ブログ創設11年記念梅崎春生エッセイ集起動 / 仰げば尊し
[やぶちゃん注:本日、ブログ創設11年記念として、梅崎春生のエッセイを、しばらく一日一話原則で電子化する。
最初に「うんとか すんとか」から開始する。「うんとか すんとか」は講談社発行の『週刊現代』の昭和三五(一九六〇)年四月十七日号から翌年八月六日号まで、六十七回に亙って連載されたエッセイである。
底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第七巻」に拠ったが、同書には上記の内の全二十八回分のみが収録されている。同全集は全集第一期とカタログでは名打っており、梅崎春生の全作は収録されておらず、私は刊行されたその年に直接、沖積舎に電話したが、第二期刊行は未定との返事であった。しかし、二〇一六年現在も第二期は刊行されていない。
傍点「ヽ」は太字に換えた。
以下の「仰げば尊し」は連載第一回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年四月十七日号掲載分である。【2016年7月6日 藪野直史】]
仰げば尊し
昨日はうちの娘の小学校の卒業式で、私も見に行った。小学校の卒業式には、郷愁みたいなものがある。
今ふり返っても、自分の小学校卒業式のことはありありと憶えているが、中学や高校の卒業式のことはほとんど記憶に残っていない。
年代順に言うと、小学校が一番昔だから、最も早く忘れてもよさそうなものだが、事実は正反対になっている。印象にとどまるような要素が多かったからだろう。
それに小学校を卒業すれば大人になるのだから(汽車やバスも半額ではなくなるし、半ズボンから長ズボンに昇格する)、その曲り角の儀式として、忘れ難いものがあるのだろうと思う。
昨日見た卒業式は、私の時分のとは違って、免状は総代に一括して渡すのではなく、一人一人名を呼び上げて渡す仕組みになっていた。
なるほどこの方が親切であるし、長く印象にとどめるのに効果的だが、そのかわりに少々時間を食う。あとは校長の訓示だの来賓の祝辞だので、昔の方式とあまりかわりがない。
うちに戻って娘に卒業式の印象を訊(たず)ねたら、来賓たちの祝辞が少し長過ぎて、退屈したとの話であった。
しかし私の見た感じでは、そう長いとは思わなかった。なぜ子供たちが長く感じるかというと、壇上の大人たちの話が(あるいは言葉の使い方が)むつかし過ぎるのである。わけもわからない話を聞かされては、長く感じるのも当然だ。
「これからも体を大切にして」と言えばいいのに、「今後とも健康に留意せられまして」なんて言うものだから、子供たちは免状を扇のかわりにして顔をあおいだりして遊ぶのである。
少年が強盗をやった。近頃の少年は、大人でもやれないようなことを平気でやる。大人に勝るような能力があるのだ。諸君も皆、その能力を持っている。だから諸君はその能力を、悪の方に使わないで、善の方に向けなさい。
というような適切にして卓抜な訓示もあったけれども、子供たちは別段反応を示さなかったようである。祝辞は初めからむつかしいものときめてかかって、全然耳を傾けることをしていないらしかった。
しかしその方がいいのかも知れない。中途半端に耳を傾けると、強盗を奨励しているように受け取るおそれがある。
子供たちを前にして、どうして大人たちはむつかしい言葉を使うのだろう。やはり日頃の教養や学問が、つい堰(せき)を切ってほとばしり出て来るのであろうか。大人たちだって、四十年前や五十年前はやはり子供で、校長の訓示や来賓のあいさつにうんざりした覚えがある筈である。
その恨みが心に残っていて、よし、いつの日にかおれが来賓になったら、むつかしい話をして子供たちをうんざりさせてやろうと、まさか心にきめたわけでもあるまい。
しかし、子供たちにむつかしい話をながながと聞かせるのは、忍耐心の涵養(かんよう)になるし、人生とはたのしいことばかりでなく、退屈な時間やうんざりする時間もあることを思い知らせるには、たいへん有効な方法である。
