芥川龍之介 手帳3―29~31
《3-29》
○ Sergée (Seryósha) sensitive
Ilyá sensuous
14
{母型也
女 Tánya (Tatyána) 16{母14
{母似
Masha (Maria) 10才 weak & sickly intelligent and ugly
Pietro
[やぶちゃん注:これは、一八八〇年にヤスナヤ・ポリヤナのトルストイを訪れたツルゲーネフを描いた「山鴫」(大正一〇(一九二一)年)の構想メモである。
「Sergée (Seryósha)」「セルゲイ(セリョージャ)」ロシア人に一般的な男性名括弧内はその愛称形であるが、これは上記の構想であるから、一見、イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(Ивáн Серге́евич Турге́нев:ラテン文字転写(以下同じ):Ivan Sergeyevich Turgenev 一八一八年~一八八三年)を指しているかのように見えるが、以下との対応と「山鴫」から見て、これは「山鴫」にちょっと顔を出す、レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Лев Николаевич Толстой:Lev Nikolayevich Tolstoy 一八二八年~一九一〇年)の音楽家の長男Сергей(一八二六年~一九〇四年)である。
「sensitive」感じ易い・傷つき易い・霊感がある等の意もあるが、ここは「神経質な」であろう。
「Ilyá」トルストイの三男(「山鴫」では「二男」とする)イワリヤ・トルストイ(Илья́ Льво́вич Толсто́й:Ilya Lvovich Tolstoy 一八六六 年~一九三三年)のこと。小説家となった。
「sensuous」敏感なの意もあるが、「山鴫」にやはりちょっと顔を出すイリヤからは「気持ちのよい」であろう。「14」はまさにこの時のイリヤの年齢である。
「Tánya (Tatyána)
16」(Графиня Татья́на Льво́вна
Сухо́тина-Толста́яs:Tatiana Lvovna
Sukhotina-Tolstaya 一八六四年~一九五〇年)はトルストイの第二子で長女。当時十六歳。
「Masha (Maria) 10才」(Мария Львовна Толстая 一八七一年~一九〇六年)はトルストイの第五子で次女。数えなら十歳。
「weak & sickly intelligent and ugly」「か弱くて病弱 知性的で(あるが)不細工」。決定稿「山鴫」では描かれていない。マーシャは肺炎で三十五の若さで亡くなっている。彼女が綺麗でないかどうかは、これ、個人の好みではある。
「Pietro」第六子で四男に夭折したピエトロ(ピーター)(Пётр 一八七二年~一八七三年)がいるが、ご覧の通り、この時は生まれていない。]
○村の子(Sheep Skin Jacket の匂)
[やぶちゃん注:「山鴫」では冒頭で村の子供らが描かれている。]
○licorice (子供の咳)10 drops
[やぶちゃん注:「licorice」甘草のこと。生薬や甘味料として根(一部の種では根茎を含む)を乾燥させたものを用いるマメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza の類。漢方薬に広範囲にわたって用いられ、本邦で製造販売されている漢方薬の約七割に用いられている。「日本薬局方」に於いてはウラルカンゾウ(別名「東北甘草」)Glycyrrhiza uralensis 又はスペインカンゾウ(別名「西北甘草」・「リコリス」Glycyrrhiza glabra から採取されるものを「甘草」の基原植物(生薬の原材料である植物を狭義で示す場合の謂い)とされており、グリチルリチン(グリチルリチン酸)を二・五%以上含むものと規定されている。生薬としては喉の痛みや咳を鎮める効果があるとされる(主にウィキの「カンゾウ属」に拠った)。]
○Tatyana Alexandrovna Yergólski
[やぶちゃん注:Tatyana Alexandrovna Yergolsky(ロシア語では Татьяна Александровна Ергольский か?)で、これは英文サイトなどを見るとイリヤの叔母(父方か母方か不明)と出るので、トルストイの妹(或いは義妹)であるらしい。]
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《3-30》
○Yas 井戸
[やぶちゃん注:不詳。ロシア語で井戸は“колодец”(カロージェッツ)で「Yas」ではない。]
○Tolstoi 仕事中さはがせぬ 子供の心を見ぬく
[やぶちゃん注:ここまでは総て「山鴫」のかなり踏み込んだメモである。]
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《3-31》
○Pater noster qui es in cœlis Ave Maria gratia plenta
[やぶちゃん注:ラテン語で、前半は「主の祈り」(イエス・キリスト自身が弟子たちに教えたと新約聖書に記されている祈禱文)の冒頭「天にまします我らの父よ」であり、後半は「アヴェ・マリア」(聖母マリアの祈り)の冒頭で、「恵みあふるる聖母マリア」の意である。]
○裸で死ぬのは嫌だと云ふのに風呂中裸で死ぬ
戸じまり 夫(外出中)の著物を揃へる
}心麻
平生自殺しても夫に迷惑はかけぬと云ふ}腦溢
[やぶちゃん注:ブラウザでの不具合を考え、底本の字配と異なる処置を施した。「}」は底本では大きな一つの「}」。重度の急性心臓麻痺や、脳溢血でも動脈瘤破裂による大出血であれば「迷惑はかけぬ」速やかな突然死に至る。]
○星ですよ 意地深重 眞鍮の金盥
[やぶちゃん注:「地」はママ。]
○Pelion ―― giants
Parnassus ―― gods
[やぶちゃん注:「Pelion」ペリオン(ピリオン)山.ギリシア東岸に近いテッサリアにある山でギリシア神話ではケンタウロスの智慧者ケイロン(Chiron)の棲みかとされる。標高千六百メートル。英語には「困難に困難を重ねる」という意味の“pile Pelion on [or upon] Ossa”という表現があるが、これが同神話の巨人アローアダイ(Aloadae)が天に登ろうとしてオッサ(Ossa)山に Pelion 山を積み重ねたという神話に由る成句で、「giants」(アローアダイは一説に双子とするから複数形でもおかしくない)と連関はある。
「Parnassus」パルナッソス山は中央ギリシャのコリンティアコス湾の北、デルポイの上に聳える石灰岩で出来た山。古代には。ゼウスと女神レトの子で太陽神ヘリオスとも同一されたアポロや芸術神ミューズを祀った聖山で、ギリシア神話ではニンフやパンが住むとされた。]

