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2016/07/21

河畔に棲みて(一)~(九)   杉田久女

[やぶちゃん注:どうもここ数ヶ月、どうにも気分が滅入っていっこうに晴れやらぬ。

 さればこういう時は、極私的に、全く個人的に、誰のためでもない電子テクストをやらかそう。

 しかし、「誰のためでもない」とは言いつつも、自慰的仕儀は意に沿わぬ。

 されば、恐らくは現行では殆んど誰も読んだことのないもの、読みがたいもの、が、これ、よかろう。

 そうして原則、注は附さぬのだ。

 といっても結局、私の神経症的気分はそれを許さぬだろう。一部、どうしても附さねばならぬ、したい、と感じたものは本文内の段落末にストイックにポイント落ちで入れ込んではどうか。

 これはこれで、私の切なる欲望だから私には差し障りは、ない。

 さればこそ、これ以上は、気は重くは、なるまい、よ。

 

 まず、愛する俳人杉田久女の小説にしよう。

 

 「河畔に棲みて」は久女満二十八の大正八(一九一九)年に発表された、恐らくは彼女の処女小説である(久女の俳句が『ホトトギス』に初めて載ったのは大正六(一九一七)年一月で満二十六)。同年年初の『大阪毎日新聞』懸賞小説募集に応募したもので、選外佳作となったが、評者からは「素直に書けている」とかなり高い評価を受けた(この際、別な形での採用発表を勧誘されてもいる)。高浜虚子の弟子で『ホトトギス』編集人であった長谷川零余子(れいよし 明治一九(一八八六)年~昭和三(一九二八)年)が、この原稿を貰い受け、彼自身が編集していた同年発行の『電氣と文藝』の、一月号から三月号に掲載発表されたもので全二十七章である。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、執筆年を考え(幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されている)、恣意的に多くの漢字を正字化した。傍点「ヽ」が多用されているが、これはブログでは太字に代えた。踊り字「〱」「〲」は正字に直した。

 因みに、この舞台となった旧居とロケーションを北家登巳氏のサイト「北九州のあれこれ」の「板櫃川河口」で詳細に現認することが出来る。画像も豊富で本作を鑑賞するにすこぶる相応しい。是非、ご覧あれ。【2016年7月21日始動】]

 

 

 河畔に棲みて

 

       一

 

 房子は結婚後直ぐ夫の良三と一緒に、其つとめ先のK市へ來た。

 四人の兄妹の一番末つ子で何の不自由もなく大きく成つた彼女が俄かに田舍の教師の妻として質素な生活をしなければならぬと云ふ事は可成り房子に取つては苦しい努力であつた。が良三は長男で、其家と云ふのは田舍で相應な資産家であつたので、長女が生れる頃迄は彼等二人は至極呑氣な苦勞のない生活をしてゐた。處が結婚してから五年目の秋良三の大事な母親が死んで後は、彼の父は賤しい妾を引き入れ家の中は一時動搖し波瀾も樣々起つて良三夫婦も從來の樣に呑氣にのみはしてゐられなくなつた。はじめて悲しい辛い目にも逢つた。けれども何と言つても父の家とは三百餘里も離れて住つてゐたので直接其厭(いと)はしい渦の中にも卷き込まれず、心配も苦勞も、對岸の火事を見る樣な心地であつた。

 酒も煙草も呑まず眞面目一方の夫を持つた房子は、或時には女なみの不平も持つたが親子三人水入らずで、丈夫で、不自由勝の生活の中にも好きな繪を畫いたり、野菜や草花をつくつたり充分田園趣味を味はう事が出來る境遇に居ると云ふ事を樂しく思つて暮して來たのであつた。[やぶちゃん注:「不自由勝」の「勝」は、ともすればそうなり易い・そうであることの方が多い状態を表わす接尾語の「がち」である。]

 實際この九年間の彼女の生活には強ひて苦勞らしい苦勞と云ふものもなく平穩な單調な生活をかき亂されずにズツと來てしまつた。

 丁度其九年目の夏に房子は次女の光子を生んだ。

 長女の方はもう六つに成つてゐて格別手はかゝらなかつたけれども、産後の肥立が暫らく惡かつたのと乳が出なかつたりして赤ン坊に手のかゝる事は大變だつた。

 それに産前から雇つてあつた女中も、お宮詣りがすむとまもらく歸へしてしまはなければならなかつた。九月の末になると急に朝晩はうすら寒くなつて、引しまつた心持で房子は片手に赤ン坊を抱き抱へつゝ、おむつの洗濯もし裁縫もする。かなり忙がしい思ひをして暮すのであつた。[やぶちゃん字注:「まもらく」はママ。誤植或いは「奈」(な)と「良」(ら)の一部の仮名変体は似ているので校正者の誤読であろう。]

 十月に入つてからは天氣がズツとつゞいた。

 二丁許り下手で海へ注ぎ入る川添ひの房子の家では、緣先の日當りのよい庭に二畝ばかりの葱や、菜が植ゑられてあつた。畠のまはりには四五木の立木が朝顏の枯れ草を卷き付けたまゝ立つてゐた。

