芥川龍之介 手帳2―8
《2-8》
○地獄變。(右二ケ條書き加へよ)
⑴大殿は地獄變の屛風と共に娘を返す約束をす ⑵良秀始めは娘を忘れず次第に仕事に熱中す
[やぶちゃん注:「地獄變」は『大阪毎日新聞』及び『東京日日新聞』(毎日新聞東京本社発行)の夕刊に大正七(一九一八)年五月に連載された。但し、「⑴大殿は地獄變の屛風と共に娘を返す約束をす」るというシークエンスは現行のそれには、ない(リンク先は私の電子テクスト)。]
{パツチ
○田代金十郎傳{
{反動的心理(例未定)
[やぶちゃん注:「{」は底本では大きな一つ。「田代金十郎」は不詳。「パツチ」は股引(ももひき)の意のパッチ(音は朝鮮語からとされる)のことか、それとも並列されている「反動的心理」(反動形成のこと。抑圧されて無意識になっている欲求が意識や行動に現れないようにするために、それと正反対の意識や行動に置き換えられる心理機制を指す。意識・無意識の両方で発生し得る防衛機制の一種である)に即すならば、意識の連絡を一時的に補正・修正・接続調整することを指すかは、不明である。「田代金十郎」なる人物が分かれば、答えは出るかも知れぬ。識者の御教授を乞う。]
○圓朝の研究(論文)
[やぶちゃん注:夏目漱石が落語好きであったことはよく知られているが、芥川龍之介が三遊亭円朝の落語研究を志していたことは余り知られているとは思われない。ここでも誰かの論文ではなく、芥川龍之介自身が目論んだ論文と読みたい。私の言が眉唾と思う方は、岩波書店の「円朝全集」の見本(リンク先は公式サイト内)の編集委員の二〇一二年六月の「編集にあたって」という文章に(ピリオド・コンマを句読点に代えた)、『それらの諸作は速記術による口語文体で書かれ、多くの読者に迎えられた。幸田露伴は明治文学に最も功労のある人物として、円朝と黙阿弥を挙げ、円朝の文章界における貢献を讃えている。この評価は、文体を模索していた二葉亭四迷に、円朝の落語(はなし)の通りに書いてはどうかと坪内逍遥が勧めたことでも、納得し得る。影響は文体のみに留まらない。夏目漱石の『琴のそら音』は『怪談牡丹燈籠』を念頭においての作であり、正岡子規は『名人競(錦の舞衣)』を聴いて、小説の趣向かくこそありたけれと悟るなど、枚挙に遑(いとま)がない。ただ残念なのは、芥川龍之介が円朝研究を志しながら、果たさず早世したことである』とあるのである。龍之介と落語の観点から見れば、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の中込重明氏の「落語・講談」の項の解説によれば、龍之介の「鼻」には落語「王子の狐」の、「首が落ちた話」には「首提灯」の影響があるとする村松定孝氏の論考があるという。]
○西廂記論
[やぶちゃん注:「西廂記」「せいさうき(せいそうき)」は芥川龍之介が大学時分から耽読し続けた元代の王実甫の手になる戯曲で全二十一幕。十四世紀初頭の元代の王実甫の作になるとされる戯曲で、中国戯曲史上最高傑作とも呼ばれる。唐中唐の詩人元稹(げんしん 七七九年~八三一年)が書いた小説「会真記」(別名「鶯鶯伝」)を、金の董解元(とうかいげん)が語り物した「西廂記(董西廂)」を戯曲化したもので、故宰相の娘崔鶯鶯(さいおうおう)と科挙登第を志す学生張君瑞が様々な障害を乗り越えた末に結ばれるハッピー・エンドの物語。これも従って誰かの論文ではなく、龍之介自身の目論んだものに違いない。「西廂記」への言及は龍之介全作品中でも本記載を除いても六回にも及び、特に「上海游記」の「十七 南國の美人(下)」では(リンク先は私の注附き電子テクスト)、
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「芥川さん。」
余洵氏は老酒(ラオチユ)を勸めながら、言ひ憎さうに私の名を呼んだ。
「どうです、支那の女は? 好きですか?」
「何處の女も好きですが、――支那の女も綺麗ですね。」
「何處が好(よ)いと思ひますか?」
「さうですね。一番美しいのは耳かと思ひます。」
實際私は支那人の耳に、少からず敬意を拂つてゐた。日本の女は其處に來ると、到底支那人の敵ではない。日本人の耳には平(たひら)すぎる上に、肉の厚いのが澤山ある。中には耳と呼ぶよりも、如何なる因果か顏に生えた、木の子のやうなのも少くない。按ずるにこれは、深海の魚が、盲目(めくら)になつたのと同じ事である。日本人の耳は昔から、油を塗つた鬢(びん)の後(うしろ)に、ずつと姿を隱して來た。が、支那の女の耳は、何時も春風に吹かれて來たばかりか、御丁寧にも寶石を嵌めた耳環なぞさへぶら下げてゐる。その爲に日本の女の耳は、今日のやうに墮落したが、支那のは自然と手入れの屆いた、美しい耳になつたらしい。現にこの花寶玉(くわはうぎよく)を見ても、丁度小さい貝殼のやうな、世にも愛すべき耳をしてゐる。西廂記(せいさうき)の中の鶯鶯(あうあう)が、「他釵軃玉斜橫。髻偏雲亂挽。日高猶自不明眸。暢好是懶懶。半晌擡身。幾囘搔耳。一聲長歎。」と云ふのも、きつとかう云ふ耳だつたのに相違ない。笠翁(りつおう)は昔詳細に、支那の女の美を説いたが、(偶集(ぐうしふ)卷之三、聲容部)未嘗この耳には、一言(ごん)も述べる所がなかつた。この點では偉大な十種曲の作者も、當に芥川龍之介に、發見の功を讓るべきである。
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と原文まで引用し、本作への読みの深さと彼の並々ならぬ思い入れをよく伝えている。]