赤字路線は犯罪である 梅崎春生
玩具屋に組立材料を売っている。それを買って来て、軍艦や飛行機を組立てる。子供雑誌などの付録にもそれがある。戦艦武蔵をつくったとか、零戦(ぜろせん)をこしらえたとか言って、子供はよろこんでいる。いや、子供だけじゃなく、年甲斐もなく大人が没頭しているのもいるようだ。
復古調ということもあるだろう。しかし根本的には軍艦や飛行機は、形に無駄がない。その点に人は魅力を感じるらしい。全部合目的的につくられて、余分な出っ張りはひとつもない。そこに美がある。
汽車の模型が大好きというのもいる。これは案外大人に多い。病膏肓(やまいこうこう)に入ると、駅舎や踏切やシグナルなども自分でつくって、各種の機関車や客車を走らせて悦に入っている。自分の意のままに走ったりとまったりするところが、何とも言えないのだそうである。その気持は判らないでもない。
先年せがまれるままに、子供に電気機関車の一式を買ってやったが、子供が学校に出かけた留守、私たち夫婦はそれを取り出して、散々汽車を走らせてたのしんだ。汽車を走らせることには、何か郷愁みたいな快感がある。
汽車の模型で遊んでいる分には差しつかえないが、国鉄は今年も赤字路線をたくさんつくるのだという。模型と違ってほんものだから、これは金がかかる。路線をきめるのは鉄道建設審議会で、その席上で、
「赤字路線の新設はもうやめようじゃないか」
との意見も出たが、大勢は新設に踏み切った。今建設中の二十五新線の工事を進める上に、また八つの赤字路線をつくることに決定した。
なぜ赤字路線が次々出来るかというと、審議会の実権を国会議員が持っているからで、つまり鉄道をつくってやるからと恩を売って、票を集めようとの魂胆である。
国民の税金を使って選挙運動しているようなもので、怪しからんと思うが、また選挙民の方もどうかしてやしないかと思う。どうして鉄道に偏執するのだろうか。
鉄道より何故道の方をえらばないのか。一定の広さの舗装路さえあれば、バスも通れるしトラックも通れる。人も歩ける。鉄道というやつは、いったん敷設(ふせつ)すれば、そこは汽車しか通れないのだ。その点非常に効率が悪い。
狭い国土に汽車だけしか通れない路をつくるのは、住民にとっても損な話ではないか。
しかし現実には、鉄道を通せば票があつまるのだから、汽車がよろこばれていることになる。その心理はよく判らないが、忖度(そんたく)するに、鉄道というものが文明開化の象徴のように感じられているせいだという気がする。
現に私の遠い親類の老女が九州の片田舎に住んでいて、最近上京して来た。その地方にこの度鉄道路線(もちろん赤字の)がつくられることになったそうで、私が如上の意見を控え目に開陳すると、
「そんなことを言ったって、あんた、お祖父さん、お父さんの代から、汽車が通らんかのう、汽車が通らんかのうと、待ち望んでいたんですのに」
と、事もなげに一蹴された。これはもう考え方とか理屈ではなく、皮膚感覚であり、むしろ信仰みたいなものだろう。
鉄道が文明開化のシンボルであるとは、すでに明治の感覚であるが、その感覚が父祖代々受けつがれ、今の住民の皮膚や内部に蓄積されている。誰もこれをわらうことは出来ない。ただそんな田舎の人(赤字線のほとんどが田舎だ)の盲点みたいな感覚を利用して、国民の税金を濫費(らんぴ)することが、悪質な犯罪だというのである。
こんなやり方に対して、国鉄も少なからず迷惑しているらしく、
「審議会が決めたんだから、国鉄自体で中止するわけには行かない。同じ金を使うなら、国鉄としては、もっと有効に使いたいのだが――」
と言っている。赤字路線の新設はもうやめましょう、という正論を無視したことで、審議会のメンバーはその資格をうしなったんじゃないか。解散して出直すべきだと私は考える。
鉄道というのは世界的にもう斜陽的な事業の由だが、日本の鉄道利用の大部分は主要線に集中している。
日本の人口は九千余万人。東京、大阪、名古屋市の合計が約二千万人。それに横浜、京都、神戸、その周辺都市を入れると、日本人口の半分が東海道線にへばりついていることになる。これらの都市は産業が活発だから、人の往来も多いし、荷物の輸送も大量で、実質的には七割、八割が東海道線に集まっているとみなしていい。だから東海道(その他主要線)の混み方ははげしくて、ウィークデイに東京駅から一等車に乗ったら、大阪まで立ちずくめというのが、ふしぎでない状態になっている。
それなのに山間僻地(へきち)に大金を使って鉄道を敷き、がらがら列車を走らせようなんて、どんな了見なのだろう。目先の利にくらんだとばかりは、言えないような気もして来る。思うに連中には、判断力も想像力もないのだろう。それならもうにわとりと同じである。
審議会のことばかりを難じたが、国鉄だってどうかと思う。どうも国鉄にはずるいところがある。(国鉄のみと限らないが。)他力本願で値上げをしながら、それに見合うサービスを怠っている。
「もっと有効に金を使いたいのだが……」
という内容を、簡潔に具体的に国民に示そうということをしない。どこか口の奥でもぞもぞ口ごもっているような具合で、そのくせ威張る時は、日本鉄道の正確さは世界一であるとか、狭軌では最高速度を出したとか、大いに誇らかに語るのである。
個人にもそんなのがよくいる。自分の都合の悪い時は知らんふりして、威張る時には大いに威張る。個人のつき合いでは、そんなのは大体つまはじきにされ、仲間外れにされてしまうのだが。
話はすこし違うかも知れないが、役人の朝の出勤時が遅いということが国会の問題になり、総理府が抜き打ち(?)に調べたところ、でたらめだということが判明した。
八時半出勤ということで、八十パーセント前後が出ていたそうだが、役所の時間には「出勤簿調整時問」というのがあって、始業から一定時間内に姿をあらわせば遅刻にならないのだそうである。その調整時間が四十分だとのことで、つまり九時十分までに行けば遅刻の取り扱いをうけない。
調整時間とはまったく身勝手な、都合のいいことを考え出したものだ。四十分の許容があれば、人情として誰だって利用するにきまっている。
朝遅くてもその分だけ夜働いているから同じだ、と彼等は弁解しているが、それは絶対に同じではない。同じである道理がない。それは悪いところを見つけられてふてくされた小学生の論理である。
[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第五十七回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年五月二十一日号掲載分。
「忖度(そんたく)」老婆心乍ら、「忖」も「度」も「はかる」の意で、他人の気持ちを推し測ること。]