被告は職業ではない 梅崎春生
被告は職業ではない
あの日――というのは昭和二十七年五月一日のこと、馬場先門を守っていた武装警官隊が、どうしてさっとひとかたまりにまとまって、広場への道を開放したのか、私にはよく判らない。
阻止しようとするなら、そこで阻止すべきであったのだ。それをそうしなかったのは、衝突を回避するというより、何かたくらみがあったものとしか思えない。だからデモ隊は、遣いっぱいの幅で、二重橋めざして、なだれ込んだ。私もおくれじとばかり、デモ隊の横にくっついて走った。
多少の危険も予測されたが(日比谷交叉点で両者の間に小ぜり合いがあった印象から)、私もまだ若かったし、それにデモ隊にくっついて行く義務みたいなものがあった。
私は雑誌「世界」から頼まれて、この日のメーデー見聞記を書くことになっていたのである。多少の危険なんかで、尻ごみしてはいられない。五分後には二重橋前に到着した。
そこでデモ隊は気をゆるめたらしい。私にはそう見えた。遠足の目的地についた小学生のように、緊張を解いて、汗をふいたり腰をおろしたり、歌をうたったりしていた。そのデモ隊の右側をかけ足で走り抜けた警官隊が、警棒をふりかざして、方向を変えて斜めにデモ隊に殺到したのだ。それはまことに問答無用、情容赦もないやり方で、デモ隊と言っても一般市民も相当にその中に混っていたが、それらがまたたく間に頭や身体を引っぱたかれ、血だらけになって、あちこちにごろごろころがる。ころがったものの腰骨に、警棒がさらに打ちおろされる。それを踏み越えて、逃げまどうデモ隊を追っかける。
あの日のメーデー事件は、こういう形ではじまった。
二重橋前の広い通路の片側に、人の背丈ほどの鉄柵があり、その外側は幅一メートルばかりの余地があって、そこから、濠になっている。
臆病な私が逃げまどうことなく、つぶさにその暴行を眺め得たのも、鉄柵の外側にいたからだ。それに、こいつらのやることを見ておかねばならぬという使命感みたいなものが、私をそこに釘づけにした。
そのうちに鉄柵外も安全地帯でなくなって、警官が一人おどり込み、勢い余って濠の中に墜落、顔中血だらけになって立ち泳ぎをしている。
昔見た「目撃者」という映画で、ピストルで打たれたギャングの一人が、血だらけになって這い上った大写しがあつたが、そのシーンをその時私は思い出していた。というとたいへん呑気なようだけれども、どんな危急な場合でも、連想というものは奇妙にはたらくものである。
それから続いて警官が二三人通路に飛び込んで来て、警棒を振り廻し始めたので、私たちは押し合いへし合い、ころがりそうになりながら逃げた。
あとは安全地帯を求めて右往左往、途中でガス弾にやられて眼を痛めたので、もう広場の外に出たいと思ったけれども、馬場先門の入口は新着の武装警官が固めていて、這い出る隙間もないのである。
結局騒動の最後までつき合い、祝田橋から脱出した。出不精の私にとっては、実に記録的な一日であった。そしてその日のことを「世界」の八月号に書いた。
その記事のためだろうと思うが、それから四年後の三十一年春、私はメーデー事件の弁護側証人となり、五回にわたっていろいろなことを証言させられた。
それまで私は裁判というものにあまり知識はなかったが、検事というものは弁護側証人から真実を引き出すというよりも、いかにしてこの証人の証言があてにならないか、そこに力点を置いているらしいことが初めて判った。小さいところをこつこつとつついて混乱させようとするのだ。
これには私も困った。記憶というものは、碁盤の目みたいに整然と、頭におさまっているわけではない。四方八方からつつき廻されると、つい矛盾したことになったりするのである。
また歳月のために若干変質している部分もあって、たとえばさっき警官が勢い余って濠の中に飛び込んだと書いたが、そして法廷でも私はそう証言したが、検事側はいきり立った。
「それじゃあなたの書いたものと違うじゃないか」
すると弁護人側から異議が出て、それじゃその文章を検事は証拠物件として提出せよ、と迫ったので、検事はその質問をあわてて引っ込めてしまった。もちろん私の文章が警官隊には不利であるからだ。
その日家に戻って「世界」の文章を調べてみると、なるほど違う。私はこう書いている。
「鉄柵を乗り越して、私たちのいる狭い通路に、警官が一人おどり込み、鉄かぶとを剝ぎとられて、濠の中に投げ込まれた」
そう書いたのが、どうして自発的に飛び込んだように記憶が変質したのか、自分ながらよく判らない。
元来記憶というものは、そんなものであろうと思う。でも、そういう変質や矛盾は枝葉末節の部位であって、大元のところでは私は大体正確に証言し得たと思う。
たとえば、どちらが先に手を出したか、こんなことは間違いようがないのだ。
そのメーデー裁判が、今なお続いている。第一審の判決にまで、まだ到達しない。
この間なんかは検察側証人として出廷した某警官が、偽証をおこなったことが判明した。
偽証したからには、これは罰せられねばならぬ。ところが検事はこれを起訴しなかった。不起訴処分にしたのだ。
これはたいへん無茶な話で、法廷でうそをついても起訴されないのなら、次々に証人として出て来る諸警官たちも、自分の都合のいいように曲言するにきまっている。これは子供にだって判る理屈だ。
裁判長もこれにはあきれて(?)はなはだ遺憾であるとの意を表明したら、何とかという検察側のおえら方が、そんな発言は裁判官の行き過ぎだ、というようなことを言ったそうだ。
何かが逆立ちしているんじゃないか。
この長い裁判の最大の犠牲者は、被告たちである。私がメーデー事件につき合ったのは、当日と五日の証言日だけだが、被告たちはあれから八年、ずっとつき合い放しである。
検事や判事もつき合っていると言えようが、彼等はそれが職業であるし、つき合っていることで月給もきちんきちんと上るし、また途中で転勤ということもある。