 其立木の枝から枝に竿を渡して小さい襦袢だの赤い着物だの、お襁褓だのが每日干された。畠の一方には、背の高い雁來紅が五六本秋晴れの遠山の藍を背景にして赤く燃えてゐた。[やぶちゃん注:「雁來紅」音は「ガンライコウ」で、雁の来る頃に紅くなることに由来する「葉鶏頭(はげいとう)」の別名であるが、ここは「はげいとう」と当て読みしたい。]

 かうした彼女一家の生活に突然變化を與へた者は、ヒヨツコリと此河畔の家を訪づれた房子の兄の透(トホル)であつた。

 最初、突然に東京の父から「透も今度暫らく御地に行く事と決定して出立した。委細は到着後本人に御聞下さるべし」

と云ふ例の簡單な、夫宛の手紙を讀んだ時、夫婦は顏を見合はして、

「まあどうしたんでせう」

「まだ口もしつかり定まつたのでもないのに……」と房子が言ふと「さうだ。折角遙る遙る來られて、長く遊ぶ樣にでもなるとお氣の毒だ……」と良三も訝かつた。

 長く離れて暮して居る此兄を大變氣兼ねの樣にも思へたし、今迄の水入らずの中に急に大人を一人交じへる事の色々の氣遣ひ、それから赤ン坊片手の忙がしさなど考へ合せて、こんな、不自由がちな、客布團一枚、勝一枚もろくろく無い樣な生活の中に、察しもなく押しかけるなんて、すこし無理だと房子は考へて、妙に沈んでしまつた。

 でも又やつぱり親身の情で三四年振りに兄に逢へるのは大變待ち遠しい心地もした。

「丁度明日あたりですね」

 房子は日附を指折つて見たり古い汽車の時間表を繰つたりした。

 

       二

 

 翌旦房子は朝から兄を待つた。

 低い岡をバックにして野原の片隅にたてられた電車の停留所は房子の家の緣側から近くに見えた。

 町の方から來る電車は五分問おき位に菜畠の間を走つて來て、玆の停留所に四人の人々を吐き出しては又海邊の方へ走(は)せ去るのであつたが、電車を下りて川堤を步いて來る人々の中にも遂に兄の姿は見出す事が出來なかつた。

 夜着く汽車に違ひないと獨りぎめにきめた房子は午後になるとおんぶ羽織に赤ン坊をしよつて電車で、町へ買物に出かけた。乾燥した秋の町には綠色の半襟をかけた美しい女が步いてゐたり、飾窓には、新柄の反物や帶地が陳列してあつたりした。幅の廣い電車通りの街には活動寫眞の廣告が囃し立て、通つて居た。町角にはもう靑い小蜜柑や靑柿などを賣る女達が並んでゐた。始終郊外にすつこんでめつたに出た事のない出嫌ひの房子には、かうした街の色彩なり感じなりがかなり鋭敏に受取られた。

 房子は一寸飾窓の前に立留まつて、子供用の緋繻珍(ひしゆちん)の帶の値など讀んだ後魚市場の方へ足を移した。[やぶちゃん注:「緋繻珍」現代仮名遣「ひしゅちん」は繻子織(しゅすおり:経糸或いは緯糸の孰れかが表面に長く渡る織り方。サテン)の地に多色の絵緯(えぬき)と呼ばれる緯糸で文様を織り出した滑らかで艶のある絹織物の、赤味の強いもの。「しゅちん」という呼称は七色以上の色糸を用いたので「七糸緞(しちしたん)」と呼ばれていたものの転訛とされる。中国伝来で室町末期から織られ、幕末から明治期には専ら、打掛や女帯に用いられた。]

 そしてあれこれと買ひ整へた重い風呂敷包をさげて又コツコツと野外の家へ歸つて來たのは三時過ぎてであつた。背中で寢てしまつた赤ソ坊をしよつたまゝ水を汲んだり兄を迎へる爲めの料理をするのであつた。けれども兄は遂に、最終の十一時何分かの汽車が、直ぐ川下の鐵橋を渡りつゝあるのを聞きをはつてから暫らくの後も彼女の宅に來ないでしまつた。

 その翌朝、房子はいつもの樣に夫を送り出して仕舞つてから長女の髮を梳いてやつたり、食卓の後かた付けをしたりしてゐるところに兄はヒヨツコリやつて來た。布團らしい大きな菰包と手提鞄と絹張の洋傘太い銀柄の洋杖(ステツキ)なぞをくゝり合はしたのと是丈の荷物を車夫が玄關の板敷に運ぶ間透は土間に立つてゐた。透は高下駄の新らしいのを履いて手にはも一本毛繻子の洋傘を持つてゐた。久し振で兄を見た刹那房子は此前東京で逢つた時よりも大變ふけて、着物などもあの贅澤やが着馴れた縞の銘仙のふだん羽織に、汽車で寢起した時のうす皺をよせてゐる樣が何だか兄の此頃の境遇を語る樣にも覺えられて、じつと、車夫に銀貨を出してやる透の背をみつめるのであつた。透は落付いた態度でズツと座敷へ通つた。

