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2016/07/31

伊崎浜   梅崎春生

 

 東京のこどもが泳ぎができないのは、泳ぐ機会がないからである。もっともちかごろは各学校にプールができたから、水に親しむチャンスも多くなったようだけれど、うちのこどもなんか一夏かかって五メートル泳げたとか、八メートル泳げるようになったとかよろこんでいるくらいで、お話にならないのである。

 それにプールの水と海水とでは手ごたえが違う。わたしは四五年前富士五湖の西湖に行って一週間泳ぎ暮したが、どうも淡水というやつはたよりなくて、泳いでも泳いだような気がしない。波がないし、それになめても塩からくない。

 わたしは小学校に入る前から泳いでいた。泳ぎの場所はもっぱら伊崎の浜である。

 黒門から松土手をつき当ったところから細い道となり、伊崎浜にいたる。寂しい道で、両側にはぽちぽちと家があるだけだ。その一軒の家の二階に、後年東京から修猷館(しゅうゆうかん)に赴任したばかりの若い安住正夫先生が下宿していたことがある。(安住先生についてはいずれ書くことがあるだろう)

 その小道の尽きるところに牧場があった。牧場というと大げさだが、木柵(もくさく)の中に牛が七八頭いて、もうもうとなき交していた。牛のうんこのにおいがひどいので鼻を押えてかけ抜ければ、そこが伊崎浜である。

 福岡で海水浴場というとまず百道(ももじ)で伊崎なんかにはあまり人はこない。でも遠浅で砂がきれいで百道に劣らぬいい泳ぎ場だった。

 百道と違って設備は何もない。着物をあずけるところもないから砂浜や草はらに脱ぎ捨て、そのまま海に飛び込む。ふんどしなどもしないのである。ふんどしなんかするのはだいたい小学四年生以上で、それ以下は男も女も生れたままの姿である。それ以下でふんどしをつけていたら、あいつは変なやつだなということで、仲間はずれにされてしまうのだ。

 だからわたしはいまでも東京のプールで小学一年ぐらいの子がちゃんとした海水パンツをつけているのを見ると何かくすぐったく、しゃらくさいという感じがするのである。

 伊崎は漁師の町である。砂浜には漁船がずらずらと並んでいて、おじいさんが背を日に照らされながら、漁網のつくろいをしていたりする。わたしの家にもよく魚の行商人がきて、

「ほら、見なっせ。これは伊崎もんのぴんぴんですばい」

 伊崎もんというと新鮮だというのと同義語であった。

 泳いでいて運がいいとすぐ近くで地引き網がはじまる。それっとばかり、われわれこどもはかけて行って、網を引っぱる手伝いをする。だんだん網が重くなって獲物が近づく。網の中にはうじゃうじゃと、こんなに魚がいるものかとびっくりするぐらいの魚が、押し合いへし合いぴんぴんはねながら上ってくる。手伝ったごほうびに雑魚(ざこ)をたくさんもらうのが実に楽しみであった。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第三十三回目の昭和三六(一九六一)年二月五日附『西日本新聞』掲載分。

「伊崎浜」梅崎春生の叙述から現在の福岡県福岡市中央区伊崎附近と思われるが、現在の行政上地名の伊崎は埋立てによって内陸化しており、現在の伊崎漁港(福岡市中央区福浜)の東(福岡都市高速環状線の海側)に広がる浜の手前の陸側に相当するかと思われる。

「黒門」現在も福岡市中央区黒門(くろもん)として残る。SARMA氏のブログ「気楽院」の「黒門」に『唐津街道の門』であったとある。次注も参照のこと。

「松土手」同前のリンク先に前の「黒門跡」の解説版を活字化したものが載るので引用させて戴く。『黒門川は、福岡城築城の際、大堀(現在の大濠公園周辺)と博多湾を結ぶ「外堀」として築かれたものです。現在は埋められ、地上は道路(黒門川通り)となり、地下に川が流れています。以前は、この川に「黒門橋」が架かり、荒戸側に福岡城下の出入りを管理する黒門(呉門(くれもん)とも呼ばれた。)がありました。荒戸側の土手は、松を植えた「松土手」となっていました』とあるのが、この地名となった(或いは春生の少年時代にはまだ実際の松並木の土手であったものかも知れない。

「修猷館」梅崎春生の出身校(旧制中学校)である、現在の福岡県福岡市早良区西新にある(春生在校時もここ)福岡県随一の進学校である県立修猷館高等学校。

「安住正夫」不詳。但し、この名でグーグルで検索をかけると、検索結果の野上芳彦「戦前と戦後の谷間での青春の日々 我等が修猷館時代(旧制中学から新制高校へ)」(二〇〇一年文芸社刊)の検索画面上の解説(?)の文章に(但し、リンク先をクリックしてもその文章は存在しない)、『安住正夫等有名元教諭等も登場する』とあり、また『戦後、修猷館をはじめとする』『学校もの』『の出版物が相次いだ。その一』つ『に西日本新聞社の『修默山脈』(昭和四十六年)など』があったといった感じの文章の一部を垣間見ることが出来る(偶然ながら、本随筆の連載されていた『西日本新聞』の名が出るのも目を引いた)。以上から彼が修猷館中学校の名物教諭の一人だったことが知れる。さらに気になることが今一つあり、後年、梅崎春生自身が編集員となり、彼が詩篇を発表する場ともなった熊本第五高等学校の校誌『龍南會雜誌』の第百七十六号(大正一〇(一九二一)年二月二十一日発行)に「龍南会沿革史(水泳部)」 という記事があり(リンク先は「熊本大学学術リポジトリ」内の原本からのPDF版)、筆者が『安住正夫』(因みに梅崎春生の作品の同誌初出である詩篇「死床」「カラタチ」は(昭和八(一九三三)年七月二日発行の第二百二十五号である。リンク先はそれぞれをその初出誌に基づいて私が電子化したもの)となっている点である。この人物と同一人物であるかどかは不明であるが、その可能性は無きにしも非ずと思い、敢えて追記しておいた。「安住先生についてはいずれ書くことがあるだろう」と春生は注記しているけれども、少なくとも底本の「南風北風」の後の抄録分や、その他の底本に載るエッセイ類には安住正夫に関わる記事はない模様である。識者の御教授を乞うものである。

「百道(ももじ)」百道浜。かつては「百道松原」と称される松の人工林と海水浴場で知られたが、現在は埋め立てと宅地化が進んで海水浴場の面影は全くない。福岡市博物館公式サイト内の「百道浜ものがたり」がよい。]

2016/07/30

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   墨染櫻

   墨染櫻


Sumizomezakura

衣更着(きさらぎ)の末のほど、花の盛りにうきたちて、世人(せじん)、淸水(きよみづ)、淸閑(せいがん)の興にあそび、嵯峨、大原のゝ名所に步む事、道もさりあへず、祇はたゞ陰氣の天性にて、人の立籠むかたは喧(かまびす)し、靜かなる花こそ見るかひあれ、と、呉竹のふしみの里の春を心ざし、桑門(よすてびと)の友とすべき墨染櫻、見に行けり。一の橋より左にまがりて、俊芿の舊寺泉涌寺(せんゆうじ)に詣でゝ、いまぐまの、法性寺(ほふしやうじ)など行くに、こゝなん、猶、人、こぞりて靜なるかたなし。東福寺を作禮(されい)し、稻荷に法施(ほつせ)し奉りて深草にかゝる。藤の森は名のみして、紫はさかず、常盤(ときは)の松の靑く茂りたる中に、瑞籬(みづがき)の朱(あけ)なる、いとかうかうし、此の森より未申へ、二町餘り行きて、彼の名木の櫻、尋ね出でけり、爰さへ、京の名殘にや、幕は雲となびき、糸竹(しちく)は鳥とさへづり、靜かならねど、此の櫻の情しりたる昔おもふに、なべての花に準(なぞ)らふべくもなしと、打詠めて古歌を吟ず。

 

   深草の野べのさくらし心あらば

       此春ばかりすみぞめにさけ

 

みねをの歌とかや、又、遍昭僧正のよみけん。

 

   みな人は花のたもとに成りにけり

       苔の衣よかはきだにせよ

 

是は、此の櫻をよみたるにはあらねど、所と事と、ひとしければ、思ひ出で侍る。樽(そん)の前に醉(ゑひ)をすゝむべきわざもなければ、かたへの草に安座(あんざ)し、打ちあふぎ居るに、となりの方、田舍人(いなかうど)と見えて、十人計り、化口(あだぐち)かしがましく、酒に興じ、醉狂(ゑひくる)ひて笑ふやら哭(な)くやら、いざ、わけもきこえず、餘りのあぶれに、此の者、宗祇を見て、御坊は、業(なり)に似はぬ優(やさ)し人哉。花に詠(なが)め入り、餘念なく見ゆ。我れ我れ、奈良の者にて、京内參の心がけに上り侍る。足休めに酒をたうべ侍り。名物の奈良酒ひとつ、まいりてんや、と傍若無人にいふ。祇は、もとより禁戒を持(たも)ちて、酒を手にふるゝ事なければ、酒飯の所望(しよまう)なしと詞(ことば)ずくなに答へらる。此あぶれ者、大きなる觴(さかづき)に流るゝごとく酒をうかべて、所望にても望みなくても是非にたうべよ、と刀ぬき出し、責(せ)かくるに、力(ちから)なく、我が犯す禁戒(きんかい)に非ずと心に誓ひ、引請けて呑みけるに、又、たぶだぶとつぎて、今一つ是非に、と、いひて、つめかけ、否(いな)といはゞ、と小肱(こかいな)取りて押(お)しふする、祇、今はせんかたなくて、

 

   なら酒やこの手をとりてふたつ迄

       とにもかくにもねぢる人かな

 

と狂歌しければ、さしもの放逸(はういつ)ものども、恥ぢかましくや有けむ。醉心ちや、さめけん。たすけ起して足はやに去りぬ。いづち行けん不ㇾ知(しらず)。をかしきいさかひなりし。つれづれ草にかける、證空(しようくう)上人の馬夫(ばふ)といさかひしたぐひかな。

 

 

■やぶちゃん注

・「墨染櫻」一般には桜の一種で花は小さく単弁で白いものの、茎・葉ともに青く、花が全体に薄墨色のように見えるものを指すが、ここは京都伏見の地名(現在の伏見区墨染町には墨染寺(ぼくせんじ)があり、以下の藤原基経はこの付近に葬られたとされる)の辺りにあったとされる伝説上の桜。後に本文に出るように、藤原基経(承和三(八三六)年~寛平三(八九一)年:中納言藤原長良の三男として生まれたが、時の権力者で男子がいなかった叔父の摂政藤原良房の養子となり、良房の死後は清和・陽成・光孝・宇多天皇の四代に亙って朝廷の実権を握った。陽成天皇を暴虐と断じて廃位して光孝天皇を立て、宇多天皇の際には天皇が事実上の傀儡であることを知らしめる阿衡(あこう)事件を起こして、その権勢を誇り、日本史上初の関白に就任している。享年五十六で病死した。墨染寺の前身は養父良房の建立した貞観寺(じょうかんじ)とも言う)の死を悼んだ上野岑雄(かんつけ(かみつけ)のみねお:承和(八三四~八四八)年間の廷臣か。事蹟不詳。後に出る「みねを」は彼のこと)が、

 

 深草の野邊の櫻し心あらば今年ばかりは墨染に咲け

 

と詠じたところ、桜が墨染め色に変じて咲いたとされる。一首は「古今和歌集」「卷第十六」の「哀傷歌」に所載(八三二番歌)。この伝承は謡曲や歌舞伎でも知られる。

・「衣更着(きさらぎ)」如月。

・「淸閑(せいがん)」京都市東山区にある真言宗歌中山(うたのなかやま)清閑寺(現行は「せいかんじ」と読む)は、清水寺と同様に桜の名所である。

・「道もさりあへず」「さりあへず」は「どうしても逃げられない」の意であるから、あまりの花見客に道も込み合い、無心に通行したり、行くにも容易に避け交わすことが出来ず、の謂いであろう。

・「立籠む」「たてこむ」。

・「呉竹のふしみの里」「呉竹の伏見」「呉竹の里」は伏見の別称。呉竹は古えに三国時代の呉から渡来した竹とされ、最初に伏見の地に植えられたと伝え、また、「呉竹(くれたけ)の」はその「節(ふし)」から「伏見」の枕詞ともなっていることに由来する。

・「一の橋」伏見街道には東山から流れる今熊野(いまぐまの)川に「一の橋」から「四の橋」まで架けられていた。現在の東山区本町通にあった(現在は暗渠で復元された橋は同位置にはない)。

・「俊芿」(しゆんじよう(しゅんじょう) 永万二(一一六六)年~嘉禄三(一二二七)年)平安末から鎌倉期の僧で真言宗泉涌寺泉涌寺派の宗祖とされる。肥後の出身であるが、出自は不詳。同人のウィキによれば、寿永三(一一八三)年十八歳の『時に出家剃髪し、翌』年、『大宰府観世音寺で具足戒を受けた。戒律の重要性を痛感』、正治元(一一九九)年に『中国(宋)に渡った。径山の蒙庵元総に禅を、四明山の如庵了宏に律を、北峰宗印に天台教学を学んで』、十二年後の建暦元(一二一一)年に『日本に帰国して北京律(ほっきょうりつ)をおこした。俊芿に帰依した宇都宮信房に仙遊寺を寄進され、寺号を泉涌寺と改めて再興するための勧進を行った。後鳥羽上皇をはじめ天皇・公家・武家など多くの信者を得て、そこから喜捨を集め、堂舎を整備して御願寺となり、以後、泉涌寺は律・密・禅・浄土の四宗兼学の道場として栄えることとなった』とある。

・「泉涌寺(せんゆうじ)」現行では「せんにゅうじ」と呼ぶのが普通。京都市東山区泉涌寺山内町(やまのうちちょう)にある。

・「いまぐまの」今熊野観音寺。先の泉涌寺山内にある真言宗泉涌寺派の観音寺。大同年間(八〇六年~八一〇年)にここで空海が庵を結んだのを始まると伝え、永暦元(一一六〇)年に後白河法皇によって新熊野神社(現在の東山区今熊野椥ノ森町(なぎのもりちょう)にある)が建てられると、その本地仏を祀る寺とされた。

・「法性寺(ほふしやうじ)」現在の京都市東山区本町にある浄土宗大悲山法性寺。現行では「ほっしょうじ」と読む。

・「東福寺」現在の東山区本町にある臨済宗慧日山(えにちさん)東福寺。

・「作禮(されい)」仏に礼拝すること。

・「稻荷」現在の京都市伏見区深草藪之内町の伏見稲荷大社のこと。

・「深草」現在の京都市伏見区深草。

・「藤の森」現在の伏見区深草鳥居崎町(とりいざきちょう)にある藤森(ふじのもり)神社。菖蒲の節句の発祥地として名高く、現在は三千五百株にも及ぶ紫陽花でも知られる。

・「かうかうし」「神々し」。

・「未申」「ひつじさる」は南西。

・「二町」二百十八メートル。現在の藤森神社から墨染寺は直線でも五百六十五メートルある。但し、伝説の墨染桜は宗祇仮託の時代なら、必ずしもこの寺の位置になくてもよいので重箱の隅をほじくる必要はあるまい。

・「みな人は花のたもとに成りにけり苔の衣よかはきだにせよ」「古今和歌集」「卷十六」の「哀傷歌」に載る僧正遍昭(弘仁七(八一六)年~寛平二(八九〇)年)の一首(八四七番歌)で、以下のように前書を持つ。

 

    深草のみかどの御時に、蔵人頭(くら

    うどのとう)にて、夜晝なれつかうま

    つりけるを、諒闇(らうあん)になり

    にければ、さらに世にもまじらずして、

    比叡(ひえ)の山にのぼりて、頭(か

    しら)おろしてけり、その又の年、み

    な人、御ぶくぬぎて、あるはかうぶり

    たまはりなど、よろこびけるを聞きて

    よめる

 

 みな人は花の衣になりぬなり苔の袂よ乾きだにせよ

 

前書及び和歌を注する。「深草のみかど」仁明天皇。「諒闇」厳密には天皇の父母が亡くなった際に世の中が一年に亙って喪に服することを指すが、僧正遍昭は寵遇を受けた仁明天皇の崩御(嘉祥三(八五〇)年)により出家しているので、ここはこの歌が詠まれた時制、次代の文徳帝の御世からかく言ったものであろう。「御ぶくぬぎ」諒闇が明けて喪服を脱ぎ。「かうぶりたまはり」官位が昇進すること。「苔の袂よ乾きだにせよ」先帝を失った悲しみの涙で濡れそぼって苔が生えてしまった私の衣よ、せめて乾いておくれ。

・「化口(あだぐち)」「徒口」。下らない無駄口。

・「いざ、わけもきこえず」ここは感動詞の「いざ」ではなく、打消しを伴う呼応の副詞の「いさ」であるべきところであろう。酒に酔い狂って「いさ」(一向に)「わけもきこえ」(正気を失って、何を)「笑ふやら哭くやら」分らぬ為体(ていたらく)であることを言っているように私には読める。

・「餘りのあぶれに」あまりの無頼無法の在り様の果てに(あろうことか)。

・「業(なり)」宗祇の僧形から辛気臭いはずの普通の行脚僧と見たのである。

・「京内參」「西村本小説全集 上巻」では「内」にのみ「り」とルビする。一般には「京内参り」じは「きよううちまゐり(きょううちまいり)」と読み、京へ見物などに行くこと、都見物の意であるが、「西村本小説全集」は「きようりまゐり」と読ませているようである。

・「奈良酒」奈良は清酒発祥の地とされ、奈良産の酒は「諸白(もろはく)酒」と呼ばれる高級酒とされ、江戸時代には「奈良酒」「くだり酒」と呼ばれて江戸で珍重された。宗祇の生きた室町時代にも既に製造されていたことが、参照した「奈良県酒造組合」公式サイトののページの記載で判る。

・「てんや」依頼の意を示す「てむや」の変化。

・「詞(ことば)ずくな」「ず」はママ。「西村本小説全集 上巻」も同じ。

・「力(ちから)なく」仕方なく。

・「つめかけ」強引に押し掲げ。

・「小肱(こかいな)」わざわざ「小」と被せてあるからには肘から手首の部分であろう。図では二の腕(本来はこれはその部分を指したが、現在は誤って肘から肩の部分を慣用指示する語となってしまった)を摑んでいるようには見えるが。

・「ねぢる」実際に腕を「捩じ」って強引に酒を飲ませようとしているのであるが、別に「捩づ」から派生した近似する音の「拗(ねぢ)く」という動詞があり、これは「筋道が違う」「道理に外れる」「不正だ」の謂いがあり、それが掛けられているのであろう。だからこそ、「さしもの放逸(はういつ)ものども」も、その皮肉な謂いが解って「恥ぢかましくや有けむ」という推測が生じたか、或いはその批判に興のみでなく、「醉心ちや、さめけん」、「たすけ起して足はやに去りぬ」と続くと読めるのである。されば「田舍人(いなかうど)」とは申せ、それを諒解し得る能力は持った相応の者どもではあっただけマシと言えよう。だから宗祇も「をかしきいさかひなりし」と余裕を見せているのである。

「つれづれ草にかける、證空(しようくう)上人の馬夫(ばふ)といさかひしたぐひ」「徒然草」第百六段の以下を指す。

   *

 高野の証空上人、京へ上りけるに、細道にて、馬(むま)に乘りたる女の、行きあひたりけるが、口(くち)引きける男、あしく引きて、聖(ひじり)の馬を堀へおし落してけり。聖、いと腹惡(はらあ)しくとがめて、「こは希有(けう)の狼藉(らうぜき)かな。四部(しぶ)の弟子はよな、比丘(びく)よりは比丘尼(びくに)に劣り、比丘尼より優婆塞(うばそく)は劣り、優婆塞より優婆夷(うばい)は劣れり。かくのごとくの優婆夷などの身にて、比丘を堀へ蹴いれさする、未曾有(みぞう)の惡行なり」と言はれければ、口引きの男、「いかにおほせらるるやらん、えこそ聞きしらね」といふに、上人、なほいきまきて、「なにといふぞ、非修非學(ひしゆひがく)の男」とあららかに言ひて、極まりなき放言(ほうげん)しつと思ひける氣色にて、馬ひき返して逃げられにけり。尊かりけるいさかひなるべし。

   *

以上の引用文中の注。「証空上人」は伝未詳。「四部の弟子」以下に出る仏弟子の四種の区別。「比丘」出家して具足戒を受けた男性僧。「比丘尼」同前の儀を受けた尼僧。「優婆塞」俗人の中で五戒を受けて仏門に帰した男性在家信者。「優婆夷」同前の女性信者。「極まりなき放言しつと思ひける氣色」がポイントで、はっと、自身こそが無智蒙昧(「非修非學」)なる貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)に他ならぬ三毒を口にしてしまったことに気づいたからこそ、そそくさと「馬ひき返して逃げ」てしまったのである。「尊かりけるいさかひ」の仏法の理(ことわり)に叶のうた、まことの勝者とは実は「口引きの男」であったという訳である。

 挿絵は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正した。

葉室少年   梅崎春生

 

 犬の死体に追っかけられていらい海の中で釣りをするのがいやになって、もっぱらおか釣りいそ釣りに転向することにした。歩度を伸ばして遠く糸島方面、津屋崎方面までも釣り竿をかついで出かけて行く。

 姪浜でフナをたくさん釣ったこともある。地下に坑道を掘るから、地面が陥没して水がたまって沼となっている。その沼にフナが住みついて、そのフナをわたしは数十尾釣り上げた。そのころの姪浜は荒涼とした地帯で、いまは住宅街になっているということが、わたしにはどうしても想像できないのである。

 昭和十七年七月、博多湾にカレイが異常繁殖して、博多湾の海底はカレイでしきつめられているといううわさが立った。わたしが室見川の川口に行ったら、こどもが二三人波打ちぎわに立って釣っている。近づいて見ると小型のカレイで、小型といっても超小型で一寸か一寸五分ぐらいしかない。ではおれも、と糸を垂れたらたちまち食いつき、二時間ばかりで四五百尾釣り上げた。餌をつけないでも食いつくのだから世話はない。とうとうばかばかしくなって切り上げた。五百尾のカレイは唐揚げにして食っても食っても食い切れず、あとは近所の猫に食わせた。

 七月もなかばを過ぎると暑くなって魚釣りも楽でなくなった。それにとった獲物が暑さのためにすぐ鮮度を失うから、食う楽しみも半減する。そこで釣りはしばらく中止ということにして泳ぎに転向した。

 福岡市生れで泳げないのはめったにいないが、東京にくるとかなづちが多いので驚く。それも道理で東京には泳ぐ場所がないのである。隅田川や東京湾はきたないし、泳ごうと思えば葉山か千葉方面まで行かねばならない。かなづちが多いのも当然だ。

 泳ぎに必要なものは慣れである。運動神経は必要でない。運動神経が必要でない好例を書いてみよう。

 わたしの小学校の運動会のとき、四年生がマスゲームか何かをやるために四列縦隊をつくって粛々と校庭に出てきた。見物の皆が笑い出した。なぜかというと先頭に立ったひときわ背の高い少年の歩き方が変なのである。ふつうは右足を出したら左手を上げ、左足を出したら右手を上げるように互い違いになるのだが、この子のは右手と右足、左手と左足がいっしょに動くのである。

 笑われていることを知ったものだから、その少年はあわててふつうの歩き方に戻ろうと懸命に努力するのだが、どうしてもそうならない。調整しようとして両手をぱっぱっと動かすと、不本意にも両足がそれにつれてぱっぱっと動いて、とうとう調整できないまま満場の爆笑裏に行列は所定の位置に達して停止した。

 それが調整できないなんて何と不器用で運動神経のないやつだと読者諸君は思うだろうが、この少年が成長して後年ベルリンオリンピックで優勝した葉室鉄夫君なのである。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第三十二回目の昭和三六(一九六一)年二月四日附『西日本新聞』掲載分。

「糸島」(いとしま)は地域名。現在の福岡県最西部に位置する糸島市一帯。ウィキの「糸島市」によれば、『糸島半島の中央部および西部と、その南側から南西の福岡県西端部の一帯を市域とする。北側と西端部は玄界灘に面し、東側は福岡市に接する。南部は脊振山地があり佐賀県と接している山岳地域で、南西部は唐津市に、南東部は佐賀市に接する』とある。

「津屋崎」(つやざき)は現在の福岡県福津市内。地区の西部から北部にかけて玄界灘に面している。ウィキの「津屋崎町」(旧福岡県宗像郡時代の町名)によれば、現在でも『自然豊かで海や空気がとてもきれいな土地である。町の海岸にはアカウミガメが生息しており』、『平野部には田畑の広がるのどかな町である。海岸は玄海国定公園に指定されている』とある。

「姪浜」(めいのはま)は現在の福岡市西区室見川の最下流左岸に広がる地域。昭和一七(一九三二)年頃の旧参謀本部陸地測量部及び内務省地理調査所(現在の国土地理院)の地図と現在の地形を比較すると、当時は自然海浜と思われるものの、「地下に坑道を掘るから」と春生が述べている通り、東の愛宕山北麓に姪浜炭鉱があって、炭住らしき建物が沢山、海浜に沿って並んでいるが(「荒涼とした地帯」という謂いは地図上からも何となく判る)、現在の姪浜は海岸部が有意に埋め立てられて内陸化しており、現在の航空写真ではその迫り出し部分(行政地名は愛宕浜)は高層ビルを含む広大な宅地地帯となって完全に変貌してしまっている。

「室見川」(むろみがわ)は主に福岡市を流れて博多湾に注ぐ。ここに出る河口付近には干潟があり、毎年二月から四月初めにかけては、博多湾から上ってくる名物の「白魚」(地元では「しらうお」と呼ぶが、学問的には別種の「シロウオ」である)漁で知られる(ここまではウィキの「室見川」に拠る)。シラウオとシロウオについては、各所で述べて来たが、例えば私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅1 行くはるや鳥啼きうをの目は泪 芭蕉』の注を参照されたい(知られた本句の初案は「鮎の子の白魚送る別(わかれ)かな」である)。

「葉室鉄夫」(はむろてつお 大正六(一九一七)年~平成一七(二〇〇五)年)は福岡県福岡市出身の元競泳選手。ウィキの「葉室鐵夫」によれば、『福岡県中学修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)から日本大学予科に進学』、昭和一一(一九三六)年の『ベルリンオリンピック』二百メートル平泳ぎで、『ドイツのエルヴィン・ジータスErwin Sietas)との接戦の末に金メダルを獲得。この決勝戦はアドルフ・ヒトラーも観戦しており、表彰式での君が代演奏では、ヒトラー自身も起立し、右手を前方に挙げるナチス式敬礼で葉室の栄誉を称えている』。昭和一五(一九四〇)年に『第一線を退くまで』、二百メートル平泳ぎで『世界ランキング1位の座を守った』。『引退後は毎日新聞社に入社。運動部記者として、アメリカンフットボールの甲子園ボウル創設に携わるなど、第一線記者として活躍した』。平成二(一九九〇)年には『国際水泳殿堂(International Swimming Hall of Fame)入りを果たした』。『葉室の死によって、戦前の日本のオリンピック金メダリストは全員物故したこととなった』とある。梅崎春生は二年違いの大正四(一九一五)年二月十五日生まれで、大正一〇(一九二一)年に福岡市立簀子(すのこ)小学校に入学しているから、これは大正一五(一九二六)年の運動会の思い出である。]

2016/07/29

投稿減少

今朝これより日曜深夜まで役員をしている町内会の納涼祭の仕事で忙しくなる。投稿減少、悪しからず。

笑いんしゃい   梅崎春生

 

 斜辺里丈吾さんは「酒」誌上で福岡の食べ物についていろいろ言いがかりをつけたが、その文章のさいごで博多の女の言葉使いに文句をつけている。読んでみると、いちいちごもっともで、かつおもしろいからここに紹介すると、まずかれは「たまげた」というのを博多女は「たまがあった」というのに驚いたそうである。

「タマがアッタ」とはなにごとか、というのである。

 腹が立つことを「はらかく」。虫でもわいているかと思ったそうだが、なるほど、わが故郷の言葉ながら「はらかく」とは妙である。

 好きなことを、

「スイトーットヨー」

 よいことを、

「ヨカトットー」

 はじめ耳にしたときは「トートット」ばかりが気になって、あわてたニワトリがけつまずいたような気がしてならなかったと書いているが、さもありなんと思う。なにしろ福岡は東京から三百里ぐらい離れているんだから、いくぶん鴃舌(げきぜつ)じみるのもむりはない。

 デパートに行くと、

「東京のナニナニさま。お電話でございます」

 と呼び出しがある。ここまでは東京と同じだが、そのあとの、

「ナニナニさま。もよりのお電話におかかりくださいませ」

 がおかしい。電話なんざあ、よっかかったり、おっかかったりするものじゃなかろうと、斜辺里さんは怒っているのである。

 でもこれは「電話をおかけくださいませ」という用語の受け身になるのだから、「おかかりくださいませ」でも論理に合っているように思うが、どうであろうか。

 とにかくよその国へ行けば、よその言葉がおかしいのはあたりまえの話で、わたしははじめて熊本に行ったとき、若い女たちが自分のことを、

「おどん」「おどん」

 というのにびっくりし、また幻滅を感じたことがある。おどんというのは、おれどもがなまったものだろうから、若い女性が使うのは幻滅もはなはだしい。でも熊本に四年いるあいだにそれもやがて耳なれて、その言葉使いに魅力さえ感じてきたから妙なものである。

 福岡では「時計が急いでいる」という。わたしははじめて東京に出てよその家の時計を見て、

「あ。この時計は急いでいる」

 と口走って大いに笑われたことがある。人間じゃあるまいし、時計が急ぐわけがあるものか、というのが東京人たちの笑いの種だったが、しかし、わたしはいまでもこの「時計が急いでいる」という表現は好きである。時計を擬人化して仲間あつかいするところに、福岡人の時計にたいするなみなみならぬ愛情がうかがわれてよきものではないか。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第十回目の昭和三六(一九六一)年一月十三日附『西日本新聞』掲載分。これもまた前回までの斜辺里丈吾氏の『酒』誌上の話を肴として美味く料理してある。梅崎春生は結構、こうした連載の連関的展開話法を自分自身、楽しんでいたのではないかと思わせる。

「鴃舌(げきぜつ)」「鴃」は鳥のモズで、モズが五月蠅く囀るような、訳の分からない言葉の意。「孟子」の「滕文公上」に「今也南蠻鴃舌之人、非先王之道。子倍子之師而學之、亦異於曾子矣。」(今や、南蠻鴃舌の人、先王の道を非とす。子、子が師に倍(そむ)きて之に學ぶは、亦、曾子に異なれり。)に基づく。「孟子」のこの箇所は今ならトンデモ・ヘイト・スピーチの類いとして指弾されるものであり、「鴃舌」なる語も差別用語として指弾される語であることは認識して使用すべきではあろう。]

さつま揚げ   梅崎春生

 

 飢えは最上のソースという諺(ことわざ)がある。空腹のとき、あるいは食い盛りのときは何を食べてもうまいものである。福岡のてんぷらウドンは、わたしにとってそんなものかもしれない。

 さつま揚げを広辞苑で引くと、「すり身にした魚肉に食塩、ニンジンの細切りなどをまぜ適当な形にして油で揚げたもの」とある。簡単な食品であるが原料やつくり方によって味は大いに変ってくる。

 いままで食べた中でいちばんうまかったさつま揚げのことを書こうと思う。

 昭和七年から十一年までの四年間わたしは熊本の第五高等学校の生徒であった。四年いたのは一年落第して二年生を二度相勤めたからである。

 熊本市の上通町に「三四郎」というおでん屋があった。淑石の三四郎から取った屋号で、おばあさん二人がやっていた。若い女なんか一人もいず色気抜きの剛毅ぼくとつな店で、酒は何だったかな、銘柄は忘れたけれど、割りにいい酒を飲ませた。そこのおでんのイガモガ(あるいはイガラモガラ)と称するさつま揚げは絶品であった。飲み盛り食い盛りのころだから、それを差し引いても絶品だったような気がする。

 ここのはニンジンの細切りではなくゴボウの刻んだのが入っていた。すり身もしこしこしていたし、それにゴボウの歯ざわりが加わって何個食っても食い飽きなかった。わたしは先輩に連れられてこの店で酒を仕込まれたのである。そのイガモガを肴にして錫(すず)のコップで十杯ぐらい飲めるていどに腕を上げた。

 あの錫のコップは五勺入るという話だったが、そうすれば五合ということになり、いい気持になって寮歌を歌いながら寮へ戻った。あのくらいの年ごろで五合ぐらい軽く飲んでいたのだから酒豪の部類に入るだろう。

 そこであんまり飲み過ぎたものだから勉強のほうに力が入らなくなり、ついに平均点不足で落第した。落第の悲しさは落第した人でないとわからない。

 落第ときまって、わたしは福岡の家に戻った。おふくろの前に手をついて、

「落第しました」

 と頭を下げたが、おふくろは終始無言、じつとわたしをにらみつけているのでこちらもマがもてなくて、

「おわびのしるしに坊主になります」

 と言ったらおふくろは、わたしを仏壇の前に連れて行きバリカンを振り出して、せっかく伸びていたわたしの長髪を無惨にもじょきじょきと刈り取ってしまった。

 三月のことだからまだ寒い。刈り取られた襟元がひやりとつめたかったことを、その感触を、わたしはきのうのことのように思い出す。

 戦後熊本に行ってみたら「オリンピック」や「フロイント」はあったけれども「三四郎」は姿を消していた。あのばあさんたちももうなくなったのだろうと思う。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第九回目の昭和三六(一九六一)年一月十二日附『西日本新聞』掲載分。新聞連載の勘所としてこれも前回分の福岡風てんぷらウドンを直接、枕として受けている。

「イガラモガラ」ネット上で大分方言として出、「とげとげしている様子」とあった。]

てんぷらウドン   梅崎春生

 

 

 斜辺里文吾氏は江戸ッ子である。だからみずから言うごとく東京ふうによわい。

 博多で「東京風そば」の看板が出ていたので矢も楯もたまらず飛び込んで、

「てんぷらそば――イチ」

 と注文したところ出てきたのを見ると、そばの上にサツマ揚げが浮いている。斜辺里氏は憤然とする。

「なんだ。こいつあ」

「ヘエ。てんぷらですバイ」

「そばでてんぷらといやあなあ、こう、ぴんとひげのおったったエビが二匹、うこんの衣につつまれ、ぴったり、よりそって横になり、けつのほうだけ恥かしそうに赤くなりあがって、ちょっと出しているやつと、義士の討ち入りのその昔から決まっているもんだ」

「ははあ。そりやエビてんですバイ。これはマルてんで、ふつうてんぷらといえばこれですバイ」

 ここのくだりを読みながら、わたしは中学生時代の自分を、先生の目をかくれて入ったウドン屋のてんぷらウドンの味をまざまざと思い出した。なるほど福岡でてんぷらウドンと言うとさつま揚げ入りのことである。

 しかし他郷人にとっては、てんぷらを注文したのにさつま揚げが出てきては怒るのもむりはないだろう。あれはやはり福岡のほうで名前を変えるべきかもしれぬ。

 しかしわたしはさつま揚げ入りウドンは大好きであった。いまでも郷愁を感じる。東京ではウドンやソバにさつま揚げを入れる習慣はない。なぜないかというと、わたしの推定では東京のさつま揚げはまずいからである。東京風の汁の濃いうどんに粗悪なさつま揚げを入れては、とても食えたものでない。

 ソバは一歩ゆずるとして、東京のウドンの味は九州のそれにはるか劣る。カマボコ類もそうである。カマボコやさつま揚げがまずいということは東京の魚(カマボコの原料の)がまずいということである。小田原カマポコなどと威張ってはいるが、あれを西のほうに持ってくれば、せいぜい二流品か三流品であろう。

 東京のてんぷらソバは、そりゃ一流どこに行けばうまいけれど、そこらのソバ屋で注文するとエビの身は小さく、衣ばかりがばかでかく、揚げかすを食っているのとそう変らない。それにエビの足を取ってないので中でがさがさして不愉快だ。

 その点に行くと、福岡のてんぷらウドンはそこらの町角の店でも一応食わせる。平均点が福岡のほうがずっと高いのだ。

 土地の食文化というのはその平均点のことじゃないか。一軒や二軒飛び抜けてうまい店があってあとはまずいのと、平均して一応うまいのとでは後者のほうにさっと軍配を上げるべきだろう。

 もっとも福岡のてんぷらウドンを、うまいうまいとわたしがむさぼり食ったのはもう三十年近く前のことだから、いま食ってもうまいかどうかそれは保証できない。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第八回目の昭和三六(一九六一)年一月十一日附『西日本新聞』掲載分である。内容も前日分を受けて、斜辺里文吾氏が登場している。]

梅崎春生「南風北風」より / 博多の食べもの   梅崎春生

 
梅崎春生「
南風北風」より

[やぶちゃん注:「南風北風」は『西日本新聞』に昭和三六(一九六一)年一月四日から四月十三日まで、百回に亙って連載されたエッセイである。ウィキの「西日本新聞によれば、現在も発行されており、現在の本社は福岡県福岡市中央区天神、現行紙は福岡県を中心に九州七県で販売されているものの、福岡以外の県ではそれぞれの県紙に販売シェアで圧倒されているとし、福岡市・久留米市を中心とする福岡県西部で特に購読率が高いとある。

 底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第七巻」に拠ったが、同書には上記の内の全二十二回分のみが収録されている。選ばれている記事内容を見ると(そうした傾向によって編者が選んだ可能性は私は低いと考える)、福岡生まれである梅崎春生は「西日本新聞」の読者の地域的特性をしっかりと踏まえて執筆している様子が濃厚に覗える。

 傍点「ヽ」は太字に換えた。

 以下の「博多の食べもの」は連載第七回目の昭和三六(一九六一)年一月十日附『西日本新聞』掲載分である。]

 

   博多の食べもの

「酒」という雑誌がある。才色兼備の佐々木久子女史が編集している雑誌で、酒にかんするいろんな物語だの随筆だのがのっていて、わたしは毎号待ちかねて愛読している。

 その「酒」に連載中の随筆で、「マイク酔話」というのがある。たいへんおもしろい読み物で、筆者は斜辺里丈吾という人物である。もちろんこれは筆名で、しゃべり上戸をもじったものだろう。NHKのアナウンサーで、長いこと東京に勤めていたが、半年ほど前博多に転勤になった。随筆の中にそういうことが書いてあるので、わたしはその当人を知っているわけでない。

 その「酒」の新年特別号に、斜辺里丈吾氏が博多の悪口を書いている。いや、悪口といっては当らない。愛情をもって、つけつけと書いている。異郷人が福岡に来ると、こんなことを感じるのだなと、福岡生れのわたしはたいへんおもしろかった。

「酒」という雑誌は市販していないので、読者諸君の目にふれることはないだろうと思うから、その一節一節を紹介すると、

「驚いたことには、ビールのさかなに、もろきゅうとたのむと、おそろしく長い、馬の乾燥バナナみたいなのが出てくる。ナスを焼いてもらうと、これがまた、なんと、きゅうりほどの長さである。九州では、きゅうりとナスの長さが同じである」

 そういわれてみると、九州のナスは長い。長いのが普通で、短いのは特にキンチャクナスという。東京では短いのが普通のナスで、長いのは特に長ナスと呼ぶ。わたしも初めて東京に来たとき、八百屋にキンチャクナスばかりしかないので、ふしぎに思った記憶がある。

「そして、ネギがない。深谷のネギである。出てくるのは、ニラのような細いやつである。ひともじという。そばを食っても、ソーメンをたのんでも、薬味にはこれが出てくる」

 ああ、ひともじ。久しぶりにこの言葉を聞いた。

 斜辺里さんはひともじのことを「ニラのような」と書いているが、むしろ「アサツキ」に似ているのではないか。わたしはあのひともじが大好きで、東京でソバ屋に入るたびに、どうしてひともじがないのかと、今でも物足りなく思う。普通のネギをきざんだやつより、ずっと鮮烈な味がして、ソバの味が引き立つと思うのだけれど、斜辺里さん、そうお感じになりませんか?

「〝ひやむぎ〟をこちらでは 〝ひやしむぎ〟という。〝ひやむぎ〟だから〝ひや〟として、ひやっこいような気もし、食指も、うごこうというもの。それを〝ひやしむぎ〟といわれると、マがのびて、冷たさを失う。作りたてという、新鮮さも失われる。日だまりの水で、真夏に、ソーメン食うやつがどこにある」

 こんなにながながと引用して、斜辺里さんに原稿料をわけてあげねばいけないな。

[やぶちゃん注:「佐々木久子」(昭和二(一九二七)年~平成二〇(二〇〇八)年)は編集者・評論家・随筆家。ウィキの「佐々木久子」によれば、ここに出る月刊雑誌『酒』(昭和三〇(一九五五)年~平成九(一九九七)年)の編集長で、かつて「カープを優勝させる会」を旗揚げし、奔走した事でも有名。広島市出身。三歳から酒を嗜み、『広島女子商業学校(現広島翔洋高等学校)を経て広島大学に進学』、『広島市への原子爆弾投下により爆心地から』一・九キロメートル『離れた自宅で被爆。自身は母親と共に救出されたが』、五年後には『父親を原爆症により亡くした。第二次世界大戦後は広島で青年運動・平和運動・新劇などの活動もしていた』。『大学卒業後、単身で上京』、昭和三〇(一九五五)年四月に雑誌『酒』を創刊、以来、四十二年間に亙って編集長を務めた(五百一号を以って休刊)。また一九六〇年代半ばには『新潟県の地酒「越乃寒梅」にいち早く着目し、その後興った“地酒ブーム”の火付け役にもなっている』。二十一世紀に『なってからも地元の中国放送(RCC)などで社会評論を続け』たが、脳梗塞で倒れ、最後は多臓器不全のために八十一歳で逝去した。『結婚はせず、生涯独身だった』。昭和三一(一九五六)年早々、創刊から一年で『赤字のため廃刊に追い込まれかけた『酒』を小説家の火野葦平が救った。火野は、命ある限り無償で執筆する旨の証文を書き、同誌に原稿と』扉絵を約束通り、昭和三五(一九六〇)年一月のその死まで書き続けた(火野葦平の死因は心臓発作と発表されたが、十三回忌の際、遺族により睡眠薬自殺であったことが公表されている。因みに私は、火野葦平の「河童曼荼羅」の電子化も手掛けている)。『また多くの文人を紹介した』とある。調べてみると、この葦平が火急を救った際、同雑誌はそれまでの株式新聞社から独立して自主発行を始めている。春生が『「酒」という雑誌は市販していない』と書いているのは、恐らくは完全な注文頒布型の郵送の趣味雑誌であったからであろう。

「斜辺里丈吾」「NHKのアナウンサーで、長いこと東京に勤めていたが、半年ほど前博多に転勤になった」これだけの情報と文才がありながら、実名は不詳である。識者の御教授を乞う。

「ひともじ」タマネギとネギの雑種である単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ワケギ Allium × proliferum の主に北九州での異名。「一文字」「一文字」。]

2016/07/28

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   美童の節義

宗祇諸國物語卷之二

 

     美童の節義



Bidounosetugi

或年、秋の最中(もなか)、攝州住吉に詣で、四社順禮し、法施(ほつせ)奉り、廻廊樓閣徘徊するに、かうがうしく尊く、他に異(こと)なる靈地、數ふるに、詞、たえたり。千(ち)もとの松の木の間より、海づら、限なく見え、沖津波(おきつなみ)、入日をあらへば、ゆきゝの舟、島がくれゆく。難波寺(なにはでら)のかね、暮れを告ぐるより、早(はや)、初月(はつづき)の山の端(は)にくまなくてりつゞきたる、更に今の夜だに、晝と照りわたれば、歸るべき道を忘るゝは、美景によつて、と、いひし、宜(むべ)なる哉、おもほえず、そり橋のかた邊(ほと)りに旅油簞(たびゆたん)かた敷きて狂歌す。

 

   住の江に難波のあしをふみこふて

       ふむや潮のよるの蛤(はまぐり)

 

かくて戌亥(いぬい)のかね過ぎ、子(ね)の程ちかく成るに、專(いとど)、物さびわたり、松の風、磯打つ波に心耳(しんじ)をすませば、夜露(やろ)、あさ衣の袖をひたす。睡臥(すゐぐわ)の軒、求めんと草むしろを身じろく頃、男一人、白衣(はくえ)に長き刀を橫たへ鉢卷したる、月かげに定かならねど、年の程、廿二、三と見ゆ。肘(うで)まくりし、刀に手をかけ、社内の邊りを見賦(みくば)り、そこなる石に腰をかけたり。こは怪し、何事にや、我を見つけたらましかば、いかゞとがめん、忍ぶにはしかじ、と、松根(しようこん)に身をよせ、木の間より密かに覗く、暫しして、又難波の方(かた)より男一人、是も白く裝束(さうぞく)して、長からぬかたな、あら繩をもて鉢卷し、息まき切つて此所に來る。初の男、聲をかけて、其方おくれてや、かく遲參すると、難波の男、息つきながら、其の事よ、和殿(わどの)が左(さ)思はんほどに、とくにと、心はやりぬれど、多くの人目しのびて、心ならず時うつり、道も遙かにて今になりぬ。全くおくるゝにあらず。あまりに道を急ぎ、氣(き)疲れたり。迚(とて)もの事に、水たうべて喉(のんど)うるほすいとま得させよ、と、御手洗川(みたらしがは)にて水すくひなど身繕(みつくろ)ひし、刀をぬぎ、いざ、互の最後、今なりといふより早く、双方切むすぶ事しばし、祇は只、夢に幻(うつゝ)をそへたるやうに、身をひやし、胸つぶる計り、何なる遺恨にてかく鬪諍すとは知ねど、出でゝ扱はばやと思ふに、そも又、還つて血氣(けつき)のいきほひに誤まつて、刄にかけられんもよしなしと思ふ程に、此等もさすが勝負を好むと見えて刀劒の業(わざ)たゞ者と見えず、秘術をつくせば、兩方、未だ薄手(うすで)をもおはず、言葉をかけて息をつぎ、言(ことば)をかけて切り結ぶ事、三度(ど)に及ぶ時、難波の方より、年の程、十六、七とみえし美童、黑き小袖の袖高く取り、我れにひとしき小者に灯燈かゝげさせ、月の夜、猶、あかく、一文字にかけり來り。兩人の勝負、今、暫く待ち給へ、と、聲をかくる。是に、猶豫して兩方退(しりぞ)く時、美童、難波の男にむかひ、淚を流し、君、かく死の大事を思ひ立ながら、何ぞ我にしらせ給はぬ、漸(やうや)う名殘にみよ、と、計りの置文、日頃にかはりし御事、所詮、此の濫觴、我れ故なれば、先づ、此の身、黄泉(くわうせん)のしるべすべしといふいふ、上の衣をとれば、下には白き裝束したる、偏(ひと)へに死出(しで)の用意也。男、怒つて云く。我れ、此の首尾に取結ぶ事、全く卒爾(そつじ)の陽氣(やうき)を求むるに非ず、本心を惑亂するにもなし。日頃、そこと兄弟(はらから)の約(やく)をなし一命(めい)をゆづりあひたる事、人も知たる事ぞかし、今、放逸(はういつ)の者に一言(ごん)をいひかけられ、おめおめと其方を渡し、隣家の花、遠山の月と詠めて、世の人口(じんこう)、いかゞはせん、詮(せん)ずる所、運を天に任せ、一刻の勝負に安否をきはむべく忍び出でたり。是をだに、しらすまじかりしを、若(も)し、我れ、討れ失せなん後、最後の一筆をさへと我公(わぎみ)が恨みん事を思ひて一通をとゞめし事、助太刀の爲めと敵(てき)も思ふなるべし。長詮義(せんぎ)に夜や明けん、早、疾く歸れ、と引きたつる、美童、更に歸る色なく、又、堺の男に向ひ、和殿が無體(むたい)の一言に、今、此の難儀、出で來ぬ。汀(みぎは)の松の枝(えだ)わけて、よそ吹く風を騷がすも、本(もと)の根ざしは我れ也。自(みづか)ら屍を爰にさらす。此の後、互(たがひ)の意趣を捨てゝ、願はくば一道名(みやう)がう賴み申す、と、いひ捨てゝ、既に自害に及ぶ、男、慌てゝ押しとめ、至極の道理、聞わけぬ。松の根ざしは有るとても、騷がす風のあらずば、千歳(ちとせ)の色を見すべきに、一身(しん)の惡念より、かゝる事によしなき死を輕くして、人口遁る所なし。かひなき露命(ろめい)あるによつて、ぬしある人をこふるなれば、只、某が命(いのち)とつて、心安く、契り給へ、と、刀をすてゝさしうつぶくに、難波の男も心とけ、和殿(わとの)が邪氣(じやき)を翻へして、命(めい)を捨て給ふ事、哀れにもやさし、此上は、此の者をわとのへ渡し參らすべし、と、いへば、堺の男、泪をながし、いか計りの前業(ぜんごふ)にか、此の事、思ひ初(そ)めしより、今日(けふ)の今宵(こよひ)の今迄、忘るゝ暇(いとま)なくて、かゝる事をなせり、我れ乍ら悔(くや)しとやいはん。道ならぬ道をいひかけ、乞ひうけんも、よしなし。此の後、何の恨か有明(ありあけ)の、月落ち、鳥(とり)啼き、漸(やうや)う、東の雲、白くなりぬ。とく、ぐして歸り給へ、と、いへば、難波の男、よろこばしげに、小笹(ざゝ)の露をしたでて酒と號け、かた計りの祝儀を調へ、互(たがひ)に式臺(しきだい)して南北へ別れさりぬ。祇は一木の松かげに居て、此の事を見屆け、懷筆のすさみにせし、誠に壁(かべ)に耳、天の言(ものい)ふといへるたぐひにや、人はしらじとこそ、此者どもは思ひけめ。

 

 

■やぶちゃん注

 若衆道の分らぬ方には、この話のしっとりとした情話の深さは御理解戴けぬものと存ずる。されば、そうした言葉で言っても判らぬことは注でも一切、語らぬこととした。

・「攝州住吉に詣で、四社順禮し」現在の大阪府大阪市住吉区住吉にある住吉大社は四柱を祭り、それぞれが独立した宮を持ち、四柱を総て合わせて「住吉大神(すみよしのおおかみ)総称して海神として信仰される。第一本宮が底筒男命(そこつつのおのみこと)を、第二本宮が中筒男命(なかつつのおのみこと)を、第三本宮が表筒男命(うはつつのおのみこと)を祭り(この三柱を合わせて「住吉三神」と呼ぶ)、第四本宮に神功皇后を祀る(「住吉大神」と言った際は、彼女を除く場合も含める場合もある)。境内の奥から第一・第二・第三本宮が縦(東西)に並び、第三本宮の向かって右(南)に第四本宮がある(ここはウィキの「住吉大社」に拠った)。

・「難波寺(なにはでら)」現在は大阪府大阪市生野区にある臨済宗月江山難波寺(なにわじ)。但し、ウィキの「難波寺を見ると、天平八(七三六)年に『聖武天皇の勅命により行基によって、奈良東大寺の大仏開眼法要のため、遣唐使の船にて来日したベトナムの僧侶を宿泊させるため、現在の天王寺区東高津町に創建されたと伝えられ、当初、三井寺の直末として天台宗に属していた。室町時代に入ると荒廃し、江戸時代に入って妙心寺塔頭後花園院の卓同和尚により中興され臨済宗に改められた』。大正一四(一九二五)年に『現在地に移された』とある。この旧位置(現在の位置ではない)は住吉大社から六・五キロメートルは離れており、やや鐘の音のロケーションとしては遠いように感ずる。しかも、引用にある通り、宗祇が生きていた時代には難波寺は荒廃していたから、撞く鐘や僧があったどうかも、実は怪しいのである。寧ろ、「難波」(にある)「寺」院という一般名詞でとっておいた方が無難なように思われる。

・「旅油簞(たびゆたん)」「油簞」は「油單(単)」とも書き、湿気や汚れを防ぐために簞笥や長持ちなどに掛ける覆いで、単(ひとえ)の布又は紙に油をひいたものを指すが、これは外出や旅中の風呂敷や敷物などにも用いられた。

・「戌亥(いぬい)」午後九時頃。

・「子(ね)の程ちかく」午後十一時近く。

・「御手洗川(みたらしがは)」神社の近くや境内を流れており、参拝人が口を漱ぎ、手を洗い清める川の一般名詞としての呼称。

・「扱はばや」仲裁したいものだ。

・「刄」「やいば」。

・「刀劒」「とうけん」。

・「我れにひとしき小者」宗祇自身に等しい年恰好の家来。

・「灯燈」「ちやうちん(ちょうちん)」。

・「猶豫」「西村本小説全集 上巻」では「ゆよ」とルビする。

・「小笹(ざゝ)の露をしたでゝ酒と號け」「したでゝ(酒)」がよく判らない。「西村本小説全集 上巻」でもここと同じになっている。「號け」は「なづけ」(名づけ)で、以下で「かた計(ばか)りの祝儀を調へ」と言っているのだから、ここは難波の男と美童の祝言の祝い「酒」と喩えるのであるからして(同時に堺の男と二人(難波の男と美童)の別れの水盃の趣向も背後にあると読む)、ここは或いは「したでて」ではなく、「したてて」(仕立てて)であって、小笹(おざさ)におかれた朝露を祝言のそれに仕立てて祝い「酒」と名づけて」の意味ではなかろうか? 大方の御叱正を俟つ。

・「式臺(しきだい)」は「敷台」とも書き、本来は玄関の上がり口にある一段低くなった板敷きの部分を指す。ここは客を送り迎えする所で、客に送迎をするための部屋がかく略されものであるが、ここはまさに別れの挨拶そのものを指している。

 挿絵は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正した。

行脚怪談袋   芭蕉翁備前の森山を越ゆる事 付 猅々の難に逢ふ事

  三の卷

 

 

  芭蕉翁備前の森山を越ゆる事

   
猅々の難に逢ふ事

 

