正六(一九一七)年九月十四日に鎌倉和田塚の下宿から転居した横須賀汐入五八〇番地尾鷲梅吉方の一階の見取り図かも知れない。一九九二年河出書房新社刊鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」によれば、尾鷲氏はかなりの資産家で女中と二人暮らしで、その家の二階の八畳を借りたとある。一階の構造がこれだけあって八畳の部屋が二階にあっても不思議ではないように思われる)。]

 

《1-20》

○磧の場――太郎 婆

往來 屍人屋敷蹟――太郎 平六 阿濃のここへ來る伏線を張る

屋敷跡往來――婆 次郎

廢寺羅生門――太郎 爺 阿濃 平六 爺

羅生門廢寺――侍 沙金 次郎 沙金

屋敷跡――婆 阿濃

[やぶちゃん注:総て「偸盗」のメモである。但し、同作は大正六(一九一七)年四月二十日脱稿(「金剛」乗艦前の二ヶ月前)で七月に発表されているから、どうもこの手帳は必ずしも時系列の順では書かれていないようである。]

 

《1-21》

10924日 桐野利秋 村田新八

 91日 カゴシマシロヤマに入る 官軍圍んでまつ

[やぶちゃん注:西南戦争の城山籠城戦(九月一日~二十四日)を薩軍側から描く近代物の作品プランがあったか。「西郷隆盛」(大正七(一九一八)年一月)はあるが、内容的にはこの記載とは無縁である。

「桐野利秋」(天保九(一八三八)年~明治一〇(一八七七)年九月二十四日)は旧薩摩藩士で陸軍軍人。初めは中村半次郎と称した。薩摩生。通称は晋作。西郷隆盛の知遇を得て鳥羽・伏見の戦いや会津征討で軍功を立てた。維新後、陸軍少将・陸軍裁判所長等を歴任したが、征韓論政変で西郷とともに下野した。以後、鹿児島で私学校運営や西郷派士族の教育などに尽力したが、西南戦争で西郷軍総指揮者として奮戦するも陣中にて額を打ち抜かれて戦死した。

「村田新八」(天保七(一八三六)年~明治一〇(一八七七)年九月二十四日)は薩摩藩士で宮内大丞。西郷隆盛に従って国事に尽力、岩倉遣外使節に随行して欧米を廻り、帰国後には官を辞して西郷隆盛に従って鹿児島に帰郷、砲兵学校監督となった。西南戦争で薩軍大隊長として自決した。]

 

     74                                20

  16                        20

 ――――                 ―――

  444                       00

      74                                  40

 ――――                 ―――

 1184         │400                 400

  1200             3

 ――――

[やぶちゃん注:何の計算式かは不明。原稿の字数か? 当時、雑誌、特に新聞連載の場合には制限があったものとは思う。]

 

《1-22》

○ゲツヨウ、□ゴゴニヂ

[やぶちゃん注:「□」は底本編者によって右にママ注記があるので□が書かれているものらしい。]

 

《1-23》

Ships of in line of bearing advancing towards & firing at others on the bow.

Indian Head

America

fighting edge

[やぶちゃん注:一行目の文章は意味不明。艦砲射撃に関わる叙述か? 識者の御教授を乞う。外も単語としては分かっても、何を目的としてメモランダしたものかが不明。]

 

《1-24》

就眠前  ルブリン0.2

      臭素カンフル0.15

      乳糖0.5

[やぶちゃん注:「ルブリン」不詳。国立国会図書館デジタルコレクションのウンデルリヒ「独乙新方彙」の和訳本(明治一〇(一八七七)年刊)に「第十九類 骨喜乙涅ルフリン及麦奴」とあるが、当該箇所を見ても成分が分からぬ。同薬を含むものの主治は偏頭痛とある。

「臭素カンフル」ウィキの「臭素によれば、『精神的な興奮状態、性欲を鎮める作用があるため』、十九世紀に『おいては、興奮性の精神病の治療薬、鎮静剤、性欲抑制剤として臭化カリウムなどの臭化物を用いた。ただし、毒性があるため、現在ではほとんど用いない』とある。「カンフル」は薬物としての樟脳のそれではなく、単に器官や感覚の蘇生効果用といった接尾語か。

「乳糖」ラクトース(Lactose)。低甘味料で蔗糖の〇・四倍の甘味を有する。]

 

《1-25》

○上甲板

○壁 High

25キロ 配電盤

○變壓器 transformer

 振動變壓器 Accelation transformer etc.

Ampere Metre

 Volt Metre

 Switch board

 detector 檢波器

 Capacity 電氣容量

 Condenser 蓄電

 Transformer

                        coil

○自己感應<

 

                        Inductance

The light with yellow Shade telephone

White and brown dense and hot somewhat irritable

[やぶちゃん注:「Accelation」はママ。Acceleration か。しかし核物理学じゃあるまいし、変圧加速装置というのも、よう、分らん。二箇所の「Metre」も「Meter」の誤りで電流計と電圧計だろう。「Inductance(インダクタンス)はコイルを流れる電流を変化させた際に電磁誘導によってそのコイル或いは他のコイルに発生する起電力の大きさを表わす量。「誘導係数」とも称する。最後の二行も単語の意味は分かるものの、何をメモしたものか分からぬ。軍艦内の緊急通報システムの艦内電話とか、識別色か? お手上げ。識者の御教授を乞う。]

 

○鳴皐歌 遠別離 夢遊天姥吟 關山月 大原早秋 扶風豪士歌 行路難

[やぶちゃん注:総て李白の詩題である。

「鳴皐歌」「めいこうか」で、長短五十一句から成る古体詩「鳴皐歌逞琴徴君」(鳴皐歌 岑徴君ヲ送ル)のことであろう。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を参照されたい。

「遠別離」雑言古詩。壺齋散人(引地博信)氏のサイト「漢詩と中国文化」のを参照されたい。

「夢遊天姥吟」雑言古詩「夢遊天姥吟留別」(夢に天姥(てんぼ)に遊べるの吟 留別」。壺齋散人(引地博信)氏のサイト「漢詩と中国文化」のこちらを参照されたい。

「關山月」楽府で五言古詩の辺塞詩。サイト「漢文委員会」のを参照されたい。

「大原早秋」五言詩。ブログ「蛸田窯・作陶日記」のがよい。

「扶風豪士歌」七言の長詩。サイト「漢文委員会」のこちらを参照されたい。

「行路難」雑言古詩。先に挙げたサイト「漢詩と中国文化」のこちらを参照されたい。正直、私が知っていたのは最後のこれだけであった。]

芥川龍之介手帳 1―18

《1-18》

○經濟 庶務

    月々――  15000
     
originally  20000
        
- 5000ハ家庭渡し(計理部ヨリ)
      
 ――――――
         
  15000

[やぶちゃん注:計算式は底本では下部に横書。「originallyは副詞で「元来」。この金額、やけに大金である。当時の「金剛」の艦長は吉岡範策大佐であるが(当時の海軍の軍艦は概ね大佐クラス止まり)、ネット・データでは敗戦時で大佐の年棒(将校や准尉の上官クラスは月給ではなく年棒制。但し、それ以下は驚くほど低賃金(曹長で32円~75円、2等兵ともなると6.5円~9円)で月給制であったらしい)は3720円~4440円とあるから、これは艦長を含めた全乗組員総計を月割りに換算したものか。ネット上のあるデータを見ると、龍之介が「金剛」に乗艦した大正六(一九一七)年当時の一円は現在の1103円とするものがあるから、「15000」円は千六百五十四万五千円、「20000」円は二千二百六万円、「5000」円でも五百五十一万五千円に相当する。]

 

○3ケ月分即45000圓を拂ふ

  { 180圓――18頓

○炭{

  {1700圓――170

[やぶちゃん注:「{」は底本では大きな一つ。前の記載と併せて、数字の異常な大きさから、当時の「金剛」の消費燃料としての石炭の値段と重量式と思われる(ウィキの「金剛(戦艦)」によれば、同艦は昭和三(一九二八)年より昭和六年にかけて横須賀工廠で水平・水中防御力の強化と重油への燃料移行が行なわれているから、それまでは石炭燃料を使用していたことが判る)。前注で使用した換算を適応すると、「45000」円は四千九百六十三万五千円、「180」円は十九万八千五百四十円、「1700」円は百八十七万五千百円になる。これから見ると「金剛」の石炭標準消費量上限は一ヶ月百五十トン(現在の百六十五万四千五百円相当)となることになる。]

 

○おぎろなき海の光り

[やぶちゃん注:「おぎろな」しは「頤なし」で、広大である・奥深いの意の「日本書紀」に出る古語である。以下、短歌或いは俳句稿の表現断片である。芥川龍之介の手帳「我鬼窟句抄」の「大正八年」の俳句群の中に記された一首に、

夕影はおぎろなきかもほそぼそと峽間を落つる谷水は照り

の用例を認める(「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」を参照されたい)。]

 

○えやし人妻

[やぶちゃん注:「え」(正しくは「ゑ」)「や」は感嘆を示す間投助詞で、「し」も副助詞で強意。「ああ! なんて素晴らしく美しい!」のニュアンス。「人妻」については本パートの最後に注する。]

 

○うきくさの戀のゆくさためぬしられも

[やぶちゃん注:「ゆくさためぬ」「行く定め」か「行く(へ)定めぬ」か。先行する大正二、三年頃の芥川龍之介の未発表短歌に、

ほのぼのとのぼるココアのゆげよりもゆくへさだめぬ戀をするかな

ゆるやかにのぼるこゝあのゆげよりもゆくゑさだめずなびくわがこひ

がある(同じく、「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」を参照されたい)。]

 

○あぢさひの色さだめるやされど

あやめ

○人妻のあはれはあ

○いちはつの水につれなき戀なれど

[やぶちゃん注:「いちはつ」単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ Iris tectorum。和名は「一初」でアヤメ類の中でも一番早く咲くことに由来する。因みに、種小名の tectorum は「屋根の」という意である(乾いた土に生え、乾燥に強い(ここの「水につれなき」はそこに掛けた)ことから魔除けとして農家の茅葺屋根の棟の上に本種を植えたものであった。十代の終りに鎌倉の十二所の光触寺手前の左手の民家の上に見たのが最後だった)。]

 

人妻となりて三とせや衣更へ

[やぶちゃん注:「衣更へ」一般にこの直近(「金剛」乗艦は大正六(一九一七)年六月二十日)では六月一日である。これより「三とせ」前となると、この「人妻」の結婚は大正六(一九一七)年三月となる。これが重要な意味を持つ。末尾の私の注を参照。]

○人妻のあはれや春の葱

萍や行く方さだめぬ戀なれど

[やぶちゃん注:「萍」は「うきくさ」と読む。浮草。]

 

○かきつばた

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介は、この「金剛」乗艦の七ヶ月後の大正七(一九一八)年二月一日に塚本文と結婚式を挙げている(於・田端自宅)。従って、この歌稿断片が前部の「金剛」乗艦中に記されたものであるおするならば(前後の記載からそう断定してよい)、この「人妻」とは自分の妻文のことでは、ない。だからこの龍之介が煩悶する「戀」の相手も文では、ないその女性は既に「人妻」なのである。だから煩悶せざるを得ないのである。しかも彼女は大正六(一九一七)年三月頃に結婚していることになる。

 文さんとラブラブの婚約中の芥川龍之介にして、そんな女性がいるはずがない――と龍之介ファンの文学少女は思いたい、であろう。

 しかし、実際――それにぴったり一致する女性がいる――のである。

 海軍機関学校の同僚で友人であった物理教官佐野慶造の妻佐野花子(明治二八(一八九五)年~昭和三六(一九六一)年:芥川龍之介より三つ年下)

である。

 昭和四八(一九七三)年短歌新聞社刊の佐野花子・山田芳子(花子の娘)「芥川龍之介の思い出」の、佐野花子による「芥川龍之介の思い出」に以下のようにある、

   *

 大正六年四月の或る土曜日でしたが、私たちは新婚旅行に出るため、横須賀駅へまいりました。そのとき丁度、すれ違いに彼と出会ったのが、最初のお見知り合いでございましてまったく偶然ではありましたが、鎌倉までご同乗下さり、そこでにこやかにお見送り下さいました。

 「やあ、佐野君」

 「おお。これは芥川さんでいらっしゃる。これは妻です。お茶の水高師文科の出で」

 「おお。これは、月の光のような」

と呟かれました……。鶴のような長身にぴたりと合う紺の背広、右手にステッキ。束の間の出会いではございましたが、

 春寒や竹の中なる銀閣寺  龍之介

としるした美しい絵葉書は、すぐ後に届けられてまいりました。私どもはその筆蹟に見入り、発句に感じ、たいせつに手箱の底へ収めたものでございます。京都からの便りでした。

   *

これを発端として佐野夫妻と芥川龍之介は非常に親密となり、花子は龍之介に自身の歌稿を見せ、俳句の手解きを受けたりするようになる。但し、龍之介が結婚し、機関学校を退職後、交流は途絶えてしまうのであるが、それは当該書を読まれたい(現在ではなかなか入手し難いかも知れぬ。佐野花子の著作権は切れているから、もし、御要望が寄せられれば、彼女のパートだけを電子化してもよいとは思っている)。

 引用の冒頭を確認されたい。「大正六年四月の或る土曜日」「私たちは新婚旅行に出るため」である。抹消された俳句と思しいそれは「人妻となりて三とせや衣更へ」である。既に注した通り、花子は佐野慶造と大正六(一九一七)年三月頃に結婚していると考えてよい。

 さらに言うと、この四月十二日には龍之介は養父道章を伴って、京都・奈良に旅行しており、親友恒藤恭の新家庭を訪問、十三日には恒藤の案内で、金閣寺などを訪れており、花子の言う絵葉書の内容とも合致するのである。

 私は既にこの佐野花子については、『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察 最終章』及びそこにリンク(記事下部に四種)した私の複数の考察で、かなり拘って考証してきた。しかし、芥川龍之介研究者の多くは佐野花子の追懐を妄想(精神的な病的ものといったニュアンスをさえ漂わせてである。但し、そうした病的な思い込みが全くない訳では実はないと私は最終的には結論づけてはいる)の類いとして一蹴し去り、まともに取り上げる者がいない。私は今でもそれを非常に不満に思っている。私の拙稿を未読の方は是非、お読み戴きたい。佐野花子は確かに、芥川龍之介が愛した、かの「或阿呆の一生」に出る謎の〈月光の女〉の原型の一人あることは間違いないと確信してやまないのである。

芥川龍之介手帳 1―17

《1-17》

   {縱舵

○魚雷{橫舵

   {斜進舵

[やぶちゃん注:「{」底本では三行に亙る一つの大きな「{」。魚雷攻撃を受けた際の回避行動の一覧。]

 

1出帥準備  軍港其他

 2臨戰準備  軍艦

  a戰時不用品ノ除去

  b彈藥必需品の搭載(一年 or 半年) (Casematesなるものは(二等CruisersSplinter Net等をつくる)

 3合戰準備(handrail, そのstantion, Boat david等をとり去る。又船窓をしめ ventilater, 交通のvalve皆ふさぐ。衛生部前後部に戦時治療所をひらく。engine の方にも半時間内に全力準備成る

[やぶちゃん注:「出帥」はどうも怪しい言葉だ。「出師」ならば「すいし」で、確かに軍隊を繰り出すこと、出兵、軍隊又は国家の人的・物的資源を平時態勢から戦時態勢に或いは戦時の態勢からさらに厳しい臨戦態勢に移すことを指し、旧日本軍では陸軍はこれを「軍動員」と「軍需動員」に分け、海軍では「出師(すいし)準備」と称した。しかし「帥」の音は「シ」とは読まず、逆に「スイ」と読むのが普通だ。だから「出帥」は「しゅっすい」は「すいすい」と読むことになる。「帥」の音は「スイ」(呉音・漢音)の他に「ソツ」(漢音)・「ソチ」(呉音)はあっても「シ」はないのである。しかも「帥」は「軍を率いる最高の官」「先頭に立って指揮すること」、慣用音で「ソツ」と読んで「率いる」の謂いではある。どうもここには、とんでもない誤認慣用音が潜んでいる気がする。

Casemates」これは軍事用語と思われ、「砲郭・砲塔」「耐爆掩蔽設備」「防護砲台(艦上の砲塔を防護するために装甲された砲室)」のことを言うようである。

Cruisers」巡洋艦。

Splinter Net」これも軍事用語で「掩蓋(えんがい)」と呼ばれる、敵の攻撃の弾丸片やそれによって損壊した建造物の破片から自軍の武器や構造物を守るための「覆(おお)い」、防御ネットのことである。

handrail」欄干。

stantionstation の語記か。であれば、前記の欄干の固定指示部(装置)と読める。

Boat david」不詳。ボートの昇降機(dumbwaiter)のことか?

ventilaterventilator(ベンチレーター:通風装置・通風機・送風機・通風孔・換気窓)の語記か?

valve」バルブ(弁)であるが、ここは通路の各部の遮断扉(火災や浸水時に閉鎖)のことか?]