「兄さん。しばらく……さぞお疲れでしたでせう」

 房子が座布團をすゝめながら叮嚀にお辭儀をすると、

「やあどうも、今度はとんだお世話になります」

 透も一寸あらたまつて挨拶した。

 上の娘は外へ遊びに行つたし、赤ン坊は寢て仕舞つたので家の中は靜かだつた。久し振りに相對した兄妹の間には、東京の兩親のはなしやら其後の御互の消息やら、いろいろな話しが次から次へと語り續けられた。話が透の今度玆へ來る樣に成つた譯に落ちて行つた時、

「僕は最初父からK市へ兎に角行けと話のあつた時斷はつたんだ。まだ就職口がはつきり定まつたんでもなし、それに僕は官吏は嫌ひだしね、東京には俳句の友達も澤山居て、どこかに世話してやらうと言つても呉れたし……子供の二人も居る房子さん處へ押しかけて來るのも氣の毒だから、と言つたんだが」と透は答へて、

 當市へ來るのなら旅費もやらうし就職口のある迄の食費其他入用の物丈は不自由ない樣に送るから直ぐ立て、でないと一切以後は窮狀を告げて來てもかまはない。と一徹な父に足許から、鳥の立つ樣に言はれて、透も不承不承都を發つて來たのだ、などとも語つた。

「それで嫂さんはどうなすつたの?」と聞くと透は淋しく笑つて、

「うん、お芳か。K市へ來る事は知らしてないんだ……」

と答へるのであつた。

 

       三

 

 房子は驚いて

「まあどうして?」と聞くと

「僕は滿洲の方へ口を探しに行くから當分居所を定めずいつ歸るとも判らない。口が定まつたら呼びよせるとかう言つた丈けだ。何しろ父から話が有つてから三日目には發ったんだからね」

「そして嫁さんはどうなすつたでせう」と房子が熱心に聞くと、

「さあ里へでも歸つてるだらう……」透の顏は流石(さすが)に曇つて居た。何でも透は、家財も鷄も一切始末してしまふ事を言ひ置いて、自分は只房子の家へ持ち運ばれた菰包と手提鞄丈を身につけて、只一人見送る人もなく知友にも知らさず瓢然と旅へ出たのであつた。此失意の兄を目前に迎へた房子は、昨日迄の何となく水臭い心持を捨て、眞心から、淋しい透の心持に共鳴する事が出來た。やがて晝に成つたが、婢もなし買ひに出てもこの近所の店には野菜一つろくなものは無かつた。この遠來の客を迎へる初めての膳の上には只三品許りの貧しい皿が並べられてゐるのみであつた。

「兄さん。お話ばかりして居たのでほんとにお氣毒な樣に何も無いんですよ」房子は心から極り惡く思つてかう言つた。

「何結構だ。僕はもう今日からお客樣ぢやないこゝの人に成つたんだもの。僕も此節は手輕に暮しつけてるよ」かう氣サクに答へてまつさきにフライに箸を付けた透は、

「これは、家でしたのか」

「はあ……」透が一口食べて其儘皿へおいて終つたのを見ると房子は何だか、こんなもの食べられないと言はれた樣でドキンとした。それは昨夜のフライの揚げ直しだつたから……。食事が濟むと、透は退屈さうに表へ出て、潮の退いた川原を眺めたり、緣先へ立つたりした。房子が子供に乳を呑ましたり、コチコチと下駄の音をさせながら風呂水を汲み込むのを見遣りつゝ、兄妹中で一番末つ子の、子供の樣に思つてゐた妹がすつかりと主婦めいて來たのをつくづくと見守つたり、産をしたせゐかふけたなど思つて見た。

 家の中は古びた疊建具で、それに天井も柱も緣も黑つぼく塗つて有る爲め一層陰氣な感じがした。

 床の間には花のない花器が置かれてる許り。目ぼしい道具もなく總べての有樣が華やかな氣分は少しもなかつた。臺所の方から手を拭き拭き出て來た妹の顏を見ると透は緣の柱に身をよせたまゝ、

「隨分荒れた庭だなあ」と思つた儘をヅケヅケ言つた。

「エエ。手が屆かないものですから」と房子は笑ひながら答へたが立ち枯れた向日葵にも枯木にもいつぱいクルクル卷き付いてゐる蔓朝顏。それから隅の方に咲いてる石蕗の黃色い花。その向うに三畝許り蒔かれた柔い冬菜の綠色。風に搖れつゝある赤い竿の着物夫(それ)等の物にも土にもいつぱいに午後の秋日がさしこんでゐる樣は、所謂庭園らしく造りつけてない荒れた侘しい感じはするが其佗しい打沈んだ庭の面に、色彩に水彩畫的の豐富な調子が見出されるのであつた。房子はすべてに明るいパツとした強い刺激を漁つて派手に暮してゐた會社時代の透を思出して、この十年この方質素な貧しい生活の中に土臭いのを樂しみに暮して來た自分と、兄と非常な隔りのあるのを知ると共に、今この古柱に、漂浪の身を寄せて、いまだに歡樂の夢を追つてゐる樣な淋しい兄の目を見るのであつた。

