オリンピックより魚の誘致 梅崎春生
四つの島に人がひしめき合い、やがて一億を越そうとしている。それらがレジャーブームに乗って、精力的に右往左往するから、どこへ行っても人影の見えない地帯は、ほとんどない。日本全土が箱庭化するのも、時間の問題だと前号に書いたが、戦後なぜ急激に人口がふえたのだろう。
曰(いわ)く。予防医学の発達普及。栄養補給の強壮剤。原因療法剤としての抗生物質の発見。その他の条件がつみ重なって、人間はなかなか死ななくなった。乳幼児の死亡率も激滅した。ふえるなと言っても、ふえるのは当然のことだろう。
昔、徳川時代までは、ふやそうと思っても、ふやすわけには行かなかった。食糧が限定されていたからである。日本中で生産する食糧が、二千万人分ときまっておれば、人口は二千万を越せない。越すとその分だけ、皆の分がへってしまうのだ。
今は鎖国時代でないから、輸入その他によっておぎないはつけられるが、原則としてはその関係がまだ働いていると考えられる。
主食としての米や麦。副食物として野菜、果実、牛豚鳥(卵や乳製品)、それから海や川の魚類。以上のほとんどが、品種改良、農薬の発達、飼育方法の改善などで、生産が飛躍的に上昇したが、魚類の方だけはほとんどそれがなされていない。
何故だろうかと思う。
昔は海に魚がうようよいて(今でもうようよいることはいるが)ちょいと岸から、あるいは舟をこぎ出せば、いくらでも取れた。飼育したり、品種改良したりする必要はなかった。だから日本人は、フィッシュイーターと呼ばれるほどもりもりと魚を食べ、蛋白源として愛用して来た。
何だか話が大上段にふりかざした調子になって、申しわけない。
つまり、私は魚が大好きなのである。豊富な種類の魚を安い値で買い、たらふく自分も食べ、他人にも食べさせてやりたいと、いつも思っている。
ところが今魚屋に行くと、決して魚は安くない。食えない部分、頭や骨や鱗(うろこ)や尻尾(しっぽ)、それを取り除くと、たいへん割高についていて、おいそれと手が出せない。
私は福岡市の生れだが、子供の時、魚なんてものは、原則として買うものじゃないと思っていた。おやじが魚釣りが大好きで、一度出かけると、一貫目ぐらいは釣って来るし、子供の私だって放課後浜に行って糸を垂れれば、晩御飯のおかず程度はけっこう取ることが出来た。
家から一町ほど離れたところに漁師町があり、地引網の手伝いをすると、小さなバケツにいっぱいぐらいの魚をただで呉れたものだ。それほど魚族の影は濃かったのである。まれに魚屋から買っても、たいへん安かった。それでも私たち子供は、
「ただで取って来たものを、金を取って売るなんて、いい商売だなあ」
と憤慨したり、うらやましがったりしたものである。
戦中戦後になって、この事情が一変した。
海岸や川っぺりに工場がたくさん出来て、遠慮なく廃液を流す。人口がふえれば、人家もふえる。人家からも芥(ごみ)が流れ出る。いくら魚だって、環境の悪いところには住みたくない。沖へ沖へと遠ざかる。
魚食い人口がふえたのに、沿岸の魚影はうすくなったから、いきおい大型船を仕立てて、遠方に出かけて行く。どこへでも行くというわけには行かない。
戦後李ラインというのが出来たし、北洋漁場のこともある。南方はまだあけ放しのようだから、赤道を越えてマグロを取りに行ったりして、船代、油代、人件費などが魚の値段に加算される。
大衆魚というのもなくなった。イワシ、サンマ、ニシンなどは、戦前下魚(げざかな)と称して、軽んぜられていたが、戦後俄然位があがって、準高級魚になってしまった。カズノコなんか、今や宝石あつかいである。
どうも振り方が無計画で、荒っぽ過ぎるのじゃないか。
魚がいるところに船を乗りつけて、ごそっと取って来るのは、農業で言えば略奪農法であって、もっとも原始的な方法である。
やり方は原始的だが、技術は高度化していて、近頃では電流を使ったり空気泡のカーテンをつくったり、それに最近は網を使用せず、ポンプで魚を吸い上げることもやっているそうだ。電気掃除器やバキュームカーと同じ手口で、魚をごーっと吸い上げて、水だけ元に戻す。
いくら魚が多いと言っても、そんな取り方をされては、根絶やしになるおそれがありはしないか。
