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2016/07/22

葉鷄頭   杉田久女

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年一月『電氣と文藝』に発表された俳人杉田久女の小説。久女、満三十歳。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、執筆年を考え(幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されている)、恣意的に多くの漢字を正字化した。傍点「ヽ」はブログでは太字に代えた。踊り字「〱」「〲」は正字に直した。

 ……お読みになれば判るが、ここには久女という女性の驚くべき強烈な「個」が、匂い立っている(特に後半部)。思わず、身を引いてしまう読者も恐らく、確実に、いるであろう。私は自分が、この原稿を送られた『電氣と文藝』の編集人である長谷川零余子(作中の孤雁子は彼である)本人であったら、どう感じたか、ということを考えた。

 しかし、それでも私は、久女を愛して、やまない。――]

 

 

   葉鷄頭

 

 

 K市の東の町はづれ。屋敷町の黑塀や煉瓦塀のとぎれたところに、木柵をめぐらした四五百坪の花畠とも野菜畠ともつかぬ畠があつた。

 野菜畠の奧には荒塗の壁をもつた、垣根も、好もないむき出しの小家が一軒、紅がら塗りの粗末な格子を打ちつけた窓を、八月末の夕暮の冷めたい雨にうちぬらしつゝ、廣い野菜畠を側面にして建てられてゐた。砂まじりの畠の土は淡黃色に濕めつて、絶えまなしに雨を吸ひ込んでゐた。

 窓のすぐ下からは畠になつてゐて此家に附屬して借りてある幾坪かのゴチヤゴチヤした畠には艷々しい紫紺色の長茄子や、白綠色の水々しい白菜の縮れ葉やひとり生えの小南瓜の色付たのなどが、此夏休み中拔きもせずにうつちやつてあつた雜草の中に交じつてあつた。かうした茄子や白菜や、雜草の茂つた間々に挾まれて、向日葵だの葉コスモス、六七尺の葉鷄頭が七八本、たがやされた柔い地中の肥を吸ひあげてすくすくと人の樣に佇んでゐた。もうのび止まつて笠の樣に丸く茂つた葉鷄頭のテツペンには緋色と鮮黃の斑が刻みつけられてゐるのもあり、またまつ靑な儘でゐるのも、黑ずんだ紅色を淡く葉末にたゞよはしてゐるのもあつて、此すばらしい背の高い葉鷄頭の群れが卵色した荒壁や、格子窓の白い障子をバックとして、初秋らしい白い夕暮の細雨をあびてゐるのであつた。

 恰度其時。畠窓の障子が家の中から開けられて白い女の顏が浮んで直ぐに消えた。かと思ふと、裏口の方から、目笊を持つた三十位の束髮の女が現はれて、髮の毛の濡れるのを厭ふ樣に、袂の先をかざしつゝ葉鷄頭の間をすり拔けて白菜の前にかゞむのであつた。彼女の藍がゝつた立縞の着物に、紫陽花か何かを絞り風に染め出した夏帶を、キチンと高くお太鼓に結んだ引しまつた後姿と白い足袋の踵が地の上にくつきりと浮いて見えた。寶石(いし)をはめた肉付のいゝ手が、白綠色の縞をびつしりとしきつめた樣な白菜のうねをあちこち動いては、間引かれた小い菜が細い髭根に泥をつけたまゝ地に置かれた笊の中に拔いては入れ拔いては入れくりかへされた。暫くたつて一杯になつた綠色の笊を抱へて立ち上つた房子の、油氣のない前髮には、こまかい雨の玉がまき散らした樣に溜つてゐた。菜をぬいてゐた方の指輪の手で後れ毛をかきあげつゝまともに顏を上げた彼女の、大きい二皮目の瞼は、泣いたあとの樣な櫻色にすこし脹れぼつたく、瞳(め)は悲しさにうるんでゐたが、然も、興奮した中に混亂した入りくんだ色を現はしてゐたし、そげ氣味の赤味のない面長な頰、見詰めるのが癖の樣な冷めたい目色、やゝ詰まつた感じのする額、輪廓のはつきりした顏全體に何となく淋しい荒んだ憂鬱な表情が漂ふのであつた。彼女は何度となく葉鷄頭の頂き越しに、此畠の奧の家への通路となつてゐるポプラの並木の方を、振り返り振り返り、何かを待ち設ける樣な目付で心を殘しつゝうつむき勝ちな靜かな足取りで、笊をかゝへた中背の後姿を向日葵の陰の裏口へかくしてしまつた。

 それから小一時間もたつた頃、もう大分夕暮れらしい薄闇でぬりこめられた格子窓の中から、房子の顏が二三度待ちあぐねた樣に浮かみ出ては消えてしまつたころ、三臺の幌俥が此並木徑の入口に現はれた。

 さうして、畠をめぐらした木柵の一端の、扉もない通用門見たいな處の、畑とも路次ともつかないポプラの入口に梶棒を突き入れ樣として停まつた最初の俥の車夫は、

「この奧にも家らしいものが有る樣だから聞いて來ませう。多分さうでせう」と言つてずんずん並木をはひつて行つた。目のさめる樣な黍の葉の海を片手に見て小一丁許り入り込むと追ひ詰められた樣な奧のとこに、柿の立木を枝のみ切り拂つて其儘門柱にしたと云ふ樣な奇妙な扉(と)のない小い門が黑塀の隅つこに形ばかりにひつついてゐた。はげた小い門札の字を辿つてづかづかと玄關の叩キへ立つた車夫は「松田さんはこちらでございますか。へい。お客樣を停車場からお連れしましたんで」かう濁つた聲を掛ると奧から房子がそはそはと出て來て、玄關にあつた下駄をつつかけて門口迄出むかへるのであつた。

「おうい、こゝだとよう」今の俥夫がもとの場所へ步みつゝ手をあげてあひ圖をすると、三臺の幌俥の中からセルの袴をはいた夏羽織の男達が下り立つて、旅行カバンを下げた車夫達を先に、此葉鷄頭の家をさして步み出した。めいめいの傘で、兩方からづしりとトンネルの樣に垂れ被さつたポプラの濡れ枝を押しわける樣に次々としごいては並木の徑を辿る。其度毎に枝や葉をサラサラと傘にこすりつける音。ポトポと砂地に降る雨露の音。車夫達がピチヤピチヤと潦(にはたづみ)を踏みわたる草鞋の音。しごく度にゆるやかに跳ね返る枝と枝、葉と葉とが觸れあふ幽かな咡き。折々ポプラの幹にコツコツと突きあてつゝ傘を持つた狹くるしい並木の徑を過ぎる時の暗ぼつたい雨の日らしい感觸に浸りつゝ一步一步、柿の木の門へ近づいてきつゝあるのがはつきりと目に寫り出した時、彼女は燕の樣に身を翻して急いで門の中へ隱れてしまつた。どやどやと此狹い門内に押し込んで來た人々の目に最初にうつつたものは濡れた石疊の間や、硬い石ころ交じりの上に生えちらばつてゐる四五寸足らずの瘦せた葉鷄頭であつた。小人の樣にひねびた形をしつゝも早や靑い葉先に黃と紅をかつきりと刻みつけて玄關口に威張つてゐる葉鷄頭に心を止めて流し目にしながら、日和下駄をカチカチと氣忙しげに敷石の上に刻んで一番先に玄關をおとづれたのは、一行の中の主賓とも云ふべき孤雁子といふ三十少し上位の東京の俳人であつた。そこにはうす暗い障子の陰の疊に坐つてつゝましやかにほゝゑんで彼等を迎へてゐる房子の顏がくつきりと夕闇に浮き上つて見られるのであつた。[やぶちゃん注:「咡き」「ささやき」(囁き)。森鷗外に用例がある。「孤雁子」モデルは高浜虚子の弟子で『ホトトギス』編集人長谷川零余子(明治一九(一八八六)年~昭和三(一九二八)年)。本作の掲載誌『電氣と文藝』も彼が編集していた。推定で大正八(一九一九)年の八月末か(第二段落)。]