生けるものと死せるものと ノワイユ伯爵夫人 堀辰雄譯 (附 原詩)

[やぶちゃん注:フランスの詩人・小説家のアンナ=エリザベート・ド・ノアイユ伯爵夫人(La comtesse Anna-Élisabeth de NoaillesAnna de Noailles 一八七六年~一九三三年)の詩Les Vivants et les Morts(「生者と死者」一九一三年)の堀辰雄による訳。昭和一八(一九四三)年青磁社刊・菱見修三編「續佛蘭西詩集」に訳載された。底本は昭和二一(一九四六)年角川書店刊「絵はがき 堀辰雄小品集」に「飜譯小品」の一篇として載るものを国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認した。題名の後に原作者・原題・訳者名をオリジナルに附した。末尾に仏文の Wikisource Les Vivants et les Mortsより冒頭の当該原詩を引いた。私の好みでローマンの斜体表示とした。

 第五連三行目「されども、此の世の重き荷(に)はいよいよ增さん」の「いよいよ」は二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」では「いよよ」で擬古文訳の本篇には「いよよ」の方がしっくりくる。底本の誤植の可能性も高いが、初出を現認出来ないので、しばらくママとする。

 第七連第四行「あるひはまた印度の蓮(はちす)が花か」は同前「立原道造・堀辰雄翻訳集」では「あるひはまた印度の蓮(はちす)の花か。」と格助詞「が」が「の」となっており、しかも末尾に句点が打たれている。他の各連終行第四行末にはリーダの場合を除いて必ず句点を打っているから、脱落の可能性が深く疑われるがこれもやはり初出を現認出来ないので、しばらくママとする(前後を見ても、総ての行末に必ずしも句読点を振っていない点も考慮した)。格助詞は前行の二つの比喩の「の」の対表現という修辞上の問題は措くとして、実際に朗読してみると実はここは「が」の方が据わりよいと私は感じている。

 第十一連四行目「床(ふしど)やいかに。」は同前「立原道造・堀辰雄翻訳集」では「臥床(ふしど)やいかに。」となっている。「臥床(ふしど)」の方が無論、よい。

 第十四連二行目「すでに死者と異(こと)ならず、ただわれには脈搏あるのみなるを覺えき」の末にはご覧の通り、句点はない。同前「立原道造・堀辰雄翻訳集」で「すでに死者と異(こと)ならず、ただわれには脈搏あるのみなるを覚えき。」と句点がある。視覚上のバランスからはあった方がよいと思うが、第七連第四行の注同様、しばらくママとする。

 第十五連四行目「わが孤獨の伴侶(とも)たりし汝よ」も前同様に「立原道造・堀辰雄翻訳集」では「わが孤独の伴侶(とも)たりし汝よ。」と句点がある。同前。

 第二十一連三行目「いたましき死より汝を隔つる障屛(しやうへい)の」の「屛」の字は底本では「屏」であるが、ここのみ、二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」の正字表記「屛」の方を採用した。]

 

 

 生けるものと死せるものと

 Les Vivants et les MortsAnna de Noailles) 堀辰雄譯

 

汝(なれ)は生けり。なが面(おも)おほへる靑空を呑みつつ、

なが笑(ゑ)まひをわれは佳(よ)き小麥のごとき糧(かて)とす。

われは知らず、汝(なれ)が心疎(うと)ましくなりて、

   われを飢(う)ゑ死なしむるはいつの日か。

 

孤獨に、絶えず脅(おびや)がされつつ、さすらひゆく

われには、未來もなく、屋根ももはやあらじ。

われはひたすら恐るなり、家も、日も、年も、

   汝がためにわれの苦しみし……

 

われをとり繞(めぐ)らせる空氣のうちに、われのなほ

汝を見、心ちよげに汝の見ゆるときすら、

汝がうちなる何物かはわれを棄ててやまず、

  そこに在(あ)りながら、汝は既に去りゆく身なれば。

 

汝は去り、われは止(とど)まる、もの怯(お)づる犬のごと、

日は赫(かがや)ける砂のうへに額(ひたひ)すりよせ、

口うごかして、その影を捉(とら)へんとすれば、

   蝶は飛び立つてひらひら……

 

汝は去りゆく、なつかしき船よ。汝を搖(ゆ)すりつつ、

海は誇(ほこ)りてをらん、遙かかなたなる樂土(らくど)を。

されども、此の世の重き荷(に)はいよいよ增さん、

   わが靜かなる廣き港に。

 

みじろがずにあれ。汝がせはしげなる吐息(といき)、

汝が身ぶりは、蘆間(あしま)を分くる泉に似て、

わが心のそとに出づれば、盡(ことごと)く涸(か)れん。いましばし止まれ、

   わが憩(いこ)ひなる、この胸騷(むなさは)ぎのうちに。

 

わが目(まな)ざしのなが目ぎしとひとつになりて燃ゆるとき、

わが瞳(ひとみ)の汝に見するは、いかなる旅か。

そはガラタのゆふべか、アルデンヌの森か、

   あるひはまた印度の蓮(はちす)が花か

 

ああ、汝が飛躍、汝が出立に胸壓(お)しつぶされ、

われの手にてはもはや汝をこの世に止め得ずなりしとき、

われは思ふ、やがては汝にも襲ひかからん

  倦怠(けんたい)の凄(すさ)まじさやいかに。

 

快闊にして、心充(み)ち足(た)り、勇氣ありし汝(なれ)、

王者のごとくにすべての希望を意のままにせし汝、

汝もまた遂にはかの奴隷(どれい)の群れに入るか。

   默默(もくもく)として、耐へて臥(こ)やせる……

 

野を、水を、時間を超(こ)えて、彼處(かしこ)に、

明瞭なる一點として、われは見る、

孤立せるピラミッドに似て、何か魅(み)するがごとく、

   汝の小さき墓の立てるを。

 

されど、悲しいかな、その墓のかなた、

汝の最後に往きつく先はわれには見えず、買い

汝を押(お)し戾して、其處に歩み止まらしむるその限界(げんかい)、

   汝を憩(いこ)はしむる床(ふしど)やいかに。

 

汝は其處にて死してあらん、かのダビテの輩(やから)や、

槍投げするテエベびとの死すごとく。

あるは海べの博物館にて、その灰の目方をわが量(はか)りてみし

   希臘の踊り子の死すごとく。

 

――われは嘗(かつ)て、或太古の岸邊(きしべ)に立ちて、

烈日(れつじつ)の熱(あつ)さを天の侮(あなど)りのごとく耐へつつ、

石棺(せきくわん)の底にここだ殘れる人骨を見しことあり。

   そが額(ひたひ)とおぼしきあたりの骨にもわれは手觸れつ。

 

そのとき、それら遺骨をうち眺むるわれとても、

すでに死者と異(こと)ならず、ただわれには脈搏あるのみなるを覺えき

わがしなやかなる身の、かかる骨に化するは、

   束(つか)の間(ま)のうつろひに過ぎざれば……

 

われはかかる恐ろしき暗き運命をも否(いな)まじ、

われはそれらの底なき穴の穿(うが)たれし眼(まなこ)となるもよし。

されど、わが生の悦びたりし棕櫚(しゆろ)の樹よ、

   わが孤獨の伴侶(とも)たりし汝よ

 

ナイル河のごとく、わが心の擴(ひろ)がれる、

神祕なる王國を汝の手にて治(をさ)むるやう、

あたかも打ち負けし王子のおのが劍を與ふるごと

   ものいはずしてわれの赦(ゆる)せし汝よ。

 

絶えまなく搖(ゆ)らげる湖(うみ)に影をうつして、

みづからの姿を千々(ちぢ)にうちくだく宮殿のごとく、

わが夢も、わが苦しみも、わが悦びも、すべてうち挫(くだ)きつつ、

   われの向ひてゐし水の流れ、汝よ。

 

汝もまた、運命に引き入れられて、

かの痲痺したる灰色の群れの一人となりて、

肩に首をうづめしまま、佇みてゐるほかなきか、

   いたく怯(おび)えたる容子(やうす)して。

 

氷よりも冷たく、目も見えず、耳も聞えず、

宇宙の卵のうちに胚種(はいしゆ)のまどろむがごとく、

汝はにがき蠟になれかし! さらば、親しげに寄りくる

   蜜蜂もすみやかに飛び立たん。

 

それら亡靈どもの間に無氣力に立ちまじりて

彼らと歎(なげ)きを共にするのみにては、われは足らじ。

アンドロマク、或はスパルタのヘレナにも增して、

   人びとの諍(いさか)ふ目ざしを見しわれは。

 

わがいとしきものよ、われはわれを厭(いと)ひ、

又、王女らのもてるにも似し、わがはかなき衿持(ほこり)を蔑(さげ)しむ。

いたましき死より汝を隔つる障屛(しやうへい)の

   炎とすらもなりえぬ我ならずや。

 

されども、生を超ゆるものはすべて過ぎゆかざれば、

われは夢む、この暮れなんとする夕空の下に、

汝のもはや其處より出づることなき

   時間と空間との永遠を。

 

――おお、春のごとく美しかれ。雪のごとく愉(たの)しかれ。

大いなる壺(つぼ)のやすらかに閉ざされし内部に在りて、

すべての歌聲(うたごゑ)の、よろこばしきアルペジオとなりて、

   絶えず涌(わ)きあがるがごとくにあれ。

 

 

 

Les Vivants et les Morts

Anna de Noailles

 

Tu vis, je bois l’azur qu’épanche ton visage,

Ton rire me nourrit comme d’un blé plus fin,

Je ne sais pas le jour, où, moins sûr et moins sage,

Tu me feras mourir de faim.

 

Solitaire, nomade et toujours étonnée,

Je n’ai pas d’avenir et je n’ai pas de toit,

J’ai peur de la maison, de l’heure et de l’année

Où je devrai souffrir de toi.

 

Même quand je te vois dans l’air qui m’environne,

Quand tu sembles meilleur que mon cœur ne rêva,

Quelque chose de toi sans cesse m’abandonne,

Car rien qu’en vivant tu t’en vas.

 

Tu t’en vas, et je suis comme ces chiens farouches

Qui, le front sur le sable où luit un soleil blanc,

Cherchent à retenir dans leur errante bouche

L’ombre d’un papillon volant.

 

Tu t’en vas, cher navire, et la mer qui te berce

Te vante de lointains et plus brûlants transports.

Pourtant, la cargaison du monde se déverse

Dans mon vaste et tranquille port.

 

Ne bouge plus, ton souffle impatient, tes gestes

Ressemblent à la source écartant les roseaux.

Tout est aride et nu hors de mon âme, reste

Dans l’ouragan de mon repos !

 

Quel voyage vaudrait ce que mes yeux t’apprennent,

Quand mes regards joyeux font jaillir dans les tiens

Les soirs de Galata, les forêts des Ardennes,

Les lotus des fleuves indiens ?

 

Hélas ! quand ton élan, quand ton départ m’oppresse,

Quand je ne peux t’avoir dans l’espace où tu cours,

Je songe à la terrible et funèbre paresse

Qui viendra t’engourdir un jour.

 

Toi si gai, si content, si rapide et si brave,

Qui règnes sur l’espoir ainsi qu’un conquérant,

Tu rejoindras aussi ce grand peuple d’esclaves

Qui gît, muet et tolérant.

 

Je le vois comme un point délicat et solide

Par delà les instants, les horizons, les eaux,

Isolé, fascinant comme les Pyramides,

Ton étroit et fixe tombeau ;

 

Et je regarde avec une affreuse tristesse,

Au bout d’un avenir que je ne verrai pas,

Ce mur qui te résiste et ce lieu où tu cesses,

Ce lit où s’arrêtent tes pas !

 

Tu seras mort, ainsi que David, qu’Alexandre,

Mort comme le Thébain lançant ses javelots,

Comme ce danseur grec dont j’ai pesé la cendre

Dans un musée, au bord des flots.

 

J’ai vu sous le soleil d’un antique rivage

Qui subit la chaleur comme un céleste affront,

Des squelettes légers au fond des sarcophages,

Et j’ai touché leurs faibles fronts.

 

Et je savais que moi, qui contemplais ces restes,

J’étais déjà ce mort, mais encor palpitant,

Car de ces ossements à mon corps tendre et preste

Il faut le cours d’un peu de temps…

 

Je l’accepte pour moi ce sort si noir, si rude,

Je veux être ces yeux que l’infini creusait ;

Mais, palmier de ma joie et de ma solitude,

Vous avec qui je me taisais,

 

Vous à qui j’ai donné, sans même vous le dire,

Comme un prince remet son épée au vainqueur,

La grâce de régner sur le mystique empire

Où, comme un Nil, s’épand mon cœur,

 

Vous en qui, flot mouvant, j’ai brisé tout ensemble,

Mes rêves, mes défauts, ma peine et ma gaîté,

Comme un palais debout qui se défait et tremble

Au miroir d’un lac agité,

 

Faut-il que vous aussi, le Destin vous enrôle

Dans cette armée en proie aux livides torpeurs,

Et que, réduit, le cou rentré dans les épaules,

Vous ayez l’aspect de la peur ?

 

Que plus froid que le froid, sans regard, sans oreille,

Germe qui se rendort dans l’œuf universel,

Vous soyez cette cire âcre, dont les abeilles

Ecartent leur vol fraternel !

 

N’est-il pas suffisant que déjà moi je parte,

Que j’aille me mêler aux fantômes hagards,

Moi qui, plus qu’Andromaque et qu’Hélène de Sparte,

Ai vu guerroyer des regards ?

 

Mon enfant, je me hais, je méprise mon âme,

Ce détestable orgueil qu’ont les filles des rois,

Puisque je ne peux pas être un rempart de flamme

Entre la triste mort et toi !

 

Mais puisque tout survit, que rien de nous ne passe,

Je songe, sous les cieux où la nuit va venir,

A cette éternité du temps et de l’espace

Dont tu ne pourras pas sortir.

 

O beauté des printemps, alacrité des neiges,

Rassurantes parois du vase immense et clos

Où, comme de joyeux et fidèles arpèges,

Tout monte et chante sans repos ! …

2016/07/03

芥川龍之介手帳 1―16 

《1-16》

○下部發令所及下部發令所

Hatureisyo

[やぶちゃん注:以上の図は岩波新全集からトリミングした。思うにこれは砲塔或いは艦首位置から見上げた広義の艦橋、ブリッジ(bridge)方向を見て模式した図ではないかと考える。最上部右に、

top

とあり、羽状のマークを挟んでその左手に縦に「砲術長」とあるが、思うにこれは、次の、「Conning tower」の上部構造である狭義の指揮所である艦橋最上部を、「top」(top mast)と呼んでいるのではあるまいか? 中央やや上の右手には、

Conning tower

とあるが、これは線で指された左手の長方形部分(艦橋中段部)のことであろう。これは軍艦の司令塔の謂いで、広義の艦橋である。その直下に、左から右に左に等間隔で、

①②③④

の数字が打たれているが、この内、に線が引かれ、中央下部に縦書で、

「測距儀アリ」

とある。これは長距離射撃の照準を決めるための単体で三角測量を行なう機器のことで、左右に長く飛び出た望遠レンズを中央部で覗いて、砲撃対象との距離を割り出すステレオ式測距儀のことと思われる(岩波新全集はこれを「測距機」と翻刻するが採らない)。中央左の「Conning tower」の下部には四角が書かれ、その中に二行で、

「下部發令所」

とあり、その右手には、

「号令官」

(但し「号令」の下には(てへん)を書いた後があり、その左手に「官」とある。書きかけたのは「指揮官」の「指」ではなかったかと感じさせる。ただ、軍艦の艦長である指揮官との混同を避けようとしたのかも知れない)。なお、柱の「下部發令所及下部發令所」はおかしく、艦橋の「上部發令所」(狭義の艦橋(ブリッジ)、指揮所のこと)及び「下部發令所」の誤記ではあるまいか?]

