宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 美童の節義
宗祇諸國物語卷之二
美童の節義
或年、秋の最中(もなか)、攝州住吉に詣で、四社順禮し、法施(ほつせ)奉り、廻廊樓閣徘徊するに、かうがうしく尊く、他に異(こと)なる靈地、數ふるに、詞、たえたり。千(ち)もとの松の木の間より、海づら、限なく見え、沖津波(おきつなみ)、入日をあらへば、ゆきゝの舟、島がくれゆく。難波寺(なにはでら)のかね、暮れを告ぐるより、早(はや)、初月(はつづき)の山の端(は)にくまなくてりつゞきたる、更に今の夜だに、晝と照りわたれば、歸るべき道を忘るゝは、美景によつて、と、いひし、宜(むべ)なる哉、おもほえず、そり橋のかた邊(ほと)りに旅油簞(たびゆたん)かた敷きて狂歌す。
住の江に難波のあしをふみこふて
ふむや潮のよるの蛤(はまぐり)
かくて戌亥(いぬい)のかね過ぎ、子(ね)の程ちかく成るに、專(いとど)、物さびわたり、松の風、磯打つ波に心耳(しんじ)をすませば、夜露(やろ)、あさ衣の袖をひたす。睡臥(すゐぐわ)の軒、求めんと草むしろを身じろく頃、男一人、白衣(はくえ)に長き刀を橫たへ鉢卷したる、月かげに定かならねど、年の程、廿二、三と見ゆ。肘(うで)まくりし、刀に手をかけ、社内の邊りを見賦(みくば)り、そこなる石に腰をかけたり。こは怪し、何事にや、我を見つけたらましかば、いかゞとがめん、忍ぶにはしかじ、と、松根(しようこん)に身をよせ、木の間より密かに覗く、暫しして、又難波の方(かた)より男一人、是も白く裝束(さうぞく)して、長からぬかたな、あら繩をもて鉢卷し、息まき切つて此所に來る。初の男、聲をかけて、其方おくれてや、かく遲參すると、難波の男、息つきながら、其の事よ、和殿(わどの)が左(さ)思はんほどに、とくにと、心はやりぬれど、多くの人目しのびて、心ならず時うつり、道も遙かにて今になりぬ。全くおくるゝにあらず。あまりに道を急ぎ、氣(き)疲れたり。迚(とて)もの事に、水たうべて喉(のんど)うるほすいとま得させよ、と、御手洗川(みたらしがは)にて水すくひなど身繕(みつくろ)ひし、刀をぬぎ、いざ、互の最後、今なりといふより早く、双方切むすぶ事しばし、祇は只、夢に幻(うつゝ)をそへたるやうに、身をひやし、胸つぶる計り、何なる遺恨にてかく鬪諍すとは知ねど、出でゝ扱はばやと思ふに、そも又、還つて血氣(けつき)のいきほひに誤まつて、刄にかけられんもよしなしと思ふ程に、此等もさすが勝負を好むと見えて刀劒の業(わざ)たゞ者と見えず、秘術をつくせば、兩方、未だ薄手(うすで)をもおはず、言葉をかけて息をつぎ、言(ことば)をかけて切り結ぶ事、三度(ど)に及ぶ時、難波の方より、年の程、十六、七とみえし美童、黑き小袖の袖高く取り、我れにひとしき小者に灯燈かゝげさせ、月の夜、猶、あかく、一文字にかけり來り。兩人の勝負、今、暫く待ち給へ、と、聲をかくる。是に、猶豫して兩方退(しりぞ)く時、美童、難波の男にむかひ、淚を流し、君、かく死の大事を思ひ立ながら、何ぞ我にしらせ給はぬ、漸(やうや)う名殘にみよ、と、計りの置文、日頃にかはりし御事、所詮、此の濫觴、我れ故なれば、先づ、此の身、黄泉(くわうせん)のしるべすべしといふいふ、上の衣をとれば、下には白き裝束したる、偏(ひと)へに死出(しで)の用意也。男、怒つて云く。我れ、此の首尾に取結ぶ事、全く卒爾(そつじ)の陽氣(やうき)を求むるに非ず、本心を惑亂するにもなし。日頃、そこと兄弟(はらから)の約(やく)をなし一命(めい)をゆづりあひたる事、人も知たる事ぞかし、今、放逸(はういつ)の者に一言(ごん)をいひかけられ、おめおめと其方を渡し、隣家の花、遠山の月と詠めて、世の人口(じんこう)、いかゞはせん、詮(せん)ずる所、運を天に任せ、一刻の勝負に安否をきはむべく忍び出でたり。是をだに、しらすまじかりしを、若(も)し、我れ、討れ失せなん後、最後の一筆をさへと我公(わぎみ)が恨みん事を思ひて一通をとゞめし事、助太刀の爲めと敵(てき)も思ふなるべし。長詮義(せんぎ)に夜や明けん、早、疾く歸れ、と引きたつる、美童、更に歸る色なく、又、堺の男に向ひ、和殿が無體(むたい)の一言に、今、此の難儀、出で來ぬ。汀(みぎは)の松の枝(えだ)わけて、よそ吹く風を騷がすも、本(もと)の根ざしは我れ也。自(みづか)ら屍を爰にさらす。此の後、互(たがひ)の意趣を捨てゝ、願はくば一道名(みやう)がう賴み申す、と、いひ捨てゝ、既に自害に及ぶ、男、慌てゝ押しとめ、至極の道理、聞わけぬ。松の根ざしは有るとても、騷がす風のあらずば、千歳(ちとせ)の色を見すべきに、一身(しん)の惡念より、かゝる事によしなき死を輕くして、人口遁る所なし。