 ゴトンゴトンと二つ三つの旅行鞄や手荷物が玄關の板敷におかれて車夫達は皆歸つて行つてしまつた。孤雁子と他の二人の俳人達は電氣の灯つた八疊の座敷に通された。そこにはもう座布團が敷かれてあつて、座敷の隅には、白の十の字の上布に夏羽織を着流したお醫者らしい風采の三十七八位の男が一人、鷹揚な態度で彼等に會釋した。

「先年は誠に失禮申上げました。此度は又御多用のところをわざわざお立寄り下さいまして………さぞお疲れでいらつしやいませう」

「さあ、どうぞこちらへ」かう房子は床の正面の座布團へ孤雁子を招じつゝ三年振りの挨拶を感激に述べるのであつた。

「これは泡浪(はうらう)氏す」「こちらは銀川(ぎんせん)氏です」と孤雁子は、隣の體の大きい色の白い、比較的長い幅のある顏に眼鏡をかけて何となく梟の樣な感じのするやゝ猫脊の大學生風の泡浪を紹介した。も一人の銀川氏と云ふのは房子の住んでる此市から三時間許りで行ける某市の俳人で色の淺黑く頰骨の高い、顏全體も頭髮の刈り込みも四角い、巖の樣ながつしりした感じのする人だつた。之等の人々は此房子の先輩の人達で、東京の某誌の選者であるところの孤雁子も、他の二人も、雜誌の上では日頃から親しみを覺えてゐる人々のみであつたし一二度或る席上で逢つた事がないでも無かつたが改まつてかく近々と挨拶をとり交す樣な機會は之が初めてであつた。

 で、各自の間に挨拶が一通りすむと、最後にあの座敷の隅にひかへてゐた鷹揚な風采の男が、

「私は公孫樹と云ふ者ですが、房女さんとは始終御懇意にしてゐます。どうかよろしく」ぽつんぽつんとひきちぎつた樣な、まの暢びた調子で、おうやうに言ひ終つたとき、側にひかへてゐた房子は何といふ世間ばなれのした拙い調子で挨拶をする人だらうと、親しい公孫樹の爲めにくすぐつたい樣な氣まり惡さと、そのまののびた挨拶に強い親しみを覺え乍らみまもつてゐるのであつた。

 孤雁子が東京を出てから此九州を俳句施行してゐる長旅の話し。婦人俳句會が各地でさかんな事や、孤雁子の奧さんの柏女(かしは)さんが長い間神經痛の爲めに惱んでゐられる話なんどが彼と房子との間にプログラムの樣にとり交される。だが無口らしい初對面の男の人ばかりの中に唯一人交じってゐる主人役の房子も、社交的の人ではないので、一と通りの言葉が使ひ果されたあとは皆が離れ離れの樣な心持でポツンとセルの袴の膝に手をおいて妙に押しだまつてしまふのであつた。まづ正面に、キチンと坐り込んでゐる孤雁子の五分刈頭太く厚い唇眉毛が濃くて耳朶が特別に大きくてどこもかも太い線と感じを持つてゐる顏をかうして灯の下に近々と相對して眺め乍ら旅行中の話をきいてゐた房子には久しい間唯理智一點張りで利己的な人の樣に俳句とか人の評などを透して考へさせられてきた此人。血とか淚とかの全くない親しみのない、むしろ嫌ひな部類の人の樣に考へさせられて過して來たので、それとなく心の底では反抗的な心持さへもつてゐた此先輩の俳人が思ひがけなく訪れて來て自分の目前にあると言ふ事は非常にもの珍らしい事の樣にも思へたし、孤雁子の語る物靜かな低い聲の底には深い感情といふものが流れてゐると言ふ事を直覺して、今まで考へてゐた此人に對する心持をもう一度考へ直して見た許りでなく房子の受け入れ易い心ははじめて親しく打語らう此の客人を非常な好意をもつて快よく歡待しようとするのであつた。三年前にはじめて房子は東京の婦人俳句會の席上で孤雁子に逢うつたのであるが其時はろくろく挨拶をする暇もなかつた。其後孤雁子の夫人で名の知れ渡つた俳人である柏さんとはずつと親しい手紙の往復をして來たのであるが、かうして九州旅行の歸途突然他の俳人につれられて尋ねられた事は全く意外でもあり、常々客などのめつたにない旅ガラスの侘しい住家に氣のおける未知の人々を迎へるのは非常に肩のはつたきまりの惡い事の樣な心持がした。彼女はそんな事で興奮してゐたが、かん高い聲で靜かにうけ答へしてゐつゝある彼女の、女としては線の強過ぎるはつきりしたアウトライン、段のついた高い鼻、道具立ての大きい顏は恰度塑像の顏面を眺めてゐる時の樣な硬い冷たい感じがするのであつた。

 孤雁子は約一月にわたる長旅に各地の俳句會や歡迎會などで毎夜の樣に遲く迄ひき出される體を、そこへ投げ出し度い樣に疲れ切つてゐた。それをかうしてかたくるしく坐つてゐるといふ事、口を動かしたり俳句の話などをするのでさへも、實をいへば面倒臭くて堪まらない。お互にもつと寛ぎ度い。直ぐにも辭し去り度い樣な心持に滿たされつつ彼女を前にして體を支へてゐる事に苦痛をさへ感じて來た。

 無口な銀川、泡浪の二人は、てんきり口を開く事をしないでシヤチコバツた形をして畏(かしこ)まつてゐるし、亭主役やら幹事役やらに來てもらつておいた公孫樹氏も一向とり𢌞したり、こせついたりしない型の人だつたので、皆離れ離れの寄せ集めの樣な心持を相持して、煙草をむやみにふかしてゐる許りだつた。もつと寛ぎ度い、何となくギコチない座敷の空氣を破り度いと、張り切つた心にかうすぐと感じた房子は此座敷をはづさうとする前にこんな事を言ひ出した。[やぶちゃん注:「てんきり」呼応の副詞「てんから」に同じい。]

「東京の里の母が暫らく滯在してゐましたがつい先き程須磨の姊の處へ立ちました。母を送つた私はすぐ行き違ひにあなたをお迎へ致しました。折角かうしてお出であそばしましたのに、私は今、あなたをお迎へ致した嬉しい心持と母を送つた淋しい心とでいつぱいに成つて、私の心でない樣に亂れてゐます」