 

○巨離曲線盤

 巨離時計 >發令所 ○2 or 3 →下發→ top →下令→2, 3, 1, 4 砲差訂正

 range clock

[やぶちゃん注:かなり表記が異なるが、これは先の「測距儀」に次いで作り出された射撃指揮装置の一つである「変距率盤」(Range-Rate Table)及び「距離時計」(Range Clockと呼ばれるものである。孰れも一九〇〇年頃に英海軍で発明されたものという。個人サイト「桜と錨の海軍砲術学校(日本海軍の艦砲射撃)」の射撃指揮装置概説で先の「測距儀」ともども画像が見られる。「測距儀」「変距率盤」「距離時計」が艦砲射撃の三種の神器なのである。

「發令所 ○2 or 3 →下發→ top →下令→2, 3, 1, 4 砲差訂正」というのは、艦砲射撃の際の伝達システムを示したものであろう。まず、艦橋下部にある発令所が先の測距儀のある②又は③に敵艦船頭の測量を命じ、それが発令所に報告されると、艦橋のトップ・マストの砲術長(ホンマにこないなところに居るんかどうか知らんが)に確認が行き、その確認がブリッジに行き、ブリッジは①②③④の観測点総てで再び測量をやり直させた上、砲の角度と向きを補正し、砲撃命令を下す、ということであろうか。]

 

○===部 旋𢌞

Syuhoukouzou

[やぶちゃん注:「○===部 旋𢌞」の「===」は底本では繫がった二重線で、要は砲塔部が旋回するということを意味している絵文字のようなものと判断出来る。これ自体は上記画像の上部に左から右に書かれているらしい。以上の砲塔(「金剛」は射界の狭い船体中央の砲塔を廃し、主砲塔を前後二基ずつ十四インチ砲八門(十四インチは三十五・五六センチメートル)を配置したすこぶる画期的な軍艦で、これは実は世界最大の艦砲であった)図は岩波新全集からトリミングした。上から、砲塔の内部に、

「砲室」

その塔の一階部分に、

「換装室」

とある。この換装室working chamberは装填前の砲弾が下部から引き上げられてあって、同室内には次に打ち出す砲弾のための弾薬などが先に引きあげられて保管されていたようである。

その右手上(砲塔外)に換装室の形状を示す、

「円」

というキャプションと、換装室についてのキャプションが書かれているのであるが、これが、

「丸の下■■■

 ■■■■■■

  砲室■■■」

と判読出来ない。換装室の下には、

「防衝器室」とある。砲撃の際の反動と爆音とを緩衝するための部屋であろう。これにも形状を示す、

「円」

というキャプションが右手にある。その更に右手には、

「電氣」

とあって、それが防衝器室へ矢印で繋がっているが、あまり意味が分からない。その左にはさらに、砲塔中央の船底方向への竪孔の中央部のパイプ状のものに線を伸ばして、

「空氣→水壓は軸心にある」

というキャプションが書かれてある。これもよく意味が分からない。或いは砲撃の反動や爆音を緩衝するために空気ポンプと海水ポンプの二つが利用されていたということか? 軍艦に詳しい方の御教授を乞うものである。

 最下部左下にも、

「■■■以上メモ」

という書き込みがある。判読不能の三文字は「樓直下」(砲塔直下の透視図の謂い)と読めなくもないように思われる。]

芥川龍之介手帳 1―15

《1-15》

[やぶちゃん注:これ以下、「1-18」冒頭までは、大正六(一九一七)年六月二十日(水曜)午後から勤務していた海軍機関学校の航海見学のため、巡洋戦艦「金剛」へ搭乗、同月二十二日に山口県玖珂(くが)郡由宇(ゆう)(現在の山口県岩国市由宇町)に到着するまでの見聞をメモしたものである。その時の体験は「軍艦金剛航海記」として同年七月二十五日から二十九日附『時事新報』に連載されている(別に資料としての「『軍艦金剛航海記』ノート」も現存する)。「金剛」はイギリスに発注された最後の主力艦で、この後、二度の改装後を経て高速戦艦となり、太平洋戦争でも活躍した。日本海軍が太平洋戦争で使用した唯一の外国製日本戦艦であった。本艦は昭和一九(一九四四)年十月二十三日から二十五日にかけて行われたレイテ沖海戦(日本側の作戦名「捷(しょう)号作戦」)に於いて十一月二十一日午前三時頃、台湾沖の基隆北方五十海里で米海軍の潜水艦シー・ライオンの魚雷攻撃を受けた。二本が被弾した。当時、金剛はすでに艦齢三十数年と老朽化が進んでおり、レイテ沖海戦でも至近弾で浸水被害を受けていたため、破損箇所が広がっていたが、乗組員の誰もが魚雷二本で沈むとは考えず、楽観視していたため、乗員退避は実施されず、傾斜十八度になって司令官及び艦長より総員退去命令が出され、五時二十分に機関停止、十分後の午前五時三十分に転覆した。沈没直前に弾薬庫の大爆発が起き、艦中央付近にいた多くの乗員が吹き飛ばされ犠牲となっている。被雷してから沈没まで二時間もの余裕があったにも拘わらず、指揮官以下の損害軽視や総員退艦の判断の遅れなどにより、島崎利雄艦長・第三戦隊司令官鈴木義尾少将以下、実に千三百名の貴い命を海の藻屑と化してしまうこととなった(以上はウィキの「金剛(戦艦)」に拠る)。]

 

○波浪 smooth mild rough

[やぶちゃん注:波浪の状態を指す。「smooth」は「ダグラス海況階級」(Douglas Sea Scale)の波の全くない「0」(Calm)で始まる九段階の風浪階級の「2」で波の高さ十~五十センチメートルを指し、「rough」は「5」で二メートル五十から四メートルを言う。「mild」は特に調べても出ないが、この間をとるならば、一~二メートルというところか。因みに「ダグラス海況階級」の風浪階級「9」は「phenomenal」「驚くべき」、同「うねり階級」の「9」は「Confusedwave length and height indefinable)」(混乱した(波長も波高も説明することが出来ないほどの)である。書いているだけで気持ちが悪くなる感じだ。]

 

○雲量

○航泊日誌――機關日誌

[やぶちゃん注:我々はよく「航海日誌」と言うが、これは一般商船の場合の船員法による呼称であって、軍事艦艇の場合はこの「航泊日誌」と言うの現在でも正しい。「機關日誌」はまた別な機関業務に関わる日誌で他にも、甲板部当直日誌・甲板部撮要日誌・無線業務日誌などいろいろな義務日誌が存在する。]

 

Cirrus C Nimbus N Stratus S Cumulus K Cirro-Stratus 卷層 CS Strato-Cirrus 層卷 SC Strato Cumulus 層積 SK Cumulo-Cirrus 積卷 KC Cirro-Cumulus 卷積 CK Cumulo-Nimbus 積乱 KN

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、「Cirrus C」は「シィラス」が「巻雲」で日誌記載の略号は「C」ということである。以下、略す。]

 

C

   
  >第一類上層雲 7000

 CS

CK

 KC  >第二類中層雲 30007000

 SC

SK

   
  >第三類下層雲 2000

 N

K

    
 >第四類 上昇氣流ニヨリテオコル 80―1400

 KN

S    第五高霧 1000以上

[やぶちゃん注:「>」は上部の二つ或いは三つの項を纏めて指示した記号。以上は雲の上位の高度による分類群。巻雲(C)から巻層雲(CS)までが高度七千メートル以上に発生するものでそれを「第一類上層雲」と呼称するということである。以下、略す。

「上昇氣流ニヨリテオコル」は旧全集に拠った。新全集では「上昇気流ヨリテオコル」と「ニ」をダッシュで判読しているが、採らない。

「第五高霧」は先の略号「S」の層雲(Stratus:ストラタス)の内、千メートル以上の下層雲の域内で発生する霧状のそれを別に「高霧」(高い霧)とも呼ぶというのであろう。層雲は。そのそもが最も低い所に浮かぶ灰色又は白色の、層状或いは霧状の雲を指し、輪郭がぼやけており、「霧雲」とも呼ばれ、霧をもたらす雲の代表格とされる。ウィキの「層雲によれば、『ラテン語学術名Stratus(ストラタス)は、ラテン語の動詞 sternere(拡張する、広がる、平らにならす、層で覆うなどの意)の過去分詞 stratus に由来する。略号はSt』とある。]

 

被帽通常榴彈  40度 Armour をつらぬきやすし

 徹甲榴彈    40

 被帽徹甲榴彈

[やぶちゃん注:「被帽通常榴彈」榴弾(りゅうだん:High ExplosiveHE)は狭義には内部に火薬が詰められ炸裂を起こす砲弾を指し、艦砲用榴弾の内、「被帽(ひぼう)」榴弾の「被帽」というのは『焼入れしない比較的柔らかな鉄で作られ、弾殻の先端部を覆う部品であり、命中時に弾殻と装甲板の中間に位置することで硬い装甲板の表面で硬い弾殻先端が破砕されないように保護しながら自らは潰れ広がりながら弾殻の持つ運動エネルギーを装甲板に伝える働きをする。逆に硬い装甲板を破砕するために被帽に加えて被帽の前に硬い鋼製の被帽頭を持つものもある』とあり、ここに龍之介が書いているように「Armour」(アーマー)、即ち、敵軍艦の「装甲」を貫き易くしてあるものを言う。因みに、艦砲用の徹甲榴弾には他に「風帽(ふうぼう)」という別種の部品もある。これは『概ね円錐形をした金属製の風防であり、弾殻の先が丸い大きな砲弾の先端部に付けることで風の抵抗を減らすものである』。『炸薬の爆発に伴う破片効果で加害する榴弾においては、侵徹力を高めること以外の目的で弾殻の先端までを鋭利に尖らせて無駄に重量を増やす必要性は無い。しかし、空中飛翔時に受ける空気抵抗は砲弾の外形が流線型であるほど少ないため、射程の最大化のため、弾殻本体の先端は丸いままで軽い金属板で作った風防を先端部に取り付けることで、あまり重量を増やさずに射程を延ばすことができる』のである(以上はウィキの榴弾に拠った)。ただ、ここで龍之介が「被帽通常榴彈」と「榴彈」と「被帽徹甲榴彈」の三種が存在するように書いてあるのは、私にはよく意味が分からない。識者の御教授を乞うものである。

40度」砲塔砲身の仰角角度か?

40屯」これは「金剛」が積載可能な榴弾の総トン数か?]

芥川龍之介手帳 1―14

《1-14》

 Lepraにか

Aestheticism の公卿が lepra にかかるThema

[やぶちゃん注:この作品、ありそうで、ない。

Lepra」「lepra」は「レプラ」で、ハンセン病のこと。

Aestheticism」唯美主義。
 
Thema」は「theme」(テーマ:主題)の語源のドイツ語の綴りであって誤記ではない。

 

○殺人に interest ある役者がつとむる殺人場面――德川時代にして書け

[やぶちゃん注:江戸物の中にはないと思われる。]

 

○ヨコ 尾上町二ノ十九 輸入者 岡田七郎

○■■■■■麻町一ノ一 セールフレザア協會

[やぶちゃん注:「■」は判読不能字。底本では字数が書かれているが、これに置き換えた(向後、この注は略す)。「尾上」(おのへ(おのえ))であろう。「輸入」とあると、私には横浜市中区尾上町(関内附近)辺りが想起される。後者は底本にある『五字不明』注記をかく換えた。この「セールフレザア協會」というのは「セール・フレーザー商会」のことではなかろうか? 森重和雄氏の幕末明治の写真師列伝 第三十四回 鈴木真一 その五(PDF)『セール・フレーザー株式会社という英国系貿易会社』とあり、『この会社は、元は横浜でセール商会とフレーザー商会という二つの会社であったが、四十が入社後の明治』三〇(一八九七)年に『合併してセール・フレーザー株式会社Sale and Fraser Co.なった大手商社(本社は麹町区八重洲町一丁目一番地)であった。その主な取扱商品としては、蒸気及び電気機関車、蒸気及び鉄道用品各種とその材料、蒸気及び電気用諸機械、水力電気用諸機械、鉄道用客貨車及び電車、艦船用諸材料、兵器及びその諸材料、各種銅鉄材料、各種銅鉄管類、各種ガス発生機械類、肥料、英国炭、コークス、火セメントなどなどであったが、他に銀行業も行っていた』とある。一見、龍之介と関連はなさそうに見えるが、この辺り、海軍機関学校英語教師時代のメモである可能性が非常に高いことから、連関は認められる。瓜井目々太氏のブログ「ぴゅあ☆ぴゅあ1949」のセール・フレーザー商会(1)(2)」を読むと、後に、かの限りなく胡散臭い白洲次郎が関係した会社でもあったことが判る。]

芥川龍之介手帳 1―13 

《1-13》

badande Susanna

[やぶちゃん注:「badande」はスゥエーデン語で「水浴をする人」の意があり、後の「Susanna」から、これは「旧約聖書」の「ダニエル書」第十三章に加えられた「ダニエル書補遺」の三つの短編の内の一つである「スザンナ」の物語を指すことが判る。ウィキの「スザンナ ダニエル書によれば、『この物語では正当なヘブライ人の人妻が、性欲を持て余したのぞき屋によって、いわれのない告発をされる。人払いをして庭で水浴する美しいスザンナ(ヘブライ語ではショシャーナ)を』二人の『好色な長老たちが密かに見つめていた。彼女が家へ戻ろうとした時、長老たちは彼女の前に立ちはだかり、「我々と関係しなければ、お前が庭で青年と密会していたと告発する」と言って脅迫した』。『スザンナはこれを拒絶したために脅迫通り』、『逮捕され、ダニエルという青年が異を唱えた時には混乱の内に死罪に処されようとしていた。ダニエルが』二人の『長老から別々に詳細を尋ねると、スザンナがその下で恋人に逢っていたと主張する木の名前が一致しなかった』。一人目は『彼らが乳香樹(Pistacia lentiscus)の下にいたと言い』、二人目はカシの木『の下にいたと主張した。乳香樹(カンラン科の低木)とカシ(ブナ科の高木)では大きさに著しい違いがあり、長老たちが虚偽の証言をしている事はその場の誰の目から見ても明白であった。不正な告発者は処刑され、美徳が勝利を収めた』。『ギリシャ語のテキストにおけるダニエルの反対尋問のくだりには、長老たちが語った木の名前と「切る」「切り倒す」をかけた駄洒落が含まれており、これはこの短編がヘブライ語やアラム語のテキストには存在しなかった事の証明として挙げられた。しかし駄洒落に使用された単語は原語においても充分に響きが似通っていると主張する研究者もいる。アンカーバイブルは「yew(イチイ)」と「hew(切る)」、そして「clove(チョウジノキ)」と「cleave(切り倒す)」を用いて英語に置き換えている。また他の研究者は駄洒落はギリシアの翻訳者によって書き加えられたもので、原書には存在しなかったと主張する』。『ギリシア語のテキストは』二種類が『残存している』。『これらはダニエル書の部分と考えられ、旧約聖書稿本のダニエル書の冒頭に置かれた。ヒエロニムスは、この物語をヘブライ語聖書で見つける事が出来ないという指摘と共にダニエル書の最後に置いた。セクトゥス・ユリウス・アフリカヌス Sextus Julius Africanus は、これを除外した。ヒエロニムスはヴルガータを翻訳する際、この節を正典には含まれない寓話と見なした』。『彼の序論では「スザンナ」はダニエル書の原書のようにヘブライ語で書かれず、ギリシア語で書かれているため正典として認められない追加文書であると指摘されている。オリゲネスはこれを外典ではなく、何らかのユダヤの慣習により隠匿されたものと見ている。古い時代には物語に対するユダヤ人による言及が全く存在しない』。以下、「芸術におけるスザンナ」の項。この物語は一五〇〇年頃から『数多くの絵画に描かれてきた。著名な裸体の女性の絵を依頼されたためという可能性は少なからずある。物語を強調した構図もあれば、裸婦に焦点をあてた作品も存在する。例えばフランチェスコ・アイエツによる』十九世紀の『作品(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)には長老たちは全く描かれていない』。『スザンナはウォーレス・スティーヴンズ(Wallace Stevens)による詩『ピアノを弾くピーター・クインス Peter Quince at the Clavier)』の主題となっている。この詩はアメリカの作曲家ドミニク・アージェント Dominick Argento とカナダのジェラード・バーグにより曲を付けられた』。『ヘンデル』は一七四九年に『英語のオラトリオ『スザンナ(Susanna)』を書いた。カーライル・フロイド(Carlisle Floyd)により書かれた』二十世紀の『アメリカ合衆国南部を舞台とするアメリカのオペラ『スザンナ』もこの物語に着想を得ている。但しハッピーエンドではなく、長老は実際にスザンナを誘惑する偽善的な旅の伝道者に置き換わっている』とある。]