ばせを京郡を立ちて播州へ越え、一國を執行(しゆうぎやう)せんとなして、備中を過ぎて夫れより備前に懸り、同國岡山にしるべの俳人ありければ、是へ越えんが爲めに、其の道すがら、同所森山(もりやま)の麓を通りけるが、此の所は東は遙かの谷、西は何丈とも知れぬ高き山なり。日も未だ高きゆゑに、ばせをは何の心も付かず、此の所を越える。然るにばせをが被り居たるもじの頭巾、風もふかぬに遙かの谷へ落ちて、二丈計り下の木の枝にかゝりたり。芭蕉是を見て、常々被りたる頭巾、此の儘失はん事本意なき事と思ひ、何れにも谷へ下りとり來らんと、山がつのふみ分けし道にや、少し平かなる所有りける所を、つたひつたひやうやうかの木一本へ至て、頭巾を取らんとすれども、小高き木の枝なりしかな下より取る事あたはず、登り取らんには谷際なれば、あぶなからん事をあやぶみ、詮方なき儘、かたはらなる枯木を手折りて、我がつゑヘ羽織のひもをもつてくゝり付け、是を棹として、件(くだん)の枝へ懸りし頭巾を取らんとなせども、いかゞ枝へ懸りけん、兎角して取られざりしが、芭蕉棹を取直し彼の枝をしたゝかに打ちて、ふるひをとさんとなしける。枝うつ音かしこへ聞えける所に、遙かにあなたの木の茂みより、こだまに響きて、うんとうなる聲聞えしが、芭蕉は心得ぬ事に思ひ、既に頭巾をも取りたりければ、暫し立休らひて、又森詠(なが)め居りけるが、俄かにさしも生茂りし大木の、悉く梢迄ゆらぐと見えしに、右の木のすき間より、其のさま三尺許りの首を出す、その面(おもて)の赤き事(こと)朱のごとし、眼(まなこ)は血をそゝぎたるが如く、眞半(まはん)なるまぶち、大き成る目の玉をいからし、ばせををちらりと見る。口と覺しきも耳元迄さけ、眞黑なる牙をはみ出(だ)し、暫しはためらひ居たりしが、惣身はまがふべくもなき大いなる猿なれども、其の丈け七尺に餘る。からだの毛黑く白まじりて班(ぶち)なりし、なほなほ芭蕉をにらめ守り至る。ばせをは今更大いに驚き、是かならず惡獸(あくじう)の類ならん。近々(ちかぢか)とならば決して彼れが爲めに害せられんと、頭巾を片手に持ちながら、身を替して、上の麓の方へいつさんによぢ登る、かの變化(へんげ)は是を見て森を飛出で追(おひ)かけしに、ばせをの運(うん)や強かりけん、かの化物(けもの)とある木の根にまろび、遙かの谷底へ落入りしかば、ばせをはからき命を拾ひ、右の獸(けだもの)谷へ落入りし事、諸天善神の我れをすくひ給ふ處なり、獸もし谷へ落入らずんば、我れ彼れが爲めに害せられ、此の處の土と成るベきに、げにもあやふき事なりと、猶もいそぎ上の麓に上り、何時(なんどき)にやと日足(ひあし)を見れば、今だ晝八つ頃の樣子なれば、是より岡山の方へ懸らん、道法(みちのり)六里と聞けり、日の有る内に急がんと、猶も獸の追來らんかと跡を見歸り急ぎけり。其の後は變化も來らず。兎や角なす内に、六里を經て人里へ出でたり、是岡山へ取付く里也。此の所にて日も漸う西の山にかたむきぬ。芭蕉は大いに悦び急ぎ岡山の城下へぞ至りける。その後ばせをは當城下のしるべのの者、俳人眞田玄蕃(さなだげんば)が方へいたる。此の玄蕃評(ひやう)とくを荊口(けいこう)と云へり[やぶちゃん字注:「荊」の(くさかんむり)は底本では(へん)の上につく。以下、同じ。]。玄蕃ばせをを來(きた)ると聞きて、舊友のよしみを思ひ、急ぎ迎へて對面し、足下には竹馬の同樣の友、吾妻(あづま)にて別れしより、再び逢ひ見る事もあとふまじきやと思ひしに、能くも遙々御尋ねに預かる事、有難さよと申しければ、芭蕉是を聞きて、諸國俳道執行の爲めに出でし由を語る、荊口も是を聞きて、然れば頃日(このごろ)の旅の御つかれも御座有るべし。先づ我が方に落着(おちつか)れ草臥(くたびれ)をも休め給へと、わりなく申しければ、ばせをかれが方に敷日逗留す。頃は春の半ばにて、殊に雨ふりつゞき、庭前(ていぜん)の靑柳に雨のたゝまる風情いと興有るにより、ばせをは主の荊口と諸とも、緣先に酒盛して四方山(よもやま)の物語りをなす。此の時芭蕉同國森山にて異形(いぎやう)の變化に出あひ、あやふき目(め)をなせし由を語りける。荊口是を聞いて其の異形の物かならず世に云ふ猅々(ひゝ)なるべし。我等も先年(せんねん)京都(きやうと)より、此所へ立越えんが爲め、森山へ通り懸りしに、日もいまだ白晝(はくちう)なれば、心をゆるめてとある岩角(いはかど)に腰打懸(うちか)け、腰より火打を出したば粉(こ)をくゆらし居たる所に、遙か後(あと)の方より、其の丈一丈計りの人の如き物、白き衣類を着し近付き來る、我れは人かと思ひしが、其の樣のすごくすさまじさ、心付傍なる木陰に隱れ、右のものを能く能く窺ひ見るに、白き衣類とおもひしも衣類にあらず變化の色なり。夫れのみにあらず、面の赤き事紅(べに)のごとし、われらも大きにおどろき、若し姿を見せば、必らず彼れの爲めに害せられんと心付き、急に茂りし大木に上り、枝葉のこもりたる所に隱れ、身を縮め息をつめて遁(のが)れん事を思ふ所に、程なくかの變化右のあたりへ間近く來(きた)り、大(だい)の眼(まなこ)を血をそゝぎたる如くに見開き、我が隱れし傍にあなたこなたとうかゞひ、若(も)し見付からばひと嚙みになさん氣色(けしき)にて、其のあやふき事云ふばかりなかりしが、されども、我が運の強き處にややよりけん。彼の變化終にわれを見付け出さずして、またむかふの方をうかゞひたりしが、とかうして先ヘ行過(ゆきすご)す、我れ見付られん事を恐れ、猶も深く隱れて、良(やゝ)しばらく其の所に在りしが、いつ迄隱れあるべきにもあらず、されば氣味惡けれども、そろそろかの木のうへより下り立ち、かたはらをうかがひみるに、彼の變化は何(いづ)れへか行きしやらん見えず。其の所にをらざれば、扨は己れが住家(すみか)へ歸りしものならんと悦び、彼(か)の物の先へ行過ぎたれば、我れもまた先へ行かん事然るべからずと、夫れより元來る道へ引返し、前夜に一宿なせしか嘉笛(かてき)と云へる里へ至り、則ちその宿へ行く、宿の亭主も不審顏してとひけるは、旅人には今朝岡山へ至らんと立ち給ひしが、かの處へは行き給はず、また此の所へ立歸り給ふ事不思議さよと云ふ。我等答へて申すは、ふしぎの所尤もなり、我等今朝此の所を立ちて、今日中(こんにちぢう)に岡山の城下へ到らんと、森山の山道を急ぐ所に、か樣のものに出合ひ、まづかくの次第なる體(てい)にて、あやふき場所をのがれたり。かの者先の方(かた)へ行過ぎし故、我れかれに又も逢はん事をおそれ、先へは行かずして此の所ヘ歸りしと語りしに、亭主是を聞いて扨々夫れはひあひな目に逢ひ給ふものかな、右の變化は、猅々と申す猿の二千歳を經て通力(つうりき)を得たる獸ならん。其のゆゑは彼の森山には、至つて猿の澤山なる所故、同所のもの是をからんが爲めに、六七人かの山にわけ入りて、右の獸を見て、はうはうの體(てい)にて逃歸(にげかへ)り、所の老人に此の由を告げるに、夫れは猅々なるべしと申したり。貴所の逢ひ給ふもかならず其のたぐひに候べし、されども此の獸は快朗のせつは出でざるよしなれば、貴意所もし氣床惡敷く思ひ給はゞ、四五日此の處に逗留あり、曇(くも)らざる日を待ちて岡山へ越え給へと申すに付、某其詞に隨ひ、二三日ち過ぎてくわいらうの日、嘉笛(かてき)の宿を立ちて當所へ至り候に、森山の途中にてあやしき事なかりき、我れの猅々に出合ひし物語りと芭蕉翁のあひ給ひし事と、その危(あやふ)き事相似たりと語りしかば、芭蕉是を聞きて思はず手を打ち、扨々我等兩人ともに右のごとくは、佛神(ぶつじん)に請(う)けられたりと申すべし。何れにも悦ばしき次第と、ばせを盃をあげ、春雨(はるさめ)の題ぞ取りて、

 

  噺しさへ調子あひけり春の雨  ばせを

 

と一吟をなし、その外逗留數(す)日の内、種々(しゆじゆ)の物語りをなし、其の後芭蕉は荊口に暇乞ひし、岡山を立ちて、夫れより備後伯耆の方へ廻國せられぬ。そのとき餞別に

 

  千金の春も一兩日に成りけり  荊口

 

■やぶちゃんの呟き

・「猅々」「ひひ」。猅々猿(ひひざる)。猿の老成した巨怪。

・「ばせを京郡を立ちて播州へ越え」芭蕉は西国を行脚していない。但し、芭蕉には「奥の細道」を究め、中部地方も概ね経巡ったことから、西国遍歴を企図していたことは間違いないから、芭蕉もこれには微苦笑することであろう。

・「執行(しゆうぎやう)」修行に同じい。

・「森山」現在の岡山の東北十七キロメートルほどの位置にある、岡山県岡山市東区の標高三百五十一メートルの大森山附近のことか。ここなら後で「岡山の方へ」「道法(みちのり)六里」というのとも概ね合致するからである。

・「もじの頭巾」「もじ」とは夏の衣や蚊帳などに使う「綟」「綟子」か(但し、だとすると歴史的仮名遣は「もぢ」である)。麻糸で目を粗く織った布で出来た頭巾。

・「二丈」六メートル強。

・「晝八つ頃」不定時法であるが、後に「春の半ば」と出るので午後二時半前頃に当たる。

・「眞田玄蕃(さなだげんば)」不詳。全体がトンデモ仮構であるから架空の人物であろう。最後の句の「荊口」の私の注も参照のこと。

・「評(ひやう)とく」「表德號(へうとくがう(ひょうとくごう)」のこと。本来は高徳の人の徳行を表わす号や雅号を指すが、近世では通人めかして号をつけることが流行した。ここでは単に俳号の謂いである。

・「再び逢ひ見る事もあとふまじきやと思ひしに」「あとふ」は「能(あた)ふ」の転訛。再び相見(まみ)ゆることも叶うまいなあ、と思うておったところが。

・「わりなく」ここは中世以後の用法で「親しく」の意。

・「雨のたゝまる」「雨の疊(たた)まる」で雨が積み重なる、しきりに降り注ぐ、の謂いであろう。

・「嘉笛(かてき)」とても素敵な地名であるが、不詳。識者の御教授を乞う。かの大森山近くでは、少し似た感じがする風流な地名として現在の岡山県備前市香登(かがと)がある。また大森山周辺には現在、「可」を頭に持つ地名も散在する。

・「ひあひな目」「非愛な目」で危険な目の謂いであろう。但し、だとすれば歴史的仮名遣は「ひあい」で誤りである。

・「噺しさへ調子あひけり春の雨」芭蕉の句ではない。「續猿蓑」の「卷之下」の「春之部」の「春雨 附 春雪 蛙」のパートの、

 

 物よわき草の座とりや春の雨       荊口

 咄さへ調子合けり春のあめ        乃龍

 春雨や唐丸(たうまる)あがる臺どころ  游刀

   なにがし主馬が武江の

   旅店をたづねける時

 春雨や枕くづるるうたひ本        支考

 はる雨や光りうつろふ鍛冶が鎚      桃首

 淡雪や雨に追るるはるの笠        風麥

 行(ゆき)つくや蛙の居る石の直(ロク) 風睡

 

の三句目、乃龍(ないりゅう:事蹟不詳)なる人物の句である。前が荊口の句であるのはやはり偽書であることを暗に示すポーズのようにも思われる。

・「千金の春も一兩日に成りけり」不詳。

・「荊口」蕉門の俳人には宮崎荊口なる人物が実在する。本名は宮崎太左衛門で、大垣藩百石扶持の藩士であった。一家で蕉門に入り、七部集に出る「此筋(しきん)」・「千川(せんせん)」・「文鳥(ぶんちょう)」というのも皆、荊口の宮崎荊口息子たちである。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 93 大垣入り』を見て戴くと分かるが、「奥の細道」の最終局面に当たる「大垣入り」で芭蕉は、「露通も此(この)みなとまで出むかひて、みのゝ國へと伴ふ。駒(こま)にたすけられて大垣の庄(しやう)に入(いれ)ば、曾良も伊勢より來り合(あひ)、越人(ゑつじん)も馬をとばせて、如行(じよかう)が家に入集(いりあつま)る。前川子(ぜんせんし)・荊口父子(けいこうふし)、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる」と述べており、そこにはこの宮崎一家が立ち並んで、かの死をさえ賭した旅からの師の帰還、生還を拝むが如く、出迎えているのである。

ドナギ、タコイカ、骨なし魚   梅崎春生

 

 この五六十年の間に、食用植物や食用家畜などは、大幅に品種が改良された。牛肉もやわらかくなったし、一年に三百六十個以上も卵を産む鶏も、続々出現した。

 果物の進歩もめざましい。私が子供の時はモモやナシはがりがりだったし、イチゴもきわめて小粒だった。今やモモやナシは口に入れればとろけるようで、イチゴも化けものみたいに大きくなった。また種類のちがう果樹をかけ合わせて、新種の果物もつくり出されている。

 ところが、魚類だけは旧態依然である。マグロもイワシも、一千年前のそれと、ちっとも変っていない。

 魚類の品種改良は、では全然行われていないかというと、そうでない。鑑賞用としては大いに行われている。金魚や熱帯魚などがそうである。日本人は手先が器用で、小さなものにこつこつ打ち込むのが得意だから、近頃の金魚などは、品評会の写真を見ると、大きな瘤(こぶ)が頭部に突出していたり、眼玉だけがぴょんと飛び出したり、尻尾だけがやけに大きくて泳ぐのにも不自由したりしているのもいる。

 つまり品種改良というのは、人間の側から見て改良であって、魚の立場からすると、不具になるわけだから、改悪である。

 果物だって、そうだ。果実は本来子孫をふやすために実るものだが、人間の手にかかって、その能力をうしない、人間から食べられるためにのみ実っている。品種改良とは、つまるところ、不具化である。いい例が種なし西瓜だ。これは人間がいなきゃ、何のために実ったのか、実った意味がない。

 同じやり方を、どうして海や川の魚に適用しないのか、と私は思う。

 よく似た同士を交配して、新種をつくり出す手はないものか。虎とライオンをかけ合わせて、子を産ませる。これをライガー、タイゴンと呼ぶ。ラバもその手で出来た。

 タコとイカを夫婦にして、新種がつくり出せないか。スダコにしてもおいしいし、乾せばスルメになる。便利ではないか。

 ウナギとドジョウ。これも面白い。どちらもぬるぬるして、長くて、よく似ている。ドナギとでも名付けて、蒲焼にしてもいけるし、柳川鍋にも好適だ。

 五年ほど前に書いて、識者(?)の失笑を買ったが、骨なし魚というのがつくり出せないものだろうか。種なし西瓜がつくれるのだから、骨なし魚も夢ではなかろう。世の魚ぎらいの中には、骨があるから厭だ、むしるのが面倒くさい、というのが相当にいる。骨なし魚の出現は、彼等をして魚好きに変化せしめるであろう。

 骨がなくて生きて行けるか、と反論されそうな気がするが、クラゲやタコ(には軟骨があったかな?)は骨がなくても、ちゃんと生きている。初めからいきなり骨なしというのは不可能だろうから、骨の細いのをかけ合わせ、いよいよ骨を細くして、ついに消滅させてしまう。

 金魚の珍種をつくることや盆栽の製作に長じた日本人だから、それが出来ない筈がない。

 日本近海を整備して、工場の廃液や下水が流れ出ないようにする。余った船はあちこちに沈めて、魚のアパートをつくってやる。ゴカイやブランクトンを養殖して、時期を定めて適当量撒布する。もちろん個人の力で出来ることではない。国家的規模において、これを行う。居心地が良ければ、李ラインの向うの魚たちも、続々とこちらに移住して来るだろう。

 一億人の蛋白源だからと言って、それを一網打尽に取ってはいけない。それでは元も子もない。計画的に、年間何万トンときめて、取るようにする。それがわれわれフィッシュイ一夕ーとして取るべき、唯一の道であるように思う。

 餌が豊富であるからして、彼等はふとる。あまりふとったのは、ぶよぶよして大味だという説もあるが、それは水ぶくれの魚のことではないか。固ぶとりなら、けっこううまい筈である。魚には一体どのくらいの水分が含まれているか。檜山義夫氏の書いたものによると、ふつうの魚で七十パーセントから八十パーセントは水分だそうである。貝類は九十パーセント。クラゲにいたっては九十九・九パーセントが水分だとのことだ。

 中華料理の前菜によくクラゲが出るが、あれはこりこりしてうまい。水分はあまり含んでないように見えるが、途中で脱水作業が行われたに違いない。

 魚が七十~八十パーセントが水分なら、まるで水分を食べて(飲んで?)いるようなものではないか。そう言って憤慨する向きもあるだろうが、そう憤慨している当人の体重の三分の二は、水である。魚に対して怒る資格はない。

 以上いろいろと素人談義を並べたが、人口がふえるにつれて、それに見合う蛋白源、牛豚鶏や魚などをふやさねばならぬ。それはたいへんなことだから、も少し効率のいいものをつくろうと、各国の学者たちが研究し、努力している。すでに緒につきかけているのもある。

 四年ほど前、クロレラ(食用藻)のことを小説に取り入れようと思って、目白の研究所に見学に行った。円形の池がいくつもあって、アームがそれを静かにかき廻している。青っぽいものが、浮いたり沈んだりしている。これがクロレラだ。ここは研究所だから小規模だが、吉祥寺か田無の方に大がかりのものが出来ているという話であった。

 所員からいろいろ説明を聞いた。

 「蛋白質や栄養分は理想的に含まれているが、難点はまずいことです」

 ということなので、

 「アイスクリームに入れると、おいしいという話を聞きましたが――」

 と私が言うと、

「それは、おいしいです。しかしそれは、アイスクリームがおいしいのであって、クロレラのせいでない」

 なるほど、と私は了承した。それが四年前のことだから、今は改良を重ねて、うまくなっているかも知れない。

 石油から牛肉をつくる、ということも考えられているらしい。石油の廃棄物から各種のアミノ酸が合成されている。アミノ酸は蛋白質のもとである。アミノ酸をうまく結合すれば、蛋白が合成される筈だ。それが成功すれば、人造牛肉ということになるらしい。

 石油の廃棄物は、餌もいらないし、病気する心配もない。大量生産すれば、ずっと安くつくだろう。栄養は保証するが、味の点はどうであろうか。うまく行っても、清酒と合成酒ぐらいの違いは出るだろう。

 その中に、どこかの大臣が、きっと失言する。

 「貧乏人はクロレラや合成肉を食え」

 私は失言する方に賭けてもいい。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第六十六回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年七月三十日号掲載分。これで底本である昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第七巻」掲載の「うんとか すんとか」は終わっている。全六十七回であるからこれは最終回八月六日号の前の回に当たる。

 この一篇、前回の養殖漁業からヒトによる交雑新種作成にまで話が及び、少し羽目を外している感があるが、梅崎春生は自給自足の絶対的不能となるであろう世界を予測して、相応に真面目に(但し、笑いをとることも十分に考えながら)筆を進めており、実際には一国の政治家が「貧乏人はクロレラや合成肉を食え」と失言するコーダを引き出す枕としていることが判る。

 無論、これは第三次吉田内閣当時の大蔵大臣(現在の財務大臣の前称)であった池田勇人(はやと 明治三二(一八九九)年~昭和四〇(一九六五)年の失言とされる「貧乏人は麦を食え」をパロったものであるが、彼は本記事が出た当時は内閣総理大臣(昭和三五(一九六〇)年七月十九日から昭和三九(一九六四)年十一月九日まで)に登り詰めていた。これは参議院予算委員会 昭和二五(一九五〇)年十二月七日に行われた参議院予算委員会で、社会党の木村禧八郎議員が高騰する生産者米価に対する蔵相の所見を質した際の答弁中に語った内容を、マスコミが『貧乏人は麦を食え』というフレーズに変えて報道したものであって、池田本人が言った正確な言辞ではない。ウィキの「池田勇人」から引く(下線はやぶちゃん)。

   《引用開始》

○木村禧八郎君 (略)米価を特に上げる、併し麦とか何とかは余り上げない。こういう食糧の価格体系について大蔵大臣には、何かほかに重要な理由があるのではなかろうか。この点をお伺いしたいと思います。

○国務大臣(池田勇人君) 日本の経済を国際的に見まして立派なものにしたいというのが私の念願であるのであります。別に他意はございません。米と麦との価格の問題につきましても、日本古来の習慣に合つたようなやり方をして行きたい。(略)麦は大体国際価格になつている。米を何としても値段を上げて、それが日本経済再建のマイナスにならないように、徐々に上げて行きたいというのが私の念願であります。ほかに他意はございません。私は衆議院の大蔵委員会に約束しておりますから、ちよつと……、又来ますから……。

○木村禧八郎君 それじや一言だけ……、只今日本の古来の考え方に従つてやるのだという、その点はどういう意味なんですか

○国務大臣(池田勇人君) 御承知の通りに戰争前は、米一〇〇に対しまして麦は六四%ぐらいの。パーセンテージであります。それが今は米一〇〇に対して小麦は九五、大麦は八五ということになつております。そうして日本の国民全体の、上から下と言つては何でございますが、大所得者も小所得者も同じような米麦の比率でやつております。これは完全な統制であります。私は所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります。

   《引用終了》

まあ孰れにせよ、乱暴に『貧乏人は麦を食え』と言っているのと大した変りはない。同ウィキには、この発言を聴いた当時の池田の秘書官(同郷(広島)で昔から関係が深かった)であった、後に内閣総理大臣となる宮澤喜一(大正八(千九百十九)年~平成一九(二〇〇七)年)は、後に「ちょっと総理大臣になるのは無理じゃなかろうかなと思った」と述べている、とある。

 この文章、しかし、既にヒト・クローンにまで着手しようとしている禁断の領域に踏み込んでいるヒト種を考えれば、雑文として笑い飛ばすことなど、到底、出来ぬ。

 

「虎とライオンをかけ合わせて、子を産ませる。これをライガー、タイゴンと呼ぶ」人工的環境で作られた実在する交雑種。父親がライオン(食肉目ネコ型亜目ネコ科ヒョウ(或いはネコ)亜科 Pantherini 族ヒョウ属ライオン Panthera leo)で母親がトラ(ヒョウ属トラ Panthera tigris)の場合を「ライガー」(Liger)と呼び、父親がトラで母親がライオンの場合を「タイゴン」(Tigon)又は「ティグロン」(Tiglon)と名づけている。ウィキの「タイゴンによれば、『親となるどちらの種にも見られる特徴が発生することが知られる。母となるライオン由来の斑紋』『を持つこともあれば、父となるトラ由来の縞柄を持つこともある。本交雑種の雄に見られる鬣(たてがみ)は、ライオンのそれよりも短くて目立たず、むしろトラの雄のひだ襟に近い。本交雑種は』十九世紀『終盤にはその存在が確認されており、主に動物園やサーカス等で交配された』ものであった。『本交雑種はライガーと同じく視神経や内臓(特に腎臓、心臓関係)に先天的疾患を抱える場合が多く、また先天的な疾患以外にも骨の発育不全および骨腫、股関節の形成不全等が多発することも報告されている。それ故に短命な個体が多い。このため生命の倫理に反するとして現在は研究目的以外に掛け合わせる行為は極力控えられており、また台湾では本交雑種(ライガー含む)の作成を禁じている。飼育されている個体は中国の動物園で見られることが多い』。『一般的に雌のタイゴンが繁殖力を持つのに対し、雄の個体は不妊であるとされている(繁殖に成功した例は以下)。タイゴンの雌とライオンの雄の繁殖例はライタイゴン(li-tigon)、タイゴンの雌とトラの雄の交配による種はタイタイゴン(ti-tigon)と呼ばれる』。『世界動物記で知られる動物学者のグッギィスベルク(Guggisberg)は自身の著書『Wild Cats Of The World1975)』の中で、「ライガーやタイゴンには繁殖能力が無いと考えられてきたが』、一九四三年に『ミュンヘンのヘラブルン動物園(Hellabrunn Zoo)でライオンと島のトラの間に生まれた』十五歳の『種間雑種をライオンと交配させることに成功。その雌は体が弱かったものの成体まで成長した」と記している』。(中略)『チベットのシャンバラ自然保護区で』一九七八年に『生まれた雌のタイゴンであるノエル(Noelle)と雄のアムールトラであるアントン(Anton)との間に』一九八三年に『ナサニエル(Nathaniel)と名付けられたタイタイゴンが誕生している。ナサニエルは』四分の三が『トラであったため、ノエルよりも濃い縞模様を持ち鳴き声もよりトラに近かったという。またライオンの血は』四分の一しか『入っていなかったため、鬣は生えてこなかった。しかしナサニエルは』八~九歳の時、『癌で死亡し、母親のノエルも同じ病気で間もなく死亡した。これは本交雑種の短命な一面を物語っている』とある。因みに、名前としてはより知られるレオポン(leopon)はヒョウ(ヒョウ属ヒョウ Panthera pardus)の父親とライオンの母親から生まれた雑種である。ウィキの「レオポン」によれば、『ヒョウとライオンは生息地域こそ重なっているものの少なくとも頻繁に交尾することはない。基本的に「種」の分類は生理的分離、繁殖隔離や生態隔離などを根拠として、定義づけられている。人工飼育下であれ、レオポンが誕生したことは、両種の間に純粋な繁殖に関する生殖的隔離がないことを意味している。もちろん、前記のとおり自然界ではレオポンの誕生は全くないか非常に少ないと推定される。従って動物園でレオポンを作るに当たってはヒョウとライオンを幼い時からいっしょに育て、交尾に際しては精神安定剤を与えるなどして辛うじて成功したものである』。『統計的に有意ではないが、レオポンは一代雑種であり生殖能力はなく、レオポン同士を交尾させて子孫を作ることはできないとされる』。『現在では生命倫理の観点から、レオポンを作る試みは行われていない。しかしながら、交雑の現象やその結果については生物学的に重要な事項であり、今後の研究の進展が必要である』とある。

「ラバ」ウィキの「ラバ」によれば、奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballus(騾馬(らば)/英語:Mule/ラテン語:Mulus)は、ロバ(奇蹄目ウマ科ウマ属ロバ亜属ロバ Equus asinus)の父親とウマ(ウマ属ウマ Equus caballus)の母親の交雑種で家畜として繁殖しており、家畜としては両親のどちらよりも優れた特徴を有しているとされ、「雑種強勢」の代表例とされる。北米・アジア(特に中国)・メキシコに多く、スペインやアルゼンチンでも飼育されている。逆の組み合わせ(ウマの父親とロバの母親から生まれる家畜を駃騠(けってい 英語:Hinny)と呼ぶが、ラバの方が飼育が容易で、体格も大きい。『大きさや体の色はさまざまである。耳はロバほど長くない。頸が短く、たてがみは粗い』。『体が丈夫で粗食に耐え、病気や害虫にも強く、足腰が強く脚力もあり、蹄が硬いため山道や悪路にも適す。睡眠も長く必要とせず、親の馬より学習能力が高く調教を行いやすい。とても経済的で頑健で利口な家畜である』。『唯一欠点として、「stubborn as a mule(ラバのように頑固)」という慣用句があるように、怪我させたり』、『荒く扱う等で機嫌が悪くなると、全く動かなくなる頑固で強情な性格がロバから遺伝している。それ以外は、大人しく臆病で基本従順である』。『鳴き声は馬ともロバとも異なるが、ややロバに似る』。なお、ラバもケッテイも孰れも『不妊である。不妊の理由として、ウマとロバの染色体数が異なるからだと考えられている』。ラバは、紀元前三千年から、二千百年と千五百年との『間頃には、エジプトで知られていたと考えられている。ファラオがシナイに鉱山労働者を送る際、ラクダではなくラバで送ったという岩の彫刻が残っている。エジプトのモニュメントには、ラバにチャリオットを引かせる絵が残っており、当時から輸送に関わっていた事が分かる』とある。

「タコとイカを夫婦にして、新種がつくり出せないか」梅崎先生、それは出来ません。タコは軟体動物門頭足綱鞘形亜綱八腕形上目 Octopodiformes で、イカは鞘形亜綱十腕形上目 Decapodiformes で、同科であっても上記のような例を除いて交雑は厳しい中、何となく似て居ても(私などにはタコとイカはよく観察すると構造が悉く異なる全く似ていない生物種と見えます)目の上のタクソンである上目レベルで異なる生物の交雑は絶対にあり得ないのです。

「ウナギとドジョウ」先生、同前です。ウナギは条鰭綱カライワシ上目ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属 Anguilla ですが、ドジョウは条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科ドジョウ属ドジョウ Misgurnus anguillicaudatus で、カライワシ上目 Elopomorpha と骨鰾上目 Ostariophysi でタクソンの分離がやはり上目ですから。

「固ぶとり」「かたぶとり」。肉身がしまった肥大。

「檜山義夫」(ひやまよしお 明治四二(一九〇九)年~昭和六三(一九八八)年)は水産学者で農学博士。東京生まれで東京帝国大学農学部卒。昭和二四(一九四九)年に東大農学部教授。昭和四四(一九六九)年に定年退官、名誉教授。魚類生態学・漁業学・水産資源学を専門とし、核実験による水産生物の放射能汚染の調査も行った。著作多く、引用元は不明であるが、参照したウィキの「檜山義夫」に載る何れかの著作であろう。

「ふつうの魚で七十パーセントから八十パーセントは水分」管見する他者の記載でも平均七十五%程度とする。

だそうである。貝類は九十パーセント。

「クラゲにいたっては九十九・九パーセント」種によるが、ちょっと高過ぎる。平均九十五~九十七%というところである。

「中華料理の前菜によくクラゲが出るが、あれはこりこりしてうまい。水分はあまり含んでないように見えるが、途中で脱水作業が行われたに違いない」総合輸入販売業で中華食材も扱っている株式会社「健興通商」公式サイト内の「くらげの豆知識」にある「加工」に詳しい。

「当人の体重の三分の二は、水である」ヒトの場合、胎児では体重の約九十%、新生児では約七十五%、子どもでは約七十%、成人では約六十から六十五%(脂肪の多少から男女差があり、脂肪の少ない男性で六十%であるのに対し、脂肪の多い女性で五十%程度である)、老人では五十から五十五パーセントを水分が占めている。

「四年ほど前、クロレラ(食用藻)のことを小説に取り入れようと思って、目白の研究所に見学に行った。」「四年前」本篇は昭和三六(一九六一)年七月の発表であるから、昭和三二(一九五七)年。「目白の研究所」は次に述べる「クロレラ」の解説に出る徳川研究所のこと。「クロレラ」は植物界(若しくはアーケプラスチダ Archaeplastida 界) 緑色植物亜界緑藻植物門トレボウキシア藻綱クロレラ目クロレラ科クロレラ属 Chlorella の淡水性単細胞緑藻類の総称。ウィキの「クロレラ」によれば、『クロレラという名前は、ギリシャ語のchloros(クロロス、緑の意)と、ラテン語のella(エラ、小さいものの意)から合成された名前で』、一八九〇年に『オランダの微生物学者、バイリンクによって発見命名された』。直径210μm(マイクロメートル:一ミリの千分の一)で『ほぼ球形をしており、細胞中にクロロフィルを持つため緑色に見える。光合成能力が高く、空気中の二酸化炭素、水、太陽光とごく少量の無機質があれば大量に増殖する』。本邦では昭和四(一九二九)年に『東北帝国大学(現・東北大学)教授の柴田萬年がクロレラの純粋分離に成功』、敗戦後の昭和二四(一九四九)年にはGHQなどから『東京大学教授の田宮博にクロレラの大量培養の要請があり、翌』『年、徳川生物学研究所』(目白にあった尾張徳川家第十九代当主で侯爵で植物学者でもあった徳川義親(明治一九(一八八六)年~昭和五一(一九七六)年)の私邸内に彼が設立した民間の生物研究所。昭和四五(一九七〇)年三月に閉鎖された)に於いて『屋外大量培養を行い、成功している』。乾燥物としての『主な成分は』、蛋白質四十五%、脂質二十%、糖質二十%、灰分十%で、『その他にビタミン類やミネラル類を含む』。『たんぱく質含量が高いため、未来の食料資源のひとつとして培養や研究が行われた時期もあった。大量培養ができるようになった』一九六〇『年代以降は、健康食品として販売されているが、「免疫能を向上させる」などの効能については、人間に対する有効性を示す信頼できる臨床データはまだ不十分である。基礎研究で抗ウイルス、抗ガン、免疫賦活、糖尿病予防の各作用が認められるが、ヒトの体内では不明』。但し、『高血圧と高コレステロール血症、肝機能改善のデータ』はある。一方、過去には『アレルギー症状を起こしたという報告もあ』り、また、『クロレラに多く含まれるクロロフィルは、分解の過程で光過敏症の原因となるフェオフォルバイトを副生するため、日本ではフェオフォルバイト含有量の上限が定められている』。さらに、ビタミンKが多く含まれていることから、『大量に摂ると抗血液凝固剤ワルファリンの効果を減じる恐れがある、細胞壁が強固なために消化吸収率が悪い』『などの指摘もある』とある。

「石油から牛肉をつくる」所謂、「石油蛋白」で、石油が安価であった一九七〇年以前には確かにあったが、昭和四八(一九七三)年の第一次石油ショック以降、石油が高騰して問題にもされなくなったものと思われる。牛肉のように成型して同様の味と歯応えを出すには恐ろしくコストがかかるであろうし、梅崎春生の言うようには現行、そのようなものが流通しているという話は全く、ない(大豆蛋白なら非常に普及はしている)。]

2016/07/27

芥川龍之介 手帳4―3~7

《4-3》

A――B

 A, completely defeated and cowed

 B, too desolated

[やぶちゃん注:「completely defeated and cowed」完膚なきまでに敗北し、そして恐れをなして。「too desolated」同様に心細くて侘びしい。]

 

a King’s Tragedy

○驅逐艦おぼろ 薄暮 大港 地引網がスクリウへかかる 鎌ヲ棒につけてかく とれず 船長(大尉)士官室で襯衣一枚になる 「これで大丈夫だ」機關長(中尉)「五分しか持ちません」爭ふをハツチより水兵ら見る 或一等兵曹來る(外にて)忽水中に入る ヂヤツクナイフにて惡靈の如く切る 十分間硬直 ボイラアルウム(入港後間もなければ暖なり)へ入れふとんにてこする 正氣を得

[やぶちゃん注:該当する作品はない。芥川龍之介の軍艦を舞台とする作品は孰れも反軍的で皮肉なものばかりだが、このストレートな汗臭いミリタリー・ストーリー(以下のメモを見ると、この場面に限ってかも知れない)、ちょっと読んでみたかった気もする。

「驅逐艦おぼろ」龍之介の仮想軍艦。しかし実は日本帝国海軍には一等駆逐艦「朧(おぼろ)」が実在する。但し佐世保海軍工廠で建造されたそれは昭和四(一九二九)年起工で、翌年進水、即ち、芥川龍之介自死以降のことである。因みに、実在した「朧」は日中戦争・太平洋戦争で活躍したが、昭和一七(一九四二)年十月、弾薬輸送の目的で横須賀を出航、キスカ方面へ航海中の同月十七日、キスカ島の北西三十海里の地点でアメリカ陸軍航空軍の爆撃を受け、被弾により操舵故障となり、輸送中の弾薬に誘爆して沈没している(ここはウィキの「朧(吹雪型駆逐艦)」に拠った)。この艦は「大正十六年度」(結局、昭和二(一九二七)年となる)から「大正二十年度」(同前。昭和六(一九三一)年)度までの「五か年計画」によって二十七隻建造された内の、駆逐艦十五隻の中の一隻であるものの、その将来の艦名を芥川が知り得た可能性は低く、全くの偶然であろう。]

 

○その官位 時刻


     
past

○艦ノ命<

     
 Future

 

《4-4》

機關ノ下士 旅順港外よりかへる三笠艦上 副長點檢前便所へ行く男と共に行く 甲板士官にとらへらる 「後甲板に立て」「善行賞を奪ふもよし 進級が一年おくるるもよし」立つ 「部下に命令し殘したることあり」 去りて遺書を書く かへる 十二听砲側 月明 戰鬪中故スタンシヨンなし 突然入水す 大混亂 三笠信號す 朝日敷島皆とまる 探照燈交照見えず

[やぶちゃん注:明らかに、自死直前に発表している「三つの窓」(昭和二(一九二七)年七月一日『改造』)の「2 三人」の具体的構想で、前半部は酷似する(リンク先は私の古い電子テクスト)。同作の部隊となる戦艦は冒頭、『一等戰鬪艦××』と、恐らくは龍之介自身によって伏せられてあり、排水量も『二萬噸』(「三笠」は一万五千百四十トン)とするものの、『五隻の軍艦を從へながら』、『勝利の後だけに活き活きとして』『鎭海灣へ向つて行つ』ているという描写(鎮海湾は現在の大韓民国の慶尚南道南部海岸にある天然の良港で、明治三三(一九〇〇)年に日本が買収、日本海海戦に際しての連合艦隊集結地となり、その後も軍港として使用された)は明らかにこの『一等戰鬪艦××』は「三笠」をモデルとしていると一応は考えてよかろう。なお、私は、同作の「三 一等戰鬪艦××」の『一等戰鬪艦××』は芥川龍之介自身の、また、その傍に停泊していて『火藥庫に火のはいつた爲に俄かに恐しい爆聲(ばくせい)を擧げ、半ば海中に橫になつてしま』(この事故箇所はやはり「三笠」の借用である)う『一萬二千噸の△△』は、龍之介自死の前に精神異常を起こして発狂状態になり、龍之介らが精神病院に入院させた畏友宇野浩二のカリカチャアであると、一部諸評者が指摘される以前から感じてもいたことは、ここで申し述べておきたい。

「三笠」言うまでもなく、日露戦争で連合艦隊旗艦を務めた大日本帝国海軍の前弩級戦艦(ぜんどきゅうせんかん:戦艦の初期形態を指し、一八九〇年代中頃から建造が始まり、弩級戦艦が登場した一九〇六年までの期間に建造された戦艦群を指す)「三笠」で、イギリスに発注され、建造された敷島型戦艦(後の「敷島」の注を参照)の四番艦。明治三三(一九〇〇)年十一月進水、明治三五(一九〇二)年三月にイギリスのプリマスを出港、スエズ運河経由で五月に横須賀に到着している。当時は世界最大級の戦艦であった。同艦は日露戦争終結直後の明治三八(一九〇五)年九月に佐世保港内で後部弾薬庫の爆発事故のために沈没したが、明治三九(一九〇六)年に浮揚され、佐世保工廠で修理を施し、明治四一(一九〇八)年四月に再び、第一艦隊旗艦として現役に戻っている。第一次世界大戦では日本海などで警備活動に従事し、その後はシベリア出兵支援に参加した。大正一〇(一九二一)年九月には一等海防艦(旧定義で軍艦籍のままで近海・沿岸の防備に従事する艦)となり、大正一一(一九二二)年二月のワシントン軍縮条約によって廃艦が決定、翌大正十二年九月一日には関東大震災により岸壁に衝突。応急修理のままであった旧破損部位から大浸水を起こし、そのまま着底、同年九月二十日に帝国海軍から除籍された。大正一四(一九二五)年一月、記念艦として横須賀に保存することが閣議決定され、海底固定が行われた。第二次世界大戦中もそのまま保存艦として置かれたが、敗戦後の物資不足により、金属部や甲板チーク材などが悉く盗まれて見るも無残に荒廃した。その後、復元運動が起こり、昭和三四(一九五九)年に復元が開始されて二年後に完了、現在に至っている。因みに三笠は、世界で現存する唯一の前弩級戦艦である(以上はウィキの「三笠(戦艦)」に拠った)。なお、前に「旅順港外よりかへる」とあるが、「三笠」は明治三六(一九〇三)年十二月二十八日に連合艦隊旗艦となり、翌明治三十七年二月六日から日露戦争に加わって、二月九日からの旅順口攻撃や旅順口閉塞作戦に参加し、八月十日に黄海海戦に参加している。日本海海戦でロシア海軍バルチック艦隊と交戦したのは、明治三八(一九〇五)年五月二十七日~二十八日のことである。従ってこのメモの構想内時制は旅順陥落後(明治三八(一九〇五)年一月一日)の可能性が高い。

「十二听」「听」は「ポンド」(重量単位:一ポンドは五・四四キログラムで、この場合は初期の砲丸重量を指すが、古くからの通称でしかない)と読む。「三笠」は左右舷側を中心に八センチ(三インチ/十二ポンド)砲単装二十基二十門(現在の復元は十門のみ)を装備していた。

「朝日」敷島型戦艦(次注参照)の二番艦。ウィキの「朝日(戦艦)」によれば、日露戦争では第一艦隊第一戦隊として旅順口攻撃・旅順港閉塞作戦・黄海海戦・日本海海戦に参加、第一次世界大戦では第三艦隊第五戦隊旗艦としてウラジオストック方面の警備に従事、大正一〇(一九二一)年に海防艦へ類別変更され、さらにワシントン軍縮条約により、練習艦として保有が許され、兵装・装甲を撤去し、練習特務艦となった(大正一四(一九二五)年には潜水艦救難設備を設置している(『これは舷側にブラケットを設置し、これを支点として片舷に沈没潜水艦を位置させ、反対舷に廃潜水艦を置いてワイヤで結び、つるべ式に比較的少ない力で沈没潜水艦を浮上させようという原理』で「朝日」は『呉にあって潜水艦事故に備えていたが後に工作艦に改造される時にこの設備は撤去、使用する機会は起こらなかった』。また、昭和三(一九二八)年には艦上カタパルトの初試作であった「呉式一号射出機」を仮装備して日本海軍初の射出実験を行ってもいる)。昭和一二(一九三七)年、『日華事変の勃発により』、『中国での損傷艦が増加、また無条約時代に入っていたので呉海軍工廠で特急工事により工作艦に改造され』、八月に『類別を工作艦に変更』、『中国へ進出、主に上海方面で修理任務に従事した。やがて朝日工作部は陸上に移り第一海軍工作部と改称したため朝日は日本へ戻り』、昭和一五(一九四〇)年十一月、『連合艦隊付属となった』。太平洋戦争が開戦すると、「朝日」は第二艦隊配属となってカムラン湾に進出、昭和一七(一九四二)年二月に『シンガポールが陥落すると翌月には同地に進出、工作艦明石と共に損傷修理に活躍した』。同年五月、『自身の修理と北方方面への移動の為にシンガポールを出発し日本へ向かった。しかし、朝日は旧式低速』『の大型艦であったため』、『敵潜水艦の格好の目標となってしまい』、同月二十五日深夜、『カムラン湾南東でアメリカの潜水艦サーモンから雷撃され』、左舷に二発の魚雷が命中、翌二十六日午前一時過ぎ、『転覆して沈没した』。

「敷島」大日本帝国海軍の前弩級戦艦でイギリスで建造された敷島型戦艦(明治三三(一九〇〇)年から明治三五(一九〇二)年にかけて竣工したもので、同型艦は「敷島」・「朝日」・「初瀬」・「三笠」の四隻)の第一艦。日露戦争では主力艦として旅順口攻撃・旅順港閉塞作戦・黄海海戦・日本海海戦と主な作戦に参加した。その後、海防艦に類別変更され、第一次世界大戦後のワシントン軍縮会議により兵装・装甲の全てを撤去し、練習特務艦となり。佐世保港に繋留使用されていた。終戦時は推進器が撤去され、佐世保海兵団所属の練習艦として相ノ浦に無傷で繋留されていたが、昭和二二(一九四七)年に佐世保で解体された(以上はウィキの「敷島戦艦に拠る)。]

 

○その職務

 その官位

 後續艦數

 

《4-5》

Los Caprichos 1齒 2鏡の中に過去の光景を見る 3人面瘡 45678910

[やぶちゃん注:「Los Caprichos《225》にも出たが、これも決定稿「LOS CAPRICHOS(ロス・カプリショス)」(大正一一(一九二二)年一月)のそれとは一致しない。ただ現行のそれが七つの挿話構成であるものが、当初は十章を考えていたものと思われる。]

 

   沙金―太郎―次郎

○<          >

   老爺―老婆―阿濃

[やぶちゃん注:「偸盗」(大正六(一九一七)年『中央公論』)の構想メモ。]

 

《4-6》

Tolstoi の小説中の人物の如くしか行動出來ぬ男が Tolstoi 書を與へて牛耳るもの

[やぶちゃん注:或いはこれは《3―16》に電子化した、近松門左衛門への手紙と言う体裁で、自分はまさに近松の心中物によって人生を支配されて来てしまったと批判展開する未定稿「河内屋太兵衞の手紙」の設定を近松からトルストイに移す構想ではあるまいか?]

 

criminal crime を白狀する その crime 小なりとて輕蔑され憤慨しだんだん大袈裟な法螺をふくに至る

[やぶちゃん注:「鼠小僧次郎吉」(大正九(一九二〇)年一月『中央公論』)の構想メモか。]

 

○運命のよすぎるのに壓迫される人 運命を求めて得ざる人 戰國時代

[やぶちゃん注:固有名詞の一つでも書いて呉れていたら、同定出来そうな気はするのだが。]

 

○⑴旅行せず旅行案内を書く人 ⑵作家の Egoism 魂を一卷の本ととりかふ。Allegorical story 哲人女の evil を説く 女に落つ 即ち女を眞に強しと知る

[やぶちゃん注:「旅行せず旅行案内を書く人」偽書ばりのそれには興味が大いにある。「Allegorical story」寓話。]

 

Shoes―polish human skin a scene at a station

[やぶちゃん注:ハイフンでなく長いダッシュであるのが気になるが、「靴磨き」「人間の皮」「駅の場面」というのは日常に潜む怪異を感じさせて惹かれる。]

 

○光る soup 毒殺を計り燐を皿中に入る 停電 皿光る 夫知る

 

《4-7》

○生月(near Hirato

 Recording of old K 慶應――明治元年 shidochi 浦上の church(踏繪の懺悔の爲多くの人々子を大工左官として立つ)悔みの會 大浦(文久) 踏繪(病人には足につく 赤子もやる)

[やぶちゃん注:「生月(near Hirato)」とは現在の長崎県平戸市内に属する平戸島の北西にある有人島である生月島(いきつきしま)のことであろう。ウィキの「生月島」によれば、『戦国時代に、生月島南部の領主で平戸松浦氏の重臣だった籠手田安経がキリスト教(カトリック)の洗礼を受けてキリシタンになり、その後イエズス会宣教師のガスパル・ヴィレラやルイス・デ・アルメイダらが生月島で布教をおこなって』約二千五百人の島民のうち、八百人ほどが『キリシタンとなった』。十六世紀末には、『ほぼ全島民がキリシタンとなったが、その後の禁教令によ』って『島を離れたり』、『殉教したり、また多くの島民が隠れキリシタンとして密かに先祖から受け継いだ信仰を維持する道を選んだ。現在は、島内に』二ヶ所の『カトリック教会があるが、いまも潜伏時代の隠れキリシタンの信仰形態をそのまま受け継いでいる人も多くいる』とある。なお、島の名は『遣隋使・遣唐使の時代』、『中国から日本へ帰国する旅人が、船上からこの島を見つけると、無事に帰ってこられたと安心してホッと息をついたことから、といわれている』とある。

shidochi」はイタリア人カトリック司祭で江戸中期の日本へ潜入して捕らえられ、茗荷谷(現在の文京区小日向)にあった切支丹屋敷に幽閉されてそこで亡くなったジョヴァンニ・バティスタ・シドッティ(Giovanni Battista Sidotti 一六六八年~正徳四(一七一四)年)のことであろう。

「踏繪の懺悔の爲多くの人々子を大工左官として立つ」マリアの夫にしてイエスの養父ナザレのヨセフが大工であったこと、迫害によって教会が打ち壊されても、必ず子孫がそれを手ずから再建させられるように、という謂いであろう。]

 

 

○西中町の教會 stained glass 黃 綠 紫 赤 木の柱 アーチ 疊 男一人 外 柑橘類 泰山木 梧桐 屋根靑し 時計 シツクヒ落ちて煉瓦出づ

[やぶちゃん注:「西中町の教會」明治二九(一八九六)年創立の長崎市西中町天主堂(現在のカトリック中町教会)のことであろう。大浦天主堂・浦上天主堂と併せて長崎三大教会の一つとして知られた。

「文久」元号ならば一八六一年から一八六四年であるが、どうもこの構想メモ、時制がバラバラで全体像が全く霧の中である。]

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   屍、不淨に哭く

    屍哭不淨(しかばねふじやうをなく)


Sikabnehujyouwonaku

羽州の最上川に始て至る、水鳥よめる名所也。越えて行くかた五町計の小家(こいへ)によりて煎茶(せんじや)乞ひ、晝飯(ひるいひ)のしたゝめする。家の主は四十(よそぢ)計りの男、此の者の母と覺しき、七十餘りの老尼、口とく、とはず語りして、旅僧はいづこよりいづくへ通り給ふと、諸國を修行(すぎやう)して、廣く國々をめぐり侍る。扨は珍しき事も怖しき目にも多く逢ひ給はん。されば、家なき時は草に臥し、木の根を枕にあかすといへど、かはりたる事もなしといへば、老尼、聞きて、さほど山野にさへ怖しき事のなきに、いかなれば普光寺(ふくわうじ)のばけ物は、里といひ、しかも、たとき御寺に住む事、ふしぎさよ、と子に向ひ語る。夫れはいかなる事ぞ、普光寺とはいづくぞ、と、とへば、あるじ答へて、此三町東に、海道より一町右へ引きこみたる寺の侍り。慈覺大師の開基にて、戒定惠(かいぢやうゑ)の法燈(ほふとう)をかゝげ、念佛三昧の鳧鐘(ふしよう)、古來、久敷(ひさし)く斷絶なく、都鄙(とひ)勸學の僧侶、群(ぐん)をなし集まる。始めの御堂(みだう)の建所、方量(はうりやう)あしきに依つて、所をかへ、再興する。此の造立(ざうりふ)の後、御堂と門との中間に、夜々(よなよな)、妖し怖しき聲ありて、唸く事、止む事なし。兒(ちご)、喝食(かつしき)のごときは、氣を取りうしなひ、おとなしき僧、法師なども、一度(たび)聞きて、二度、よりつかず。他國の者は逃げ下り、老僧、死すれば、後住(ごぢう)なく、自ら人住まぬあれ野となつて、僧法(そうはふ)ともに退轉いたし侍る、と語る。こは怪しき事をも聞きける物かな。今宵(こよひ)、其の門に居て、事のやうを見申さんといへば、母子(ぼし)打笑ひ、不敵の僧のいひ事や、いはれぬ肘立(ひじだて)、御無用さふと、むくつけなく、いひ出でたる。尤も左には侍れど、其ものに命を奪はれば、それ迄の報(はう)、命(めい)生(い)きて歸らば、都づと、物語りのたねにせんと、すぐに、かの寺に行きてみるに、いひし如く、樞(とぼそ)おち、甍(いらか)破れて、霧の煙(けぶ)り、月の燈(ともしび)、夜ならずとも人獨(ひとひと)りなんど、寺内(じない)に休(やす)ふべくもなし。後(うしろ)に近き山、虎狼(こらう)のふしどゝなり、妻(つま)乞ふ鹿の聲、哀れに、庭の松桂、高く。梟すごく音そへ、蝙蝠(へんふく)、枝にあらそひ、築山、さらに土(つち)穿(うが)ちて、淸(きよ)めぬ泉、藻に埋(うづ)む。昔しの名殘(なごり)みゆるに、今の哀れのいとゞしき、とかく時刻を待付けて、日も漸々(やうやう)暮れぬ。あれたる緣(えん)に平座して心をすます。案の如く、惣門(そうもん)のこなたに、哀れなる聲して、叫(いめ)き出づる。其の音(おと)、えもいはれず、骨髓に透(とほ)つて、物悲し。形ちや有る、と見まはすに、更に正體(しやうたい)もなし、たちて聲を求め行くに、大きなる※子(いてう)の木のもとなり[やぶちゃん字注:「※」=(へん)「木」+(つくり)「銀」。]。爰にも猶、物の形ちはなくて、此の地中に叫(うめ)く聲、有り。心をすまし、耳を地につけて聞くに、叫(うめ)く計りにはあらで、言語(ごんご)おぼろに、爰を掘出して塚をかへよ。何ぞ淸淨(しやうじやう)の行者(ぎやうじや)をかく迄、穢(けが)すぞ、といふ也けり。扨、いかなる人の、かく地中に在りて、いふぞ、と問ふ。答へ、我れは羽黑の行人(ぎやうにん)、一生不犯(ふぼん)の山伏なり。此の道を過ぐるとて、卒病(そつびやう/ニハカヤマヒ)の爲に、むなしく成りしを、當寺の衆僧(しゆうそう)、哀れをかけて、淸き所に土葬し、一基(き)の主(あるじ)となし、卵塔(らんたふ)いみじく、玉垣(たまがき)あざやかに、朝暮(てうぼ)誦經(ずきやう)の手向(たむけ)を請けて、無緣の厚恩をよろこぶ。爰に、此の堂、十餘年已前、再興によつて、昔しの地を轉ずる時、此の塔婆、諸用の障りとなるによつて、取除(とりの)けらる。其の後、功なり、造營すむといへども、元來ゆゑなきものゝ墳墓の跡、たれいひ出でゝとりたつる人なく、自(おのづ)から出入の道となつて、便痢(べんり)の不淨を流す。此の愁ひ、屍(かばね)にとほつて苦し。扨こそ聲をたてゝ叫(うめ)くなれ。なほ此の聲の後、化生と號(なづ)け、僧俗ともに不ㇾ住、讀經(どくきやう)の聲さへ絶え侍る。願はくば、爰を穿(うが)ち、淸淨(しやうじやう)の地に易(か)へてたべ、と、いと哀れにかたる。祇、問ふ。命あつて、身、全(まつた)き程社(こそ)、清不淨(しやうふじやう)もあらめ。何ぞ一つの息絶(いきた)え、ふたつの眼(まなこ)とぢて、魂魄、東西にちらば、何か、其の恨み殘らん。夫(そ)れは穢體(ゑたい)に執(しふ)をとゞむるといふ物なるべしと、地中に答ふ。理(ことわ)りなれ共、去る仔細の侍る。我れ、一生の内、深く誓ふ事有り、命、一度終ふる共、今の骨肉は其の儘にして、二度(たび)、大名高家(だいみやうかうけ)に生(しやう)ぜんと、丹誠(たんせい)に祈し執(しふ)、身をはなれず、たゞちに生きて有るがごとしと思へば、又、正しく死せり。たとへば、枕上(ちんじやう)に夢見るがごとし。手足、不動(うごかず)して、一心、物に苦み、身を痛(や)むと、又、問ふ。然らば不淨に不汚(けがされざ)る先に、今生に生れざるやと、答へ。一生修(しゆ)する所の戒行、不足あり。是をつくなふに、五十年、地中に勤行(ごんぎやう)する事、有り。四十年にみたざる内、此の不淨に汚さるゝ故に、愁ㇾ之(これをうれ)ふると、又、問ふ。大名高家に生(むま)れんと誓ひて、其の後の生所(しやうじよ)をしれるやと、能くしれる事なれども、あからさまに語るよしなし、只、早く人に傳へ、爰をほりうつし給へ、といひて、此ののちは問へども、いらへずなりぬ。とかくの問答に夜もいたうふけぬ。經よみなどして夜の明くるをまつ。野寺の曉(あかつき)の鐘なりて、鳶(とび)、烏(からす)のしのゝめを告ぐる頃、門外に人音(ひとおと)多く聞(きこ)ゆるを見れば、晝(ひる)かたりし宿のあるじ、里人、大ぜいかり集めて、我が死生(ししやう)を見に來(きた)る也。我が別事なきを見て、各、肝をけし。さていかなる事か侍る、と問ふ。しかじかの問答(もんだふ)しぬ。かしこをほりてみ給へといふに、こはあやし、扨は、さる事か、と、農具を以て土をうがつに、五十計りの山伏、面色損ずる事なく、ねぶれるごとく、頭巾(ときん)、鈴かけさながらに、念珠(ねんじゆ)、くびにかけたり。聞くに久しく土中に在りて、堅固に身體(しんたい)の其の儘なるぞ、ふしぎなる、とある山岨なる地を掘り、卒都婆(そとば)、新(あらた)にたて置きぬ。此の後(ご)、更にあやしき聲たえて、又もとのごとく、僧徒、入院(じゆゐん)し、佛法の地となりぬ。

 

 

■やぶちゃん注

 最後の出土した遺体の描写の、

「頭巾(ときん)、鈴かけさながらに、念珠(ねんじゆ)、くびにかけたり」

とある箇所は、底本では実は、

「頭巾(ときん)冷(すゞ)けさながらに念珠(ねんじゆ)くびにかけたり」

となっているのであるが、どうも何かおかしい。「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)を確認してみると、ここは、

「頭巾(ときん)鈴(すゞ)かけさながらに念珠(ねんず)くびにかけたり」

となっており、この「鈴(すゞ)かけ」というのは修験者が衣服の上に着る麻の衣を指す「篠懸衣(すずかけごろも)」のことに違いなく、底本のこの箇所は私が感じた通り、おかしいことが判明した。されば例外的に「西村本小説全集 上巻」を参考に、かく本文を校訂した。

 なお、底本では最後に三行空けて「宗祇諸國物語卷之一」とある。

 さてもこの話、宗祇が廃寺の由来を聴き、そこを訪れ、その荒れようを描写する辺りまでの前半部分は、後の上田秋成の「雨月物語」の「靑頭巾」の構成と描写かなり有意に似ている(リンク先は私の訳注電子テクスト)。更に後半の執着によって生けるがままに行者が出土するというシーンは、やはり秋成の「春雨物語」の「二世(にせ)の緣(えにし)」(但し、同作の「入定(にゅじょう)の定助(じょうすけ)」は本当に生きていて後日談が続くというトンデモ・ストーリーである)にも似ている(リンク先はやはり私のもの)。秋成は明らかに、これらの種元として、この話を使用していると考えるのが自然である。なお、この即身成仏絡みの怪異譚は私のすこぶる偏愛するもので、秋成に先行し、秋成がやはり素材としたに違いない(しかし、総てこの「宗祇諸國物語」よりも後)、

元禄一七(一七〇四)年版行の章花堂(正体不明)の「金玉ねぢぶくさ」の州雨鐘の事」

三坂春編(はるのぶ)の寛保二(一七四二)年の序を持つ「老媼茶話」の「入定の執念」

明和四(一七六七)に京都で刊行された高古堂小幡宗左衛門作「新説百物語」の「定より出てふたゝび世に交はりし事」

も、ずっと昔に原文電子化とオリジナル訳を行っている。未読の方は是非、お楽しみあれ。

 

・「普光寺」「慈覺大師の開基」秋田県内に同名の寺が嘗て存在したことは確認出来たが、果たしてそれがこの条件(他にもその寺の位置は最上川を越えたところ(北)と読める)を満たすかどうかはなはだ怪しい。天台座主慈覚大師円仁の開基と伝承する寺は全国に散在する。因みに彼は天台宗である。

・「戒定惠(かいぢやうゑ)の法燈(ほふとう)をかゝげ」「戒定惠」は仏道修行に必要な三つの大切なもの「三学」、悪を止める「戒」・心の平静を得る「定(じょう)」・真実を悟る「慧(え)」である。「法燈を」掲げるというのは、仏法の光明を灯火に譬え、それがこの世の闇を隈なく照らし出す、ということを象徴的に言う語である。

・「念佛三昧の鳧鐘(ふしよう)」「鳧鐘」(現代仮名遣「ふしょう」)とは具体には梵鐘や念仏に用いる小さな鉦(かね)を指すが、ここは前の「戒定惠の法燈(ほふとう)をか」かげると対になった表現で、僧がそこで仏を一心に念ずる道場であることの象徴である。

・「方量(はうりやう)」調べてみると、この語には行政上の「検地」の意味がある。ここはまさにそれである。だからこそ相応の寺院でありながら、止むを得ず、「所をかへ、再興」せねばならなくなったのである。

・「兒(ちご)、喝食(かつしき)」「兒」は「稚児(ちご)」で寺院などに召し使われた少年、「喝食」(現代仮名遣「かっしき」。「かつじき」とも呼んだ)は本来は禅寺で食事をする際、食事の種別や進め方を僧たちに告げながら給仕する役に当たる未得度の物を指すが、宗派に限らず、広く学問のために寺に預けられ、その任を務めた有髪(うはつ)の稚児(ちご)を指す。そもそもここは「勸學」の道場であるから、異なった宗派の僧が居て構わないから、禅宗僧がいてもよいのである。ここは私は、「喝食」をより上位の少年の僧見習いとし、「兒」(稚児)をそれよりも若年の下役の童子の意味で分けてとる。

・「おとなしき僧、法師」「僧法ともに」と筆者は明らかに「僧」と「法師」を区別している。順列から見て「僧」の方が「法師」よりも上位のように見受けられるが、そのような区別は本来はない。敢えて言うなら、「法師」には法体をしているが、出家得度をしていない俗人を呼ぶことはあるから、この区別や順列はおかしくはないとは言える。

・「いはれぬ肘立(ひじだて)」無茶な(或いは、余計な)気負い(或いは気勢を張ること)。

・「さふ」補助動詞「候(さふらふ)」の略。「御無用(に)候ふ」。

・「むくつけなく」「むくつけし」に同じ(「なし」は「無し」ではなく、そのような状態であることを示す接尾語である)いかにも恐ろしそうに。さもとんでもないこと、という感じで。

・「報(はう)」それはそれで私の因果の応報として決められたこと。

・「樞(とぼそ)」ここは扉の意。

・「松桂」「しやうけい」。

・「蝙蝠(へんふく)」こうもり。

・「築山」「つきやま」。

・「※子(いてう)」銀杏(いちょう)。

・「羽黑の行人(ぎやうにん)」修験道のメッカとして知られる出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)の一つ。現在の山形県鶴岡市にある標高四百十四メートルの羽黒山の修験者。

・「便痢(べんり)」厠が近かったか、低い位置にあるために下肥などが流れ下ったのであ・「化生」「けしやう(けしょう)」で、ここは「化け物」の意。

・「易(か)へてたべ」どうか、改葬して下さい。

・「社(こそ)」国訓で係助詞「こそ」。

・「つくなふ」ママ。「つぐなふ」(償ふ)で、不足を補うの意。

・「大名高家に生(むま)れんと誓ひて、其の後の生所(しやうじよ)をしれるやと、能くしれる事なれども、あからさまに語るよしなし」これは非常に興味深い発言である。この行者は既にして、修行なって輪廻して人間道に再び生まれ変わる際、確かに「大名高家」所謂、大大名或いは非常に高貴な家柄の子として転生することが決定しており、それを彼自身も確かに知っている、それどころか、具体的に何処の誰の子となるかも知っているというのである! さればこそ、この穢れた場所で供養されずにいては、その補填のための修行も満足に出来ず、何時まで経っても転生出来ないというのである! それはお前さん、おぞましき執念で御座ろうぞよ!!!