何のためらひもなくすらすらと、かう言ひ終つた房子は大きい瞳をいつぱいに見開いて、視線をまつすぐに孤雁子の上へ投げかけて今の彼女の心の中にある感情を、そつくりその儘彼の前へさらけ出してしまつた。そして、今迄初對面の客達に對してゐるといふつくろつた心持を投げすてゝ、ひたとまむきな感じをかざり氣なしにつき出した彼女の目は悲しさと嬉しさと混亂した色に打沈んで前後の事情をよく知つた公孫樹以外のお客達を却つてますますギコチない妙な心持に導いて行くのであつた。默り込んで、房子の立ち去つた疊の邊へ目を落して考へこんでゐる孤雁子の前にやがて房子がすり足でお茶をはこんで來た。丸い束髮の大きい影法師を疊に落して、再びはこんで來た、朱塗の菓子皿の栗饅頭は、房子が坐らうとする時に積み重ねてあつた三つの中の一つがころげ樣としたのを、房子は、氣づいて、一度襖のかげに持ち返つて正しくなほしてから靜かに再び運んで來た。孤雁子は此の房子の行動を注意深く見てゐたやうであつた。さうかうする中にS市のMと言ふ若い俳人もやつて來て狹い座敷の中は再び紹介やら挨拶やらに打ち賑はつた。背がずんぐりとして、針の樣な硬い黑い髮を角刈にした、色艷のよい、油つこい顏のMが、洋服のポケットから手巾(ハンカチ)を取り出して額の汗をふき乍ら、明日のS市の句會の打合せや時間を極めたりH市の句會の話しが出たりして、世間なれた樣なMの態度は、大に此きゆうくつな場面をやはらげるのに效があつた。煙草の煙のうづ卷いてゐる灯の下でぽつぽつと、隔のとれかゝつた會話が交される。そこへ今度はS港迄房子の母を送つて行つた良三が歸つて來た。良三は手にしたバナナと葡萄の籠を妻に渡して來客の名などきいた後、白がすりの浴衣の上に羽織をひつかけて座敷に現はれた。良三は房子よりも大分年が上の樣に、一寸見には見えてゐたが一體にヒヨロリと細長い背の高い男で、細長い幅の狹い色白の顏は、子供の樣に紅く、耳の生え下りからアゴへかけてへりどつた樣な濃い、髭が白い顏の外ワクの樣にグルリと生え茂つてゐた。心の底に何物をも藏してゐない單純性をもつた、突きつめた心持のよい眞面目な心の持主である良三は體の細い割合に大きい筒ぬけた樣な山家聲を太いのどぼとけから出して、硬くるしい程眞面目な、ていねいな挨拶を一人一人にするのであつた。彼の髮の毛は漆の黑さと手入れのよい油のしみた艷々しさとを以つてきれいにわけられてゐた。[やぶちゃん注:実際の久女の夫宇内は六歳年上であった。]

 人數の殖えた座敷の中には今迄と達つた賑やかな、世間話や雜談がとりかはされてゐるのを襖越しに聞きながら房子は後れてしまつた夕飯の仕度にごそごそと取かゝるのであつた。そこはあの窓に面した三疊の一ト間で、うす暗い十燭の灯の下にあそんでゐた十になる長女と、四つになる女の兒とがお腹がすいたらしくシヨンボリ坐つてゐるのを見て、チヤブ臺の上で夕飯を食べさせたりその傍の古疊に栗色のお膳を並べて、皿や吸物のお椀、茶椀るゐを一つ一つ据ゑてゆく。房子は悲しいとも恥かしいとも言ひ樣のないわくわくと、耳があつくのぼせ返る樣な心持で空腹も覺えず子等の言ふ事もろくろく耳にははひらなかつた。何一つ出さうにも、チグハグで皿器具類はなし、手は足りないし、常にこんな幾人ものお客に食事を上げるなどゝいふ事のめつたにない貧しい中學教師のくらしで、馴れもせず、それに何より彼女の當惑したのは、お客樣はせいぜい二人か夫をまぜて三人前位の仕度をしておいた爲めに五人もの人數が殖えたといふ事は房子を非常に當惑させた。いつの間にか日は暮れて外には、先刻よりも強い雨が降つてゐる。風も少しはあるらしく、窓障子にサツと降りつける事もあるし下の兒はねむたがつて、「お母さんお布團しいて頂戴」だの「抱いて」だのとぐづぐづ言ひはじめた。使ひもない電話もない、どうしたらと、こんな事を思ふ丈けでものぼせ返つてしまふ樣な心持でつい子供達へお給仕をしてやる時も、お膳立てなどにわくわくして、カチカチと茶碗や器具の音をさせたり、手からお椀の蓋をとり落したりする。大聲もたてない樣に注意してゐる靜かな中にさういふ風なカチリとした大音を立てる度毎に、房子は自分の心臟が破ぶれる樣なハツとした心持がして人も見てゐないのに一人頰を赤らめたり、後れ髮をくせの樣に、そゝくさと撫であげてきまりの惡るさをおしかくす樣にするのであつた。座敷の次ぎの六疊と、此暗い三疊の臺どころに閉ぢられた襖がしばしばあけられて、上の女の子が菓子盆を運んで出たり、お茶を入れ替へたりした。粗末な菓子鉢の中にはさつき良三が持つて歸つた果物がもられてゐた。座敷の中の六人の人々に花ゴザ製の夏座布團は一枚不足してゐた。上の女の兒が三疊の襖をあけて出這入りする度に八疊の座敷の一番端じっこに席を定めた孤雁子のところからは、三疊のうすぐらい電氣にてらし出されてゐる黃色い古障子や、襖の陰からチヤブ臺の半面が佗しげに見えてゐた。房子の姿は障子の間からは見えなかつたがカチリと觸れあふ茶碗の音や、子供の睡むさうにすねる聲、房子がすかしてゐる靜かな低い聲、何かゞ煮えつゝある樣な漫然とした匂ひ、それから臺所の石疊の上をこつこつと步るく房子らしい下駄の音、こんなものが孤雁子のじつとうつむいて坐つてゐる、さうして何かを見知らうとしてゐる眼に狹い家の事とて、ひそやか乍らも、手にとる樣に古障子の中の灯の下から聞えて來るのをきいて孤雁子は淋しい佗しい感じにひしひしと胸を打たれてしまふのであつた。殊に、カチリカチリと、時時打ちあふ瀨戸物の堪へ難い佗しさをもたらす音が彼れの心を極度に暗くした。

 三疊の灯の下にごとごとと、三人前の御馳走を、五つの膳にもりわけてゐた房子は、襖をあけてはひつて來た良三を見ると、

「あのね、お客樣がふえて私どうしたらいゝでせう。今からもう遲くてまにあはないし」

とかう訴へる樣にさゝやくのであつた。

「何、僕のはいゝよ。どうせ我々の樣な教師暮しでは大した事が出來ないつて事も、道具のない事も孤雁子は御承知だらう、それより早く上げた方がいゝよ」良三は神經の過敏な妻が悲しげな潤んだ目付でみつめてゐるのをなだめる樣に言ひ捨てゝ外へ出て行つたと思ふと暫らくして四五本のビールをかかへて歸つて來て、自分でコップや栓拔やを乘せたお盆をもつて座敷へ出た。まもなく粗末な膳部が揃はぬ勝ちの器をのせて皆の前へ子供の手で運ばれた。房子は襖のかげ迄運んだまゝで座敷へは、良三と長女の昌子とが交る交る据ゑてゐた。三人分と定めてつくつておいた料理の中にはどうしても五つの膳に融通の出來ないものもあつて公孫樹と、M氏との膳部は、正客の孤雁子と銀川、泡浪等の膳の上程賑かではなく、ほんの三品ばかりにチヨクがついてゐるばかりであつた。主の良三はおしまひに自分の箸や猪口、一寸した食物を盛つた皿をのせた盆を、自身で座敷へもつて出た。さうして「さあ、いかゞですか。どなたもお一つ」とビールをつぎわけたりして主人らしく振舞つて皆にすゝめるのであつた。良三が此夏、三河へ歸省した時、土藏の長持から探し出して持つて歸つた、古い俳畫だの四郎の雁の幅。畫帳。こんなものがお互の手から手へ移されて色々な話の絲口がひつばり出されるので無口な公孫樹だの泡浪などの間にも今はもう寛いだ親しみが取交はされる樣になつた。三河と美濃との國境に近いほんとの山村に生れて育つて來た良三は子供の時から好きだつた山步きや兎追ひの話、山中の住居では今も行灯が古めかしく灯されてすゝけた天井や太い梁を暗ぼつたく色彩つてゐる事や、秋の山上のツグミの鳥屋(トヤ)の物語、矢矧川べりの簗(やな)小屋で尺餘の生き鮎を、竹串にさした物を、靑芝を土ごと長細く切り取つたのに突き立てゝ爐の火であぶつて食べる事やそれからそれへと移つて行つて、良三の好きな魚釣の事に話がおちていつた時、孤雁子は

