行脚怪談袋 芭蕉翁大内へ上る事 付狂歌に得手し事
二の卷
芭蕉翁大内へ上る事
付狂歌に得手し事
芭蕉廻國の砌り、美濃路を經て近江に入り、義仲寺へ詣で、夫(そ)れより草津大津を越え京都へ入る、先づ洛外四條仲屋の何某(なにがし)と云へるは、當所に隱れなき有德(うとく)人、殊更俳道に事をこのみ、支考の門人なれば、かねてばせををもしたひける。此のゆゑにばせを、彼(か)の者の方に尋ね至り案内を乞ふ。亭主折節在宿にて、ばせをの來るよしを聞き、大いに悦び急ぎ立出でゝ自ら伴ひ入り、初對面の禮義をのべ、其の後(のち)仲屋申しけるは、我れは當所に住居し、世を幸ひに暮し、何不足なく侍る故、多くの家人に萬(よろづ)を預け、我れはつれづれを慰めんと、又好きの道ゆゑ支考に隨ひしより、俳道の事を少しまなべり、右支考の物語りにて、翁の事も聞侍る、誠にたぐひなき御方(おんかた)と承知奉りぬ。こひ願くば、暫(しば)しが間御逗留あり、俳道も明らかに御教ヘを請け申し度しと、わりなくぞ願ひける。ばせをも此の由を聞き、世事の儀にかゝはりなく、一入此の道心(こゝろ)を寄せらるゝ事、誠に殊勝の次第なれば、我等も諸所廻國の草臥(くたびれ)も候へば、暫し此のたちに休足(きうそく)致し候べし、御世話賴み侍るとて、是より仲屋方にとゞまる事數日(すじつ)、好める道故俳諧發句の祕傳を聞くに、ばせをも逗留のつれづれに、發句等の切字十七字のつゞり、其の外俳諧の道口傳を、逸々(いちいち)に語り聞せけるに、其の教へ誠に顯然たり。仲屋甚だばせををしたひ、數日物語りに及ぶ。此の間逗留の節の事なり、當(たう)大内(おほうち)において、東の芭蕉當(たう)洛中四條仲屋方に逗留の由を聞し召され、かれはその上不角此方の俳人の由聞及ぶ、何卒招き寄せ、其の鍛鍊の程をも御聽聞あらんかしと、院より仰せ出さるゝに出(いだ)さるゝに付、御諚(ごぢやう)の趣き、大内より仲屋方へ申し達せられける。仲屋是を聞きて、芭蕉にかくと告げる。ばせをも御諚なればもだしがなきゆゑ、御使とともに大内へこそ至りける。程なくばせをを階下へ御招(まね)ぎ有るに、ばせを謹んできざ橋の本へ平伏してひざまづき居たる處に、殿(でん)の脇に伺公の殿上人(てんじやうびと)、芭蕉にのたまひける、すまごとやひがしの方は荒夷(あらえびす)と號して、歌道俳道の類ひに達せし者、甞てあらずと思ひしに、今其方は東國生れにて、その道にかしこき事、おそらく世の人の及ぶ所にあらずと傳へ聞けり、今幸ひに洛中にあるよしを院にも聞(きこ)しめされ、よつて召寄せらる處なり、かつは御慰みにもあれば、此の方より一句の題を出すべし、是によそへて汝がむねに得手(えて)し發句を巡ね、指上(さしあげ)候べしと、院より春月梅(しゆんげつのむめ)と云へる三つの題を給はりければ、十七字の内に、此の三つをあらはし申すべしとの御諚なり、其の時ばせを少しもおくしたる氣色もなく、さして案じる體(てい)もあらず。
春もやゝ景色とゝのふ月と梅 ばせを
右の通り一句の發句へ、春月梅と三つの題を現はし、吟じて指上げければ、院を初め奉り、御側の殿上人誠に即席の秀句、おどろき入りしと感ぜられ、此の時に翁と云へるを給はる。此の故に世の人ばせを翁と云ひ傳へしとかや、其の道にいたつてかしこきは、右の藝にて世をわたる習ひ也。その節は古人と成りしかども、不角法印、ばせをのごとく、大内へ召れ、禁裏より仰せ出さるるは、其方譁(やさ)しくも俳道發句に達せし由、何卒定家が綴りし百首の内に、後德大寺左大臣の歌に、
郭公(ほとゝぎす)啼きつるかたをながむれば
たゞ有明の月ぞ殘れる
此の歌を發句十七文字に直さるべきやとの御諚あり。其の節不角暫(しば)し思案の體(てい)にて、其の後右の歌の心を發句に取りて、
扨はあの月が啼いたか時鳥
と吟じて奉りければ、各々御感(ぎよかん)淺からず、御賞美(しやうび)として法印の官を賜はりしとかや、此の事あまねく世の人の知り拾ふ所也。扨(さて)芭蕉は御暇を乞ひ、内裏を出でゝ仲屋がかたへ立歸り、其の後仲屋方にても、ばせをを會主(くわいしゆ)として百韻の連歌(れんか)を始む、此の時もばせをいと面白き付合をなす、中にも、
