四つんばいになるな 梅崎春生
さる三月十九日(昭和三十五年)、山形県湯之浜温泉の亀屋ホテルで、四つんばい事件というのが起きた。
高松宮が来るというので、保健所の職員がホテルの家族や従業員を四つんばいにさせ、検便のためにガラス棒で採取をしたのである。
それが県議会の問題になり、国会にも波及して、また新聞や週刊誌がじゃんじゃんと取り上げた。あまり香ばしい話ではないけれども、取り上げる価値は充分にあるようだ。
あの四つんばいになって便を採取されるのは、あまり気持のいいものではない。私も両三度、その経験がある。
私は戦争中召集されて、一年余を海軍で過したが、海軍というところは検便が大好きで、しばしばそのやり方で便を振られた。だから亀屋ホテルの事件を新聞で読んだ時、まずその不快な記憶が私の胸によみがえった。
亀屋ホテルのは室内でやったらしいけれども、軍隊では営庭に行列し、白日の下次々と四つんばいになって、ガラス棒を突っ込まれるのである。
それをやるのは若い衛生兵で、彼等とても好んでやっている仕事じゃないから、どうしても手荒にならざるを得ない。まして相手は動作ののろい召集兵と来ているから、彼等は私たちを人間あつかいにしていない気配が濃厚であった。
だから、なめらかなガラス棒でも、便を取られるのは、かなり痛かった。
今考えても、あの頃の衛生兵なんてものはたいへん乱暴で、たとえば注射などにしても、一風変っていた。
ふつう注射というものは、前後の消毒を厳重にして、筋肉に対しては斜めに突きさすものだと私は諒承していたが、軍隊式はそんなものではなかった。消毒なんか、ろくにやらない。いきなり注射器をふりかざし、はずみをつけてえいやっとばかり垂直に突きさすのである。
たくさんの人間にやるのだから、その方が能率的といえば能率的だが、やられる側からすればそれは戦慄にあたいした。痛いと言って顔をしかめても、たいへんなことになるぐらいで、まして抗議なんか出来る筋合いのものでなかった。
そういう連中がやる検便だから、痛いのも当然だが、私たちが検便が不愉快だったのは、もちろんその痛さのためでない。四つんばいという屈辱的な姿勢のためである。好きこのんで四つんばいになるのならともかく、強制されてそんな姿勢をとるのは、はなはだ面白くないことだ。
子供におそろしい怪談を聞かせてやると、子供はどうするか。こわいからと言って子供は決して親に抱きついて来ない。親に背中をひしひしとすりつけて来るものである。
人間というものは、眼だって鼻だって口だって、皆前についている。耳だけは横についているが、耳たぶは前方の音を聞き取る具合についている。
つまり敵を認識したり嗅ぎ分けたりする器官は、おおむね人間の前(つまり人間の表側)についていて、裏側の方はお留守になっている。おおむね無防備状態になっている。
子供たちがこわくなると、背中をすりつけて来るのも、その無防備の背面を守ろうという本能からなのだろう。
子供だけでなく、大人だって同じだ。こわいと背筋がぞくぞくするというが、胸筋がぞくぞくするとは言わない。胸筋がぞくぞくするのは、得恋などをして嬉しい時に限っている。喜びは前面に来たり、恐怖は背面よりやって来る。一番守りのすくないところを、ねらってやって来るのである。
そのおそれがもっとひどくなると、背筋のぞくぞくは後頭部に逆上、あるいは肛門のあたりにぐんと下って行く。どちらも人間にとって大事なところで、しかも守りが薄い場所である。
ことに後者は、人間にとって一番弱昧みたいなものを引き受けていて、だから人間は特殊の嗜好を持った人をのぞけば、これを他人に見せたり白日にさらしたりすることを好まない。自分の最も無防備な恰好を見せることを嫌悪するのだ。
高いところに登って下を見ると、かならず尻の穴がむずむずするものだが、やはりそこが一番弱くて敏感だからだろうと思う。
高橋義孝さんか誰だったか、ほかのたいていのことは他人に見られても平気だけれども、大便をしているところを他人に見られるのは恰好がつかない、収拾がつかないものだ、と書いているのを読んだことがある。
なるほど、あれは収拾がつかない。四つんばい式の検便はそれを上廻るものであって、やられている時でも、またやられたあとでも、言語道断な感じがするものである。
では、それに似たようなことが、他にはないか。手術なんかが、外見上それに似ている。虫垂炎の手術、胃潰瘍(かいよう)の手術、痔の手術など。でもこれらの手術は、大体それ以外に方法がないような時に限って行うものであって、あの式の検便とは根本的に違う。
あの式のを直接検便(なるほど、全く直接だ)というそうだが、マッチ箱などを使う間接検便という方法がある。その方式を使うのが本筋であって、直接検便を強制するなんて、人間を人間以下にしか見ていない証拠である。
それに手術というものは、当人の苦痛や生命の危険をのぞくためにやるもので、つまり当人のためにやるものであるが、亀屋ホテルの直接検便はそこが違う。もし赤痢菌がいたら当人が困るだろうからと、親切心で四つんばいにさせたのではなく、もし赤痢菌がいたら高松宮にうつるかも知れない、という危惧のもとに無理に四つんばいにさせた。
すなわち自分のためでなく、他人の利益のために四つんばいを強制された。それを強制したのは、鶴岡保健所の役人である。
そこの池田所長という役人は「見るからに温厚な」とある週刊誌には書いてあるが、それでもその人がこう言っている。
「どうやら、四つんばい検便という言葉が誤解をまねいたらしい。徴兵検査などを連想させるからだ。しかし、亀屋ホテルの場合はちがう。両手と両膝をついて、しやがんでもらっただけだ。それが、本人にとって一番楽な姿勢なのだから……」
一番楽とは、何だろう。所長さんはどうやら楽という言葉について、大きなかん違いをしているらしい。
そんなに楽なものなら、自分がそんな姿勢をとって、皆の前で採便してもらえば判るだろう。楽とかそんなものではない筈である。想像力の貧困というより欠乏という点においては、旧軍隊のある種の下士官や兵とえらぶところはない。
同じく高橋課長という役人は、
「十九日は全員四つんばいにした。私は法律にもとづいてやったのだ」
と、顔色もかえずに語った由である。こういうのにかかると、もう言葉は通じない。
しかし、こういう役人の個々を責めたって、仕方がない。彼等は一種の確信犯みたいなもので、どんなに責めようとも、口ではあやまるかも知れないが、心から悪いという意識を持てないのだろうと思う。
軍隊の経験が、私にそういう考えを持たせる。手間のかかることだが、そんな人間の棲息する条件、そんな考え方の棲息する条件を、変えて行くことから始めねばならないのだ。
[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第二回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年四月二十四日号掲載分。「得恋」は「とくれん」で失恋の対語。恋愛が成就すること、であるが、「失恋」に対してこの語が死語化しているのは何やらん、面白いではないか。]