「釣の上手な人には魚は喜んで釣られませう。あなたの樣な釣好の人の心は魚に感應すると云ふ樣な事ではないでせうか」こんな事をいひかけた。それから又、「釣の面白味と云ふのは其の釣るといふ境地を味はふ事にあるのでせうか」かうも尋ねた。[やぶちゃん注:「鳥屋(とや)」「塒」とも書き、専ら、食用にするためにツグミなどの小鳥を捕獲するために山野に設けた小屋のことを言う。「矢矧川」「やはぎがは」と読む。矢作川(やはぎがわ)とも書き、長野県・岐阜県・愛知県を流れて三河湾に注ぐ一級河川で明治用水などにも使られている。モデルである久女の夫宇内の故郷は愛知県西加茂郡小原村松名(現在は豊田市に編入)であった。]

「さうですな。僕は大きな魚がひつかかつた時が一番愉快ですな」大きければ大きい程一番面白味が深いといふ樣な事を良三はいかにも面白さうに愉快げに言つて、二三杯のビールにもうまつ赤になつた細長い首筋を撫でまはしつゝ糸の樣な目を一層細くしてハツハツハと笑つては、皆んなのコップヘビールをせつせとつぎわけるのであつた。かうした話の應對の間にも、孤雁子の耳は子供の聲、茶碗の音、などに相變らず何ともいへぬもの淋しい氣分を誘はれて、灯の下に淋しい心持で坐つてゐるであらう房子を心に畫き整はぬらしい不揃の器物、膳の上にあらはれた貧しい主婦の心づくしと苦衷、こうしたものをひしひしと、感じないわけにはゆかなかつた。孤雁子は生活と云ふものに房子程迫つた日常を送つてもゐなかつたし彼の尋ねて步るいたり泊つたりした家は皆その土地その土地での上の部に屬する人達許りだつたので客としてかう言つた侘しい心持を味はふのは之がはじめてゞあつた。それだけに氣兼ねしてゐる樣子であつた。三年前に東京ではじめて逢つた時の房子はもつと若々しくてたしかに今よりも美しいものをもつてゐた。それだのに孤雁子が此座敷で顏と顏とをあはした最初の瞬間に彼の受取つた感じは、以前よりも甚だしく淋しい荒んだ表情に變つてゐて、頰のあたりも、きはだつてそげてゐた。女としては比較的鋭どい頭を持つてゐて感情家らしい彼女の性格や畫家の妻であるといふ藝術的な生活や、それから彼女が子供の時から移り住んで行つた樣な土地の變化から來る南國人らしい性格、俳句にあらはれた偏した性格、さういふ風なものに興味をもつて、九州旅行の歸路をわざわざ立寄つた(彼れはこの家の敷居をまたぐ迄に、房子の境遇は大變幸福な呑氣なもので、地方での舊家で山林や田畑などをもつてゐると聞いてゐる良三の田舍から、補助でもうけてゆつたりと暮してゐるのだらうと許り思つて來たのである)。ところが彼女の家には何一つ道具らしいものはない。路次とも肥料汲みの徑ともつかない狹い道の奧荒壁ぬりの小家に住んでゐる。そして彼女はまだ三十になつた許りの顏にやつれを見せて、井戸水を汲んだり竃の下を焚いたり、時には野菜風呂敷をかゝへて外出もするであらうし、重い子供をおんぶ羽織に包んで買物する時もあらう。流行におくれた着物や帶に身を包んでゐながらもむかしの氣品を落さずにゐる房子、文藝といふものに理解を持つてゐつゝ尚ほ貧しい家庭の間もゆるがせにしないで行く妻と、日曜には必らず魚釣に出かけて畫家にして畫をかゝない、しかし乍ら妻の趣味なり心持なりを理解してやつて家事の手傳をもしてゐるらしい善良な夫と、かう比較しても考へたり、目の前の暗い古障子のかげに坐つてゐる房子の柁しい姿を心に浮べ、菓子一つ買ひに行つた事もなく生活の苦痛をも知らぬ自分の妻や、孤雁子の俳句の弟子である實業家として名の高い某氏の夫人何女、のんきに句作してゆける東京の女流俳人の誰れ彼れ、そんな人達を一々房子の境遇に引き較べて孤雁子の頭は樣々な瞑想に陷ちて行つた。雨の音が靜まつて濕つぽい屋外の空氣が軒のかぶさつた靑桐の葉を透して靜かに室内へ流れこむ。灯の下の人々は互に談笑しつゝ先程迄のギコチない空氣はすつかり取り去られてしまつてゐたが房子はまだ座敷へ出て來なかつた。三疊のうす暗い光りのもとにぐづぐづ云ふ子を賺し隅つこの布團に二兒とも寢せてしまつた彼女は布團の裾の方にこゞむ樣に坐つて、高聲で八方へ受け答へしつゝある良三の聲も、靜かな落付た孤雁子の話し聲も遠い遠い世界の物音を夢の樣に洩れ聞く心地がした。[やぶちゃん注:「三年前に東京ではじめて逢つた時」久女の句は大正六(一九一七)年一月号の『ホトトギス』の「臺所雜詠」欄に初めて載ったが、その五月に初めて高浜虚子に逢っている。この時、零余子が一緒だった可能性は高い。因みに当時の久女は満で未だ二十六、七であった。]