僕が狂歌を手つだうてやる
と云ふ前句に
德利の酢ついで半分のみにけり
とおどけまじりにして、前句の心へひたつけ、句體(くたい)ははなれてつけゝれば、諸人皆打笑ひて興を催ふし、其の後(ご)皆々ばせをへのぞみ、
下より上へつるし下げたり
と云ふ題を出し、先生は此の道にあまねくかしこければ、何にても此の題ヘ一句をつけて見給へかしと云ふ。芭蕉是は難題かなとて、暫らく句案なせしが、かたはらの筆をとりて、其の題の次に書付(かきつけ)て出(いだ)されける其の句に、
風鈴のおもはずに見る手水鉢 ばせを
と吟じければ、仲屋を初め一座の物各々感じ入りしとかや、その後數日(すじつ)逗留の内、百韻數度興行す。芭蕉もあらゆる秀句をつらね、早一ケ月を越えしかば、ケ樣にいたづらに日を送るも如何(いかん)て、是より江州(ごうしう)の方へ廻國せんと、仲屋をもしきりに立出ん事を望む。亭主もその止るまじきを知り、然らば廻國をはり、又候御出でを待ち候と云へば、ばせをは翌日旅の用意をぞいたし、仲屋が門(かど)を立出でる。此の時なかや芭蕉を見送りしが、冬の初めなれば、
此頃の氷ふみわる名殘かな
と一句を吟ず。ばせを甚だ是をほめられし也。是も仲屋其の道に深く學びし故也。此の仲屋何某と云へるも、名は知れね共、表德は杜國といへり。
■やぶちゃんの呟き
・「不角此方の俳人」不角(ふかく)以来の名立たる俳諧宗匠。「不角」とは後の叙述からも江戸中期の俳諧師で松永貞徳の流れを汲む岡本不卜(ふぼく 寛永九(一六三二)年~元禄四(一六九一)年:貞門の石田未得に学び、同門の雛屋立圃(ひなやりゅうほ)や芭蕉らと交わった)門下の立羽不角(たちばふかく 寛文二(一六六二)年~宝暦三(一七五三)年)としか読めないが、彼は芭蕉(寛永二一(一六四四)年~元禄七(一六九四)年)より十八も若く、貞門派よりもさらに通俗的な句風を志向、現在確認されている最古の句でも天和三(一六八三)年で、寧ろ、芭蕉の死後に知られるようになり、他流批判甚だしく、蕉門の宝井其角ともやり合ったりしたから、ここもまたトンデモ錯誤である。ただ、参照したウィキの「立羽不角」によれば、『大名など高位の武士との交流も繁くなった不角は、それに見合った肩書を嘱望するようにな』り、元禄一六(一七〇三年)には『備角の号で俳諧を嗜み交流があった備前岡山藩主池田綱政の参勤交代に伴い上京し、公家社会に顔が利いた綱政の後援により』、この年の七月に法橋(ほっきょう:僧綱(そうごう)の最下位。法印・法眼(ほうげん)の下)『の地位を賜っ』ているから、公家に知られた江戸の俳諧師ではあったようである。
・「御諚(ごぢやう)」貴人の仰せ。
・「すまごとや」不詳。「すまんことやれど」の謂いか? お手上げ。識者の御教授を乞う。
・「其方は東國生れにて」彼は今や知らぬ人とてない伊賀上野(現在の三重県伊賀市)生まれであるから、ここも筆者の脳味噌を疑うヒド過ぎる誤りである。
・「法印」上記の通り、法橋の誤り。
・「扨はあの月が啼いたか時鳥」竹内玄玄一の「続俳家奇人談」の「巻中」の「瓢水居士」の句として、
さてはあの月が啼いたか時鳥
と掲げる。瓢水(貞享元(一六八四)年~宝暦一二(一七六二)年)は松木淡々(まつきたんたん)門下。瓢水に至っては不角より二十二も、芭蕉より四十も若い。
・「德利の酢ついで半分のみにけり」不詳。現行の芭蕉の句としては知らぬ。
・「風鈴のおもはずに見る手水鉢」不詳。同前。
・「此頃の氷ふみわる名殘かな」確かにこれは貞享元(一六八四)年十二月末、「野ざらし紀行」の旅の途次、名古屋に滞在していた芭蕉が熱田へ出立するのを見送った際の坪井杜国の句ではある。
・「表德」「表徳号」のこと。ここは雅号。但し、芭蕉の愛した杜国の屋号は「仲屋」ではないし、そもそもが彼は京の商人ではなく、名古屋御園の米穀商である。ここまでど素人を馬鹿にした嘘だらけの無惨累々たるを見ると、仮託偽書の確信犯を糞狙いしたものとしか言いようがない。