 殊に手傳はせて庭先で解かれた菰包の中からは、綿の薄い布團や常着が、二三枚出て來た外には俳書のみだつた。大分前からのホトトギスや俳書が可成澤山あつた。

「外の物は皆賣つても惜しくは無かつたが俳書丈はをしかつたよ。まるで二足三文なんだもの。でも是丈はどうも手離しかねて持つて來た」と透は言つてゐた。

「あの鞄の中は着物?」と房子から聞かれると透はカラカラ笑つて、

「着物は着た切り雀さ。あの中は俳人の端書だの短册許りだ」

 房子は本を高く積み重ねては何度も何度も庭先から床の間へ運んだ。そして座敷の次の間を兄の間に定めた。透は例の鞄の中から蒔繪の硯箱や文鎭筆立の樣なものを取出して並べた。筆立の中には錐。萬年ペン。耳の穴を掃除する小道具の樣な類迄さゝれた。

 

       四

 

 長い間官吏生活を續けてゐた彼等の父に從つてあちこちと子供の時から移り住んで行つた彼等は、透の中學校を卒業して上の學校へ入る時分からはズツト離れて三年目に一度か四五年目にやつと逢ふ位のもので、しみじみと兄妹らしく語つた事は無かつたのが、かうして一緒に暮す樣に成つたので當分の間は朝から話許りしてゐた。

 殊に、秋雨がじめじめと際限もなく降り出して、良三の掘りかけた畠の隅の土にも菜畠にも、うそ寒さが漂ふ樣な日は、透は障子を閉め切つて机の傍に火鉢を引きよせつゝほどきものなどする妹としきりに語り續けた。

 透は本所の某會社に十年あまりも購買の方の主任を勤めて重役の一人から非常な信任を得、透自身も其重役の爲めには骨身惜まずにつとめた。才氣走つた彼は何事もテキパキと敏活に仕上げて行つた。

 或點は豪膽でもありどこ迄も男性的に出來上つてゐる活動家の透は隨分大酒も豪遊もして居たが會社の方の仕事丈は非常な熱心でやつてゐた。處が透を引立てゝくれる其重役が肺病で死んでしまつた後は急に日頃反對派のもの達が勢力を占め日頃の妬みを一時に逆寄せて來た。自我が強くて負けず嫌ひで、阿諛の下手な透は、邪魔者扱にしてるなと氣が付くと、重役でも何にでも反對に出た。時には殊更に突當つて行つた。會社の内情に一番精通してゐるのをカサに着て、中々降らなかつた。おしまひにはヤケ半分に休みつゞけたりした。

 度々申出たが辭職の願は取上げられなかつた。そして充分會社の方の準備の出來た頃十二月も押し迫つてから突然ポンと、辭職を強ひられた。豫期した事ながら彼は非常に憤慨して即刻やめてしまつた。夫婦の仲には、結婚してから六年めに成つても子供は遂になかつた。その故か、透と其妻のお芳との間は兎角圓滿を缺いた。一つは透の素行の惡いなどの點からもあるが、一つは又、早く兩親に別れて繼母の手に育つたお芳の性質のひがみ易い、一向優しみのない氣強い性質、柔順も涙も無いと言つた樣な彼女の性質が一層衝突を容易ならしめた。でも又仲のよい時は子の無い夫婦は隨分贅澤な身なりをして芝居見に出掛たり、凝つた料理を食べて𢌞つたり。或時の透の誕生日には、知人を二三十人も呼んで盛宴を張つたりした。透の洋服にプラチナ鎖が垂れゝばお芳の指にはダイヤの指環が光る。一流の料亭に遊び更かして二時三時頃上野の家へ歸る時には大つぴらに自動車を門先に乘り付けて芳子の心を搔き亂さした。かくの如くして或時は妻に氣の毒な憂ひを抱かしめる。彼れは又時々の妻の我儘も大目に見逃さなくてはならない時があつた。透と芳子との間が次第に危機に陷つた時彼等夫婦と、兩親との間も色々な事情の爲め甚だ圓滑を缺いて居た。透は母に隨分永い間我儘も言ひ心配も苦勞も山程かけた。一徹な子に嚴しい父を執成して幾分父の怒を慰さめ和げるものはいつも母であつた。透の酒色の爲めの出費や會社の不首尾は謹嚴な古武士の樣な父の決して喜ばぬ處だつた。遊興費はすべて母の手でつけられた。けれども透夫婦は面と向つては叱言など言はない父よりも、當然あれこれと父に叱らせぬ前に叱言を言ふ親切な母を父へ惡樣(あさいざま)に告げる樣にさへひがんだ。[やぶちゃん注:「搔き亂さした」底本には「亂さ」の右に編者によるママ注記が附されている(が、私は寧ろここは特に気にならない)。なお、「執成して」は「とりなして」と訓ずる。]

 

      五

 

 そして突然夫婦は、兩親に通知もせず巣鴨へ引移つて、いよく困る迄ハガキ一本出さなかつた。父は勘當すると激怒した。種々な事の爲め次々に家庭に心配が漂つた。夏房子のお産を心配して遙々K市へ來た母は、

