宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 無足の蛇 七手の蛸
無足の蛇 七手の蛸
肥後の宇土長濱(うどながはま)に、京にてうらなく語し、荻生(をぎふ)房高といふ連歌數寄(すき)のもとに尋ね入る。主(あるじ)、悅び、實(げ)に都に在りし時、修行の志しあなるよし、誠に下り給ひけるよ、すける道も此の邊(ほと)り能き友なくて、獨吟の卷々つゞり置き侍る迄也。嬉し、年來の愁欝(しううつ)をはらさん、と、取出でゝ點を乞ふ。其の後(ご)、都鄙(とひ)の物語とりどりして、明けなば頓てまかでなん、といふに、主の云く。君、行脚の心から、公私の要用も昔のよそに聞き給ふ身の、何をいそがしとし給ふ。せめて年の半(なかば)も、と、むつましくとゞむ。いやとよ、修行のついで、おもしろければ、遠つ國の名所尋ねんと思ふ、賴みなき命(いのち)に、おほけなき長途(ちやうど)の月日、すゞろにいそぐに侍りといへど、猶、しひてとゞむ。切(せつ)の志しに三日、五日と暮し居ぬ。ある日うらゝに風靜かなる空、小船に小竹筒(こさゝえ)とり入れ、一僕(ぼく)に棹さゝせ、荻生友なひて、磯づたひに遠近(をちこち)の名所をきく、阿蘇の嶽(たけ)をあそこといへば、はだか島に風本(かぜもと)、雪の島のさむさかはゆしと、俳(ざ)れもて行。松原姬(まつらひめ)のひれふる袖(そで)を香椎の宮(みや)あり。かるかやの關(せき)あり。げに幸ひの橋、白川(しらかは)のはげしを染川(そめかは)に能くして、たはれ島をうかれありかば、かご島にもれなん、など、しどけなき化口(あだぐち)、規玖高濱(きくだかはま)も、とほしといひつゞけて、海ばた、二、三里、過ぎ行く。爰にひとつの山川(やまかは)の、海に落入る所に、二尺餘の蛇、尾の方、半(なかば)海につかりてひたひたと波をたゝく、怪しき事をする物哉と、舟さしよせてまもり居(ゐ)るほどに、いそがず、靜かならず、波をうつ事、百度(もゝたび)計り、中程(なかほど)より下、波にひたりたる所、始め、二つにさけ、次第に三つ四つに成り、終に七つに分つて、大小のいぼ、出來ると見えし、忽ちに蛸(たこ)と化(け)し、鞠(まり)の大きさしたる首(かしら)をたてて、波上、三間計り足をつまだてありきて、又、水中(すゐちう)に入りぬ。誠に、鶉(うづら)化して田鼠(でんそ)となり、雀、海中へ入りて蛤(はまぐり)となるといひ、俗に薯蕷(やまいも)の鰻(うなぎ)とかはり、燕(つばめ)の干魚(ひうを)に化するといふも、是を見るに信用あり、といへば、荻生、默然(もくねん)と打諾き、君が信ずるにて、又、信あり。人間の佛(ほとけ)になる事、今迄、疑ひ侍り、御坊ぞ、既に佛に化(け)する用意なりと、いへるぞ。すしようの心の付所なる、と笑ひて舟こぎ歸りぬ。
或人云く。市店(してん)に賣る蛸、百が
内にふたつ三つ、足七つある物あり。是、
則ち、蛇の化する物なり。食ㇾ之(これを
くらふ)時は、大きに人を損ずと、後人、
おそるべし。
■やぶちゃん注
・「肥後の宇土長濱(うどながはま)」現在の熊本県宇土市長浜町。
・「うらなく」隔てなく。心から。
・「荻生房高」不詳。
・「頓て」「やがて」。
・「おほけなき」身の程知らずの。
・「友なひて」「ともなひて」(伴ひて)。
・「はだか島」熊本県宇土市住吉町の有明海に浮かぶ風流島(たわれじま)。島の別名。平安時代からの歌枕として知られる。私はこれは実際に彼らの眼前にある実景の島名と読むが、以下は風流の言葉のみの遊びと解く。大方の御叱正を俟つ。
・「風本(かぜもと)」「西村本小説全集 上巻」では「かざもと」とルビする。順列から見ると実景として現認している島の名のように思われるが、不詳。方向違いだが以下に頻出して来る神功皇后絡みならば、三韓征伐の折りに壱岐の島の現在の勝本で風待ちのために滞在、良い風を得て船出して以降、征伐の帰途にもここに拠ってこの地を「風本(かざもと)」と呼ぶように命じたという伝承に、その名が出る。
・「雪の島」同じように不詳であるが、同じように神功皇后に絡んで、折口信夫の壱岐の民俗探査のエッセイ「雪の島」に(リンク先は「青空文庫」)、壱岐の島の北西岸にある湯ノ本温泉(神功皇后はここで応神天皇の産湯を使ったとする伝説が残る)の沖にある際立って白い島を「雪の島」と呼称するとし、昔の本には「壱岐」の事を「ゆき」と書いてあるという叙述が出るのは気になる。ここで宗祇は「俳(ざれ)もて」語っては興に乗って舟を進めた、と叙述しているわけで、実景として見える必要はなく、事実、以下は総てこの島原湾からは相対的に遠く離れた、見えるはずのない対象ばかりが出現する。なお、この白いのは岩質ではなく、鵜の糞によるものと推測する。