 唯恐しさと恥かしさとでふやける樣に成つてゐる彼女の心はしんみりした雨の音に誘はれて、今日一日の出來事を走馬灯の樣に思ひ浮べる。今頃はもう周防の平野邊りを馳つてゐるらしい汽車の窓の母を思ひ出すと、折角あゝして東京から六十七にもなる老體を運んでまで娘に逢ひに來てくれたのに、今夜のお客を待つ爲めに送りもしなかつた事。手のない忙がしい夕餉をそこくにすまして出發(たた)せてしまつた母の、ポプラの並木を步いて行く切髮の後姿。房子を悲しませまいとわざと元氣さうに、口許に笑をふくみ乍らも落込んだ目の中をうるませて別辭をのべて乘り込んだ母を、忽として堤のかげへ乘せ去つた幌俥。今日のお客にと云ふので、立ちぎはの母はアベコべに手のない房子に手傳つて女郎花を活けてくれたり、手づから庖丁をとつて今夜のお料理迄煮たきしてあとの困らぬ樣にしておいて下さつた。あんなにもう年寄つていつ死んでしまふかもしれず、またいつ逢へるかといふのに、送られなかつた事を房子は幾度考へても心の奧から殘念に思ひ、かうした物質上に豐かでない日常の有樣を貧乏馴れない里の母に見せつけて、母を何となく遠慮がちな心持に始終置いたことをすまなく思ふ心でいつぱいだつた。房子は皺の殖えた瞼の落ち込んだ母の顏を腦裡にしつかりゑがいて、色々でまぎれてゐた別離の悲しみをかうした獨りぼつちの今、甦る樣に痛切に覺えるのであつた。それと同時にも一つは、今日の珍客へ對して心いつぱいの饗應(もてな)しも出來ない許りか二人と思つたのが五人に殖えてまごついたり、座敷と臺所とが接近してゐる爲めに色々な物音が客の耳に侘しく聞えたりする事を、割合にふつくりと鷹揚に育てられて氣位ばかり高い、世馴れぬ房子には、それはそれは心細く氣恥かしく感じて自分の役にたゝぬまごつき樣も、長い間狹い穴の樣な家と境遇とにおかれて廣い世間と沒交渉で渡つてきた事から起る、かういふ場合のへマなさまざまのしくじりも皆つきつけられる樣にはつきりと感じて、腹立しい何ともいへぬ淋しさに捕へられてしまふのだつた。何よりも先づ彼女は、所帶といふものを持つてから十年近い今日迄に、こんなに貧しい者のみじめさを突きつけられた事はない樣に一圖に思ひ込んで、佗しい茶碗の音なんかを立てたりして折角の客人に貧乏臭い哀つぽい感を抱かせるであらう事を鏡の樣に自分の心に寫し得るのが一層辛らかつた。こんな思ひに耽りつゝそつと起き上つて燗を仕樣とするとどうした事か硝子の燗瓶の底がぬけて琥珀色の酒は一滴のこらずに、七輪の炭火を消して灰かぐらとなつてしまうたので、まあ何と云ふまの惡い、そゝつかしい事だらう。使はなし町は遠し澤山もとつてない酒をこんなにしてしまつて、房子はもう悲しいやら情けないやらハツと泣き出したい樣な心持でぼんとしてしまつた。もし之が自分のお客樣でなかつたら雨のふる外へ此儘逃げ出して、冷たい雨を頭からあびつゝかけまはり度い樣な、やるせない氣になり切つて暫くは目も動かさず疊の上へへたばつてしまつた。鷹揚に呑氣に十九の年迄そだてられて、振袖ざんまいで三河の山奧へ嫁して行つた房子は馴れない貧しい教師生活に喘ぎつゝも、一文の借金もせず持つて行つたキモノは皆着破つて辛抱しつゞけてきたが、いつ迄も世話女房らしい氣分になりきれない彼女は母の袂のかげに包まれかくれては過してゐた處女時代の樣な心持で今夜の樣な、世馴れた女には何でもない失敗である場合にも唯恥かしがつて、頰をそめたり、淚をこぼしたりするのであつた。恰度そこへ良三がはひつて來て「僕一人でおとりなしをしてゐては具合が惡いから房さんも出てくれないか」と引き立てる樣にいひすてゝまた座敷へと去つた。淚ぐんで默つて閉ぢられた襖を見つめてゐた房子はやがて氣を取り直して、三疊の隅に出し放してあつた夕方のまゝの鏡臺にむかつて、髮をかき上げたり、紛おしろいの刷毛で、うす紅く脹れた瞼をさつと一刷毛はきつけたりして漸く座敷へ出ていつた。[やぶちゃん注:底本では「またいつ逢へるかといふのに、送られなかつた事を」の「送られ」の右に編者によるママ注記がある。「ぼん」馬鹿者・間抜けの意の方言と思われる。山口県で用例がある。福岡弁では「あんぽす」「あんぼんたん」がある。後者が濁っているのはここと親和性があると私は思う。]

「こんな茅屋(あばらや)へいらして下さいました事を私はどんなに嬉しく思つてますでございませう。嬉しくつて一生懸命におもてなし申上度く思ひ乍ら私の貧しさは、何一つ差し上げる事も出來ません。お詫にはどうぞこれを御覽あそばして」

 かういつて一枚の紙片を孤雁子の前へさし出した。彼女の顏にはもう淚は消えてぼうつと上氣したうす桃色の頰に惱ましげな微笑さへたゞよつてゐた。今迄つくろひ包まうとして恥かしがつてゐた貧しさを皆の前へ殘りなくさらけ出してしまつた後の、心安さと落付とで房子は、先きの心持とは異つたはつきりとした興奮した心持に成つてゐた。孤雁子が紙片を取り上げて見ると珍客に對して香りのいゝ酒もさし上げられないといふ佗しい心持を詠つた句が、打ち崩れた樣な散漫な字體でかいてあつた。孤雁子は默つてじつと見つめてから次席の銀川へ渡す。こんな目の前の事が一層房子には恥かしかつたが、もう現はれる處迄現はれつくした貧しさも今は氣樂に話す事が出來る樣に思へた。陽氣な房子の夫の話し聲に交じって、房子の興奮したかん高なやゝかすれた聲がとりかはされて俳句の話から話題は次第に房子の身の上話に移つて行つた。彼女は今はもう一座の中心となつて一生懸命にしやべりつゞけた。彼女は一事を語りをはらない中に早や次の話題へ孔雀の尾をひろげた樣に移つていつて、感情がたかぶると限りなく話を進ませてゆく。彼我の説を一丸にして話をまとめたり崩したりする、色々な事を根ほり葉掘り聞きたがる。

「私は俳句をやめ樣と今迄に何度思つたか知れません。本をよむ時間も研究する暇もない私には唯十七字をつくると云ふ事丈でも容易な事ではありません。私の樣に年中苦みつゞけて生活してゆく者には自分の刹那刹那の感情や思想をそのまゝ表現の出來るものは詩なり歌なり創作なりでなくては、生意氣の樣ですがとても自家の心持を述べつくす事も滿足する事も出來ません。俳句ではさういふものを作つて見ても不完全なものが出來易い。でも時間と餘裕のない私には、お野菜を下げて步いてゐる時とか、子供を守(もり)する時とかの少ない時間なので長いものは書けませんから俳句でも作つてわづかに滿足してなくてはなりません。色んな苦惱の爲めに胸がいつぱいになつてもの狂ほしい樣な淋しい心持におそはれる時、私は、強い明るい色彩、高調な張りきつたものがほしくなつてまゐります。灰色のものや穩かな弱い、力ないものでは私は、苦しい悲しい私は、到底滿足出來ないのです。ですけれど俳句は進めば進む程、わからなく迷つて來ました。私は何度俳句をすてゝぼろつぎでもしたり、破れた足袋穴の一足でもついだりする事が私の樣な身分の者には相應してゐるか知れないと考へたか知れないと考へたか知れませんけど、やつぱりやめられないで、苦しみつゝ句作して居ります」彼女は燒ける樣な打ち迫つた調子でたぐり出す樣に語りつゞけるのであつた。

「それでもあなたは、句作したり時々畫を書いたりなさる時間があるではありませんか」と孤雁子は雜誌などで見た二三の短い文章について尋ねて見た。

「いゝえ。文章はいつも夜中に起き出したりして書いたのでした。それでなくてさへ働き馴れない手の足りない事を考へますと餘裕はすこしもありません。けれども文藝を捨てゝしまつた後の私はどんなに淋しいでせう。私は物質的には何ものをも持ちません。私は社會的にも精神的にも孤獨です。ただ拙ない俳句を生み出す事によつてのみ小い自分を創り上げ度いと願つて努力してゐるのですが………」かういつて言葉をとぎらせてしまつた房子の顏には熱し切つた赤い血がサツと漲り走る音迄もきこえるかと思はれる許りに熱し、左の上唇は痙攣的に引つ吊つた樣な表情となつて目は大きく靑く燃えてゐた。頭は白熱的に灼れ、積極的に何に事もつきつめて行かうとする勢ひ、底深い淋しみを徹底的に見極め樣とする心持、性格と境遇との矛盾、其他樣々な書きつくせない精神的な惱みを語る時の興奮した態度にひきかへて、物質的方面の話しに移つてゆくと彼女の靑い目は幽欝な沈んだ色にとぢこめられて、少しも氣勢が上らない。子供を育て家事をとつてゆく貧しい一般的な妻の心持、さういつた境遇をあきらめるといふ心持にどうしても到達する事の出來ない彼女は、いつ迄たつても、今の自分に滿足し樣とはせず、或時は個性を曲げつけて迄も自分を引き下げ樣と無理無體に自分をしひたげて見樣としたり、或時には、のべつに刈り込まれ樣としてゐる自分といふものを、何物の拘束をもおそれず暢ばせる丈けのばして見たいと強い心になつて見たり、どうしてもあきらめられなかつた。迷惑さうな顏付をして坐つてゐた良三は、