・「頭巾(ときん)」「兜巾」「頭襟」とも書き、修験道の山伏が額に被る小さな布製のずきん。黒い色が無明(むみょう)を、円形が神仏の徳の完全性を、ついている十二の襞が十二因縁を表すという。一般には黒漆で塗り固めた布で作った、宝珠形の丸く小さい形式のもので、これは大日如来の五智の宝冠を表しているという。

・「鈴かけ」注の冒頭を参照のこと。

・「山岨」「やましは(やまそわ)」山の険しい崖。ここなら山の清水が伏流し、人の糞尿の愁いは、これ、あるまいよ。
 
 画像は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング、補正したもの。

行脚怪談袋   去來伊勢參と同道の事 付 白蛇龍と成る事

 

  去來伊勢參と同道の事

   
 白蛇龍と成る事

 

此の去來もその頃世に聞えたる俳師(はいし)也。生れは洛中五條の人、住所は洛外の九條なり、去來一とせ用事有りて、紀州和歌山の城下へ至り、諸用を達し、其の後歸洛に就き、同國新宮の野邊を通りし時、傍の木陰に年の頃廿四五にして、瘦枯れたる男色靑ざめたるがよろめき出で、去來を招く、去來何用にやと立寄りければ、彼の男告げて申しけるは、某儀は當國堺島邊の者に候が、誠や日本に生れ、神の惠みを請けながら、此のまゝ邊鄙に一生ををへんも殘念の事かな、何卒近國にてもあれば、伊勢太神宮へ參詣仕度く、頻りに思ひ出で候まゝ、四五日以前古鄕を隱れ出でたれぞも、連(つれ)とても無之(これなく)候へば、唯一人此の所へ參り候處、前世にて惡行や强かりけん、神も我等の參詣を悅び給はずやらん、五體甚だしびれ、一足も步行(あゆみ)ならず、依つて詮方なく此の木の陰に打ちふし、罷在り候て、何卒旅人にても通り給へかし、此の事を告げて如何樣にも賴み申すべしと、昨日晝頃よりけふ迄相待つといへども、折りふし一人も人通りなし、此の故に食事とてもならず、只今迄苦しみ居る所、貴所樣(きしよさま)の御通り有る事、誠に我等が爲めに幸ひ也。右の次第に候得ば、近頃の御賴みには候得共、何卒馬なりとも、駕(かご)なりとも御雇ひ下され、伊勢古津(ふるつ)の岸まで御送り給はれかし、たとひ身は叶はずとも、何卒伊勢へ參詣仕りたし、何にても人一人御すくひ被下候儀、偏へに賴み入ると願ひける。去來は是を聞き、最も慈悲深き者なりければ、氣の毒なる事に思ひ、則ち答へて申す樣、如何樣人家なき所にての急病、我等ごとき旅人(りよじん)にても賴み給はずんば、誰れも世話をなす者有らざるべし。殊更左樣の病氣ながら、是非伊勢ヘ參られんとの志し。げにも殊勝に存する也。心安かるべし、我れ等駕をやとひ來り、勢州吉津迄送るべしと、わざわざ二三里も元の道へ立歸り、駕をやとひて來り、彼の男を乘せ、送り申すべしと云ふに、かの男甚だ悅び則ちかごに乘りて、紀州を越えて志摩の二郡を越え勢州へ入り、程なく古津へいたりける。この古津と云へる岸(きし)は、南は廣廣としたる滄海、北は吉野へ續く大山也。大木(たいぼく)生ひ茂り岸石(がんせき)そびえたり。東は伊勢へ出でる山道、西は我が來る道也。此の物すごき所に至りて、彼の男駕より出で、去來に向ひて申す樣、忝なや我が望みの所へ參りたり、旅人には是より御歸下さるべし、此の二三日の御禮は言葉にも盡しがたく、然れども一禮すべき便りなし、此の禮は末々永く謝し申すべしと云ふ。去來心えぬ事と思ひ、其の者に向つて申す樣、此の所はうみ山の間にて人家とてもなし。殊更物すごき所なり。然るを貴殿いづれを便りに落付(おちつき)給ふと問ふ。其の時かの男答へて申す樣は、御不審は御尤も也。今は何をか包み申すべき。我れ誠は人間にあらず、實は山野にやどる蛇なり。我れかりそめに生れ、今年今月今日まで、既に一千年を經る、此の故に天帝より命(めい)を受けて、此度天上に至り變じて龍と成り候、扨また貴公を御賴み申し候は、惣體ケ樣に出化(しゆつけ)とぐるには、先づ山に百年、海に百年、その後人道(じんだう)に交らずんば、出化とげがたし、我れ二百歲が間海(さんかい)には住みたれども、未だ人道に交らず、此のゆゑに伊勢參と變じ、かりにその許に便り、人道にまじはる所なり。すでに今人間海山三つの執行(しゆぎやう)とげたれば、出化仕るなり。時(とき)至れば片時も相待つ事成りがたし、貴所かまへて驚き給ふ事なかれ、我れ今こそ雲井(くもゐ)に登り候と、云ふ詞(ことば)もをはらずして、彼のをとこの姿は消えて一つの白蛇とヘんじけるが、其の蛇南のうみ岸へ至り、うねりを返し頭を上げて、遙か空を詠むれば、不思儀やこはいかに、さばかり晴渡りし空、暫時が間に黑雲おほひて、四方一時にくらやみとなりて、しんどうはげしく、風雨おびたゞしくおこり、その物すさまじき事云ふ計りなく、一むらの黑雲白蛇のうへにおほひけると見えしが、たちまち虹のごとくなる姿となり、海底(かいてい)波をかへし、雲井遙かによじ登る。黑雲(くろくも)風に隨つて段々に晴渡り、南の空のみ稻妻てんだうしてすさまじき氣色なり、駕の者共恐れて、かたはらに伏しまろび、去來もおどろきねぶりいたりしが、漸うありて目をひらき、さてはかの白蛇たゞ今こそ通力を得て、天上なしたると。遙かに見やれば、消え行く雲に稻妻のひらめくを見る、

  稻妻や雲にへりとる海の上  去來

と口ずさみ、奇異の思ひを成して其の處を立ちさりしが、實(げ)に此の龍の雲井にて守りん、去來次第々々に幸ひを得て、有德(うとく)の身となりくらせしと語り傳ふ。 

 

■やぶちゃんの呟き

・「古津」「紀州を越えて志摩の二郡を越え勢州へ入り、程なく」着いた、その「古津と云へる岸(きし)は、南は廣廣としたる滄海、北は吉野へ續く大山也」とロケーションを示すが、これに見合った場所で「古津(ふるつ)」という地名を現認出来ない。識者の御教授を乞う。

・「おどろきねぶりいたりしが」驚いて目を瞑っていたが。

・「稻妻や雲にへりとる海の上」実は、底本では、この句は、

  稻妻や雲にへとる海の上

となっている。調べてみると、この句は(またしても、である)去来の句ではなく、「續猿蓑」の「龝之部」に載る、

 

  稲妻

独いて留守ものすごし稲の殿     少年一東

稲妻や雲にへりとる海の上       宗比

明ぼのや稲づま戾る雲の端       土芳

いなづまや闇の方行(ゆく)五位の聲  芭蕉

 

の「宗比(そうひ)」なる人物(事蹟不詳)の句で、「へ」の脱落であることが判った。されば特異的に原文の「へとる」を「へりとる」と訂した。

オリンピックより魚の誘致   梅崎春生

 

 四つの島に人がひしめき合い、やがて一億を越そうとしている。それらがレジャーブームに乗って、精力的に右往左往するから、どこへ行っても人影の見えない地帯は、ほとんどない。日本全土が箱庭化するのも、時間の問題だと前号に書いたが、戦後なぜ急激に人口がふえたのだろう。

 曰(いわ)く。予防医学の発達普及。栄養補給の強壮剤。原因療法剤としての抗生物質の発見。その他の条件がつみ重なって、人間はなかなか死ななくなった。乳幼児の死亡率も激滅した。ふえるなと言っても、ふえるのは当然のことだろう。

 昔、徳川時代までは、ふやそうと思っても、ふやすわけには行かなかった。食糧が限定されていたからである。日本中で生産する食糧が、二千万人分ときまっておれば、人口は二千万を越せない。越すとその分だけ、皆の分がへってしまうのだ。

 今は鎖国時代でないから、輸入その他によっておぎないはつけられるが、原則としてはその関係がまだ働いていると考えられる。

 主食としての米や麦。副食物として野菜、果実、牛豚鳥(卵や乳製品)、それから海や川の魚類。以上のほとんどが、品種改良、農薬の発達、飼育方法の改善などで、生産が飛躍的に上昇したが、魚類の方だけはほとんどそれがなされていない。

 何故だろうかと思う。

 昔は海に魚がうようよいて(今でもうようよいることはいるが)ちょいと岸から、あるいは舟をこぎ出せば、いくらでも取れた。飼育したり、品種改良したりする必要はなかった。だから日本人は、フィッシュイーターと呼ばれるほどもりもりと魚を食べ、蛋白源として愛用して来た。

 何だか話が大上段にふりかざした調子になって、申しわけない。

 つまり、私は魚が大好きなのである。豊富な種類の魚を安い値で買い、たらふく自分も食べ、他人にも食べさせてやりたいと、いつも思っている。

 ところが今魚屋に行くと、決して魚は安くない。食えない部分、頭や骨や鱗(うろこ)や尻尾(しっぽ)、それを取り除くと、たいへん割高についていて、おいそれと手が出せない。

 私は福岡市の生れだが、子供の時、魚なんてものは、原則として買うものじゃないと思っていた。おやじが魚釣りが大好きで、一度出かけると、一貫目ぐらいは釣って来るし、子供の私だって放課後浜に行って糸を垂れれば、晩御飯のおかず程度はけっこう取ることが出来た。

 家から一町ほど離れたところに漁師町があり、地引網の手伝いをすると、小さなバケツにいっぱいぐらいの魚をただで呉れたものだ。それほど魚族の影は濃かったのである。まれに魚屋から買っても、たいへん安かった。それでも私たち子供は、

 「ただで取って来たものを、金を取って売るなんて、いい商売だなあ」

 と憤慨したり、うらやましがったりしたものである。

 戦中戦後になって、この事情が一変した。

 海岸や川っぺりに工場がたくさん出来て、遠慮なく廃液を流す。人口がふえれば、人家もふえる。人家からも芥(ごみ)が流れ出る。いくら魚だって、環境の悪いところには住みたくない。沖へ沖へと遠ざかる。

 魚食い人口がふえたのに、沿岸の魚影はうすくなったから、いきおい大型船を仕立てて、遠方に出かけて行く。どこへでも行くというわけには行かない。

 戦後李ラインというのが出来たし、北洋漁場のこともある。南方はまだあけ放しのようだから、赤道を越えてマグロを取りに行ったりして、船代、油代、人件費などが魚の値段に加算される。

 大衆魚というのもなくなった。イワシ、サンマ、ニシンなどは、戦前下魚(げざかな)と称して、軽んぜられていたが、戦後俄然位があがって、準高級魚になってしまった。カズノコなんか、今や宝石あつかいである。

 どうも振り方が無計画で、荒っぽ過ぎるのじゃないか。

 魚がいるところに船を乗りつけて、ごそっと取って来るのは、農業で言えば略奪農法であって、もっとも原始的な方法である。

 やり方は原始的だが、技術は高度化していて、近頃では電流を使ったり空気泡のカーテンをつくったり、それに最近は網を使用せず、ポンプで魚を吸い上げることもやっているそうだ。電気掃除器やバキュームカーと同じ手口で、魚をごーっと吸い上げて、水だけ元に戻す。

 いくら魚が多いと言っても、そんな取り方をされては、根絶やしになるおそれがありはしないか。

 もうそろそろ、魚を飼育する時代が来ていると思う。川魚はわりにその点進歩していて、ウナギ、スッボン、川マスなどの養殖は、早くから行われている。天然ウナギがどうのこうのと、御託(ごたく)を並べるのは、時代遅れの古くさい人士だけで、大衆はよろこんで養殖ウナギのかば焼きに舌つづみを打っているのである。

 海魚にしても、小規模ながら養殖が行われているようである。静岡ではイカ、瀬戸内海や玄海でタイなどを、計画的に養殖している。でも海魚はあちこち泳ぎ廻るから、養殖もなかなかむつかしいし、はかが行かない。

 それよりも日本近海を整備して、各種海魚の誘致運動を行なったらどうだろう。つまり魚のすみやすい条件をこしらえて、日本近海に行けば、おいしい餌にありつけるし、休憩する場所も豊富にあるということになれば、魚も定着するだろうし、太平洋を回遊する性質の魚には、

「餌も豊富で、宿も快適な日本近海へ!」

 と、言葉やポスターで宣伝するわけには行かないが、そんな設備がととのえば、魚の口から口ヘ(?)つたわって、回遊のコースとして日本近海にやってくることも考えられる。つまりは日本近海を魚族のパラダイスにするのである。

 オリンピックを誘致するより、この方がどのくらい有益で、国民にとってありがたいか、考えなくても判ることだ。もちろんこれは個人や民間団体でやれる仕事ではない。国家的規模において、巨大な国費を投じて、やるべき事業である。

 これは禿山に植林するのと同じで、やったからすぐに効果があがるというものではないが、数年後、数十年後にはかならず実を結んで、日本近海には昔日と同じく、魚がうようよという状態になる。そうすれば李ラインを越して警備船に追っかけられたり、ビキニ附近までマグロを取りに行ったりする必要がなくなる。

 観光日本などと称して、人間を寄せ集めるのもいいが、魚の方にも思いをいたしたら、如何であろうか。

 それから、品種改良について。現在のイワシやマグロが、千年前のイワシやマグロと同じ形で同じ栄養価しか持っていない。そんなばかな話があるだろうか。

 果物でも野菜でも、形態や栄養価で大飛躍しているのに、魚だけが旧態依然というのは、あきれた話であると思うけれども、紙数がつきたのでそれは次号にゆずる。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第六十五回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年七月二十三日号掲載分。この一篇、諸々の意味で梅崎春生の主張はまっこと、正しい。

「オリンピック」昭和三九(一九六四)年十月十日(後の体育の日)から十月二十四日にかけて日本の東京で開かれた第十八回夏季オリンピックである東京オリンピックは、この二年前、既に昭和三四(一九五九)年五月二十六日に西ドイツのミュンヘンで開催された第五十五次IOC総会において欧米の三都市(デトロイト・ウィーン・ブリュッセル)を破って開催地に選出されていた(先立つ昭和二九(一九五四)年(年)、昭和三五(一九六〇)年夏季大会開催地に立候補したが、翌昭和三〇(一九五五)年の第五十次IOC総会に於ける投票でローマに敗れた経緯がある。参照したウィキの「東京オリンピック」によれば、誘致に先立つ昭和三二(一九五七)年、当時の『日本水泳連盟会長を務めていた田畑政治は、オリンピック招致費用を』二〇一三年現在の価格に換算すると千二百億円相当も『掛かる事を懸念していた岸信介首相に、観光収入も見込めると直談判した』とある)。『開催の決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」が組織され、国家予算として国立競技場をはじめとした施設整備に約』百六十四億円、大会運営費九十四億円、選手強化費用二十三億円を『計上した国家プロジェクトとなった』とある。

「日本全土が箱庭化するのも、時間の問題だと前号に書いた」「うんとか すんとか」前回分観光づいて乞食的(の最後)を参照されたい。

「戦後なぜ急激に人口がふえたのだろう」日本の総人口は敗戦時の昭和二〇(一九四五)年で71,998,000人であったものが、以後、昭和二五(一九五〇)年に84,115,000人、昭和三〇(一九五五)年に90,077,000人、本篇の書かれた前年の昭和三五(一九六〇)年には実に94,302,000人膨れ上がっていて、「やがて一億を越そうとしてい」た。この記事の四年後昭和四〇(一九六五)には99,209,000人に達し(この年の七月十九日に梅崎春生は肝硬変のために没している)、九年後の昭和四五(一九七〇)年には104,665,000人と遂に一億人を突破することとなる。

「原因療法剤としての抗生物質の発見」私は昭和三二(一九五七)年二月生まれであるが、一歳半の時に結核性カリエス(左肩関節)に罹患、当時、安価になっていた結核治療に最初に用いられた抗生物質ストレプトマイシン(Streptomycin)のお蔭を以って四歳半で固定治癒した。

「乳幼児の死亡率も激滅した」乳幼児死亡率ではないが、昭和二五(一九五〇)年の合計特殊出生率(一人の女性が一生に産む子供の平均数)は3.65で、新生児(生後四週間未満)の死亡数は64,142人、同乳児(生後一年未満)で140,515人であったが、昭和三六(一九六一)年では合計特殊出生率1.96と有意に減じた一方、新生児死亡数は26,255人、同乳児で45,465人と激減している。

「一貫目」三・七五キログラム。

「一町」百九メートル。梅崎春生の生家は福岡市簀子(すのこ)町(現在の中央区大手門)にあり、博多湾の湾奧直近であった。

「李ライン」李承晩ライン。昭和二七(一九五二)年一月十八日に韓国初代大統領李承晩の海洋主権宣言に基づいて韓国政府が一方的に日本海及び東シナ海に設定した軍事境界線で、同時にその内側を排他的経済水域となし、この海域内での漁業は韓国籍漁船以外には行えず、これに違反したとされた漁船(主として日本国籍であったが、中華人民共和国国籍も含まれた)は韓国側によって臨検・拿捕・接収・銃撃を受けるなどした。銃撃によって乗組員が殺害される「第一大邦丸事件」(昭和二八(一九五三)年二月四日に公海上(推定で済州島沖二十マイルの海域)で操業中であった福岡の漁船第一大邦丸及び第二大邦丸が韓国海軍(韓国の漁船二隻を軍事転用したもの)によって銃撃・拿捕され、その際、第一大邦丸漁撈長であった瀬戸重次郎氏(三十四歳)が被弾して死亡した事件)も起きていた。

「北洋漁場」ウィキの「北洋漁業によれば、『戦後、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は日本漁船の遠洋操業を禁止したが、日本の独立が回復した』昭和二八(一九五二)年に『これが解禁され、農林省の水産庁が北洋漁業の再開を決定した。日本はアメリカ・カナダとの漁業条約を締結し、太平洋の北東部海域でのサケ・マス漁が復活した。続いて日本はソ連との漁業交渉を開始し、北方領土問題をめぐる難航を経て、日本の河野一郎農相とソ連のブルガーニン首相との交渉により』昭和三一(一九五六)年五月十五日に『日ソ漁業協定が調印された。これは当時継続中だった国交回復交渉を大きく後押しし、同年』十月十九日の『日ソ国交回復宣言調印につながった。国交回復により漁業協定も発効し』、昭和三二(一九五七)年からは『ベーリング海などの旧北洋漁業海域での操業が再開された。日本からは再び多くの船団が出港し、漁獲量や収益率が悪い沿岸・近海漁業しかできずに苦しんでいた北日本の漁民は息を吹き返したが、戦前とはソ連との力関係が逆転した新生北洋漁業は厳しい漁獲割り当て量に悩まされ、ソ連の国境警備隊やアメリカの沿岸警備隊による拿捕事件が続発した。特にソ連による拿捕は日本人漁民の拘束期間が長期化する例があり、船体は違反操業による没収処分を受ける事が多かった。数年ごとに開催される日ソ間の漁業協定更新交渉は常に操業許可水域や魚種別の漁獲高、さらには乱獲防止のための漁法を巡って難航し、時には無協定期間が発生して、北洋漁業の安定操業を大きく阻害した』とある。

「電流を使ったり」専用の電気ショッカーや鉛蓄電池などによって一定水域に電流を流して魚群に電気的ショックを与えて気絶させ、浮上させて漁獲する「電気ショック漁法」で、「ビリ」とも呼ばれるが、現在は各県の漁業調整規則などによって、有害魚種駆除の目的で許可を受けた場合以外は原則的に禁止されている(ウィキの「に拠った)。

「はかが行かない」「はか」は「捗・計・量」などと漢字表記することから判るように、仕事の進み具合や、ある作業行為をやり終えた際の入手した量を指し、ここでは歩留まりが悪いことを指す。]

2016/07/26

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   無足の蛇 七手の蛸


  
無足の蛇 七手の蛸

肥後の宇土長濱(うどながはま)に、京にてうらなく語し、荻生(をぎふ)房高といふ連歌數寄(すき)のもとに尋ね入る。主(あるじ)、悅び、實(げ)に都に在りし時、修行の志しあなるよし、誠に下り給ひけるよ、すける道も此の邊(ほと)り能き友なくて、獨吟の卷々つゞり置き侍る迄也。嬉し、年來の愁欝(しううつ)をはらさん、と、取出でゝ點を乞ふ。其の後(ご)、都鄙(とひ)の物語とりどりして、明けなば頓てまかでなん、といふに、主の云く。君、行脚の心から、公私の要用も昔のよそに聞き給ふ身の、何をいそがしとし給ふ。せめて年の半(なかば)も、と、むつましくとゞむ。いやとよ、修行のついで、おもしろければ、遠つ國の名所尋ねんと思ふ、賴みなき命(いのち)に、おほけなき長途(ちやうど)の月日、すゞろにいそぐに侍りといへど、猶、しひてとゞむ。切(せつ)の志しに三日、五日と暮し居ぬ。ある日うらゝに風靜かなる空、小船に小竹筒(こさゝえ)とり入れ、一僕(ぼく)に棹さゝせ、荻生友なひて、磯づたひに遠近(をちこち)の名所をきく、阿蘇の嶽(たけ)をあそこといへば、はだか島に風本(かぜもと)、雪の島のさむさかはゆしと、俳(ざ)れもて行。松原姬(まつらひめ)のひれふる袖(そで)を香椎の宮(みや)あり。かるかやの關(せき)あり。げに幸ひの橋、白川(しらかは)のはげしを染川(そめかは)に能くして、たはれ島をうかれありかば、かご島にもれなん、など、しどけなき化口(あだぐち)、規玖高濱(きくだかはま)も、とほしといひつゞけて、海ばた、二、三里、過ぎ行く。爰にひとつの山川(やまかは)の、海に落入る所に、二尺餘の蛇、尾の方、半(なかば)海につかりてひたひたと波をたゝく、怪しき事をする物哉と、舟さしよせてまもり居(ゐ)るほどに、いそがず、靜かならず、波をうつ事、百度(もゝたび)計り、中程(なかほど)より下、波にひたりたる所、始め、二つにさけ、次第に三つ四つに成り、終に七つに分つて、大小のいぼ、出來ると見えし、忽ちに蛸(たこ)と化(け)し、鞠(まり)の大きさしたる首(かしら)をたてて、波上、三間計り足をつまだてありきて、又、水中(すゐちう)に入りぬ。誠に、鶉(うづら)化して田鼠(でんそ)となり、雀、海中へ入りて蛤(はまぐり)となるといひ、俗に薯蕷(やまいも)の鰻(うなぎ)とかはり、燕(つばめ)の干魚(ひうを)に化するといふも、是を見るに信用あり、といへば、荻生、默然(もくねん)と打諾き、君が信ずるにて、又、信あり。人間の佛(ほとけ)になる事、今迄、疑ひ侍り、御坊ぞ、既に佛に化(け)する用意なりと、いへるぞ。すしようの心の付所なる、と笑ひて舟こぎ歸りぬ。

 或人云く。市店(してん)に賣る蛸、百が
 内にふたつ三つ、足七つある物あり。是、
 則ち、蛇の化する物なり。食ㇾ之(これを
 くらふ)時は、大きに人を損ずと、後人、
 おそるべし。


■やぶちゃん注

・「肥後の宇土長濱(うどながはま)」現在の熊本県宇土市長浜町。

・「うらなく」隔てなく。心から。

・「荻生房高」不詳。

・「頓て」「やがて」。

・「おほけなき」身の程知らずの。

・「友なひて」「ともなひて」(伴ひて)。

・「はだか島」熊本県宇土市住吉町の有明海に浮かぶ風流島(たわれじま)。島の別名。平安時代からの歌枕として知られる。私はこれは実際に彼らの眼前にある実景の島名と読むが、以下は風流の言葉のみの遊びと解く。大方の御叱正を俟つ。

・「風本(かぜもと)」「西村本小説全集 上巻」では「かざもと」とルビする。順列から見ると実景として現認している島の名のように思われるが、不詳。方向違いだが以下に頻出して来る神功皇后絡みならば、三韓征伐の折りに壱岐の島の現在の勝本で風待ちのために滞在、良い風を得て船出して以降、征伐の帰途にもここに拠ってこの地を「風本(かざもと)」と呼ぶように命じたという伝承に、その名が出る。

・「雪の島」同じように不詳であるが、同じように神功皇后に絡んで、折口信夫の壱岐の民俗探査のエッセイ「雪の島」に(リンク先は「青空文庫」)、壱岐の島の北西岸にある湯ノ本温泉(神功皇后はここで応神天皇の産湯を使ったとする伝説が残る)の沖にある際立って白い島を「雪の島」と呼称するとし、昔の本には「壱岐」の事を「ゆき」と書いてあるという叙述が出るのは気になる。ここで宗祇は「俳(ざれ)もて」語っては興に乗って舟を進めた、と叙述しているわけで、実景として見える必要はなく、事実、以下は総てこの島原湾からは相対的に遠く離れた、見えるはずのない対象ばかりが出現する。なお、この白いのは岩質ではなく、鵜の糞によるものと推測する。

・「松原姬(まつらひめ)」これは各地に散在する〈袖振る女〉伝承の本家たる「松浦佐用姫(まつらさよひめ)」のことである。現在の佐賀県北部、日本海側の唐津市厳木町の豪族の娘とされる。単に佐用姫(さよひめ)とも呼ばれ、弁財天のモデルともされる。ウィキの「松浦佐用姫によれば、五三七年、『新羅に出征するためこの地を訪れた大伴狭手彦と佐用姫は恋仲となったが、ついに出征のため別れる日が訪れた。佐用姫は鏡山の頂上から領巾(ひれ)を振りながら舟を見送っていたが、別離に耐えられなくなり舟を追って呼子まで行き、加部島で七日七晩泣きはらした末に石になってしまった、という言い伝えがある。万葉集には、この伝説に因んで詠まれた山上憶良の和歌が収録されている』。また、「肥前国風土記」には、『同様に狭手彦(さでひこ)と領巾を振りながら別れた弟日姫子(おとひめこ)という娘の話が収録されている。こちらでは、別れた後、狭手彦によく似た男が家に通うようになり、これが沼の蛇の化身であると正体がわかると沼に引き入れられ死んでしまうという話になっているが、この弟日姫子を佐用姫と同一視し、もう一つの佐用姫伝説とされることもある』平安時代の兵法書「闘戦経」には、『石化した貞婦=佐用姫の話が引用されている。内容は、危うい時に逃げる謀略家と違い、純粋に夫を慕い続けて石となった婦女は後世まで残り、一方、謀略家が郷里に骨を残す例は聞いたことがない、というもの。佐用姫を引用して比較する例』は「平家物語」にも見られ、治承二(一一七八)年九月二十日頃の『話として、孤島に残された俊寛が半狂乱した語りにおいて、松浦佐用姫ですら孤島に』一人『残された俊寛の心境には及ばないだろうといった旨の記述がある』。『なお、世阿弥作の能に、佐用姫伝説に取材した能〈松浦佐用姫〉がある』。『唐津市の鏡山は、佐用姫が領巾を振って見送った山とされているため、「領巾振山(ひれふりやま)」という別称がある。同市和多田には、佐用姫が鏡山から跳び降りて着地したときについたという岩があり、小さな足跡のようなくぼみがある。衣干山は、川に入った佐用姫が衣を干して乾かしたことが名前の由来となっている』とある。

・「香椎の宮」現在の福岡県福岡市東区香椎にある香椎宮(かしいぐう)。仲哀天皇とその神功皇后を祭神とする。

・「かるかやの關」苅萱の関跡は現在の福岡県太宰府市坂本に比定されている。菅原道真公の和歌にも詠まれた中世の関所跡とされ、大宰府の出入口に相当する。山の中で無論、島原湾からは遠く離れている。

・「幸ひの橋」「幸の橋」という歌枕は各所にあるようだが、前の大宰府参詣道の南の二日市宿からのルートに「幸橋」というのを見出せる。但し、宗祇が言っているのがここかどうかは不明。私は単に可能性のある具体例を掲げているだけである。

・「白川のはげしを染川に能して」「西村本小説全集 上巻」では「白川のはけしを染川(そめかわに)能(よく)して」(かわ」はママ)である。「染川」は福岡県中部の太宰府天満宮の付近を流れる御笠(みかさ)川のことで、古くからの歌枕であり、しかもこの川は別に「逢初(あいそめ)川」「思(おもい)川」の名を持っており、先の「白川」は無論、淀川水系の京を流れるそれではあろうが、「白」に意味があるのであって、それを恋で美事に「能く」「染」め「川」と引き出すための修辞であって、特定の地名を解説するに必要を私は感じない。

・「たはれ島」先の風流島の別称。ここで一瞬、実景に戻ると見た。しかし「たはれ」(戯れ)から「うかれ」(浮かれ)が引き出されて、また洒落のめしてしまうのである。

・「かご島にもれなん」「かご島」は南の薩摩国の鹿児島郡に引っ掛け、しかも「かご」を「籠」の掛詞として、幾ら島尽くししても、島は無数にあるから、「籠」の目から漏れてしまうと洒落たのではあるまいか?

・「規玖高濱(きくだかはま)」「企救(きく)の長浜」とも言う。北九州市小倉北区の海岸の古称で万葉以来の歌枕。但し、現在は埋め立てられてしまい、今は面影を偲ぶよすがもない。

・「三間」約五メートル四十五センチ。

・「田鼠(でんそ)」哺乳綱トガリネズミ形目モグラ科 Talpidae に属するモグラ類のこと。

・「燕(つばめ)の干魚(ひうを)に化する」「干魚」は不審である。これが「燕の魚に化す」であったなら腑に落ちる。渡り鳥である燕は冬の間は海の中に棲んでいる、だから姿を見ないのだ、と信じられたからである。とすれば、本邦で孵った幼鳥が海に入って魚と化しているとするのはごく自然なライフ・サイクルである。

・「打諾き」既出ルビ有り。「うちうなづき」。

・「すしようの心の付所なる」「すしよう」は「衆生」で、これは「しゆじやう(しゅじょう)」以外に「すじやう(すじょう)」とも読む(濁点は落されることが多い)。仏に正しく導かれて往生せんとする信者が直き心で注意をするべき肝心な所である、という謂いであろう。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   蛇の口を遁がる

    蛇口(じやのくちをのがる)


Jyanokutiwonogaru

一とせ、越州に修行して、飼飯(けゐ)の海、越(こし)の中山など詠(なが)て、東(あづま)に近く、歸る山を見んと行くに、名もしらぬ坂、一つ越ゆるとて、右の肩の松山に、冷(すさ)まじき物音す、山河(さんか)の流れか瀧浪(たきなみ)の響きか、それかあらぬか、嵐のかぜならば、四方(よも)に立つべきを、爰計りのはげしさよと、しげみの木の間を覗き行くに、水にはあらで一丈計り空(そら)に、大蛇(だいじや)の首在りて、耳は芭蕉の若葉のごときするどに、眼は鞠(まり)の大さして圓(まどか)なり、口脇、耳のもと迄、切れたるに、一尋(ひろ)計りの紅(くれなゐ)の舌、出入り、夕日のうつろひ怖しともいはんかたなし。新樹の千もとを分けて、其の中(ちう)をありく事、風雲の速(とき)ごとく、我をのまんと、きそひ來る、魂(たましひ)、脱(ぬ)ぐるがごとく、逸足(いちあし)を出し、逃げまどふ。此のものゝ勢ひと、我が恐れて逃ぐる力(ちから)と、なじかはたぐふべきなれば、道のほど、四五間計りに成りて、既に危く覺えし所に、空中よりひとつの鷲(わし)、飛下(とびお)りて、蛇の頭上を蹴(け)て、又、空中に入る。毒蛇、是に猶豫(いうよ)するほどに、一町餘り走りぬけ、ふり歸り見るに、件(くだん)の鷲、又、飛び來て、頭上を蹴る事、あまた度(たび)して、毒蛇の首(かうべ)、みぢんにくだけ、屍、谷底へまろび落つる。其の音、坤軸爲之、くだけ、百千雷(らい)のおちかゝるかと、あやし。彼の鷲、飛下りて肉(しゝむら)を裂(ひきさ)き心よげに喰(くら)ふ。此の時にこそ安堵の思ひをなし、傍(かたはら)の石に腰打かけ、有りし方を見やりて、危き命、助かりつる物かな、是、只、佛の加護にこそと思ひて

 

   みほとけのつよき力にたすかれば

      鷲の峰とや爰をいふべく

 

と言捨(いひす)てして、歸る山におもむきぬ。

 

 

■やぶちゃん注

・「飼飯(けい)の海」万葉時代以来の歌枕で、一般には淡路島の西側の慶野松原(けいのまつばら)、播磨灘に面した現在の兵庫県南あわじ市松帆古津路(まつほこつろ)から松帆慶野にある松原の前浜を指すとされているが、別説に現在の福井県敦賀市の敦賀湾湾奧の気比(けひの)松原の前浜とする説があり、筆者はこちらを採っている(そうしないと前の「越州」に合わない)。

・「越(こし)の中山」ロケーションからこれは福井県の嶺北(越前地方)と嶺南(若狭地方)を隔てる木ノ芽峠の別名である。

・「東(あづま)」ここは現在の福井県北東部の広域古称である。現在も行政的にこの広域区域を「あずまブロック」と呼称している。

・「歸る山」「かへる(かえる)やま」(帰山)は現在の福井県中部の南条郡南越前町から敦賀市へ通じる峠一帯の呼び名として現存し、鹿蒜(かひる)という名でも残り、南越前町を流れる鹿蒜川が、南越前町字南今庄に鹿蒜神社がある。

・「一丈」約三メートル。

・「一尋(ひろ)」「尋」は両手を左右に伸ばした際の指先から指先までの長さを基準とした慣習的距離単位で、一尋は五尺(約一メートル五二センチ弱)乃至は六尺(約一メートル八十二センチ弱)に相当する。

・「逸足(いちあし)」一般には音で「いつそく(いっそく)」で速足(はやあし)することを指す。

・「四五間」凡そ七・三~九・一メートル。

・「一町」百九メートル。

・「坤軸爲之くだけ」「西村本小説全集 上巻」では「坤軸(こんぢく)も之れが爲めにくだけ」と読みが示されてある。「坤軸」は大地の中心を貫き支えているとされた地軸のこと。

・「鷲の峰」鷲峰山(「しゅうぶさん」他、読みは多様)は各地にあるが、ロケーション地区を国土地理院の地図でも調べて見たが、現行、この名のピークを認め得なかった。
 
 画像は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング、補正したもの。

行脚怪談袋 芭蕉翁大内へ上る事 付狂歌に得手し事

  二の卷

 

  芭蕉翁大内へ上る事

   
狂歌に得手し事

 

芭蕉廻國の砌り、美濃路を經て近江に入り、義仲寺へ詣で、夫(そ)れより草津大津を越え京都へ入る、先づ洛外四條仲屋の何某(なにがし)と云へるは、當所に隱れなき有德(うとく)人、殊更俳道に事をこのみ、支考の門人なれば、かねてばせををもしたひける。此のゆゑにばせを、彼(か)の者の方に尋ね至り案内を乞ふ。亭主折節在宿にて、ばせをの來るよしを聞き、大いに悦び急ぎ立出でゝ自ら伴ひ入り、初對面の禮義をのべ、其の後(のち)仲屋申しけるは、我れは當所に住居し、世を幸ひに暮し、何不足なく侍る故、多くの家人に萬(よろづ)を預け、我れはつれづれを慰めんと、又好きの道ゆゑ支考に隨ひしより、俳道の事を少しまなべり、右支考の物語りにて、翁の事も聞侍る、誠にたぐひなき御方(おんかた)と承知奉りぬ。こひ願くば、暫(しば)しが間御逗留あり、俳道も明らかに御教ヘを請け申し度しと、わりなくぞ願ひける。ばせをも此の由を聞き、世事の儀にかゝはりなく、一入此の道心(こゝろ)を寄せらるゝ事、誠に殊勝の次第なれば、我等も諸所廻國の草臥(くたびれ)も候へば、暫し此のたちに休足(きうそく)致し候べし、御世話賴み侍るとて、是より仲屋方にとゞまる事數日(すじつ)、好める道故俳諧發句の祕傳を聞くに、ばせをも逗留のつれづれに、發句等の切字十七字のつゞり、其の外俳諧の道口傳を、逸々(いちいち)に語り聞せけるに、其の教へ誠に顯然たり。仲屋甚だばせををしたひ、數日物語りに及ぶ。此の間逗留の節の事なり、當(たう)大内(おほうち)において、東の芭蕉當(たう)洛中四條仲屋方に逗留の由を聞し召され、かれはその上不角此方の俳人の由聞及ぶ、何卒招き寄せ、其の鍛鍊の程をも御聽聞あらんかしと、院より仰せ出さるゝに出(いだ)さるゝに付、御諚(ごぢやう)の趣き、大内より仲屋方へ申し達せられける。仲屋是を聞きて、芭蕉にかくと告げる。ばせをも御諚なればもだしがなきゆゑ、御使とともに大内へこそ至りける。程なくばせをを階下へ御招(まね)ぎ有るに、ばせを謹んできざ橋の本へ平伏してひざまづき居たる處に、殿(でん)の脇に伺公の殿上人(てんじやうびと)、芭蕉にのたまひける、すまごとやひがしの方は荒夷(あらえびす)と號して、歌道俳道の類ひに達せし者、甞てあらずと思ひしに、今其方は東國生れにて、その道にかしこき事、おそらく世の人の及ぶ所にあらずと傳へ聞けり、今幸ひに洛中にあるよしを院にも聞(きこ)しめされ、よつて召寄せらる處なり、かつは御慰みにもあれば、此の方より一句の題を出すべし、是によそへて汝がむねに得手(えて)し發句を巡ね、指上(さしあげ)候べしと、院より春月梅(しゆんげつのむめ)と云へる三つの題を給はりければ、十七字の内に、此の三つをあらはし申すべしとの御諚なり、其の時ばせを少しもおくしたる氣色もなく、さして案じる體(てい)もあらず。

 

  春もやゝ景色とゝのふ月と梅  ばせを

 

右の通り一句の發句へ、春月梅と三つの題を現はし、吟じて指上げければ、院を初め奉り、御側の殿上人誠に即席の秀句、おどろき入りしと感ぜられ、此の時に翁と云へるを給はる。此の故に世の人ばせを翁と云ひ傳へしとかや、其の道にいたつてかしこきは、右の藝にて世をわたる習ひ也。その節は古人と成りしかども、不角法印、ばせをのごとく、大内へ召れ、禁裏より仰せ出さるるは、其方譁(やさ)しくも俳道發句に達せし由、何卒定家が綴りし百首の内に、後德大寺左大臣の歌に、

 

  郭公(ほとゝぎす)啼きつるかたをながむれば

       たゞ有明の月ぞ殘れる

 

此の歌を發句十七文字に直さるべきやとの御諚あり。其の節不角暫(しば)し思案の體(てい)にて、其の後右の歌の心を發句に取りて、

 

  扨はあの月が啼いたか時鳥

 

と吟じて奉りければ、各々御感(ぎよかん)淺からず、御賞美(しやうび)として法印の官を賜はりしとかや、此の事あまねく世の人の知り拾ふ所也。扨(さて)芭蕉は御暇を乞ひ、内裏を出でゝ仲屋がかたへ立歸り、其の後仲屋方にても、ばせをを會主(くわいしゆ)として百韻の連歌(れんか)を始む、此の時もばせをいと面白き付合をなす、中にも、

 

  僕が狂歌を手つだうてやる

 

と云ふ前句に

 

  德利の酢ついで半分のみにけり

 

とおどけまじりにして、前句の心へひたつけ、句體(くたい)ははなれてつけゝれば、諸人皆打笑ひて興を催ふし、其の後(ご)皆々ばせをへのぞみ、

 

  下より上へつるし下げたり

 

と云ふ題を出し、先生は此の道にあまねくかしこければ、何にても此の題ヘ一句をつけて見給へかしと云ふ。芭蕉是は難題かなとて、暫らく句案なせしが、かたはらの筆をとりて、其の題の次に書付(かきつけ)て出(いだ)されける其の句に、

 

  風鈴のおもはずに見る手水鉢  ばせを

 

と吟じければ、仲屋を初め一座の物各々感じ入りしとかや、その後數日(すじつ)逗留の内、百韻數度興行す。芭蕉もあらゆる秀句をつらね、早一ケ月を越えしかば、ケ樣にいたづらに日を送るも如何(いかん)て、是より江州(ごうしう)の方へ廻國せんと、仲屋をもしきりに立出ん事を望む。亭主もその止るまじきを知り、然らば廻國をはり、又候御出でを待ち候と云へば、ばせをは翌日旅の用意をぞいたし、仲屋が門(かど)を立出でる。此の時なかや芭蕉を見送りしが、冬の初めなれば、

 

  此頃の氷ふみわる名殘かな

 

と一句を吟ず。ばせを甚だ是をほめられし也。是も仲屋其の道に深く學びし故也。此の仲屋何某と云へるも、名は知れね共、表德は杜國といへり。

 

 

■やぶちゃんの呟き

・「不角此方の俳人」不角(ふかく)以来の名立たる俳諧宗匠。「不角」とは後の叙述からも江戸中期の俳諧師で松永貞徳の流れを汲む岡本不卜(ふぼく 寛永九(一六三二)年~元禄四(一六九一)年:貞門の石田未得に学び、同門の雛屋立圃(ひなやりゅうほ)や芭蕉らと交わった)門下の立羽不角(たちばふかく 寛文二(一六六二)年~宝暦三(一七五三)年)としか読めないが、彼は芭蕉(寛永二一(一六四四)年~元禄七(一六九四)年)より十八も若く、貞門派よりもさらに通俗的な句風を志向、現在確認されている最古の句でも天和三(一六八三)年で、寧ろ、芭蕉の死後に知られるようになり、他流批判甚だしく、蕉門の宝井其角ともやり合ったりしたから、ここもまたトンデモ錯誤である。ただ、参照したウィキの「立羽不角」によれば、『大名など高位の武士との交流も繁くなった不角は、それに見合った肩書を嘱望するようにな』り、元禄一六(一七〇三年)には『備角の号で俳諧を嗜み交流があった備前岡山藩主池田綱政の参勤交代に伴い上京し、公家社会に顔が利いた綱政の後援により』、この年の七月に法橋(ほっきょう:僧綱(そうごう)の最下位。法印・法眼(ほうげん)の下)『の地位を賜っ』ているから、公家に知られた江戸の俳諧師ではあったようである。

・「御諚(ごぢやう)」貴人の仰せ。

・「すまごとや」不詳。「すまんことやれど」の謂いか? お手上げ。識者の御教授を乞う。

・「其方は東國生れにて」彼は今や知らぬ人とてない伊賀上野(現在の三重県伊賀市)生まれであるから、ここも筆者の脳味噌を疑うヒド過ぎる誤りである。

・「法印」上記の通り、法橋の誤り。

・「扨はあの月が啼いたか時鳥」竹内玄玄一の「続俳家奇人談」の「巻中」の「瓢水居士」の句として、

 

 さてはあの月が啼いたか時鳥

 

と掲げる。瓢水(貞享元(一六八四)年~宝暦一二(一七六二)年)は松木淡々(まつきたんたん)門下。瓢水に至っては不角より二十二も、芭蕉より四十も若い。

・「德利の酢ついで半分のみにけり」不詳。現行の芭蕉の句としては知らぬ。

・「風鈴のおもはずに見る手水鉢」不詳。同前。

・「此頃の氷ふみわる名殘かな」確かにこれは貞享元(一六八四)年十二月末、「野ざらし紀行」の旅の途次、名古屋に滞在していた芭蕉が熱田へ出立するのを見送った際の坪井杜国の句ではある。

・「表德」「表徳号」のこと。ここは雅号。但し、芭蕉の愛した杜国の屋号は「仲屋」ではないし、そもそもが彼は京の商人ではなく、名古屋御園の米穀商である。ここまでど素人を馬鹿にした嘘だらけの無惨累々たるを見ると、仮託偽書の確信犯を糞狙いしたものとしか言いようがない。

観光づいて乞食的   梅崎春生

 

 阿蘇に登ったら、バスやロープウェイなどで引っぱり上げられて、山みたいな感じがしない。デパートにそっくりだ、と前号に書いたら、そんな文明の利器があるからこそ、お前は火口まで行けたのではないか、贅沢(ぜいたく)言うな、という投書をもらった。

 それも一理はある。私といっしょのロープウェイに、七十歳ぐらいの腰の曲った婆さんがいて、杖をついてとことこと火口見物におもむくのを見た。以前には見られなかった光景だ。

 つまりこれは山ではなく、行楽地なのである。そう考えれば、別に腹も立たない。

 それは時代のなりゆきだろう。箱根の山は昔は天下の険だったが、今ではあんな具合だし、阿蘇だって明治時代は夏目漱石の「二百十日」にあるような、素朴でおそろしい山であった。

 だんだん人がふえて、四つの島にあふれんばかりになると、山だの海だのをそうそう素朴な形では放って置けない。休日(だけじゃなくふつうの日も)になると、どっと押しかける。

 その群衆を見て、金儲けの達人や市町村の顔役どもが、この連中からしぼり取らずに何からしぼり得ることがあるだろうか、散々巻き上げて懐(ふところ)をからっぽにして帰せとばかり、さまざまな設備をして、金を落させる算段をする。すると客の方も、

「近頃便利になりましたのう」

 と、団体旗などをおっ立てて続々くり込むから、達人や顔役どもの笑いはとまらないのである。

「自然」を改善(?)すると言っても、山容まで改めるわけではない。道をつくり、休憩所を建て、ロープウェイをかけさえすればいいのだ。とたんに山は行楽地に変貌する。

 私が登った時も、火口の白い霧の底からうっすらと噴煙の立ち上るのが見えたが、これが全然噴煙らしくなく、芝居や映画で使用するスモーク(人工煙)じみて見えた。

 これは阿蘇の方で調子を合わせたわけではなく、そう感じる方の眼がゆがんでいるのだろう。さっきデパートにそっくりだと書いたが、むしろ東京の豊島園やアメリカのディズニイランドに似ていると言った方が、適当かも知れない。

 戦後あちこちをとみに行楽化したのは、ロープウェイの発達である。魔の谷川岳にも出来たし、白馬の八方尾根にも出来た。昨年夏黒部の帰途、八方尾根のそれに乗ったが、あまり気持のいいものではなかった。心理的に不快なのではなく、生理的に気持が悪いのである。

 高所恐怖症が私にあるせいでもあるが、あれがぶら下っているのが気にくわないのだ。飛行機も高くを飛ぶが、あれはぶら下っていない。自力で飛んでいる。汽車やバスもぶら下っていない。地面を這っている。ロープウェイだけが、首くくりの如く、ぶら下っている。はなはだ中途はんぱで不安定だ。

 あちこちにロープウェイが出来るところをみると、きっとあれは建設費が安いのだろう。柱を立てて紐を通し、それに箱をぶら下げればいいのだから、ちゃんとした道をつくるより安く上る。故障などはおきないように設計されてはいるだろうが、時には手違いだのへまが生じて、乗客に迷惑をかける。

 今年の四月初、箱根のロープウェイがとまって、二百八十人が一時間も宙づりになったという事件が起きた。満員状態で一時間も宙ぶらりんになったから、皆不安感にたえられなくなって、吐気をもよおす乗客や、引き付けをおこした赤ん坊や、血圧が高くなって脳血管の痙攣(けいれん)をおこした老人などが続出、たいへんな騒ぎになった。

 箱根だから新聞に報道されたけれど、各地のロープウェイで小さな故障はしばしば起きていて、宙づりなんか日常茶飯時までとは行かないけれど、めずらしいことではないそうである。

 そのくらいのことは覚悟に入れて、読者諸子もロープウェイやスキーリフトにお乗りになる方が、よろしかろうと私は思う。

 ロープウェイばかりに当り散らしたようだけれど、それは私の本意でない。ロープウェイに私は今のところ、格別の恩も恨みもない。「小説中央公論」夏季号の座談会で、山本健吉さんが、

「日本中が観光づいて、乞食的になって来た」

 という意味の発言をしている。

 山や海を元の形のままで置け、女子供は登るな、と私は主張するものではない。それは時の勢いで仕方がないことだし、自然が普及されることは、それなりに意味があると思っている。しかしその普及のされ方が妙に「観光づいて乞食的」になっているのが、面白くないのである。

 地方都市などもそうだ。地方色がだんだんうすれて、どこに行っても同じような感じになってしまった。無理して天守閣や櫓(やぐら)を再建しても、各地にそれが再建されているから、特に見に来るという意味がない。

 天守閣など、遠くから見るとそれらしく見えるけれども、近寄って見るとざらざらのコンクリートで、いかにもイミテーションという感が深い。

 イミテーションでも、形だけととのっていれば気がすむらしく、観光客は続々と登り、天守閣の頂上から、殿様にでもなったような気持で四方を見渡して、満足して降りて来る。

 熊本で泊った宿屋は、大きな宿屋だったけれども、私たちの他に客が一組しかなく、これで商売が成り立つのかと女中さん(接待さんと言うべきか)に訊ねたら、

「今は暇ですけれど、この間までは修学旅行のお客さんでいっぱいで……」

 どこから修学旅行に来るのかと、重ねて聞いたら、

「新潟や静岡や仙台から」

 という答えだった。私はおどろいた。新潟や仙台からわざわざ熊本まで、何を見に、何を学びに来るのだろう。もつと近くを廻って、郷土周辺を知ることが先決じゃないのか。

 邪推すれば、近くを廻れば積立金額が余るし、たとえば五泊六日ときめられているので、遠出をしなきゃ間(ま)がもてない。だからはるばる九州路にやって来る。

 九州の方でも負けてたまるかというわけで、やはり五泊六日ぐらいの日程を組み、東京だの仙台だの青森まで押しかけて行く。

 各地が観光づくのはいいが、別に外貨を獲得するわけでなく、たらい廻しのような形で、お金があっちに落ちたり、こちらに落ちたりするだけの話である。

 ダム建設その他のために、日本に秘境というところはほとんどなくなったし、海は海で工場誘致の埋立地で、自然の海岸線は次々うしなわれつつある。

 俗化などという月並なものでなく、日本全土が箱庭化する日も、そう遠くないだろう。なにしろ人間が多過ぎるのだから、致し方ない。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第六十四回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年七月十六日号掲載分。「日常茶飯時」の「時」はママ。

「阿蘇に登ったら、バスやロープウェイなどで引っぱり上げられて、山みたいな感じがしない。デパートにそっくりだ、と前号に書いた」「デパートになった阿蘇山」を参照。

『夏目漱石の「二百十日」』漱石満三十九の明治三九(一九〇六)年十月に発表した小説。ウィキの「二百十日小説)及び青空文庫「二百十日をリンクしておく。]

2016/07/25

原民喜作 童話「屋根の上」(原稿準拠版) 附青土社全集版 藪野直史

[やぶちゃん注:本篇は民喜没(昭和二六(一九五一)年三月十三日自死)後二年後の昭和二八(一九五三)年六月号の『近代文学』」に掲載された。

 底本は広島県立図書館の「貴重資料コレクション 郷土作家の自筆原稿」の原民喜」にある自筆原稿を視認した。漢字は当該字に近いものを選んだ。

 原稿はペン書きで、東京文房堂製四百字詰原稿用紙三枚。電子化では原稿用紙に合わせて一行を二十字で改行した。句読点を禁則処理せずに行頭に打つのは原民喜に特異的な癖である(他の原稿では、この御蔭で、彼がその句読点を最初に打っていたかどうかが極めてはっきりと分かる)。「とうとう」はママ。

 附録の青土社全集版は読み易さを考えて附加した。一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集Ⅱ」に載るものをそのまま(新字で仮名遣いの一部が中途半端に現代仮名遣になっているおかしな「定本」である)に電子化してある。こんなものが定本になるとしたら、これは原民喜にとって不幸なことと言わざるを得ない。]

 

    屋根の上

              原 民喜

 

 かちんと、羽子板にはねられると、羽子は

、うんと高く飛び上つてみました。それから

、また板に戾つてくると、こんどはもつと思

ひきつて高く飛び上りました。何度も何度も

飛び上つてゐるうちに、ふと羽子は屋根の樋

のところにひつかかつてしまひました。はじ

め羽子はくるつと𢌞つて、わけなく下に飛び

降りようとしました。しかし、さう思ふばか

りで、身躰がちよつとも動きません。

 しばらくすると、下の方では、また賑やか

に、羽子つきの音がきこえてきました。別の

新しい羽子が高く舞ひ上つてゐるのです。

 「モシ モシ」と、樋にひつかかつてゐる

羽子は、眼の前に別の羽子が見えてくるたび

に呼びかけてみました。しかし、それはすぐ

見えなくなつて、下の方におりてゆきます。

 「モシ モシ」 「モシ モシ」 何度よ

びかけてみても、相手にはきこえません。そ

のうちに下の方では羽子つきの音もやんでゐ

ました。

 「もう、おうちへ帰らうと」 といふ声が

して、玄関の戸がガラつとあく音がしました

。あたりは薄暗くなり、家の方では灯がつき

ました。樋にひつかかつてゐる羽子はだんだ

ん心細くなりました。屋根の上の空には三日

月が見え、星がかがやいてきました。とうと

う夜になつたのです。あ、どうしよう、どう

しよう、どうしたらよいのかしら、と、羽子

は小さなためいきをつきました。

 星の光はだんだん、はつきり見えて來ます

。空がこんなに深いのを羽子は今はじめて知

りました。一つ一つの星はみんな、それぞれ

空の深いことを考へつづけてゐるのでせう。

一つ二つ三つ四つ五つ‥‥と、羽子は数を数

へてゆきました。百、二千、三千、いくつ数

へて行つても、まだ夜は明けませんでした。

夜がこんなに長いといふことを羽子は今しみ

じみと知りました。

 今あの羽子板の少女はどうしてゐるかしら

、と羽子は考へました。眼のくりくりつとし

た、羽子板の少女の顏がはつきりと思ひ出せ

るのでした。羽子板は今、家のなかに靜かに

置かれてゐることでせう。羽子は、あの羽子

板の少女がとても好きなのでした。もう一度

あの少女のところへ帰つて行きたい、あの少

女も多分、僕のことを心配してゐるだらう、

と羽子は思ひました。

 一つ二つ三つ四つ五つ‥‥羽子は何度もく

りかへして数を数へてゆきました。

 東の方の空が少しづつ明るんできました。

やがて、雲の聞から太陽が現れました。薔薇

色の雲の間から洩れて來る光は、樋のところ

の羽子を照らしました。すると、羽子はまた

急に元氣が出て來るのでした。

 

 

 

■青土社全集版

 

 屋根の上

 

 かちんと、羽子板にはねられると、羽子は、うんと高く飛び上つてみました。それから、また板に戻つてくると、こんどはもつと思ひきつて高く飛び上りました。何度も何度も飛び上つてゐるうちに、ふと羽子は屋根の樋のところにひつかかつてしまひました。はじめ羽子はくるつと廻つて、わけなく下に飛び降りようとしました。しかし、さう思ふばかりで、身体がちよつとも動きません。