もうそろそろ、魚を飼育する時代が来ていると思う。川魚はわりにその点進歩していて、ウナギ、スッボン、川マスなどの養殖は、早くから行われている。天然ウナギがどうのこうのと、御託(ごたく)を並べるのは、時代遅れの古くさい人士だけで、大衆はよろこんで養殖ウナギのかば焼きに舌つづみを打っているのである。
海魚にしても、小規模ながら養殖が行われているようである。静岡ではイカ、瀬戸内海や玄海でタイなどを、計画的に養殖している。でも海魚はあちこち泳ぎ廻るから、養殖もなかなかむつかしいし、はかが行かない。
それよりも日本近海を整備して、各種海魚の誘致運動を行なったらどうだろう。つまり魚のすみやすい条件をこしらえて、日本近海に行けば、おいしい餌にありつけるし、休憩する場所も豊富にあるということになれば、魚も定着するだろうし、太平洋を回遊する性質の魚には、
「餌も豊富で、宿も快適な日本近海へ!」
と、言葉やポスターで宣伝するわけには行かないが、そんな設備がととのえば、魚の口から口ヘ(?)つたわって、回遊のコースとして日本近海にやってくることも考えられる。つまりは日本近海を魚族のパラダイスにするのである。
オリンピックを誘致するより、この方がどのくらい有益で、国民にとってありがたいか、考えなくても判ることだ。もちろんこれは個人や民間団体でやれる仕事ではない。国家的規模において、巨大な国費を投じて、やるべき事業である。
これは禿山に植林するのと同じで、やったからすぐに効果があがるというものではないが、数年後、数十年後にはかならず実を結んで、日本近海には昔日と同じく、魚がうようよという状態になる。そうすれば李ラインを越して警備船に追っかけられたり、ビキニ附近までマグロを取りに行ったりする必要がなくなる。
観光日本などと称して、人間を寄せ集めるのもいいが、魚の方にも思いをいたしたら、如何であろうか。
それから、品種改良について。現在のイワシやマグロが、千年前のイワシやマグロと同じ形で同じ栄養価しか持っていない。そんなばかな話があるだろうか。
果物でも野菜でも、形態や栄養価で大飛躍しているのに、魚だけが旧態依然というのは、あきれた話であると思うけれども、紙数がつきたのでそれは次号にゆずる。
[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第六十五回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年七月二十三日号掲載分。この一篇、諸々の意味で梅崎春生の主張はまっこと、正しい。
「オリンピック」昭和三九(一九六四)年十月十日(後の体育の日)から十月二十四日にかけて日本の東京で開かれた第十八回夏季オリンピックである東京オリンピックは、この二年前、既に昭和三四(一九五九)年五月二十六日に西ドイツのミュンヘンで開催された第五十五次IOC総会において欧米の三都市(デトロイト・ウィーン・ブリュッセル)を破って開催地に選出されていた(先立つ昭和二九(一九五四)年(年)、昭和三五(一九六〇)年夏季大会開催地に立候補したが、翌昭和三〇(一九五五)年の第五十次IOC総会に於ける投票でローマに敗れた経緯がある。参照したウィキの「東京オリンピック」によれば、誘致に先立つ昭和三二(一九五七)年、当時の『日本水泳連盟会長を務めていた田畑政治は、オリンピック招致費用を』二〇一三年現在の価格に換算すると千二百億円相当も『掛かる事を懸念していた岸信介首相に、観光収入も見込めると直談判した』とある)。『開催の決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」が組織され、国家予算として国立競技場をはじめとした施設整備に約』百六十四億円、大会運営費九十四億円、選手強化費用二十三億円を『計上した国家プロジェクトとなった』とある。
「日本全土が箱庭化するのも、時間の問題だと前号に書いた」「うんとか すんとか」前回分「観光づいて乞食的」(の最後)を参照されたい。
「戦後なぜ急激に人口がふえたのだろう」日本の総人口は敗戦時の昭和二〇(一九四五)年で71,998,000人であったものが、以後、昭和二五(一九五〇)年に84,115,000人、昭和三〇(一九五五)年に90,077,000人、本篇の書かれた前年の昭和三五(一九六〇)年には実に94,302,000人膨れ上がっていて、「やがて一億を越そうとしてい」た。この記事の四年後昭和四〇(一九六五)には99,209,000人に達し(この年の七月十九日に梅崎春生は肝硬変のために没している)、九年後の昭和四五(一九七〇)年には104,665,000人と遂に一億人を突破することとなる。