「私の妻は油畫をすこし書きますが實にいゝ色を出す事がありますよ。然し畫いてゐる自分自身にそれがいゝのか惡いのか解らなくつて批評なんかすると却つていゝところを塗りつぶしてしまつたりします。どこかに感じのいゝ獨創的なところはありますがどの繪もどの繪も未成品で取留めがないのです。房子の俳句もきつとそんな風な程度のものでせうと思ふ」と橫合から房子の話をかきまはす樣にこんな事を孤雁子に話すのであつた。話はいつか彼女が書いた短い文章の中の幼兒の事に移つて行つた。房子は突きつめた樣な目色をじつと疊におとして、熱した一語一語は日常の彼女の聲とはまるで違つたうるほひを持つて音樂の樣に響いてきた。今はもう隔ても全くとれてしまつたので、日頃人とあまり語つた事のない心の底の泉が湧き出る樣にその赤い厚い唇からはぐんぐん彼女の惱みと淋しみとが言葉となつてあふれ出るのであつた。

「私は鹿兒島の平の馬場と云ふところで生れました。それは五月の末で、あのまつ白な夏蜜柑の花がもうい小さい實になつて紫陽花の藍色の花があの町の到るところに咲き初める頃でした。さうして三つの年に、大地震の後の大垣へ父が任命されたので私共一家は引移つて行つた、それからと言ふもの私の運命は南へ南へと移つていつてあの絶海の孤島そこには龍宮の樣な王城と、灰色の厚い霧と、毒蛇と、紫の雲の樣な栴檀の花がちつてゐるせいの高い石垣をめぐらした榕樹の屋敷町、碧玉の色をした海。かうしたなつかしい記憶を刻みつけられた琉球に幾年かを住み、それからまた鱶の海を渡つて、芭蕉林と赤い花とに包まれてゐる臺灣の南部へも、領臺後まもなく私達は、父に從つて行つたのである。そこではまだ鐵道もない、或時には土人の駕にのり、或時にはトロッコにおされて、何里もに渡つたごろごろ石のやけつく樣なかわいた河原を、果しない雲の峰をながめつゝ走つた事もあり、或日は橋の落ちた濁流を土人のカゴカキに負はれて渡つたり、色のつよい明るい芥子畠を打過ぎたり、ずゐぶん子供心にも旅から旅へとおそろしい人少ない土地へ步るきまはつて行つたりして私の生來の多感な偏した性格は猶更らこんなに淋しい惱ましいものとなつてしまつたのである」こんな幼ない時の追懷を彼女は、熱心に物語つた。呑みかけたビールのコップを膝の上に支へられたまゝ目をつぶつた樣に、じいつときいてゐた孤雁子は、話のとぎれた時に、顏をあげて、「あなたはおいくつの時から大垣へお出ででしたか」と熱心な樣子で聞くのであつた。[やぶちゃん注:久女は明治二三(一八九〇)年五月三十日に父赤堀廉蔵、母さよの三女として官吏であった父の任地であった鹿児島県鹿児島市平(ひら)の馬場(現在の鹿児島市の中央部である鹿児島県鹿児島市平野町)で生まれたが、その後、父の転勤で久女四歳の時に岐阜県大垣へ、翌年辺りには沖繩県那覇市へ、明治三一(一八九七)年には台湾の台北へと移り住んでいるから、ここに書かれた内容は全くの事実と捉えてよい。「大地震」明治二四(一八九一)年十月二十八日に濃尾地方で発生した日本史上最大の内陸地殻内地震である濃尾地震のこと(現在の推定ではマグニチュードは八・〇程とされる)。「栴檀」ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach 。言っておくと、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく、ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン(白檀)Santalum album を指すので注意されたい。「榕樹」精霊キジムナーの住むとされるバラ目クワ科イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa のこと。]

「私は三つか四つか、はつきりした事は覺えません。ですけれどもそれは大地震のあつた二年ばかり後でまだ參りたては、晝夜に何回となくおそろしい地震がありました。私はそのたんびに母の足にしつかとまとひついて泣きました」と房子は緊張した表情で答へた。

「さうですか、不思議ですね。私も子供の時、さうですね三つから七ツ位迄を大垣にゐた事があります。私は地震の起つた年の春頃、大垣を去つて國の方へ歸りました」孤雁子は眉間に立て皺をよせて思出深さうに瞬きながら語り出した。美濃の大地震を境として今こゝに相對してゐる二人の人達が大垣に住んでゐたと言ふ事は何となく奇異な興味深い事に思はれて、一座の人々は二人の話しに耳を傾けて居つた。孤雁子と房子の話は大垣を興味の中心として次第に水輪の樣に擴がつてゆく。

「私は幼い時でよく覺えてませんが、何でも、大垣小町とか名づけられてゐた美しい娘が兩腕を梁の下に組敷かれて不具乍らも命丈けは助かつた事だの、大きな龜裂(ひび)割れた大地へ呑まれる樣に人間ぐるみ陷ち込んでしまつた家の話だの怖ろしい事許り母から寢物語に聞かされました」房子のかういふ話に續いて、「私の住んでゐた家のあとに來た人達も地震に押し潰されて全滅してしまつたさうです。私達は堤に振つた竹藪のある家に住んでました。そこいら邊には泥龜が澤山ゐて、私はよく繩で縛り上げて父の飮殘したお酒を無理に口へつぎ込んだりして遊びました。それから又私には一つ違ひの聲の美しい妹がありましたが妹は五つの年に三日許り病(わづら)つて死んでしまひました。それは恰度お正月前で、仲よしの妹と私はいつも門の前の日當りのいゝ草の上なんかに坐つて『もういくつするとお正月が來る』なんて二人で幼い心持にいつぱいの樂しみを抱いて遊んでゐたのがふつと死んでしまつたのです。今でも大垣で妹とうつした古ぼけた唯一枚の寫眞を私は取りだして妹の事を思ひ出します」

 疊に目を伏せてゆつくりと低い音聲で語りつぐ孤雁子を理智一點張りの鐵の樣な心持の人、淚のない人といふ風に解してゐたがさうした話の中にも感情といふものがサツと浮かび出すのを見得るのであつた。此座敷には入つて來てから一度も聲を立てゝ笑はない、じいつとものを考へこんでゐる樣な無口な、山國の血をうけた人らしい此客人孤雁子を、房子は理性の底に深い感情を包んでもつてゐる人らしいと考へて見た。

「私達もあの河堤(かはづつみ)に住んで居りました。私は大垣といふとすぐに曼珠沙華とれんげと狐とを思ひ出します」と房子は遠いむかしの記憶を引よせる樣なうつとりとした目付で次の樣な話をした。懸命に續けた膳部だのビールの瓶をのせたお盆だのはもう綺麗に次の間へとりさげられてゐた。雨はいつの間にかやんだらしく此畠中の一軒家は靜かに更けてゆく。小いマジョリカ燒の灰皿はすひ殼でいつぱいになつてゐた。