だから子供たちは、祝辞がすむとやっと自分を取り戻し、「仰げば尊し」などをうたって、離別の情にさめざめと感傷の涙をそそぐのである。
卒業式の時に泣くのは、大体小学生に限られているようで、中学以上になると、特殊の人をのぞいては、あまり涙をこぼさない。
私の経験でもそうである。離愁というのは小学卒業時に限るので、中学以上にはそれはあてはまらない。中学卒業の時なんかは、離別というより脱出という感じが強く、悲しみというより脱出の喜びにみなぎりあふれているようだ。
私も中学を卒業することは、うれしくてうれしくて仕様がなかった。中学校の愚劣な戒律や退屈な講義から解放されることがうれしかったのだ。
近頃新聞で読むと、式が済むと中学校や高校の卒業生たちがよってたかって、気に食わない先生を袋だたきにしたり、プールヘ授げ込んだりすることが流行(?)していて、余儀なく学校側も自衛上警官を臨席させて対抗しているところもあるそうである。
気に食わぬ瞬間に袋だたきにしないで、卒業式のあとでたたくというところがみそであって、つまり卒業した瞬間に師は師でなくなり、弟(てい)は弟でなくなったという解釈なのだろう。
人間が人間をなぐる分には、大したことはない。それが新聞にでかでかと出されることは、彼等にとって心外なことに違いない。
私の経験から言うと、当時の中学校でも憎らしい先生や気に食わない先生はいたけれども、卒業式が済んでなぐってやろうなどとは、誰も考えなかったようである。先生をなぐるなどという発想法に、私たちは完全に無縁であったわけだ。気に食わなかったけれど、これでもう縁が切れるわけだからと、私たちはせいせいして卒業したと記憶している。
当時の先生たちと私たち生徒の関係は、両者の間に冒すべからざるというと言い過ぎになるが、踏み込めないような層なり隔てなりがあって、その層を通じて教育が行われていた。
すなわち先生と生徒はちょいと次元を異にしていて、向うには向うの生活、こちらにはこちらの生活があって、知識を授受するほかには通い合う部分が割合すくなかったようである。
他人をなぐるなんていう事業は、感情の全振幅をふるい立たせなければ成立しない事業であって、当時中学生であつた私たちは、先生に対して感情のすべてをふるい立たせる基盤がなかったし、そういう条件もそなわっていなかった。
ところが現代の中学生は、大いにそれをふるい立たせる条件がそなわっていると見えて、とかく新聞種になって、心ある(?)老人たちを慨嘆せしめている。
しかし、逆に考えれば、これははなはだ喜ぶべき現象ではないのか。つまりなぐり合うということが成立するからには、戦前にあった師弟の間の妙な隔ては、新しい教育理念によって取り去られたということだろう。
先生は自分の全部をさらけ出して教育に従事し、生徒はそれを自分の裸身をもって受けとめる。そうでなければ、なぐつたりプールに投げ込んだり、そんな烈しい愛憎が成り立つわけがない。
という具合に考えれば、中学生たちの暴行も、いくらか恰好がつくのではないだろうか。その揚句の果てに警察に厄介になったりするのは、彼等がばかなためでなく、あまりにも愚直であり過ぎたのである。利口な奴は後足で砂をかけて、さっさと卒業して行く。
暴行中学生を少し弁護し過ぎたような気がするが、本当のことを言うと、先生の憎たらしさと生徒の憎たらしさは、どちらが上か。
これは疑うべくもなく、生徒の方がはるかに憎たらしいのである。私の四十五年の半生に賭けても、それは断言出来る。勉強はして来ないし、あだ名はつけるし、ちょっと気を許すとつけ上って騒ぎ立てるし、ほんとに中学生なんてものは憎たらしさの塊りみたいなものだ。
どうして卒業式が済んだあと、先生たちがよってたかって、憎たらしい生徒を袋だたきにしたり、プールに投げ込んだりする事件がおきないのか、私にはふしぎで仕様がない。