 しばらくすると、下の方では、また賑やかに、羽子つきの音がきこえてきました。別の新しい羽子が高く舞ひ上つてゐるのです。

「モシ モシ」と、樋にひつかかつてゐる羽子は、眼の前に別の羽子が見えてくるたびに呼びかけてみました。しかし、それはすぐ見えなくなつて、下の方におりてゆきます。

「モシ モシ」「モシ モシ」何度よびかけてみても、相手にはきこえません。そのうちに下の方では羽子つきの音もやんでゐました。

「もう、おうちへ帰らうと」といふ声がして、玄関の戸がガラつとあく音がしました。あたりは薄暗くなり、家の方では灯がつきました。樋にひつかかつてゐる羽子はだんだん心細くなりました。屋根の上の空には三日見え、星がかがやいてきました。とうとう夜になつたのです。ああどうしよう、どうしよう、どうしたらよいのかしら、と、羽子は小さなためいきをつきました。

 星の光はだんだん、はつきり見えて来ます。空がこんなに深いのを羽子は今はじめて知りました。一つ一つの星はみんな、それぞれ空の深いことを考へつゞけてゐるのでせう。一つ二つ三つ四つ五つ……と、羽子は数を数へてゆきました。百、二千、三千、いくつ数へて行つても、まだ夜は明けませんでした。夜がこんなに長いといふことを羽子は今しみじみと知りました。

 今あの羽子板の少女はどうしてゐるかしら、と羽子は考へました。眼のくりくりつとした、羽子板の少女の顔がはつきりと思ひ出せるのでした。羽子板は今、家のなかに静かに置かれてゐることでせう。羽子は、あの羽子板の少女がとても好きなのでした。もう一度あの少女のところへ帰つて行きたい、あの少女も多分、僕のことを心配してゐるだろう、と羽子は思ひました。

 一つ二つ三つ四つ五つ……羽子は何度もくりかへして数を数へてゆきました。

 東の方の空が少しつつ明るんできました。やがて、雲の間から太陽が現れました。薔薇色の雲の間から洩れて来る光は、樋のところの羽子を照らしました。すると、羽子はまた急に元気が出て来るのでした。

行脚怪談袋   支考四條河原に凉む事 付 狸人に化くる噺し

  支考四條河原に凉む事

    
狸人に化くる噺し

 

支考といへるも、芭蕉時分の俳人なり、是世の人の知る所也。生國は近江の者にて、住所は京都なり、或時支考同所三條町笠屋といへる町人の方(かた)ヘいたり、右の者共と同道して、時に夏の暑さを忘れんがため、四條河原の茶屋へ凉みに至り、酒肴(さけさかな)を好みて出ださせ、河原より吹上げる風に身をひやして、四方山(よもやま)の物語りに數盃をかたむく、しかる所へ此の茶屋の給仕の女、年頃も十六七と見えしが、そのよそほひ柳の枝に花を吹かせしにひとしく、せんけんとして美しき事いふばかりなし、支考を初め座中の人々その美麗なるを譽めて、汝はこのちや屋の親ぞくの者か、又は抱への女子(ぢよし)なるかと尋ねけれど、此の女いと恥しげなる體にて、唯打笑ふのみ。一言の答へもなし。連れの中に一人、此の女の身の上を茶屋の亭主に問ひける、時に主(あるじ)申す樣、されば其の事にて有之(これあり)、甞て座敷ヘ出でゝ酒飯の給仕を望む。我れは存ぜぬ女子にて候へば、不審におもひ、いづれ如何なる者にてかく現はれ出でるぞと、其の住所問へ共答へず。人々申し合せとらへんと仕るに、かげろふか稻妻のごとくにて、さらさら手にたまらず、打捨て置けばまたあらはれて、客の座敷へ出で、自(みづか)らてうしを取りて酌を致す也。されども、何の生化(しやうけ)も仕らず、却(かへつ)て調法成る女子にて候ゆゑ、うち捨て置き申す也と語り、何れにも狐狸の類ひに候べし、正體を存じ度(たき)物なりとぞ申しけるが、かの男是れを聞き、いか樣是は怪しき事也とて、座敷へ歸り見るに、彼の女また出でたり。右の男支考を初め、大勢の者どもにも此の次第を告げる。酒も半に及び、互にさいつおさへつ盃のもめる段に及びて、彼の女子(をなご)にあひを賴む。女辭する事もなく、一獻を請くれば、其の時大勢の者云ひ合せて、かれに酒をしひ、醉ひつぶして正體を見屆けんと計りける。怪女は此のたくみをば知らずして、わらはがあひをして貰ひたし、爰にてもつけざしを賴む抔と、盃の數重なるを、甞てめいわくとも思はず、かの女子は引請け引請け呑むほどに、すでに一升程も呑みをはる。され共醉ひたる體ならず、平生(へいぜい)の顏色にて居ければ、諸人(しよにん)けしからぬ事やと思ふ所に、其の中に一人の者申しけるは、女の身としてかく大酒なし、顏色(がんしよく)も違(たが)はず以前の如く成るは、彌々(いよいよ)もつて心えぬ物、變化のたぐひ也。然る上は斯樣(かやう)の酒にて、今いかほど呑ませたればとてやくにたゝずと、側にありし吸物椀のふたを出して、かの女子(をなご)にのまさんと、一献(こん)のみて其の盃をすぐに右の女にさすに、物をも云はず盃を請けて、又重ねて呑む事十餘盃に及ぶ。一座の面々大きに驚きしが、さすが大酒(たいしゆ)なせし故にや、彼(か)の女子(をなご)頭をたれて居たりしが、其のまゝ横にたふれ、前後もしらず寢入(ねいり)けり、其のいびきすさまじき事大方ならず、亭主も來りて此の體を見、能(よ)き時節也。しばりからげんとて、繩を持ち來り後手(うしろで)に搦め、か

たはらにつなぎ置きけり。是を見て大勢また酒盛を始めけるに、支考盃を請けて、

 

  生醉をねぢすくめたる凉み哉  支考

 

と吟じける。扨(さて)彼(か)の女子は暫くが間醉に性を失ひ、一(いつ)すゐの内に思はず姿をゐらはし見るに、そのさま犬の如くなる古狸(ふるたぬき)にてぞありける。大勢是を見て、扨こそかくあるべしと、手を打ちしが、その後亭主に告げて、彼(か)の化物來るといへども、さして害なければ、目を覺ましなばはなし遣(つかは)し然るべしと、申し置きて、皆々その所を歸りしが、亭主も其の詞の如く、翌日にいたりて放ちかへしけり。

 

 

■やぶちゃんの呟き

 ここに出る「生醉をねぢすくめたる凉み哉」は支考の句ではない。芭蕉七部集の一つである「續猿蓑」の「夏之部」にある「納涼」の、「漫興 三句」、

 

 腰かけて中に凉しき階子(はしご)哉 洒堂

 

 凉しさや緣より足をぶらさげる    支考

 

 生醉をねぢすくめたる凉かな     雪芝

 

とある、蕉門の広岡雪芝(せっし 寛文一〇(一六七〇)年~正徳元(一七一一)年)の句である。やはり本作、かなり杜撰と言わざるを得ない。因みに雪芝は芭蕉の生地伊賀上野で山田屋という屋号で酒造業を営んでいた。服部土芳・窪田猿雖らは従兄弟(いとこ)である。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   廣澤の怪異

    廣澤の怪異


Hirosahanokaii

身を觀ずれば岸の額(ひたひ)に根を離たる柴の庵、命(めい)を論ずれば江(え)の邊(ほとり)に繫がぬ月日の明暮(あけく)るゝ命。終の期(ご)を待ちて堅固に行すましたる僧の、嵯峨の邊り、廣澤の水ぎはに住めるを尋ね行きて、一日、法の物語して、今日もくれぬ、愛宕(あたご)の高根(たかね)雲かゝり、小雨おとづるゝ程に、爰に語り明かし給へ、と、とむる、待つ妻(つま)もなく尋ぬる子もたぬ身は、山野、皆、我宿也。殊更、近きに西國修行(すぎやう)の志しあれば、再會、期(ご)し難しと、幸ひに留(とま)りぬ。僧の云く、頃(このごろ)、奇異の事を見侍り、此の庵、五間計り先の水面(すゐめん)に怪しき光りあつて、燃ては消え、きえては燃ゆ。其の半(なかば)に男女の聲して、哭(な)いつ笑ふ聲有り、今よひ又雨也。若(も)し出づる事の在りもやせん、こなたへ、と、程ちかく覗きゐて更(ふく)るを待つ、猶、晝の名殘の法(のり)の咄(はな)しに、夜、闌(たけなは)に世上しづまりて、雨いとど車軸(しやぢく)をなすにぞ、昔しおもふ草の庵(いほり)の夜の雨に、泪なそへ添へぞとかこつべく、漸う牛(うし)みつばかんなるに、いひし如く、靑き火、東西にもえて、水面に二十四、五の法師と十六計りの女とたちて、腰より上、半(なかば)水上(すゐじやう)に出でたり。宗祇、本性、勇猛の士、佛道の志しに又、身を鴻毛(こうまう)よりかろ輕く、世を稻妻の有りはてぬ物と定めたれば、萬(よろづ)怖しと思はず、かの光りの前につとよりて、汝等、いかなる故あつてかく怪異(けい)なる形ちを見するや、と、とふ。法師なりし者、答へて、戀慕執着(しふじやく)の深き心より水中に沈み、愛欲の猛き思ひより、ほむらを燒きて身を焦(こが)すといふ。いづこの人のいかにして、身を徒(いたづら)になし果(はて)けるぞ、女、答へて自(みづか)らは此の北山里、仙應寺(せんおうじ)と申す所の者、僧は高雄(たかを)の何某(なにがし)に侍り。一とせ三月(やよひ)廿一日(はたちひとひ)、此の山、女人禁斷なれど、此の日計りは容(ゆる)さるゝにより、友どち一人(ひとり)二人、山ごえに詣で侍り、いかに悲しき前世(ぜんせ)の因緣にや、此の僧の美(び)なるを見そめしより、いとをしき心、身を責め、歸らんとする足、とく、たゝんとするに力なきを、友なる人、早く見とりて、さまざま慰め、暮れなば此の山に女はおかじ、と諫められ、力なく里に歸る、いとかりそめのまよひの雲、かの峯に立覆ひ、身はうき嵯峨に有りながら、一念の化女(けぢよ)となり、夜每に、かの人の枕にそひて、かきくどく。人も始めは松が枝(え)の、嵐につよくこたへしが、雪には折るゝ折ふしの、つもる思ひを哀れとて、情の道も淺からず、あれなる岨(そば)の岩(いは)がねを、夜ごとにさがへかよひし也。我れ、おちにきと人にかたるなと、世の人聞(ひとぎゝ)を恐しに、さなきだに世の人の、あしき道にはさがなく、鳴瀧川(なるたきがは)の音たてゝ、あだ名も四方にもれ行きぬ。砥(と)とりの山の時鳥(ほとゝぎす)、自(おの)が刀(かたな)の身の錆なれば、なき名のみ高雄の山と、かこつべきよすがもなし。つらき世をへんより、契りを後の世にとちかひて、

   恨みわびほさぬ袖だにある物を

       戀に朽ちなん名こそ惜しけれ

と言捨てゝ、二人、手に手を取り、此の池に身をなげぬ。月はひとつ、うき身はふたつ、藻にうきて、魂(たましひ)は惡趣(あくしゆ)にしづみ、紅蓮(ぐれん)の氷(こほり)にとぢられ、刀林(たうりん)の枝(えだ)に身をさく、是、皆、自(みづか)らなすわざにて、持戒の僧をおとす地獄のくるしみ、助け給へ、と淚を波に諍(あらそ)ふ、祇、又、とふ。みるが内に、互(たがひ)に水をすくひ、藻を抛げかけるはいかに、二人、答ふ。絶間なき思ひのほむら、一身をこがすのみか、僧は女の火を悲しみ、女は僧の焰(ほのほ)をなげきて、せめてや暫(しば)し助かると、互に水をかくるに侍りと、又、問ふ。かたがたえんぶに來りてあるほど、地獄のくげん忘るゝにや。答へ。更に其のいとま、なし。たとへば鐘の千里(ちさと)にひゞくは如し、假(かり)に此の土にま見ゆといへども、猶、本心は地獄に在りて、須臾の隙なし。見たまへ今はうたかたの、あはれにきゆる限りなり。跡、とはせ給へ、といひて、手を取りくむと見えし、忽然と消え失せて、跡もなし。一文不知(もんふち)の大俗すら、是ほど迄まよふは、そば目、はづかしからん。出家の身には、にくしともいふべけれど、此のまとひ計り、賢愚僧俗かはりなき習ひなれば、只、淺ましき業因といふべし、と打かたりて、二人共に草庵に入り、讀經作善(どきやうさくぜん)し、猶、能く吊(とむら)ひ給へ、といひのこして、祇は、あけの日、京に歸りぬ。

 

 

■やぶちゃん注

・「廣澤」広沢の池。現在の京都府京都市右京区嵯峨広沢町にある。東西五十メートル、南北二十五メートル、周囲約一・三キロメートルほどの自然湧水池で、現在の最深部は池の南部分で一・八メートルある。

・「岸の額(ひたひ)」岸辺の池に突き出た部分。

・「愛宕の高根」愛宕山。現在の京都市右京区の北西部、嘗ての山城国と丹波国の国境にある山。広沢の池の西北約六キロの位置に当たる。

・「修行(すぎやう)」ママ。

・「五間」約九・一メートル。

・「昔しおもふ草の庵(いほり)の夜の雨に、泪なそへ添へぞ」の「添へぞ」の「ぞ」はママ(「泪なそへ添へそ」の誤り)。これは「新古今和歌集」の巻三・夏歌の藤原俊成の一首(二〇一番歌)、

 昔思ふ草の庵の夜の雨に淚な添へそ山ほととぎす

である。

・「かこつべく」(の和歌のように)涙を流して歎き訴えるかのように(激しく雨が降る)。かくして季節の指定は本文にないが、作品内の時節は、この和歌からフィード・バックしてやはり梅雨時であることが判る。

・「宗祇、本性、勇猛の士」宗祇(応永二八(一四二一)年~文亀二(一五〇二)年:姓は「飯尾」(いのお/いいお)ともされてきた)の出自については。永く紀伊或いは近江かと言われてきたが、近年、宗祇の父は近江国の守護職であった六角家の重臣で守護代であった伊庭氏であり、現在の滋賀県東近江市能登川町附近を出身地とすることが学会で認められている。

・「ほむらを燒きて」「ほむら」は「炎・焰」と書き、ここは心中で燃え立つところの激情を指す。重語のように見えるが、「ほむらをむやす」などの表現はしばしば用いられる。ここは心であり、されば次にその炎が実体(に見えるところの)肉「身を焦す」と続くのである。

・「仙應寺(せんおうじ)」不詳。現在、このような地名も寺も広沢の池の北方には存在しない。敢えて似たような地名を探すと「嵯峨観空(かんくうじ)寺」同「観空寺谷」という地名を見出せはする(観空寺は広沢の池の西一・三キロ弱の京都市右京区にある真言宗寺院)。

・「高雄(たかを)」現在の京都市右京区高雄にある真言宗高雄山神護寺のこと。

・「三月廿一日」明治維新まで神護寺は女人禁制であった。しかし、何故、この日だけそれが解かれるのか? 始祖空海(宝亀五(七七四)年~承和二年三月二十一日(ユリウス暦八三五年四月二十二日相当)の遷化の日であるからか?

・「化女(けぢよ)」「けによ(けにょ)」とも読み、これは本来の仏語では仏菩薩が仮に女人の姿となって現れたもの、「権化(ごんげ)の女人」を指すポジティヴなものであるが、ここは鬼女・夜叉とまでは言わずとも、恋情に燃えた執念の魔性の生霊、所謂、男を無意識のうちに破滅させてしまう「運命の女」、ファム・ファタール(Femme fatale)の魍魎(すだま)の謂いであろう。

・「さがへ」嵯峨へ。

・「おちにきと人にかたるな」(若き僧は女に、「決して)私がかくもそなたへの恋にすっかり落ち(結果として「堕ち」)てしまったということを誰にも語ってはならないよ」。

・「あしき道にはさがなく」この「さが」(言うまでもなく「嵯峨」の掛詞であるが)は難しい。恐らくは「相・性」の意味でも、広義の良い部分と悪い部分、人間の善悪の謂いであろう。即ち道から外れた世界には悪行を抑制するような良い性質はなく、の意でとっておく。

・「鳴瀧川」現在の右京区北部の鳴滝川(下流は御室川)。以下、女色に溺れた破戒僧という徒名(あだな:艶聞(えんぶん)がごうごうと瀧の鳴り響くように広く世間に広く知れ渡ってしまったことに掛ける。

・「砥(と)とりの山の時鳥(ほとゝぎす)」刀剣の研磨に用いる砥石としては、古くからこの鳴滝川近くの鳴滝山産の鳴滝砥が最上質(仕上砥として使われる)とされ、古歌に、

 高雄なる砥取りの山のほととぎすおのが刀を研ぎすとぞ鳴く

というのがあり、ここはそれに掛けて、下句を「自(おの)が刀(かたな)の身の錆なれば」とインスパイアしたのである。無慚なるシチュエーションながら、筆者の筆はなかなかにウィットに冴えていると私は思う。

・「なき名のみ高雄の山」これは「拾遺和歌集」の「巻九」の「雑下」にある八条の大君(おおいぎみ)の一首(五六二番歌)、

   高尾にまかりかよふ法師に名立ち侍けるを、
   少將滋幹(しげもと)が聞きつけて、まこ
   とかと言ひ遣はしたりければ

 なき名のみたかをの山と言ひたつる君はあたごの峰にやあるらむ

(私のいわれもなき浮き名を高雄の山のように声高(こわだか)に言い立ているあなたは、或いは愛宕(あたご)の峰ならぬ、私の忌まわしき仇敵(あた)ででもあるのでしょうか?)

・「かこつべきよすがもなし」(と前の歌の如く余裕で掛詞の)口実を設けては、はぐらかす手段も最早、ない。

・「恨みわびほさぬ袖だにある物を戀に朽ちなん名こそ惜しけれ」「百人一首」の六十五番で知られる、「後拾遺和歌集」の「巻十四」の「恋」にある相模の一首(八百十五番歌)をそのまま投げ込んである。

・「惡趣(あくしゆ)」広義には前世での悪事の報いとして死後に堕ちる、六道の内の地獄・餓鬼・畜生の三悪道を指すが、ここはその最悪の下辺たる地獄に限定されている。

・「紅蓮(ぐれん)の氷(こほり)」バラエティに富んだ地獄の中では、比較的マイナーな「八寒地獄」の第七である「鉢特摩(はどま:Padma:「蓮華」を意味する梵語の音写)地獄」の「紅蓮地獄」のこと。ここに落ちた者は恐るべき寒さによって皮膚が裂けて広がり垂れて激しく流血して真っ赤になり、その姿が紅の蓮の花に似るとされることからの漢意訳。但し、後で火炎地獄に二人は堕ちていて、故に互いに水を掛け合っている描写が出るのとは一見、矛盾して見えるが、そもそもが後で「假に此の土にま見ゆといへども、猶、本心は地獄に在りて、須臾の隙なし。見たまへ今はうたかたの、あはれにきゆる限りなり」と述べている如く、罪深き亡者は分身となって複数の地獄に同時に堕され、共時的に責苦(この場合は真逆の)を受けるのであるからして、何ら、おかしくはない。

・「刀林(たうりん)の枝(えだ)に身をさく」私の最も偏愛する「刀葉林」或いは「刀葉樹」などと称する地獄の一種。愛欲に溺れた男女が堕ちるとされ、男の亡者が地面に立っていると、目の前の一本の高い樹の上に裸体の女が立っていて、おいでおいで、をする。むらむらときた男が木を登り始めると、木の幹や枝は総て刀となり、木の葉は棘と化して、激しい痛みの中で全身はずたずたになる(陰風の吹けば元通り)。ところがそんな思いをして頂上に辿り着いてみると女はおらず、木の元の地に立って、おいでおいで、をする。またむらむらときて……と、これをシジフォスの如く繰り返すのである。

・「えんぶ」「閻浮提(えんぶだい)」「閻浮洲(しゅう)」「南瞻部(なんせんぶ)洲」のこと。元、梵語で、宇宙を構成する四洲の一つ。須弥山(しゅみせん)の南方の海上にあるとされる島の名で、島の中央には「閻浮樹(えんぶじゅ)」の森林があって、諸仏が出現する島とされた。本来はインド自体を指したが、仏教伝播に伴い、広く人間世界、現世を指す語となった。

・「くげん」苦患。

・「須臾」「すゆ」あるいは「しゆゆ(しゅゆ)」と読み、ごく僅かの間。

・「一文不知(もんふち)」文字一字さえも読み書き出来ないこと。

・「そば目」かく傍(はた)から(我らのような)第三者に見られること。

・「まとひ」ママ。底本の「まどひ」(惑ひ)の誤植であろう。私の所持する「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)では「まどひ」となっている。

・「讀經作善(どきやうさくぜん)」ルビ(読み)はママ。「さぜん」の誤りであろう。私の所持する同前の「西村本小説全集 上巻」では「さぜん」となっている。
 
 画像は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング、補正したもの。

デパートになった阿蘇山   梅崎春生

 

 阿蘇山に登ることになった。

 初めは登る予定はなかったのである。囲碁の本因坊戦の四局目の観戦に、私は福岡市に行った。済んだらすぐ日航機で帰京する予定だったが、その前日の夜酒を飲んでいたら、NHKの海野君が、自分は九州は初めてだから二三日居残って見物して行く、という。どこを見物するんだと訊ねたら、雲仙などを考えている、との返事なので、私は奮然(すこし酔っていたから)として、

「雲仙なんかよしなさい。あれは俗化していて、箱根なんかと変りはない。阿蘇に行きなさい。阿蘇みたいな山は、日本中どこにもない。何ならぼくが案内して上げる」

 というようなことを言ったらしい。

 海野君は早速私からキップを取り上げ、翌朝眼をさましたら、二三日後の深夜便のキップに切り換えて、持って来て呉れた。切り換わった以上、もう東京に戻るわけには行かない。帰京する連中を見送って、われわれ二人は博多駅から熊本向けて出発した。

 と書くと、いやいやながら同行したようにひびくが、実はそうでない。私は昭和七年から十一年まで、熊本の高等学校の学生で、阿蘇にも何度も登ったことがある。だから熊本ならびに阿蘇には郷愁があって、いつかは熊本に行って、阿蘇に登って見たいと、かねがね考えていた。

 でも、そのためにわざわざ東京から熊本に行くのはおっくうだし、ひとりで山に登るのも骨が折れる。いつかその機会もあろうかと見送っている中に、海野君の誘いに触発されて、行くことに踏み切ったのである。むしろ私の気持はうきうきとはずんでいた。

 熊本着。車で市中を一巡。熊本城の櫓(やぐら)(西南戦争で焼かれた)が復元されている。近頃あちこちの城の天守閣や櫓が復元され、それも純粋に昔を偲(しの)ぶとの意味ではなく、もっぱら人寄せや金儲けのための事業であることについても、一言ふれたい気がするが、それはあと廻しにして、かんたんに言うと今度の阿蘇登山は失敗であった。

 私ひとりなら惨めな気持になるだけですむが、案内人としての役目も引き受けていたので、その点私は面目を失した。大口をたたいて人を案内することは、もう今後やめようと思う。

 先ず悪いことには、天気が良好でなかった。熊本着の日までは晴れていたのに、宿に泊って翌朝になると、空は暗くどんより曇っている。ラジオで聞くと、梅雨前線が張り出して来たのだという。山間部はすでに降っているらしいが、今更とりやめるわけには行かない。ハイヤーをたのんで出発した。阿蘇に登って今日の夕方は雲仙に行こうというのだから、相当の強行軍である。本来なら汽車で阿蘇駅(元の坊中駅)に行き、登山バスで行くべきところだが、それでは時間が間に合わない。

 道は意外にいい。大津街道をひた走りに走って、途中からがたがた道になったけれども、これも来年までには舗装されるとのことだ。登山口まで来るとまた立派な道となり、登山バスや遊覧バスがすいすいと行き交っている。

 私たちの車もそれにまじって、うねうね道を登って行くのだが、もう小雨や霧が立ちこめていて、視界がほとんどきかない。外輪山も見えなきゃ、山頂も見えない。エレベーターに乗っているのと、ほとんどかわりはない。

 登山口の終点に大きな休憩所があって、その二階に行くと、ロープウェイの駅がある。八十人乗りという巨大なもので、それに乗るとまたたく間に山頂につく。便利と言えば便利だが、ロープウェイ代も安くはない。

 それを降りたらもう火口が見られるかというと、そんなわけには行かない。入園料というのを出さねば、入れないのである。山なんて公共物だと思っていたら、動物園なみに入園料を払わなければならぬ。

 阿蘇町と県当局の間に、山頂の所有権についていざこざがあって、町が強制措置として柵をつくって入園料をとる、という記事を三四年前週刊誌あたりで読んだことはあるが、まだその紛争は解決していないらしい。毎日何百何千の登山客があるか知らないが、なれあいで紛争を引き伸ばして、入園料を儲けているんじゃないかと、ついこちらもひがみたくなる。一日何万円という入園料だから、ちっとやそっとでは手離せないだろう。

 改札を通っていよいよ火口かと思うと、傍に小屋があって、

「上は泥でぐしゃぐしゃですバイ。この靴ばはきまっせ」

 と、貸長靴代が五十円。

「洋服が濡れますバイ」

 で、貸雨合羽代が五十円。そこから歩いて火口まで一分もかからないのだから、商魂たくましいと言おうか、あっぱれなものである。長靴の足を踏み出すと、すぐそこに大きな賽銭箱がでんと置いてあって、その横を通らねば登れない仕組みになっている。

「この上まだおれたちから、賽銭まで取り上げるつもりか!」

 怒ってのぞき込むと、一円玉が四個しか入っていなかった。まあそんなとこだろう。賽銭箱などというものは、道ばたにまで出しゃばる性質のものでない。道ばたで金を乞うのは、乞食だと昔から相場がきまっている。

 さて、火口に到着。土は小雨に濡れてはいるが、別にぬかるんでもいない。長靴なんかにはき替える必要はなかった。視界は極度に悪い。火口をのぞいても、見えるのはせいぜい三四メートルで、あとは白い霧の底に没している。煙も見えないし、景色も皆無である。海野君も失望したと見え、にやにやしながら言った。

「つまりデパートに登ったのと、同じことですな」

「うん、うん。そう考えてくれれば、ありがたい」

 エレーベーターに乗って八階に行き、エスカレーターで屋上に登る。四方を見渡して、八階大食堂に戻り、ただの茶を飲んで、またエレベーターで降りて来る。

 阿蘇の方も、バス、ロープウェイ、入園料、靴まで貸してもらって、つまり火口に到達するまで、足を使わないという点では、デパートの屋上登りと何の違いもない。

 違うところは、デパートの方は乗り物がただなのに、この阿蘇デパートの方はおそろしく金がかかる。一挙一動に金がかかっている感じで、豪華といえば豪華だが、腹立たしいといえば腹立たしい。

 私の学生時代は、阿蘇は山であった。われわれは足で登って、足で降りて来た。今はそれが山でなくなった。しかも天気が悪くて展望がきかないとあっては、鋏(はさみ)をもぎとられた弁慶蟹(べんけいかに)みたいで、目もあてられぬのである。案内人としての私の面目は、丸つぶれであった。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第六十三回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年七月九日号掲載分。最後から四段落目の冒頭の「エレーベーター」はママ。誤字か誤植であろうが、「えれぇー」エレベーターに乗っちまったの洒落でないとは断言出来ぬので暫くママとする。

……しかし阿蘇山よ……これだけ梅崎春生を怒らしたけれど……彼はちゃんと遺作となってしまったこの四年後の「幻化」のラスト・ロケーションには君を選んだのだ。それは、きっと恩にきらねば、なるまいよ…………(――リンク先は私のPDF版(全)。ブログ版がよいとならばこちらを――)

「NHKの海野」これは単なる推測であるが、「将棋ペンクラブログ」の「NHKで放送された棋士の忘年会」の記事に出る。海野謙三氏のことではあるまいか? この記事は冒頭で『将棋世界』(昭和四六(一九七一)年七月号)の海野謙三氏の随筆「印象に残った将棋放送」を引いてあるが、そこには、去る四月『末日で私はNHKを退学したが、実はすでに』三年前に『卒業していたのである。私はNHKに入学してドラマや演芸の勉強をしたこともあるが』、二十数年間、『放送番組としては異色の囲碁将棋の時間を主として担当できたことは何にもかえがたい喜びであり、光栄であった。本番組が発足したのは』昭和二十三(一九四八)年四月であるが、『よちよち歩きの坊やが今日よくも逞しい青年に成長したものだとまるで我が息子を見る気持ちで肩の一つもたたきたい』とある。]

2016/07/24

僕の

Thermostat は截れてしまつた
 
二重螺旋は美しいけれど
 
僕はRNA生物だ
 
その紐を辿つて行くと
 
膝を抱へて顫えてゐる
 
少年の僕が
 
其處には
 
居るだけだ

松尾芭蕉を主人公とする怪談集「行脚怪談袋」原文 電子化始動 /  芭蕉翁美濃路に越ゆる事 付 怪しき者に逢ふ事

行脚怪談袋

 

[やぶちゃん注:作者不詳で著作年代も不詳の、松尾芭蕉に仮託した諸国怪談物。冒頭から芭蕉を寛文より天和年中(一六六一年から一六八四年)の俳人とするトンデモ本の類いである(芭蕉は寛永二一(一六四四)年生まれで、元禄七(一六九四)年に没しており、延宝五(一六七七)年か翌年辺りで俳諧宗匠として立机、蕉風開眼の「古池や蛙飛びこむ水の音」が貞享三(一六八六)年であるから筆者の怪しさは半端ではない)。異本も頗る多い。

 実は私は古書の活字本を二十代の頃に手に入れ、読んだ記憶があるのであるが、二、三日前から書棚や書庫を探っても見つからない。恐らくは押入れの中に積み上げたジュラ紀並の古層で化石化してしまっているものかと思われ、そうすると、何だか、無性に電子化したくなってしまった。昨日、ネットで調べていたところが、ごく最近、現代語訳が出たらしい。さてもさても! あのトンデモ本さえも現代語訳でないと読めない日本人になってしまったかと思ったら、ますます憤りの濁った泥坊主というか、鬱勃たるパトスというかが、これ、ふつふつむらむらと湧き上がっててしまったのである。されば、シンプルな電子化のみで、不遜ながら、カテゴリ「松尾芭蕉で起動することとした。

 底本は「宗祇諸國物語」同様、大正四(一九一五)年博文館刊の佐々醒雪・巌谷小波校訂「俳人逸話紀行集」の版(楽天居の上下に冊六巻本)を国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認する。踊り字は「〱」「〲」は正字化した。読みは底本に附されたものの中でも、難読或いは振れそうなもののみを選択した。句の前後は一行空けを施した。

【2016年7月24日 藪野直史】]

 

行脚怪談袋上目錄

一 芭蕉翁美濃路に越ゆる事

  
 怪しき者に逢ふ事

一 支考四條河原に凉む事

  
 狸人に化くる事

一 芭蕉翁大内へ上る事

  
 狂歌に得手し事

一 去來伊勢參と同道の事

  
 白蛇龍と成る事

一 芭蕉備前の森山を越ゆる事

  
 猅々の難に逢ふ事



 


行脚怪談袋上

 

  一の卷

 

  芭蕉翁美濃路に越ゆる事

   
 怪しき者に逢ふ事

 

抑も芭蕉翁と申すは、日本(ひのもと)に名を得し俳人にて、寛文より天和年中の人也。此翁の一句に、

 

  物言へば唇寒し秋の風

 

是は芭蕉翁、延寶年中我が俳道を諸國にひろめんが爲めに、一年行脚の如くにさまをかへ、日本六十六ケ國を廻國せり。右の内尾州より美濃路に懸り、同國倉元山(くらもとやま)の麓を通りけるに、頃は秋の半(なかば)にて、山中いとも枯れ枯(が)れしく、木の葉黃に染(そ)み草は生ひしげれどもかげうすく、さゝ吹く風は身にしみじみと、木がらしに似たり。翁此の淋しき山道を、あなた遙かに見やり、誠(まこと)や春夏は浦のとまやの景色迄も、物浮き浮きしく人心を晴らす、秋多は早(はや)よろづ景色變りて、物枯れたる有樣、されば古しへ定家寂蓮に西行の三夕(さんせき)も、各々秋の鉢の淋しき體(てい)をよみ侍る。叉此の四季を人間(にんげんん)に譬(たと)へて見れば、一歳寄(より)十(とを)有(ある)五六迄は春なり、卅有餘よりすゑは秋多におもむけば、段々元氣おとろへ、精心(せいしん)やせるの道理にて、我れも今四十餘(よ)を得る五十に近し、是れ秋の末ならん。おしつけ我が身も冬となり、風に此世を誘はれ行かんはかなさよと、山のけしきを我が身にたとへて、心細くも唯一人、寂暮(さびくれ)たる山道を、たどりたどり行く程に、日も西山に沈み、在りし草木もほの暗く思ふ所に、不思議や遙かの谷底にて、かん馬のおとかまびすしく、太刀打の體(てい)、耳もとに聞えければ、翁思ふ樣、此の所は倉元山の山中にして、人の住むべき所とも覺えず、殊更かゝる太平の代(よ)に、此の谷底にてかん馬の音なす事、若(も)し山賊のやから成るか、山賊とても海逍にこそ居るべきに、遙かの谷底にて太刀打する理窟なし。是まさしく狐堤變化(こりへんげ)の類ならん。何にてもあやしき事也。世の人の物語りにも成らんと、山傳ひに半町程かの谷底ヘ下り見るに、下は松柏茂り底のとまりを知らず。其の上につたひ下るべき道もなければ、ばせをも詮方なく、とある岩角(いはかど)に腰打懸けて、しばし下を窺ひ居るに、かん馬の音暫時にしてしづまるとひとしく、何方よりか來りけん。其の體ばうぜんたる武者一騎、緋おどしの鎧を着し、鹿の角にて鍬形打つなる甲を被り、金作(こがねづく)りの太刀を佩き、手に一本の矢を携へ、忽然とあらはれ出で、芭蕉翁の二三間向ふに立居ける。芭蕉翁不思議の事におもひ、右の武者に問ふて云く。今世の豐かにして、又此の所は山中の谷底(たにそこ)にて、人の在るべき所にあらず、然るに、其の元は甲冑を帶(たい)し、此の邊に在るこそ不思議なれ、抑も、いかなる人ぞといふ。武者は是を聞いていと哀れ成る體(てい)にて、泪をはらはらと流し申しけるは、我れ翁を見るに、一和(いつわ)の道に心を寄せ、春は花を賞し秋は月に心を寄せ給ふ。句案にのみ埋みて、忿惡邪橫(ふんあくじたわう)を心と仕給はず、誠に佛法法力の手綱たり。然るが故に我れ翁の爰へ來り給ふをあこがれて、扨こそからはれ出でたり。我等何をか包み申さん。我れ事は其の昔、壽永元曆年中此の山續の木曾路より、朝日將軍義仲にかしづき、粟津の原にて討死せし今井四郎兼平が亡念にて候、我れ忠勤を勵んで命を捨てしとは言(いへ)ども、存生の軍場にて、多くの人を討取りしに依り、しゆらの苦患遣瀨なく、生々世々生を替ふる事あたはず、何卒翁の教訓をも得、叉は佛果をも此の後遂げ得たし、二つには、此の矢の根なり。是こそは木曾源氏に於て、澤上(たくじやう)の矢の根とて十本の矢の根有り。是亦澤上と號するは、人王(にんわう)三十九代天智天皇未だ御即位あらざる内、木の九殿と申すに御座在り、此の節諸國の朝敵追ばつの爲めに、澤上速(たくじやうそく)と言へる者に申し付けられ、此の矢の根十本をうたせらる。澤上そのせつ申し上げるは、此の矢の根決して敵方へ放ち給ふな、陣中の寶(たから)と仕給へ、必らず必ず敵亡ぶべしと言へり。天皇敵を誅ばつし給ふに、此の矢の根陣中の守護神と成りて不思議有り、其の後ゆゑ有つて木曾源氏に傳はれり。然る所木曾沒落の砌(みぎ)り、此の矢の根一本うせたり。不吉と思ふ所、はたして主君義仲粟津が原にて討死あり。餘類さんざんに成りて、兎角いふ某(それがし)も粟律のみぎりにて自害せり。主君は粟津の一ケ寺へはふむりて、義仲寺と號す。且また右の矢の根九本は、義仲寺へ納まり、我れ一本不足成るを、黃泉(くわうせん)の下迄深くなげきしが、しゆらの苦げんの内にても、つひには此の矢の根を尋ね得たり。何卒義仲寺へ納めんが爲めに賴み候なり、足下(そくか)四五日の内には、義仲寺の邊へいた給はん。ねがはくば此の品をかの寺へ納めたび給ヘと、則ち右の矢の根を芭蕉翁の前へ置き、其の後芭蕉に向ひて、人道一和の教訓を請(う)け、その上又申す樣(やう)、足下若し義仲寺へ至り給はゞ、何卒某等(ら)が佛果をもとひくれらるゝ樣に、住職へ傳へ給はるべし、是のみ賴み入ると云ふに、芭蕉も奇たいの事に思ひ、逸々(いちいち)承はり屆け候由を答へて、夢にや有りけんうつゝにやありなん。あらはれし武者と見えしは、一向(ひとむか)ひの木草と成り、秋風の身にしむる計りにて、あたりを見れば矢の根計りで殘りける。芭蕉はうつかりと立居(たちゐ)たる所に、告げし矢の根殘りし上は、疑ふ可らず、木曾家の武者現はれ出で、我れに此の義を賴むとのこと也と、武者の立ち居たる方を見やり、高々と覺え得たる御經を讀誦して追善をなし、兼てうかみし事成れば、一句つらねし其の發句にこそ、

 

  物いへば唇寒し秋の風 ばせを

 

と讀誦の唇へそよ吹く風のしみしを、即座に吟ぜしとかや、扨(さて)ばせをは、夫れより四五日の内、近江路へ懸り、義仲寺(ぎちうじ)へいたり、住僧にしかじかの事を語り。一本の矢の根を渡し。十本の數(かず)揃へける。是等の供力(くりき)にや、芭蕉の遺言にて、義仲殿と後合(うしらは)せに翁を葬ふりしと、世にかたり傳へたり。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   金剛山の古跡

    金剛山(こんがうせん)の古跡


Konogousenokoseki

一時(じ)、河州(かしう)に徘徊して金剛山にのぼり、峰つゞき西につたひて、千破屋(ちはや)の城跡を見るに、楠正成が對陣の年星(ねんせい)、既に百六十餘年に及ぶといへども、修羅鬪靜(とうじやう)のちまたとて、小笹(をざゝ)の根萩(ねはぎ)の葉陰に髑(され)たる髏(かうべ)、苔に朽ちたる屍(しかばね)、爰かしこに散亂したる、其の時有樣見る心ちに哀れなり。誠に、世にある人は、しるしの塚を、嚴重(いかめし)く石を疊み、木をうゑてだに、去ものは疎(うと)く成りもて行きて、果(はて)は農業の爲めに耕(しきか)へされ、或は家作の地に移りかはるに、ゆかりの人もなく、跡とふ子孫ももたぬ身の、古郷(こきやう)をさへ遠く離れ來て、刄(やいば)の錆に身を破られ、名利(みやうり)の爲めに死を輕(かろ)くして、山野、海岸の知らぬ境に埋(うも)れ果(はて)なん、哀れにも淺ましく覺ゆ、萬靈平等の廻向(ゑかう)をなし、猶ほ西に步むに、一とせ、正成が、時を謀りて蟄居したる。觀心寺(くわんしんじ)も、西にちかし、ときけば、詣なんと、九折(つゞらをり)を凌ぎて、一所の松の茂みに入る。爰に二十計りの若侍と半百の男と、鎧、物具(ものゝぐ)、長短の太刀、十文字によこたへ、甲(かぶと)は着(き)ず、髮をからわにとり上たるが、只今、人と戰ひたるとみえて、所々、血にそみ、草座(さうざ/クサ)に擲足(なげあし)して大息つぐさま、無下(むげ)の仲間若黨などゝはみえず、かゝる所へ行きかゝらんより、道をかへんにはしかじ、孤路(こみち)によらずとこそいへ、と立歸らんとするに。侍は早(はや)、疾(とく)より見つけたると覺えて詞をかけていふ。御僧は世を塵芥(ぢんがい/チリ)に準(なぞら)へて、かろく捨てゝ、命を泡沫(はうまつ)に定めて後をまたず。行脚の行先を身の終ふる所と悟る身の、今、此の刃傷(にんじやう)のさまをけうとく怖(おそろ)しと逃去り給ふや。何ぞ一句一文の佛教を示し給はぬ、と恥しめたる、我ながらのがるゝに所なく立歸り、抑(そも)此の山中にかゝるふるまひは、と問ふ。されば只今の過言(くわごん)、申す所、必ず腹ばし立て給ふな、とかくして佛談教法(けうはふ)の道を聞き、諸罪造惡(ざうあく)の身の後の世を助からんと思ふより、一向(ひたすら)に呼返(よびか)し侍り、されば、人に物申さんに、身の上をあかさずば、いかに打ちとけ給はん。いで、我をかたり申さん。抑(そもそ)も元弘の帝(みかど)、東夷を減ぼし給はんとて。近臣より始めて、諸國の武士に密勅の御賴(おんたの)みあつて、日本國中、靜ならず。戰場の巷となつて、動亂、更に止む時なし。爰に楠正成は、別して御夢の告げによつて賴み思召たりといへど、御夢の事は全く跡なき事にて、正成は數代、禁庭につかへ奉る士也。兼々、勅を蒙りて無二の御方(みかた)なりといへ共、不將(ぶしやう)の身なれば、諸人、侮りて下知に隨ふ事、難かるべしと、謀つて密かに奏し申し、楠といふ字訓によつて勅使を下されければ、扨は楠は神慮佛意にも叶たる侍ぞ、と、諸勢、心を合す。是、正成が智謀の始め、此の後ち、はや赤坂天王寺、所々の戰ひに刄(やいば)をぬかずして士卒を亡ぼし、追はずして敵を百里の外(ほか)に拂ふ。方便(てだて)、更に凡慮の及所に非ず。神仙術師も何ならぬ謀(はかりごと)にのみ、人を誑かし、無量の命(めい)を取しに依つて、衆人の恨一人に歸して、修羅の戰場を暫くも赦されず、魔王の奴となつて、縱橫に責めつかはるゝ、身、不肖ながら、我れ我れ々一人は和田氏一人は恩地(おんぢ)何某(なにがし)、楠一家の氏族たりし罪惡に報ひて、晝夜修羅の戰ひに隙(ひま)なく、敵(かたき)にうたれ、味方を討ち、或は身の肉(しゝむら)をさきなど、今、朝庭、威(ゐ)、衰へ、武運、日々に盛んに、一度、官軍たりしもの、子孫、悉く山野にまよひ、先祖の爲め、供佛施僧の營みもなし。適(たまたま)旅僧の廻向(ゑかう)の聲に、暫く息をつぐの暇(いとま)有りて、淺間しき形を見(まみ)えぬ。相構へて、楠一家の後生善所(ごしやうぜんしよ)を祈り給へと掌(たなごゝろ)を合はせける。其の聲、初めはいとしとやかに、なかばは高聲(かうじやう)に、後(のち)は次第に弱く成りて、偏へに寢おびれたるものゝごとし。祇、打諾(うちうなづ)き、心安かれ、と領掌(りやうじやう)し、いで、此の人々の今すむ所の有樣、なす所の諸行(しよぎやう)、尋ねとはんと、二つ三いひ出るに、二人ながら目前に消失する事、朝日にむかふ霜のごとくなり行きて、宗祇ひとり、忽然と草の莚(むしろ)に殘る、げに有(う)といふ身上さへ、あるに定めぬ世の中なるに、此幻のおもかげの、いつ迄殘り果つべきなれど、かゝる恠しき事もこそ、と思ふに、今更、世のはかなさの身にそゝげり。正(まさ)しく爰に居て、と、いひしかく語りしなど、見めぐれど、二度(ふたたび)、其の形ちなく、其の聲もきこえず。只、松栢、木高(こだか)く、風に動き、荻、薄の、露やどしたるのみ也。

   おもかげははかなく消えて跡にだに

        いつ迄やどる草の葉の露

といひ捨てゝ、殊更、此人々の菩提、念頃(ねんごろ)に𢌞向(ゑかう)し、其の夜は觀心寺の堂前に、經、ずして、明かしにけり。

 

 

■やぶちゃん注

・本話は後の上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年)の、西行が讃岐の陵墓で崇徳院の怨霊に逢う「白峯」や、俳諧を嗜む隠居が豊臣秀次や連歌師里村紹巴の亡霊に遭遇して危うく修羅道へ連れて行かれそうになる「仏法僧」に通底するものを感じさせる。

・「金剛山」現在の奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境にある、金剛山地の主峰で標高千百二十五メートル。

・「觀心寺」金剛山山頂からは西南西七・二キロの位置にある、現在の大阪府河内長野市寺元の真言宗檜尾山(ひのおざん)観心寺。ウィキの「観心寺」によれば、観心寺は楠木氏の菩提寺で、楠木正成(永仁二(一二九四)年~延元元/建武三(一三三六)年:「湊川の戦い」(現在の兵庫県神戸市)で足利軍と戦って敗れ、弟正季とともに自害した。享年四十三)及び南朝所縁の寺としても知られている。正平一四(一三五九)年には当寺が後村上天皇の行在所となっており、境内には後村上天皇檜尾陵がある。『境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だけが建てられた、未完成の建築である。伝承によれば、楠木正成は、建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたため、建築が中断され、そのままになっているという。討ち死にした正成の首は当寺に届けられ、首塚に祀られている』とある。

・「半百」「はんはく」で「半白」に同じい。白髪まじりの頭髪、ごましお頭のことであるが、誤字ではなく、漢語にあって文字通りの百の半分であるから、人生五十で白髪と通底する語と言える。

・「髮をからわに」「からわ」は「唐輪」で、これは通常は「唐子髷(からこわげ)」(中世から近世へかけて元服前の子供の髪の結い方の一つで、唐子のように髻 (もとどり) から上を二つに分けて頭の上で二つの輪に成したもの。近世には女性の髪形となった)を指すが、ここは乱闘によって大童となった髪を唐輪のような感じに引き上げて括っていると読む。

・「孤路(こみち)によらずとこそいへ、」これは「論語」雍也篇に由る「行不由徑」(行くに径(こみち)に由らず」の謂い。即ち、この故事成句の原義は「裏道や小道などを通らない」ことから、「常に正道を歩いて公明正大である」ことの譬えであるが、見るからに妖しげな彼等(宗祇は既に現実の不審者ではなく怪異・亡霊として捉えているのである)を見て、確かに、「常にどっしりとして心を落ち着け、行く道を堂々と歩いて行かねばならぬ」、とはいうものの(妖異と不測の事態を考えてそこを避けんとした自身の弱さを行間に滲ませつつ、である)で、それを「こそ」已然形の逆接用法で上手く表現したのである。

・「けうとく」この場合は形容詞を修飾してその程度の甚だしいさまを意味する語ととる。

・「必ず腹ばし立て給ふな」「ばし」は副助詞で、下に禁止の表現を伴って、「~など決して……するな」の謂いであるから、「どうか決してお腹立てなさいまするな」の謂い。

・「抑(そも)」ここは宗祇が新たまって胆を据えて質す際の発語の辞で、一方、後の侍の「抑(そもそ)も」は、自身の因縁を徐ろに語り出す発語の辞として訓を使い分けている。細かいところだが、リアルで実によい。

・「恩地(おんぢ)何某」楠正成の執事に恩地(おんち)左近正俊(生没年未詳)という人物がいる。河内恩地神社の神職であったが、兵法家でもあり元弘元/元徳三(一三三一)年に正成に従い、河内赤坂城に籠城して幕府軍と闘い、建武元(一三三四)年の紀伊飯盛山の攻撃では先鋒として活躍、延元元/建武三年には父正成と別れた正行(まさつら 嘉暦元(一三二六)年?~正平三/貞和四(一三四八)年:後の河内国北條(現在の大阪府四條畷市)で行われた「四條畷(なわて)の戦い」に於いて足利側の高師直・師泰兄弟と戦って敗北、弟の正時と共に自害した)を伴って河内に帰り、彼をよく支えた。「軍用秘術聴書」「楠兵記」などの楠木流兵法の伝書を残している(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

・「寢おびれたる」「寢おびる」は「夢を見て怯える」の意。

・「領掌」「りやうしやう(りょうしょう)」と清音でも表記する。ここは、承諾すること、了承の意。
 
 画像は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング、補正したもの。

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蠋

Hakuimusi

はくひむし 蠋

【音】 【波久比無之】

      芋蟲

      【以毛無之】

 

本綱蠋似蠶而在樹上食葉者

按是亦有數品在柚柑之類者似蠶而黒黃班色小者

 二三分大者寸許形不甚肥着葉裏竊囓切其葉後羽

 化成蝶又有正青而肥大者觸物則出角兩角微小皆

 有柚柑椒之氣甚臭也其青而有白輪紋者羽化爲鳳

 蝶【凡蝶遺卵於柚柑葉孚爲蠋蠋復裂爲蝶出飛去也卵生化生輪𢌞蠋好葉蝶好花】

 

[やぶちゃん注:ここに縦罫。]

 

芋蟲 囓芋葉俗呼爲芋蟲正青色肥大或有黒者有青

 黃班者有背淺黃腹白者共無角有硬刺反曲如鉤胸

 六手對生小而似爪腹以下八脚對生小而圓如肬

 

 

はくひむし 蠋〔(しよく)〕

【音、】 【波久比無之。】

      芋蟲

      【以毛無之〔(いもむし)〕】

 

「本綱」、蠋は蠶に似て、樹上に在り、葉を食ふ者なり。

按ずるに、是れにも亦、數品、有り。柚〔(ゆず)〕・柑〔(みかん)〕の類に在る者は蠶に似て、黒黃の班〔(まだら)〕色にて、小なる者、二、三分、大なる者、寸許り。形、甚だ〔しくは〕肥えず、葉の裏に着〔つ〕きて竊〔(ひそ)か〕に其の葉を囓〔(かじ)り〕切〔る〕。後〔の〕ち、羽化して蝶と成る。又、正青にして肥大なる者、有り、物に觸るれば、則ち、角を出だす。兩角、微小なり。皆、柚・柑・椒〔(さんせう)〕の氣(かざ)有り、甚だ臭し。其の青にて、白き輪の紋、有る者は、羽化して鳳蝶(あげはの〔てふ〕)と爲る【凡そ蝶、卵をして柚・柑〔の〕葉に遺し、孚〔(かへ)〕りて蠋と爲り、蠋、復た裂けて蝶と爲り、出〔でて〕飛び去るなり。卵生・化生、輪𢌞〔(りんね)〕して、蠋は葉を好み、蝶は花を好む。】

 

[やぶちゃん注:ここに縦罫。]

 

芋蟲 芋の葉を囓る。俗に呼びて「芋蟲」と爲す。正青色。肥大。或いは黒き者、有り、青黃〔の〕班〔(まだら)〕の者、有り。背〔の〕淺黃〔にして〕腹〔の〕白き者、有り。共に、角、無し。硬(かた)き刺(はり)有〔りて〕反(そ)り曲(まが)りて鉤(つりばり)のごとく、胸に六手、對生〔(たいせい)〕し、小にして爪(つめ)に似たり。腹より以下、八つの脚、對生す。小にして圓く、肬〔(いぼ)〕のごとし。

 

[やぶちゃん注:まずは(後の「芋蟲」の記載は別)蛾や蝶類を含む、鱗翅目 Lepidoptera の幼虫のうちで、通常、「青虫(あおむし)」と呼称しているところの、長い毛で体を覆われておらず、緑色のものを指している。その食性から「はくひむし」、葉食い虫という俗称で呼ぶ。

 

・「二、三分」六ミリ強から九ミリ強。

・「寸許り」約三センチメートル。

・「正青にして肥大なる者、有り、物に觸るれば、則ち、角を出だす」この角は臭角(しゅうかく)と呼ばれるものであるが、これを持っている(背面の頭部と胸部の間に一対)のは鱗翅目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科 Papilionidae のアゲハチョウ類のチョウの幼虫に限る。オレンジ色でかなり目立ち、同時に濃縮した柑橘異臭を放つ。一般的記載ではこれは摂餌対象である柑橘類が持つテルペノイド(Terpenoid:五炭素化合物であるイソプレン・ユニットを構成単位とする天然物化合物)とあるが、一部の種では、臭み成分にアリストロキア酸を多量に含むとある(「アリストロキア」は、当該化学物質を豊富に持ち、アゲハチョウ科アゲハチョウ亜科キシタアゲハ族ジャコウアゲハ属ジャコウアゲハ Byasa alcinousやアゲハチョウ科ウスバアゲハ亜科タイスアゲハ族ホソオチョウ属ホソオチョウSericinus japonicaなどの幼虫の食草であるコショウ目ウマノスズクサ科 Aristolochioideae亜科ウマノスズクサ属ウマノスズクサ Aristolochia debilis の学名に由来する)。食草から得たアリストロキア酸を体内に貯め込む「選択蓄積」を行い、それを防禦物質として使用しているのである。因みに調べて見ると、アリストロキア酸には腎毒性があり、発癌性も疑われている。また、その角の非常に目立つ色と形状からは、これを捕食しようとする者への警戒色としてもいることが判る。

・「凡そ蝶、卵をして柚・柑〔の〕葉に遺し、孚〔(かへ)〕りて蠋と爲り、蠋、復た裂けて蝶と爲り、出〔でて〕飛び去るなり。卵生・化生、輪𢌞して、蠋は葉を好み、蝶は花を好む」この箇所を虚心に読んでみると、この「化生」というのは、現在の狭義の「蛹化」や「羽化」の「化」と一種、通じた雰囲気があり、良安が必ずしも、仏教の四生の影響を強く受けた中国本草に於ける「化生」(けしょう:仏教では自分の超自然的な力によって忽然と生ずること。天人や物怪の誕生、死者が地獄に生まれ変わることなどを指す)に縛られている訳ではなく、仏教用語「輪𢌞」を用いてはいるものの、構造的には同一の生命体のライフ・サイクルとしての近代生物学的な認識の萌芽見られるという気が強くしてきた。

・「芋蟲」以前にも引いたが、まずウィキの「イモムシ」を再掲しておきたい(下線はやぶちゃん)。『イモムシは、芋虫の意で、元来はサトイモの葉につくセスジスズメ』(鱗翅(チョウ)目スズメガ上科スズメガ科ホウジャク亜科コスズメ属セスジスズメ Theretra oldenlandiae)『やキイロスズメ』(スズメガ科コスズメ属キイロスズメ Theretra nessus)、『サツマイモの葉につくエビガラスズメ』(スズメガ科スズメガ亜科 Agrius エビガラスズメ Agrius convolvuli)『などの芋類の葉を食べるスズメガ科』(Sphingidae)『の幼虫を指す言葉である。決してイモのような風貌なのでイモムシなのではない。伝統的な日本人の食生活においてサトイモやサツマイモは穀物に次ぐ重要な主食作物であった。そのため、これらの葉を食害する巨大なスズメガ科の幼虫は、農村で農耕に携わる日本人にとって非常に印象深い昆虫であった。そのため、イモムシが毛の目立たないチョウやガの幼虫の代名詞として定着するに至ったと考えられる。よく名前の知られたイモムシには、ヨトウガ類』(鱗翅目ヤガ科ヨトウガ亜科 Hadeninae 或いはヨトウガ属 Mamestra の仲間)『の幼虫であるヨトウムシ』(夜盗虫:夜行性に由来)、『イチモンジセセリ』(鱗翅目セセリチョウ上科セセリチョウ科イチモンジセセリ属イチモンジセセリ(一文字挵:「せせる」は物をあちこち突っつきまわす意、「一文字」は後翅の裏の銀紋が一文字状に並んでいことに由来)Parnara guttata)はチョウ目(鱗翅目)セセリチョウ科に属するチョウの一種。特徴として後翅裏の銀紋が一文字状に並んでいるためこの名前がある。Parnara guttata)『等の幼虫でイネの害虫であるツトムシ、モンシロチョウ』(鱗翅目アゲハチョウ上科シロチョウ科シロチョウ亜科シロチョウ族モンシロチョウ属モンシロチョウPieris rapae)『の幼虫でキャベツ等を食害するアオムシ、シャクガ科』(鱗翅目シャクガ(尺蛾)科 Geometridae:幼虫の尺取虫に由来)『に属するガの幼虫のシャクトリムシ等がある』(尺取虫は既出であるが、次で独立項として出る)。またアゲハチョウ上科アゲハチョウ科アゲハチョウ亜科アゲハチョウ族アゲハチョウ属キアゲハ Papilio machaon のように、アゲハチョウ類でありながら「青虫」にならない(キアゲハの幼虫は三齢まではアゲハチョウ属 Papilio xuthus(実は彼らも青くなる五齢以前は「青虫」ではない)ナミアゲハと同様に鳥の糞に似せた保護色をしているが、四齢幼虫では白地に黄色と黒の斑点模様の警戒色となる。五齢幼虫ではさらに黄緑と黒のしま模様に変化し、黒いしまの部分には橙色の斑点がある)も立派な「芋虫」であるということになる。