 

St.Supplice

[やぶちゃん注:聖シュルピス。元は「Sulpitius the Pious」(?~六四四年)で東方正教会及びローマ・カトリック教会のフランスの聖人である(英語版ウィキをリンクしておく)。彼を記念するカトリック聖堂「サン=シュルピス教会」(Église Saint-Sulpice)はパリ六区にあり、ノートルダム大聖堂に次ぐパリ第二の大きさを持つ教会堂でフランスでも著名である。一六四六年にルイ十三世の王妃アンヌ・ドートリッシュの命により建築が開始されたが、完成は困難を極めた。ブリュメールのクーデターが起こる三日前には、ナポレオンの栄誉を祝う祝宴が七百人を集めて、ここで挙行されている。同教会には数々の芸術作品が収蔵されており、一八五六年に描かれたドラクロワのフレスコ画「天使とヤコブの闘い」「悪魔を撃つ大天使ミカエル」などがある。また、教会前にある広場にはヴィスコンティの「四人の枢機卿の噴水」がある(ここはウィキの「サン=シュルピス教会に拠る)。今一つ、「Societas Presbyterorum a Sancto Sulpitio」、「サン・シュルピス会」という一六四二年にフランスの神学者 J.オリエがパリのそのサン・シュルピスに創立したカトリックの教区付き司祭会が存在する。一六六四年にローマ教皇によって認可され、オリエが学んだ P.ベリュルの思想を中枢として神学校を経営し、司祭を育成している(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)とある。芥川龍之介がこれを記した意図が不明であるので可能性のある対象総てを列記しておいた。]

 

Reader 5

[やぶちゃん注:英語教則本と思われる。]

 

○起明堂(渡邊) 大滝町

[やぶちゃん注:不祥。龍之介が接点を持ちそうな区域では、海軍機関学校から神奈川県横須賀市大滝町がある。屋号であるが、私には書店のように見受けられる。]

芥川龍之介手帳 1―12

《1-12》

○牢中の女のくれた花をみる件 即すくふ前に女を見そめる事を入れよ

[やぶちゃん注:明らかに既に書かれた草稿やシノプシスへの追加メモのように見えるが、芥川龍之介の完成当該作品中にはこうしたシーンは私には記憶がない。]

 

○大きさ七間 戸五間 二重閣圍 丹楹丹雘を以て彩り 東西各一間 東面西面各二間並に粉壁ス 東西各八間に腋門あり 伊經入道の額

[やぶちゃん注:岩波旧全集では「二重閣」が「二重圍」、最後の「伊經入道の額」は「伊能入道の額」となっている。『WEB画題百科事典「OPEN画題WIKI」(一般公開版)』の朱雀門」の「東洋画題綜覧」の記載に「大内裏図考」からとして、『大内裏外郭十二門の一、又大門、南門、重閣門、大伴門、(伴氏作るを以て名とす)雩の門ともいふ、『三代実録』に『大明宮南面五門、正南曰丹鳳門夫丹鳳朱雀其義是一然則以其在南方、故謂之朱雀』とある、大内裏南面の正門で、内は応天門、外は羅城門と相対し、朱雀大路より宮城に入る日にあり、東に美福、西に皇嘉の二門がある、桓武天皇延暦十三年、大内裏を経営せられた時伴氏之を造る、大さ七間、戸五間二重閣で左右の衛士共に之を衛る、東西各一間東西両面各二間、東西各八間の腋があり、嵯峨天皇の弘仁九年額を改め弘法大師の筆額を掲げ、永祚元年八月大風の為め転倒し、保元三年之を修造し、兼行朝臣の書額を撤し、前関白忠通の書額を掲げた、次で元久元年後京極摂政また書を額とし建暦二年十月には曩に諸門顛倒の為め新に額板を製し伊経入道の筆額を掲げた』。『伴大納言絵巻の中に、その図を載せてゐる』。『(『東洋画題綜覧』金井紫雲)』とあり、同じ『WEB画題百科事典「OPEN画題WIKI」(一般公開版)』の羅城門」の「画題辞典」の引用には『羅生門、俗に羅城門ともいふ、平安城の正門にして朱雀大路の中心に當り、朱雀門と遙に相望み、洛中洛外の境界をなす、門の台.廣さ南北二丈六尺、東西十丈六尺、二重閣瓦葺にして丹艧紛壁、平安京第一の大門なり,弘仁七年八月、大風の為めに倒れ、後再建されしが、西の京の衰頽すると共に大に荒廃し、平安朝末期には盗賊の住家と化したり』『(『画題辞典』斎藤隆三)』とある。この「羅城門」の方の「二丈六尺」は七メートル八十七センチ、「十丈六尺」三十二メートル十二センチ弱であるから、ここの数値とは合わない。寧ろ、朱雀門の数値及び扁額の筆者の一致から見て、ここに出るデータは朱雀門のそれと断定してよいと思われる。これは「羅生門」のためのメモランダの如く見えるが、「羅生門」は大正四(一九一五)年十一月の『帝国文学』で、本「手帳1」の推定記載時期上限よりも一年前で、前後のメモを見ても、これは少なくとも「羅生門」執筆のためのそれではない。恐らくはそれ以降の王朝物の大道具として朱雀門を使う場合のメモとして残したものと見るのが至当である。

「七間」十二メートル七十三センチ弱。

「五間」九メートル九センチ。

「圍」「がこひ(かこひ)」。

「丹楹丹雘」「丹楹」は「たんえい」で、朱で塗った柱、或いは柱を赤く塗ること。「丹雘」は「たんわく」で、朱色の鮮かなる土の意で鉱物性顔料である辰砂の類いを指す。

「一間」一メートル八十二センチ弱。

「二間」三メートル六十四センチ弱。

「粉壁」漆喰(しっくい:消石灰に麻糸などの繊維質や海藻のフノリ・ツノマタなどを膠着剤として加えて水で練った建築素材(砂や粘土を加える場合もある)。「シックイ」は「石灰」の唐音に由来するもので「漆喰」は当て字である)で白く上塗りした白壁(しらかべ)。 「八間」十四・五十四センチ強。

「腋門」「わきもん」で脇門と同じい。大きな門の脇にある附属した小さな門。

「伊經入道の額」藤原伊経(これつね ?~嘉禄三(一二二七)年)は平安末期から鎌倉初期にかけての貴族で世尊寺家第七代目当主。宮内少輔藤原伊行の子で建礼門院右京大夫の兄。官位は正四位下で太皇太后宮亮。参照したウィキの「藤原伊経によれば、『能書家・歌人として知られ、中務少輔・宮内少輔・太皇太后宮亮などを歴任』、元久四(一二〇四)年に『正四位下に叙された。藤原教長からの口伝を筆記して書論書『才葉抄』を著し、『千載和歌集』奏覧本(天皇に献上する勅撰和歌集の完成本)の外題を記すなど、世尊寺流の大家として知られていたが、官位の昇進は振るわず、経済的には苦しかったとみられている。『千載和歌集』『新勅撰和歌集』に』一首ずつ『和歌作品が採録されている』とある。]

 

○大路 廣二十八丈 東左京 西右京

[やぶちゃん注:前の朱雀門データに続いて朱雀大路のデータ。平安京の中央を南北に縦貫し、大内裏外郭南面にある朱雀門から平安京南詰にある羅城門へと通じていた。長さ約三・七キロメートル、幅は約八十五メートル。朱雀大路によって東側を「左京」(南面する天子から見て左となる)西側を「右京」と呼称する。

「二十八丈」八十四メートル八十四センチ弱。]

 

〇二十坊 左京右京二十七坊の夜を破りて

[やぶちゃん注:「左京右京二十七坊」(前の「二十坊」は誤記で訂正記載したものであろう)京の左京と右京にあった二十七の「坊」、即ち、条坊制に於いて左京・右京各々の各「条」(東西に通じる大路)を四坊に分かっていた南北に通じた大路のこと。転じて京の街全体の謂い。これは「偸盗」の「七」の中間部に出る、次郎が追手の番犬(狩犬)に触発された野犬の群れに襲われて絶体絶命となるシークエンスのブレイク直前に少し末尾を変えて出る(底本は岩波旧全集)。

   *

 次郎は、絶望の目をあげて、天上の小さな月を一瞥しながら、太刀を兩手にかまへた儘、兄の事や沙金の事を、一度に石火の如く、思ひ浮べた。兄を殺さうとした自分が、反つて犬に食わはれて死ぬ。これより至極な天罰はない。――さう思ふと、彼の目には、自ずから淚が浮んだ。が、犬はその間も、用捨はしない。さつきの狩犬の一頭が、ひらりと茶まだらな尾をふるつたかと思ふと、次郎は忽左の太腿に、鋭い牙の立つたのを感じた。

 するとその時である。月にほのめいた兩京二十七坊の夜の底から、かまびすしい犬の聲を壓して遙に戞々たる馬蹄の音が、風のやうに空へあがり始めた。……

   *]

2016/07/02

芥川龍之介手帳 1―11

《1-11》

○石塔婆二本(兩側) 圓頂石塔 石垣の上にある

[やぶちゃん注:「圓頂石塔」こういう言い方は、狭義には上部の四つの角或いは左右が丸くなだらかに成形されている円頂方形墓標や円頂方柱墓標を指すが、こうした墓石の形態は近世にならないと現われない。これが芥川龍之介が考えていた王朝物のメモとするならば、五輪塔の火・風・空輪が崩れ去り、丸い水輪とその下の方形の地輪のみが残った五輪塔の残骸としか思われない。]
 

Contradiction of morals of thieves

[やぶちゃん注:「偸盗の群れの内部の倫理意識の矛盾」か?]
 

○すずしの生絹の水干をきた童。菜をうる販婦(ひさぎめ)。菜はいらんかな――すゞな すゞしろ あしなづな せり はこべら みつばせり ――菜はいらんかな

[やぶちゃん注:「すずし生絹」は重複した表現で、蚕繭から採った、未だ練らないままの絹糸。生糸(きいと)のことを「すずし」「きぎぬ」と言うが、漢字では「生絹」と書くからである。

「(ひさぎめ)」はルビではなく、本文同ポイント。

「あしなづな」は「あしな」「なづな」の謂いであろう。一般に春の七草というと、

 せり なづな 御行(ごぎやう) はこべら 佛の座 蕪(すずな) すずしろ これや七草

で知られるが、行誉らによって撰せられた室町時代に成立した百科辞書・古辞書である「塵添壒囊抄(じんてんあいのうしょう)」には(以下、WEB画題百科事典「OPEN画題WIKI(一般公開版』の「春の七種」から引いた)、

 芹、なづな、五行、たびらこ、仏の座、あしな、みみなし、これや七くさ

 芹、五行、なづな、はこべら、仏の座、すずな、みみなし、これや七くさ

とあるという。但し、引用元に、『みみな草は石竹科の小草で別名を巻耳といひ、『あしな』は詳でない、すずなは菘と書くが、普通の菜のこと、すゞしろは今の大根である』とあり、その対象は不明である。龍之介は登場する春の七草を鬻ぐ女の売り声にも古い謂いを語らせようと、この「塵添壒囊抄」辺りまで紐解いていたのかも知れない。]
 

○播磨の国飾磨の里 卯花のかざみを着た女の童。

[やぶちゃん注:「飾磨」は「しかま」と読み、現在の姫路市南部の地区名。この地名があらわれたのはかなり古く、「播磨国風土記」にも「飾磨郡」の名が見える。地名の由来は「鹿が居て啼いたため」とされている、とウィキの「飾磨」にある。

「かざみ」漢字表記は「汗衫」(字音「カンサン」の音変化)で、本来は衣類に汗が滲むのを防ぐために着た単ひとえ)の下着を指すが、ここは平安以降に後宮に奉仕する童女が表着(うわぎ)の上に着用した正装用の服であろう。脇が開いていて裾を長く引くもので、この服装の賽には濃(こき:赤紫)の袴に、この少女のこの装束時専用の表袴(うえのはかま)を重ねて穿くのが礼式である。]
 

Iconoclastic novel

[やぶちゃん注:「因習打破の小説」。]
 

○大友宗麟

[やぶちゃん注:芥川龍之介に彼を登場させた作品はない。きっと面白い切支丹物が出来たと思うと、少し惜しい気がする。]
 

○畫家良秀 礼拜不動。

[やぶちゃん注:明白な大正七(一九一八)年五月発表の「地獄變」関連のメモである。]
 

男地蔵。PoeDomain of Arnheim 鷗外の傳記的にhardにかく

[やぶちゃん注:私は当初、この後半の「鷗外の傳記的にhardにかく」という叙述から、これはやや古いが、大正五年四月に発表された「孤獨地獄」のプランのかと思ったものである。抹消であるが、一人の大酒豪の女色家の禪超なる孤独「地獄」に堕ちた「男」を描いて筆致はハードであり、そもそもが芥川龍之介の大叔父「細木香以」が語った話として書かれている点でも、「鷗外の傳記」風の厳然としたリアルな構造を持った作品だからである。新全集の後記では本ノートの上限を大正五年としており、それにぎりぎり入る範囲でもあるのであるからでもある。しかし乍ら、「PoeDomain of Arnheim」が、いけない。エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe 一八〇九年~一八四九年)の奇体な人工庭園小説「アルンハイムの地所」(The Domain of Arnheim 一八四六年)は、ちょっと「孤獨地獄」とは結びつかない。寧ろ、これは私の偏愛する後の「庭」(大正一一(一九二二)年七月)の異様奇怪な庭の運命と、それを包む妖気が如何にも「PoeDomain of Arnheim」を感じさせる。それに「庭」では登場する一家一族(野垂れ死にする、かの実在した乞食宗匠井上井月まで登場する)の多くが、散り散りばらならとなっては没落したり、斃死してゆく悲惨な様態が描かれ、実に確かに「Poe」的なのであり、その筆致も確かに「鷗外の傳記的」な「hard」さを備えているようにも私には見える。大方の御叱正を俟つ。]
 

AssignationPoe Venice 日本使節 筋未定

[やぶちゃん注:丸括弧の閉じるがないのはママ。Assignation」はポーのヴェニスを舞台とする悲恋心中物の「約束事」(The Assignation 一八三四年)を指す。「日本使節」は不詳。筋立てとして「約束事」は例えば人物関係と毒薬による主人公の自死という構造では「開化の殺人」辺りと似ていなくもないが、明白なインスパイアと感ずるものは私にはない。]

忘れがたみ シユトルム作 立原道造譯

[やぶちゃん注:立原道造訳になる、ドイツの司法官で詩的リアリズムの詩人・作家として知られるテオドール・シュトルム(Hans Theodor Woldsen Storm 一八一七年~一八八八年)の“ Posthuma (一八四九年/一八六〇年)。因みに、シュトルムは「みずうみ」( Immensee 一八四九年)を始めとして若き日より私の偏愛する作家である。

 底本は昭和一一(一九三六)年山本書店刊テオドル・シユトルム・立原道造譯「林檎みのる頃」を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認した。題名の後に原作者・原題・訳者名をオリジナルに附した。「*」の三画配置は底本では同記号を正三角形の頂点位置に小さな「*」を配した記号である。

 但し、第二段落の「そしてたうとう冬になつた、雪がただ降るばかり」の「雪」は底本では「雲」であるが、意味が通じないので、誤植と断じ、二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」を確認の上、例外的に「雪」と訂した。

 以下、簡単に注を附す。

 「まつゆき草」「待雪草」で英名「スノードロップ」(snowdrop)と呼ばれる単子葉綱キジカクシ目ヒガンバナ科ガランサス属 Galanthus の総称。冬の終わりから春先にかけて各三枚ずつの長い外花被と短い内花被を持つ、可憐な白い六弁の花を咲かせて「春を告げ花」として知られる。

