伊崎浜 梅崎春生
東京のこどもが泳ぎができないのは、泳ぐ機会がないからである。もっともちかごろは各学校にプールができたから、水に親しむチャンスも多くなったようだけれど、うちのこどもなんか一夏かかって五メートル泳げたとか、八メートル泳げるようになったとかよろこんでいるくらいで、お話にならないのである。
それにプールの水と海水とでは手ごたえが違う。わたしは四五年前富士五湖の西湖に行って一週間泳ぎ暮したが、どうも淡水というやつはたよりなくて、泳いでも泳いだような気がしない。波がないし、それになめても塩からくない。
わたしは小学校に入る前から泳いでいた。泳ぎの場所はもっぱら伊崎の浜である。
黒門から松土手をつき当ったところから細い道となり、伊崎浜にいたる。寂しい道で、両側にはぽちぽちと家があるだけだ。その一軒の家の二階に、後年東京から修猷館(しゅうゆうかん)に赴任したばかりの若い安住正夫先生が下宿していたことがある。(安住先生についてはいずれ書くことがあるだろう)
その小道の尽きるところに牧場があった。牧場というと大げさだが、木柵(もくさく)の中に牛が七八頭いて、もうもうとなき交していた。牛のうんこのにおいがひどいので鼻を押えてかけ抜ければ、そこが伊崎浜である。
福岡で海水浴場というとまず百道(ももじ)で伊崎なんかにはあまり人はこない。でも遠浅で砂がきれいで百道に劣らぬいい泳ぎ場だった。
百道と違って設備は何もない。着物をあずけるところもないから砂浜や草はらに脱ぎ捨て、そのまま海に飛び込む。ふんどしなどもしないのである。ふんどしなんかするのはだいたい小学四年生以上で、それ以下は男も女も生れたままの姿である。それ以下でふんどしをつけていたら、あいつは変なやつだなということで、仲間はずれにされてしまうのだ。
だからわたしはいまでも東京のプールで小学一年ぐらいの子がちゃんとした海水パンツをつけているのを見ると何かくすぐったく、しゃらくさいという感じがするのである。
伊崎は漁師の町である。砂浜には漁船がずらずらと並んでいて、おじいさんが背を日に照らされながら、漁網のつくろいをしていたりする。わたしの家にもよく魚の行商人がきて、
「ほら、見なっせ。これは伊崎もんのぴんぴんですばい」
伊崎もんというと新鮮だというのと同義語であった。
泳いでいて運がいいとすぐ近くで地引き網がはじまる。それっとばかり、われわれこどもはかけて行って、網を引っぱる手伝いをする。だんだん網が重くなって獲物が近づく。網の中にはうじゃうじゃと、こんなに魚がいるものかとびっくりするぐらいの魚が、押し合いへし合いぴんぴんはねながら上ってくる。手伝ったごほうびに雑魚(ざこ)をたくさんもらうのが実に楽しみであった。
[やぶちゃん注:「南風北風」連載第三十三回目の昭和三六(一九六一)年二月五日附『西日本新聞』掲載分。
「伊崎浜」梅崎春生の叙述から現在の福岡県福岡市中央区伊崎附近と思われるが、現在の行政上地名の伊崎は埋立てによって内陸化しており、現在の伊崎漁港(福岡市中央区福浜)の東(福岡都市高速環状線の海側)に広がる浜の手前の陸側に相当するかと思われる。
「黒門」現在も福岡市中央区黒門(くろもん)として残る。SARMA氏のブログ「気楽院」の「黒門」に『唐津街道の門』であったとある。次注も参照のこと。
「松土手」同前のリンク先に前の「黒門跡」の解説版を活字化したものが載るので引用させて戴く。『黒門川は、福岡城築城の際、大堀(現在の大濠公園周辺)と博多湾を結ぶ「外堀」として築かれたものです。現在は埋められ、地上は道路(黒門川通り)となり、地下に川が流れています。以前は、この川に「黒門橋」が架かり、荒戸側に福岡城下の出入りを管理する黒門(呉門(くれもん)とも呼ばれた。)がありました。荒戸側の土手は、松を植えた「松土手」となっていました』とあるのが、この地名となった(或いは春生の少年時代にはまだ実際の松並木の土手であったものかも知れない。
「修猷館」梅崎春生の出身校(旧制中学校)である、現在の福岡県福岡市早良区西新にある(春生在校時もここ)福岡県随一の進学校である県立修猷館高等学校。
「安住正夫」不詳。但し、この名でグーグルで検索をかけると、検索結果の野上芳彦「戦前と戦後の谷間での青春の日々 我等が修猷館時代(旧制中学から新制高校へ)」(二〇〇一年文芸社刊)の検索画面上の解説(?)の文章に(但し、リンク先をクリックしてもその文章は存在しない)、『安住正夫等有名元教諭等も登場する』とあり、また『戦後、修猷館をはじめとする』『学校もの』『の出版物が相次いだ。その一』つ『に西日本新聞社の『修默山脈』(昭和四十六年)など』があったといった感じの文章の一部を垣間見ることが出来る(偶然ながら、本随筆の連載されていた『西日本新聞』の名が出るのも目を引いた)。以上から彼が修猷館中学校の名物教諭の一人だったことが知れる。さらに気になることが今一つあり、後年、梅崎春生自身が編集員となり、彼が詩篇を発表する場ともなった熊本第五高等学校の校誌『龍南會雜誌』の第百七十六号(大正一〇(一九二一)年二月二十一日発行)に「龍南会沿革史(水泳部)」 という記事があり(リンク先は「熊本大学学術リポジトリ」内の原本からのPDF版)、筆者が『安住正夫』(因みに梅崎春生の作品の同誌初出である詩篇「死床」・「カラタチ」は(昭和八(一九三三)年七月二日発行の第二百二十五号である。リンク先はそれぞれをその初出誌に基づいて私が電子化したもの)となっている点である。この人物と同一人物であるかどかは不明であるが、その可能性は無きにしも非ずと思い、敢えて追記しておいた。「安住先生についてはいずれ書くことがあるだろう」と春生は注記しているけれども、少なくとも底本の「南風北風」の後の抄録分や、その他の底本に載るエッセイ類には安住正夫に関わる記事はない模様である。識者の御教授を乞うものである。
「百道(ももじ)」百道浜。かつては「百道松原」と称される松の人工林と海水浴場で知られたが、現在は埋め立てと宅地化が進んで海水浴場の面影は全くない。福岡市博物館公式サイト内の「百道浜ものがたり」がよい。]