・「硬(かた)き刺(はり)有〔りて〕反(そ)り曲(まが)りて鉤(つりばり)のごとく、胸に六手、對生〔(たいせい)〕し、小にして爪(つめ)に似たり。腹より以下、八つの脚、對生す。小にして圓く、肬〔(いぼ)〕のごとし」この「硬(かた)き刺(はり)」は棘や毛のことではない。「反(そ)り曲(まが)りて鉤(つりばり)の」ようだというのであるから、これは鱗翅目スズメガ科(ウチスズメ亜科 Smerinthinae・スズメガ亜科 Sphinginaeホウジャク亜科 Macroglossinae の三亜科から成る)の多くの幼虫の特異的特徴である、腹部末端の「尾角(びかく)」と呼称する尾状突起を描写したもののように私には思われる。実際、英語圏ではスズメガの幼虫を“horned worm”(角の生えた芋虫)と称しており、参照したウィキの「スズメガによると、『尾角の形状・色は種類によって異なるが、その用途は良く分かっていない』ともある。なお、この角には毒は、ない。]

なつかしき昔の教科書   梅崎春生

 

 リバイバルブームというのが起っているのだそうである。私は外国語に弱いので、そりゃ何だと訊ねたら、昔のものを復活させる風潮で、具体的にいうと昔の歌が流行したりすることだそうだ。

 インスタントブームやレジャーブームなど、ブームが次次に押し寄せて来るから、つき合うのにもいかが疲れる。

 そのリバイバルとは実は関係ないが、私はかねてから自分が習った小学校の国語読本を、手に入れたいと考えていた。

 一体あの頃おれはどんなことを習っていたのだろう。(私は大正四年生れ、四十六歳。)それに私宅にも小学四年の男の子がいる。それが習っている教科書とくらべてみたい、という気持があった。そこで手を尽して、北海道の畑中さんという人からゆずって貰うことが出来た。

 どさっと小包みで送られて来て、わくわくしながら包みを解くと、尋常小学国語読本と印刷された表紙がまず眼に飛び込んで来て、久しぶりに恋人、いや、幼馴染にめぐり合ったような気がした。

 早速机の上に積み重ねて、巻一から読み始める。奥付を見ると「定価金六銭」、その傍に「臨時定価金八銭」とある。「ハナハトマメ」の片仮名で、巻一は始まっている。巻十二になると「臨時定価金拾六銭」で、大正時代のじりじりしたインフレが手に取るように判る。

 巻一から巻十二まで読み終るのに、まるまる二日間かかつた。なまけなまけして読んだのではなく、熟読玩味、時には音読さえしたのだから、そのくらいかかるのは当然であろう。すらすらと思い出せるのもあったし、おや、こんな文も習ったのかいなと、全然思い出せないものもあった。

 よく覚えているのはやはり韻文で、

「旅順開城約なりて」

「今に見ていろ、僕だって、見上げるほどの大木に」

 だとか、口あたりがいいから、自然記憶にとどまるのであろう。

 それからうちの男の子を呼んで、巻七(四年生前期用)を読ませたら、これがほとんど読めない。巻七の最初は「世界」と題する文章で、何故読めないかというと、第一に文語体だからである。次のような書き出しだ。

 「われらが住む世界は、其の形まるくして、球の如し。ゆゑに之を地球といふ」

 第二に旧仮名が使用してある。それに漢字が多いし、その漢字も旧字体である。何やかやの条件が重なって、私から指導されながら、その章を二十分ぐらいかかって読み終えたが、

「それでどんなことが書いてあったか?」

 と聞くと、ほとんど理解していない。理解せよという方が無理だろう。

 もっとも大正時代の小学生を、時空を超えて現代につれて来て、今の国語読本を読ませたら、やはりめんくらうだろう。新仮名や略字体に眼をぱちぱちさせるだろうが、しかし理解しないことはないと考えられる。

 誌面のつくり方からいうと、今の読本の方がいたれりつくせりで、痒いところに手の届くような編集がなされている。昔のは今のより教訓的で、つっぱねたような文章が多い。

 それから一番強い印象を与えるのは、活字の大きさである。昔の読本の活字は実に大きく、形は古風ながら堂々としている。今のは形はスマートだが、字体は小型である。

 人間の眼にとって、あるいは子供の眼にとってどのくらいの大きさの活字が適当であるか、すらすらと頭に入って来るか、その道の学者に聞かないと判らないが、明治大正時代から活字は年々歳々小さくなって行く一方のようだ。頁単位に出来るだけ多数の内容を盛り込もうとする実利主義から来ているのではないか。

 だから近頃老人たちから、

「近頃の新聞雑誌は活字が小さ過ぎて、老眼鏡をもってしても、とても読めない。老人向きの活字本をつくって呉れ」

 との投書や談話が発表されたりしている。

 それは当然の要求と言えるし、日本人の眼のためにも今少し活字を大きくする必要があると思う。私も近頃、地下鉄ぐらいの明るさの中では、新聞を読むのに苦労する。大見出しと小見出しだけ読んで、内容は読まずに網棚に放り上げて下車するというケースがしばしばである。

 新聞活字だって、昔は大きかった。今のように頁当り十五段制じゃなく、十段か十二段制なので、活字も大きくゆったりと組んであった。つまり満員電車の中でぎゅうぎゅう押しになってちぢこまっているのと、がらがら電車の中で足をゆったり開いて腰掛けているぐらいの差がある。

 しかも昔の活字は、ルビというお伴をつれていた。昔のジャーナリストに聞くと、あの頃の活字は活字そのものにルビがついていたそうである。つまり、昔という字なら「昔(むかし)」[やぶちゃん注:底本ではこの鉤括弧内は「むかし」とルビの振られた「昔」一字分。]であって、「昔」と「 (むかし)」[やぶちゃん注:底本ではこの鉤括弧内は一字分の本文空白一マスと、そこに右に小さく振られたルビの「むかし」。]とを分離して必要に応じて組み合わせるのは、その後の時代のことだ。

 私が小学生の時、私のお婆さんがまだ生きていて、老眼で新聞が読みづらい。学校から戻って来た私を呼んで、新聞小説の続きを音読させる。どんな小説だったか内容は忘れたが、たいてい男女のいざこざを描いた小説で、ルビつきだから私にもすらすら音読出来るのである。

 一回読み終ると、お婆さんは、

「もう終ったか。何子(あるいは何男)は一体どうなるんじゃのう」

 と溜息をつきながら、読み賃として一銭か五厘(半銭とも言った)玉を呉れる。私はそれを握りしめて、遊びに行く。

 ルビをたどって読むには読んだが、こちらはまだ子供で男女間の機微なんかを解するわけがない。何子や何男がどうなろうと知ったことではない。読み賃が欲しかっただけである。

 その頃は子供の雑誌だけでなく、大人の娯楽雑誌もそうだった。ルビというものの功罪は私にはよく判らないが、ルビばかりを読んでいるようでも、自然と横の漢字の形が眼に入り、頭にしみ込むという作用は、たしかにあると思う。

 今の青年たちは字の読み方を知らないそうだ。電車の中で、

「新宿をコンジョウとしたぐれん隊が――」

 と話しているから、何のことだろうと考えたら「根城(ねじろ)」のことだったと本多顕彰氏が書いていた。

 また先日瀬沼茂樹氏の話によると、大学生が「ジンサイ」「ジンサイ」という言葉をしきりに使う。何事ならんと問いただしてみると「人妻」のことだったそうである。

 隠語として使っているのなら、話は判らんことはないが、瀬沼先生に対して隠語を使うわけがない。やはり本気なのである。

 こんなのは特別の例であるかも知れないが、もしルビつきで教育されていたら、この連中もこんな錯誤をおこさないだろう。だからといって私はルビを礼讃しているわけではない。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第六十二回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年六月二十五日号掲載分。

「小学校の国語読本」国立国会図書館デジタルコレクションのこちらこちらで全巻を画像を視認出来る(一巻が大正六(一九一七)年で二巻以降も大正末以降の修正版であるが、基本は変わっていないと思われる)。

「旅順開城約なりて」巻九の「第十 水師營の會見」の冒頭。同前のこちら。若い読者のために述べておくと、水師営(すいしえい:音写:シュイシーイン)は中国の清朝に於ける北洋艦隊(清国呼称は「北洋水師」)の隊員駐屯地を意味する一般名詞であって地名ではない。ここは明治三八(一九〇五)年一月十五日に日露戦争に於ける旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結された遼寧省大連市旅順の水師営を指す。日本代表は第三軍司令官乃木希典(嘉永二(一八四九)年~大正元(一九一二)年)大将、ロシア代表は旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセルАнатолий Михайлович Стессель:ラテン文字転写:Anatolii Mikhailovich Stoessel「ステッセル」は「ステッセリ」とも音写 一八四八年~一九一五年)中将であった。当時の旅順軍港から北へ五キロメートルの位置にあった(ここはウィキの「水師営に拠った)。以下に電子化しておく。底本では頭注欄があり、そこで覚えるべき新漢字が示されている(一部に下線。既習を示すもののように思われる)。これは各行末に【 】で示した。踊り字「〲」は正字化した。これは文部省唱歌ともなって佐々木信綱作詞としているが、幾つかの記載を総合すると佐々木信綱原案というのが正しい。

   *

   第十 水師營の會見

  旅順開城約成りて、

  敵の將軍ステッセル

  乃木大將と會見の

  所はいづこ、水師營。」【師】

  庭に一本ひともと棗なつめの木、

  彈丸あともいちじるく、【彈

  くづれ殘れる民屋に、【屋】

  いまぞ相見る、二將軍。」

[やぶちゃん注:ここに乃木とステッセルの会見の図が入る。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像をトリミングし、補正して挿入しておく。同読本は全体がパブリック・ドメインである。]

Suisieinokaiken

  乃木大將はおごそかに、

  御めぐみ深き大君の

  大みことのりつたふれば、

  彼かしこみて謝しやしまつる。」【謝】

  昨日の敵は今日の友、

  語る言葉も打ちとけて、

  我はたゝへつ、彼の防備。【備】

  彼は稱たたへつ、我が武勇。」

  かたち正していひ出でぬ、【正】

 『此の方面の戰闘(とう)に

  二子を失ひ給ひつる

  閣下の心如何にぞ。』と。」

 『二人の我が子それぞれに

  死所を得たるを喜べり。

  これぞ武門の面目。』と、【

  大將答力あり。」

  兩將晝食(ひるげ)共にして、

  なほもつきせぬ物語。

 『我に愛する良馬あり。

  今日の記念に獻(けん)ずべし。』」

 『厚意謝するに餘りあり。【厚】

  軍のおきてにしたがひて、

  他日我が手に受領せば、【領】

  ながくいたはり養はん。』」

 『さらば』と、握手ねんごろに、

  別れて行くや右左。

  砲音(つゝ)たえし砲臺に

  ひらめき立てり、日の御旗。」

   *

なお当時、乃木は満五十五歳で、詩の中にも出るが、彼はこの戦争でこの前年の五月二十七日(乃木の日本進発直前)に長男勝典を南山の戦い(遼東半島の南山及びその近郊の金州城で行われたロシア陸軍との戦いで亡くし(ロシア軍の銃弾が腸の部分を背部まで貫通する大きな創が空き、野戦病院で手当てを受けたが、出血多量で死亡した。満二十四歳であった)、十一月三十日には父希典が指揮する旅順攻囲戦第三回総攻撃に参加していた次男保典(後備第一旅団副官であったが、ロシア軍の砲弾を至近に受け崖から滑落、岩場に頭部が激突して粉砕、即死した)が満二十二歳で戦死している。一方のステッセルはこの時、満五十六歳で、この日露戦争終了後に旅順要塞早期開城の責任を問われて一九〇八年二月に軍法会議で死刑宣告を受けたが、一九〇九年四月に特赦により禁錮十年に減刑されている。これに関しては乃木希典が助命運動を行ったのが最大の理由とされている。釈放後は軍を追放され、モスクワで茶商人などして静かな余生を送ったとウィキの「アナトーリイ・ステッセリにある。

「今に見ていろ、僕だって、見上げるほどの大木に」巻四の「十五 しひの木とかしのみ」で、同前のこちら。なおこれは、まさにこの「尋常小学国語読本」の「ハナハト読本」と通称される版の編纂者であった福岡県生まれの国文学者で国語教育学者の八波則吉(やつなみのりよし 明治九(一九七六)年~昭和二八(一九五三)年)の作詩になるものである。前に倣って以下に電子化しておく。

   *

   十五 しひ の 木と かし の み

 思ふ ぞんぶん はびこつた【思】

 山 の ふもと の しひ の 木 は、

 根もと へ 草 も よせつけぬ。

 

 山 の 中 から ころげ出て。

 人 に ふまれた かし の み が、

 しひ を 見上げて かう いつた。

 

「今 に 見て ゐ ろ、僕 だつて、

 見上げる ほど の 大木 に【

 なつて 見せず に おく もの か」。

 

 何百年 か たつた 後、【百】

 山 の ふもと の 大木 は

 あの しひ の 木 か、かし の 木 か。

   *

『巻七の最初は「世界」と題する文章』「巻七」全体は同前のこちらで通読出来る。その冒頭の「第一 世界」は以下。前に倣う。

   *

  第一 世界

われらが住む世界は、其の形まるくして、球の【形 球】

如し。ゆゑに之を地球といふ。【

地球の表面には、海と陸とありて、海の廣さは【

およそ陸の二倍半なり。

海を分けて太平洋・大西洋・印度洋とし、陸を分【

けて、アジヤ洲・ヨーロッパ洲・アフリカ洲・南アメ【洲】

リカ洲・北アメリカ洲及び大洋洲とす。【及】

我が大日本帝國はアジヤ洲の東部にあり。【部】

[やぶちゃん注:ここに見開きで世界地図が入る。国立国会図書館デジタルコレクションの画像をそのまま(色補正もせずに)挿入する。]

Sekaitizu

地球上には大小合はせて六十餘國あり。其

の中我が大日本帝國と、イギリス・フランス・イ

タリヤ及びアメリカ合衆國を世界の五大強【衆

國といふ。

   *

「本多顕彰」(ほんだけんしょう 明治三一(一八九八)年~昭和五三(一九七八)年)は浄土真宗僧侶でしかも、英文学者で評論家。愛知県名古屋市の寺院に生まれ、大正一二(一九二三)年、東京帝国大学文学部英文科卒。東京女子高等師範学校教授・法政大学教授。シェイクスピア・ロレンスなど英文学の翻訳・研究に加え、近代日本文学ほかの広範な評論活動を行った(ウィキの「本多顕彰」に拠る)。梅崎春生より十七年上。

「瀬沼茂樹」(明治三七(一九〇四)年~昭和六三(一九八八)年)は文芸評論家。東京生まれ。東京商科大学(現在の一橋大学)卒。在学中伊藤整と知り合い、終生の親友となった。出版社に勤め、昭和五(一九三〇)年に伊藤の『文芸レビュー』同人となり、谷川徹三の知遇を得、評論活動を始める。昭和一七(一九三二)年には唐木順三・藤原定らと季刊『理論』を創刊、翌年には最初の著書「現代文学」を上梓している。埼玉県立商業学校教師・川越中学校教師から昭和一二(一九三七)年には化粧品会社に勤務して執筆活動を一時、休止。戦後の昭和二一(一九四六)年に『新日本文学』に拠って評論活動を再開、小田切秀雄・猪野謙二と相知る。日本大学講師から昭和三五(一九六〇)年には日本大学芸術学部教授となった。昭和三八(一九六三)年に「日本近代文学館」が創立されると理事となった。その後は大正大学に移るが、ここに出るのは日大時代で、その学生であろう。昭和二八(一九五三)年当時の早川書房編集者であった宮田昇のブレインとして『翻訳ミステリの安価なシリーズ』を奨めて同社の「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」の創刊を奨めたことで知られ、彼自身もミステリ等の翻訳がある(以上はウィキの「瀬沼茂樹」に拠った)。]

2016/07/23

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   武藏野の休らひ

    武藏野の休らひ

 
Musasinonoyasurai

 

むさしのゝ草より出て草莚(くさむしろ)、足、休むべき木陰もなき永き日、陽(ひなた)を分けくらして喉(のんど)かわき、息苦し、行くべき方に人家ひとつを見つく、茶を乞ひ休ひてなど、𣿖(たど)りつく心や嬰兒の乳房(にうばう)を慕ふに似たらんと自(みづか)らたとへらる。昔も我がごとき喝(のどかは)きの在りしにや。

 

   むさしのゝほりかねの井もある物を

       嬉しく水のちかづきにけり

 

と古歌(ふるうた)をひとりごちて、家につきぬ。主(あるじ)の女とおぼしきが表の障子、ほそくあけて、夕日さしこむ影、翳(まばゆ)く、錦にはあらぬ玉川の、さらす細布さらさらに、ちかづく夏の用意とや、單なる物を縫也けり。宗祇、外面(とのも)によりて、申し兼ね侍れど涯(はて)しなき野邊に疲れたる法師にて侍る、御茶ひとつ給ひなん、といへば、女、肝をけしたる風情(ふぜい)に、つと立て宗祇を一目見やりながら、障子をひしとさして奧に入ぬ。茶やくるゝと、暫し彳みて待てども音もせず。休めといふ聲もなし。打ちはらだちて、あな、つれなの女や、なくばなきにてこそあらめ、あはじとも見じともいはぬ思ひこそとぞ、いふつらさより數(かず)まさりけれ。日もはや暮れに成りぬ。先(さき)より出て行かば、多くの道を行べき物を、と打つぶやきて、

 

   引たつる障子がおちやになるならば

      門(かど)の口こそのむべかりけれ

 

と狂歌(ざれうた)して立歸りなんとするに、彼の女、茶を持ちいで、宗祇の袖をひかへ、腹(はら)あしの御僧(おんそう)や、とほゝえみながら、

 

   おちやひとつぬるむほどだにある物を

      いかに瞋恚(しんい)のわきかへるらん

 

といへば、祇も笑ひて呑みぬ。かゝる東(あづま)のはてしながら、かく迄やさしき女の在ける事こそ、何さま、故有なんかし、尋ねまほしけれど、くれなん道のほどに、こゝろいそぎけるまゝ、出て行ぬきぬ。

 

■やぶちゃん注

・「むさしのゝ」……「古歌」これは「千載和歌集」の藤原俊成の一首(一二四一番歌)、

 

   法師品(ほつしほん)、

   漸見濕土泥(ぜんけんしつどでい)、

   決定知近水(けつじやうごんすい)の

   心をよみ侍りける

 武藏野の堀兼の井もある物をうれしく水の近づきにけり

 

である。「法師品」は法華経第十品。「漸見濕土泥、決定知近水」は「漸く見る 濕めりたる土泥 / 決定す 水の近きを知るを」の意。一首は、同品の偈に「渇乏須水 於彼高原 穿鑿之求 猶見乾土 知水尚遠」(渇乏(けちぼふ)して水を須(もち)ひんとして 彼の高原に於いて 穿鑿して之れを求むるに 猶ほ乾ける土を見ては 水 尚ほ遠しと知る)とあるのを受けるもので、「堀兼」に「掘りかねる」(掘り悩んでなかなか水(正法(しょうぼう)が得られない)の意を「兼ね」る、掛けてある。なお、この古来、歌枕として有名な井戸であるが、比定地は埼玉県狭山市堀兼の堀兼神社などにあるものの、最早、定かでない。

・「單」「ひとへ」。単衣(ひとえ)。

・「彳みて」「たたずむ」。

・「引たつる障子がおちやになるならば門(かど)の口こそのむべかりけれ」茶その他の掛詞の連打が宗祇の苛立ちをよく表現していて面白い。以下、やぶちゃん勝手自在訳。

――音高にピシリと「引きた」てた「障子が」、それでお茶「になる」ものだとするなら……それなら、こんなに待つまでもなく、この家の「門(かど)」、角ばったとげとげしい性質(たち)の、この主(あるじ)の「口」つき、雰囲気を早く察して、門口にてさっさとそれを飲んでしまった方がよかったことだ(さすれば今日の旅の歩数も稼げたものを)。――

・「おちやひとつぬるむほどだにある物をいかに瞋恚(しんい)のわきかへるらん」同じく、やぶちゃん勝手自在訳。

――御茶を一つ淹(い)れ、ただ、お飲み頂くのに、ほどよきぬるさになるまで待っておりましたのに……どうしてあなたさまはそのように、湯の煮えたぎる如く、「瞋恚」(怒り恨むこと・腹立ち・怒り)に「わきか」えっていらっしゃるのでしょう。――
 
 画像は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング、補正したもの。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 始動 / 山神想紀氏娘

[やぶちゃん注:江戸前期成立の、かの知られた連歌師宗祇に仮託した、怪奇譚の多い浮世草子「宗祇諸國物語」(貞享二(一六九五)年に京の旅館にて記す由の自序はあるものの、署名はない)の正字電子化翻刻を単独ブログ・カテゴリを設けて行う。構造的には西行に仮託した「撰集抄」を模倣しているように思われるが、逆にこれが後に西鶴の「懷硯」などに模倣されており(西鶴の知られた「西鶴諸国咄」同年の出版)、幾つかの章は後の上田秋成の諸作との共通性を見出せ、現在知られる諸妖怪談の版本の最古層に位置する作品と言える。現在、活字化した電子テクストはネットにはないと思われる。

 底本は大正四(一九一五)年博文館刊の佐々醒雪・巌谷小波校訂「俳人逸話紀行集」の版(正徳三(一七一三)年京都西村丹波屋板行)を国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認する。

 踊り字「〱」「〲」は正字化し、読みは難読或いは読みが振れると私が判断したもののみに限った。読み易さを考え、読点を私の判断で恣意的に追加してあるが、底本の句読点の変更は一切していない。一部に出る左右の読みは「草鞋(さうけい/ワラヂ)」のように示し、前者が右ルビ、後者が左ルビである。和歌の前後は一行空けた。

 これは私の怪談蒐集癖(私の書斎には現在では読まれることの頗る稀有となった埋もれた怪談集が山積みされて在る)のため、私の精神の〈モンストロムなる健全さ〉を保つため、このところの外界に対する広汎にして非論理的な憤怒感情を内封するために、全くの趣味で行うものであり、私が読解し得、納得すればそれで終わりのものである。されば注は私が分らぬ箇所や疑問に感じた部分にのみストイックに各話末に附すこととした。

 挿絵は底本よりトリミングし、画像補正して挿入した。【始動:2016年7月23日 藪野直史】] 

 

宗祇諸國物語卷之一

    山神想紀氏娘(さんじん、きうぢのむすめをおもふ) 

 

Sanjin

 

一とせ丹後の國に入て名所を尋ね、逆緣(ぎやくゑん)に任せきれとの文珠成相(なりあひ)の觀音など詣で侍る。此わたり、北は海にて涯(かぎ)りなく遠く、東西南(とうざいなん)の三方(みかた)は山めぐり、巖々(がんがん)と高し。海邊にいねの里といふ在鄕あり、入海の濱を箕(み)の手に取まはして家居したる、皆、獵師なり。此の中間に、浦島の明神とて、社あり。里の人にゆゑをとふに、浦島が子の生所(しやうじよ)にて、則ち、此浦より蓬萊に行きて歸りしを、壽命長久の神仙とて、所の氏の神にいわひぬるよし、語りぬ。爰に詣で、出でゝ南に行く事、三四里計り、其の初は人里のやうに覺えて、辿り入るに、早晚(いつしか)、家居絕たる山中の、森々たる木のもとに、行べき道も見えず、歸るべき筋も忘れぬ。月は、はや、影すくなく、暮れかゝりて、物の色あひも、さだかならねど、寺舍(じしや)なんともなき所にや、貝鐘(かひかね)の聲もきこえねば、いとゞ便りなけれど、かゝる目をみるこそ旅の本意(ほい)にはあれ、淺ましき事をも取出けるよと、心にこゝろをはげみて、木の根づたひにあゆむほどに、ひとつの洞(ほら)の前に、方(はう)二間計りの小家あつて、柴垣うつくしく、山水の流れ、淺々(せんせん)と淸き軒(のき)ざま、心すむべき住居(すまひ)と見ゆ、折ふし暮れかゝる空に、行きまよひぬる道のほど、たとひいかなる人の住所にもあれ、おして宿からばやと、まがきによりて物申さんといふに、内より二十年(はたとせ)あまりのおのこの容色うるはしきが、狩衣に太刀脇ばさんで、出あふ。こは、かゝる深山におもほえずの人のさまや。主(あるじ)の風情(ふぜい)、大形(おほかた)の山賤とはやうかはりてみゆ。さみしたる物いひもいかゞと崇(あが)めて、愚僧は旅の者にて侍り、此の山中にふみまよひ侍るが、不思議に御家居を見うけて、盲人の杖を得たる心ちし侍る、一夜のほどを明かさせて給へ、といへば、主、少しも恠(あやし)む氣色(けしき)なく、ほゝゑみて、やすき事、こなたへと先に立りて入りぬ。祇(ぎ)は草鞋(さうけい/ワラヂ)とりて内の體(てい)を見るに、百疊計り敷双べたる奧につゞきて、左に御簾(みす)、半(なかば)卷きたる一間、奧床しく深し、右にならびて十餘間の渡殿(わたりどの)、玉をちりばめ、金(こがね)をもつて莊嚴(しやうごん)せり。此の砌(みぎり)に瀧白く落ちて、蓮(はちす)、杜若(かきつばた)のみか、目なれず、かうばしき異草(ことくさ)の靑く葉をまじへたる、海底(かいてい)の石、五色を交へ、立てならべし築山のすがた、目もあやに、をかし、不思議や、此家は方二間に過ぎじ、と見しに、此の樓閣はと、もとの外面(そとも)に出でゝ見れば、又、在りしにかはらず、不思議の世界にもまよひ來ぬる事かなと、恠し、とかくする程に、稍、燭をとる頃に成りて、主、一つの菓(くだもの)を、るりの盆に入れて、御簾の間より取出でゝいふ。旅僧に物參らせ度く思へど、飯(いひ)、炊ぐべき童もなければ、其わざもなし。此の菓、きこしめせ、徒然(さびしき)事も有るまじ、とすゝむ。祇は終日(ひねもす)の道に疲れて、漸々(やうやう)、食とぼしけれど、主の斯くいふに力なく、是なりとも、と、菓をとりて見るに、梨子(なし)の大さして、色は黃に赤き物なるを、口にいるゝに、味(あじは)ひ、世にたぐふべき物なし。半(なかば)喰うて、腹、みちたり。名をとへど、さだかにもこたへず、主、威儀をつくろひ、いひ出るは、御僧は名にあふ歌仙にてまします、名乘り給はねども、我れ、よく知りて、爰に請(しやう)じ入れぬ。此の所の景地(けいち)、不審(いぶか)しく思召らん。爰は當所、山神の社(やしろ)にて、則ち、自(みづか)ら主なり。けんぞく、あまた侍れど、異形のものなれば、怖れ給はんと、皆、隱し置き侍り、先づ某(それがし)、公(きみ)に密談すべき事有り、當國與謝(よさ)の海邊(かいへん)に、紀氏何某(なにがし)といふ人、過ぎし世の亂れより、おりかくれてすめるあり。息女(むすめ)ひとり持てり、容顏又なく、二八の春の花、香(か)をなつかしく、色をこのみ、情の道も淺からぬを、世にある人のえんを求めて、さまざまにいひかよへど、大かたの心には、なびくべきけしきにもあらず。爰に某、過ぎこし秋、此の南の岨(そは)づたひ、遊興の黃昏(たそがれ)、紀氏何某、茸(たけ)がりのかへさ、彼の娘いざなひて、そこの山路をたどりし時、おもほえず、行向(ゆきむか)ひ、互にみえつ、みえしより、心、空に、肝、きえて、更に足のふむ所を覺えず、女も、有しさま、心よそに在りとは見えず、一方ならぬ思ひながら、父母(たらちね)の見るめあれば、あまのかるもにすむ蟲の、音にのみなきてこがれしを、我が眷屬の中に、萬(よろづ)に賢(さかし)ものゝ侍るが、ひとつの玉章(たまづさ)を持ちて、女(め)の童の形に化(け)し、彼の屋形にしのび入り、さまざまにかき口説(くど)き、いな舟のいなといはれぬ最上川、のぼれば下る返事をひたすらに、と責めけれど例のつよき心より、いなせの一こともなし、なをしたふべき思ひにもなければ、錦木の千束(ちづか)つもりつもりて、頃(このごろ)まれに一言(ひとこと)を得たり。あるが中に言葉はなくて、三十一字の詠也。忝辱(はぢかしく)も我れ、山神の一社に崇(いはゝ)れ、和光の名を塵に汚(けが)すといへ共、敷島の道、遠く、和歌の浦に遊ばねば、有りし歌心をも不辨(わきまへず)、まいて返しの言葉もなし。適(たまたま)、公(きみ)、此の山里に來り給ふを幸ひに、山道に迷はしめて、此の所に誘(いざな)ひ入れたり。此歌の返し、予れにかはり、よみて給はゞ、いか計りの情(なさけ)と一向(ひたすら)に搔口說きけり。宗祇、打諾(うちうなづ)き、扨は山神の假(かり)に見(まみ)えて爰に誘ひ給ふとな、さる事こそ最(いと)やすく侍れ、返歌讀みて奉らん。其のかたさまの歌はいかゞと問ふ。是に侍りと、金色(こにじき)のみだれ箱やうの物より取出づる、手にとるに、かうばしく燒(た)きしめたる紙に、あてなる手跡(しゆせき)して、

   谷川の跡なき水の瀨を淺み

       末にわかれて波や立らん

とあり。主の云く。先づ此歌をいかゞ心得侍らんやと、祇の云く。此の歌の心は、男を谷川の水になぞらへたり。跡なきといふは山川の雨の後(のち)計り水出でゝ、一花(はな)、心の人だのめなるありさま、せをあさみは、川の瀨をいもせの背(せ)によせて、心の淺きといふなるべし、末にわかれてとは、きぬぎぬの心、又長きうき別(わか)れなどをかねていふ也。波や立らんは、名や立らんといふ心と見えたれば、君か心だに誠(まこと)あらば、おちてぬるべき心也と、念頃(ねんごろ)に講じぬるに、主、莞爾(ゑみ)て、賢(かしこ)くも御僧を賴みつるかな、我思ひおぼろけの事に侍らず、たゞ推量りて、よきに返しの歌よみて給へとあれば、

 返し

   谷川のとだえのなかれせきとめて

       淺き瀨ならば水ももらさじ

とよみて、これをあたふに、悦びて、あさぢ、あさぢ、と呼ぶ。あ、といふて出づるを見れば、大きなる白狐(びやつこ/キツネ)なり。是よ、此の文を有りしかたへもて行け、と有れば、立ちさりて、草の葉を取出で、かづくやうにせしが、忽ち、十二三の女の童になり、かひがひ敷く、文、持ちて、出で行きぬ。祇は萬(よろづ)の事につきて奇異の思ひをなすのみ也。主、又、云く。宵に申せし我がけんぞくども、見參に入れ申すべし。我が前なれば、恐れ給ふな、と手を打ちて呼ぶに、鹿、狼、狸(むじな)、兎、熊、駑(おそ)、山犬、其外、目(め)馴れぬ獸類數千、村々と出で來る。主の云く。汝等、此僧を見知まゐらせ、いづこの國里にても不義いたす事、勿れ、といひ含めて、獸類、退き出でぬ。いづち行けん、不ㇾ知。かゝりしほどに、しのゝめ、漸々明かくなれば、暇まをして立出づる。主、戸のもと迄、送り、禮義、厚くして、内に入ると覺えし、二杖三杖、行きてふり返り見るに、小家とみしも、松杉の木立のみにて、たゞ嵐の跡、冷(すさま)じく、まがきはしのゝ茂也。教へし道のみ明らかに、二三町步むとおもへば、人里に出でたり。此のふしぎ、夢に在りけんと、我ながら我れをかへり見るに、更にうつゝ也。あやしくも珍しき事に侍り。 

 

■やぶちゃん注

・「逆緣(ぎやくゑん)に任せきれ」逆縁は仏法に於いて一見、自然な現象としての「順縁」の対語で、悪行が却って仏道に入る機縁となることや、或いは、親が子の死を弔うことなどを意味する。定められた因縁に抗わずに完全に身を委ねよ、そうすることで逆に正法に導かれ、極楽往生出来るという謂いと一応ここではとっておくが、次の私の注も参照されたい。

・「文珠成相(なりあひ)の觀音」現在の京都府宮津市にある、天橋立を見下ろす西国三十三所第二十八番真言宗成相山成相寺。本尊聖観世音菩薩。森本行洋(ゆきよし)氏のサイト内の「西国三十三ヶ所めぐり」の同寺の解説によれば、この寺には「撞かずの鐘」伝説に基づく鐘と鐘楼が建つ。慶長一四(一六〇九)年のこと、住持賢長(けんちょう)が『新しい鐘を鋳造するため浄財の寄進を募ったとき、裕福そうな家の嫁が、子供は沢山居るが寺に寄付する金はない、と言って断った。鐘鋳造の日、大勢の人の中に例の嫁も子供を抱えて見物に来ていたが、誤って子供を坩堝(るつぼ)の中に落としてしまった。出来上がった鐘をつくと、子供の泣き声、母を呼ぶ悲しい声が聞こえ、聞いている人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って、以後、一切この鐘をつくのを止めたという』とあり、これがまさに具体な子が母の先に亡くなる「逆縁」に基づく広義の「逆縁」への帰納法的な報恩譚である。

・「いねの里」現在、舟屋で知られる丹後半島北東端の京都府与謝郡伊根町。

・「箕(み)の手に」海に対して箕の如く斜めに。

・「山賤」「やまがつ」。

・「さみしたる」「さみ」は「沙彌」(沙弥(さみ))で修業の未熟な半僧半俗の僧めいた、の意、相応の知性を感じさせるの意で、とる。「さみす」には「狭みす・褊す」(形容詞「狹(さ)し」の語幹に接尾語「み」の付いた「さみ」にサ変動詞「す」の附いたもの)という「軽蔑する・見下す・軽んじる」の語があり、以下で宗祇が「崇めて」と応じるようにも見え、文法的にはこの方が正しいように見えるのであるが、以下の主の印象とあまりに異なるので、とらない。

・「敷双べたる」「しきならべたる」。

・「かへさ」「歸さ」。「さ」は時刻を指す接尾語。帰る途中。「かへりさ」が元で促音便無表記であるから、これで「かへっさ」と読むべきとする説もある。

・「父母(たらちね)」「垂乳根(たらちね)」には親・両親の意がある。

・「父母の見るめあれば、あまのかるもにすむ蟲の、音にのみなきてこがれしを」「見るめ」に海藻の「海松(みる)め」に掛け、「あまのかるも」(海人の刈る藻)に棲む「蟲」甲殻類である「われから」(割れ殻/吾れから)を引き出し、藻の「根」から「音」(ね)を引いて「なきてこがれ」(泣き焦がれ)と続ける。既にしてこの山神も一人前の歌人ではある。なれども結果、宗祇に頼んだは、恋の病いに山の神の超能力も歌学の技巧もすっかり鈍ったということであろう。

・「玉章(たまづさ)」手紙。艶書。

・「錦木の千束(ちづか)つもりつもりて」世阿弥の謡曲「錦木」で知られる、現在の秋田県鹿角(かどの)市十和田錦木地区にある錦木塚伝説に基づく謂い。ウィキの「錦木塚によれば、『昔、鹿角が狭布(きょう)の里と呼ばれていた頃、大海(おおみ)という人に政子姫というたいへん美しい娘がいた。東に』二里ほど『』離れた大湯草木』(おおゆくさぎ)の『里長の子に錦木を売り買いしている黒沢万寿(まんじゅ)という若者がいて、娘の姿に心を動かされた。若者は、錦木を』一束、『娘の家の門に立てた。錦木』は五種の木の枝を一尺あまりに切って一束にしたもので、五色の『彩りの美しいものであった。この土地では、求婚の為に女性の住む家の門に錦木を立て、女性がそれを受け取ると、男の思いがかなった印になるという風習があった。若者は来る日も来る日も錦木を立てて』、三年三ヶ月ほど『たったところ、錦木は千束にもなった』。『政子姫は若者を愛するようになった。政子姫は五の宮岳に住む子どもをさらうという大鷲よけに、鳥の羽を混ぜた布を織っていた。これができあがって、喜びにふるえながら錦木を取ろうとすると、父はゆるさぬの一言で取ることを禁じた。若者は落胆のあまり死亡し、まもなく、政子姫も若者の後を追った。父の大海は嘆き悲しみ』、二人を『千本の錦木と共に手厚く葬ったという』とある。

・「予れ」「われ」。

・「一花(はな)」「ひとはな」は、ただ一時だけの(情け心)の意。

・「駑(おそ)」獺(かわうそ)。歴史的仮名遣では「(かは)をそ」が正しいが、転訛後はかなり以前から「おそ」の表記も用いられたようである。但し、この「駑」の漢字には獺の意はなく、脚の鈍(のろ)い馬の意味しかない。何故、これに獺が当てられているのかはいろいろ調べたものの、不明である。識者の御教授を乞うものである。

・「まがきはしのゝ茂也」「籬(まがき)〔と見えた〕は〔、ただ、これ〕篠〔竹〕の茂り〔たるのみ〕なり〔き〕」。

教育は学校で十分   梅崎春生

 

 うちの男の子が今度四年生になったら、俄然宿題が多くなったと嘆いている。

 学校から戻って来ると、重いランドセルをおろし、腹がぺこぺこだと言いながら勝手に電話でざるそばなどを注文して食べ、それから宿題を始める。

 夕食時が来るとたら腹食って、また机に戻り、宿題にしがみつく。それほどやっても終るのが九時半、十時に及ぶ日がしばしばである。

 もっともテレビの番組に面白いのがある日は、宿題をスピードアップして、見る時間を結構拈出(ねんしゅつ)しているのだから、ふだんの日はなまけなまけやっているのかも知れない。しかし宿題が多いということは、宿題用紙の量から見ても判る。

 これが中学になるともっとひどくて、有名校になると、夜十二時前に寝るような子はたちまち成績が下って、落伍してしまうのだそうである。

 もう昔のことだからほとんど忘れたが、私の小学校中学校では、宿題というのはほとんどなかったような気がする。

 私の生地は地方都市で人口もすくなく、今の東京のようにせち辛くなかったせいかも知れぬ。また学校に持って行く教科書類もすくなく、風呂敷にちょこちょこ包んで、登校下校した。

 家に戻るとその風呂敷包みをそこらに放り出して、遊びに出かけた。今子供のランドセルを持ち上げてみると、やたらに重い。私の時代の三倍やそこらはあるようだ。あれを全部学校で習っているのだろうか。

「春夏秋冬」という季刊文芸同人雑誌がある。その春の号に伊藤整氏が「ニューヨークの小学校」という小文を書いている。伊藤さんは今ニューヨークにいて、八つになる娘さんをそこの小学校に入れたのだ。

 その小文によるとあちらの小学校では、教科書は学校に置きっ放しで、家に持ち帰ってはいけないことになっているらしい。したがって宿題もあり得ないわけである。

 それから日本の小学中学は、五十分授業で十分間の休憩があるが、伊藤嬢の学校は午前九暗から十二時まで休みなしのぶっ続け。帰宅して食事、また登校して一時十五分から三時までぶっ続け、とのことだそうだ。途中で便所に行きたい時は勝手に行っていい、という仕組みになっている。つまりみっしりと集中的に勉強する。

 丁度それはアメリカの官庁や会社と、日本の役所や会社の違いと似ているのだろう。アメリカのはきめられた時間は、わき目もふらずにごしごし働く。

 日本の役所は出勤時にも調整時問というのがあり、四十分ぐらい遅れても遅刻にならない。登庁してもすぐ仕事にはかからず、先ず一服してゆっくりお茶をのむ。十一時半ぐらいになると昼飯を食いに出かけ、一時過ぎに戻って来る。退庁時刻になると、急に仕事を思い出して残業する。

 残業すれば残業手当がつくが、子供の宿題には宿題手当がつかない。厭々ながらやるから、学業が身につかない。やはり学問は学校でやるのが本筋であって、宿題を持って帰るのは邪道ではなかろうか。

「随筆」という雑誌があって、毎号「随筆寄席」という愉快な座談会が開かれているが、その六月号のそれで林髞氏が、同じ趣旨の発言をしている。

 戦争前林さんはお嬢さんをアメリカンスクールに入れた。やはりここでも教科書を家に持って帰さない。学校で教えることは学校で覚える。家へ帰って覚えてはいけないという方針で、もちろん宿題なんかはない。ぼくは宿題全廃論者だと林さんが言うと、徳川夢声氏も大賛成で、

「……先生が不精なんです。先生自身、教える自信がないんだナ。教育は先生だけがするもんじゃない。家庭と力を合わせて、はじめて真の教育ができると思っておる。それはある意味で、そのとおりです。家庭には家庭の教育があるはずです。しかし今の先生は、学校の教育も、家庭でしろてんだから」

 と、先生たちが聞くと怒りやしないかと思われるような発言を、徳川さんはしている。私も徳川さんの言に賛成である。

 しかしこれには異論があるだろう。日本とアメリカとは国情が違う。日本には日本の特殊事情がある。勉強しなきやいい学校に入れないし、いい学校を卒業しなきゃいい職業につけない。狭い国土に一億人の人間がひしめいているのだから、少々無理して勉強して、他人を蹴落して突進しなけりや、生きて行けないのだ。と、世の中のある種の親たちは叫ぶであろう。

 そういう親たちの子供こそいい面の皮で、遊ぶということを知らず、朝起きて夜寝るまで、何らかの意味で勉強につながるという生活をしている。

 素朴な私見によれば、子供というのは遊ぶことが仕事であり、勉強ということはつけ足しである。それが勉強ばかりになったら、人間性(子供性というべきか)は荒廃してしまう。

 他人を蹴落すことばかり考えているから、友人同士でそねみ合い、けんせいし合っている。友人にけちをつけ、あるいは利用出来るものなら豚のシッポでも利用しようという、小さなエゴイストが出来上る。

 私たちが学生の時にも、そんな性格の男はいた。いたけれども、それは一組に一人か二人ぐらいなもので、たいてい軽蔑の的となり、仲間外れにされていた。今はそのパーセンテイジが多いらしく、都内の有名校などでは集団的に発生しているようである。

「そんな人間になるくらいなら、宿題なんてしなくてもいいのだぞ!」

 という言葉が咽喉(のど)まで出かかっているけれども、そうすれば子供は大よろこびして、親の許しを得たとばかり、公然とさぼり出すだろう。それじゃ困るので、私も黙っている。

 それと関連あると思うが、近頃奨学金の返還率が非常に悪いそうである。だから育英会では、戸別訪問による集金に乗り出したが、予算がすくないので集金人がわずかしか雇えない。

 奨学金というのは一種の借金だから、かならず返さねばならぬ。それを何故返さないかというと、三つの型に分れていて、

 一、面倒くさいから返さないもの。

 二、払わないでいれば、その中育英会の方であきらめてしまうだろうと、希望をつないでいるもの。

 三、育英会に無断で転居して、転居先不明で督促状が届かない。それで返済を忘れて(?) いるもの。

 この中で一と二が圧倒的に多いのだそうである。借りる時には三拝九拝したかどうかは知らないが、利用するだけ利用し尽すと、あとは知らぬふりをするというのも、小さい時からエゴイストに育てられているせいではないのか。戻さなきゃ資金が尽きて、後進に奨学金が与えられなくなる。

 それを知りながらそんなことをするのは、極めて悪質なことだと思う。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第五十九回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年六月四日号掲載分。

「林髞」(はやしたかし 明治三〇(一八九七)年~昭和四四(一九六九)年)は大脳生理学者であるが、ペン・ネーム「木々高太郎(きぎたかたろう)」の方でより知られる推理小説家の本名である。]

2016/07/22

葉鷄頭   杉田久女

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年一月『電氣と文藝』に発表された俳人杉田久女の小説。久女、満三十歳。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、執筆年を考え(幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されている)、恣意的に多くの漢字を正字化した。傍点「ヽ」はブログでは太字に代えた。踊り字「〱」「〲」は正字に直した。

 ……お読みになれば判るが、ここには久女という女性の驚くべき強烈な「個」が、匂い立っている(特に後半部)。思わず、身を引いてしまう読者も恐らく、確実に、いるであろう。私は自分が、この原稿を送られた『電氣と文藝』の編集人である長谷川零余子(作中の孤雁子は彼である)本人であったら、どう感じたか、ということを考えた。

 しかし、それでも私は、久女を愛して、やまない。――]

 

 

   葉鷄頭

 

 

 K市の東の町はづれ。屋敷町の黑塀や煉瓦塀のとぎれたところに、木柵をめぐらした四五百坪の花畠とも野菜畠ともつかぬ畠があつた。

 野菜畠の奧には荒塗の壁をもつた、垣根も、好もないむき出しの小家が一軒、紅がら塗りの粗末な格子を打ちつけた窓を、八月末の夕暮の冷めたい雨にうちぬらしつゝ、廣い野菜畠を側面にして建てられてゐた。砂まじりの畠の土は淡黃色に濕めつて、絶えまなしに雨を吸ひ込んでゐた。

 窓のすぐ下からは畠になつてゐて此家に附屬して借りてある幾坪かのゴチヤゴチヤした畠には艷々しい紫紺色の長茄子や、白綠色の水々しい白菜の縮れ葉やひとり生えの小南瓜の色付たのなどが、此夏休み中拔きもせずにうつちやつてあつた雜草の中に交じつてあつた。かうした茄子や白菜や、雜草の茂つた間々に挾まれて、向日葵だの葉コスモス、六七尺の葉鷄頭が七八本、たがやされた柔い地中の肥を吸ひあげてすくすくと人の樣に佇んでゐた。もうのび止まつて笠の樣に丸く茂つた葉鷄頭のテツペンには緋色と鮮黃の斑が刻みつけられてゐるのもあり、またまつ靑な儘でゐるのも、黑ずんだ紅色を淡く葉末にたゞよはしてゐるのもあつて、此すばらしい背の高い葉鷄頭の群れが卵色した荒壁や、格子窓の白い障子をバックとして、初秋らしい白い夕暮の細雨をあびてゐるのであつた。

 恰度其時。畠窓の障子が家の中から開けられて白い女の顏が浮んで直ぐに消えた。かと思ふと、裏口の方から、目笊を持つた三十位の束髮の女が現はれて、髮の毛の濡れるのを厭ふ樣に、袂の先をかざしつゝ葉鷄頭の間をすり拔けて白菜の前にかゞむのであつた。彼女の藍がゝつた立縞の着物に、紫陽花か何かを絞り風に染め出した夏帶を、キチンと高くお太鼓に結んだ引しまつた後姿と白い足袋の踵が地の上にくつきりと浮いて見えた。寶石(いし)をはめた肉付のいゝ手が、白綠色の縞をびつしりとしきつめた樣な白菜のうねをあちこち動いては、間引かれた小い菜が細い髭根に泥をつけたまゝ地に置かれた笊の中に拔いては入れ拔いては入れくりかへされた。暫くたつて一杯になつた綠色の笊を抱へて立ち上つた房子の、油氣のない前髮には、こまかい雨の玉がまき散らした樣に溜つてゐた。菜をぬいてゐた方の指輪の手で後れ毛をかきあげつゝまともに顏を上げた彼女の、大きい二皮目の瞼は、泣いたあとの樣な櫻色にすこし脹れぼつたく、瞳(め)は悲しさにうるんでゐたが、然も、興奮した中に混亂した入りくんだ色を現はしてゐたし、そげ氣味の赤味のない面長な頰、見詰めるのが癖の樣な冷めたい目色、やゝ詰まつた感じのする額、輪廓のはつきりした顏全體に何となく淋しい荒んだ憂鬱な表情が漂ふのであつた。彼女は何度となく葉鷄頭の頂き越しに、此畠の奧の家への通路となつてゐるポプラの並木の方を、振り返り振り返り、何かを待ち設ける樣な目付で心を殘しつゝうつむき勝ちな靜かな足取りで、笊をかゝへた中背の後姿を向日葵の陰の裏口へかくしてしまつた。

 それから小一時間もたつた頃、もう大分夕暮れらしい薄闇でぬりこめられた格子窓の中から、房子の顏が二三度待ちあぐねた樣に浮かみ出ては消えてしまつたころ、三臺の幌俥が此並木徑の入口に現はれた。

 さうして、畠をめぐらした木柵の一端の、扉もない通用門見たいな處の、畑とも路次ともつかないポプラの入口に梶棒を突き入れ樣として停まつた最初の俥の車夫は、

「この奧にも家らしいものが有る樣だから聞いて來ませう。多分さうでせう」と言つてずんずん並木をはひつて行つた。目のさめる樣な黍の葉の海を片手に見て小一丁許り入り込むと追ひ詰められた樣な奧のとこに、柿の立木を枝のみ切り拂つて其儘門柱にしたと云ふ樣な奇妙な扉(と)のない小い門が黑塀の隅つこに形ばかりにひつついてゐた。はげた小い門札の字を辿つてづかづかと玄關の叩キへ立つた車夫は「松田さんはこちらでございますか。へい。お客樣を停車場からお連れしましたんで」かう濁つた聲を掛ると奧から房子がそはそはと出て來て、玄關にあつた下駄をつつかけて門口迄出むかへるのであつた。

「おうい、こゝだとよう」今の俥夫がもとの場所へ步みつゝ手をあげてあひ圖をすると、三臺の幌俥の中からセルの袴をはいた夏羽織の男達が下り立つて、旅行カバンを下げた車夫達を先に、此葉鷄頭の家をさして步み出した。めいめいの傘で、兩方からづしりとトンネルの樣に垂れ被さつたポプラの濡れ枝を押しわける樣に次々としごいては並木の徑を辿る。其度毎に枝や葉をサラサラと傘にこすりつける音。ポトポと砂地に降る雨露の音。車夫達がピチヤピチヤと潦(にはたづみ)を踏みわたる草鞋の音。しごく度にゆるやかに跳ね返る枝と枝、葉と葉とが觸れあふ幽かな咡き。折々ポプラの幹にコツコツと突きあてつゝ傘を持つた狹くるしい並木の徑を過ぎる時の暗ぼつたい雨の日らしい感觸に浸りつゝ一步一步、柿の木の門へ近づいてきつゝあるのがはつきりと目に寫り出した時、彼女は燕の樣に身を翻して急いで門の中へ隱れてしまつた。どやどやと此狹い門内に押し込んで來た人々の目に最初にうつつたものは濡れた石疊の間や、硬い石ころ交じりの上に生えちらばつてゐる四五寸足らずの瘦せた葉鷄頭であつた。小人の樣にひねびた形をしつゝも早や靑い葉先に黃と紅をかつきりと刻みつけて玄關口に威張つてゐる葉鷄頭に心を止めて流し目にしながら、日和下駄をカチカチと氣忙しげに敷石の上に刻んで一番先に玄關をおとづれたのは、一行の中の主賓とも云ふべき孤雁子といふ三十少し上位の東京の俳人であつた。そこにはうす暗い障子の陰の疊に坐つてつゝましやかにほゝゑんで彼等を迎へてゐる房子の顏がくつきりと夕闇に浮き上つて見られるのであつた。[やぶちゃん注:「咡き」「ささやき」(囁き)。森鷗外に用例がある。「孤雁子」モデルは高浜虚子の弟子で『ホトトギス』編集人長谷川零余子(明治一九(一八八六)年~昭和三(一九二八)年)。本作の掲載誌『電氣と文藝』も彼が編集していた。推定で大正八(一九一九)年の八月末か(第二段落)。]

 ゴトンゴトンと二つ三つの旅行鞄や手荷物が玄關の板敷におかれて車夫達は皆歸つて行つてしまつた。孤雁子と他の二人の俳人達は電氣の灯つた八疊の座敷に通された。そこにはもう座布團が敷かれてあつて、座敷の隅には、白の十の字の上布に夏羽織を着流したお醫者らしい風采の三十七八位の男が一人、鷹揚な態度で彼等に會釋した。

「先年は誠に失禮申上げました。此度は又御多用のところをわざわざお立寄り下さいまして………さぞお疲れでいらつしやいませう」

「さあ、どうぞこちらへ」かう房子は床の正面の座布團へ孤雁子を招じつゝ三年振りの挨拶を感激に述べるのであつた。

「これは泡浪(はうらう)氏す」「こちらは銀川(ぎんせん)氏です」と孤雁子は、隣の體の大きい色の白い、比較的長い幅のある顏に眼鏡をかけて何となく梟の樣な感じのするやゝ猫脊の大學生風の泡浪を紹介した。も一人の銀川氏と云ふのは房子の住んでる此市から三時間許りで行ける某市の俳人で色の淺黑く頰骨の高い、顏全體も頭髮の刈り込みも四角い、巖の樣ながつしりした感じのする人だつた。之等の人々は此房子の先輩の人達で、東京の某誌の選者であるところの孤雁子も、他の二人も、雜誌の上では日頃から親しみを覺えてゐる人々のみであつたし一二度或る席上で逢つた事がないでも無かつたが改まつてかく近々と挨拶をとり交す樣な機會は之が初めてであつた。

 で、各自の間に挨拶が一通りすむと、最後にあの座敷の隅にひかへてゐた鷹揚な風采の男が、

「私は公孫樹と云ふ者ですが、房女さんとは始終御懇意にしてゐます。どうかよろしく」ぽつんぽつんとひきちぎつた樣な、まの暢びた調子で、おうやうに言ひ終つたとき、側にひかへてゐた房子は何といふ世間ばなれのした拙い調子で挨拶をする人だらうと、親しい公孫樹の爲めにくすぐつたい樣な氣まり惡さと、そのまののびた挨拶に強い親しみを覺え乍らみまもつてゐるのであつた。

 孤雁子が東京を出てから此九州を俳句施行してゐる長旅の話し。婦人俳句會が各地でさかんな事や、孤雁子の奧さんの柏女(かしは)さんが長い間神經痛の爲めに惱んでゐられる話なんどが彼と房子との間にプログラムの樣にとり交される。だが無口らしい初對面の男の人ばかりの中に唯一人交じってゐる主人役の房子も、社交的の人ではないので、一と通りの言葉が使ひ果されたあとは皆が離れ離れの樣な心持でポツンとセルの袴の膝に手をおいて妙に押しだまつてしまふのであつた。まづ正面に、キチンと坐り込んでゐる孤雁子の五分刈頭太く厚い唇眉毛が濃くて耳朶が特別に大きくてどこもかも太い線と感じを持つてゐる顏をかうして灯の下に近々と相對して眺め乍ら旅行中の話をきいてゐた房子には久しい間唯理智一點張りで利己的な人の樣に俳句とか人の評などを透して考へさせられてきた此人。血とか淚とかの全くない親しみのない、むしろ嫌ひな部類の人の樣に考へさせられて過して來たので、それとなく心の底では反抗的な心持さへもつてゐた此先輩の俳人が思ひがけなく訪れて來て自分の目前にあると言ふ事は非常にもの珍らしい事の樣にも思へたし、孤雁子の語る物靜かな低い聲の底には深い感情といふものが流れてゐると言ふ事を直覺して、今まで考へてゐた此人に對する心持をもう一度考へ直して見た許りでなく房子の受け入れ易い心ははじめて親しく打語らう此の客人を非常な好意をもつて快よく歡待しようとするのであつた。三年前にはじめて房子は東京の婦人俳句會の席上で孤雁子に逢うつたのであるが其時はろくろく挨拶をする暇もなかつた。其後孤雁子の夫人で名の知れ渡つた俳人である柏さんとはずつと親しい手紙の往復をして來たのであるが、かうして九州旅行の歸途突然他の俳人につれられて尋ねられた事は全く意外でもあり、常々客などのめつたにない旅ガラスの侘しい住家に氣のおける未知の人々を迎へるのは非常に肩のはつたきまりの惡い事の樣な心持がした。彼女はそんな事で興奮してゐたが、かん高い聲で靜かにうけ答へしてゐつゝある彼女の、女としては線の強過ぎるはつきりしたアウトライン、段のついた高い鼻、道具立ての大きい顏は恰度塑像の顏面を眺めてゐる時の樣な硬い冷たい感じがするのであつた。

 孤雁子は約一月にわたる長旅に各地の俳句會や歡迎會などで毎夜の樣に遲く迄ひき出される體を、そこへ投げ出し度い樣に疲れ切つてゐた。それをかうしてかたくるしく坐つてゐるといふ事、口を動かしたり俳句の話などをするのでさへも、實をいへば面倒臭くて堪まらない。お互にもつと寛ぎ度い。直ぐにも辭し去り度い樣な心持に滿たされつつ彼女を前にして體を支へてゐる事に苦痛をさへ感じて來た。

 無口な銀川、泡浪の二人は、てんきり口を開く事をしないでシヤチコバツた形をして畏(かしこ)まつてゐるし、亭主役やら幹事役やらに來てもらつておいた公孫樹氏も一向とり𢌞したり、こせついたりしない型の人だつたので、皆離れ離れの寄せ集めの樣な心持を相持して、煙草をむやみにふかしてゐる許りだつた。もつと寛ぎ度い、何となくギコチない座敷の空氣を破り度いと、張り切つた心にかうすぐと感じた房子は此座敷をはづさうとする前にこんな事を言ひ出した。[やぶちゃん注:「てんきり」呼応の副詞「てんから」に同じい。]

「東京の里の母が暫らく滯在してゐましたがつい先き程須磨の姊の處へ立ちました。母を送つた私はすぐ行き違ひにあなたをお迎へ致しました。折角かうしてお出であそばしましたのに、私は今、あなたをお迎へ致した嬉しい心持と母を送つた淋しい心とでいつぱいに成つて、私の心でない樣に亂れてゐます」