 「雁來紅」は一応、そのまま「がんらいこう」で読んでおくが、所謂、我々の知っている双子葉植物綱ナデシコ目ヒユ科 Amaranthoideae 亜科ヒユ属 Amaranthus tricolor 亜種ハゲイトウ Amaranthus tricolor subsp. tricolor 変種ハゲイトウ(ヒユ)Amaranthus tricolor var. mangostanus のことである。漢名は雁の来る頃に葉が紅色になることに由来する。

 「三十ロオト」信頼出来るサイトのドイツ語原本を画像視認したところ、“Lot”とある。ドイツ語の辞書で調べると、これは「ロート」で、現行では水深を計測する「測鉛」「垂直線」「弾丸・砲弾」などの意であるが、別に古い重量単位で一ロートは約三〇分の一ポンドとあった。一ポンドは訳四百五十三・六グラム弱だから、一ロートは約十五グラムで三十ロートはたった四百五十グラムである。] 

 

  忘れがたみ

                        Posthuma Theodor Storm )立原道造譯

 

 葬ひの行列が墓地に人つた。細長い柩が、花環をのせて、六人の人に擔はれて、二人の人に伴はれて。それは靜かな夏の早朝のことであつた、墓地は大部分まだしめつぽい蔭のなかに橫たはつてゐた。ただ眞新しい墓のまはりに、盛り上げられた土がもう陽に照りつけられてゐた。ここにその柩は埋められた。人びとは帽子を脫いで、しばらくの間、頭を垂れてゐた、それからしやべりながらまた來た道を歸つて行つた。墓掘人夫に殘つた後仕末はすつかり任せて。――間もなく土が穴に投げいれられ墓は堆高く蔽はれた、再び靜寂と、さびしい日の光ばかりになつた。そしてただ十字架と記念の額と骨壺と、オベリスクの影が移るともなくひそかに芝生の上を滑つて行つた。

 この墓は貧しい人々の場所にあつた、そこでは何の石も墓の上におかれないのである。はじめは土が低く盛り上げられる。それから風が吹いて來て塵をだらしなく道の上に吹き飛ばす。それから雨が空から降りそそぎ、角のところをながして行く。夏の夕ぐれには子供が飛びこえ、そしてたうとう冬になつた、雲がただ降るばかり、ふかくふかく積つてしまふ。しまひにはすつかりとそれが蔽はれてしまふほど。――しかしいつまでも冬ではゐない。また春となり、さうして夏が來た。よその墓にはまつゆき草の花が地からあらはれ、雁來紅の花が咲き、薔薇が大きな芽を出した。今やここでも。墓はすつかり蔽はれた。はじめはきれいな綠の草に、それから赤いいらくさに、また薊や、人たちが雜草といふ植物に。そして暑い夏の眞晝には蟋蟀の歌でいつぱいだつた――。やがてまた或る朝、薊や雜草はすつかり刈り取られ美しい草ばかりが殘される。それから二三日たつとその一方のはしに飾り氣もない黑い十字架が立てられた。そして最後に、その十字架には、道から外れて少女の名が刻みこまれた、それはちひさな文字であつた、彩りもなく近よらなくては見わけ難いほどだつた。

         *
        *
         *            

 夜となつた。町では窓はくらくすべてはすでに眠りに就いてゐた。ただ、或る大きな家の上の方の高い窓に、若い一人の男が眼覺めてゐた。彼は蠟燭を消して眼をとぢて安樂椅子に坐つてゐた。下ではもうみんなが休んだかと。聞耳を立てながら。手には白い薔薇の花環を持つてゐた。彼はかうして長いこと坐つてゐたのである。

 戶外では別の世界が生きてゐた。夜の生きものたちがあちこちと步き、とほくでは何かが呻いてゐた。男が眼をひらいたときに、部屋は明るかつた。彼は壁の上に物の形が映つてゐるのを見わけることが出來た。窓を通して、隣りの建物の眞向の壁が月のひかりに明るく照らし出されてゐるのを見た。彼の思ひは墓地への道を辿つてゐた。

「あの墓は影にうもれてゐる。」と彼は言つた。「月のひかりはあの上をてらさない。」と。それから彼は立ちあがり、用心ぶかく扉をひらき、花環を手にして階段をおりて行つた。玄關でも、もう一度聞耳を立て、それからしづかに扉をひらいた。そして、街に出て家々の影をたどり步いて行つたのである。しばらく月かげのなかを行くと、やがて彼は墓地に着いた。

 それは全く彼の言葉のとほりであつた。墓は墓地の壁のふかい影にうもれてゐた。彼は薔薇の花環を黑い十字架にかけた、さうして頭をそれにもたせかけた。――番人は戶外をあちらに行きすぎた、しかし彼のゐることには氣づかなかつた。月夜の物音が眼をさました。草のざわめき、夜の花のほとばしり、風のなかのこよない歌聲。しかし、彼はそれを耳にしなかつた。彼はもう過ぎてかへらない時のなかに生きてゐた。少女の腕に抱かれて、そしてその腕はもう胸打たない心臟の上にずつと以前に結ばれてしまつたのに。蒼白い顏が彼の顏に迫りより、子供のやうに靑い二つの瞳が彼の瞳に見いつてゐた。

 かの女は生きてゐる日にすでに死を抱いてゐた。しかもかの女は若く美しかつた。かの女は彼を愛した、かの女は彼にすべてをなした。たぶたび彼のことで家の人から叱られた。しかしかの女はそのときしづかな眼で見つめてゐるばかりで、そのあともそれが改まるといふことはなかつた。春淺く寒い夜のことかの女は古びた着物を着て彼のところへ庭をはいつて來た。彼はいつもそれを思ひだすのである。

 彼はすこしもかの女を愛してはゐなかつた。ただ欲望をみたすためにだけであつた。そして不注意にもかの女の唇から氣づかはしげな炎をうけとつたのだつた。

「もしも僕がおしやべりだつたら、」と彼は言った。「明日はきつとみんなに言ひちらすだらう、僕にこの町えいちばん美しい少女がくちづけしてくれた。」と。

 かの女は信じはしなかつた、彼がかの女をいちばん美しいとおもつてゐるとは。また信じもしなかつた、彼が默つてゐるだらうとは。

 低い籬が、彼たちの立つてゐる場所を街道から距ててゐた。足音が近づいて來るのが聞えた。彼はかの女をいつしよに連れて行かうとおもつた。しかしかの女は引止めた。

「どうでもいいのよ」とかの女は言つた。

 彼はかの女の腕から逃れ、ひとりきりで引歸した。

 かの女はそこに立つたままであつた、身動きもせずに。ただ兩手で眼を蔽てゐた。――さうしてかの女は立ちつづけてゐた、戶外を人があちらに通りすぎ、その足音が家のあひだをだんだんと消えて行く間。かの女は、彼が再び歸つて來てその腕をかの女の頸にからませるのを見てはゐなかつた。しかしかの女がそれを感じたとき、頭をなほも低く垂れた。

「恥しいのでせう!」とかの女は言つた「わたくしはよく知つてをりますわ。」と。

 彼は何とも答へなかった。彼はべンチに腰をおろし、物も言はずにかの女を引きよせた。かの女はなすままに任せてゐた、自分の唇を彼の美しいらうたげな手にさしあてた。かの女は自分が彼をかなしませはしなかつたかと恐れてゐたのである。

 彼はほほゑみながら、かの女を膝の上に抱き上げた、何の重みも感じられずに、ただやさしい妖精(エルフ)のやうな身體の形ばかりが感じられるのをいぶかしがりながら。彼は冗談半分にかうささやいた、おまへは魔物だ、目方三十ロオトもありはしないもの、と。――風が枯れた梢を透つて吹いて來た、彼は自分のマントでかの女の足を包んだ。かの女はよろこばしげな眼で彼を見あげた。

「寒くはありませんの」とかの女は言ひ、自分の額をしつかりと彼の胸におしあてた。かの女は彼のなすままであつた。もう決してひとりにならうと思はなかつた。――彼はかの女をいたはつた。それは彼がかの女を憐れんだからでもなく、また愛もないのにかの女を自分のものと呼ぶことに彼が罪を感じたからでもなかつた。しかし、かの女をひとり占めしようとすると、何者かが彼を妨げるのであつた。彼はそれが死であらうとは知らなかつた。――

 彼は立ち上り、行かうとした。

「おまへはひえるよ」と彼は言つた。しかしかの女は手をとると自分の頰にあて、また自分の額を彼の額に觸れた。

「わたしは熱くてよ。觸つてみないこと、燃えるやうに熱くてよ!」とかの女は自分の腕を彼の頸にからませ、子供のやうに彼の頸にぶらさがつた、そして、我を忘れてうつとりと默つて彼を見つめた。 

         *
        *
         * 

 この晩から一週間程して、かの女はもうベットから起き出ることが出來なかつた。二月の後に、かの女は死んだ。彼はそれきり二度とかの女に會はない。しかしかの女の死んだ後、彼の欲情は消えた。彼は今やすでに數年のあひだ、かの女の鮮やかな繪姿を心に持ち、この死せる少女を愛するやうに强ゐられてゐるのである。

 

《オルフエへのソネツト・Ⅱ》 Die Sonette an Orpheus Ⅱ (Rainer Maria Rilke)立原道造譯

[やぶちゃん注:立原道造訳になるオーストリアのドイツ語詩人ライナー・マリア・リルケRainer Maria Rilke 一八七五年~一九二六年)の詩集Die Sonette an Orpheus(「オルフェウスへのソネット」一九二三年)の中の第一編第二番。

 昭和一一(一九三六)年五月号『未成年』第六号に訳載された。

 底本(書誌も含む)は二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」を用いたが、私のポリシーに則り、漢字を恣意的に正字化し、題の後に原作者・原題・訳者名をオリジナルに附した。

 第一連の「面紗」はルビなしである以上、「めんしや(めんしゃ)」と読んでおくが、ベール(veil)のことである。]

 

 

 《オルフエへのソネツト・

 Die Sonette an Orpheus  Rainer Maria Rilke立原道造譯

 

そしてやうやくそれは少女であつた

これらの幾つかの 歌と琴とのしあはせからあらはれ

そして 明るくきらめいた 春の面紗を透し

そうして ベッドをつくつた 私の耳に。

 

そして眠つた 私の内に。そしてすべては眠りであつた。

樹木よ、それを私は或る時感嘆した、これらの

感じられる遠い景色、感じられた牧場、

そしてあれらの驚き、それが私にやつて來た。

それは世界を眠つた、うたの神よ、どうして

それをつくられたか、少女が覺めてゐるのを望まなかつた

世界を? みそなはせ、少女は蘇生しながら眠つてゐる。

どこにあるのだらうか、死は? おお、この主題(モチーフ)を

なほ創られるだらうか、あなたの歌の終らぬうちに?

どこに沈むのだらうか、それは私から? ……その、ほんの少女……

眞面目な時 Ernste Stunde (Rainer Maria Rilke) 立原道造譯

[やぶちゃん注:立原道造訳になるオーストリアのドイツ語詩人ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke 一八七五年~一九二六年)の詩集Das Buch der Bilder(「形象詩集」一九〇二年/一九〇六年)の中のErnste Stunde

 昭和一〇(一九三五)年十一月号『未成年』第三号に訳載された。

 底本(書誌も含む)は二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」を用いたが、私のポリシーに則り、漢字を恣意的に正字化し、題の後に原作者・原題・訳者名をオリジナルに附した。]

 

 

 眞面目な時

 Ernste Stunde Rainer Maria Rilke)立原道造譯

 

今どこかで世界のなかで泣く人は

理由もなく世界のなかで泣いてゐる人は

あれは私のことを泣いてゐる

 

今どこかで世界のなかで笑ふ人は

理由もなく世界のなかで笑つてゐる人は

あれは私のことを笑つてゐる

 

今どこかで世界のなかで步む人は

理由もなく世界のなかで步いてゐる人は

あれは私の方へ步みよつてゐる

 

今どこかで世界のなかで死ぬ人は

理由もなく世界のなかで死んで行く人は

あれは私の方を見いつてゐる

其の後の虛子、龍之介、二氏の俳句   飯田蛇笏

 

[やぶちゃん注:末尾のクレジットから発表は昭和二(一九二七)年一月二十一日(初出記載なし)。底本は飯田蛇笏「俳句道を行く」(昭和八(一九三三)年素人社書屋(そじんしゃしょおく)刊)を国立国会図書館デジタルコレクションの同書当該パートの画像で視認して電子化した。傍点「ヽ」は太字とし、踊り字「〱」「〲」は正字化した。句の表示の字配やポイント違いは再現していない。また、諸文章等の長い引用部では、全体が一字下げとなっているが、ここは無視したので、引用終了箇所には注意されたい。以下、少し語注を施しておく。私は高浜虚子が嫌いなので、本テクストも専ら芥川龍之介についての後半部にのみ興味があり、虚子について述べた前半部を省略することも考えたぐらいに虚子嫌いであるが、それでは飯田蛇笏氏に失礼に当たるし、内容面でも読解にやや難が出る箇所があるのでやめた。当初は注もあまり附さない気でいたが、結局、バランス上、同じように注を附さざるを得ない仕儀となった。

〈高浜虚子パート〉

 第一段落「どべこべに」不詳。どれもこれも(ただ)の、意か。

 同「炳たる」「へいたる」で、光り輝いている、疑う余地がないほどに明らかな、の意。

 同「儼乎」「げんこ」で、おごそかなさま・いかめしいさま。

 第二段落「瞭かな」「あきらかな」。

 同「新俳句」明治三一(一八九八)年民友社刊の正岡子規を首魁とする子規派初の大規模な選集。

 同「卷を蓋ふ」「くわんをおほふ(かんをおおう)」一書を覆い尽くす(ほどに)。

 虚子の句の「菌山」は「きのこやま」。

 同「梭」は織物を織る際に経糸(たていと)の間に緯糸(よこいと)を通すのに使われるシャトル状の道具で、本来はこれは「ひ」ある。しかし音数律がおかしいので、ここは虚子は「をさ(おさ)」と訓じていると思われる。但し、「おさ」は「筬」が正しく、同じ織機具の一つながら、竹の薄片を櫛の歯のように並べて枠をつけたものを指し、織物の幅と経糸を整え、梭(ひ)で打ち込まれた緯糸を押さえ、織り目の密度を決める道具である。但し、これらは混同して呼ばれたり、字が通用されたした経緯はある。

 同「彈初」「ひきぞめ」。新年になって初めて琴・三味線などを弾くこと。

 四段落「意嚮」は「いかう(いこう)」で「意向」に同じい。

 同「偖て」「さて」。

 同「這の」指示語。「この」。実はこれは元を糺すと全くの誤用であって、宋代に「これ」「この」という意味の語を「遮個」「適個」と書いたが、その「遮」や「適」の草書体を誤って「這」と混同したことに基づく。

 第五段落「庶幾」「しよき(しょき)」或いは「そき」と読み、心から願うこと。

 第六段落「本間久雄」(明治一九(一八八六)年~昭和五六(一九八一)年)は山形出身の英文学者・国文学者。本篇公開当時は早稲田大学講師で『早稲田文学』主幹。後に早稲田大学名誉教授。「民衆芸術の意義及び価値」(『早稲田文学』大五(一九一六)年八月)〈民衆芸術論〉の口火を切ったことで知られるが、この「藝術に於ける眞について」は初出不明。

 第八段落(本間の引用の次)「枉ぐ」「まぐ」曲げる。

 虚子パート最終段落部の「輓近」は「ばんきん」で、近頃・最近・近来の意。「輓」自体、時代が遅い、の意があり、それは結局、時間が現在に近い、の言いとなる。

 同段落の芭蕉の句「明日は粽難波の枯葉夢なれや」は「(あすはちまきなにはのかれはゆめなれや」と読み、西行の「津ノ國の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり」(「山家集」)をインスパイアしたもの。――明日は五月五日で端午の節句……人は皆、粽を作って食べる……その粽は葦の葉で包む……上人の歌ったように……その葦の葉は一場の夢の如く一瞬にして枯葉となるのであろう――延宝五(一六七七)年、芭蕉三十四歳の時の作であるが、この年に芭蕉は俳諧宗匠として立机(りっき:生業(なりわい)としての本格的な俳諧師となること)したと考えられている。

 

〈芥川龍之介パート〉

 第一段落『近著「梅、馬、鶯」』「梅・馬・鶯」(そのまま「うめ うま うぐひす」と読む。本体背と表紙にはひらがなで「うめうまうくひす」と記す。装幀は佐藤春夫で龍之介のたっての依頼による。それは既に自裁を決していた彼の、友への別れの記念のつもりだったと言われている)は随筆集。新潮社から大正一五(一九二六)年十二月二十五日、大正天皇崩御、昭和改元の当日に刊行されたものである。