ところが被告は、被告であることが職業ではない。他に職業を持っていて、その暇を無理にぬすんで出廷して来るのだ。
またメーデー事件の被告ということだけで、まともな職業につけない、つまり雇う方で敬遠するという事情が多分に存在するらしい。
それが一年や二年なら我慢出来ようが、すでに八年その状態が続いているし、これからもどのくらい続くか、はっきりした予想は立っていないらしい。
人生の一番大切な時期を、そんなことについやすのは、泣いても泣ききれない気持だろうと思う。どうにかならぬものか。
[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第五回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年五月十五日号掲載分。
ウィキの「血のメーデー事件」によれば、以下のように書かれてある(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した。下線は私が引いた。これは梅崎春生が実際に体験した事実とは全く異なる描写である)。『GHQによる占領が解除されて三日後の一九五二年(昭和二十七年)五月一日、第二十三回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「人民広場(注:皇居前広場)の開放」を決議していた。本来のデモ隊の解散予定であった日比谷公園から北朝鮮旗を翻した朝鮮人を含む一部のデモ隊がそのまま皇居前広場に乱入するなど暴徒化して混乱は午後五時半ごろまで続いた』。『この日、行進を行ったデモ隊の内、日比谷公園で解散したデモ隊の一部はその中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ二千五百名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出て、交差点における警察官の阻止を突破して北に向い、その途中では外国人(駐留米国軍人)の自動車十数台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら無許可デモ行進を続け、馬場先門を警備中の約三十名の警察官による警戒線も突破して使用許可を受けていなかった皇居前広場になだれ込んだ。これに対し、警視庁は各方面予備隊に出動を命じた』。『乱入したデモ隊は二重橋前付近で警備していた警察官約二百五十名に対し、指揮者の号令で一斉に投石したり、所持していた棍棒、竹槍で執拗な攻撃を繰り返して警察官一名を内堀に突き落とし、他の多くの警察官も負傷する状態に至り、警察部隊は止むを得ず後退を始めた。応援の予備隊が到着して、その総数は約二千五百名となったが、デモ隊は数を増して約六千名となった上、組織的な攻撃も激しくなった。警察部隊は催涙弾を使用したが効果は上がらず、警察官の負傷者が増加したため、身体・生命の危険を避ける目的で止むを得ず拳銃を発砲し、ようやくデモ隊は後退を始めた』。『この間にもデモ隊は警察官三名を捕え、棍棒で殴打して重傷を負わせ外堀に突き落とし、這い上がろうとする彼らの頭上に投石した。同時に別のデモ隊は外国人自動車等に棍棒、石ころを投げ、駐車中の外国人自動車十数台を転覆させて火を放ち、炎上させた。デモ隊と警察部隊の双方は激しく衝突して流血の惨事となった。デモ隊側は死者一名、重軽傷者約二百名、警察側は重軽傷者約七百五十名(重傷者約八十名が全治三週間以上、軽傷者約六百七十名。さらに』四年後の昭和三一(一九五六)年一月に『頭部打撲の後遺症で法政大学学生一名が死亡)、外国人の負傷者は十一名に及んだ』。『当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。出動した警視庁予備隊は後の機動隊であり、警察予備隊とは異なる』とある。以下、その後の同事件の裁判経過の部分。『デモ隊からは千二百三十二名が逮捕され、うち二百六十一名が騒擾罪の適用を受け起訴された。裁判は検察側と被告人側が鋭く対立したため長期化し』、実にこの梅崎春生の記事が書かれてから十年後(その間、昭和四〇(一九六五)年七月十九日に梅崎春生は肝硬変のために死去している)、『一九七〇年(昭和四五年)一月二十八日の東京地裁による一審判決は、騒擾罪の一部成立を言い渡したが、一九七二年(昭和四十七年)十一月二十一日の東京高裁(荒川正三郎裁判長)による控訴審判決では、騒擾罪の適用を破棄、十六名に暴力行為等の有罪判決を受けたほかは無罪を言い渡し、検察側が上告を断念して確定した』。『国会では事件直後から事件の責任をめぐり、与野党間で激しい応酬があり、六月には相次ぐ騒乱事件の対処不手際や破壊活動防止法案・集団示威運動等の秩序保持に関する法律案の制定企図に反対する立場から衆議院で木村篤太郎法務総裁の不信任案が提出されたが、否決された』。『なお、同時期に白鳥事件、吹田事件、大須事件、曙事件や中核自衛隊・山村工作隊による事件など起こった。一方で、公安警察による菅生事件も起きた。事件発生の五ヵ月後に行われた総選挙で日本共産党は全議席を失った。同水準の議席数を回復したのは一九七〇年代のことであった』とある。因みに、東京大学女子学生であった樺美智子(かんばみちこ 昭和一二(一九三七)年十一月八日~昭和三五(一九六〇)年)さんが安保闘争で亡くなったのは、この「血のメーデー」から八年後の昭和三五(一九六〇)年六月十五日のデモ隊(全学連主流派による先導)が衆議院南通用門から国会に突入し、警官隊と衝突した際である。満二十二歳であった。
『雑誌「世界」』昭和二〇(一九四五)年十二月創刊の岩波書店発行の総合雑誌。この当時の編集長(初代)は「君たちはどう生きるか」(初版は新潮社で昭和二三(一九四八)年刊)で知られる、作家で反戦ジャーナリストの吉野源三郎(明治三二(一八九九)年~昭和五六(一九八一)年)。]