芥川龍之介手帳 1―12
《1-12》
○牢中の女のくれた花をみる件 即すくふ前に女を見そめる事を入れよ
[やぶちゃん注:明らかに既に書かれた草稿やシノプシスへの追加メモのように見えるが、芥川龍之介の完成当該作品中にはこうしたシーンは私には記憶がない。]
○大きさ七間 戸五間 二重閣圍 丹楹丹雘を以て彩り 東西各一間 東面西面各二間並に粉壁ス 東西各八間に腋門あり 伊經入道の額
[やぶちゃん注:岩波旧全集では「二重閣」が「二重圍」、最後の「伊經入道の額」は「伊能入道の額」となっている。『WEB画題百科事典「OPEN画題WIKI」(一般公開版)』の「朱雀門」の「東洋画題綜覧」の記載に「大内裏図考」からとして、『大内裏外郭十二門の一、又大門、南門、重閣門、大伴門、(伴氏作るを以て名とす)雩の門ともいふ、『三代実録』に『大明宮南面五門、正南曰丹鳳門夫丹鳳朱雀其義是一然則以其在南方、故謂之朱雀』とある、大内裏南面の正門で、内は応天門、外は羅城門と相対し、朱雀大路より宮城に入る日にあり、東に美福、西に皇嘉の二門がある、桓武天皇延暦十三年、大内裏を経営せられた時伴氏之を造る、大さ七間、戸五間二重閣で左右の衛士共に之を衛る、東西各一間東西両面各二間、東西各八間の腋があり、嵯峨天皇の弘仁九年額を改め弘法大師の筆額を掲げ、永祚元年八月大風の為め転倒し、保元三年之を修造し、兼行朝臣の書額を撤し、前関白忠通の書額を掲げた、次で元久元年後京極摂政また書を額とし建暦二年十月には曩に諸門顛倒の為め新に額板を製し伊経入道の筆額を掲げた』。『伴大納言絵巻の中に、その図を載せてゐる』。『(『東洋画題綜覧』金井紫雲)』とあり、同じ『WEB画題百科事典「OPEN画題WIKI」(一般公開版)』の「羅城門」の「画題辞典」の引用には『羅生門、俗に羅城門ともいふ、平安城の正門にして朱雀大路の中心に當り、朱雀門と遙に相望み、洛中洛外の境界をなす、門の台.廣さ南北二丈六尺、東西十丈六尺、二重閣瓦葺にして丹艧紛壁、平安京第一の大門なり,弘仁七年八月、大風の為めに倒れ、後再建されしが、西の京の衰頽すると共に大に荒廃し、平安朝末期には盗賊の住家と化したり』『(『画題辞典』斎藤隆三)』とある。この「羅城門」の方の「二丈六尺」は七メートル八十七センチ、「十丈六尺」三十二メートル十二センチ弱であるから、ここの数値とは合わない。寧ろ、朱雀門の数値及び扁額の筆者の一致から見て、ここに出るデータは朱雀門のそれと断定してよいと思われる。これは「羅生門」のためのメモランダの如く見えるが、「羅生門」は大正四(一九一五)年十一月の『帝国文学』で、本「手帳1」の推定記載時期上限よりも一年前で、前後のメモを見ても、これは少なくとも「羅生門」執筆のためのそれではない。恐らくはそれ以降の王朝物の大道具として朱雀門を使う場合のメモとして残したものと見るのが至当である。
「七間」十二メートル七十三センチ弱。
「五間」九メートル九センチ。
「圍」「がこひ(かこひ)」。
「丹楹丹雘」「丹楹」は「たんえい」で、朱で塗った柱、或いは柱を赤く塗ること。「丹雘」は「たんわく」で、朱色の鮮かなる土の意で鉱物性顔料である辰砂の類いを指す。
「一間」一メートル八十二センチ弱。
「二間」三メートル六十四センチ弱。
「粉壁」漆喰(しっくい:消石灰に麻糸などの繊維質や海藻のフノリ・ツノマタなどを膠着剤として加えて水で練った建築素材(砂や粘土を加える場合もある)。「シックイ」は「石灰」の唐音に由来するもので「漆喰」は当て字である)で白く上塗りした白壁(しらかべ)。 「八間」十四・五十四センチ強。
「腋門」「わきもん」で脇門と同じい。大きな門の脇にある附属した小さな門。
「伊經入道の額」藤原伊経(これつね ?~嘉禄三(一二二七)年)は平安末期から鎌倉初期にかけての貴族で世尊寺家第七代目当主。宮内少輔藤原伊行の子で建礼門院右京大夫の兄。官位は正四位下で太皇太后宮亮。参照したウィキの「藤原伊経」によれば、『能書家・歌人として知られ、中務少輔・宮内少輔・太皇太后宮亮などを歴任』、元久四(一二〇四)年に『正四位下に叙された。藤原教長からの口伝を筆記して書論書『才葉抄』を著し、『千載和歌集』奏覧本(天皇に献上する勅撰和歌集の完成本)の外題を記すなど、世尊寺流の大家として知られていたが、官位の昇進は振るわず、経済的には苦しかったとみられている。『千載和歌集』『新勅撰和歌集』に』一首ずつ『和歌作品が採録されている』とある。]
○大路 廣二十八丈 東左京 西右京
[やぶちゃん注:前の朱雀門データに続いて朱雀大路のデータ。平安京の中央を南北に縦貫し、大内裏外郭南面にある朱雀門から平安京南詰にある羅城門へと通じていた。長さ約三・七キロメートル、幅は約八十五メートル。朱雀大路によって東側を「左京」(南面する天子から見て左となる)西側を「右京」と呼称する。
「二十八丈」八十四メートル八十四センチ弱。]
〇二十坊 左京右京二十七坊の夜を破りて
[やぶちゃん注:「左京右京二十七坊」(前の「二十坊」は誤記で訂正記載したものであろう)京の左京と右京にあった二十七の「坊」、即ち、条坊制に於いて左京・右京各々の各「条」(東西に通じる大路)を四坊に分かっていた南北に通じた大路のこと。転じて京の街全体の謂い。これは「偸盗」の「七」の中間部に出る、次郎が追手の番犬(狩犬)に触発された野犬の群れに襲われて絶体絶命となるシークエンスのブレイク直前に少し末尾を変えて出る(底本は岩波旧全集)。
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次郎は、絶望の目をあげて、天上の小さな月を一瞥しながら、太刀を兩手にかまへた儘、兄の事や沙金の事を、一度に石火の如く、思ひ浮べた。兄を殺さうとした自分が、反つて犬に食わはれて死ぬ。これより至極な天罰はない。――さう思ふと、彼の目には、自ずから淚が浮んだ。が、犬はその間も、用捨はしない。さつきの狩犬の一頭が、ひらりと茶まだらな尾をふるつたかと思ふと、次郎は忽左の太腿に、鋭い牙の立つたのを感じた。
するとその時である。月にほのめいた兩京二十七坊の夜の底から、かまびすしい犬の聲を壓して遙に戞々たる馬蹄の音が、風のやうに空へあがり始めた。……
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