「透等の事は寢てもさめても心配してる。K市邊は會社も多しどうかお前方夫婦の手で勤め口を探して呉れないか」としみじみ言はれて、房子夫婦は苦勞の多い、母の爲め、兄の就職口を探す事を快よく引受た。

 だがおとなしい靜かな性質の良三は、腕も切れる代りに酒も呑み遊びもすると云ふ樣な透の性質に思ひ至つた時、少し自分には荷が重過ると感じた。怖ろしい豫感をさへ抱くのであつた。妻の房子も同じ樣な氣持がして「兄さんもお酒さへ止めなされば申分ないけれど……」と言つた。

「もう今度こそ丸一年も遊び續けて懲り懲りしたから透も以前の樣な馬鹿な事はしますまいよ。それに萬一の事があつても私達が居る以上はお前達に迷惑のかゝる樣な事は決してしない」

 母はかう言つて呉々も賴んで行つた。其後或る官吏に一寸したあきのあつた事を透の許へ知らしてやると「自分は官吏は嫌ひだがどこか會社にでもあつた節は知らして呉れ」と言ふ返事が來た。透も最初の間は高賣してゐて、可成り方々の口もあつたのを皆氣に入らないで斷つて居たが居食に約一年遊び暮して中々思はしい口も無し九州の有望な景氣を母の口から聞き一徹な父へ母からとりなして貰つて絶對に酒なぞやめる約束で來る事と成つた。話上手な透の話を熱心に聞いて居た房子は、時々ほどき物の手を休めて兄の話に切り込んで行つた。[やぶちゃん注:「居食」「ゐぐひ(いぐい)」と読む。働かずに手持ちの財産でのみ生活していくこと。無為徒食。この私藪野直史のような輩を言う。]

「巣鴨にいらつしやつた時はどんな風に暮していらしたの」

「會社をやめた當座は夫婦で每日每日遊び步いたよ。芝居にも隨分よく出かけたね。それから好きな鷄も九羽許り飼つて居た。困るとはいふものゝ夫婦切りだし多少餘裕もあつたから晩酌も每晩やつたよ。食いたいものも喰つた」

 透は面白さうに答へてカラカラと笑つた。巣鴨時代は透も茶屋遊びなどは全くやめて割合に眞面目に成つたので芳子との仲も却つて不自由の無い時代より睦まじかつたらしい。飮食の欲望は可成盛んな透も金錢には至極淡泊で、有れば有る丈パツパと成丈派手に使ひたい方なので、二三年はやつて行ける筈の貯へもぢき乏しく成り掛けて來たらしい。[やぶちゃん注:「成丈」「なるたけ」で以下の「派手に使ひたい」に係る。]

「何しろ暇なものだから俳句に凝て暮した。大抵な句會には缺かさず出席もしたし知名な俳人達とも交際した」とは何よりの自慢らしく話した後で例の鞄を押入から持ち出した。中古の天鵞絨張の鞄の中からは、俳壇で一流と言はれる人々の短册二十枚が出た。[やぶちゃん注:「天鵞絨張」「ビロードばり」。]

 透は一々夫れを讀み聞かせたり、其短册を書いて貰つた時の有樣を話したりした。其短册の中には、俳巨人と言はれて全國の俳人達から活神樣の樣に敬はれてゐる某氏のも四五枚あつた。それから又透は、夫等著名の俳人の風丰(ふうぼう)や逸話をも聞かせた。俳巨人某氏の寫生文の有難味や、能樂の非常に得意な事。夫から某老大家の話自分と句兄弟である英新聞の記者某氏が江戸つ子肌で非常に透と意氣投合し且氣持の好い人物である事などをこまこま語つて後、自尊心の強い彼れは、自己の俳句界に於いての地位を殊に力説した。自己を相應に「認めらるゝ俳人」として自負してゐる彼は、「心を引締て愈々勤め口の決定する迄は俳人等とも交遊を斷つて只管(ひたすら)謹愼せよ」と父から文通さへ止められた事を唯一の遺憾とした。種々な事情の爲めに、

「朝晩往來してゐた俳人仲間へ一言の暇乞もせずに來てしまつた。俳句は自分の生命でもあるし變に夜逃げでもした樣思はれては僕として一番殘念だ」と彼れは切に訴へるのであつた。實際透の爲めには妻に無斷で遠地へ漂浪し初めた事よりも俳人仲間と交渉を斷つた事の方が餘程苦痛らしく見えた。房子は俳句も知らず、俳人仲間の名さへ初めて聞くのであつたが一體に文學趣味を持つてゐる彼女はもの珍らしく多大の興味を以つて、兄の寶物の樣大事がつてゐる短册や、手紙、端書の類を眺めるのであつた。[やぶちゃん注:「風丰(ふうぼう)」のルビは正しい。風貌と同義であるが、風貌の場合は歴史的仮名遣は「ふうばう」であるが、この「風丰」は「ふうぼう」である。]

 

       六

 

 兄を唯自我の念の勝つた理智一點の人間の樣に思つて居た房子は每日透と膝突き合はして語る中次第に兄を理解もし今の境遇に對して同情もよせた。兄の過去を憎めない心地もした。「兄さんもうお酒はやめて眞面目に今度は成つて下さい。お母さんも本當に心配していらしたわ。折角好いとこに勤めていらしたのに、惜かつたのねえ」と言ふと、