・「松原姬(まつらひめ)」これは各地に散在する〈袖振る女〉伝承の本家たる「松浦佐用姫(まつらさよひめ)」のことである。現在の佐賀県北部、日本海側の唐津市厳木町の豪族の娘とされる。単に佐用姫(さよひめ)とも呼ばれ、弁財天のモデルともされる。ウィキの「松浦佐用姫」によれば、五三七年、『新羅に出征するためこの地を訪れた大伴狭手彦と佐用姫は恋仲となったが、ついに出征のため別れる日が訪れた。佐用姫は鏡山の頂上から領巾(ひれ)を振りながら舟を見送っていたが、別離に耐えられなくなり舟を追って呼子まで行き、加部島で七日七晩泣きはらした末に石になってしまった、という言い伝えがある。万葉集には、この伝説に因んで詠まれた山上憶良の和歌が収録されている』。また、「肥前国風土記」には、『同様に狭手彦(さでひこ)と領巾を振りながら別れた弟日姫子(おとひめこ)という娘の話が収録されている。こちらでは、別れた後、狭手彦によく似た男が家に通うようになり、これが沼の蛇の化身であると正体がわかると沼に引き入れられ死んでしまうという話になっているが、この弟日姫子を佐用姫と同一視し、もう一つの佐用姫伝説とされることもある』平安時代の兵法書「闘戦経」には、『石化した貞婦=佐用姫の話が引用されている。内容は、危うい時に逃げる謀略家と違い、純粋に夫を慕い続けて石となった婦女は後世まで残り、一方、謀略家が郷里に骨を残す例は聞いたことがない、というもの。佐用姫を引用して比較する例』は「平家物語」にも見られ、治承二(一一七八)年九月二十日頃の『話として、孤島に残された俊寛が半狂乱した語りにおいて、松浦佐用姫ですら孤島に』一人『残された俊寛の心境には及ばないだろうといった旨の記述がある』。『なお、世阿弥作の能に、佐用姫伝説に取材した能〈松浦佐用姫〉がある』。『唐津市の鏡山は、佐用姫が領巾を振って見送った山とされているため、「領巾振山(ひれふりやま)」という別称がある。同市和多田には、佐用姫が鏡山から跳び降りて着地したときについたという岩があり、小さな足跡のようなくぼみがある。衣干山は、川に入った佐用姫が衣を干して乾かしたことが名前の由来となっている』とある。
・「香椎の宮」現在の福岡県福岡市東区香椎にある香椎宮(かしいぐう)。仲哀天皇とその神功皇后を祭神とする。
・「かるかやの關」苅萱の関跡は現在の福岡県太宰府市坂本に比定されている。菅原道真公の和歌にも詠まれた中世の関所跡とされ、大宰府の出入口に相当する。山の中で無論、島原湾からは遠く離れている。
・「幸ひの橋」「幸の橋」という歌枕は各所にあるようだが、前の大宰府参詣道の南の二日市宿からのルートに「幸橋」というのを見出せる。但し、宗祇が言っているのがここかどうかは不明。私は単に可能性のある具体例を掲げているだけである。
・「白川のはげしを染川に能して」「西村本小説全集 上巻」では「白川のはけしを染川(そめかわに)能(よく)して」(かわ」はママ)である。「染川」は福岡県中部の太宰府天満宮の付近を流れる御笠(みかさ)川のことで、古くからの歌枕であり、しかもこの川は別に「逢初(あいそめ)川」「思(おもい)川」の名を持っており、先の「白川」は無論、淀川水系の京を流れるそれではあろうが、「白」に意味があるのであって、それを恋で美事に「能く」「染」め「川」と引き出すための修辞であって、特定の地名を解説するに必要を私は感じない。
・「たはれ島」先の風流島の別称。ここで一瞬、実景に戻ると見た。しかし「たはれ」(戯れ)から「うかれ」(浮かれ)が引き出されて、また洒落のめしてしまうのである。
・「かご島にもれなん」「かご島」は南の薩摩国の鹿児島郡に引っ掛け、しかも「かご」を「籠」の掛詞として、幾ら島尽くししても、島は無数にあるから、「籠」の目から漏れてしまうと洒落たのではあるまいか?
・「規玖高濱(きくだかはま)」「企救(きく)の長浜」とも言う。北九州市小倉北区の海岸の古称で万葉以来の歌枕。但し、現在は埋め立てられてしまい、今は面影を偲ぶよすがもない。
・「三間」約五メートル四十五センチ。
・「田鼠(でんそ)」哺乳綱トガリネズミ形目モグラ科 Talpidae に属するモグラ類のこと。
・「燕(つばめ)の干魚(ひうを)に化する」「干魚」は不審である。これが「燕の魚に化す」であったなら腑に落ちる。渡り鳥である燕は冬の間は海の中に棲んでいる、だから姿を見ないのだ、と信じられたからである。とすれば、本邦で孵った幼鳥が海に入って魚と化しているとするのはごく自然なライフ・サイクルである。
・「打諾き」既出ルビ有り。「うちうなづき」。
・「すしようの心の付所なる」「すしよう」は「衆生」で、これは「しゆじやう(しゅじょう)」以外に「すじやう(すじょう)」とも読む(濁点は落されることが多い)。仏に正しく導かれて往生せんとする信者が直き心で注意をするべき肝心な所である、という謂いであろう。