エゴイズムに就て 梅崎春生
[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年執筆。掲載誌・掲載月日不詳(底本解題に拠る)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。]
エゴイズムに就て
今のような時代に生存を保って行くためには、法網をくぐって買出しをやらねばならないし、電車に乗るためには他人を突き飛ばさなければならない。書斎の奥で閑日月を送るという訳には行かないのだ。今や心身の全部をあげて此の世相と対決しなければならなくなった。生きて行くという事は既に、高度の狡智と他人の犠牲の上にのみ可能である。こんな時代にあって何を信じて僕等は生きているのだろう。
現今各雑誌に発表される諸小説を読んで、僕は不思議で仕方がない。そこにあるものは相も変らぬ善意への郷愁であり、清列なものへの思慕である。此の世相でかよわい善意など何の力があるか。現代にあっては無力なるものは既に悪徳である。善意などというものは今や没落者の擬態に過ぎない。実生活の上では結構抜け目なく逞(たくま)しく生活している作家達が、いざ原稿用紙を前にすると、何故始めて思い直したように世相の頽廃を嘆き善意を待望しようとするのか。何故居もしない青い鳥を描いて見せようとするのであるか。
今の世で善意を信じることは、山の彼方の空遠くに幸福を信じるよりもっとはかない事である。今時のある種の小説を読んで見たまえ。世相はかくかくだが自分一人は善意を信じて生きているのだぞという厭(いや)らしい顔を、背後に必ず隠しているから。もう嘘つくのは止そう。世相の悪に対決して今まで生きて来たのは、当方にも充分毒を持ち合わせていたからだ。己れの内部の毒から目を外らして、何故叱られた子供のように山の彼方の夕焼ばかり眺め呆(ほう)けているのか。
今までの小説はエゴイズム否定の歌をうたうことで終った。戦争前まではそれで安心出来たのだ。しかし今はそれで安閑とした顔をしているわけには行かぬだろう。ルネッサンスが個人の自覚に始まったと言うなら、今の時代はエゴイズムの自覚と拡充から始まる。どの途現世の頽廃は底まで行き着かずにはおかぬ。生き抜く事が最高の天徳であり、犠牲や献身が最大の欺瞞であることを僕等は否応なしに思い知るだろう。かくて僕等は僕等のエゴイズムと徹底的に抱き合わねばならぬだろう。
新しい文学の出発は此の性格を除外してはあり得ない。