「なあに人間だもの七轉び八起だよ。僕は決して悲觀しない。吃度(きつと)今度はやつて見せる」と緊張した面持に成つて「だが隨分一時は無茶な事をやつたよ」と其當時の殆ど常識から考へては馬鹿らしい豪遊振や物質上のケパケバしい生活を得意げに語り出す事もあつた。夫は房子などの考へも及ばぬ現實味の勝つた世間臭い物だつた。

 其生活の中には精神的な安心も、愛も、敬虔な信仰もない。只爭鬪や、上辷のした歡樂のみがあつた。[やぶちゃん注:「上辷」「うはすべり(うわすべり)」。]

「兄さんの今迄の榮華はすべて泡錢や虛飾から出來上つてるのですね。自然覆る筈ですわ。あなたは夫で面白ろ可笑くお暮しでしたでせうが、いつも遊蕩費を負ふのはお母さんなのですもの、兄さんも最う昔とは違ふのですもの、今度こそは御兩親に心配かけないで下さいな。ねえ兄さん……」

 思ひ切つて、切り出した房子の聲は震へてゐた。只自己の歡樂のみを追うて年老つた父母の心配をも忘れ、いつまでも兩親の懷を當にしてパアパア湯水の樣に使つてしまふ透の生活は、あまり物質的であつた。もすこし淸い荒(すさ)まない兄にしたい。母の苦勞を減らしたいと彼女は熱心に思ひつゞけた。

 母への感謝は忘れてまだまだ母の愛が足りない、母は長兄のみ大事にすると言つて、透は自分から優しく只の一度もしないで、寧ろ母に突當る樣にして來たのであつた。

 房子は燃える樣な熱心で、或時はおめず屈せず、物質萬能の兄を罵り母の愛を説き、母の苦心を聞かせ、或時は涙を流して兄の荒んだ心持を純なものにしたいと願つた。だが兄は盛んに房子の説に反對し不平を並べもし、自己に都合のよい説をまうけていつかな彼女の精神的な心持を受入れようとはしなかつた。のみならず、話上手な議論好きな彼は、上手に理屈をくみ立てゝ往々房子へ肉迫して來た。[やぶちゃん注:「おめず」マ行下二段活用の自動詞「怖(お)める」(現行では使用頻度が低い)の未然形に打消の助動詞「ず」の連用形が附いたもの。]

 房子は充分心には思ひつゝ筋道立てゝ、縱橫に辯説を構へる兄を説得すべく出來能はなかつた。[やぶちゃん注:「出來能」「できよう」と訓じていよう。「よう」は「能(よ)く」の音変化だから「やう」(樣)ではない。]

 が自分の眞心と熱誠を以つて必らず、母の愛をつぎ込み、兄を幾分なりとも精神的にしたいと彼女は心の中に誓つた。房子は何でも率直に、言ふと云ふたちの女なので怖れず、自分の正しいと思ふ事はヅケヅケ言つた。倂し兄妹とも至極眞面目に各自の立場立場から爭ひ合つたにもかゝはらず、彼等は決して怒つてはゐなかつた。

 火の樣に熱して語りあつてゐると頭の上で、ポカリと電氣が點いた。隣りへ遊びに行つてゐた、長女の澄子が歸つて來て、

「お母さん御飯まだ?」

と催促する事もあつた。

「おやおやもう五時過ぎてますよ。伯父樣があまり強情おはりになるものだから」

と房子は笑ひながら、仕事を片附けてソソクサと夕飯の仕度にかかる事もあつた。

 夕方もう日の暮れ暮れに房子の夫が歸つて來ると、燈の下に賑かな食卓が持ち運ばれる。「謹愼中は酒は一滴も呑むべからず。衣は寒さに堪へ得、食は飢をふせぎ得れば足る」と言ふ樣な手紙を父からは、兄の許へ寄越して來た。母からも懇々賴みもあるので房子はわざと酒はめつたにつけなかつた。每夜の樣晩酌の二三合づゝ飮みつゝあつた透の爲めには夕の膳の上に盃を見ないと云ふ事は當分の中一番苦痛であつた。

 

       七

 

 房子の家では着物は極くかまはない方だつたが食物だけは割合に氣をつけてゐた。房子の父は非常な食道樂だつたので房子も自然食物を料理する事には興味を持つてゐた。一個の馬鈴薯一本の牛蒡をも彼女は樣々に工夫して料理した。

 或時には牛の舌が煮られる事もあり、豚のロースがテーブルに並ぶ事もあつた。一寸繪心の有る彼女は、料理の體裁なども氣をつけ色彩などにも注意して樣々に變化させ美化させる事に苦心した。貧しい厨ではあつたが萬事應用して行く事に興味を見出してこの粗末な卓上にも折々豐富な料理がならべられた。だが兄の透に取つては一寸一口、盃のふちへ唇を付けないと云ふ事が非常に淋しいものに思はれた。房子達は皆で兄さん兄さんと、精一ぱいまごゝろから大事にしては呉れたが、どうか飮まして呉れとは流石な彼も言ひ出しかねて、直樣お茶碗を取り上げた。[やぶちゃん注:「直樣」これで「ぢきさま(じきさま)」とも読むが、「すぐさま」で読みたい。直ちに。]