 同「蕪雜」「ぶざつ」は雑然としていて整っていないこと。「蕪」はもと「荒蕪」と使うように、雑草が茂って荒れている荒れ地を指し、そこから粗雑で入り乱れているの意を派生した。

 引用句「お降りや」の「お降りや」は「おさがり」と読む。元日三ヶ日の雨又は雪を言う。新年の季語。

 「一游亭」龍之介無二の盟友で洋画家の小穴隆一(おあなりゅういち 明治二四(一八九四)年~昭和四一(一九六六)年)。芥川が自死の意志を最初に告げた人物、遺書で子らに「父と思え」と言い残した人物でもある。一游亭の号を持ち、俳句もひねった。芥川の二男多加志の名は彼の「隆」の訓を貰ったものである。

 第七段落「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」の引用の直前の「冒頭におかれてある。」の句点はママ。

 同句引用の直後の「曩に」は「さきに」と訓ずる。また、同じ箇所の「またに」のママ。

 第八段落「だれ」とあるが、所謂、動詞の「だれる」の名詞化した謂いであろう。気持ちに張りや締りがなくなること・気が緩みだらけること・退屈な雰囲気になる・新鮮味が失われることの意ととっておく。

 同「些々たり」「ささたり」とは、僅(わず)かばかりである、の意。

 第九段落「芥川氏は、久保田萬太郎氏を書くに當つて」大正十三(一九二四)年六月一日発行の雑誌『新潮』に掲載された「微哀笑」、後に「久保田万太郎氏」と改題される芥川龍之介の短評(蛇笏は「萬」とするが、岩波旧全集でも当該テキスト中では一貫して「万」である)。久保田万太郎(明治二二(一八八九)年~昭和三八(一九六三)年)は小説家・劇作家にして俳人。芥川龍之介とも仲が良かった(万太郎の方が三つ年上)。「傘雨」は「さんう」で彼の俳号。東京市浅草区田原町(現在の東京都台東区)に生まれ、慶応義塾大学文学部卒(大正三(一九一四)年)。明治四四(一九一一)年に小説「朝顔」・戯曲「遊戯」が『三田文学』に発表され、また『太陽』に応募した戯曲「Prologue」が当選、作家としてデビュー、翌年に「浅草」を刊行後、小説・戯曲・俳句の各面で幅広く活躍した。大正期の代表作として「末枯」「寂しければ」などがあり、昭和初年代の作品としては「大寺学校」「春泥」、昭和十年代の作品として「釣堀にて」「花冷え」、戦後の作品として「市井人」「三の酉」などがある(「三の酉」は昭和三二(一九五七)年に読売文学賞受賞)。昭和七(一九三二)年に築地座が結成されてからは舞台演出も手掛けるようになり、昭和一二(一九三七)年には岸田国士・岩田豊雄らと文学座を結成、没するまで幹事を務めている。俳句の面でも、昭和二(一九二七)年五月「道芝」を刊行しているが(ここまでは日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」を参照した)、最晩年の芥川龍之介が記したこの句集「序」が万太郎文学世界の的確な評となっていて実に素晴らしい。

 同引用文中の「曩日」は「なうじつ(のうじつ)」で先日の意。

 「風落ちて曇り立ちけり星月夜」ここで述べた内容とほぼ同じ内容と引用を私は全く偶然にもやぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句のこの句のオリジナル注に附している。参照されたい。

 最終クレジットは底本では改行せずに最終行の下一字空けインデントで配されてある。] 

 

      其の後の虛子、龍之介、二氏の俳句 

 

 虛于翁は、近詠百二十一句――大正十五年八月から同十二月までの句稿のうちから自選されたものを、「ホトトギス」二月號に發表してある。いずれも、纔かな文字で綴られてある短い形式の俳句ことである。進むというてもとゞまるというても、極めて微かなところにあるのは當然である。日頃、俳句といふものに、指を染めて居ない側の人に見させたなら、恐らく、芭蕉の句でも、蕪村の句でも、子規の句でも、虛子の句でも、どべこべに唯俳句として見過ごすことであらう。否、山鳥の尾のながながしく文子をつゞりつける癖づけられて居る創作家其の他の、作中の個人性や、創作態度などをやかましく云ふ人々の間にあつても、之をどべこべに觀ることなしに鋭く、深く、さうして明瞭に觀、味うてゆくことは、決して易々たることであるとのみ言ひ難からう。俳句にたづさはる者が、之を觀照し翫味する上に、自意識の強きに過ぐることは嗤ふべきことだとしても、他の作品に對して、其の、縫針の光端を見るやうな、炳たる一閃の中に、儼乎として存する、悠揚たる而して又實に惨憺たる藝術的苦心をば、十分に敬虔な心持をもつて、透徹鐡を貫くの氣で、熟讀翫味することの同じ藝術奉仕者として義務があらうかと考へる。この義務を荷ふことに、俳句にたづさはり甲斐もあらうといふものである。

 虛子翁の句が、總じて、近年主唱されるごとく、平靜な、吾人からこれを見れば大いに澁味のある寫生的作風に移つて來たことは、瞭かな事實である。寫生といふことは、今日や昨日に始まつたことではなく、遠くその源を、子規生前に發するのであるが、當時の「新俳句」にも勿論卷を蓋ふ寫生句を見、それから引きつゞいて今日に至るまで、ひつきりなしに、寫生といふことは俳句として、繼續され來つて居るのである。が、同じ寫生というても「新俳句」時代の寫生句といふものと、今日の寫生としての俳句とは、其の内容實質に於て遠い隔りがあるのである。虛子翁の作句そのものが即ちそれで、其の沿源から過程を敍述することは他に機を得るとして、今日見るありの儘に於て、俳壇一般と云はんより、尠くとも虛子翁その人の句それ自體に、寂び澄んで來て居ることを、あきらかに發見せしめられるのである。

 近業百二十一句中には、やはり通りいつぺんの寫生としての作句もあることではある。例へば

   馬遠く繋ぎてあるや淸次茶屋    虛子

   絲つむぐ車の下やちゝろ鳴く    同

   頂上に大きな旗や菌山       同

   稻刈て婆が茶店もあらはなり    同

   町並の梭の響や鵙の晴       同

のやうなもので、此等は、いづれ一と通り立派な俳句で、勿論別に難すべき箇所とてもなく、それだけ又、俳句とは忿うしたものであるといふむきに、これから俳句を學んでみようといふ側の人に、示したりするには良い手引であるのだが、同時に又、それは、前々から、虛子翁自身の作にも澤山にあつた句境で、別に進轉のあとをとゞめたものとして見ることは出來ないといふことにもなる。

 寧ろ、虛子翁これまでの主張に添ふところは、

   彈初の姊のかげなる妹かな     虛子

   徐々と掃く落葉箒に從へる     同

   行く我に戾る君あり寒げいこ    同

   ところどころ多田の道の缺けてなし 同

のごとき作で、一見したところでは、奈邊にその面白味が、といふよりは其の價値が存するかをせんさくするに苦しむ體をもつものである。が、直ちに判らないなら判らないとしても、寫生といふことに、眞に忠實であれといふ意嚮から推して考へ、深く此等の句を一々吟味してみると、その極めて平凡な事柄と思はれる裡に、一脈通ずる何物かがある。例へば最初の「彈初」の句にしても、姊の後ろに妹が坐つて居る。姊妹の禮節からいつても普通のことだし、後ろであるから妹が姊のかげであることもあたり前のことである、と然う云つてしまへば何でもないが、偖てそこに虛子翁の主張があるところで、彈初をして居る姊が、得意になつて三味か何か樂器を彈いて居る。妹は小さい態(なり)で――この小さい態といふことが、平凡といへば平凡だが作者は中々平凡とは思はぬのである。妹のちつぽけな顏が、到底姊にはかなはぬといつた表情で、若しくは、なに糞ッ負けるものかといつた表情で、ちんまりとひかへたところがみものではないかと云ふ所である。それをあらはに強調せず、有るが儘に、實態を寫して、讀者の豐かな想像にまかそようとするのである。以下解説は煩はしいので略すが、這の句、這の主張は、これから俳句といふものをやつてみようといふやうな人、若しくは少しばかりやり出した極めて初歩の人々にとつてとしては暫く措き、すでに、ながらく俳句にたづさはつて居て、惡達者に、駄作を連發する人々、或はなまじ低級の主觀を弄して、漸く月並に陷らんとするやうな側の人々にとつては、最大にして無比の救ひでなければならぬ。この點に於て、子規が、過去に、客觀を尊び、寫生句を主張した事に考へ合せてみて、虛子翁のこの主張なり作句なりは、より明瞭(はつきり)して居り、より確乎(しつかり)したものと認むることが出來る。

 けれども、此の近業に於て虛子翁は、更に一歩を瞭かに踏み出して居ると私は觀るのである。即ち大成に庶幾した作品の少くとも數句を私は認めぬわけにはゆかぬ。

 同じ自然界の事象を客觀的に寫生するとした所で、個々の實在を、鹽梅し、とり入れて來るのは、自己自體の心の動かし方である。心の動かしがなかつたならば、俳句、藝術、總て何の創作もがあり得ないと同時に、其の動かしの如何に價値標準は決まるべきである、最近、本間久雄氏は「藝術に於ける眞について」と題して此處を明瞭に言つて居るので、試にとり入れてみよう。

 「藝術は、少くとも理論としては、明かに假想の世界の創造である。決して自然そのまゝ、現實そのまゝの徹底的な寫實などといふことはあり得ない。自分では、どんなに徹底した寫實だと思つて居ても、これはその作家の心内の幻象の描寫にほかならない。作家は、j自然や現實の世界から材料を得て來て、これを自己の主觀の坩堝に溶かし込み、新しい別た世界――藝術の世界として讀者の前に提供する。だから、同じ材料でも、これを主觀の坩堝に溶かし込む、その溶かし込み方によつて、全く味ひの異つた作品の生れて來るのは當然なことだ。忌憚なき眞實の描寫といふことは文字通りの意味では斷じてあり得ない。もし、あつたらそれは藝術ではなく、生活の單なる寫眞に過ぎない。」

といふのである。無論、藝術として取扱はるべき俳句が、論を他に枉ぐべき筈はないのである。當然、又、俳句の進步發達の度合は、作者その人の心の動かし方によらなければならぬ。一草一木の微を、俳句として取り入れることも、作者の心は、仔細の注意力をもつて動くので、單なる土くれ、單なる草びらが、その儘實在として、紙上へ持ち來たされるやうに考へてはならぬことの反面に、その土くれ草びらを取扱ふ作者の心の動かし方を、仔細に、透徹した觀方で、觀、味はなければならぬのである。

   土近く朝顏咲くや今朝の秋     虛子

   三日月のたちまち見えぬ甍かな   同

   大石に倚れば靜かや秋日和     同

   棚ふくべあらはれいでぬ初あらし  同

   月いでゝ色に出る紅葉かな     同

      たけし息洋の袴着

   袴着や我もうからの一長者     同

の如きは、輓近、虛子翁の大成をものがたるものとして、讚歎に値するものと云ふを憚らぬ。解説の煩は敢て見合せ、左の樣に云ひたい。松尾芭蕉の宗房時代初步の作、

   月ぞしるこなたへいらせ旅の宿   芭蕉

から、桃靑時代の作、

   あすは粽難波の枯葉夢なれや    芭蕉

ヘ轉じ、更に、

   古池や蛙とび込む水の音      芭蕉

の芭蕉時代となつて、

   六月や峰に雪おく嵐山       芭蕉

   秋もはやはらつく雨に月の形    同

といつた、爛熟期の、靜かにして幽寂そのもののやうな、澄みわたつた寫生境へと進み入つたそれに對比して、私(ひそか)に我が虛子翁の爲に祝福の情を禁じ得ないもののあることを見出すのである。 

 

 芥川龍之介氏から、近著「梅、馬、鶯」を贈られたので、それの俳句についてだけ、蕪蕪雜な思ひつきだけを述べておきたい。

 ひつくるめて、この發表を、近業といふは、いさゝか當らぬかもしれぬ。大正六年より同十五年に至ると、句集終りにも附してあるが、既に、一度發表されたもので、それに對し嘗て私見をのべたものも多く散見する。けれども近業というても、全然觸れて居ないでもない。

 嘗ても云うた如く、今の俳人以外の人々で、創作家其の他に、俳句に指を染めて居る人たちは相當澤山の數に上ることであるが、その中で、氏の句境の如きは、まさに群を拔くものであることは、獨り私のみの見解ではなからうことのやうに思ふ。

 で、芥川氏の近作であるが、氏の其の後の句が、おしなべて、虛子翁の句などと同樣に、尠くとも其の姿態に於て、なだらかな調子を帶び、より平明にして穩健な風をもつて來て居ることは見のがすことの出來ない事實である。それとも一つ、傾向的に一種の寂びをふくんで見えるのである。この「寂び」は、芥川氏の創作に於ける一つの力で、事々しい發見でもあるまいと苦笑するむきもあるかもしれぬが、これまでに發表された俳句として見る時、此處に言及するの必要をずるのである。

   臘梅や枝まばらなる時雨ぞら      我鬼

   お降りや竹深ぶかと町のそら      同

      一游亭來る

   草の家の柱半ばに春日かな       同

   初秋の蝗つかめば柔かき        同

   桐の葉は枝の向き向き枯れにけり    同

   糸萩の風軟かに若葉かな        同

   さみだれや靑柴積める軒の下      同

   かげろふや棟も落ちたる茅の屋根    同

の如き、一々解説づけるまでもない。

 恁うした全部七十四句。その中、一進境を示したものとして、私をして擧げしめるならば、私は躊躇なく左の五句を擧げる。

   春雨や檜は霜に焦げながら       我鬼

   臘梅や雲うち透かす枝のたけ      同

   雨ふるやうすうす燒くる山の形     同

      震災夜增上寺のほとりを過ぐ

   松風をうつゝに聞くや夏帽子      同

      趙後より來れる婢當歳の兒をたんたんと云ふ

   たんたんの咳を出したる夜寒かな    我鬼

用意周到の氏は、自作に何囘となく眼を通して改作すべきは、十分の改作を加へて、發表されたであらうことが、句集全般を透して、よく窺へる。

 その中の一つ、冒頭におかれてある。

   蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな     我鬼

に就て云ふと、此の句は、曩に「ホトトギス」へ發表された時とは違つて、またに改作されてある。前にはたしか、

   鍼條(ゼンマイ)に似て蝶の舌暑さかな 我鬼

であつたと記憶する。この句を改作した氣持、及びこの句の改作が持つ姿態は、近業全般へ流れて居るもので、價値の比較は別としても、よく一句が、近業としての證左を示すに足るものでもあるのである。

 が、他は他でよいとしても、此の句だけに於ては私は改作をとらない。この句は、我鬼といふ作者が芥川龍之介氏であることを知らなかつた時に私が推賞し、虛子翁も之を「ホトトギス」誌上で推賞したものである。その事あるが爲に、徒らに言葉ぞ盲進させるものでは斷じてないが、虛子翁の意見としては知らず、私一個としては、斯う調子をなだらかに落して、却つて失敗したと思ふ。即ち「似る」がいけないと思ふ。所謂「だれ」に陷ちたのである。この句のいゝところは、調子を出來るだけ緊張させ、矢繼早に、すさまじく讀者に迫るところにあるので、思ひ設けたい(作者は如何に思ひ設けたというても)奇なあの鐡條(ゼンマイ)を、蝶の舌なりと觀る(この場合、蝶の舌が鐡條に似たのでなく、鐡條は實に蝶の舌に似て居たのである)作者の感激は、些々たりとも碎(こは)してはならない機微なところで、その鋭い針の先きのやうな所に、明敏群を拔く芥川氏の感受性の働きがあり、當代一流の技巧家たる氏の叡智によつて表現さるゝところとなつた點に、俳句としての近代的傾向を見、芥川其の人の所謂大正の「調べ」として、敬愛措きがたいものとしたいのである。また不思議に、鐡條としてゼンマイと假名つけたりしたところに、一抹の妙味をふくまないでもない、ことほど左樣に前句を主張したい私である。