「原因療法剤としての抗生物質の発見」私は昭和三二(一九五七)年二月生まれであるが、一歳半の時に結核性カリエス(左肩関節)に罹患、当時、安価になっていた結核治療に最初に用いられた抗生物質ストレプトマイシン(Streptomycin)のお蔭を以って四歳半で固定治癒した。
「乳幼児の死亡率も激滅した」乳幼児死亡率ではないが、昭和二五(一九五〇)年の合計特殊出生率(一人の女性が一生に産む子供の平均数)は3.65で、新生児(生後四週間未満)の死亡数は64,142人、同乳児(生後一年未満)で140,515人であったが、昭和三六(一九六一)年では合計特殊出生率1.96と有意に減じた一方、新生児死亡数は26,255人、同乳児で45,465人と激減している。
「一貫目」三・七五キログラム。
「一町」百九メートル。梅崎春生の生家は福岡市簀子(すのこ)町(現在の中央区大手門)にあり、博多湾の湾奧直近であった。
「李ライン」李承晩ライン。昭和二七(一九五二)年一月十八日に韓国初代大統領李承晩の海洋主権宣言に基づいて韓国政府が一方的に日本海及び東シナ海に設定した軍事境界線で、同時にその内側を排他的経済水域となし、この海域内での漁業は韓国籍漁船以外には行えず、これに違反したとされた漁船(主として日本国籍であったが、中華人民共和国国籍も含まれた)は韓国側によって臨検・拿捕・接収・銃撃を受けるなどした。銃撃によって乗組員が殺害される「第一大邦丸事件」(昭和二八(一九五三)年二月四日に公海上(推定で済州島沖二十マイルの海域)で操業中であった福岡の漁船第一大邦丸及び第二大邦丸が韓国海軍(韓国の漁船二隻を軍事転用したもの)によって銃撃・拿捕され、その際、第一大邦丸漁撈長であった瀬戸重次郎氏(三十四歳)が被弾して死亡した事件)も起きていた。
「北洋漁場」ウィキの「北洋漁業」によれば、『戦後、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は日本漁船の遠洋操業を禁止したが、日本の独立が回復した』昭和二八(一九五二)年に『これが解禁され、農林省の水産庁が北洋漁業の再開を決定した。日本はアメリカ・カナダとの漁業条約を締結し、太平洋の北東部海域でのサケ・マス漁が復活した。続いて日本はソ連との漁業交渉を開始し、北方領土問題をめぐる難航を経て、日本の河野一郎農相とソ連のブルガーニン首相との交渉により』昭和三一(一九五六)年五月十五日に『日ソ漁業協定が調印された。これは当時継続中だった国交回復交渉を大きく後押しし、同年』十月十九日の『日ソ国交回復宣言調印につながった。国交回復により漁業協定も発効し』、昭和三二(一九五七)年からは『ベーリング海などの旧北洋漁業海域での操業が再開された。日本からは再び多くの船団が出港し、漁獲量や収益率が悪い沿岸・近海漁業しかできずに苦しんでいた北日本の漁民は息を吹き返したが、戦前とはソ連との力関係が逆転した新生北洋漁業は厳しい漁獲割り当て量に悩まされ、ソ連の国境警備隊やアメリカの沿岸警備隊による拿捕事件が続発した。特にソ連による拿捕は日本人漁民の拘束期間が長期化する例があり、船体は違反操業による没収処分を受ける事が多かった。数年ごとに開催される日ソ間の漁業協定更新交渉は常に操業許可水域や魚種別の漁獲高、さらには乱獲防止のための漁法を巡って難航し、時には無協定期間が発生して、北洋漁業の安定操業を大きく阻害した』とある。
「電流を使ったり」専用の電気ショッカーや鉛蓄電池などによって一定水域に電流を流して魚群に電気的ショックを与えて気絶させ、浮上させて漁獲する「電気ショック漁法」で、「ビリ」とも呼ばれるが、現在は各県の漁業調整規則などによって、有害魚種駆除の目的で許可を受けた場合以外は原則的に禁止されている(ウィキの「漁」に拠った)。
「はかが行かない」「はか」は「捗・計・量」などと漢字表記することから判るように、仕事の進み具合や、ある作業行為をやり終えた際の入手した量を指し、ここでは歩留まりが悪いことを指す。]
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