何のためらひもなくすらすらと、かう言ひ終つた房子は大きい瞳をいつぱいに見開いて、視線をまつすぐに孤雁子の上へ投げかけて今の彼女の心の中にある感情を、そつくりその儘彼の前へさらけ出してしまつた。そして、今迄初對面の客達に對してゐるといふつくろつた心持を投げすてゝ、ひたとまむきな感じをかざり氣なしにつき出した彼女の目は悲しさと嬉しさと混亂した色に打沈んで前後の事情をよく知つた公孫樹以外のお客達を却つてますますギコチない妙な心持に導いて行くのであつた。默り込んで、房子の立ち去つた疊の邊へ目を落して考へこんでゐる孤雁子の前にやがて房子がすり足でお茶をはこんで來た。丸い束髮の大きい影法師を疊に落して、再びはこんで來た、朱塗の菓子皿の栗饅頭は、房子が坐らうとする時に積み重ねてあつた三つの中の一つがころげ樣としたのを、房子は、氣づいて、一度襖のかげに持ち返つて正しくなほしてから靜かに再び運んで來た。孤雁子は此の房子の行動を注意深く見てゐたやうであつた。さうかうする中にS市のMと言ふ若い俳人もやつて來て狹い座敷の中は再び紹介やら挨拶やらに打ち賑はつた。背がずんぐりとして、針の樣な硬い黑い髮を角刈にした、色艷のよい、油つこい顏のMが、洋服のポケットから手巾(ハンカチ)を取り出して額の汗をふき乍ら、明日のS市の句會の打合せや時間を極めたりH市の句會の話しが出たりして、世間なれた樣なMの態度は、大に此きゆうくつな場面をやはらげるのに效があつた。煙草の煙のうづ卷いてゐる灯の下でぽつぽつと、隔のとれかゝつた會話が交される。そこへ今度はS港迄房子の母を送つて行つた良三が歸つて來た。良三は手にしたバナナと葡萄の籠を妻に渡して來客の名などきいた後、白がすりの浴衣の上に羽織をひつかけて座敷に現はれた。良三は房子よりも大分年が上の樣に、一寸見には見えてゐたが一體にヒヨロリと細長い背の高い男で、細長い幅の狹い色白の顏は、子供の樣に紅く、耳の生え下りからアゴへかけてへりどつた樣な濃い、髭が白い顏の外ワクの樣にグルリと生え茂つてゐた。心の底に何物をも藏してゐない單純性をもつた、突きつめた心持のよい眞面目な心の持主である良三は體の細い割合に大きい筒ぬけた樣な山家聲を太いのどぼとけから出して、硬くるしい程眞面目な、ていねいな挨拶を一人一人にするのであつた。彼の髮の毛は漆の黑さと手入れのよい油のしみた艷々しさとを以つてきれいにわけられてゐた。[やぶちゃん注:実際の久女の夫宇内は六歳年上であった。]

 人數の殖えた座敷の中には今迄と達つた賑やかな、世間話や雜談がとりかはされてゐるのを襖越しに聞きながら房子は後れてしまつた夕飯の仕度にごそごそと取かゝるのであつた。そこはあの窓に面した三疊の一ト間で、うす暗い十燭の灯の下にあそんでゐた十になる長女と、四つになる女の兒とがお腹がすいたらしくシヨンボリ坐つてゐるのを見て、チヤブ臺の上で夕飯を食べさせたりその傍の古疊に栗色のお膳を並べて、皿や吸物のお椀、茶椀るゐを一つ一つ据ゑてゆく。房子は悲しいとも恥かしいとも言ひ樣のないわくわくと、耳があつくのぼせ返る樣な心持で空腹も覺えず子等の言ふ事もろくろく耳にははひらなかつた。何一つ出さうにも、チグハグで皿器具類はなし、手は足りないし、常にこんな幾人ものお客に食事を上げるなどゝいふ事のめつたにない貧しい中學教師のくらしで、馴れもせず、それに何より彼女の當惑したのは、お客樣はせいぜい二人か夫をまぜて三人前位の仕度をしておいた爲めに五人もの人數が殖えたといふ事は房子を非常に當惑させた。いつの間にか日は暮れて外には、先刻よりも強い雨が降つてゐる。風も少しはあるらしく、窓障子にサツと降りつける事もあるし下の兒はねむたがつて、「お母さんお布團しいて頂戴」だの「抱いて」だのとぐづぐづ言ひはじめた。使ひもない電話もない、どうしたらと、こんな事を思ふ丈けでものぼせ返つてしまふ樣な心持でつい子供達へお給仕をしてやる時も、お膳立てなどにわくわくして、カチカチと茶碗や器具の音をさせたり、手からお椀の蓋をとり落したりする。大聲もたてない樣に注意してゐる靜かな中にさういふ風なカチリとした大音を立てる度毎に、房子は自分の心臟が破ぶれる樣なハツとした心持がして人も見てゐないのに一人頰を赤らめたり、後れ髮をくせの樣に、そゝくさと撫であげてきまりの惡るさをおしかくす樣にするのであつた。座敷の次ぎの六疊と、此暗い三疊の臺どころに閉ぢられた襖がしばしばあけられて、上の女の子が菓子盆を運んで出たり、お茶を入れ替へたりした。粗末な菓子鉢の中にはさつき良三が持つて歸つた果物がもられてゐた。座敷の中の六人の人々に花ゴザ製の夏座布團は一枚不足してゐた。上の女の兒が三疊の襖をあけて出這入りする度に八疊の座敷の一番端じっこに席を定めた孤雁子のところからは、三疊のうすぐらい電氣にてらし出されてゐる黃色い古障子や、襖の陰からチヤブ臺の半面が佗しげに見えてゐた。房子の姿は障子の間からは見えなかつたがカチリと觸れあふ茶碗の音や、子供の睡むさうにすねる聲、房子がすかしてゐる靜かな低い聲、何かゞ煮えつゝある樣な漫然とした匂ひ、それから臺所の石疊の上をこつこつと步るく房子らしい下駄の音、こんなものが孤雁子のじつとうつむいて坐つてゐる、さうして何かを見知らうとしてゐる眼に狹い家の事とて、ひそやか乍らも、手にとる樣に古障子の中の灯の下から聞えて來るのをきいて孤雁子は淋しい佗しい感じにひしひしと胸を打たれてしまふのであつた。殊に、カチリカチリと、時時打ちあふ瀨戸物の堪へ難い佗しさをもたらす音が彼れの心を極度に暗くした。

 三疊の灯の下にごとごとと、三人前の御馳走を、五つの膳にもりわけてゐた房子は、襖をあけてはひつて來た良三を見ると、

「あのね、お客樣がふえて私どうしたらいゝでせう。今からもう遲くてまにあはないし」

とかう訴へる樣にさゝやくのであつた。

「何、僕のはいゝよ。どうせ我々の樣な教師暮しでは大した事が出來ないつて事も、道具のない事も孤雁子は御承知だらう、それより早く上げた方がいゝよ」良三は神經の過敏な妻が悲しげな潤んだ目付でみつめてゐるのをなだめる樣に言ひ捨てゝ外へ出て行つたと思ふと暫らくして四五本のビールをかかへて歸つて來て、自分でコップや栓拔やを乘せたお盆をもつて座敷へ出た。まもなく粗末な膳部が揃はぬ勝ちの器をのせて皆の前へ子供の手で運ばれた。房子は襖のかげ迄運んだまゝで座敷へは、良三と長女の昌子とが交る交る据ゑてゐた。三人分と定めてつくつておいた料理の中にはどうしても五つの膳に融通の出來ないものもあつて公孫樹と、M氏との膳部は、正客の孤雁子と銀川、泡浪等の膳の上程賑かではなく、ほんの三品ばかりにチヨクがついてゐるばかりであつた。主の良三はおしまひに自分の箸や猪口、一寸した食物を盛つた皿をのせた盆を、自身で座敷へもつて出た。さうして「さあ、いかゞですか。どなたもお一つ」とビールをつぎわけたりして主人らしく振舞つて皆にすゝめるのであつた。良三が此夏、三河へ歸省した時、土藏の長持から探し出して持つて歸つた、古い俳畫だの四郎の雁の幅。畫帳。こんなものがお互の手から手へ移されて色々な話の絲口がひつばり出されるので無口な公孫樹だの泡浪などの間にも今はもう寛いだ親しみが取交はされる樣になつた。三河と美濃との國境に近いほんとの山村に生れて育つて來た良三は子供の時から好きだつた山步きや兎追ひの話、山中の住居では今も行灯が古めかしく灯されてすゝけた天井や太い梁を暗ぼつたく色彩つてゐる事や、秋の山上のツグミの鳥屋(トヤ)の物語、矢矧川べりの簗(やな)小屋で尺餘の生き鮎を、竹串にさした物を、靑芝を土ごと長細く切り取つたのに突き立てゝ爐の火であぶつて食べる事やそれからそれへと移つて行つて、良三の好きな魚釣の事に話がおちていつた時、孤雁子は

「釣の上手な人には魚は喜んで釣られませう。あなたの樣な釣好の人の心は魚に感應すると云ふ樣な事ではないでせうか」こんな事をいひかけた。それから又、「釣の面白味と云ふのは其の釣るといふ境地を味はふ事にあるのでせうか」かうも尋ねた。[やぶちゃん注:「鳥屋(とや)」「塒」とも書き、専ら、食用にするためにツグミなどの小鳥を捕獲するために山野に設けた小屋のことを言う。「矢矧川」「やはぎがは」と読む。矢作川(やはぎがわ)とも書き、長野県・岐阜県・愛知県を流れて三河湾に注ぐ一級河川で明治用水などにも使られている。モデルである久女の夫宇内の故郷は愛知県西加茂郡小原村松名(現在は豊田市に編入)であった。]

「さうですな。僕は大きな魚がひつかかつた時が一番愉快ですな」大きければ大きい程一番面白味が深いといふ樣な事を良三はいかにも面白さうに愉快げに言つて、二三杯のビールにもうまつ赤になつた細長い首筋を撫でまはしつゝ糸の樣な目を一層細くしてハツハツハと笑つては、皆んなのコップヘビールをせつせとつぎわけるのであつた。かうした話の應對の間にも、孤雁子の耳は子供の聲、茶碗の音、などに相變らず何ともいへぬもの淋しい氣分を誘はれて、灯の下に淋しい心持で坐つてゐるであらう房子を心に畫き整はぬらしい不揃の器物、膳の上にあらはれた貧しい主婦の心づくしと苦衷、こうしたものをひしひしと、感じないわけにはゆかなかつた。孤雁子は生活と云ふものに房子程迫つた日常を送つてもゐなかつたし彼の尋ねて步るいたり泊つたりした家は皆その土地その土地での上の部に屬する人達許りだつたので客としてかう言つた侘しい心持を味はふのは之がはじめてゞあつた。それだけに氣兼ねしてゐる樣子であつた。三年前に東京ではじめて逢つた時の房子はもつと若々しくてたしかに今よりも美しいものをもつてゐた。それだのに孤雁子が此座敷で顏と顏とをあはした最初の瞬間に彼の受取つた感じは、以前よりも甚だしく淋しい荒んだ表情に變つてゐて、頰のあたりも、きはだつてそげてゐた。女としては比較的鋭どい頭を持つてゐて感情家らしい彼女の性格や畫家の妻であるといふ藝術的な生活や、それから彼女が子供の時から移り住んで行つた樣な土地の變化から來る南國人らしい性格、俳句にあらはれた偏した性格、さういふ風なものに興味をもつて、九州旅行の歸路をわざわざ立寄つた(彼れはこの家の敷居をまたぐ迄に、房子の境遇は大變幸福な呑氣なもので、地方での舊家で山林や田畑などをもつてゐると聞いてゐる良三の田舍から、補助でもうけてゆつたりと暮してゐるのだらうと許り思つて來たのである)。ところが彼女の家には何一つ道具らしいものはない。路次とも肥料汲みの徑ともつかない狹い道の奧荒壁ぬりの小家に住んでゐる。そして彼女はまだ三十になつた許りの顏にやつれを見せて、井戸水を汲んだり竃の下を焚いたり、時には野菜風呂敷をかゝへて外出もするであらうし、重い子供をおんぶ羽織に包んで買物する時もあらう。流行におくれた着物や帶に身を包んでゐながらもむかしの氣品を落さずにゐる房子、文藝といふものに理解を持つてゐつゝ尚ほ貧しい家庭の間もゆるがせにしないで行く妻と、日曜には必らず魚釣に出かけて畫家にして畫をかゝない、しかし乍ら妻の趣味なり心持なりを理解してやつて家事の手傳をもしてゐるらしい善良な夫と、かう比較しても考へたり、目の前の暗い古障子のかげに坐つてゐる房子の柁しい姿を心に浮べ、菓子一つ買ひに行つた事もなく生活の苦痛をも知らぬ自分の妻や、孤雁子の俳句の弟子である實業家として名の高い某氏の夫人何女、のんきに句作してゆける東京の女流俳人の誰れ彼れ、そんな人達を一々房子の境遇に引き較べて孤雁子の頭は樣々な瞑想に陷ちて行つた。雨の音が靜まつて濕つぽい屋外の空氣が軒のかぶさつた靑桐の葉を透して靜かに室内へ流れこむ。灯の下の人々は互に談笑しつゝ先程迄のギコチない空氣はすつかり取り去られてしまつてゐたが房子はまだ座敷へ出て來なかつた。三疊のうす暗い光りのもとにぐづぐづ云ふ子を賺し隅つこの布團に二兒とも寢せてしまつた彼女は布團の裾の方にこゞむ樣に坐つて、高聲で八方へ受け答へしつゝある良三の聲も、靜かな落付た孤雁子の話し聲も遠い遠い世界の物音を夢の樣に洩れ聞く心地がした。[やぶちゃん注:「三年前に東京ではじめて逢つた時」久女の句は大正六(一九一七)年一月号の『ホトトギス』の「臺所雜詠」欄に初めて載ったが、その五月に初めて高浜虚子に逢っている。この時、零余子が一緒だった可能性は高い。因みに当時の久女は満で未だ二十六、七であった。]

 唯恐しさと恥かしさとでふやける樣に成つてゐる彼女の心はしんみりした雨の音に誘はれて、今日一日の出來事を走馬灯の樣に思ひ浮べる。今頃はもう周防の平野邊りを馳つてゐるらしい汽車の窓の母を思ひ出すと、折角あゝして東京から六十七にもなる老體を運んでまで娘に逢ひに來てくれたのに、今夜のお客を待つ爲めに送りもしなかつた事。手のない忙がしい夕餉をそこくにすまして出發(たた)せてしまつた母の、ポプラの並木を步いて行く切髮の後姿。房子を悲しませまいとわざと元氣さうに、口許に笑をふくみ乍らも落込んだ目の中をうるませて別辭をのべて乘り込んだ母を、忽として堤のかげへ乘せ去つた幌俥。今日のお客にと云ふので、立ちぎはの母はアベコべに手のない房子に手傳つて女郎花を活けてくれたり、手づから庖丁をとつて今夜のお料理迄煮たきしてあとの困らぬ樣にしておいて下さつた。あんなにもう年寄つていつ死んでしまふかもしれず、またいつ逢へるかといふのに、送られなかつた事を房子は幾度考へても心の奧から殘念に思ひ、かうした物質上に豐かでない日常の有樣を貧乏馴れない里の母に見せつけて、母を何となく遠慮がちな心持に始終置いたことをすまなく思ふ心でいつぱいだつた。房子は皺の殖えた瞼の落ち込んだ母の顏を腦裡にしつかりゑがいて、色々でまぎれてゐた別離の悲しみをかうした獨りぼつちの今、甦る樣に痛切に覺えるのであつた。それと同時にも一つは、今日の珍客へ對して心いつぱいの饗應(もてな)しも出來ない許りか二人と思つたのが五人に殖えてまごついたり、座敷と臺所とが接近してゐる爲めに色々な物音が客の耳に侘しく聞えたりする事を、割合にふつくりと鷹揚に育てられて氣位ばかり高い、世馴れぬ房子には、それはそれは心細く氣恥かしく感じて自分の役にたゝぬまごつき樣も、長い間狹い穴の樣な家と境遇とにおかれて廣い世間と沒交渉で渡つてきた事から起る、かういふ場合のへマなさまざまのしくじりも皆つきつけられる樣にはつきりと感じて、腹立しい何ともいへぬ淋しさに捕へられてしまふのだつた。何よりも先づ彼女は、所帶といふものを持つてから十年近い今日迄に、こんなに貧しい者のみじめさを突きつけられた事はない樣に一圖に思ひ込んで、佗しい茶碗の音なんかを立てたりして折角の客人に貧乏臭い哀つぽい感を抱かせるであらう事を鏡の樣に自分の心に寫し得るのが一層辛らかつた。こんな思ひに耽りつゝそつと起き上つて燗を仕樣とするとどうした事か硝子の燗瓶の底がぬけて琥珀色の酒は一滴のこらずに、七輪の炭火を消して灰かぐらとなつてしまうたので、まあ何と云ふまの惡い、そゝつかしい事だらう。使はなし町は遠し澤山もとつてない酒をこんなにしてしまつて、房子はもう悲しいやら情けないやらハツと泣き出したい樣な心持でぼんとしてしまつた。もし之が自分のお客樣でなかつたら雨のふる外へ此儘逃げ出して、冷たい雨を頭からあびつゝかけまはり度い樣な、やるせない氣になり切つて暫くは目も動かさず疊の上へへたばつてしまつた。鷹揚に呑氣に十九の年迄そだてられて、振袖ざんまいで三河の山奧へ嫁して行つた房子は馴れない貧しい教師生活に喘ぎつゝも、一文の借金もせず持つて行つたキモノは皆着破つて辛抱しつゞけてきたが、いつ迄も世話女房らしい氣分になりきれない彼女は母の袂のかげに包まれかくれては過してゐた處女時代の樣な心持で今夜の樣な、世馴れた女には何でもない失敗である場合にも唯恥かしがつて、頰をそめたり、淚をこぼしたりするのであつた。恰度そこへ良三がはひつて來て「僕一人でおとりなしをしてゐては具合が惡いから房さんも出てくれないか」と引き立てる樣にいひすてゝまた座敷へと去つた。淚ぐんで默つて閉ぢられた襖を見つめてゐた房子はやがて氣を取り直して、三疊の隅に出し放してあつた夕方のまゝの鏡臺にむかつて、髮をかき上げたり、紛おしろいの刷毛で、うす紅く脹れた瞼をさつと一刷毛はきつけたりして漸く座敷へ出ていつた。[やぶちゃん注:底本では「またいつ逢へるかといふのに、送られなかつた事を」の「送られ」の右に編者によるママ注記がある。「ぼん」馬鹿者・間抜けの意の方言と思われる。山口県で用例がある。福岡弁では「あんぽす」「あんぼんたん」がある。後者が濁っているのはここと親和性があると私は思う。]

「こんな茅屋(あばらや)へいらして下さいました事を私はどんなに嬉しく思つてますでございませう。嬉しくつて一生懸命におもてなし申上度く思ひ乍ら私の貧しさは、何一つ差し上げる事も出來ません。お詫にはどうぞこれを御覽あそばして」

 かういつて一枚の紙片を孤雁子の前へさし出した。彼女の顏にはもう淚は消えてぼうつと上氣したうす桃色の頰に惱ましげな微笑さへたゞよつてゐた。今迄つくろひ包まうとして恥かしがつてゐた貧しさを皆の前へ殘りなくさらけ出してしまつた後の、心安さと落付とで房子は、先きの心持とは異つたはつきりとした興奮した心持に成つてゐた。孤雁子が紙片を取り上げて見ると珍客に對して香りのいゝ酒もさし上げられないといふ佗しい心持を詠つた句が、打ち崩れた樣な散漫な字體でかいてあつた。孤雁子は默つてじつと見つめてから次席の銀川へ渡す。こんな目の前の事が一層房子には恥かしかつたが、もう現はれる處迄現はれつくした貧しさも今は氣樂に話す事が出來る樣に思へた。陽氣な房子の夫の話し聲に交じって、房子の興奮したかん高なやゝかすれた聲がとりかはされて俳句の話から話題は次第に房子の身の上話に移つて行つた。彼女は今はもう一座の中心となつて一生懸命にしやべりつゞけた。彼女は一事を語りをはらない中に早や次の話題へ孔雀の尾をひろげた樣に移つていつて、感情がたかぶると限りなく話を進ませてゆく。彼我の説を一丸にして話をまとめたり崩したりする、色々な事を根ほり葉掘り聞きたがる。

「私は俳句をやめ樣と今迄に何度思つたか知れません。本をよむ時間も研究する暇もない私には唯十七字をつくると云ふ事丈でも容易な事ではありません。私の樣に年中苦みつゞけて生活してゆく者には自分の刹那刹那の感情や思想をそのまゝ表現の出來るものは詩なり歌なり創作なりでなくては、生意氣の樣ですがとても自家の心持を述べつくす事も滿足する事も出來ません。俳句ではさういふものを作つて見ても不完全なものが出來易い。でも時間と餘裕のない私には、お野菜を下げて步いてゐる時とか、子供を守(もり)する時とかの少ない時間なので長いものは書けませんから俳句でも作つてわづかに滿足してなくてはなりません。色んな苦惱の爲めに胸がいつぱいになつてもの狂ほしい樣な淋しい心持におそはれる時、私は、強い明るい色彩、高調な張りきつたものがほしくなつてまゐります。灰色のものや穩かな弱い、力ないものでは私は、苦しい悲しい私は、到底滿足出來ないのです。ですけれど俳句は進めば進む程、わからなく迷つて來ました。私は何度俳句をすてゝぼろつぎでもしたり、破れた足袋穴の一足でもついだりする事が私の樣な身分の者には相應してゐるか知れないと考へたか知れないと考へたか知れませんけど、やつぱりやめられないで、苦しみつゝ句作して居ります」彼女は燒ける樣な打ち迫つた調子でたぐり出す樣に語りつゞけるのであつた。

「それでもあなたは、句作したり時々畫を書いたりなさる時間があるではありませんか」と孤雁子は雜誌などで見た二三の短い文章について尋ねて見た。

「いゝえ。文章はいつも夜中に起き出したりして書いたのでした。それでなくてさへ働き馴れない手の足りない事を考へますと餘裕はすこしもありません。けれども文藝を捨てゝしまつた後の私はどんなに淋しいでせう。私は物質的には何ものをも持ちません。私は社會的にも精神的にも孤獨です。ただ拙ない俳句を生み出す事によつてのみ小い自分を創り上げ度いと願つて努力してゐるのですが………」かういつて言葉をとぎらせてしまつた房子の顏には熱し切つた赤い血がサツと漲り走る音迄もきこえるかと思はれる許りに熱し、左の上唇は痙攣的に引つ吊つた樣な表情となつて目は大きく靑く燃えてゐた。頭は白熱的に灼れ、積極的に何に事もつきつめて行かうとする勢ひ、底深い淋しみを徹底的に見極め樣とする心持、性格と境遇との矛盾、其他樣々な書きつくせない精神的な惱みを語る時の興奮した態度にひきかへて、物質的方面の話しに移つてゆくと彼女の靑い目は幽欝な沈んだ色にとぢこめられて、少しも氣勢が上らない。子供を育て家事をとつてゆく貧しい一般的な妻の心持、さういつた境遇をあきらめるといふ心持にどうしても到達する事の出來ない彼女は、いつ迄たつても、今の自分に滿足し樣とはせず、或時は個性を曲げつけて迄も自分を引き下げ樣と無理無體に自分をしひたげて見樣としたり、或時には、のべつに刈り込まれ樣としてゐる自分といふものを、何物の拘束をもおそれず暢ばせる丈けのばして見たいと強い心になつて見たり、どうしてもあきらめられなかつた。迷惑さうな顏付をして坐つてゐた良三は、

「私の妻は油畫をすこし書きますが實にいゝ色を出す事がありますよ。然し畫いてゐる自分自身にそれがいゝのか惡いのか解らなくつて批評なんかすると却つていゝところを塗りつぶしてしまつたりします。どこかに感じのいゝ獨創的なところはありますがどの繪もどの繪も未成品で取留めがないのです。房子の俳句もきつとそんな風な程度のものでせうと思ふ」と橫合から房子の話をかきまはす樣にこんな事を孤雁子に話すのであつた。話はいつか彼女が書いた短い文章の中の幼兒の事に移つて行つた。房子は突きつめた樣な目色をじつと疊におとして、熱した一語一語は日常の彼女の聲とはまるで違つたうるほひを持つて音樂の樣に響いてきた。今はもう隔ても全くとれてしまつたので、日頃人とあまり語つた事のない心の底の泉が湧き出る樣にその赤い厚い唇からはぐんぐん彼女の惱みと淋しみとが言葉となつてあふれ出るのであつた。

「私は鹿兒島の平の馬場と云ふところで生れました。それは五月の末で、あのまつ白な夏蜜柑の花がもうい小さい實になつて紫陽花の藍色の花があの町の到るところに咲き初める頃でした。さうして三つの年に、大地震の後の大垣へ父が任命されたので私共一家は引移つて行つた、それからと言ふもの私の運命は南へ南へと移つていつてあの絶海の孤島そこには龍宮の樣な王城と、灰色の厚い霧と、毒蛇と、紫の雲の樣な栴檀の花がちつてゐるせいの高い石垣をめぐらした榕樹の屋敷町、碧玉の色をした海。かうしたなつかしい記憶を刻みつけられた琉球に幾年かを住み、それからまた鱶の海を渡つて、芭蕉林と赤い花とに包まれてゐる臺灣の南部へも、領臺後まもなく私達は、父に從つて行つたのである。そこではまだ鐵道もない、或時には土人の駕にのり、或時にはトロッコにおされて、何里もに渡つたごろごろ石のやけつく樣なかわいた河原を、果しない雲の峰をながめつゝ走つた事もあり、或日は橋の落ちた濁流を土人のカゴカキに負はれて渡つたり、色のつよい明るい芥子畠を打過ぎたり、ずゐぶん子供心にも旅から旅へとおそろしい人少ない土地へ步るきまはつて行つたりして私の生來の多感な偏した性格は猶更らこんなに淋しい惱ましいものとなつてしまつたのである」こんな幼ない時の追懷を彼女は、熱心に物語つた。呑みかけたビールのコップを膝の上に支へられたまゝ目をつぶつた樣に、じいつときいてゐた孤雁子は、話のとぎれた時に、顏をあげて、「あなたはおいくつの時から大垣へお出ででしたか」と熱心な樣子で聞くのであつた。[やぶちゃん注:久女は明治二三(一八九〇)年五月三十日に父赤堀廉蔵、母さよの三女として官吏であった父の任地であった鹿児島県鹿児島市平(ひら)の馬場(現在の鹿児島市の中央部である鹿児島県鹿児島市平野町)で生まれたが、その後、父の転勤で久女四歳の時に岐阜県大垣へ、翌年辺りには沖繩県那覇市へ、明治三一(一八九七)年には台湾の台北へと移り住んでいるから、ここに書かれた内容は全くの事実と捉えてよい。「大地震」明治二四(一八九一)年十月二十八日に濃尾地方で発生した日本史上最大の内陸地殻内地震である濃尾地震のこと(現在の推定ではマグニチュードは八・〇程とされる)。「栴檀」ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach 。言っておくと、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく、ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン(白檀)Santalum album を指すので注意されたい。「榕樹」精霊キジムナーの住むとされるバラ目クワ科イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa のこと。]

「私は三つか四つか、はつきりした事は覺えません。ですけれどもそれは大地震のあつた二年ばかり後でまだ參りたては、晝夜に何回となくおそろしい地震がありました。私はそのたんびに母の足にしつかとまとひついて泣きました」と房子は緊張した表情で答へた。

「さうですか、不思議ですね。私も子供の時、さうですね三つから七ツ位迄を大垣にゐた事があります。私は地震の起つた年の春頃、大垣を去つて國の方へ歸りました」孤雁子は眉間に立て皺をよせて思出深さうに瞬きながら語り出した。美濃の大地震を境として今こゝに相對してゐる二人の人達が大垣に住んでゐたと言ふ事は何となく奇異な興味深い事に思はれて、一座の人々は二人の話しに耳を傾けて居つた。孤雁子と房子の話は大垣を興味の中心として次第に水輪の樣に擴がつてゆく。

「私は幼い時でよく覺えてませんが、何でも、大垣小町とか名づけられてゐた美しい娘が兩腕を梁の下に組敷かれて不具乍らも命丈けは助かつた事だの、大きな龜裂(ひび)割れた大地へ呑まれる樣に人間ぐるみ陷ち込んでしまつた家の話だの怖ろしい事許り母から寢物語に聞かされました」房子のかういふ話に續いて、「私の住んでゐた家のあとに來た人達も地震に押し潰されて全滅してしまつたさうです。私達は堤に振つた竹藪のある家に住んでました。そこいら邊には泥龜が澤山ゐて、私はよく繩で縛り上げて父の飮殘したお酒を無理に口へつぎ込んだりして遊びました。それから又私には一つ違ひの聲の美しい妹がありましたが妹は五つの年に三日許り病(わづら)つて死んでしまひました。それは恰度お正月前で、仲よしの妹と私はいつも門の前の日當りのいゝ草の上なんかに坐つて『もういくつするとお正月が來る』なんて二人で幼い心持にいつぱいの樂しみを抱いて遊んでゐたのがふつと死んでしまつたのです。今でも大垣で妹とうつした古ぼけた唯一枚の寫眞を私は取りだして妹の事を思ひ出します」

 疊に目を伏せてゆつくりと低い音聲で語りつぐ孤雁子を理智一點張りの鐵の樣な心持の人、淚のない人といふ風に解してゐたがさうした話の中にも感情といふものがサツと浮かび出すのを見得るのであつた。此座敷には入つて來てから一度も聲を立てゝ笑はない、じいつとものを考へこんでゐる樣な無口な、山國の血をうけた人らしい此客人孤雁子を、房子は理性の底に深い感情を包んでもつてゐる人らしいと考へて見た。

「私達もあの河堤(かはづつみ)に住んで居りました。私は大垣といふとすぐに曼珠沙華とれんげと狐とを思ひ出します」と房子は遠いむかしの記憶を引よせる樣なうつとりとした目付で次の樣な話をした。懸命に續けた膳部だのビールの瓶をのせたお盆だのはもう綺麗に次の間へとりさげられてゐた。雨はいつの間にかやんだらしく此畠中の一軒家は靜かに更けてゆく。小いマジョリカ燒の灰皿はすひ殼でいつぱいになつてゐた。

「私は兄妹中で一番大きい鈴の樣な瞳の持主で、怒りつぽで、我儘で、そのくせ泣きむしな女の兒でした。私が一處にまゝごとでもして遊んでゐる時、強情を張つたり我儘言つたりすると、

『房ちやんはお母樣の子ぢやないのよ。明神さまの森(鹿兒島の)に捨てられて、オギアオギヤつて泣いてゐたのをお母樣が、お星樣のいつぱい光つてゐる暗い晩にひろつて來て育てゝあげたのよ』つて、兄や姊はよくからかつたものです。

『なあぜ?』と私が首をかしげると、

『だつて房ちやんの樣な大きな黑い目は家中に一人もゐないのだもの』

 こう言はれると私はそれがほんとの樣な氣がして、ぽろぽろと淚をこぼし乍ら、『うそようそよ』とかぶりをふるのでありました。私がかぶりを振るたんびに、ふさふさしたおかつぱさんの髮がばさりばさりと頰にあたる。私はほんとに心配して明神樣の森に捨てられてゐたかどうかを母に聞きたゞすのでした。堤の上の其家は郊外に近うございましたので毎日の樣に、私達は低い草山に遊びに行きました。其草山の處々にはまばらに松などが生えてゐましたが、足許をみつめて步いて行く私の目に水々しい土筆が、時々ひよつこり現はれる。そこで、

『まあお母さん、姊さん。房子の目は大きいから一番先きにつくしんぼが見つかつた』

 そんな時の私の頰には輝いた微笑が刻まれます。そして目の大きいのをどんなに心嬉しくも誇らしくも思つた事でございましたらう。それから又あなたは御承知かどうか知りませんが秋の彼岸の頃にこの草山にまゐりますと曼珠沙華の深紅の花が、葉も何にもない、孤りぽつちの樣に長い莖をぬきんで、淋しさうにぽつんぽつんと咲いてます。あの曼珠沙華の焰の樣な色と、不可思議な糸の樣な花辨とは羽子板の押繪なんかで見る、びらびらの簪をさした振袖のお姫樣の裾にもえてゐる狐火を思ひ出させるのでございました。實際にあの邊には狐が多かつたのでせうか。私は度々狐を見得たのでございませうか」

「紫雲英の紅でぬりつぶされた樣なたんぽゝを、摘んでは束ね束ね步いてゐると、まつ白いれんげが時々めにはひりました。

『白いれんげは狐の簪よ』

 幼な友達にかう囁かれて、私は摘みかけた手をひつこめてしまふ。かうした白い紫雲英の印象から得たまぼろしなのか」

「麥の穗がうれて淡黃色の光りの波を漂はすその中から、狐の尖つた顏がひよつこり目の前に浮き上つて房子をじいつと凝視(みつめ)て直ぐまた麥の浪に沈んでしまひました……」

「あれはほんとの出來事であつたのでせうか。それとも幼い私の幻覺が、蜃氣樓の樣に築き上げた眞實でせうか」房子は、こどもの樣に首をかしげて、皆を見まはし乍ら、そんな事を孤雁子に話した。「よく覺えてお出ですね。私は狐の事は、覺えがありませんけど、曼珠沙華や紫雲英は思ひ出しますよ。あなたが御遊びになつた山かどうか判りませんが、私の住んでゐた家の裏の方の山では鐵道の敷設工事が始まつてゐて、毎日鶴嘴を打ち込む音が聞かれました。そしてやつぱり秋になると掌(てのひら)の筋を血でそめたやうな眞紅(まつか)な曼珠沙華が雜草の中に一面に咲いてましたつけ」と孤雁子が言ふと「曼珠沙華は、私共の國の方ではほして何かの藥にしますよ」「感じのいゝ花ですな。僕はどういふわけか、友切丸か何かで切りつけられた土蜘妹の精が地にひいて逃げていつた血潮の痕から咲き出た花。と言ふ樣な妖怪めいた感じをあの花から受けますがね」傍から二つの聲がかちあふ樣に放たれた。[やぶちゃん注:「曼珠沙華は、私共の國の方ではほして何かの藥にします」古来、彼岸花はその毒を以って堕胎薬とされた。私が嘗て書いた「曼珠沙華逍遙」という記事を紹介しておく。]

「あなたは日比野のお孝さんといふ人を御存知ありませんか」孤雁子からかう聞かれて、

「私は其頃まだやつと四つか五つ位ゐだつたものですからよくは存じませんけど、お孝さんといふよそのお姊さんは一人ありました。その人は何でも色の淺黑い目の大きいしつかりとした顏立の人の樣に覺えてますけど、違ふかも知れません」と房子は、癖の樣に額髮をかきあげながら答へた。

「日比野のお孝さんはお母さんとたつた二人でひろいひろ家に住んでゐました。慥か御家老の家筋でした。私はお孝さんに可愛がられて毎日の樣に遊びにいつたり泊つたりしてました。快活な人でしたが細面ての綺麗なすらりとした人の樣に私は覺えてゐます」と孤雁子が言つた。

「たしか私の姊のお友達でした。大洪水(おほみづ)の出た時姊とお孝さんとが、塀に寄せてつないであつた小舟に乘つて遊んでゐて、どうしたはづみにか二人共落ち込んで大騷ぎした事を私はおぼろげに覺えてゐる位のものでございます」

「その兩方のお孝さんが全く同一の人で有つたとして、あなた方の中の一人が大垣に行かれて年寄つたお孝さんと、さういふ風な追懷談でも出るのだと、立派な小説になりますね」無口な公孫樹が、團扇の柄をいぢくりながら、面白さうに、下ぶくれの福々しい長い頰でにやにやと笑ひつゝ橫槍を入れた。

「ほんたうですね。かも知れませんわ。遊び友達のことをおつしやいましたので思ひ出しましたが大垣といふ處は鼬の多いとこでございますね」と房子が白い齒を出して笑ひながら言つた。

「さうですかなあ。私は細かしい記憶はあまりありません」孤雁子は相變らず靜かな低い聲でうつむきかげんにぽつつりと受け答へをする。いかにも疲れたといふ顏である。それだのに房子の方は輝いた目付、話亢つてやゝ上氣した仰向けの頰。かん高いすらすらと湧き出す樣に手まねをまぜたおしやべりすべてが孤雁子の容子と此の場合全然相違した對照を、並らべて眺めてゐる他の五人の人々は、興味深かさうにのつぺりした顏や、退屈げなしびれの切れた樣子、四角い顏や酒の醉が發してしきりに睡魔のおそふらしい細い目付や、苦蟲をかみつぶした鍾鬼樣見たいな顏やを灯の下にならべあつて互に押しだまつて聞いてゐる。房子はそんな事には一向おかまひなしに、色濃く押しよせて來る潮の樣な思出を尚ほもつきせず押しすゝめてゆくのであつた。[やぶちゃん注:「話亢つて」「はなしたかぶつて(はなしたかぶって)」。]

「其頃やつと步み初めた許りの弟が居た私は毎日の樣に『河野の叔母さん』とこへ遊びに行きました。其途中でいつも私は茶褐色の鼬が行く手の徑をすばしこく橫ぎつて藪に走りこむ、そのとたんに、ずるさうな目付で私の方をチラと見る。そんな淋しい細道を通らなくてはならなかつたのです。河野の叔母さんには子供が無かつたので私はよく叔母さんのお家に寢泊りしてゐましたが、そこは、銀杏の樹が覆ひかぶさつた古家で、秋も末の夜なんか風がない夜でもサラサラサラサラと限りもなく銀杏の散る音が屋根となく庭となく此家のすべてをつゝんでしまふ。幼い私は此銀杏の散る音をきくと堪まらなく悲しくなつて、『叔母さんとこへ泊り度い泊り度い』と寢床の中に坐つては泣き出すのでした。そんな時、叔母さんはきつと、私を抱いて厠へ行く緣側の戸を一枚くつて、

『あれを御覽なさい。向うの方に赤い灯が澤山見えるでせう。あれは狐のともすお提灯ですよ』と指さす。まつ闇らな田圃の向うの、あの曼珠沙華の小山へ續いてゐる道の方に黃色を帶びた赤い灯が二つ三つ。動くともなく動いてゐる。目の前には大銀杏が私をおびやかす幽靈の樣に黑く聳えてゐました。私は、其まゝじいつと目をつぶつて、叔母さんの寢衣の胸に顏を埋めて、靜かに背を叩かれながら、いつのまにか夢に入つてしまふ。[やぶちゃん注:「サラサラサラサラ」は底本では「サラ」の後に踊り字「〱」、その後また正字で「サラ」として再び踊り字「〱」の表記となっている。私は個人的に五十九になる現在までこの踊り字「〱」「〲」を自分の自筆の文章で用いたことは一度もなく、生理的に嫌いなのであるが、今回、ここに限っては「限りもなく銀杏の散る音が屋根となく庭となく此家のすべてをつゝんでしまふ」その音を表わすのに踊り字は効果的だ、と強く感じた。]

 それでも、こりずに、よく泊りに行つたものでございます。舞扇の樣な銀杏の葉が濕つたお庭に散り敷いてゐる中に、私はかゞんで襞のとつてある油やさんに、銀杏の葉を拾ひ入れたり、銀杏の實を燒いてもらつたり、私の大好きな、きんちようゐんのお饅頭をもらふのが何より嬉しうござんした。大垣について、一番私の悲しい思出は、弟の大怪我でございます。あれは丁度日淸戰爭の頃で、福島中佐(其頃の)が馬でシベリヤを橫斷された雙六を私らは買つて頂いたり、女中に連れられて、兵隊さんの汽車の盛んな送迎を見に行つたりしました。[やぶちゃん注:「油やさん」「油屋さん」で油屋の商人の前掛けに似ていることから、幼児の首から腹まで覆う一体になった前掛けを言う語。「あぶらいさん」「あぶちゃん」とも呼ぶ。「きんちようゐんのお饅頭」大垣名物の「金蝶園(きんちやうゑん)のお饅頭」の誤りであろう。岐阜県を代表する銘菓である。「金蝶園総本家」公式サイトの金蝶園饅頭ページをリンクさせておく。「福島中佐」陸軍軍人福島安正(嘉永五(一八五二)年~ 大正八(一九一九)年)のこと。最終階級は陸軍大将で情報将校。ウィキの「福島安正によれば、明治二五(一八九二)年、『冒険旅行という口実でシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、エカテリンブルクから外蒙古、イルクーツクから東シベリアまでの』約一万八千キロを一年四ヶ月『かけて馬で横断し、実地調査を行う。この旅行が一般に「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。その後もバルカン半島やインドなど各地の実地調査を行い、現地情報を参謀次長』らに報告している、とある。]

 それから後弟は高い處から落ちて、虛弱(かよわい)心臟や肺を叩きつけたのが原因(もと)で全く病弱な者と成つてしまひました。そして明治三十年の夏、父が領臺後まのない嘉義へ赴任して行くと直ぐあちらの淋しい病院で、六つで死んでしまつたのです。あれから最う二十何年かたちました。私の實家(さと)にも大垣でうつした色のあせた寫眞がたつた一枚大事にしまつてありまして、弟の面影を朧氣乍らも偲ばれるものは今はもうあれ許りでございます」[やぶちゃん注:「嘉義」中華民国台湾南部に位置する現在の嘉義市(かぎし)。ウィキの「嘉義市によれば、一八九五年(明治二十八年)の『下関条約により日本に割譲された台湾では、台湾総督府によりたびたび地方改制が実施された』が、一九〇六(明治三十九)年の嘉義大地震によって、『清代に建築された県城は東門を除いて全壊する。災害復興に際し総督府は都市計画を実施し新生嘉義市の建設に力を注ぐこととなる。近代都市として再生された嘉義市は商業及び交通の発展により、南部地域の中心都市としての地位を確立することとなった』とある。]

 かう長々と語り終つた房子の目には、淚が光つてゐた。孤雁子は默つて低い溜息をついた。共通點の多い幼時の大垣の話。殊に夭折した互の弟なり妹なりの淋しい物語りを繼ぎ合して考へて見た孤雁子は何となく傷ましい樣な心持がいつぱいに擴がつてゆく樣に感じるのであつたらう。他の者も皆押し默つて坐つて居た。次の間の柱時計はもう十二時をさしてゐたがワザと停めて有つたので鳴りはしなかつた。

 布團も何もない狹いこゝの家に三人の客を泊める事は出來ないので今夜は三丁許り隔てゐる公孫樹(ある病院のお醫者さん)の家へ皆な泊まる事に相談をきめて、公孫樹は用意の爲め一足先に歸つて行くしMも暇乞して立ち去つた。夫れから小半時して、細長い提灯をぶらさげた良三は三人の先に立つて並木道を送つて行くのであつた。雨はもうすつかりやんでしまつて、まつ黑い空、ポプラの並木の上にはまき散らした樣に銀河が橫はつてゐた。バスケットや鞄は房子の家へ明日の朝迄あづかる事にして、明日の句會の御約束などをしながら三人の俳人連は、着た切りの手ブラで、手拭一つ持たずに房子の家を辭し去らうとする。房子は座敷の電灯の紐を玄關迄のばして來て、暗い門口を照らした。濕つた砂地をサクサクとふみしめつゝポプラの並木を拔け樣とする三人の耳に、ぽとりぽとりと、まを置いて葉をまろび落ちる雨上りの露の、地上をうがつ音のみが夜更けらしい靜寂な響をつたへてゐた。良三のさげてゐる提灯の口の輪が、覆ひ被さつたポプラの濡れたまつ靑な葉の塊を次々に明るく色どつて、木の根の潦にチラチラうつつたり、黍畠の長細い葉をハガネの樣にギラギラと照し出したりするのであつた。一人八疊の座敷に取り殘された房子は、飮みさしの茶器だの吸殼の溜つた灰皿だの、座布團だのが亂れたまゝの其中にぐつたりと坐り込んで、其等の貧しい器物と乏しい食物を眺め乍ら魂のない人形の瞳の樣に冷めたく見開いた、硝子玉の樣な動かない瞳色(めいろ)であてもなく灯をみつめたまゝ淋しい感情に浸されて、靑ざめた頰を無意識に兩手でおさへつけてゐた。さうして靑い冷めたい瞳からぽとりぽとりと大粒の淚が止め度もなく頰を流れては頰から膝にしたゝり落ちた。それは自分を憐れむ情と客に對してブザマな自分の仕打を激しく責め苛む羞恥の念と、曝露され突きつけられた我が生活の貧弱さ、みじめさに對して我れと感じる呪はしい侮蔑の感じ、壓へ樣壓へ樣と努めてもあきらめきれない運命といふものに對しての憤懣。そんなものを撚り合はした心持が渦卷く樣にいつぱいに、硝子の樣な透きとほつた、刃の樣に冴え切つた頭の中に氾濫するのであつた。良三が畠をぬけて歸つて來て戸口をしめたり、吹き消した提灯を三疊の壁に掛けたりごとくするのに氣付もせず房子はいつ迄もくじつと動かずに物思ひに耽つてゐるのであつた。

 

痛いものは痛い   梅崎春生

 

 奥歯が痛む。やけに痛む。痛くって夜もろくろく眠れない。私は幼少の頃から肉体的苦痛に対して、たいへん弱い。夜が明けるのを待ちかねて歯医者にかけつけたら、医者はいろいろしらべて、

「こりやもうだめですな。引っこ抜きましょう」

 という託宣で、私の奥歯の運命はかんたんにきまってしまった。運命はかんたんにきまったが、手術の方はたいへんで、前後三十分もかかり、台上において私はしばしば脳貧血の発作におそわれた。

 医者の説明によると、私の歯ぐきは非常に丈夫で、しかと歯をはさんで離さない。ところが歯質の方はもろくて、れいのやっとこで引っぱり出そうとすると、ぽろりと欠ける。

 何度も繰返している中に麻酔はさめて来るし、もう死んだ方がましのような破滅的気分になった時、やっと根が引っこ抜かれて手術は終りをつげた。私は虚脱して、涙を流しながら、待合室の長椅子に一時間ばかり横になってうなっていた。

 歯医者の使う道具、やっとこだの釘抜きなんてものは、形こそ精巧になったが、原理的には原始時代から一歩も進歩していないのは何故だろう。薬品か何かを注射すると、歯ぐきの緊縛力が一時的にゆるんで、歯がすぽんと飛び出すようには出来ないものか。相手は歯という鉱物質だから、ことに取扱いを慎重に願いたい。

 人間の体の中では、鉱物が一番痛い。骨折などの痛さは言語に絶する。次いでは動物、肉とか皮の痛さだ。植物が一番痛くない。植物というのは髪や髭や爪のこと。

 ことに髪なんかは毎日肥料を与えないと、発芽が悪くて禿(はげ)になったり、枯れて白髪(しらが)になったりする。そっくり植物であって、これは切ったり剃ったりしても全然痛くない。

 もしこれが痛けりやたいへんだ。床屋さんは笑気ガスか何かを常備しなけりやならないし、髭剃りも局部麻酔によらねばならぬ。髪や髭に痛覚神経を免除した神に栄光あれ!

 話が妙なところにそれたが、兇悪犯人は大体において痛覚神経がにぶいのだそうである。(この点において私は兇悪犯人になる資格がない)

 わが身をつねって人の宿さを知れ、という諺があるが、彼等は自分の身をつねってもさほど痛くないので、他人もそうだろうと思い込んで、平気で殺したり怪我させたりするのである。読者諸子も痛覚神経のにぶい人物とはあまり交際なさらぬがよろしい。

 殺されたり怪我させられたりするおそれはないとしても、痛覚鈍麻の人間はおおむね心情的に冷酷であり、想像力がはなはだしく欠如しているのが常である。友をえらばば才たけて、痛覚神経にぶからず……。

 天下の秘境黒部峡谷に、目下大ダムが建設中である。昨年の夏私も見学に行ったが、なかなかの大事業で、また危険の多い作業だ。毎日のように怪我人が出るという話だが、ある日ある土工が左手の親指を切り落されて、労働基準監督署に補償費三十万円を申請した。

 親指の第一関節からなくなると、身体傷害程度九級ということになり、三百五十日分の補償費が貰えるのだそうである。

 この男を皮切りに、続々と怪我人が出て、申し合わせたように左の親指ばかりで、どうもおかしいと労務担当者がしらべて見ると、皆大分県南海部(あまべ)郡から集団出稼ぎに来た労務者たちで、一カ月の間に同郷出身者十四人の中十三人までが親指をうしなったというから、たちが悪い。

 主謀者が各人をあつめて、

「指に和紙を巻いて切れば痛くないぞ」

 とそそのかし、各人も補償費に目がくらんで、鉈(なた)でちょん切った。

 いくら和紙を巻きつけたって、骨をぶった切るのだから、痛くない筈がない。歯を引き抜く痛さとは、桁が違うだろう。

 痛いだけでなく、親指が永遠にうしなわれるのだ。あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなりなどと、古風な教えを持ち出すつもりはないが、端金(はしたがね)(?)のために錠をふるって不具になるなんて、ことのほか陰惨な感じがする。

 これにくらべると江戸時代の女房が病夫の治療費に、緑なす黒髪をばっさり切って売り払うのは、はるかに清らかであり美しい。

 髪はまた生えて来るが、親指はもう生えて来ないのである。どうも連中は痛覚神経がにぶいんじゃないか。そうとでも解釈しなきゃ、つじつまが合わない。

 当り屋という商売(?)がある。自家用車などに体当りして、ころんだり轢(ひ)かれたりして、損害賠償をとる。働こうと思えば働ける男がそれに従事しているというから、こんな奴の痛覚神経は針金みたいに無感覚なのだろう。

 嚙まれ屋というのもあって、あちこちの飼犬を挑発して手や足に嚙みつかせ、それで治療費をとる。けっこう商売として採算が取れるのだそうである。

 日本人は一般的に痛覚神経がにぶいのではないか、という疑問がおこる。白人のそれ、黒人のそれと、比較研究した文献があるかどうかは知らないが、たとえば白人の女はお産をする時に泣きわめくが、日本の女はうなるぐらいなことはするけれど泣きわめきはしない。現場を見たわけではないが、そういう話だ。

 それに麻酔の研究もはるかに遅れている。外国ではつとに麻酔科が設置されて、その専門医もいるのに、我が国ではやっと緒につき始めた程度で、ショック死があちこちでおこっている現状だ。日本人はあまり痛がらないんじゃなかろうか。

 こういう疑問に対して、いや、それは違う、日本人も痛いことは痛いが、永年つちかった精神主義が痛い顔をさせないのだ、という説もある。

 自殺するにしても、もっと効果的で苦痛のない方法があるのに、刃物で腹を一文字(あるいは十文字)に断ち割るような、野蛮で苦痛多き方法をとる。

 その伝統がずっと尾を引いていて、戦前の教育というのは、欠乏に耐える、困苦を我慢するというところに重点が置かれていた。つまり日本は後進国であったから、歯を食いしばって苦しみに耐え、粗衣粗食に甘んじて、先進国に追いつこうと努力した。

 小学校の教育もそれにそって、精神主義が強調された。木から落っこちて、痛い、などと泣きわめくなんて飛んでもない話で、

「お前は日本男児ではないか。涙を出すなんて女々しいぞ!」

 と叱り飛ばされるから、われわれも自衛上、痛い時には泣くかわりに、にやにやと笑うというようなポーカーフェイスを身につけた。

 これが嵩じて太平洋戦争となり、敵兵は痛がるし生命を惜しがるから、突撃すればいちころだと、戦争を始めたところ、実に相違して日の丸弁当と洋食のフルコースのような大差で、こてんこてんにのばされてしまった。もうここらで精神主義は願い下げにして、痛い時は泣きさけび、うれしい時は笑いさざめこうではないか。

 幸い今の子供はその方向に順調に進んでいるようである。近頃のやくざは指をつめるのに、麻酔薬を使用するという話も聞いた。やせ我慢の季節はもう終りに近づいたらしい。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第五十八回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年五月二十八日号掲載分。

「天下の秘境黒部峡谷に、目下大ダムが建設中」黒部ダム(通称・黒四ダム)は昭和三一(一九五六)年着工で、竣工はこの記事の二年後の昭和三八(一九六三)年であった。

「三十万円」日本銀行公式サイトのデータによれば、この四年後の昭和四〇(一九六五)年当時で現在の二倍から四倍(こちらは消費者物価で)とあるから、当時の「三十万円」は六十万円から百二十万円以上相当すると考えられる。昔も今も、親指第一関節からの一生涯全損はとてもこの金額には見合わない。今頃、欠損整形術を受けているかも知れぬが、それまでの日常の不自由やら手術費と義指の費用やらを考えると、彼等は実に取り返しのつかない馬鹿なことをやったと言わざるを得まい。

「大分県南海部(あまべ)郡」現在の佐伯市の大部分(宇目(うめ)大字の各町を除く)に相当する。]

河畔に棲みて(十九)~(二十七)   杉田久女 ~「河畔に棲みて」(完)

       十九

 

 翌日は朝から客などあつて房子は子猫の事は忘れてゐた。店へ行つた序に房子は子猫の爲めにイリボシを五錢程買つて歸つた。そして猫を探したが猫はどこにも見えなかつた。

 冷たい竃の中にやせた顏をうづめてこはばつて死んでゐる子猫を見出したのは其翌る朝だつた。

 房子の胸はいつぱいであの前々の夜間いたニヤアニヤアいふ鳴聲が耳について離れない。朝飯の時は皆子猫の死を語りあつてさすがに澄子も、その小さい目になみだを浮べるのであつた。竹の葉の靑々と吹き出した垣根の隅の土に透は小さい穴を掘つた。房子は、布でつつんだ子猫の亡骸を穴へ入れた。土をかぶせて地をならした上に、澄子は、野からとつて來た、色のあせかゝつた野菊や、赤のまんまをさした。[やぶちゃん注:「赤のまんま」ナデシコ目タデ科ミチヤナギ亜科 Persicarieae Persicariinae 亜連イヌタデ属イヌタデ Persicaria longiseta。]

 房子は二三日打沈んだ淋しい顏をして子猫の事を言ひ出しては、兄達に笑はれた。子猫の句がいつぱい手帖に認められた。[やぶちゃん注:杉田久女の初期秀句の一つと私の思うものにまさにこの時の一句「ひやゝかの竈に子猫は死にゝけり」がある。]

 自分の弱い赤ん坊の運命を暗示されてゐる樣な不安さをも感じたのであつた。

 さうかうしてゐる中透は、かの就職の事について某氏の女婿で或炭礦長をしてゐる人の所へ逢ひに行く日が來た。透は、ホクホク喜んで出かけた。先達(せんだつて)のまゝの服裝で。けれども透の歸宅後の談は、良三夫婦の豫期を裏切るものであつた。兄も甚だ興奮した面持で話した。何でも履歷書にかゝれた透の前會社に知人があつて人物をしらべたところ勿論反對派の人々ではありあゝして去つた會社故よく言ふ筈は決してない。何か兄に不利な報告があつたと見へ「實は相應に責任あるところへ、來て頂く心組なりしところ右前會社の言もありそれを承知で責任をおあづけする事は出來ぬ。しかし御懇談もありし事故兎に角一時炭礦の方の事務に來てはどうだ。外には一寸あきがない」との話であつた。

「何も法律上の罪惡を冒した譯ではなし僕の將來發展の道迄前會社から掣肘されるわけはない」と透は頗る激して言つた。今の話の口はまるでお話しにならない待遇で、「工夫したつて二十圓やそこいらはとれる。まあ工夫頭の樣な仕事ですからね。僕は斷然斷はらうかと思つたが、あなたから斷はつてもらふのが至當だと思つて其儘歸つて來た」

 透は酒や女位の爲め、自分は何も天地に恥じる事はないと言ひ張つた。そして暗に、良三が外の運動を中止してあまり某氏へ信賴し過ぎた爲め今に至つて行くべき道はとぎれてしまつたといふ憤りを諷刺した。倂し良三は格別それに對して怒りも辯解もしなかつた。

「炭礦と云ふ處はあまりよいとこではありませんね」かう良三は言つたが透の性質の或る缺點は認めてゐた。そして今後もいくら自分が骨折つても、又々こんな以前の事の爲めに、ぶちこはれる樣では誠に困つたものだと、つくづく思つた。あなたも惡いのだと良三には言ひ切れなかつた。

 たとへ法律上の罪惡でないにしろ前會社に對しての兄のすてばちな態度は惡いと妹も思つた。折角十中八九まで先方も好意を持つて成立しさうに成つてゐたものが破れたのは全く兄の性癖の爲めだと房子も思つたが夫婦ともそこをあからさまに口に出しては言へないのは苦しい立場だつた。

 房子はむしろ、夫の苦心を十も知りつゝ、

「あなたが八方へ手を出して、もうすこし多く口をかけなかつたからですわ」と、透の言ひたげな事を言つてしまつた。

 兄妹二人からかう言はれて自分の苦心は全く消えてしまつた良三は、心中大に憤慨に堪へない樣だつたが、唯口をつぐんで、さつさと寢床へ入つてしまつた。

 透も自分で床をのべて寢てしまつた。房子は夫に對して一言でも兄が感謝でもしてくれたらと、思つて、一人吐息をついた。

 

      二十

 

 玄海から吹き通して來る凄じい夜風はまつ暗な田を越えて野の中に建てられた電車の停留所に突當つてはヒユウヒユウと鳴る。トタン張の屋根をガタガタと搖するのであつた。邊りには家一軒もない。

 うす暗い街灯停留所の、小緣の樣なところに二三人縮まつてかけて居る人を辛じて照らす許りであつた。

「寒い晩だなあ」と呟く樣に言つたのは透であつた。並んでゐた良三は「兄さんあなた御寒いでせう。私のこれをお着なさい」と自分の着て居るマントを脱がうとするのを透はおしとめた。