 改竄せぬとしたところで、此の句が何等芥川氏の大成を傷つけるものではないと私は信ずる。

 併し、も一つ附加へる。曩に、芥川氏は、久保田萬太郎氏を書くに當つて、恁ういうて居た。「小説家久保田萬太郎君の俳人傘雨宗匠たるは、天下の周知する所なり。僕、曩日久保田君に

  うすうすと曇りそめけり星月夜      我鬼

の句を示す。傘雨宗匠善と稱す。數日の後、僕前句を改めて、

  冷え冷えと曇り立ちけり星月夜      我鬼

と爲す。傘雨宗匠頭を振つて曰く、いけません。然れども僕畢に後句を拾てず。久保田君亦畢に後句を取らず。僕等の差を見るに近からん乎。」

と。更に又、今度發表の句集について見ると、

  風落ちて曇り立ちけり星月夜       我鬼

の一句を見出す。果して、前身は「冷え冷えと」ではなかつた歟を想ふ。

 前句「蝶の舌」の改竄を否定する私は、この芥川氏の「風落ちて」を、逡巡することなしに肯き得るものである。   (昭和二、一、二一)

2016/07/01

芥川龍之介氏の俳句   飯田蛇笏

[やぶちゃん注:末尾のクレジットから発表は大正一二(一九二三)年八月四日(初出記載なし)。底本は飯田蛇笏「俳句道を行く」(昭和八(一九三三)年素人社書屋(そじんしゃしょおく)刊)を国立国会図書館デジタルコレクションの同書当該パートの画像で視認して電子化した。傍点「ヽ」は太字とし、踊り字「〱」は正字化した。句の表示の字配は再現していない。また、諸文章等の長い引用部では、全体が一字下げとなっているが、ここは無視したので、引用終了箇所には注意されたい。以下、少し語注を施しておく。

 冒頭に出る「永田靑嵐」は兵庫出身の政治家永田秀次郎(明治九(一八七六)年~昭和一八(一九四三)年)の俳号。第十八代三重県知事、第八代(在任中の関東大震災では復興に尽力した)及び第十四代東京市長、貴族院議員。第九代拓務大臣・第十八代鉄道大臣を歴任した。

 形式第二段落の「それは俳壇外の人で而も知名な人物であつてから」の「あつてから」は「あつたから」の誤植がやや疑われるが、しばらくママとする。

 第三段落の「若尾瀾水」(らんすい 明治一〇(一八七七)年~昭和三六(一九六一)年)は子規庵句会に加わったりした俳人であったが、子規没直後に俳誌『木兎(づく)』で「子規子の死」を発表したが、そこで激しい子規批判と俳句復興運動の「写生」論などの独自性を否定をするなどし、それが受け入れらずに俳壇から一時期、追放された形となった。大正期に俳誌『海月』を主宰している。

 同「最う」は「もう」と読む。

 同「中村樂天」(慶応元(一八六五)~昭和一四(一九三九)年)は本名を中村修一といった兵庫県出身のジャーナリストで俳人。明治一八(一八八五)年に上京、徳富蘇峰主宰の『国民新聞』記者から『国民之友』の編集に従事、後に『和歌山新報』『二六新報』に勤めた。正岡子規・高浜虚子に俳句を学び、晩年、俳誌『草の実』を創刊・主宰した。

 同「篠原溫亭」(明治五(一八七二)年~大正一五(一九二六)年)は俳人で小説家。熊本県出身。本名は英喜。京都本願寺文学寮(現在の龍谷大学)に学んだ後に上京、『國民新聞』」に勤めて活躍する傍ら、『ホトトギス』同人となって子規・虚子らに俳句を学んだ。大正一一(一九二二)年には俳誌『土上(どじょう)』を嶋田青峰らと共刊した。小説に「不知火」「二年越」「昔の宿」など。

 同「年齡からいうても靑嵐氏とは多分の相違があらう」芥川龍之介の生年は明治二五(一八九二)年三月一日であるから、凡そ十六歳年下になる。因みに筆者飯田蛇笏は明治一八(一八八五)年四月二十六日生まれであるから、龍之介より七つ年上である。

 『俳句が「ホトトギス」雜詠などに見え始めたのが凡そ四五年前からのことである』現在、『ホトトギス』「雜詠」欄に載った最初期の芥川龍之介の句は、大正七(一九一八)年五月刊の『ホトトギス』の、

   熱を病んで櫻明りにふるへ居る

   冷眼に梨花見て轎(かご)を急がせし

と考えられているが、この署名は「椒圖」であったため、蛇笏は認識していないと思われる(岩波旧全集でさえこれを落していた。一九九六年の新全集で初めて所収された。但し、同一の句が「我鬼窟句抄」の「大正七年」のパートには出る)。蛇笏が最初に眼をとめだしたのは恐らく、

   裸根も春雨竹の靑さかな

   蜃氣樓見むとや手長人こぞる

   暖かや葩しべに蠟塗る造り花

(以上三句・大正七年六月刊『ホトトギス』。以下、同じ)

   干し傘を疊む一々夕蛙

   水面たゞ桃に流れ木を湖へ押す

(以二句・大正七年七月号)

   鐵條(ぜんまい)に似て蝶の舌暑さかな

   日傘人見る砂文字の異花奇鳥

   靑簾裏畑の花を幽かすかにす

(以上三句・大正七年八月)

の辺りであるが、後で「鐵條(ぜんまい)に似て蝶の舌暑さかな」のところで記されるが、蛇笏はこの署名「我鬼」が、かの芥川龍之介の俳号とは知らずに無名の者の力作の逸品と褒めたことが出、その後の叙述からも、それから後もかなり長い間、「我鬼」が龍之介だとは知らず、作家芥川龍之介の句として認識して注目し出すのは実は翌大正八年の後半ぐらいまでずれ込むようである。但し、この叙述は蛇笏の作者龍之介認知ではなく、実際に芥川龍之介が『ホトトギス』へ投稿し出した時期を客観的に述べているのであって、本執筆の大正一二(一九二三)年八月より「凡そ四五年前」ならば、大正七(一九一八)年五月刊の『ホトトギス』の初出とはよく一致する。なお、芥川龍之介俳句の初出の経緯詳細は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」を参照されたい(以上の引用もそこから)。

 第五段落「恁麼」は多く禅宗の仏語(その場合、多くは音の「いんも」で)として使用される疑問詞や指示語であるが、ここは後者の用法で「かくなる」と訓じていると読む。後に複数出る「恁う」も「かう(こう)」で同じく指示語である。

 同前「撤排」撤廃に同じい。

 同前「下し得る哉」の「哉」は「や」という軽い疑問(推量)で読むべきである。「かな」では幾ら俳誌主宰者とは言え、「かな」などと詠嘆されたのでは、私が読者なら、だったら同人なんど撤廃するがよかろう、と言いたくなるからである。

 同前「企及」(ききふ(ききゅう)」はここでは「肩を並べること・匹敵すること」の意。

 第六段落「原月舟」(明治二二(一八八九)年~大正九(一九二〇)年)東京生まれ。慶応義塾大学理財科卒。明治末年から『国民新聞』に投句、松根東洋城の選を受く。大正初期の虚子の俳壇復帰とともに『ホトトギス』に投句し始めて頭角を現わし、大正三(一九一四)年には同誌の募集俳句選者の一人となった。大正七年十月からは同誌に「写生は俳句の大道であります」を連載して〈『ホトトギス』流写生論〉を鼓吹したが、一方ではその瑣末な写生が批判された(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

 同「久米正雄氏との對話」(小谷野敦「久米正雄・詳細年譜」によって、これは大正八(一九一九)年二月にインタビューが行われていることが判った。蛇笏の言うように、これが『ホトトギス』の十一月号に載るとは、これどういうことか?! 季語を絶対とする守旧派でありながら年初の対談を年末に載せるたぁ! 如何にも人を馬鹿にした話じゃねぇかい!)の引用部は底本の字下げを無視して電子化した(直接話法箇所が二行に亙る箇所では発言者の柱の下までしか二行目以降は上がってこない字配となっている)。また、引用の最初の「久米」の柱の後にある「(一讀して微笑と共に)」は底本では割注で、ポイント落ち二行表記である。

 同段落同引用中の「普羅」は前田普羅(明治一七(一八八四)年~昭和二九(一九五四)年)。大正元(一九一二)年に俳句界の新人として高浜虚子に激賞されて『ホトトギス』の一翼を荷った。

 同段落のその後に蛇笏が引く「靑蛙汝もペンキ塗りたてか   我鬼」は、

   靑蛙おのれもペンキぬりたてか

が正しい(「おのれ」「塗りたて」)。大正八年三月『ホトトギス』に載る。なお、この時点でも蛇笏は作者を芥川龍之介とは認識していなかった。

 第八段落の虚子の評に出る龍之介の句と並べられた「炎天や大地濁して煙影」は語彙の選び方といい、私もなかなか佳句と思うが、この句も作者の「泊露」なる人物も、まさに無名人の中に埋もれてしまったらしい。情報があれば是非とも御教授を乞う。

 第九段落の「我鬼氏の座談」は正確には「我鬼氏の座談のうちから」である。大正九(一九二〇)年一月の『ホトトギス』に無署名で掲載されている。幸い、私が電子化した『「芥川龍之介氏座談我鬼氏の座談のうちから」芥川龍之介氏座談』があるので、是非、参照されたい。蛇笏が述べているように、ここに出るのは、そこで龍之介の述べた俳句論の柱の部分だけだからである。

 同段落に出る「天の川の下に天智天皇と臣虛子と」という如何にもおぞましい句は無論、高浜虚子の句である。大正六(一九一七)年に太宰府を参拝し、その夜、都府楼址に佇んで懐古した句とする。言っておくが、私はの虚子嫌いであるので、悪しからず。

 同段落の芥川龍之介の引用句の「ひと籠の暑さ照りけり巴旦杏」の句は大正一〇(一九二一)年五月の中国特派の途中、漢口での嘱目吟である。「巴旦杏」は本来、中国語ではバラ目バラ科サクラ属ヘントウ(扁桃)Prunus dulcis、「アーモンド」のことを指す。しかし、どうもこの句柄から見て、漢口という異邦の地とはいえ、果肉を食さないずんぐりとした毛の生えたアーモンドの実が籠に盛られているというのは、相応しい景ではない。実は中国から所謂、「李(すもも)」が入って来て以降(奈良時代と推測される)、本邦ではこれには「李」以外にも「牡丹杏」(ぼたんきょう)や「巴旦杏」(はたんきょう)という字と呼称が当てられてきた経緯があり、ここで芥川はバラ目バラ科サクラ属スモモ(トガリスモモ)Prunus salicinaの意でこれを用いていると考えるのが妥当であり、蛇笏自身の後の観賞文でもそう理解して評していることが判る。因みに「すもも」としての「巴旦杏」の季語は春である。なお、私の「雜信一束 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」の「二 支那的漢口」をも必ず参照されたい。

 同じ引用句の最後の「笋の皮の流るゝ薄暑かな」の「笋」は、龍之介自身が「たかんな」或いはカタカナで「タカンナ」と振っている。引用する以上、読みの振れる漢字にルビを振るのは最低の礼儀である。それでなくても佶屈聱牙なる語彙を平気で自句で使う蛇笏にしてこの為体(ていたらく)! レッド・カード!

 「白桃の」句評中の「大川秀薰」は日本画の女流作家であるが、事蹟不祥。識者の御教授を乞う。この絵を見てみたい。

 「癆痎の」の句は大正七(一九一八)年十二月の作であるが、蛇笏の「内容は鼠小僧の次郎吉を書いたもの」、即ち、芥川龍之介の「鼠小僧次郎吉」初出は大正九(一九二〇)年一月の『中央公論』であるから、時系列では句の成立の方が二年も早い。また、同文中の「胡坐」は「あぐら」と読む。

 「あらあらし霞の中の山の襞」句評中の「強ひ」は、「しひ」(しい)。強引の謂いであろう。なおここで蛇笏は「作者相當に得意なものであらうことが見透かされる」と述べているが、事実、本句は芥川我鬼自身、会心の作として自負していた一句である。大正一〇(一九二一)年九月二十三日附久米正雄宛書簡に載るものが最も古いクレジットの明確なものでありそこではまさにこの通りの表記「あらあらし霞の中の山の襞」で記されている。句の前に「人あり因に問ふ 如何か是藝術 我鬼先生答へて曰」とあることからもその自信が窺われよう。因みに小島政二郎はこの句を芥川の俳句開眼と見ている。やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句 (明治四十三年~大正十一年迄)の岩波旧全集書簡番号九四三に昭和五十二(一九七七)年読売新聞社刊の小島政二郎「長編小説 芥川龍之介」から本作誕生のリアルな映像が語られている。未見の方は、是非、お読みあれかし。

 「笋の」句評中の「底力」は実は底本では「庭力」。誤植と断じて異例に訂した。

 第「二」部の「水の面」の句評中の「意嚮」は「いかう(いこう)」で「意向」に同じい。

 最後から三番目の段落「即ち蜃氣樓といふものを……」の段落の内、「遂に芥川氏の詩的才能が、大空の蜃氣樓に對して憧憬……」とある箇所の「大空の蜃氣樓」は底本では「大空の蜃 樓」と脱字している。補った。

 引用句「白南風の」の「白南風」は「しらばえ」と読み、南風(はえ:南方から来る風の意であるが、漁師や水夫はこれを天候の変化の前兆として警戒する)の中でも梅雨が明ける六月末頃から吹き始める南風を指す。

 最後のクレジットは、底本では本文から改行され、下一字空けインデントで載る。]

 

 

      芥川龍之介氏の俳句

 

        一

 玄人ならざる玄人として見ることが出來る句作に秀でた技能をもつた人が現代に二人ある。その一人は永田靑嵐氏で他の一人は芥川龍之介氏である。

 折にふれて發表されるこの二人の作句には何時も敬愛の念をもつて接した。而うしてかすかなこゝろもちではあるが、何故か知ら作句が發表されてくることを心待ちにまつやうな自分であつた。それは俳壇外の人で而も知名な人物であつてから、俳句に指を染めて居るといふことに多分の興味をそゝられて居ることでもあつたが、それよりは專門に研究して居る俳人連中の作句ををさをさしのぎ氣味であるところの佳作が強く心をひくものであつた。

 永田靑嵐氏は俳歷からいふと芥川氏よりは非常に古く、すでに靑嵐氏は土佐の若尾瀾水氏等と一緒に高等學校に居た時分から俳句をやつて居たといふ話であるから、之を俳檀へひつぱつて來るとしても、最う中村樂天氏や篠原溫亭氏等と同樣に俳壇の古老として遇せられるのであるが、芥川氏は其の點はまだ古くはない、年齡からいうても靑嵐氏とは多分の相違があらうと思ふが、俳句が「ホトトギス」雜詠などに見え始めたのが凡そ四五年前からのことである。それ以前に於てひそかに研究されて居つたものであるかどうかそれは知らないが、少くとも吾人の眼に映じた俳人我鬼氏はその頃からである。

 靑嵐氏に就ては嘗て少しばかり書いたこともあるし、瀾水氏の「海月」でも一寸靑嵐氏に言及したことがあるので、玆には同氏に就ては何も云はぬこととして、芥川氏の作句に就て少しばかり思ふことを言うて見たいとおもふのである。

 大正八年の七月發行の「雲母」へ私は山廬漫筆と題して恁麼ことを書いた。

 (前略)各〻居城を異にしてその砦をまもり旗幟を飜しては居るやうなものの、仔細に之を見ると、その居城を異にするところがより多く人間と人間とを埓したるかすかな分界を意味したるもののみで、潜在した作品の内容に於ける價値如何を論究する場合に當つては寧ろこの居城を撤排してやうやく鳥瞰的論斷を下し得る哉の感がある。(中略)むしろその新しとなし古きと斷ぜんとするものの眞に俳句の大道を潤歩して磐石の重きをなし千古にその價値を傳へんとするものは、彼の居城を撤排したる大平野に於て之を見得るかの傾向が看取される。

 (中略)現俳壇に於て、私の主張する靈的表現であり主觀的寫生として愛誦措く能はざる作品は其の數相當の多きに上るであらうと思ふが、わけても「ホトトギス」雜詠に發表された、

  鐡條(ゼンマイ)に似て蝶の舌暑さかな   我鬼

の如きは其の代表的なものとして擧ぐるに躊躇せぬものである。

 俳壇知名の士が駄作はしばらく措き、無名の俳人によつて力作さるゝ逸品が選者の鋭い吟味と深い考慮とによつて世上に公表さるゝ事は嚴肅な尊い文藝界の慶事として他の何物にも企及し難い誇りを示すものである。選者はすべからく之の自受なくして可ならんやである。(下略)

