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2016/07/12

甲子夜話卷之二 5 京都總撿校の藏、神祖拜領壺の事

2―5 京都總撿校の藏、神祖拜領壺の事

豐川勾當の話しは、京の總撿校の所に、嘗て神祖の賜し御物ども有り。一つは色ある大壺に【色は忘る】葵の御紋つきたり。此壺の故は、其始め三宅撿校【稱忘る、猶正すべし】に賜しものにして、其時撿校この壺の名は何と申候やと申上げれば、御答には、名は無し。今かく治平の世となりぬれば、泰平の壺とも云べしとの上意にて、撿校忝く拜領してける夫より今に其御名を傳稱して、年首の佳儀には、撿校勾當の盲人、皆この御物を拜奉り、中に入りたる酒を頂戴して禮飮すと云。又鳴戸と名づけし御琵琶も同じ撿校賜りて、今に傳ふ。これも上意には、戰爭の際にはかゝるもの用にも立ず。今治安なれば、平曲【平家なり】の如きも、心安く聽べし。因て下さるるとなり。今に至て總祿所の傳寶とす。盲人の坐までも御手の屆くこと不思議なる計なり。

■やぶちゃんの呟き

「京都總撿校」「撿」は「檢」に同じい。近世日本の盲官(盲人の役職)の最高位である検校(けんぎょう)でも日本国中の盲官の座を纏めるために京都に置かれた最高位。江戸には関東の座の取締をするために総録(そうろく)検校(文中の「總祿所」はその本部)が置かれていた。こうした序列化や権利は江戸幕府が障碍者や被差別者らに行っていた組織内階級化による抜け目ない支配構造の一つである(但し、その中で被差別者や障碍者らが組織立った自律的で理想的な集団生活や教育的組織を実現し得た利点も見逃してはならない)。ウィキの「検校」によれば、その起源は『仁明天皇の子である人康(さねやす)親王が若くして失明し、そのため出家して山科(現在京都市山科区)に隠遁した。その時に人康親王が盲人を集め、琵琶や管絃、詩歌を教えた。人康親王の死後、側に仕えていた盲人に検校と勾当の』二官が『与えられた。これが検校と呼ばれる盲官の始まりといわれている。また、人康親王が坐って琵琶を弾いたという琵琶石は後に盲人達により琵琶法師の祖神として諸羽神社に祭られている。「法師」と呼ばれるのは、検校は剃髪し、正式な検校専用服(検校服)は僧服に近く、また実際に僧職となる者もいたからである』とし、南北朝から室町時代にかけて平家琵琶(一方流)演奏家であった検校明石覚一(あかしかくいち 正安元(一二九九)年頃~応安四年/建徳二(一三七一)年)が「平家物語」を纏めたが、彼は『また、足利氏の一門であったために室町幕府から庇護を受け、当道座』(中世から近世にかけて存在した準公認の男性視覚障碍者の自治的互助組織。視覚障碍者の地位向上や生業の安定を図るものであったが、生業に関して師匠から弟子へ技能を継承する教育機関としての役割も担った)『を開き、検校は当道座のトップを務めた』。『江戸時代に入ると、幕府は盲人が当道座に属することを奨励し、当道組織が整備され、寺社奉行の管轄下ではあるがかなり自治的な運営が行なわれた。時代の趨勢により、平曲はこの時代においては次第に下火になり、代わって三曲つまり地歌・箏曲・胡弓が台頭する。検校の権限は大きなものとなり、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。当道座に入座して検校に至るまでには』実に七十三もの『位階があり、検校には十老から一老まで』十の『位階があった』。『当道の会計も書記以外はすべて視覚障害者によって行なわれたが、彼らの記憶と計算は確実で』、一文の『誤りもなかったという。また、視覚障害は世襲とはほとんど関係ないため、平曲、三絃や鍼灸の業績が認められれば一定の期間をおいて検校まで』七十三段に『及ぶ盲官位が順次与えられた。しかし、そのためには非常に長い年月を必要とするので、早期に取得するため金銀による盲官位の売買も公認されたために、当道座によって各盲官位が認定されるようになった』。『検校になるためには平曲・地歌三弦・箏曲等の演奏、作曲、あるいは鍼灸・按摩ができなければならなかったというが、江戸時代には当道座の表芸たる平曲は下火になり、代わって地歌三弦や箏曲、鍼灸が検校の実質的な職業となった。ただしすべての当道座員が音楽や鍼灸の才能を持つ訳ではないので、他の職業に就く者や、後述するような金融業を営む者もいた。最低位から順次位階を踏んで検校になるまでには総じて』七百十九両が『必要であったという。江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった』。『江戸時代には地歌三弦、箏曲、胡弓楽、平曲の専門家として、三都を中心に優れた音楽家となる検校が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となった。磐城平藩の八橋検校、尾張藩の吉沢検校などのように、専属の音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいた。また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる』。『その一方で、官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にするため、元禄頃から幕府により高利の金貸しが認められていた。これを座頭金または官金と呼んだが、特に幕臣の中でも禄の薄い御家人や小身の旗本らに金を貸し付けて暴利を得ていた検校もおり、安永年間には名古屋検校が十万数千両、鳥山検校が一万五千両など多額の蓄財をなした検校も相当おり、吉原での豪遊等で世間を脅かせた』。元禄七(一六九四)年には『これら八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受け』てもいる。

「豐川勾當」「とよかはこうたう(とよかわこうとう)」。江戸で活躍した平曲家。盲官には位階順に検校・別当・勾当・座頭などがあった。

「神祖」家康。

「賜し」「たまひし」。

「故」由緒。

「三宅撿校」不詳。同名の検校はいるが、文化年間なので話にならない。

「忝く」「かたじけなく」。

「年首の佳儀」定例の高等盲官の年始の祝儀式。

「鳴戸」不詳。現存しない模様。篳篥(ひちりき)の名器にならば同名のものが嘗てあった。

「聽べし」「きくべし」。「べし」は可能。

「計」「ばかり」。

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