 寢ようとすれば布團しきにも來てくれ、嫌な感じは少しもなかつたが自分の家にゐて思ひ通りにするのとは萬事勝手も違ひ時々は解きすてた過去の家庭をなつかしいとも思つた。

 何か祝日とか日曜の夜とかは房子は兄を慰める意で、河畔の店へお酒買ひにいつた。そして酒飮の口にあふやうなものを二三品つくり添へた。わづか二合程の酒を、チビリチビリと樂しみつゝ機嫌よく飮んで呉れる兄を見ると房子は兄の樣な性質の男がかうしておとなしく淋しい生活を續けてゐるのを氣の毒にも思へた。

 子供は「伯父さん伯父さん」と馴付いて、透の散步へゆくにも湯に行くにも離れなかつた。良三も透を大事にしてくれた。一家はお互にいろいろな辛さを忍んで至極平和に、最初心配した樣な氣まづさもお互にあぢははず暮す事が出來た。

 夫の良三は、兄の就職口を奔走する爲めいろいろな手蔓を賴つて方々自ら賴み𢌞つた。

 野心も企圖も燃える樣な四十に手のとゞく男が、なす事もなくブラブラと日を送る事の無聊な苦痛や、妻に別れ家をすて友にも背いて、今は彼の最も貴しとする富や權力に遠ざかり、酒色をも顧ず唯あけても暮れても貧しい妹一人を話相手としてわづかに活きて行かねばならぬ彼の心中の寂莫は非常であつた。過去の失敗も失脚も運命とあきらめて、敝履の如く榮華を捨てゝしまつた彼れは、一面に於て夫れを一向意にも介せず、

「なあに」と至極呑氣にかまへてはゐたが其半面には都會人らしい非常に鋭敏な感情をも持つてゐた。感傷的ではなくどこまでも女々しい事は口にしない性質で、

「なあに、今に盛り返して見せる。吃度僕だつて、此儘朽ち果ててしまふ樣な意氣地なしではないんだ」と力を入れて言ふのであつたが、其明晰な頭は何事に逢着しても充分徹底的な判斷を下さないでは氣がすまなかつた。彼れは苦痛をも口に出さず、内心に深く深く刻みつけ考へ詰めもした。自信の強い、或時は圭角ある物言もする兄を房子は憎めないで却つて俳趣味のどこかにひそんだ、兎に角轉んでもつまづいても、何となく元氣があつてテキパキしてゐる兄の性質を「面白い性質」だと思つた。親達に優しくないのも一つは彼の淡泊な性質からだとも思へた。房子は透の襯衣(シヤツ)を洗濯したり、朝晩のチヨイチヨイした身のまはりの世話をも成丈(なるたけ)まめまめしくした。[やぶちゃん注:「敝履」「へいり」。弊履に同じい。破れた履き物。使い物にならない物の喩えとしても用いる語。「圭角」「けいかく」。「圭」は硬い宝玉の意で、玉石にある角(かど)から転じて、性質や言動に角(カド)があって円満でない様子を指す。]

 また兄の動靜を知らせる東京への手紙の中には「兄は丈夫で至極まじめで每日暮してゐる。以前の兄とは違つて、兄も今度こそ辛抱が出來るでせう」といつも兄の味方になつた。淋しい兄の爲めせめて俳人達との文通丈許して頂だき度いと房子は手紙の度に父へ賴んだが父は「出立後まだ一月にもならぬのにもう左樣な言を申樣では前途の謹愼も覺束ない」と却つて不興げな返事を兄妹に宛てよこした。一緒に讀んでゐた透は苦笑しつゝも強ひてとは言はず、此河畔の家に世と斷つて起居した。

 

      八

 

 十一月に入ると朝晩はめつきり寒く成つたが秋晴の爽かな日和が續いた。手の無い房子の爲めに晝は赤ン坊を抱へて呉れたり、長女を連れてたまには買物にも行つたり、又川向うの漁師町を見物に出かけたり、漁船の歸つて來るのを見に行つたりして日を消してゐた透は魚釣を初める事に依つて此禁慾的な生活の中に、一道のまぎれ場を見出し得たのであつた。

 日が高く上つて川向うの水神の小雨の邊がはつきり現はれる頃になるともう土堤の黃樺色した芒の中にも橫へられた河原の船にも、枯蘆の中にも、突出た石垣の上にも鯊(はぜ)釣の人達が、雨の降らない限りは吃度十三四人も見えて居るのであつた。午前中にたつ漁師町の競り場で小海老の餌サを買つて置く事は透の每日の定つた仕事の一つであつた。彼は押入の中のあの鞄をあけて、布で縫つた財布から白銅をつまみ出して、クルクル紙にくるんで、餅の羽織の袂へほり込んで、それから緣の庇へ吊つてある魚藍(びく)を下して行くのであつた。澄子はいつも草履をバタバタ言はせながら「本所の伯父さん」に吃度從いて行つた。[やぶちゃん注:「黃樺色」「樺色」は赤みの強い茶黄色であるから、それの強く黄色に偏移した色。薹のたった薄の穂であるから薄い鬱金(うこん)色といった感じである。]