 文中「無名の俳人によつて力作さるゝ逸品」などとして、芥川氏を無名呼ばはりしたりしたのは、我鬼といふ一俳人が芥川龍之介氏であつたといふことを知らなかつた頃のことで、私としても可笑しさに堪へない。

 其の後、その年の「ホトトギス」十一月號へ、原月舟君が「久米正雄氏との對話」と題して、その俳句に關する對話を掲げた。

 月舟「芥川さん(我鬼)の靑蛙の句が大分評判ですが貴方はどうお思ひでせうか、普羅さんの書かれたものがこれです。」

 久米氏(一讀して微笑と共に)「へえ、そんなに新時代を劃すと云ふ程の句とは思へませんね、私には。」

 月舟「蛇笏さんはキララでこの句を評されて、かゝる無名の一作者がかゝる佳作を發表し得るのは選者と云ふ者を必要とする俳句の一特色である、とか云ふ意味の事を書かれました。」

といふのがそれだ。常時月舟君がどう感違ひして居たのか、私の推奬したの句と普羅君が何かへ書いたといふ靑蛙の句とは同じではなかつた。靑蛙の句といふのは、たしか、

   靑蛙汝もペンキ塗りたてか   我鬼

といふ句であつたと思ふ。

 月舟君のこの書きものは少しく心に逆ふものがないでもなかつたが、發表したりして月舟君をきまり惡い思ひをさせるほどのこともないと思つたからして、當時私信で月舟君へ宛てて私の推獎した句とは違つて居る旨を告げて、多少の意見を加へて置いたまでのことだつた。

 つい先頃『ホトトギス』四月號に於て虛子翁も、

 「寫生句の中に、

   炎天や大地濁して煙影     泊露

   鐡條に似て蝶の舌暑さかな   我鬼

等の句がある。

 「鐡條」の句は、蝶々の舌を見ると、細く長く而も曲つてある、あの優しい蝶々の舌であるから、その舌もなよなよと優しいかと思ふと、どうしてく針金で拵へた堅い鐡條のやうに見える舌である。それを發見した時の感じが暑いやうな心持がしたといふのである。蝶々の舌を描き出すことが已に奇な上に、それか鐡條の如しと見たる作者の心持も決して平凡でない。併しながらこの句を讀んで感ずることは、如何にも正しい寫生句だと云ふことだ。寫生でなければ想像もつかないことである。併しながら寫生するに當つてその蝶の舌を鐡條に似たと感ずることは作者の特異な境地である。前の「大地濁して」の句の濁すと感ずることもやはり作者の主觀であるが、この鐡條に似たと感ずることは一層作者の主觀であるといはねばならぬ。云々」

として此の芥川氏の句を推獎して居られる。道理のことと思ふ。

 芥川氏の作にはこの「鐡條」の句のみでなく、恁うした主觀的寫生に立脚した句が甚だ多くこの句境に於て主として成功を收めて居るのである。嘗て「我鬼氏の座談」として「ホトトギス」誌上へ掲げられた同氏の意見のうちにも「僕は俳句を作るには三つの態度があると思ふ」として

 一、一つはありのまゝにうつす純客観の態度で写生といふのは大體これに當る。

 一、次は自然や周圍が自分に與へる印象なり感じなりを捉へて現はすもの。

 一、最後は純主觀で「天の川の下に天智天皇と臣虛子と」のやうな句がそれである。

と説き、「三つのうちでどれがいゝかと云ふことは一概に云へないけれど、私は中の態度を採る」と斷定して居る。即ちこの態度からして生ずるのが「鐡條に似て蝶の舌暑さかな」なのであつた。猶これに屬すべき氏の作句を擧げてみよう。

   裸根も春雨竹の靑さかな    我鬼

   白桃の莟うるめる立ち枝かな  同

   癆痎の頰うつくしや冬帽子   同

   夏葱にかそけき土の乾きかな  同

   靑簾裏畑の花を幽かにす    同

   古草にうす日たゆたふ土筆かな 同

   あらあらし霞の中の山の襞   同

   ひと籠の暑さ照りけり巴旦杏  同

   笋の皮の流るゝ薄暑かな    同

等の如きは皆それである。

 「裸根も」は春雨のふりそゝぐ春竹が根をあらはにして靑々として居る。やはらかな感じで居て、而もどこやら餘寒の幽かにたゞようて居るおもむきが出て居るところが命である。

 「白桃の」は、直ぐだちした白机の枝に點々と着きならんだ莟がうるんで見えるといふおもむきで、一見極めて平凡と見えるうちに云ひしらぬ味ひをもつ句である。「うるめる」は言ふまでもなく「潤める」で、莟の白色であるべきと思ふのが澄明でなくやゝ曇りを帶て光澤を遠ざけて居るといふであらう。今春上野の日本畫會とか云つた展覽會で大川秀薰といふ人の鳩か何かを配した白桃の畫を見たが、その畫がやゝ之に近い感じを表はして居る畫であつたことを思ひ出す(たゞ畫中に配された鳩は困つたもので、何故にあんな蛇足をそへたかと思うた。生一本に白桃を畫きぬいて呉れたらよかつた)。其の畫が、莟のほころぴかゝつたうるみ色がついついと伸びきつた靑い枝に點じて居るところから貴く高い匂ひをはなつて魅するやうな氣分を與へた。この句と藝術の上の一致點をもつたものであらうといふやうなことが思ひ出される。

 「癆痎の」の句は之も感じを主とした句で、わづらうて瘦せおとろへた靑年の頰が冬帽を被つた風情美しく橫合ひから眺められるといふ、ことにやつれの見える頰のあたりを主觀的に描き出したところにうまみが見えるのである。

 私は芥川氏の創作をば多くは讀んでは居ないが、嘗て中央公論か何かで一寸讀んだことのある短篇――標題は何といつてあつたか忘れたが内容は鼠小僧の次郎吉を書いたものであつた。それが、東海道のある旅籠屋で一人の鼠小僧が賊をはたらいて旅籠屋の者に捕つてしまひ、繩か何かでからげられてから、土間にひき据ゑられて啖呵をきつて居る。俺は何をかくさう今江戸で名高い鼠小僧の次郎吉だといふやうなことを言ふ。と、それを本物の次郎吉が二階で眼をさまして胡坐か何かでのぞきこんで居るといふやうなもので、こだはりなくあつさりとやつてのけて居るうちに、あの太ッ腹の義賊次郎吉が克明に描き出されて居たことを思ひ出す。この作などを透して見ることが出來るよき藝術上才氣といふものが、矢張り俳句の方へ斯うした「癆痎の」の内容のうまみを持ち來たすものであらうと思ふ。

 「夏葱に」は、夏葱の培はれてある土の幽かに上(うは)乾きした感じを命とするもので、

 「靑簾」は、句意にむづかしいところはない、やはり平凡の形といへばいふことも出來る句である。而うして誰でも一寸やれば出來るといつたやうな句境であるが、併しいざやつてみるとなると出來るものではない。やはりこの幽かにすのうまみは凡手では出來難い。一讀颯爽たる涼味を感じ來るところに強味があるのである。

 「古草に」も、土筆を取かこんで古草にたゆたうて居るうすうすした日影にひきつけられる。

 「あらあらし」は、作者相當に得意なものであらうことが見透かされる。多少の強ひ加滅がないでもないが、感じは十分に出て居る句で、やはり佳作たるを失はぬ。

 「ひと籠の」も、巴旦杏が籠の中に夏日の暑氣をうけて照り光つて居るといふ句で可たり強い感じを與へる句であるが、さうかと云うて腐れ爛れるといふやうな程度の極度な感じをうちつけて來るものではない。既に句として扱ふ根本の取材に於て、それが巴旦杏であり、又實に一と籠の巴旦杏であるだけそれだけ、どこやらすつきりしたところのあることを見逃がすわけにはゆかぬ。やはり芥川氏らしいところを十分に認める。

 「笋の」は、前置きに「加茂川」としてある句で、恐らく加茂川邊に遊んだときの實感から得られたものであらう。加茂川の水の流るゝ上を筍の皮がちつてはながされてゆく初夏の光景から薄暑のたゞようて居る感じをあらはしたもので、可なり細い線をもつて描いてゆく裡に底力をもつた感じがはつきりとよく出て居る句である。

 

        二

 

 前掲述べ來つたところは芥川氏の自ら主張もし其の努力が鮮明に表現されて居るもので、珠玉と倣すべきものであることは云ふまでもないことであるが、其外に又前にあげたものの第一項に屬すべき句、即ち物象をありのまゝにうつす純客觀の寫生の態度から産れたもので、佳作として推奬すべきものも尠くない。

   殘雪や小笹にまじる龍の髯    我鬼

   水の面たゞ桃に流れ木を湖へ押す 同

   星赤し人なき路の麻の丈ケ    同

   炎天に上りて消えぬ箕の埃り   同

   秋の日や竹の實垂るゝ垣の外   同

   野茨にからまる萩の盛りかな   同

      湯河原の宿

   三月や茜さしたる萱の山     同

   蒲の穗はほゝけそめつゝ蓮の花  同

   線香を干したところへ桐一葉   同

   日傘人見る砂文字の異花奇鳥   同

   燭臺や小さん鍋燒を仕る     我鬼

などの如きは其の實例として見るべきものである。

 「殘雪や」は、龍の髯が小笹の中にまじつて生えて居る山地などに、春先きの殘雪が鹿の子まだらに見えるといふ寫生である。

 「水の面」は、句法が少しくごたごたしては居るが、一と通り讀み終つてしまふと滑かに心ひゞいて來る句境で、「水の面たゞ」というた「たゞ」にかすかな作者の主觀的意嚮がうごいて居ないこともないが、それは枝葉のことで大體に於て、湖上へ向つて流れ木の流動する客觀描寫がひつくるめて扱はれて居る。

 「星赤し」も、亦同じやうな客觀で「人なき路の」の「人なき」はやゝ觀察しうるものがないでもないが、これも「たゞ」の程度で先づ純寫生と見て差支ない。唯「星赤し」の「赤し」が、光り澄むとか若しくは白く輝くべきであるのを餘程強く主觀を加味したものではないかといふことも疑へば疑へるが、併し實際からいうて夏の夜の星は水蒸氣か何かの關係でひどく赤光を帶びて見えることがある。其の實景に可なりふかく興味を見出して寧ろ忠實に寫生したものと見るベきであらう。この異常な實景が呼ぶ感じは此の句としての價値に可なり重石づけるわけである。

 「炎天に」は、極めて平明な客觀的句境で何等惑ふ餘地もない。

 「秋の日や」は、これも秋の日に竹の實が熟して垣外へ垂れ下つて居るといふ寫生で、誰にもよくわかる佳作である。

 「野茨に」は、野萩が眞盛りに吹きさかつて野茨に纒ひついて居るといふ光景をありの儘に寫生した句で、自然のすがたながら情味あるかの趣きにすつきりした美感を誘はれるのである。

 「三月や」は、湯河原の宿といふ前置きのある句で、作者が湯河原の温泉宿に遊んで居て恁うした實景に接して作つたものであらう。平明なよい寫生句である。

 「蒲の穗」の句咳これも無論寫生。句であるが、これまで列擧した作とは少し違つた句法に出て居るので、少しでも俳句を學んだ人にとつては何でもないが、初學の人にはやゝ解しにくく自然その趣きをも會得出來兼ねがちかもしれぬ。

 併し成る可く簡單に解をくだして「蒲の穗はほゝけつゝあり、あたりに圓盤のやうな靑い廣葉をひろげた蓮が今や其の淸楚な花を開いて居る」といふやうに觀てとればそれでいゝのである。

 「蒲の穗は」の「は」は「の」といふほどの意味である。一見して机上の作のやうにも思へるが併し此の句境は實景に接して深く心頭に刻んだ感激から發せなければ得られぬものである。

 「線香を」は、秋をむかへた桐一葉が線香を干しならべたところへ落ちたといふので、線香を拵へて居る家の庭などと思つて思へないこともないが、それよりは寺院もしくは在家でもいゝ、少し濕氣のきた線香を庭へ干した。すると其處へゆらゆらと桐の落葉がした、といふおもむきが作者の心をうごかしたところであらうと思ふ。少しもたくらむやうなところのない實景を展じて趣にうつたへた、いやみのない佳作である。

 「日傘人」は、先年「ホトトギス」の俳談會にも話題にのぼつて兎や角言はれた句で、句意は夏日路傍かどこかで砂文字をやつて色々な花や鳥など畫いて居るのを、日傘を翳した人が珍しくのぞき込んで居るといふので、その砂畫きの異花奇鳥に心をひきつけられて、恐らく小髮あたりへは汗をにじませて居るだらうほどの、暑苦しい感じなり氣分なりを出さうとした作者の意圖がうかゞはれるものである。

 この句などは果して芥川氏が今恁うした實景に接して作つたものであるかどうかは疑はしいが併したとひ實景に接したものでないとしたところで、恁うした物を客觀的に取扱ふ點からいふと同じ系統に屬して屬せられないことはないものであつて、やはり俳句一方の領域を占むるものとして存置すべき必要は十分に認むるものである。

 「燭臺や」は、又恐らく實見から來たもので、これをありのまゝにいつて倣し得た句であらうと思はれる。即ち例の落語の小さんが燭臺にともる燈に照されながら、落語三昧に入つて居る。私は落語の事はよくは知らないが、「鍋燒」といふのは、小さんの最も得意とする落語の一つである。その小さんの妙技を聽き入つてから「小さん鍋燒をつかまつる」と敍したところに、作者得意の心持も窺はれるし、又其處が寫し得て讀者を共鳴せしむるに十分であるのである。

 斯う列擧して吟味して見ても、其の句々の中に――かゝる殆ど主觀が影をひそめた客觀的寫生の作句にさへ、何れも漲りわたつて居るのは其の才氣である。此の才氣がある爲に、なまじ下手な主觀によるよりもたくみに客觀にゆかうといふ、それが構へたるものでなしに心情自らなる流露として作句の上にあらはれるものではなからうかと思はれる。

 芥川氏の主觀の句といふのをさがして見ても殆ど出逢ふことがない。或は發表しないものの中などには有るにはあるであらうが、私の僅かに見出し得たところの佳句では、

   元日や手を洗ひ居る夕心    我鬼

くらゐのもので、外にはやゝ主觀めいた、

   白南風の夕浪高うなりにけり   我鬼

   薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな  同

といつたやうたものがあつても、矢張これは前掲第二項の主觀的寫生即ち自己對自然の印象なり感じなりを表はし來つたといふ方面に傾くものであることを否むことは出來ない。

 唯、この外芥川氏の句として留意すべきものは、

   蜃氣樓見むとや手長人こぞる   我鬼

といふやうな句のあることである。前にあげた「日傘人見る砂文字の異花奇鳥」と同系のものであるといへば言へぬこともないが、其の句よりは更に進んで行つて「手長人」といふやうな空想の人間を持ち出して來て居るところに一層色彩の濃厚な或るものがある。

 即ち蜃氣樓といふものを實見したかどうかは別として、大空の中に現出するといふ珍しい蜃氣樓の光景を如何にかして之をさながらに描出しようとするとき、遂に芥川氏の詩的才能が、大空の蜃氣樓に對して憧憬もしくは讃美の情をあらはす人物を配してみたのである。即ち大空へ向つて諸ろ手をのばしきり長くさしのばして上體をば傾き加減に、人々がこぞつて居るといふ繪畫などが人々に與へる同じやうな印象をもたらすものである。

 恁うなつて來ると、此の極端さは、俳句に盛るべき内容として俄かに吾人の贊同をゆるさぬ所がないでもないが、併し此の大膽なる描寫といひ、奇拔なる着想といひ、さうして之が幼稚でなく滑稽でなく案外上滑りしてゆかぬところに吾人の相當考慮を促されるものがあるのである。

 猶、普羅君の推奬したといふ、

   靑蛙汝もペンキ塗りたてか    我鬼

の作については、私としても、殆ど他の企て及ばない芥川氏の敏感さを認め得べきものとして此の點に多大の敬意をはらふものであることを言ひ添へておきたい。要するに創作界の才人芥川龍之介氏は、やはり俳句界へ足跡を印する才人芥川我鬼として認めらるべきものであらう。   (大正一二、八、四)

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