「何、もうぢき乘るのだからかまひません。あなたこそ、下りて大分あるから僕は房さんから眞綿をドツサリきせて貰つたから、町へ出ればこんなに寒い事はないんでせう」とどうしても聞かない。停留所と云つても、唯だ屋根と壁一方のみで三方は吹き放しでこの海風を遮ぎる何物もないのであるから風は着物を透し隙間から吹き込んで體溫をすつかり奪ひ取つてしまふ。骨身にしみて、冷たい冷たい耳なし風とさへあだなされてゐる風であつた。二人とも銘々くつたくさうに默り込んで、痛い樣に顏に突き當る風を浴びてゐると、町の方からの電車が向うの高處を徐々として下りて來る。靑い灯の幅を暗い線路に藁屋根に草土堤に投げて、浮き出る樣な明るさを窓いつぱいに漂はしながら停留所めがけて走つて來た。二人は待ち兼ねた樣立ち上つた。[やぶちゃん注:「耳なし風」確認出来なかったが、強く冷たい風で体温の低い耳介部分の感覚が消失し、引き千切られて無くなってしまったかのような感じするという謂いの呼称であろう。モデル・ロケーションの北九州の小倉は、関門海峡を挟んで、対岸の安徳天皇や平家一門を祀った赤間神宮(山口県下関市内)に近く、ここを舞台としたかの「耳なし芳一」伝承との親和性もあり、腑に落ちる呼称のようには思われる。「くつたく」現行では概ね否定構文でしか持ちられなくなった名詞なので注記しておくと、「屈託」で、「気にかかることがあるために心が晴れないこと。心理的に一つの対象に拘ってしまってくよくよすること」 或いは「心身ともに疲れてあきあきすること」である。ここは漠然とした比喩であるから、後者の意でとる方が自然である。]

 電車が彼等の前で停ると二人許りの人が下りた。

ぢあ行つて參ります」と良三は洋服の男の後から乘り込んだ。

 電車は透一人を殘して直ぐ海岸の方の線路へかけ去つた。今下りた人達が凍てた樣な下駄の音をコツコツと川添の道に立てゝ遠ざかつて行くのが可成隔てゝ迄も尚ほ聞えて來た。身を切る樣な風は透一人に益々吹き荒んだ。暗い灯の中に腕組して突立つた彼れは何だか背中から首すぢへかけて折々水をあびせられる樣な寒さを覺えたが電車に乘りさへすればと格別氣にもしなかつた。狹い海を渡つて此寒い夜にわざわざ自分の勤め口を求める爲めに、一日の疲れをも厭はず出掛て呉れた妹聟が氣の毒な氣もした。やつれた樣な髮をしてせつせと縫ひつゝ自分の事や樣々の事を案じつゝ溜息でもついてゐる樣な妹の顏もちらついた。ここへ來てからもう三月に成るのにいまだに口も定らず、妹夫婦が何ものも捨ておいて朝に晩に重荷の樣にして焦せつて呉れるのも氣の毒に堪へない。どんなつまらない處でもよいから一時的なものなりと年内に勤め先を見附けたいものだと彼は繰り返しこんな事を思つては溜息をついた。

 ボーオと云ふ長い電車の笛がぢき野の隅の丘の彼方で鳴つた。そして段々近づいて來た。電車はパツと幅廣な靑い光線を濱邊の松原に投げていよいよ曲り角へ其明るい總體をあらはした。さうして長い長い間――唯の十五分ながら――寒風に吹きさらされてゐた透を明るい扉の中に吸ひ入れて、又町へと馳せ出した。電車はいつぱい混んで居たので彼は戸口に立つてゐた。寒氣は中々やまなかつたがしめ切つてある爲め堪へ難い惡感はなかつた。町の灯を縫つて走つた電車はやがて透の下りるべきB驛へ停つた。透は電車から下りて幅の狹い賑かい街をドンドン步いた。年の暮が近づいたので、店々は球灯やビラを下げて何となく活氣づいて居た。厚い毛皮の襟卷やマントを着た人や、流行の肩掛にくるまつた女達が買物のつゝみをぶらさげて景氣よささうに笑ひながら步いて來る。サツササツサと行き違つて行く人々は皆何等かの職業と、家と、日當とを持つて居る樣に眺められた。鼻緒のゆるんだ桐柾の下駄を引ずりながら外套一枚も羽織らないで寒い思ひに堪へつゝ就職口を賴みに行きつゝある自身を透は如何にもみすぼらしい樣にヒシヒシ感じてゐるのであつた。今年の樣な寒い冬を迎へた事はない。東京から早く外套の金を送つて呉れればよいのに……彼はこんな事を考へつゝ洋食屋の軒の下をくゞりぬけた。厨と覺しい窓からは物を煎りつけるバタの甘さうな香氣が、あふれる樣に透の鼻先へ突當つた。其二階には瓦斯が明るくついて花などさゝれたテーブルが窓から見上げられる。透は馬鹿らしい樣な心地に駈られつゝ急に薄暗い橫丁へ這入つた。チリンチリンとゴム輪の車が鈴を鳴らして走つてきた。車の上には派手な友染を着たお酌の人形の樣にぬりたてたあでやかな顏や、上半身が蠟燭の灯で浮き出す樣に透の眼に映つて直ぐ又消えた。[やぶちゃん注:「賑かい街」はママ。]

 

       二十一

 

 一丁許り行くと角に小ぢんまりした二階建のそばやがあつた。透は一寸立停まつて考へて居たが、ツツと暖簾をくぐつて這入ると「いらつしやい」と丸髭の若い女が迎へたが透の顏を見ると、

「おや岡本さん。さあさあお上りなさいまし」と愛想よく言つて、

「あなた。岡本さんですよ」と奧の方に聲をかけた。どてら姿のそこの養子が出て來て透は快よく二階に通された。[やぶちゃん注:杉田久女(旧姓と本名は赤堀久(ひさ))の母方の旧姓は「岡村」である。]

やあ、先日は失禮しました。丁度僕は湯に入つてゝね、歸つて來て、君が來られたつていふからなぜお通ししなかつたつて言つてやつたんです」主人は如才なくこんな事を親しげな口調で語つた。

「いやどうあんな町中でバツタリ君に逢はうなんて思ひもよらなかつたよ。僕は三月も前からK市(ここ)へ來てたんだが」と透が言ふと、

「ふしぎなもんですね。臺灣でお別れしてからもう十二三年ですな、でもあなたは相變らず若い。どうですな此節も矢張り俳句はおやりですか」と主人は聞く。

 この蕎麥屋の若い養子と透とは臺灣にゐたころ同じ鐵道部へ勤めて、文學趣味が合ふ處から非常に親しくしてゐた。別れてからは長い間音信もしなかつたが、つい先達透は町中で「やあ岡本さんぢやありませんか」と呼びとめられて、意外の邂逅に驚いたのであつた。遠い親類先にあたる此家に養子に來た彼は晝は或官邊へ雇員として通つてゐる。一度是非遊びに來給へと言つて其日は別れた。

「時に、お勤口が定りましたか」と養子は親切げに尋ねた。

「どうも一向ないんで困つちまいましたよ。例の方もだめになつたし、妹達も氣の毒な程あちこち探して呉れるんだけど、中々無くつてね。僕はもうかうしてぶらぶら遊んで居るのが苦痛だよ。炭鑛の石炭掘でも工夫でも、もう何でもいいから腕つかぎりやつて見たくなつた。實際親切にされゝばされる程、妹の家にいつ迄厄介になるのも居づらいしね」透はつくづくかう言つた。落附いた聲で。

「だけど君炭鑛なんかへうつかりふみこんだらそれこそもうだめですよ。僕も實はよそながら一二ケ處聞き合して見るつもりだ。焦らず探せば是丈澤山な會社だもの空のないと云ふ事はない」と透を慰めるのであつた。言ひ附けてあつたと見えて下から、前の丸髷に赤い手柄の、丸々した若主婦が德利だの、蕎麥だの一寸した煮付の樣なものをのせた塗膳を運んで來た。

やあもうどうぞ奧さん、そんな心配はおいて下さい」透はかう言つて、主婦さんと挨拶など取り交した。氣の毒さうに辭退する透の、飮(い)ける口なのを知つた亭主は盃をとり上げて度々注ぐのであつた。まだ何となく寒氣がしてたまらない透は種物の蕎麥に藥味をほり込んで熱いのを食べ、酒も二合の餘流し込んだせゐか、いゝ按排に寒氣がやんで何だかボーツと頬の邊がほてるのを覺えた。[やぶちゃん注:「種物の蕎麥」「たねもののそば」とは蕎麦の上に天麩羅・鴨肉・玉子とじなどの種(たね)、即ち、具を既に載せてある蕎麦を指す。]

いつかう上りませんね。何もないが、ゆつくり上つて下さい」

 友達は心から隔意なく透をあしらつて、透が東京時代の俳句のホラなど話すのに合槌打つのであつた。

 

      二十二

 

 透が郊外の家へ歸つてきたのはまだ十時前だつた。良三はまだ歸つてなかつた。蠟燭を持つて玄關へ迎へた房子は兄の元氣の無い顏色を見ると「どうかなさつたの」と氣遣はしげに聞いたが兄は「ウン」と大儀げに言つたまま帽子を柱にかけて電灯の間へ上つて行つた。「何だか馬鹿に寒氣がしていかん」と言ひながら透は右の袂からアンチピリンの包を出した。[やぶちゃん注:「アンチピリン」(antipyrine)はピリン剤の一つで解熱・鎮痛・鎮静剤。ピリン疹や血液障害の副作用があるため、現行の市販薬ではアスピリン(aspirin)に主流が移っている。]

「風邪だらうと思ふんだが、房さん一寸水を呉れ」と言ふ。房子が煮ざましを持つて來ると透は一服呑んで、

「良三さんはまだか。遲いなあ、友達のとこで酒と蕎麥をよばれたら其當座は大分暖まつてたが」

「薄着だからおかぜをめしたのでせう。早くお休みなさいな。私家の中で縫つてても隨分寒かつたんですもの」と房子は炬燵にかけてあつた透の寢卷を出した。寢床には炬燵の嫌ひな透の爲め湯婆(ゆたんぽ)が入れてあつた。透が床の中へもぐり込むと房子は枕許へ來て肩をつめたり裾の方へ座布團をのせたり、押入の鞄をあけて透の體溫器を出して、透に渡したりした。

 透の風邪は翌日も矢張り熱があつた。透は房子の煮て呉れたお粥を少し食べた許りで寢通してゐた。

「兄さん醫者に診て貰ふ方がいゝぢやありませんか」と勸めてもまあもう一日經過を見ようと、矢張買藥を呑んで居た。熱が下らないので町から醫者に來て貰つたが今のところでは風邪らしいとの事だつた。十二月ももう二十日過ぎたので或日は慌しい樣な短日の日ざしがパツと透の寢てゐる障子を染める事もあつたが灰色の密雲が松原の邊りへ凝固した樣に垂れ下つて夕方からチラリチラリと粉雪が降り出す日もあつた。房子は凍てた樣な朝も早くから起きて透の粥を煮たり藥取りに町まで行つたりその歸りには重い氷をさげて歸つた。

 良三は二十五日迄は每日學校の方へ出なければならなかつたので房子は子供らの春着や、自分達の直しものやら山程、師走の用事を抱へつゝ看護に掛つてゐた。

 十二月の初めから夫婦は透の就職口を何でもかんでも年内に見付けなければと、重荷の肩にある樣な責任觀念から、益々不健康な赤ん坊の體を顧る暇もなくその方に奔走してゐた。透の病氣は運惡く數日の後チブスらしいと言ふ醫者の宣告を受けた。神經の鋭敏な透はさう言われる二三日前からしきりに「熱の按排がどうも唯の風邪ではない樣だが」と氣にして、何度となく體溫器を枕元からとり上げては腋へはさむのであつた。房子もないないそれを心配してゐたが愈々と成ると是非入院しなくてはならないが困つたと思つた。[やぶちゃん注:「チブス」(ドイツ語:Typhus)ここは水や食物に混入した腸チフス菌によって起こる消化器系感染症で高熱が持続して全身が衰弱する腸チフスのこと。詳細は、ごく最近の私が芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 戀は死よりも強しの「チブスの患者などのビスケツトを一つ食つた爲に知れ切つた往生を遂げたりする」に附した注を参照されたい。]

「困つたなあ」醫者が歸つて行くと透はあふむきに天井をみつめたまま「僕だつてふだんならおいそれと入院するんだがどうも今の身では此上送金してもらふのもつらいし………」と聲をとぎらせるのであつた。熱にほてつた顏に淋しい屈託の色を浮べて當然の事を氣兼ねしてたゆたつてゐる兄の樣子を見て良三も房子も胸の痛い樣な氣がした。「でもね外の事とは違ひますもの、嚴しいたつてお父樣はきつと快よく出して下さるにきまつてますわ。心配なさらないで入院ときめませうよ。ねえ兄さん………」房子は慰める樣言つたが聲は打沈んでゐた。三人は思ひ思ひに沈默した。折角かうして賴まれながらまだ勤め口もない中に病人にしてしまつて申譯ない。多大な費用を更にまた送つて貰ふと言ふ事はいかにも言ひ難い氣の毒な事だと良三は思ひ詰めた。この郊外の村一帶はチブスの非常に多いところだ。ことに房子の井戸はどこからか汚水が流れ入つてよく濁る事もあつた。だが責任は食物の調理をする私にある。東京にも兄にも濟まない。と房子は房子で思ふのであつた。[やぶちゃん注:「たゆたつてゐる」躊躇(ためら)っている。この用法は今はあまり使わないので注しておく。]

 

       二十三

 

 遂々入院と定つた。だが氣丈な透は人力車で行くと言ひ張つた。[やぶちゃん注:「遂々」「たうとう(とうとう)」(到頭)と読む。当て字。]

 ふらふらする體を獨りで起き上つて房子の着せかけて呉れるシャツや綿入に手を通した。氷囊だの體溫計、手帳、そんなものを包んだハンカチを持つて、玄關へ下りた透は、良三と房子を見つめて「お二人とも大變お世話をかけました」と何だか暇乞の樣な言葉を殘して毛布にくるまつて俥に乘つた。外套を透に着せた良三は何も着ずに後の車に乘つた。

「兄さん氣を落さず御大事になさい」と房子はうるんだ聲でかう言つた。「さやうなら」と透も淋しげに見返つた。

 家の中へ這入つた房子は敷き放しの布團や、熱臭い襯衣(シャツ)などを兎に角一とまとめにしたり、埃をかぶつた藥瓶や、粉藥の袋を始末しつゝ今出しなに兄の殘して行つた言葉を思ひ出してホロリとした。催ほしてゐた雲は夕方から大きな牡丹雪をしきりに降らした。見る見る中に門前の苫船も河原の枯蘆も田も屋根も白く成つて行つた。兎に角大した異常もなく手順よく市立病院の隔離の一室へ落付いたと言つて良三が歸つて來たのはもう夕方近かつた。「行つて診察を待つ中何だか大變苦しくなつて見えてね。直ぐ部長が診てくれた。持つて行つた氷囊が役に立つて直ぐ落附いた。擔架で隔離の方へ行かれた」「兄さんは以前心臟が惡かつた事があるから熱がつゞくと心臟の方が心配だと部長が言つた」良三はせかせかと夕食を詰めつゝ話して又病院へ手續の爲め行かねばならなかつた。近處から十四五の男の子を賴んで來て透の敷いてた布團、新らしい寢卷、新聞紙其他ちよいちよいした入用の品を一まとめにして荷車にのせて病院へ行かせた。牡丹雪がどんどん降りつゝ日はもう暮れかけゐた。提灯や、蠟燭の用意をさせ、良三自身は電車で先へ行つて布團を受取るべく出掛けた。家の中は灯がついたが何だかそここゝに暗い隈がある樣で房子も子供らも非常な淋しさに襲はれた。子供らが皆寢てしまふと房子は、東京の兩親へこまごまと手紙を書いた(電報は既に良三から打つた)全く私の不注意から起ツた事で誠に申譯ない。と彼女は繰返し繰返し謝まつた。附添をつける事にしても、初めての病院の夜は淋しからうと思ひ遣つて房子は淚を流した。その日はもう元日が明後日といふさし迫つた夜であつた。正月の用意も餠搗も彼女の家ではする間がなかつた。

 翌日も朝から良三は病院に行つたり、東京へ自分も通知を出したり、入用の品物を買つて病院へ持つて行つたり、其暇々には、電車で郊外の家へ歸つて來て、正月の入用の物について、せめて〆飾(しめかざり)や餠位はと言ふので買ひ整へても來た。

 良三は昇汞水の手を嗅ぎながら「もう正月の仕度なんか此場合やめて、掃除もやめなさい。食器――兄さんの――類やすべて使はれたものは熱湯で消毒するんだね」[やぶちゃん注:「昇汞水」「しようこうすい(しょうこうすい)」は昇汞(塩化第一水銀)に食塩を加えて水に溶かしたもので毒性が強いが、かつてはよく消毒液として使用された。]

「なに僕は傳染なんかしない」

 かう言つて途中で買つて來た正宗を盃に二盃程飮んだ。今日たつた一日と言ふ今年最終の日をいか程あせつてもどうする事も出來ない。房子は、赤ン坊を背負つたまゝせめては臺處のガラクタでもしまつしようと思ひ立つて厨だけは心地よくすました。每年の年越の日は重詰も見事につくり活花もいけて打揃つて目出度く年を越すのであつたが今年は思はぬ透の病氣の爲め折角買つた木附(ぼくつき)の冬至梅も水仙も臺處の隅の瓶に浸けた儘だつた。

 夕方病院の拂ひを濟して歸つて來た良三は「お鏡餠だけは緣起直しに大きいのを買つて來た」と重いのに五升の重ね餠をさげて來た。

 兄さんはと聞くと「變つた事もないが何だか神經が興奮して種々氣にされるのが病氣に惡いね」と答へた。そして「兄さんにも淋しい正月だが小いお重ねを持つてつて上げる」と小餠の重ねを半紙に包んだ。水仙の花を持つて良三は出かけた。

 

       二十四

 

 敬神家の良三は小さいお神酒入れなども買つて來た。煮豆にお煮〆丈がやつと忙がしい中で煮られた。年越の夜ではあるが夫は病院が淋しからうと歸つて來ない。父を待ちくたびれた子達に夕飯をたべさして寢せて後房子は明け放つて掃除をした。雪はしんしんと暗い夜空に降つて積んで行つた。房子は寒さをも忘れて蠟燭の灯で緣をふいたり、玄關の叩きを洗ひ流したりした。それでもどうやらかうやら家中を氣持よく掃除し終つて床の間にはお供餠も飾られ梅も投込ながら插された。水引を掛けた根の附いた小松をコツコツと入口の柱に打附けた。晝の間に汲み込んで置いた風呂も焚きつけた。か樣にあれこれと働いた房子は、もう十時近い座敷の床に蠟燭をつけて、非常に敬虔な心持で八百よろづの神々へ祈をさゝげた。彼女には之と特別におん名を呼び上げて祈る程親しみの厚い神もなかつた。唯彼女の胸の中にある「神」に向つて、兄の病氣を祈り一家の無事を祈り、遠く父母の健康を祈つた。寒さは骨身にさす樣食事もせず十一時近く迄働き詰めてゐた房子の體中を包んだ。けれども彼女は燃える樣な熱誠を包んで、唯だ祈りをさゝげた。石膏のビーナスの胸像にも細い蠟燭が灯されてあつた。[やぶちゃん注:「彼女には之と特別におん名を呼び上げて祈る程親しみの厚い神もなかつた」久女や夫宇内(うない)がキリスト教に強く惹かれるようになるのは後の大正一〇(一九二一)年のことである(翌大正十一年二月に小倉メソジスト教会にて受洗した。同年十二月には夫宇内も受洗している)。「石膏のビーナスの胸像」画家で美術教師である夫のデッサン用のそれである。]

 彼女は夫の藝術的成功をビーナスの女神に祈りを捧げたのちしづかに、蠟燭を吹きけした。

 戸外の雪は餘程積つたと見えて庭前の樅の枝から折々ドサリと重い雪の塊がなだれ落つる音もした。

 外套の羽根も帽子もまつしろにして夫の歸つて來たのは夫れから間も無かつた。門口でコンコン下駄の齒をはたいた良三は「まだ起きてたのか。うん僕は病院で食べて來たよ」と言ひながら上つて「別に變つた事はないがどうも熱が非常に高い。檢鏡の結果愈々チブスと決定したが、正月でもあり發表は二三日のばしてもらふ事にした。何しろ心臟の事を醫者は非常に心配してゐる。だめだとは言はないが………」と沈んだ表情をして「あまりひどく東京へ知らせれば心配をよけいかけるし、かといつて萬一の事のあつた場合には申譯なし、輕率に來て貰ふのも遠方だから困るし……」

「意識はたしかなのですか」

「意識が確か過ぎて、行けば平常通り話されるし困るんだ。あの通り神經が鋭く成つてゐるから病人に餘り重く思はせ度くはなし」と良三は言つた。大變いゝ附添の婆さんだ、など話してた。良三は、「子供達に正月の羽根など買つてやらうと思つたんだが、可愛さうだから今から町へ行つて來る」と房子の留めるのも開かず、又外套をはおつて出て行つた。入れ違ひに東京から電報が來た。

 カネ五十オクルヨオダイシラセ大晦日と云ふのに兄重態入院の電報を突然受取つた兩親の驚きは如何許りであらう。病症が病症故にと房子は胸の痛くなるのを覺えるのであつた。房子一家はK市へ來てから唯の一度も入院する樣な大病を一家の中から出した事はなかつた。房子は衞生なんかといふ方は非常にさわいで氣を付ける方でもあつた。それに傳染病者を出して、この年の暮れのごたごたの中に弱い赤ん坊やヤンチヤな上の娘を抱へてこの心配の渦に飛入る事は何と思つてもまあとんだ大災難だとつくづく思つた。兄に萬一の事でもあつた時は猶更大變である。年老つた兩親が出て來る……色々な悲しい出來事……房子は本當の樣死を思つて思はず戰慄した。こんな遠方に漂浪して來て友も、妻も、家庭も皆すてゝ淋しい佗しい生活に堪へて來た兄が種々な佗しさを胸に疊んで死んで行くのかと思ふと彼女はたまらなく兄が可愛想で留度もなく淚が流れた。[やぶちゃん注:「留度」「留め處(ど)」。]

 

      二十五

 

 夫は十二時過ぎても歸つて來なかつた。電車は通はなくなつた。

 房子は晴い風呂場で火を焚きつゝ留度もなく泣いたり、父への手紙を書いたりした。兄はすつかり近來性格もぢみに變つて來た。今度こそ腕限り奮鬪すると言つてゐた。入院する時も父母へすまないと言つてためらつた位で、大熱で臥しつゝも父母の大恩を感謝しすまぬすまぬと言つてる兄をどうぞ可愛想だと思つて許して上げて下さい。萬一の場合あの佗しい心地の儘死なしては可愛想だ。一寸感動しても直ぐ熱の上る兄へ何卒ひどく叱つて下さるな、と彼女は淚にぬれつゝ美しい感情と淚とに充ちた長い手紙を書きつゞけた。

 戸をしめかゝつた、今年最終の夜の店々で子供達の喜ぶ玩具や、羽根や、美しいお菓子を買ひあつめた良三は電車が無いので半道の餘の暗い道をテクテク雪にまみれて歸つて來た。妻の房子はまだ起きて漸やう書き終つた手紙の上書をしてゐるところだつた。「遲いものだからもうどこの店もしめてるんだもの。でもよその子がお正月なのにうちの澄子だけしよんぼりしてゐるのも可愛想だからね」かう言つて風呂敷づゝみから種々取出した良三は袂からみ籖を出して「あまり今年は惡い年だしするから歸りにお祇園樣へおまゐりして祈願して來た。もう十二時過ぎて年は新たまつてゐるし本年の初參詣は僕だ」と珍らしく笑んで大吉と云ふみ籖を房子に渡した。

「だが考へ樣によつては僕等一家の危難を透さんが一人で背負つて下さつたのかも知れない。非常な打擊と心配と不幸を兄さんの爲め受けた樣思ふより我々は不幸中にも一家四人無事で怪我一つなく今年を終つた事を感謝しなくてはならない……」腕ぐみしてかう言つた良三の顏は大變嚴肅な引締つた目色であつた。二人の間に暫くおごそかな沈默がつゞいた。

「子供達を湯に入れてやらう」

 裸になつて、沸きすぎた湯を五六杯バケツでうめた良三は、眠い子供を抱いて房子が來ると一人づつ入れてやつた。湯殿の棚には蠟燭がゆらゆら燃えてゐた……

 正月の二日三日が一番危險とせられてゐた透の病氣も天佑か良三夫婦の熱誠が屆いたのか、正月の五日から、十數日目で初めて熱が下り初めた。一時は四十度三分などゝいふ高熱が續いた。危篤の電報さへ打てば兩親共直ぐ出立すると言ふ豫定だつた。良三の心痛ははたの見る目もいたはしい位で彼は責任と云ふ重い觀念を頭に漲らして出來る丈けの世話をした。透は少し熱が下がつて來ると高熱中の事はちつとも覺えが無かつた。熱は日每に順調に一分へり二分へり遲々として下つて行つた。倂し針の樣に尖つた神經が何事かに觸れる度又俄かに熱は、上つて行つたりした。流動物のみ攝取して、讀書は禁じられるし每日きつと午後から夕食の頃迄來て呉れる良三を待つのが何よりの樂しみだつた。

 房子は時々一人で病院に來ては蜜柑をもつて來て呉れたり枕元の椅子にかけて二時間位ゐ話して行つた。命がけで病んだ彼は、ひとりでに罪のすべてを許された。

「兄さんお父さんからお手紙でね、何も心配せず早く病氣を癒せつて言つて來ましたよ」と房子が來て言ふと彼れは鼻のみツンと高く瘠せ衰へた顏に皺を寄せるやう微笑したが目には淚がにじむ樣に光つた。姊や母からも、病人の心を興奮させぬ樣直接の音信は無かつたが度々手紙で案じて來たし、經費はをさめる期日におくれぬやうキチンキチンと送つて來た。例の蕎麥屋の養子も見舞に來た。房子からの細かい手紙で透の句兄弟某氏からも直ぐ見舞狀が來た。[やぶちゃん注:「句兄弟某氏」これが誰であるかは不詳であるが、モデルである、俳名を赤堀月蟾(げっせん)と称した久女の実兄は渡辺水巴門ではあった。]

 

       二十六

 

 妻のお芳も、良三の電報がつくと直ぐ兩親の許へ呼びよせられて病狀を語られたので看護に來たかつたがそれは許されず、非常に心痛しかつ良三夫婦に世話になつた禮をのべて來た。すべての狀態は圓滑になつて今は唯一日も早く透の快復を待つのみだつた。一體が至極強健な彼は快復期に入つては非常の早さであつた。妹から暮れに屆けてくれた水仙の花の淸淨さを透は朝に夕に眺め郊外の河畔の家がしきりに戀しくなると端書に病床中の有樣や、隣室の病人が昨夜死んで非常に貰ひ泣きしたとか窓の外に梅が咲いたとか云ふ樣な事を寢床の上で鉛筆の走り書きして附添婆さんに投函して貰つた。いかな雨の日も、寒い日も、雪の日も良三は入院中一日もかゝさず市外の家から電車で通つた。電車を下りてからまだ病院迄は十五六丁あつて道の泥濘でない日はめつたに無かつた。附添の婆さんへ心附けなども良三の手からとして出された。親切な附添の婆さんは實に行屆いた世話をまごゝろからして透はつひぞ一度も怒り度い事さへなかつた。

「全くよく命が助かつたものですね。僕は病前の禁酒や鰻などでウンと滋養物を取つたから身體が堪へられたと思ふ」と良三の來る度に透は語るのであつた。

 よい按排に某鐵工場の事務の主任にあきが出來たので世話し樣と言ふ人があつて、それこそ退院を大變せいて、一月の末には許された。郊外の電車を下りて房子の家迄一丁半許りを步いて、良三と歸つて來た透は疲れを覺えた。房子も子供も皆いそいそして彼れを出迎へた。六疊の間にはチヤンと布團が敷いてあつた。

「ほんとにお目出度うございました」と房子は言つたが目には淚がにじんでゐた。「伯父さんやせたのね」と澄ちやんもいたいたしさうに伯父を見てゐた。

「どうも今度はあなた方お二人に何とお禮を言つていゝか、僕は感謝してる」と透は言つた。

 明るい燈の下に、久し振りで、甦つた樣な透を取りかこんで一家は賑かな笑ひに充ちた。當分の中は服藥もし、天氣のよい暖い日は洋杖をついて、外套や首卷をし、母から送つてきた綿のドツサリ這入つた胴着や、羽織を着ぶくれて、そろりそろりと病院通ひする事もあり、町の潮湯へ行く事もあつた。

 こんな風で透は次第に快復しつゝあつたが房子の赤ん坊は、十二月の末から腸をこはしたり、輕い風邪を引いたりして、全くひよわな身體を冬枯の樣にいぢけさせて、肥るどころか次第次第に瘦せて來た。さすがに兩親とも氣附いたが、透の病院の騷ぎの爲め遂に哀れな赤ん坊は閑却されてゐた。絶えず腸をいためて粘液の樣なわるいわるい下痢をした。神經が鋭くなつて泣いては夜も目をさました。

「此子は死ぬのではないかしら」房子は每日かういふ怖れを抱いて居たが透も病院通ひも一人で出來、食物も、幾分手もかゝらなく成つて來たので、或日彼女は、町のお醫者樣へ連れて行つた。それはK市では指折りの小兒科醫で物質萬能のK市には珍らしい樣な高い人格者だつた。ストーブの焚かれてある診察室で、着物をぬがせた赤ん坊の、ほねぼねしい肋骨の邊や、蒼白な瘦せた皮膚の色。手も足も人形よりもつとしなしなと小い身入の惡いのを醫師は丁寧に診をはつて昨年來の容體を聞いてから「兎に角非常に御衰弱ですね。さうです。榮養不足です」お世辭もない醫師は信じた通り言つて滋養糖のこしらへかた、乳のうすめ方など、親切にこまごま教へて下さつた。眞綿でくるむ樣にして着物を着せ終つて、此病院の門を出た彼女は泣き度い樣な心地で無意識に電車通りを步いた。「此子はもう手遲れだ、死ぬかもしれない……」かう思ふと堪らなく可愛想で房子は、道行く人々がけげんさうに彼女の樣子を見て過ぎるのも知らず吐息をついた。藥屋でミルクや乳鉢や飴や、吸い口、ゴムの管の樣なものを買ひ揃へて房子は飛ぶ樣に家へ歸つた。

 

       二十七

 

「此子は助かるでせうか」房子はじつと灰色の雲を見詰めて言つた。「大丈夫。春が來て暖かくなれば屹度むくむく肥り出すよ」良三は信ずるやうかう言つた。「さうとも。命と言ふものは神の手で審判(さば)かれるものだ………」と透はひくい、倂し力の籠つた聲で同意するのであつた。

「快復の見込は充分ある」と信じ切つてゐる醫師からかう言はれたので房子は驚くべき熱心を以て、赤ん坊の不健康を癒す爲めに努力した。彼女は每日家の用事が一渡り片附くと家を締め、長女を連れて、おんぶ羽織をきて、電車で病院通ひをした。病院には病兒を連れた親達が、もうあふれるやう待つて居た。やつと自分の番が來て診察がすむと今度は藥取に暇がかゝつた。女中達に早く札を取らして置いておしやれしてゆつくり來て房子達より却つて先に、サツサと歸つてゆくやうな結構な身分の人達と違つて手の足りない中から何ものも投げ捨てゝ遠くから出て來る房子達には病院がよひが殆ど一日仕事であつた。そそくさと歸つて來て透の食事や、夕食の買物などにも、又步るかなければならなかつたが此場合そんな事は言つてられなかつた。飴やメリケン粉やをミルクに交ぜ合して丁度よいかげんに調合した光子の飮物を硝子器に入れてやると赤ん坊は口をコツクンコツクンと言はせて見てるまにクツクと吸ひへらして行くのであつた。赤ん坊の腸は藥と飮物の爲め次第に調へられては來たが、たまに一日でも藥を休むと翌日は必らず惡い徴候があつた。隔日每に出かけて二日分の藥をもらつては郊外へ歸つて來る房子はもう彼れ是れ一月近くなるのに格別好い方にも成らず、肥りもせないのがもどかしくてたまらなかつた。倂し此衰弱し切つた赤兒の腸を先づととのへてからではなくては肥ると云ふ點へはまだまだ遠い事で、一向效驗の見えない病人を約二月近く判を押したやう連れて行くと云ふ事は非常に根の入る仕事であつた。でも親切な醫師の盡力と房子の熱誠と、もう一つは自然の偉大な愛の力とに惠まれた爲め赤ん坊は一日は一日より、誠に遲々たる步みであつたが快癒の方へ向つて行つた。朝鮮人參なども殆ど每日のやうに小さい土鍋で、長火鉢の上に煎じ出されて、日に數回づゝ赤ン坊に飮まされた。[やぶちゃん注:底本では「腸を先づととのへてからではなくては肥ると云ふ點へはまだまだ遠い事で」の「ではなくては」の最初の「は」の右手に編者のママ注記があるが、私はそれほど奇異に感じない。]

 早く春が呉ればよい。暖くなつたら赤ン坊も肥り出すだらうと房子は春の復活のみ待つた。恐ろしく寒い日が又歸つて來て田の向うに見える貫(ぬき)足立(あだち)の連峰がまつしろになつたり、四五日は雪解の風が、郊外に吹きまくり電車へ辿る土堤はひどい泥濘になる事もあつたが、長い間寒冷に壓しつけられて地にくつつくやう矮さくなつてゐた庭先の菜は、目立つて綠色の葉を成長させた。そしてその間引きもせず、重なり合つた菜の葉の中にはどれも皆莟をもう潛めてゐるのであつた。春めいた何となく暖かい日が庭土に枯木の影を濃く落すやうな日が三四日も續くと此菜の赤ン坊とも云ふべき樣な菜は、一齊にめざめたやう、二三寸程の矮さい弱々しい薹をぬき出した。そして其細い莟の先には靑い莟をささげて、いかにも餘寒らしい淡い、小さい花辨を開く事もあつた。庭の隅にはいぢけたやうな蕗の薹がかたい顏を地上に現はしたりしてゐた。[やぶちゃん注:「貫(ぬき)足立(あだち)の連峰」現在の福岡県北九州市小倉南区の北端にある標高七一二メートルの貫山(ぬきさん)から同北九州市小倉北区にある標高五九七・八メートルの足立山(別名「霧が岳(きりがたけ)」)へ続く峰々のこと。「矮さく」「ちひさく(ちいさく)」(小さく)。]

 子供を背に負ぶつて川堤をブラブラしてゐると、頭を手拭でまいた漁師町の女達が手に手に食べる爲めの蘩蔞(はこべ)や芹などを携へて田圃の方から歸つてくる群れを見出した。磯の方から來る子供達の籠には砂まぶれの蜊(あさり)や、おごと言ふ藻や、靑海苔なんどが、いつぱいはみだすやう入れられてあつた。[やぶちゃん注:「おご」紅色植物門紅藻綱イギス目イギス科エゴノリ属エゴノリ Campylaephora hypnaeoides の方言名。福岡など名産である「おきゅうと」の原料。同じ紅藻綱で刺身のツマや寒天の材料にする(但し、石灰処理をしないものは有毒(毒素は複数説有り)なので注意)オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla とは全くの別種である。]

 まだ冷たい川水に股まで入れて網打つ人、土堤の上から見てゐる人々にも何となく春めいた日ざしが漂ふやうにも見られたが、枯薄の根や塀かげにいぢけて萌え初めた草にも、河深く泊まつてゐる漁旗のはためきにも、餘寒が漂つてゐるのであつた。

 透が、ボツボツ拔け初めた頭髮を氣にして、わざと短かく刈り込まず、今迄と變つて油などつけて橫撫でになでつけては、某鐵工場へ每日出勤する樣になる頃には、赤ン坊も次第に藥に遠ざかつて、小さい腮の邊も肉がつきそめ、愛らしい笑顏も洩れるやうになつて來た。早く暖かなほんとの春が來ればよい。「春になつたら東京のおばあ樣のとこへ連れてつて上げませう」房子は、甦(い)き得た愛子(あいし)を抱いては頰ずりした。

 河畔の家に住む彼等一家族は、長い間の苦勞から追放され、二つの甦つた肉體を守りつゝ、ほんとにまじめに、地上に春が復活する喜びの日を待ちつゝ暮すのであつた。

 

 

[やぶちゃん注:最終文の「追放」には編者によって右にママ注記が附されている。

 第「二十四」章の末尾を二十八歳(執筆投稿された大正八(一九一九)年年初)の久女は、こう書いている(読み易く読みを加え、読点を打ち、〔 〕で語を補助した)。

   *

……色々な悲しい出來事……房子は本當の樣(やう)〔に、まさに〕死〔といふもの〕を思つて思はず戰慄した。こんな遠方に漂浪(へうらう)して來て友も、妻も、家庭も皆、すてゝ、淋しい、佗しい生活に堪へて來た兄が、種々(いろいろ)な佗しさを胸に疊んで〔其の儘に〕死んで行くのか、と思ふと、彼女は、たまらなく、兄が可愛想で、留度(とめど)もなく淚が流れた。

   *

……この二十七年後……久女は昭和二一(一九四六)年一月二十一日、入院先であった福岡市郊外の大宰府にあった県立筑紫保養院に於いて、腎臓病(精神科医でもある俳人平畑静塔は当時の極度に悪い食糧事情での栄養失調或いは餓死と推察している(平成一五(二〇〇三)年富士見書房刊坂本宮尾著「杉田久女」一九八頁より孫引き))のため、肉親に看取られることなく(敗戦直後の劣悪な交通事情に拠る)亡くなっている。満五十五歳と八ヶ月余りであった…………

2016/07/21

河畔に棲みて(十)~(十八)   杉田久女

       十

 

 透の就職について某實業家が愈々會見したいと云ふ知らせの來たのは十一月の中程であつた。其日は砂ぼこりの強い日であつた。透は妹に手傳つて貰つて、しつけを去つた新らしい羽織や袴を着た。

 肩幅の異常な迄ひろい中ぜいながらがつしりした體格の透は、髮も五分頭で、鬚も生えないたちなので打見たところ四十に二三年しか間のない男とは見えなかつた。

 すつかり仕度の出來た透は例の鞄の中から自分の名を書いた名刺だのハンカチーフの樣なものを取り出して袂に入れた。それから

「これは僕の運命の石だ」

と紫色の小袋に入れたものを内懷に祕めた。

アラまだあれを持つていらしたの」と房子も笑つた。

 それは透が前の會社へつとめる爲今日の樣にして重役へ會見に行く時、母が「これは運命の石ですよ、愈の時は袂の中で此石を握りしめて、しつかり談判なさい」と透に授けたもので、其實は何でもない唯の石だつたが其石が占をなして談(はなし)が整つたのであつた。透はその後十何年の今日も猶其石に因つて再び自己の運命を展かんとしつゝあるのであつた。落のない樣こまかい世話までやいて、緊張した透を送り出した房子は兄の歸宅のみが待たれた。明るい緣先で、房子は張板に赤や靑の布をつぎつぎに張りのばしたり、子供に乳を呑ましたり、割合にひま取る透を、何度も緣側から見やつたが透は晝近い頃やつと歸つて來た。[やぶちゃん注:最後の一文中の「何度も」は底本では「同度も」である。色々な読みを想定して見たが、このままでは読めないと判断、結果して、これは見た目から「何」と「同」の誤植と断じた。大方の御批判を俟つが、恣意的に「訂正」して示した。]

まあ御ゆるりでしたね」

 かう言つて飛出して行つた房子は、兄の顏を見た瞬間ホツと安心した。砂ぼこりでしろくなつた繻子の足袋をハンカチーフで拂つてから玄關を上りつゝ、

「歸りは電車に乘らずブラブラ來たから……だが隨分あるね。O坂の峠茶屋で田舍餠をパクついたが腹がへつてたせゐかうまかつた」透は機嫌よくこんな事まで言つて、房子の長女を笑はした。袴や羽織をぬぎすてゝ井戸端へ顏洗ひに行く兄の後から房子も追かけて色々と會見の樣子を聽くのであつた。

「行つたら客があつてね二十分程應接室にまたされたが……」

 某氏は氣易げに面會して今迄の職業だの、どういふ目的で當地へ來たのかと色々と聞いた。透は、當地方の有望な事をきゝ是非腕一本で働きたい。最初から多大な地位はのぞまないから腕ののばせる場所で働き度い希望をのべた。某氏は、唯今といつても空もなし自分は直接雇員の事については關與せないが近日中一方の長たる者へ紹介するから何とかなる事と思ふとの話しで、會見の時間は約四十分位だつたさうな。絹物づくめでもなく一見書生つぽの樣な風體の透の落付いた、そして急所急所に要領を得たキビキビした言葉などは、某氏に初對面の好感をあたへた樣で、

「履歷書も方々からこんなに澤山來てゐますが鈴木氏(良三)からの特別な依賴ある事ですからつて見せたがね、成程澤山來てるわい。まああの口付では十中八九は大丈夫だね」

 柔術できたへ上げた腕節を力(りき)ませつ透は得意げに笑つた。自分の談判の成功を誇る樣に……

 夕方良三は、細長い體をヒヨイヒヨイ飛ぶ樣な步み振りで急いで歸つて來ると、

どうでした、今日の結果は」と直ぐ透にきゝかけた。

やあお歸りなさい。まあ先達の話と大した違ひもないんですが」

 透はにこにことまた繰り返して話し出す。

「伯父さんはね。歸る時田舍のおばさんの店でお餠を五つもめし上つたのよ」と傍に遊んでゐた澄子が言つた。

それはよかつた。安心しました。十中八九は大丈夫でせう」

 良三はかう言つて成功を確信してゐるらしくうなづいた。

 

       十一

 

 會見の次第は直樣東京へ房子から知らしてやつた。そして三人共成功をやゝあてにして次の會見を待ちつゝ暮らすのであつた。

 釣は相も變らず每夜根氣よく續けられた。透のは、この禁欲的な世間と斷たれた淋しさ退屈さを紛れる爲めの魚釣であつたが良三のはほんとに好きの爲めに釣るのであつた。秋が深く成つて其邊一帶の岡の上にも河畔にも、櫨(はぜ)が紅葉し、河原薄は薄樺色に陽にかゞやき、野菊の花は星の樣に無數の花を至るところに點じてゐた。河原に橫たはる澤山の船も、遠山も、田も、房子の家を取り卷くすべての自然界のものは皆驚ろくべき高調な「秋の色彩」をのべて、どこを切り離しても皆これ立派な水彩畫であり、油畫であつた。けれども畫かなくては成らない畫家の良三は、終日の疲勞に、歸宅してからはもう再び繪筆を取る程の根氣はなかつた。俗務に追はれ、俗人にしひたげられつゝ不快な沈んだ顏色をして、裏金のついた重い靴をひきつゝ河畔を歸つて來る事もあつた。十年間彼は眞に感興にそそられて筆を取つた事など一度もない。スケッチ板は塵にまみれ、たまたま調色板にひねり出される繪具は皆、畫かないではかたくなつてしまふのであつた。忙がしい職務の爲のみでなく苦勞なしに育つて來た、相續者の地位にある彼れは、格別あせつて繪をかく氣にもならなかつた。一つには彼の體質が華奢過ぎる程、華奢に出來てゐるからでもあつた。天氣の好い日曜日など朝から海釣りに行かうとして、餌を買ひ步いたり、丹念にテグス(釣糸)や釣針のしまつをしてゐる良三を見ると房子は何だかあんまりな樣な心地がした。[やぶちゃん注:底本では第二文の「紛れる」の右に編者による、ママ注記がある。「調色板」は「てうしよくばん(ちょうしょくばん)」でパレット(フランス語/英語:palette)のこと。]

「釣にばつかり行つてらしてちつとも御畫きなさらないのね」妻の房子にこうづけづけと言はれるのが良三は一番氣がねだつた。外に道樂もたのしみもない良三には、房子のつくつて呉れる西洋料理を食べる事と釣とが最大の慰籍なのであつた。

「いゝぢやないか。活動一つゆかないんだもの、さうヤイヤイ言はれたつて繪なんかかけるものぢやあないよ」鉛の重石を作つてた良三は、頰の生えさがりつづいてゐる頰ひげの邊をなでつゝ定つてかう答へるのであつた。[やぶちゃん注:「定つて」「きまつて(きまって)」。]

「すきなものは釣るがいゝよ」

「何も、大した費用がかゝるのでもないから。道樂としてはよい道樂ですよ」机に頰杖突て見て居つつ透はいつも良三の方のひいきした。男同士二人は至極仲よく、釣の話を取交した。房子は現實生活の貧しい爲めにも時々は色々な佗しさを見出し、おなじお茶の水出の友達が皆社會の上流に屬する生活をしてゐるのに、自分丈がかういふ光彩のない生活の中に、貧とたゝかつて暮すと云ふ事を淋しく思ふ日もあつたが唯感激に生きてゐるといふ樣な彼の女は、夫等の苦勞よりも、惰性で活きてゆく樣な沈滯した中に、唯平凡と安逸とを貪つて暮して行く、そして輝いた藝術品一枚も畫かないで、次第次第に教師型になつてゆきつゝあるといふ事の方が悲しかつた。

 彼女は、只一圖に藝術的な生活を求め度いと夫のみ願つた。光輝ある藝術家として夫が立つならば富も入らない。榮譽も欲しない。

 彼女は、海軍中佐夫人になつてゐる彼女の實姊に貧しさをそしられた時も、決して貧と云ふ事を恥かしいとは思はなかつた。幾多の勳章のかがやいた胸よりも、彼女の爲めには唯一枚の畫、唯一本の繪筆を手にしつゝある藝術家を貴しと見たからである。彼女の大きな目は、美しい空想の爲め、黑曜石の樣に輝いてゐた事もあつた。又房子自身の性質も、まるで空想と詩との權化の樣なものであつた。よく悲しみよく泣き、よく大自然の懷に入つて、樂しむ事が出來た。倂し夫の良三は、趣味の人でもあり、淸淨な人格者でも有つたが、家を繼ぐと云ふ事を温厚な彼れは第一の目あてとしてゐたしどちらかと言ふと常識の勝つた堅くるしい人物なので、白熱的な藝術欲はなかつた。

 

       十二

 

 九年間是といふ病人も家内になし、平々凡々で押し通して來た彼等夫婦は、外出といへば必ず一緒に出る、客が來れば房子も出てもてなす。彼等の仲間でも一番幸福な家庭とされてゐた。又實際係累はなし、大した波瀾もなかつたし郊外に住んで、すきな野菜や花をつくつて樂しむ事の出來る彼等、繪についても四季の自然についても充分理解をもつた妻の房子と語り得る事は良三の滿足でもあつたし、何一つとして二人の間には祕密もなくほんたうに力と成りあふ世の旅路の伴侶であつた。けれども長い生活の斷片を底の底迄とり出して見る時、そこにはさうさういつもいつも平和のみは漂つてゐなかつた。不平もあれば爭もあつた。殊に房子は感じ易い非常に鋭敏な神經をもつた女で、天氣が曇れば心も曇る、浪の音をきけば孤獨に泣くと云ふ樣な、體は良三よりも丈夫なよい體をもつてゝ肉體に何のわづらひもない身でありながら心は絶えず樣々の感情に動搖されてゐた。

 姑息な沈滯した教師生活も嫌ひだつた。夫の繪をすこしもかゝないと云ふのが先づ第一番の不平だつた。相續者の妻としてあの汽車から何里か奧へ這入つた、山村の暗い大きな家に入つて因習と舊慣の中に多感の身をうづめねばならない運命に步一步近づきつゝあると云ふ事も彼女の爲には堪へがたい不安であつた。神を想つて信じ得ず、現實化しようとあせつても物質のみでは安心も出來ず、かと言つて世に對する執着もつよし奔放な思想にもかられた彼女には到底かゝる微温的な空氣の中に、憂愁なしには暮してゆかれなかつた。柔順(おとな)しい夫と、愛すべき子とにかこまれつゝも彼女はしきりに孤獨と憂欝に浸る事もあり、事ある每に、現實生活の不安を覺えた。他人に對してはめつたに爭つたりしない良三も母の死後家庭の紛爭などの爲めめつきり此頃は怒りつぽくなつて、一時赫つとする事もよくあつた。

 何でもないことで夫婦は、其針の樣な神經をお互に打ふるはしつゝ爭ふ日もあつた。

 でも透がこの家へ來てからは夫は妻の兄の手前爭つた事などめつたになかつたが何かの拍子で房子が夫に不平を洩した爲め良三はまつかになつて怒つた。それは夕食後の灯の下だつた。

 怒つたが良三は妻の兄の手前激しい言葉や罵る樣な事をする男ではなかつた。唯細面の顏を引しめて、

「どうせ僕は意氣地なしだから樫村さんの樣な出世は出來ない」と取つて括りつけた樣言ふのみであつた。樫村と云ふのは房子の姊の嫁入つた姓であつた。

「私だつて隨分長い間苦勞も心配も辛棒もしてますわ。何も私は勳章がほしかつたり月給の高いのを希望むんぢやあありません。もつともつと貧しくてもよいから、意義のある藝術生活に浸りたい……」

 房子は目にいつぱい涙をためて言つた。良三にも房子が虛榮の女でなく隨分辛棒してゐるのは判つてゐた。でも、彼女は時々我儘だ、あまり瞑想家だと心の中に思つた。

まあいゝぢやないか、喧嘩したつてしかたがない。何とかかんとか言つたつて君達の家庭は幸福なものだよ、子寶はあるし、國には財産もあるし、房子さんも、すこし位の事は女の方で折れなくちやあだめだ。僕の樣に酒も女もといふ夫でもやつぱり仕方がないんだもの。やつぱり家庭程よいものはないよ」

 透はかう呑み込んだ樣言ふのであつた。

 

       十三

 

 例の返事はまだ何とも無かつたが大概は成るものと安心してゐたので、再會見の通知を只管まつのみで其他の運動はしばらく手びかへの形だつた。

 河畔の家には每日每日柿や茸を賣りに來た。

 柿の好きな兄の爲め、房子は柿賣の女を門前に呼びとめて、柿を選る事も度々であつた。或日はゆるんだ樣な表情となり、或日は非常にまた印象のゆたかな顏ともなる大まかな彼女はきれいにお化粧して、漁師町に近い店々へ、兄や子供のおやつを買ひにゆく事もあつた。

 實費として食費を東京の父から每月十日前後には送つて來た。

 明確に何錢何厘と兄一人のものを割出すなんて事も出來なかつたし勿論兄の食費としてはそれは充分であつた。倂したとへ親身の兄でも一人殖えて見ればどこそこそれにつれて家の者の方も、體裁をまさねばならぬわけで、金錢には淡泊な房子もさういふこまかしい遣繰にひとり侘しい思ひを抱いた。實際每月のをはりにはすこしづゝの不足が出來て來た。一軒にゐてさうさう切り離す樣にも出來ない場合もあり、兎角生計が切り込みがちであつた。夫れに透は、布團も自分で敷く、顏洗ふ水も汲んで洗ふ風呂水も每日汲みこんでくれるし手のない時は赤ん坊も抱へてはもらへるけれども、それでも男一人殖えた家庭は洗濯にしろチヨイチヨイした雜用にしろ目にも留らぬことの爲め房子は朝から晩の十時過迄クツクと働かねばならぬ。

 五人家内の世話を手一つでしてゐるので、そろそろぬけそめた髮の毛の手入れなどもゆるゆるするひまはなかつた。

 川霧が降る樣に下りる晩も相變らず橋の上で釣つてゐた。

 子達を寢せつけてしまつた房子は、燈の下に夜なべの冬着をひろげつゝせつせと縫ふのであつた。

 時々、町の方へ行く電車が海邊の方から近づいて、停つては又靜かに走せ去る音を聞くのみで、田舍の夜はひつそりとしてゐた。

 臺所の竃の邊には、夜每にきゝなれた蛼(こほろぎ)が、引き入れられる樣な聲でとぎれとぎれにないてゐるのであつた。此頃から透にすゝめられて俳句と云ふものを作り初めた彼女は、虫の音をじいつと聞き入りながら、それをどういふ風に現はさうかなどしきりに考へるのであつた。或時には髯の長い虫が、パタリパタリと疊を飛んで來て句想にふけつてゐる房子の直ぐ前へじつとつくばつてゐた事もあつた。彼女は直ぐそれを「灯にぬへば鬚長き虫の默し居たり」などゝ調も何もかまほずそして出來次第無數に手帳に書き入れた。[やぶちゃん注:「灯にぬへば鬚長き虫の默し居たり」現存する実際の杉田久女の(リンク先は私の作成したPDF版全句集)にこの句はないが(これは小説であるからなくても不審ではない。また実際の句であったとしても、最初期のものであるから、後の久女の意に沿う句ではなかった故に句としては抹消された可能性も高い)、類型句に「蟋蟀も來鳴きて默す四壁かな」があり、初五の相似句では「燈に縫うて子に教ゆる字秋の雨」がある。因みに、杉田久女は「灯」と「燈」を句に於いては厳密に使い分けているので、本篇では底本の「灯」は「燈」としていない。]

 かうした靜かな彼女を再三驚かすものはけたたましい、くゞり戸の鈴の音だつた。

「房さん房さん。一寸灯を見せてくれ大きな奴がかゝつた」

 それは透の時もあり、良三の時もあつた。房子が蠟燭をつけて持つて行くと、氣味の惡い程大きい鰻のヌラクラもがくのを、ギユツトおさへて片手に、呑まれた針を引出したりしてゐた。或時は又川底の牡蠣殼や芥などに、糸を引かけて切つてしまつたりして、糸の附け替へに歸つて來る事もあつた。房子が仕事をかたづけて、兄の布團を六疊の間にのべたり、食卓の上に、二人が歸つて來てから一寸一口飮む爲め、殘りものゝ肴でも用意して、先に寢るのは十一時ごろであつたが、雨降りの夜か何かでなければめつたに其頃歸つて寢る事は、二人ともなかつた。二人の羽織の袖口の邊には鰻のヌラヌラが白く光つてゐた。

 よく釣れた夜は二人のをあはして大小十七八本も釣れた。中には一本で百目以上のが四本も交つてゐた。落鰻とはいふものゝ上手に料理すればたしかに、玄海灘一本釣のピチピチした鯛でもうなぎの味には適はない。[やぶちゃん注:「百目」三百七十五グラム。]

 

      十四

 

 鰻を料理するのはいつも透であつた。房子は火をバタバタ起した。兄妹は俳句のはなしや、もう某氏の返事もありさうだと云ふ事などそれからそれへと語りつゝ陸じく蒲燒をこしらへた。

 透も漸やう河畔の家に馴れて今は漂浪らしい淋しさも薄らぎ時々に寂寞を感ずる事もあつたが次第に落付いた心地に成る事が出來た。

 兩親――殊に母――には退屈まぎれに近況など始終知らせた。

 父からは例の如く、べからず流の謹嚴一方の訓戒めいた手紙が來たが母からの代筆はこまこまと家の事情や、一日も早く就職の定まるのを待つてゐる事や、近頃透から母へ宛てた手紙は以前の樣でなく大變優しい手紙で一同喜んでゐる。

 どうか早く母に安心の道を確定させてくれと云ふやうなことが認めてあつた。そして「某氏の方も有望らしけれど萬一不成立の時が無いとも限らぬ故御氣の毒ながら口は處々へかけて置いた方がよい」などゝも書き添へて在つた。透も、隨分志望者も多い世の中だから八方賴んでおく方が大丈夫だとの意見で良三に兄妹で言ひ出して見た事もあつたが良三は此頃つとめの方が每日忙がしかつたりして寸暇のない爲め、も一つは、

「あの人があれ丈迄斷言してゐるのだもの十中八九は誤りない」

と言つてあまり他へは手をひろげなかつた。恰度、其炭礦家の某氏が用事で上京されたりした爲め一層其方は延期された。透は節酒の苦痛もここへ來たて程ははげしく感ぜぬ樣成つたし釣等も非常によい影響をあたへた。知人もなし行き場所も見るとこもないK市の事故長年都會生活の強い濃い人間味の勝つた生活から急にこの、自然の懷に立ち返つた樣な日每日每。

 比較的精神的な良三夫婦の單純な質實な生活に入つたと云ふ事は透をしてたまたま現實の生活から脱し多少なりとも自己を反省し考慮し得る絶好の時であつた。彼は學校を出て今日迄唯酒や女や權勢富等の外に頭をつかふ事は餘りなかつた。靜かに瞑想する事もない。いつもいつも刹那刹那の歡樂を追つかけまはしてゐた。此頃の樣に頭を澄ませて超然と魚釣をしたり自然を觀察したり、何物をも澄んだ心持で見得る樣な頭に成り得た事は絶えて無かつた。さういふ意味から考へて、透の境遇が一時かゝる淋しいものに陷つてゐると云ふ事は却つて喜ばしい事であつた。

 透は精神的に生きるのである。たとへ前程のパツパとした生活はしないでも眞面目な、眞實味の籠つた態度で兄が生きる樣な事ならその方が遙に貴いと房子はかう考へたので有つた。透は朝早く起きて海邊を散步する。夜は外出など絶えてした事なくてでつぷりとつき出した下腹に力を入れて腹式呼吸をしなくては寢につかなかつた。[やぶちゃん注:太字「かう」は底本では「う」にしか傍点がない。傍点の脱落と断じ、特異的に「か」まで太字とした。]