かひなき露命(ろめい)あるによつて、ぬしある人をこふるなれば、只、某が命(いのち)とつて、心安く、契り給へ、と、刀をすてゝさしうつぶくに、難波の男も心とけ、和殿(わとの)が邪氣(じやき)を翻へして、命(めい)を捨て給ふ事、哀れにもやさし、此上は、此の者をわとのへ渡し參らすべし、と、いへば、堺の男、泪をながし、いか計りの前業(ぜんごふ)にか、此の事、思ひ初(そ)めしより、今日(けふ)の今宵(こよひ)の今迄、忘るゝ暇(いとま)なくて、かゝる事をなせり、我れ乍ら悔(くや)しとやいはん。道ならぬ道をいひかけ、乞ひうけんも、よしなし。此の後、何の恨か有明(ありあけ)の、月落ち、鳥(とり)啼き、漸(やうや)う、東の雲、白くなりぬ。とく、ぐして歸り給へ、と、いへば、難波の男、よろこばしげに、小笹(ざゝ)の露をしたでて酒と號け、かた計りの祝儀を調へ、互(たがひ)に式臺(しきだい)して南北へ別れさりぬ。祇は一木の松かげに居て、此の事を見屆け、懷筆のすさみにせし、誠に壁(かべ)に耳、天の言(ものい)ふといへるたぐひにや、人はしらじとこそ、此者どもは思ひけめ。
■やぶちゃん注
若衆道の分らぬ方には、この話のしっとりとした情話の深さは御理解戴けぬものと存ずる。されば、そうした言葉で言っても判らぬことは注でも一切、語らぬこととした。
・「攝州住吉に詣で、四社順禮し」現在の大阪府大阪市住吉区住吉にある住吉大社は四柱を祭り、それぞれが独立した宮を持ち、四柱を総て合わせて「住吉大神(すみよしのおおかみ)総称して海神として信仰される。第一本宮が底筒男命(そこつつのおのみこと)を、第二本宮が中筒男命(なかつつのおのみこと)を、第三本宮が表筒男命(うはつつのおのみこと)を祭り(この三柱を合わせて「住吉三神」と呼ぶ)、第四本宮に神功皇后を祀る(「住吉大神」と言った際は、彼女を除く場合も含める場合もある)。境内の奥から第一・第二・第三本宮が縦(東西)に並び、第三本宮の向かって右(南)に第四本宮がある(ここはウィキの「住吉大社」に拠った)。
・「難波寺(なにはでら)」現在は大阪府大阪市生野区にある臨済宗月江山難波寺(なにわじ)。但し、ウィキの「難波寺」を見ると、天平八(七三六)年に『聖武天皇の勅命により行基によって、奈良東大寺の大仏開眼法要のため、遣唐使の船にて来日したベトナムの僧侶を宿泊させるため、現在の天王寺区東高津町に創建されたと伝えられ、当初、三井寺の直末として天台宗に属していた。室町時代に入ると荒廃し、江戸時代に入って妙心寺塔頭後花園院の卓同和尚により中興され臨済宗に改められた』。大正一四(一九二五)年に『現在地に移された』とある。この旧位置(現在の位置ではない)は住吉大社から六・五キロメートルは離れており、やや鐘の音のロケーションとしては遠いように感ずる。しかも、引用にある通り、宗祇が生きていた時代には難波寺は荒廃していたから、撞く鐘や僧があったどうかも、実は怪しいのである。寧ろ、「難波」(にある)「寺」院という一般名詞でとっておいた方が無難なように思われる。
・「旅油簞(たびゆたん)」「油簞」は「油單(単)」とも書き、湿気や汚れを防ぐために簞笥や長持ちなどに掛ける覆いで、単(ひとえ)の布又は紙に油をひいたものを指すが、これは外出や旅中の風呂敷や敷物などにも用いられた。
・「戌亥(いぬい)」午後九時頃。
・「子(ね)の程ちかく」午後十一時近く。
・「御手洗川(みたらしがは)」神社の近くや境内を流れており、参拝人が口を漱ぎ、手を洗い清める川の一般名詞としての呼称。
・「扱はばや」仲裁したいものだ。
・「刄」「やいば」。
・「刀劒」「とうけん」。
・「我れにひとしき小者」宗祇自身に等しい年恰好の家来。
・「灯燈」「ちやうちん(ちょうちん)」。
・「猶豫」「西村本小説全集 上巻」では「ゆよ」とルビする。
・「小笹(ざゝ)の露をしたでゝ酒と號け」「したでゝ(酒)」がよく判らない。「西村本小説全集 上巻」でもここと同じになっている。「號け」は「なづけ」(名づけ)で、以下で「かた計(ばか)りの祝儀を調へ」と言っているのだから、ここは難波の男と美童の祝言の祝い「酒」と喩えるのであるからして(同時に堺の男と二人(難波の男と美童)の別れの水盃の趣向も背後にあると読む)、ここは或いは「したでて」ではなく、「したてて」(仕立てて)であって、小笹(おざさ)におかれた朝露を祝言のそれに仕立てて祝い「酒」と名づけて」の意味ではなかろうか? 大方の御叱正を俟つ。
・「式臺(しきだい)」は「敷台」とも書き、本来は玄関の上がり口にある一段低くなった板敷きの部分を指す。ここは客を送り迎えする所で、客に送迎をするための部屋がかく略されものであるが、ここはまさに別れの挨拶そのものを指している。
挿絵は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正した。
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