「私は兄妹中で一番大きい鈴の樣な瞳の持主で、怒りつぽで、我儘で、そのくせ泣きむしな女の兒でした。私が一處にまゝごとでもして遊んでゐる時、強情を張つたり我儘言つたりすると、

『房ちやんはお母樣の子ぢやないのよ。明神さまの森(鹿兒島の)に捨てられて、オギアオギヤつて泣いてゐたのをお母樣が、お星樣のいつぱい光つてゐる暗い晩にひろつて來て育てゝあげたのよ』つて、兄や姊はよくからかつたものです。

『なあぜ?』と私が首をかしげると、

『だつて房ちやんの樣な大きな黑い目は家中に一人もゐないのだもの』

 こう言はれると私はそれがほんとの樣な氣がして、ぽろぽろと淚をこぼし乍ら、『うそようそよ』とかぶりをふるのでありました。私がかぶりを振るたんびに、ふさふさしたおかつぱさんの髮がばさりばさりと頰にあたる。私はほんとに心配して明神樣の森に捨てられてゐたかどうかを母に聞きたゞすのでした。堤の上の其家は郊外に近うございましたので毎日の樣に、私達は低い草山に遊びに行きました。其草山の處々にはまばらに松などが生えてゐましたが、足許をみつめて步いて行く私の目に水々しい土筆が、時々ひよつこり現はれる。そこで、

『まあお母さん、姊さん。房子の目は大きいから一番先きにつくしんぼが見つかつた』

 そんな時の私の頰には輝いた微笑が刻まれます。そして目の大きいのをどんなに心嬉しくも誇らしくも思つた事でございましたらう。それから又あなたは御承知かどうか知りませんが秋の彼岸の頃にこの草山にまゐりますと曼珠沙華の深紅の花が、葉も何にもない、孤りぽつちの樣に長い莖をぬきんで、淋しさうにぽつんぽつんと咲いてます。あの曼珠沙華の焰の樣な色と、不可思議な糸の樣な花辨とは羽子板の押繪なんかで見る、びらびらの簪をさした振袖のお姫樣の裾にもえてゐる狐火を思ひ出させるのでございました。實際にあの邊には狐が多かつたのでせうか。私は度々狐を見得たのでございませうか」

「紫雲英の紅でぬりつぶされた樣なたんぽゝを、摘んでは束ね束ね步いてゐると、まつ白いれんげが時々めにはひりました。

『白いれんげは狐の簪よ』

 幼な友達にかう囁かれて、私は摘みかけた手をひつこめてしまふ。かうした白い紫雲英の印象から得たまぼろしなのか」

「麥の穗がうれて淡黃色の光りの波を漂はすその中から、狐の尖つた顏がひよつこり目の前に浮き上つて房子をじいつと凝視(みつめ)て直ぐまた麥の浪に沈んでしまひました……」

「あれはほんとの出來事であつたのでせうか。それとも幼い私の幻覺が、蜃氣樓の樣に築き上げた眞實でせうか」房子は、こどもの樣に首をかしげて、皆を見まはし乍ら、そんな事を孤雁子に話した。「よく覺えてお出ですね。私は狐の事は、覺えがありませんけど、曼珠沙華や紫雲英は思ひ出しますよ。あなたが御遊びになつた山かどうか判りませんが、私の住んでゐた家の裏の方の山では鐵道の敷設工事が始まつてゐて、毎日鶴嘴を打ち込む音が聞かれました。そしてやつぱり秋になると掌(てのひら)の筋を血でそめたやうな眞紅(まつか)な曼珠沙華が雜草の中に一面に咲いてましたつけ」と孤雁子が言ふと「曼珠沙華は、私共の國の方ではほして何かの藥にしますよ」「感じのいゝ花ですな。僕はどういふわけか、友切丸か何かで切りつけられた土蜘妹の精が地にひいて逃げていつた血潮の痕から咲き出た花。と言ふ樣な妖怪めいた感じをあの花から受けますがね」傍から二つの聲がかちあふ樣に放たれた。[やぶちゃん注:「曼珠沙華は、私共の國の方ではほして何かの藥にします」古来、彼岸花はその毒を以って堕胎薬とされた。私が嘗て書いた「曼珠沙華逍遙」という記事を紹介しておく。]

「あなたは日比野のお孝さんといふ人を御存知ありませんか」孤雁子からかう聞かれて、

「私は其頃まだやつと四つか五つ位ゐだつたものですからよくは存じませんけど、お孝さんといふよそのお姊さんは一人ありました。その人は何でも色の淺黑い目の大きいしつかりとした顏立の人の樣に覺えてますけど、違ふかも知れません」と房子は、癖の樣に額髮をかきあげながら答へた。

「日比野のお孝さんはお母さんとたつた二人でひろいひろ家に住んでゐました。慥か御家老の家筋でした。私はお孝さんに可愛がられて毎日の樣に遊びにいつたり泊つたりしてました。快活な人でしたが細面ての綺麗なすらりとした人の樣に私は覺えてゐます」と孤雁子が言つた。

「たしか私の姊のお友達でした。大洪水(おほみづ)の出た時姊とお孝さんとが、塀に寄せてつないであつた小舟に乘つて遊んでゐて、どうしたはづみにか二人共落ち込んで大騷ぎした事を私はおぼろげに覺えてゐる位のものでございます」

「その兩方のお孝さんが全く同一の人で有つたとして、あなた方の中の一人が大垣に行かれて年寄つたお孝さんと、さういふ風な追懷談でも出るのだと、立派な小説になりますね」無口な公孫樹が、團扇の柄をいぢくりながら、面白さうに、下ぶくれの福々しい長い頰でにやにやと笑ひつゝ橫槍を入れた。

「ほんたうですね。かも知れませんわ。遊び友達のことをおつしやいましたので思ひ出しましたが大垣といふ處は鼬の多いとこでございますね」と房子が白い齒を出して笑ひながら言つた。

「さうですかなあ。私は細かしい記憶はあまりありません」孤雁子は相變らず靜かな低い聲でうつむきかげんにぽつつりと受け答へをする。いかにも疲れたといふ顏である。それだのに房子の方は輝いた目付、話亢つてやゝ上氣した仰向けの頰。かん高いすらすらと湧き出す樣に手まねをまぜたおしやべりすべてが孤雁子の容子と此の場合全然相違した對照を、並らべて眺めてゐる他の五人の人々は、興味深かさうにのつぺりした顏や、退屈げなしびれの切れた樣子、四角い顏や酒の醉が發してしきりに睡魔のおそふらしい細い目付や、苦蟲をかみつぶした鍾鬼樣見たいな顏やを灯の下にならべあつて互に押しだまつて聞いてゐる。房子はそんな事には一向おかまひなしに、色濃く押しよせて來る潮の樣な思出を尚ほもつきせず押しすゝめてゆくのであつた。[やぶちゃん注:「話亢つて」「はなしたかぶつて(はなしたかぶって)」。]

「其頃やつと步み初めた許りの弟が居た私は毎日の樣に『河野の叔母さん』とこへ遊びに行きました。其途中でいつも私は茶褐色の鼬が行く手の徑をすばしこく橫ぎつて藪に走りこむ、そのとたんに、ずるさうな目付で私の方をチラと見る。そんな淋しい細道を通らなくてはならなかつたのです。河野の叔母さんには子供が無かつたので私はよく叔母さんのお家に寢泊りしてゐましたが、そこは、銀杏の樹が覆ひかぶさつた古家で、秋も末の夜なんか風がない夜でもサラサラサラサラと限りもなく銀杏の散る音が屋根となく庭となく此家のすべてをつゝんでしまふ。幼い私は此銀杏の散る音をきくと堪まらなく悲しくなつて、『叔母さんとこへ泊り度い泊り度い』と寢床の中に坐つては泣き出すのでした。そんな時、叔母さんはきつと、私を抱いて厠へ行く緣側の戸を一枚くつて、