「此頃は食事が大變うまい。夜も實によく寢る」

と彼はかう言つて、逞ましい肉付の肩の邊を撫でまはした。

「兄さん、いらした頃よりずつとお肥りなさいましたわ」

と房子は兄の立派な體格を見て言つた。

ウン。風呂へ行くと漁師達があんたの腹はどうしてさう太いのぢやと先日も聞くから腹式呼吸の事を話してやつたら感心してたつけ……」と透は笑つた。

 兄妹が何かと秋の夜の燈下で語つてゐる側に、良三は長く成つてうたたねしてゐる事が多かつた。

 さうでない時はそろそろ始りかけた試驗の採點などで追はれつゝあつた。

「房さん、ちつとは出來たかい。見せてごらん」

と透は時々催促しては、房子の俳句帖を見てやつた。其中にはまだ幼稚なものが多かつた。透は之に○だの◎だのつけて添削してくれた。彼女は忙がしい家事の傍ら或時は赤ン坊に乳をふくませながら或時は土堤を步みつつ作句するのであつた。

 

       十五

 

 河向うの堤の櫨もいつの間にかすつかり散つて、特殊な枝振をした其枯木のみが潮の引去つた河原の破舟の上へさし出てゐたりした。お宮の松の下邊には菜の綠色がのべられた。或朝丘の上の木の雜木や櫨の葉は一度にどつと散りつきて、雪を頂いた、紫色の三角形した帆柱山をはつきりと丘の背後に見出した事もあつた。

 刈りつくされた淋しい田の面。

 眺めの展けた田畠のここかしこを縫ふものは唯菜畠の生き生きした綠のみであつた。夜每に川面は深い霧がこめて沖へ出る船の艫聲や漁具などを船底へ投げつける音などもポツトリと聞えるのであつた。寒くなると此川上へ上つて來て――丁度房子の門前のところに ――海風を避けて冬中を凌ぐ烏賊(いか)舟の老船夫、それは家も女房も子もないほんとにひとりぼつちで此半分朽ちかけた小舟を一年中の家として住んでゐる侘しい老人だつた。外の船は皆出拂つた夜も此老舸子の舟一つは、苫の中からチラチラと灯かげをのぞかせて、どんな寒い夜も風の夜も此船の中に寢るのであつた。暗い寒い堤をコツコツと往來する人々は船を石崖にひつつけコトとも音のせぬ此すきまだらけの苫の燈を見て如何許り淋しい感に打たれる事であつたらう。河へ塵捨になど出る度房子は唯一つの此灯を暗い河面に見入つて、時には咳入るのさへも聞くのであつた。雨が降ると爺さんは柄の長い柄杓で船中にたまる水を搔い出してゐた。いつも頭に頭巾の樣なものを被つた、つぎはぎの胴着をきた赤銅色の小さい爺さんは、漁師町の方へ章魚などさげて賣りに行く事もあり、往來の人に馬刀貝(まてがい)を賣り付けてゐる事もあつた。ねぎられでもすると、

「當世は米だつて薪だつて前の何倍もする世の中だ。あほらしい考へて見んさい」老船頭は一こくにぶりぶり怒つて笊を仕まひ込んでしまふのであつた。薪を一把だの、小さい德利の石油壺をかかへて漁師町の方からトボトボ歸つて來る彼を見る夕方もあつた。[やぶちゃん注:「舸子」「かこ」舵取り。漁夫。「苫」は「とま」で、菅(すげ)や茅(かや)などで編んで作った舟覆いや、漁師が雨露を凌ぐのに用いる仮小屋のこと。]

 これらの舟にも老船頭の哀れな有樣にも心をひかれた房子は、見るもの聞くもの皆彼女の句の中に取り入れ樣と不相應に焦つた事もあつた。

 出嫌ひで瞑想好きの房子には拙いながらも俳句は忽ちに大好に成つてしまつた。河畔の家に東京の俳句雜誌が其後は每月配達される樣に成つた。

 夜寒がヒシヒシと迫つて來て、寒がりの透は、ぬいだ着物から座布團迄、布團の裾において寢る樣に成つた。荒れた庭の枯蔓はひまひまに透の手でひきはがされて川へ捨てられて、急に明るくなつた替り庭の面はあらはな寒さを覺えた。葉鷄頭も今は立ち枯れて、まつ赤な葉を朝々の霜に散らすのであつた。菜の成長も遲々として目立たぬ樣に成つていつた。

 生れて間もなく腸をいためたりなどして弱々しかつた赤ん坊は房子の乳の足りない爲めに尚更肥る事が出來なかつた。二つの乳はあふれる程張つた事は決してない。

 少し呑んではやめる。直きお腹がすく。また泣く。寢てもすぐ目がさめた。だらしなく呑むので腸もよくいためた。牛乳を補ひとして用ゐた事もあつたが結果がよくなかつた。乳の不足といふ事が一番の原因でよその子のドンドン肥つてゆくのに此子はいつ迄も生れた時の大きさと大差なかつた。榮養不充分の爲め一寸した呑み過しにも、衰弱した身體はぢき故障を起し易かつた。人形の樣な目鼻立の色白い此子は又人形の樣小さく髮の毛はシヨボシヨボと赤く少し生えてゐるのみであつた。[やぶちゃん注:「シヨボシヨボ」の傍点は三文字にしか附されていないが、下の三文字にも及ぼした。]

 

       十六

 

 人一倍子煩惱な房子が何故、此赤ん坊の榮養不足に心づかないで打すておいたものか。隨分久しい間、かはいさうに赤ん坊はいつも腹いつぱい母の乳を吸ふ事なしに飢ゑがちに暮して來た。全く房子の誤りであつた。

「なぜ此子はかう小さいでせうねえ。ちつとも大きくなりませんのね。どこか惡いのではないでせうか」と房子はそれでも度々氣にかけて夫や兄に話したが、

なあたちだよ。死(な)くなつたお婆樣みたいに小さなたちだ」と夫は無造作に答へた。

「房さんみたいに心配してゝは仕方ない。人間の子なんて、そんな弱い者ではないよ。別にどこつて惡いとこもなささうではないかね」と透も笑つた。

 さう言はれゝばそんな氣もしたが湯に入れる時など裸にして抱き上げると皮膚は靑白くて胴のまはりでも足でも人形の樣に小さくいたはしい樣な心地がした。一寸した物音にもよくおびえて、目をさました。房子は夜晝となく赤ン坊の寢てゐる時は話聲さへ氣をつけた。

 だけども度々目をさましてチビチビと呑むので夜中赤ン坊も母親もぐつすり寢込むと云ふ事は殆どなかつた。秋空の樣な澄んだ目をもつては居たが赤ン坊は實によく泣いた。その聲は小く疳高であつた。[やぶちゃん注:「チビチビ」の傍点は二文字にしか附されていないが、下の二文字にも及ぼした。]

 語る事の不可能な赤ン坊は、此悲しい泣聲によつて絶えず周圍の人々へ飢を訴へるのであつたが周圍の者は唯無意味な泣聲としか受取らずに、

みいちやんはよつぽど泣きみそね」と笑ふのみであつた。

 母親たる房子の不注意は勿論である。が母も父も、肉親の子の泣聲に耳を傾ける暇もない程一方には又兄の爲め朝に夕に心を勞した。その心勞もテキパキと外面にはあらはれてはこなかつたけれど、彼等夫婦は透と共に愁ひ、透と共に樂しむので、透の一身上の事が定まる迄はあけてもくれても、頭の上にものが押しかぶさつて居る樣で、氣に成つた。

 が房子には、何となく不健康な我子の樣子が朝夕直覺された。

 よその人の抱いてゐる赤ン坊を見かけると風呂やでも電車の停留所でも、

まあ御宅のお坊さんはいつお生れなさいましたの」とのぞき込む樣に問ひかけて、我子と見くらべるのであつたが彼女の赤ン坊より後に生れたと言ふ子らも皆クリクリと肥つて健康さうに笑つてゐた。房子は羨ましげにつくづくと見入る事が度々だつた。[やぶちゃん注:「クリクリ」の傍点は二文字にしか附されていないが、下の二文字にも及ぼした。]

 乳の不足と云ふ事は氣付なかつたが房子の赤ン坊をいたはる事は非常であつた。風の強い日は滅多に外へも連れて出なかつた。

 自宅で湯のない夜は冷たい子の手足を、湯をわかして温めて寢かした。海からの荒い風が絶えず吹きつけるので、夕方などは門口より外へは踏み出さなかつた。

 風邪一つひかなかつた爲め此日陰の花の樣な弱々しい小さな小兒は幸ひに、母親が、養育方針のあやまつてゐた事を氣付いて、醫者へ行く樣に成る日迄、奇蹟の樣に病氣もせず、いぢけたまま生きて行くのであつた。

 全くそれは天佑の樣なものであつた。もしこの弱々しい體に何等かの障りがあつたならこの子は、たやすく失はれてゐるのであつたらう。

 長女の澄子は、丈夫になつて每日空風にふかれつゝ茨の實や、薄の穗をぬいて外でのみ遊んでゐた。

 近所の下品なませた友達の中には入つてわるいくせを覺えるのを彼女は何より恐れたがそれは到底せきとめ得る事ではなかつた。遠く遊びに行つて歸らぬ澄子を案じて房子は、そここゝと長くく探𢌞る事も度々だつた。

 

       十七

 

 房子達が去年こゝへ移つて來た時、前の人の飼つて居た老猫がひとり此家に殘つてゐた。猫の好きでない房子は、格別憎みもせず、三度の食物は規則の樣に與へて居たが、家の中に上る事は絶對にさせなかつた。家付きの猫は唯食ブチをもらつてゐる許りで一向家人とは沒交渉な暮しをしてゐたが此年の夏、房子が産をする十日許り前に五疋の子を生んだ。

 長女を産する時大變重い産をした房子は此度の産で私は死ぬかも知れない、などゝ始終言つてたし里の母もわざわざ心配して遙々來て呉れる程で、良三も口に出しては言はなかつたが心配してた。そこへ安々と産をした猫を見て皆、よい前兆だと嬉しがつた。

 房子の産も今度は大變安々とすんだ。

 そのうち親猫は、每日猫の巣につききつて眺めてゐる長女を怖れたのか、又は時々來る洋犬を怖れたのか、或夜の中に五疋の子猫をつれていづこかへ行つてしまつた。

「親猫がかみころしたのではないかしら」

「犬にたべられたのだらう」

と皆は口々に噂して、生れた許りの子猫を案じた。しかし親猫は時々歸つて來ては、ものほしさうに土間につくばつて居た。其乳房はふさふさと垂れ下つて今も尚ほ子猫達に乳を呑ましてゐる事は判明した。猫の皿に食ものを入れてやるとさもお腹がすいた樣に、一粒も殘さずねぶつてしまふのであつた。そして又どこか出て行つた。

「子猫をどこかにかくしてゐるに違ひない」と皆は言ひあつた。

 二十日許りたつと、猫は、ぞろぞろ五疋の子猫をつれて、戻つて來た。暫くの中に子猫は皆大分大きくなつてどれこれも、可愛い顏をしてゐた。たつた一つ三毛のがゐてあとは四疋とも黑の斑があつた。犬をおそれて、土間に箱をうつしてやつたので子猫は、下駄にじやれついたり、コロコロかさなりあつて遊んだり下駄箱の橫に尿をしたりした。澄ちやんは、每日猫を抱いたりおんぶしたりして子猫と遊んだ。

 透が來て後も相變らず五疋の子猫はもらひ手もなし、親の乳をしやぶつてごろごろしてゐた。

「猫はきたないね。こんなに澤山居たつてしかたがないから捨てたらどうだ」と透は言つた。

「もうすこし大きくなつたら捨て樣と思つてるのですけど、まだ、何だか可愛さうですから」と房子は答へた。

「そんな事言つてゝは仕方がないよ。すてるなら今位ゐが丁度よい。僕が持つてつて捨てゝやらう」

 澄子も猫をすてるのは嫌だつたが、何疋も居てはあの一番きれいな三毛が肥らないと言はれて其氣になつた。そして或朝捨てにゆく伯父さんについて行つた。

 透は三疋の猫を風呂敷に包んで河向うの人家の傍へ持つて行つた。

 そして風呂敷から出してやると子猫達は自分の運命の迫つてゐる事も知らず、いつもの樣に三疋コロコロ上下になつてふざけまはつてゐた。澄子は持つて行つた、小皿の御飯を側において、子猫のなめにかゝつたのを見捨てゝ家へ引揚げた。其夜は、宵からしみる樣な時雨が絶え間なしに降つて、房子には、三疋の子猫の事が忘られなかつた。母親もしきりに、失はれた子猫を探しまはつてゐる樣子だつた。

「時雨るゝや松の邊に捨てし猫」房子は十燭の燈の下に、縫ひながら、捨てられた子猫の運命。何となくひよわな自分の子の事などがつぎくに考へられて、こんな句を手帳に書きつけた。[やぶちゃん注:この句に相当する句は現存の久女の句には、ない。]

 淋しい心地で猫の箱をのぞいて見ると猫は丸くなつて、親子寄りそつて暖かさうに淋しさうに寢て居るのであつた。

 

      十八

 

 それから一週間許りすると透は再び親猫と、も一疋の子猫とを捨てに行くと言ひ出した。家付きの親猫だしあとに一疋限りとなる三毛が可愛さうだ、と房子も言つたけど、透と良三は、

「なあに、こんな老猫はもう捨てた方がいゝよ。おまけに女猫だから又産むとせわだ」と言つた。

 房子も強ひて止めはしなかつたので遂々家付の猫は自分自身も、子等と離れ離れに追放される事となつた。透は例の通り風呂敷に親子二疋の猫をつゝんで、電車で、市中の、それも海邊裏のゴタゴタと小家がちな、とある路次へ持つて行つて捨てゝしまつたので再び歸つては來なかつた。恐らく二疋のものは、泥棒猫にでもなり終つて漂浪してしまつたのであらう。後にはいよいよ三毛がたつた一疋となつた。三毛の首には美しいよだれかけがかけられた。三度のご飯の上には鰹節をまぶつてやつた。けれども、今迄親の乳のみ吸つてゐた三毛は、あまりご飯をたべ樣とはしなかつた。彼はいかにも淋しさうにポツンとして、畜生ながらも戀しい親を探す樣ニヤアニヤア鳴くのであつた。[やぶちゃん注:久女はこの「三毛」を「彼」と呼称しているが、三毛猫は性染色体に依存する伴性遺伝の典型例で通常、♀は殆んどいない。ウィキの「三毛猫」によれば、オスの三毛猫が生まれる原因は、クラインフェルター症候群Klinefelter's syndromeと呼ばれる染色体異常(X染色体の過剰によるXXYなど)やモザイクの場合、そして遺伝子乗り換えによりO遺伝子がY染色体に乗り移った場合に限って出現し、三毛猫のクラインフェルター症候群の♂の出生率は三万分の一しかない。そうした奇形個体でなかったとは断言出来ないが、この「三毛」(確かに三毛であったなら)は♀だったと考えた方が自然であり、それは外見上、容易に識別出来るから、寧ろ、ここで久女がこの「三毛」を♂、男として扱っているのは久女の病跡学的な興味、精神分析学的興味を私には喚起させるものである。]

 美しく毛を洗つてやり度いと思つてもそんな暇もなし、それにどうしたのか三毛の目は、だんだんやにが出る樣になつて、クシヤクシヤした、穢らしい目になつてしまつた。體のクリクリ丸かつたのが何だかゲツソリと瘠せて來た。

 房子が下駄をはいて土間へ下りる度、人戀しさうに、ニヤアニヤア鳴いて、着物の裾にすりつけて來る樣は哀れつぽく見えたがヤニだらけの目や竃の灰によごれた體を抱く氣にもなれなかつた。

 澄ちやんさへ此頃はもう抱かうとはしなかつた。男達は、見向ても見なかつた。ますます孤獨な子猫はやせおとろへた體をシヨンボリと、日もさしこまぬつめたい土間にすゑて、ひくい聲でニヤアニヤアないて居た。ぬくもりのさめぬ竃には入つて丸くかゞんで寢る事が子猫の爲めには一番の樂しみであつた。フチの缺けた小皿には忘れず、食物を入れてあつたが子猫はペロペロすこしなめて見て直ぐ、竃の中へかくれてしまふのであつた。

 夜寒がつゞくと子猫はますます淋しい有樣と成つて行つた。彼には唯親のぬくみと乳とを慕つたが冷たい土間と冷たい臥床が有るのみで長い夜中の寒さに、血の氣の少ない身を堪へがたかつた。けれども家の中には絶對に上げなかつたし哀れな猫の子はキツチリしめられた障子を押し破つては入る程の元氣ももうなかつた。

 房子はさすがに哀れに思つて日中は、箱に藁をあつくして其中に入れたまま庭の日當りにひなたぼつこをさせてやつた。子猫はそろそろ這ひ出して枯れた菊の根をごそごそ步いたりしたが大きな犬が垣根からは入つて脅かされる事もあつた。ツンと兩耳がやせ尖つて、はそ長く成つた。影ぼふしを、緣の直下の石の上にうすく引きつゝじいつと、坐つて動きもせぬ子猫を見ると房子は可愛さうでならなかつた。殊に夜寒がひしひしと夜なべの膝にもかんぜられる夜房子は、子猫がニヤアニヤアと訴へる樣になくのを聞くと土間に下りて行つて、赤ん坊のおしめの綿の入れたのでクルリと子猫をくるんでやつた。そして自分の懷の懷爐を子猫の中へ入れてやつた。ニヤアーと子猫は小い聲で鳴いては人戀しさうに、房子の手をなめるのであつた。寢しなにも一度下りて見に行つた房子は、子猫がいゝあんばいにおしめの中で丸くなつて暖まつて寢てゐるのを見て安心して寢た。

 夜中になると、戸外には雪の樣にまつしろい大霜が降りた。しんしんと月光が大地に凍てついて、それはそれは冷やかな夜であつた。[やぶちゃん注:「しんしん」の傍点は二文字にしか附されていないが、下の二文字にも及ぼした。]

 子猫は何度も寢返りをした。そして床の中でおしつこを垂れた。

 懷爐は消えてしまつてぬれたおしめは水の樣に成つた。子猫はニヤアニヤアーと力なく鳴いたが家の人々は皆布團の中にぬくぬくと寢入てゐた。子猫は箱を出て竃の灰の中へは入つたが夕方焚いたその竃の灰はもう冷えきつてゐた。[やぶちゃん注:ここ以降は、 SE(サウンド・エフェクト)として傍点は久女の打ったままを原則とした。]

 子猫はつめたい灰の中へもぐりこむ樣に身をうづめてニヤアア、ニヤアー……と、ひくい聲で何かを求める樣に鳴いた。

 房子は時々日をさまして、子猫の哀つぽい鳴き聲を耳にしたが、睡いのと寒いのとで、氣にしつゝ見にも起きず、また寢入つてしまふのであつた……。

河畔に棲みて(一)~(九)   杉田久女

[やぶちゃん注:どうもここ数ヶ月、どうにも気分が滅入っていっこうに晴れやらぬ。

 さればこういう時は、極私的に、全く個人的に、誰のためでもない電子テクストをやらかそう。

 しかし、「誰のためでもない」とは言いつつも、自慰的仕儀は意に沿わぬ。

 されば、恐らくは現行では殆んど誰も読んだことのないもの、読みがたいもの、が、これ、よかろう。

 そうして原則、注は附さぬのだ。

 といっても結局、私の神経症的気分はそれを許さぬだろう。一部、どうしても附さねばならぬ、したい、と感じたものは本文内の段落末にストイックにポイント落ちで入れ込んではどうか。

 これはこれで、私の切なる欲望だから私には差し障りは、ない。

 さればこそ、これ以上は、気は重くは、なるまい、よ。

 

 まず、愛する俳人杉田久女の小説にしよう。

 

 「河畔に棲みて」は久女満二十八の大正八(一九一九)年に発表された、恐らくは彼女の処女小説である(久女の俳句が『ホトトギス』に初めて載ったのは大正六(一九一七)年一月で満二十六)。同年年初の『大阪毎日新聞』懸賞小説募集に応募したもので、選外佳作となったが、評者からは「素直に書けている」とかなり高い評価を受けた(この際、別な形での採用発表を勧誘されてもいる)。高浜虚子の弟子で『ホトトギス』編集人であった長谷川零余子(れいよし 明治一九(一八八六)年~昭和三(一九二八)年)が、この原稿を貰い受け、彼自身が編集していた同年発行の『電氣と文藝』の、一月号から三月号に掲載発表されたもので全二十七章である。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、執筆年を考え(幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されている)、恣意的に多くの漢字を正字化した。傍点「ヽ」が多用されているが、これはブログでは太字に代えた。踊り字「〱」「〲」は正字に直した。

 因みに、この舞台となった旧居とロケーションを北家登巳氏のサイト「北九州のあれこれ」の「板櫃川河口」で詳細に現認することが出来る。画像も豊富で本作を鑑賞するにすこぶる相応しい。是非、ご覧あれ。【2016年7月21日始動】]

 

 

 河畔に棲みて

 

       一

 

 房子は結婚後直ぐ夫の良三と一緒に、其つとめ先のK市へ來た。

 四人の兄妹の一番末つ子で何の不自由もなく大きく成つた彼女が俄かに田舍の教師の妻として質素な生活をしなければならぬと云ふ事は可成り房子に取つては苦しい努力であつた。が良三は長男で、其家と云ふのは田舍で相應な資産家であつたので、長女が生れる頃迄は彼等二人は至極呑氣な苦勞のない生活をしてゐた。處が結婚してから五年目の秋良三の大事な母親が死んで後は、彼の父は賤しい妾を引き入れ家の中は一時動搖し波瀾も樣々起つて良三夫婦も從來の樣に呑氣にのみはしてゐられなくなつた。はじめて悲しい辛い目にも逢つた。けれども何と言つても父の家とは三百餘里も離れて住つてゐたので直接其厭(いと)はしい渦の中にも卷き込まれず、心配も苦勞も、對岸の火事を見る樣な心地であつた。

 酒も煙草も呑まず眞面目一方の夫を持つた房子は、或時には女なみの不平も持つたが親子三人水入らずで、丈夫で、不自由勝の生活の中にも好きな繪を畫いたり、野菜や草花をつくつたり充分田園趣味を味はう事が出來る境遇に居ると云ふ事を樂しく思つて暮して來たのであつた。[やぶちゃん注:「不自由勝」の「勝」は、ともすればそうなり易い・そうであることの方が多い状態を表わす接尾語の「がち」である。]

 實際この九年間の彼女の生活には強ひて苦勞らしい苦勞と云ふものもなく平穩な單調な生活をかき亂されずにズツと來てしまつた。

 丁度其九年目の夏に房子は次女の光子を生んだ。

 長女の方はもう六つに成つてゐて格別手はかゝらなかつたけれども、産後の肥立が暫らく惡かつたのと乳が出なかつたりして赤ン坊に手のかゝる事は大變だつた。

 それに産前から雇つてあつた女中も、お宮詣りがすむとまもらく歸へしてしまはなければならなかつた。九月の末になると急に朝晩はうすら寒くなつて、引しまつた心持で房子は片手に赤ン坊を抱き抱へつゝ、おむつの洗濯もし裁縫もする。かなり忙がしい思ひをして暮すのであつた。[やぶちゃん字注:「まもらく」はママ。誤植或いは「奈」(な)と「良」(ら)の一部の仮名変体は似ているので校正者の誤読であろう。]

 十月に入つてからは天氣がズツとつゞいた。

 二丁許り下手で海へ注ぎ入る川添ひの房子の家では、緣先の日當りのよい庭に二畝ばかりの葱や、菜が植ゑられてあつた。畠のまはりには四五木の立木が朝顏の枯れ草を卷き付けたまゝ立つてゐた。

 其立木の枝から枝に竿を渡して小さい襦袢だの赤い着物だの、お襁褓だのが每日干された。畠の一方には、背の高い雁來紅が五六本秋晴れの遠山の藍を背景にして赤く燃えてゐた。[やぶちゃん注:「雁來紅」音は「ガンライコウ」で、雁の来る頃に紅くなることに由来する「葉鶏頭(はげいとう)」の別名であるが、ここは「はげいとう」と当て読みしたい。]

 かうした彼女一家の生活に突然變化を與へた者は、ヒヨツコリと此河畔の家を訪づれた房子の兄の透(トホル)であつた。

 最初、突然に東京の父から「透も今度暫らく御地に行く事と決定して出立した。委細は到着後本人に御聞下さるべし」

と云ふ例の簡單な、夫宛の手紙を讀んだ時、夫婦は顏を見合はして、

「まあどうしたんでせう」

「まだ口もしつかり定まつたのでもないのに……」と房子が言ふと「さうだ。折角遙る遙る來られて、長く遊ぶ樣にでもなるとお氣の毒だ……」と良三も訝かつた。

 長く離れて暮して居る此兄を大變氣兼ねの樣にも思へたし、今迄の水入らずの中に急に大人を一人交じへる事の色々の氣遣ひ、それから赤ン坊片手の忙がしさなど考へ合せて、こんな、不自由がちな、客布團一枚、勝一枚もろくろく無い樣な生活の中に、察しもなく押しかけるなんて、すこし無理だと房子は考へて、妙に沈んでしまつた。

 でも又やつぱり親身の情で三四年振りに兄に逢へるのは大變待ち遠しい心地もした。

「丁度明日あたりですね」

 房子は日附を指折つて見たり古い汽車の時間表を繰つたりした。

 

       二

 

 翌旦房子は朝から兄を待つた。

 低い岡をバックにして野原の片隅にたてられた電車の停留所は房子の家の緣側から近くに見えた。

 町の方から來る電車は五分問おき位に菜畠の間を走つて來て、玆の停留所に四人の人々を吐き出しては又海邊の方へ走(は)せ去るのであつたが、電車を下りて川堤を步いて來る人々の中にも遂に兄の姿は見出す事が出來なかつた。

 夜着く汽車に違ひないと獨りぎめにきめた房子は午後になるとおんぶ羽織に赤ン坊をしよつて電車で、町へ買物に出かけた。乾燥した秋の町には綠色の半襟をかけた美しい女が步いてゐたり、飾窓には、新柄の反物や帶地が陳列してあつたりした。幅の廣い電車通りの街には活動寫眞の廣告が囃し立て、通つて居た。町角にはもう靑い小蜜柑や靑柿などを賣る女達が並んでゐた。始終郊外にすつこんでめつたに出た事のない出嫌ひの房子には、かうした街の色彩なり感じなりがかなり鋭敏に受取られた。

 房子は一寸飾窓の前に立留まつて、子供用の緋繻珍(ひしゆちん)の帶の値など讀んだ後魚市場の方へ足を移した。[やぶちゃん注:「緋繻珍」現代仮名遣「ひしゅちん」は繻子織(しゅすおり:経糸或いは緯糸の孰れかが表面に長く渡る織り方。サテン)の地に多色の絵緯(えぬき)と呼ばれる緯糸で文様を織り出した滑らかで艶のある絹織物の、赤味の強いもの。「しゅちん」という呼称は七色以上の色糸を用いたので「七糸緞(しちしたん)」と呼ばれていたものの転訛とされる。中国伝来で室町末期から織られ、幕末から明治期には専ら、打掛や女帯に用いられた。]

 そしてあれこれと買ひ整へた重い風呂敷包をさげて又コツコツと野外の家へ歸つて來たのは三時過ぎてであつた。背中で寢てしまつた赤ソ坊をしよつたまゝ水を汲んだり兄を迎へる爲めの料理をするのであつた。けれども兄は遂に、最終の十一時何分かの汽車が、直ぐ川下の鐵橋を渡りつゝあるのを聞きをはつてから暫らくの後も彼女の宅に來ないでしまつた。

 その翌朝、房子はいつもの樣に夫を送り出して仕舞つてから長女の髮を梳いてやつたり、食卓の後かた付けをしたりしてゐるところに兄はヒヨツコリやつて來た。布團らしい大きな菰包と手提鞄と絹張の洋傘太い銀柄の洋杖(ステツキ)なぞをくゝり合はしたのと是丈の荷物を車夫が玄關の板敷に運ぶ間透は土間に立つてゐた。透は高下駄の新らしいのを履いて手にはも一本毛繻子の洋傘を持つてゐた。久し振で兄を見た刹那房子は此前東京で逢つた時よりも大變ふけて、着物などもあの贅澤やが着馴れた縞の銘仙のふだん羽織に、汽車で寢起した時のうす皺をよせてゐる樣が何だか兄の此頃の境遇を語る樣にも覺えられて、じつと、車夫に銀貨を出してやる透の背をみつめるのであつた。透は落付いた態度でズツと座敷へ通つた。

「兄さん。しばらく……さぞお疲れでしたでせう」

 房子が座布團をすゝめながら叮嚀にお辭儀をすると、

「やあどうも、今度はとんだお世話になります」

 透も一寸あらたまつて挨拶した。

 上の娘は外へ遊びに行つたし、赤ン坊は寢て仕舞つたので家の中は靜かだつた。久し振りに相對した兄妹の間には、東京の兩親のはなしやら其後の御互の消息やら、いろいろな話しが次から次へと語り續けられた。話が透の今度玆へ來る樣に成つた譯に落ちて行つた時、

「僕は最初父からK市へ兎に角行けと話のあつた時斷はつたんだ。まだ就職口がはつきり定まつたんでもなし、それに僕は官吏は嫌ひだしね、東京には俳句の友達も澤山居て、どこかに世話してやらうと言つても呉れたし……子供の二人も居る房子さん處へ押しかけて來るのも氣の毒だから、と言つたんだが」と透は答へて、

 當市へ來るのなら旅費もやらうし就職口のある迄の食費其他入用の物丈は不自由ない樣に送るから直ぐ立て、でないと一切以後は窮狀を告げて來てもかまはない。と一徹な父に足許から、鳥の立つ樣に言はれて、透も不承不承都を發つて來たのだ、などとも語つた。

「それで嫂さんはどうなすつたの?」と聞くと透は淋しく笑つて、

「うん、お芳か。K市へ來る事は知らしてないんだ……」

と答へるのであつた。

 

       三

 

 房子は驚いて

「まあどうして?」と聞くと

「僕は滿洲の方へ口を探しに行くから當分居所を定めずいつ歸るとも判らない。口が定まつたら呼びよせるとかう言つた丈けだ。何しろ父から話が有つてから三日目には發ったんだからね」

「そして嫁さんはどうなすつたでせう」と房子が熱心に聞くと、

「さあ里へでも歸つてるだらう……」透の顏は流石(さすが)に曇つて居た。何でも透は、家財も鷄も一切始末してしまふ事を言ひ置いて、自分は只房子の家へ持ち運ばれた菰包と手提鞄丈を身につけて、只一人見送る人もなく知友にも知らさず瓢然と旅へ出たのであつた。此失意の兄を目前に迎へた房子は、昨日迄の何となく水臭い心持を捨て、眞心から、淋しい透の心持に共鳴する事が出來た。やがて晝に成つたが、婢もなし買ひに出てもこの近所の店には野菜一つろくなものは無かつた。この遠來の客を迎へる初めての膳の上には只三品許りの貧しい皿が並べられてゐるのみであつた。

「兄さん。お話ばかりして居たのでほんとにお氣毒な樣に何も無いんですよ」房子は心から極り惡く思つてかう言つた。

「何結構だ。僕はもう今日からお客樣ぢやないこゝの人に成つたんだもの。僕も此節は手輕に暮しつけてるよ」かう氣サクに答へてまつさきにフライに箸を付けた透は、

「これは、家でしたのか」

「はあ……」透が一口食べて其儘皿へおいて終つたのを見ると房子は何だか、こんなもの食べられないと言はれた樣でドキンとした。それは昨夜のフライの揚げ直しだつたから……。食事が濟むと、透は退屈さうに表へ出て、潮の退いた川原を眺めたり、緣先へ立つたりした。房子が子供に乳を呑ましたり、コチコチと下駄の音をさせながら風呂水を汲み込むのを見遣りつゝ、兄妹中で一番末つ子の、子供の樣に思つてゐた妹がすつかりと主婦めいて來たのをつくづくと見守つたり、産をしたせゐかふけたなど思つて見た。

 家の中は古びた疊建具で、それに天井も柱も緣も黑つぼく塗つて有る爲め一層陰氣な感じがした。

 床の間には花のない花器が置かれてる許り。目ぼしい道具もなく總べての有樣が華やかな氣分は少しもなかつた。臺所の方から手を拭き拭き出て來た妹の顏を見ると透は緣の柱に身をよせたまゝ、

「隨分荒れた庭だなあ」と思つた儘をヅケヅケ言つた。

「エエ。手が屆かないものですから」と房子は笑ひながら答へたが立ち枯れた向日葵にも枯木にもいつぱいクルクル卷き付いてゐる蔓朝顏。それから隅の方に咲いてる石蕗の黃色い花。その向うに三畝許り蒔かれた柔い冬菜の綠色。風に搖れつゝある赤い竿の着物夫(それ)等の物にも土にもいつぱいに午後の秋日がさしこんでゐる樣は、所謂庭園らしく造りつけてない荒れた侘しい感じはするが其佗しい打沈んだ庭の面に、色彩に水彩畫的の豐富な調子が見出されるのであつた。房子はすべてに明るいパツとした強い刺激を漁つて派手に暮してゐた會社時代の透を思出して、この十年この方質素な貧しい生活の中に土臭いのを樂しみに暮して來た自分と、兄と非常な隔りのあるのを知ると共に、今この古柱に、漂浪の身を寄せて、いまだに歡樂の夢を追つてゐる樣な淋しい兄の目を見るのであつた。

 殊に手傳はせて庭先で解かれた菰包の中からは、綿の薄い布團や常着が、二三枚出て來た外には俳書のみだつた。大分前からのホトトギスや俳書が可成澤山あつた。

「外の物は皆賣つても惜しくは無かつたが俳書丈はをしかつたよ。まるで二足三文なんだもの。でも是丈はどうも手離しかねて持つて來た」と透は言つてゐた。

「あの鞄の中は着物?」と房子から聞かれると透はカラカラ笑つて、

「着物は着た切り雀さ。あの中は俳人の端書だの短册許りだ」

 房子は本を高く積み重ねては何度も何度も庭先から床の間へ運んだ。そして座敷の次の間を兄の間に定めた。透は例の鞄の中から蒔繪の硯箱や文鎭筆立の樣なものを取出して並べた。筆立の中には錐。萬年ペン。耳の穴を掃除する小道具の樣な類迄さゝれた。

 

       四

 

 長い間官吏生活を續けてゐた彼等の父に從つてあちこちと子供の時から移り住んで行つた彼等は、透の中學校を卒業して上の學校へ入る時分からはズツト離れて三年目に一度か四五年目にやつと逢ふ位のもので、しみじみと兄妹らしく語つた事は無かつたのが、かうして一緒に暮す樣に成つたので當分の間は朝から話許りしてゐた。

 殊に、秋雨がじめじめと際限もなく降り出して、良三の掘りかけた畠の隅の土にも菜畠にも、うそ寒さが漂ふ樣な日は、透は障子を閉め切つて机の傍に火鉢を引きよせつゝほどきものなどする妹としきりに語り續けた。

 透は本所の某會社に十年あまりも購買の方の主任を勤めて重役の一人から非常な信任を得、透自身も其重役の爲めには骨身惜まずにつとめた。才氣走つた彼は何事もテキパキと敏活に仕上げて行つた。

 或點は豪膽でもありどこ迄も男性的に出來上つてゐる活動家の透は隨分大酒も豪遊もして居たが會社の方の仕事丈は非常な熱心でやつてゐた。處が透を引立てゝくれる其重役が肺病で死んでしまつた後は急に日頃反對派のもの達が勢力を占め日頃の妬みを一時に逆寄せて來た。自我が強くて負けず嫌ひで、阿諛の下手な透は、邪魔者扱にしてるなと氣が付くと、重役でも何にでも反對に出た。時には殊更に突當つて行つた。會社の内情に一番精通してゐるのをカサに着て、中々降らなかつた。おしまひにはヤケ半分に休みつゞけたりした。

 度々申出たが辭職の願は取上げられなかつた。そして充分會社の方の準備の出來た頃十二月も押し迫つてから突然ポンと、辭職を強ひられた。豫期した事ながら彼は非常に憤慨して即刻やめてしまつた。夫婦の仲には、結婚してから六年めに成つても子供は遂になかつた。その故か、透と其妻のお芳との間は兎角圓滿を缺いた。一つは透の素行の惡いなどの點からもあるが、一つは又、早く兩親に別れて繼母の手に育つたお芳の性質のひがみ易い、一向優しみのない氣強い性質、柔順も涙も無いと言つた樣な彼女の性質が一層衝突を容易ならしめた。でも又仲のよい時は子の無い夫婦は隨分贅澤な身なりをして芝居見に出掛たり、凝つた料理を食べて𢌞つたり。或時の透の誕生日には、知人を二三十人も呼んで盛宴を張つたりした。透の洋服にプラチナ鎖が垂れゝばお芳の指にはダイヤの指環が光る。一流の料亭に遊び更かして二時三時頃上野の家へ歸る時には大つぴらに自動車を門先に乘り付けて芳子の心を搔き亂さした。かくの如くして或時は妻に氣の毒な憂ひを抱かしめる。彼れは又時々の妻の我儘も大目に見逃さなくてはならない時があつた。透と芳子との間が次第に危機に陷つた時彼等夫婦と、兩親との間も色々な事情の爲め甚だ圓滑を缺いて居た。透は母に隨分永い間我儘も言ひ心配も苦勞も山程かけた。一徹な子に嚴しい父を執成して幾分父の怒を慰さめ和げるものはいつも母であつた。透の酒色の爲めの出費や會社の不首尾は謹嚴な古武士の樣な父の決して喜ばぬ處だつた。遊興費はすべて母の手でつけられた。けれども透夫婦は面と向つては叱言など言はない父よりも、當然あれこれと父に叱らせぬ前に叱言を言ふ親切な母を父へ惡樣(あさいざま)に告げる樣にさへひがんだ。[やぶちゃん注:「搔き亂さした」底本には「亂さ」の右に編者によるママ注記が附されている(が、私は寧ろここは特に気にならない)。なお、「執成して」は「とりなして」と訓ずる。]

 

      五

 

 そして突然夫婦は、兩親に通知もせず巣鴨へ引移つて、いよく困る迄ハガキ一本出さなかつた。父は勘當すると激怒した。種々な事の爲め次々に家庭に心配が漂つた。夏房子のお産を心配して遙々K市へ來た母は、

「透等の事は寢てもさめても心配してる。K市邊は會社も多しどうかお前方夫婦の手で勤め口を探して呉れないか」としみじみ言はれて、房子夫婦は苦勞の多い、母の爲め、兄の就職口を探す事を快よく引受た。

 だがおとなしい靜かな性質の良三は、腕も切れる代りに酒も呑み遊びもすると云ふ樣な透の性質に思ひ至つた時、少し自分には荷が重過ると感じた。怖ろしい豫感をさへ抱くのであつた。妻の房子も同じ樣な氣持がして「兄さんもお酒さへ止めなされば申分ないけれど……」と言つた。

「もう今度こそ丸一年も遊び續けて懲り懲りしたから透も以前の樣な馬鹿な事はしますまいよ。それに萬一の事があつても私達が居る以上はお前達に迷惑のかゝる樣な事は決してしない」

 母はかう言つて呉々も賴んで行つた。其後或る官吏に一寸したあきのあつた事を透の許へ知らしてやると「自分は官吏は嫌ひだがどこか會社にでもあつた節は知らして呉れ」と言ふ返事が來た。透も最初の間は高賣してゐて、可成り方々の口もあつたのを皆氣に入らないで斷つて居たが居食に約一年遊び暮して中々思はしい口も無し九州の有望な景氣を母の口から聞き一徹な父へ母からとりなして貰つて絶對に酒なぞやめる約束で來る事と成つた。話上手な透の話を熱心に聞いて居た房子は、時々ほどき物の手を休めて兄の話に切り込んで行つた。[やぶちゃん注:「居食」「ゐぐひ(いぐい)」と読む。働かずに手持ちの財産でのみ生活していくこと。無為徒食。この私藪野直史のような輩を言う。]

「巣鴨にいらつしやつた時はどんな風に暮していらしたの」

「會社をやめた當座は夫婦で每日每日遊び步いたよ。芝居にも隨分よく出かけたね。それから好きな鷄も九羽許り飼つて居た。困るとはいふものゝ夫婦切りだし多少餘裕もあつたから晩酌も每晩やつたよ。食いたいものも喰つた」

 透は面白さうに答へてカラカラと笑つた。巣鴨時代は透も茶屋遊びなどは全くやめて割合に眞面目に成つたので芳子との仲も却つて不自由の無い時代より睦まじかつたらしい。飮食の欲望は可成盛んな透も金錢には至極淡泊で、有れば有る丈パツパと成丈派手に使ひたい方なので、二三年はやつて行ける筈の貯へもぢき乏しく成り掛けて來たらしい。[やぶちゃん注:「成丈」「なるたけ」で以下の「派手に使ひたい」に係る。]

「何しろ暇なものだから俳句に凝て暮した。大抵な句會には缺かさず出席もしたし知名な俳人達とも交際した」とは何よりの自慢らしく話した後で例の鞄を押入から持ち出した。中古の天鵞絨張の鞄の中からは、俳壇で一流と言はれる人々の短册二十枚が出た。[やぶちゃん注:「天鵞絨張」「ビロードばり」。]

 透は一々夫れを讀み聞かせたり、其短册を書いて貰つた時の有樣を話したりした。其短册の中には、俳巨人と言はれて全國の俳人達から活神樣の樣に敬はれてゐる某氏のも四五枚あつた。それから又透は、夫等著名の俳人の風丰(ふうぼう)や逸話をも聞かせた。俳巨人某氏の寫生文の有難味や、能樂の非常に得意な事。夫から某老大家の話自分と句兄弟である英新聞の記者某氏が江戸つ子肌で非常に透と意氣投合し且氣持の好い人物である事などをこまこま語つて後、自尊心の強い彼れは、自己の俳句界に於いての地位を殊に力説した。自己を相應に「認めらるゝ俳人」として自負してゐる彼は、「心を引締て愈々勤め口の決定する迄は俳人等とも交遊を斷つて只管(ひたすら)謹愼せよ」と父から文通さへ止められた事を唯一の遺憾とした。種々な事情の爲めに、

「朝晩往來してゐた俳人仲間へ一言の暇乞もせずに來てしまつた。俳句は自分の生命でもあるし變に夜逃げでもした樣思はれては僕として一番殘念だ」と彼れは切に訴へるのであつた。實際透の爲めには妻に無斷で遠地へ漂浪し初めた事よりも俳人仲間と交渉を斷つた事の方が餘程苦痛らしく見えた。房子は俳句も知らず、俳人仲間の名さへ初めて聞くのであつたが一體に文學趣味を持つてゐる彼女はもの珍らしく多大の興味を以つて、兄の寶物の樣大事がつてゐる短册や、手紙、端書の類を眺めるのであつた。[やぶちゃん注:「風丰(ふうぼう)」のルビは正しい。風貌と同義であるが、風貌の場合は歴史的仮名遣は「ふうばう」であるが、この「風丰」は「ふうぼう」である。]

 

       六

 

 兄を唯自我の念の勝つた理智一點の人間の樣に思つて居た房子は每日透と膝突き合はして語る中次第に兄を理解もし今の境遇に對して同情もよせた。兄の過去を憎めない心地もした。「兄さんもうお酒はやめて眞面目に今度は成つて下さい。お母さんも本當に心配していらしたわ。折角好いとこに勤めていらしたのに、惜かつたのねえ」と言ふと、

「なあに人間だもの七轉び八起だよ。僕は決して悲觀しない。吃度(きつと)今度はやつて見せる」と緊張した面持に成つて「だが隨分一時は無茶な事をやつたよ」と其當時の殆ど常識から考へては馬鹿らしい豪遊振や物質上のケパケバしい生活を得意げに語り出す事もあつた。夫は房子などの考へも及ばぬ現實味の勝つた世間臭い物だつた。

 其生活の中には精神的な安心も、愛も、敬虔な信仰もない。只爭鬪や、上辷のした歡樂のみがあつた。[やぶちゃん注:「上辷」「うはすべり(うわすべり)」。]

「兄さんの今迄の榮華はすべて泡錢や虛飾から出來上つてるのですね。自然覆る筈ですわ。あなたは夫で面白ろ可笑くお暮しでしたでせうが、いつも遊蕩費を負ふのはお母さんなのですもの、兄さんも最う昔とは違ふのですもの、今度こそは御兩親に心配かけないで下さいな。ねえ兄さん……」

 思ひ切つて、切り出した房子の聲は震へてゐた。只自己の歡樂のみを追うて年老つた父母の心配をも忘れ、いつまでも兩親の懷を當にしてパアパア湯水の樣に使つてしまふ透の生活は、あまり物質的であつた。もすこし淸い荒(すさ)まない兄にしたい。母の苦勞を減らしたいと彼女は熱心に思ひつゞけた。

 母への感謝は忘れてまだまだ母の愛が足りない、母は長兄のみ大事にすると言つて、透は自分から優しく只の一度もしないで、寧ろ母に突當る樣にして來たのであつた。

 房子は燃える樣な熱心で、或時はおめず屈せず、物質萬能の兄を罵り母の愛を説き、母の苦心を聞かせ、或時は涙を流して兄の荒んだ心持を純なものにしたいと願つた。だが兄は盛んに房子の説に反對し不平を並べもし、自己に都合のよい説をまうけていつかな彼女の精神的な心持を受入れようとはしなかつた。のみならず、話上手な議論好きな彼は、上手に理屈をくみ立てゝ往々房子へ肉迫して來た。[やぶちゃん注:「おめず」マ行下二段活用の自動詞「怖(お)める」(現行では使用頻度が低い)の未然形に打消の助動詞「ず」の連用形が附いたもの。]

 房子は充分心には思ひつゝ筋道立てゝ、縱橫に辯説を構へる兄を説得すべく出來能はなかつた。[やぶちゃん注:「出來能」「できよう」と訓じていよう。「よう」は「能(よ)く」の音変化だから「やう」(樣)ではない。]

 が自分の眞心と熱誠を以つて必らず、母の愛をつぎ込み、兄を幾分なりとも精神的にしたいと彼女は心の中に誓つた。房子は何でも率直に、言ふと云ふたちの女なので怖れず、自分の正しいと思ふ事はヅケヅケ言つた。倂し兄妹とも至極眞面目に各自の立場立場から爭ひ合つたにもかゝはらず、彼等は決して怒つてはゐなかつた。

 火の樣に熱して語りあつてゐると頭の上で、ポカリと電氣が點いた。隣りへ遊びに行つてゐた、長女の澄子が歸つて來て、

「お母さん御飯まだ?」

と催促する事もあつた。

「おやおやもう五時過ぎてますよ。伯父樣があまり強情おはりになるものだから」

と房子は笑ひながら、仕事を片附けてソソクサと夕飯の仕度にかかる事もあつた。

 夕方もう日の暮れ暮れに房子の夫が歸つて來ると、燈の下に賑かな食卓が持ち運ばれる。「謹愼中は酒は一滴も呑むべからず。衣は寒さに堪へ得、食は飢をふせぎ得れば足る」と言ふ樣な手紙を父からは、兄の許へ寄越して來た。母からも懇々賴みもあるので房子はわざと酒はめつたにつけなかつた。每夜の樣晩酌の二三合づゝ飮みつゝあつた透の爲めには夕の膳の上に盃を見ないと云ふ事は當分の中一番苦痛であつた。

 

       七

 

 房子の家では着物は極くかまはない方だつたが食物だけは割合に氣をつけてゐた。房子の父は非常な食道樂だつたので房子も自然食物を料理する事には興味を持つてゐた。一個の馬鈴薯一本の牛蒡をも彼女は樣々に工夫して料理した。

 或時には牛の舌が煮られる事もあり、豚のロースがテーブルに並ぶ事もあつた。一寸繪心の有る彼女は、料理の體裁なども氣をつけ色彩などにも注意して樣々に變化させ美化させる事に苦心した。貧しい厨ではあつたが萬事應用して行く事に興味を見出してこの粗末な卓上にも折々豐富な料理がならべられた。だが兄の透に取つては一寸一口、盃のふちへ唇を付けないと云ふ事が非常に淋しいものに思はれた。房子達は皆で兄さん兄さんと、精一ぱいまごゝろから大事にしては呉れたが、どうか飮まして呉れとは流石な彼も言ひ出しかねて、直樣お茶碗を取り上げた。[やぶちゃん注:「直樣」これで「ぢきさま(じきさま)」とも読むが、「すぐさま」で読みたい。直ちに。]

 寢ようとすれば布團しきにも來てくれ、嫌な感じは少しもなかつたが自分の家にゐて思ひ通りにするのとは萬事勝手も違ひ時々は解きすてた過去の家庭をなつかしいとも思つた。

 何か祝日とか日曜の夜とかは房子は兄を慰める意で、河畔の店へお酒買ひにいつた。そして酒飮の口にあふやうなものを二三品つくり添へた。わづか二合程の酒を、チビリチビリと樂しみつゝ機嫌よく飮んで呉れる兄を見ると房子は兄の樣な性質の男がかうしておとなしく淋しい生活を續けてゐるのを氣の毒にも思へた。

 子供は「伯父さん伯父さん」と馴付いて、透の散步へゆくにも湯に行くにも離れなかつた。良三も透を大事にしてくれた。一家はお互にいろいろな辛さを忍んで至極平和に、最初心配した樣な氣まづさもお互にあぢははず暮す事が出來た。

 夫の良三は、兄の就職口を奔走する爲めいろいろな手蔓を賴つて方々自ら賴み𢌞つた。

 野心も企圖も燃える樣な四十に手のとゞく男が、なす事もなくブラブラと日を送る事の無聊な苦痛や、妻に別れ家をすて友にも背いて、今は彼の最も貴しとする富や權力に遠ざかり、酒色をも顧ず唯あけても暮れても貧しい妹一人を話相手としてわづかに活きて行かねばならぬ彼の心中の寂莫は非常であつた。過去の失敗も失脚も運命とあきらめて、敝履の如く榮華を捨てゝしまつた彼れは、一面に於て夫れを一向意にも介せず、

「なあに」と至極呑氣にかまへてはゐたが其半面には都會人らしい非常に鋭敏な感情をも持つてゐた。感傷的ではなくどこまでも女々しい事は口にしない性質で、

「なあに、今に盛り返して見せる。吃度僕だつて、此儘朽ち果ててしまふ樣な意氣地なしではないんだ」と力を入れて言ふのであつたが、其明晰な頭は何事に逢着しても充分徹底的な判斷を下さないでは氣がすまなかつた。彼れは苦痛をも口に出さず、内心に深く深く刻みつけ考へ詰めもした。自信の強い、或時は圭角ある物言もする兄を房子は憎めないで却つて俳趣味のどこかにひそんだ、兎に角轉んでもつまづいても、何となく元氣があつてテキパキしてゐる兄の性質を「面白い性質」だと思つた。親達に優しくないのも一つは彼の淡泊な性質からだとも思へた。房子は透の襯衣(シヤツ)を洗濯したり、朝晩のチヨイチヨイした身のまはりの世話をも成丈(なるたけ)まめまめしくした。[やぶちゃん注:「敝履」「へいり」。弊履に同じい。破れた履き物。使い物にならない物の喩えとしても用いる語。「圭角」「けいかく」。「圭」は硬い宝玉の意で、玉石にある角(かど)から転じて、性質や言動に角(カド)があって円満でない様子を指す。]

 また兄の動靜を知らせる東京への手紙の中には「兄は丈夫で至極まじめで每日暮してゐる。以前の兄とは違つて、兄も今度こそ辛抱が出來るでせう」といつも兄の味方になつた。淋しい兄の爲めせめて俳人達との文通丈許して頂だき度いと房子は手紙の度に父へ賴んだが父は「出立後まだ一月にもならぬのにもう左樣な言を申樣では前途の謹愼も覺束ない」と却つて不興げな返事を兄妹に宛てよこした。一緒に讀んでゐた透は苦笑しつゝも強ひてとは言はず、此河畔の家に世と斷つて起居した。

 

      八

 

 十一月に入ると朝晩はめつきり寒く成つたが秋晴の爽かな日和が續いた。手の無い房子の爲めに晝は赤ン坊を抱へて呉れたり、長女を連れてたまには買物にも行つたり、又川向うの漁師町を見物に出かけたり、漁船の歸つて來るのを見に行つたりして日を消してゐた透は魚釣を初める事に依つて此禁慾的な生活の中に、一道のまぎれ場を見出し得たのであつた。

 日が高く上つて川向うの水神の小雨の邊がはつきり現はれる頃になるともう土堤の黃樺色した芒の中にも橫へられた河原の船にも、枯蘆の中にも、突出た石垣の上にも鯊(はぜ)釣の人達が、雨の降らない限りは吃度十三四人も見えて居るのであつた。午前中にたつ漁師町の競り場で小海老の餌サを買つて置く事は透の每日の定つた仕事の一つであつた。彼は押入の中のあの鞄をあけて、布で縫つた財布から白銅をつまみ出して、クルクル紙にくるんで、餅の羽織の袂へほり込んで、それから緣の庇へ吊つてある魚藍(びく)を下して行くのであつた。澄子はいつも草履をバタバタ言はせながら「本所の伯父さん」に吃度從いて行つた。[やぶちゃん注:「黃樺色」「樺色」は赤みの強い茶黄色であるから、それの強く黄色に偏移した色。薹のたった薄の穂であるから薄い鬱金(うこん)色といった感じである。]

 天氣のよい日堤に立つて川面を見てゐると上潮につれてグングン小河豚や鯊などのせり上げて來るのや、銀色した鯔(いな)が跳るのを見た。當地へ來てから初めての、釣には新米な透は、素早く呼吸を會得して朝つから釣てゝもダボ鯊一尾もよう釣らぬ下手な人々の貧弱な魚藍をのぞき𢌞つては餌サの付け鹽梅や、糸を引きあげる瞬間の呼吸等ををしへる事さへあつた。そして自分では小い河豚や鯊を釣つても「江戸子はこんな小魚は喰はないや」なんて、針からはづして川中へはふり込んでしまふのであつた。尤も透の呼吸は釣好きな良三に負ふところが多かつた。晝は河豚に餌を奪られてしまふので彼等二人は夜釣一方だつた。二人は釣竿と魚藍と、提燈を持つてすぐ前の川で釣るのであつた。釣れるものは、さし潮につれて上つて來る一年子二年子位な海鰤(ちぬ)やセイゴなどで、外には鰻が大變釣れた。釣りには月のない夜がよいので暗い堤に、二人の釣る提灯が時々場所を替へたり、一とつところで釣つたりするのが、房子の家の緣側からよく見えた。時には他の提灯が彼等の提灯に近よつて行く處も見えた。或時は庭の樅の梢を透して、漁師町へ渡る橋の中程に釣る彼等の提灯が霧の中にボーツと見えた。大抵の夜が十二時、一時頃迄。暗い水の上を見つめる樣にしてもう引くか引くかと只一本の糸に心を集中してしまふので、其間は何も考へない。引かゝつたり、時には逃したり、透の興味は只魚が釣れ樣がつれまいがすべてを忘れて、魚釣に一心を傾け盡すと云ふ事それ丈が、今の境遇に於いての唯一の活動でもあり努力でもあつた。寢坊な良三の方は却つて、釣竿を手にしたまゝゐ眠などして、透の樣に眞劍で釣りはしなかつた。[やぶちゃん注:「鯔(いな)」地方によって異なるが、一般的には出世魚である条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus の成魚(「ボラ」と呼称)になる前の幼魚或いは成魚となる直前の段階十八センチから三十センチほどの大きさのものを指す。「海鰤(ちぬ)」「茅渟」の漢字表記の方がよい。条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii のことであるが、後で久女は「黑鯛」と記すところを見ると、その成魚前の中小型のクロダイをかく呼んでいるように思われる。「セイゴ」やはり出世魚として知られるスズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus で、関西では全長が四十センチ以下(一年物と二年物が含まれる)のものを一律に「鮬(せいご)」と呼ぶ。]

 時には電車に乘つて、市の西方の突堤などへ出かけ終夜荒い波を被ぶりつゝ釣りをする事もあつた。

 そういふ時は夕飯を早くすました透と良三は外套だの眞綿だのをかしな程色々着込んで、西洋乞食の樣な風をして出かけて行くので房子は、正宗の二合瓶に、一寸した折詰などを整へて渡す。夜通し防波堤の上で一睡もせず、釣りした二人は翌朝最初の電車の通ひ初めた頃疲れ切つて歸るのであつた。潮時になると途中一二ケ所防波堤のゴロゴロ岩は潮に浸されて陸へ歸る事は、潮の再びひく迄は不可能であつた。出迎へた房子は

「昨夜は如何でした。釣れましたか」と吃度聞いた。

 魚藍の中には黑鯛やアラカブ、目張、時には七八寸の海鰤が銀色の鱗を光らせて交つてる事もあり、生きた蟹がゴソゴソと魚藍の中で手足を動かす音もした。概して釣の成績は非常によかつた。[やぶちゃん注:「アラカブ」棘鰭上目スズキ目カサゴ亜目メバル科カサゴ属カサゴ Sebastiscus marmoratus の九州方言。他に「がらかぶ」「がぶ」などとも呼ぶ。「目張」同じカサゴ亜目フサカサゴ科(又はメバル科)メバル属 Sebastes(シロメバル Sebastes cheni・アカメバル Sebastes inermis・クロメバル Sebastes ventricosus の三種がいる。アカメバルは「沖メバル」とも呼ぶが、沿岸域にも棲息する)。]

 

       九

 

 透の就職口に就いて或日良三は北九州でも指折りの某實業家を訪ねて行つた。其子息達が良三の學校に通つてゐたと云ふ樣な只ほんの淡泊(あつさり)した因緣を手(た)ぐつて正直細心な良三としては押づよく出かけて行つたのであつた。その某氏の經營してゐる宏大な學校を通り拔けて、松山の麓に其邸宅があつた。