『あれを御覽なさい。向うの方に赤い灯が澤山見えるでせう。あれは狐のともすお提灯ですよ』と指さす。まつ闇らな田圃の向うの、あの曼珠沙華の小山へ續いてゐる道の方に黃色を帶びた赤い灯が二つ三つ。動くともなく動いてゐる。目の前には大銀杏が私をおびやかす幽靈の樣に黑く聳えてゐました。私は、其まゝじいつと目をつぶつて、叔母さんの寢衣の胸に顏を埋めて、靜かに背を叩かれながら、いつのまにか夢に入つてしまふ。[やぶちゃん注:「サラサラサラサラ」は底本では「サラ」の後に踊り字「〱」、その後また正字で「サラ」として再び踊り字「〱」の表記となっている。私は個人的に五十九になる現在までこの踊り字「〱」「〲」を自分の自筆の文章で用いたことは一度もなく、生理的に嫌いなのであるが、今回、ここに限っては「限りもなく銀杏の散る音が屋根となく庭となく此家のすべてをつゝんでしまふ」その音を表わすのに踊り字は効果的だ、と強く感じた。]

 それでも、こりずに、よく泊りに行つたものでございます。舞扇の樣な銀杏の葉が濕つたお庭に散り敷いてゐる中に、私はかゞんで襞のとつてある油やさんに、銀杏の葉を拾ひ入れたり、銀杏の實を燒いてもらつたり、私の大好きな、きんちようゐんのお饅頭をもらふのが何より嬉しうござんした。大垣について、一番私の悲しい思出は、弟の大怪我でございます。あれは丁度日淸戰爭の頃で、福島中佐(其頃の)が馬でシベリヤを橫斷された雙六を私らは買つて頂いたり、女中に連れられて、兵隊さんの汽車の盛んな送迎を見に行つたりしました。[やぶちゃん注:「油やさん」「油屋さん」で油屋の商人の前掛けに似ていることから、幼児の首から腹まで覆う一体になった前掛けを言う語。「あぶらいさん」「あぶちゃん」とも呼ぶ。「きんちようゐんのお饅頭」大垣名物の「金蝶園(きんちやうゑん)のお饅頭」の誤りであろう。岐阜県を代表する銘菓である。「金蝶園総本家」公式サイトの金蝶園饅頭ページをリンクさせておく。「福島中佐」陸軍軍人福島安正(嘉永五(一八五二)年~ 大正八(一九一九)年)のこと。最終階級は陸軍大将で情報将校。ウィキの「福島安正によれば、明治二五(一八九二)年、『冒険旅行という口実でシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、エカテリンブルクから外蒙古、イルクーツクから東シベリアまでの』約一万八千キロを一年四ヶ月『かけて馬で横断し、実地調査を行う。この旅行が一般に「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。その後もバルカン半島やインドなど各地の実地調査を行い、現地情報を参謀次長』らに報告している、とある。]

 それから後弟は高い處から落ちて、虛弱(かよわい)心臟や肺を叩きつけたのが原因(もと)で全く病弱な者と成つてしまひました。そして明治三十年の夏、父が領臺後まのない嘉義へ赴任して行くと直ぐあちらの淋しい病院で、六つで死んでしまつたのです。あれから最う二十何年かたちました。私の實家(さと)にも大垣でうつした色のあせた寫眞がたつた一枚大事にしまつてありまして、弟の面影を朧氣乍らも偲ばれるものは今はもうあれ許りでございます」[やぶちゃん注:「嘉義」中華民国台湾南部に位置する現在の嘉義市(かぎし)。ウィキの「嘉義市によれば、一八九五年(明治二十八年)の『下関条約により日本に割譲された台湾では、台湾総督府によりたびたび地方改制が実施された』が、一九〇六(明治三十九)年の嘉義大地震によって、『清代に建築された県城は東門を除いて全壊する。災害復興に際し総督府は都市計画を実施し新生嘉義市の建設に力を注ぐこととなる。近代都市として再生された嘉義市は商業及び交通の発展により、南部地域の中心都市としての地位を確立することとなった』とある。]

 かう長々と語り終つた房子の目には、淚が光つてゐた。孤雁子は默つて低い溜息をついた。共通點の多い幼時の大垣の話。殊に夭折した互の弟なり妹なりの淋しい物語りを繼ぎ合して考へて見た孤雁子は何となく傷ましい樣な心持がいつぱいに擴がつてゆく樣に感じるのであつたらう。他の者も皆押し默つて坐つて居た。次の間の柱時計はもう十二時をさしてゐたがワザと停めて有つたので鳴りはしなかつた。

 布團も何もない狹いこゝの家に三人の客を泊める事は出來ないので今夜は三丁許り隔てゐる公孫樹(ある病院のお醫者さん)の家へ皆な泊まる事に相談をきめて、公孫樹は用意の爲め一足先に歸つて行くしMも暇乞して立ち去つた。夫れから小半時して、細長い提灯をぶらさげた良三は三人の先に立つて並木道を送つて行くのであつた。雨はもうすつかりやんでしまつて、まつ黑い空、ポプラの並木の上にはまき散らした樣に銀河が橫はつてゐた。バスケットや鞄は房子の家へ明日の朝迄あづかる事にして、明日の句會の御約束などをしながら三人の俳人連は、着た切りの手ブラで、手拭一つ持たずに房子の家を辭し去らうとする。房子は座敷の電灯の紐を玄關迄のばして來て、暗い門口を照らした。濕つた砂地をサクサクとふみしめつゝポプラの並木を拔け樣とする三人の耳に、ぽとりぽとりと、まを置いて葉をまろび落ちる雨上りの露の、地上をうがつ音のみが夜更けらしい靜寂な響をつたへてゐた。良三のさげてゐる提灯の口の輪が、覆ひ被さつたポプラの濡れたまつ靑な葉の塊を次々に明るく色どつて、木の根の潦にチラチラうつつたり、黍畠の長細い葉をハガネの樣にギラギラと照し出したりするのであつた。一人八疊の座敷に取り殘された房子は、飮みさしの茶器だの吸殼の溜つた灰皿だの、座布團だのが亂れたまゝの其中にぐつたりと坐り込んで、其等の貧しい器物と乏しい食物を眺め乍ら魂のない人形の瞳の樣に冷めたく見開いた、硝子玉の樣な動かない瞳色(めいろ)であてもなく灯をみつめたまゝ淋しい感情に浸されて、靑ざめた頰を無意識に兩手でおさへつけてゐた。さうして靑い冷めたい瞳からぽとりぽとりと大粒の淚が止め度もなく頰を流れては頰から膝にしたゝり落ちた。それは自分を憐れむ情と客に對してブザマな自分の仕打を激しく責め苛む羞恥の念と、曝露され突きつけられた我が生活の貧弱さ、みじめさに對して我れと感じる呪はしい侮蔑の感じ、壓へ樣壓へ樣と努めてもあきらめきれない運命といふものに對しての憤懣。そんなものを撚り合はした心持が渦卷く樣にいつぱいに、硝子の樣な透きとほつた、刃の樣に冴え切つた頭の中に氾濫するのであつた。良三が畠をぬけて歸つて來て戸口をしめたり、吹き消した提灯を三疊の壁に掛けたりごとくするのに氣付もせず房子はいつ迄もくじつと動かずに物思ひに耽つてゐるのであつた。

 

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