 天氣のよい日堤に立つて川面を見てゐると上潮につれてグングン小河豚や鯊などのせり上げて來るのや、銀色した鯔(いな)が跳るのを見た。當地へ來てから初めての、釣には新米な透は、素早く呼吸を會得して朝つから釣てゝもダボ鯊一尾もよう釣らぬ下手な人々の貧弱な魚藍をのぞき𢌞つては餌サの付け鹽梅や、糸を引きあげる瞬間の呼吸等ををしへる事さへあつた。そして自分では小い河豚や鯊を釣つても「江戸子はこんな小魚は喰はないや」なんて、針からはづして川中へはふり込んでしまふのであつた。尤も透の呼吸は釣好きな良三に負ふところが多かつた。晝は河豚に餌を奪られてしまふので彼等二人は夜釣一方だつた。二人は釣竿と魚藍と、提燈を持つてすぐ前の川で釣るのであつた。釣れるものは、さし潮につれて上つて來る一年子二年子位な海鰤(ちぬ)やセイゴなどで、外には鰻が大變釣れた。釣りには月のない夜がよいので暗い堤に、二人の釣る提灯が時々場所を替へたり、一とつところで釣つたりするのが、房子の家の緣側からよく見えた。時には他の提灯が彼等の提灯に近よつて行く處も見えた。或時は庭の樅の梢を透して、漁師町へ渡る橋の中程に釣る彼等の提灯が霧の中にボーツと見えた。大抵の夜が十二時、一時頃迄。暗い水の上を見つめる樣にしてもう引くか引くかと只一本の糸に心を集中してしまふので、其間は何も考へない。引かゝつたり、時には逃したり、透の興味は只魚が釣れ樣がつれまいがすべてを忘れて、魚釣に一心を傾け盡すと云ふ事それ丈が、今の境遇に於いての唯一の活動でもあり努力でもあつた。寢坊な良三の方は却つて、釣竿を手にしたまゝゐ眠などして、透の樣に眞劍で釣りはしなかつた。[やぶちゃん注:「鯔(いな)」地方によって異なるが、一般的には出世魚である条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus の成魚(「ボラ」と呼称)になる前の幼魚或いは成魚となる直前の段階十八センチから三十センチほどの大きさのものを指す。「海鰤(ちぬ)」「茅渟」の漢字表記の方がよい。条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii のことであるが、後で久女は「黑鯛」と記すところを見ると、その成魚前の中小型のクロダイをかく呼んでいるように思われる。「セイゴ」やはり出世魚として知られるスズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus で、関西では全長が四十センチ以下(一年物と二年物が含まれる)のものを一律に「鮬(せいご)」と呼ぶ。]

 時には電車に乘つて、市の西方の突堤などへ出かけ終夜荒い波を被ぶりつゝ釣りをする事もあつた。

 そういふ時は夕飯を早くすました透と良三は外套だの眞綿だのをかしな程色々着込んで、西洋乞食の樣な風をして出かけて行くので房子は、正宗の二合瓶に、一寸した折詰などを整へて渡す。夜通し防波堤の上で一睡もせず、釣りした二人は翌朝最初の電車の通ひ初めた頃疲れ切つて歸るのであつた。潮時になると途中一二ケ所防波堤のゴロゴロ岩は潮に浸されて陸へ歸る事は、潮の再びひく迄は不可能であつた。出迎へた房子は

「昨夜は如何でした。釣れましたか」と吃度聞いた。

 魚藍の中には黑鯛やアラカブ、目張、時には七八寸の海鰤が銀色の鱗を光らせて交つてる事もあり、生きた蟹がゴソゴソと魚藍の中で手足を動かす音もした。概して釣の成績は非常によかつた。[やぶちゃん注:「アラカブ」棘鰭上目スズキ目カサゴ亜目メバル科カサゴ属カサゴ Sebastiscus marmoratus の九州方言。他に「がらかぶ」「がぶ」などとも呼ぶ。「目張」同じカサゴ亜目フサカサゴ科(又はメバル科)メバル属 Sebastes(シロメバル Sebastes cheni・アカメバル Sebastes inermis・クロメバル Sebastes ventricosus の三種がいる。アカメバルは「沖メバル」とも呼ぶが、沿岸域にも棲息する)。]

 

       九

 

 透の就職口に就いて或日良三は北九州でも指折りの某實業家を訪ねて行つた。其子息達が良三の學校に通つてゐたと云ふ樣な只ほんの淡泊(あつさり)した因緣を手(た)ぐつて正直細心な良三としては押づよく出かけて行つたのであつた。その某氏の經營してゐる宏大な學校を通り拔けて、松山の麓に其邸宅があつた。

 可成立派な應接室に通されて良三は、某氏から至極居心地のよい應接を受けた。透の事を切り出して賴むと「今どこと申して空もなし直ぐにと云ふわけには行かないが兎に角御話の趣は承知した。一應近日御本人に逢ひ度い」と言はれて先づ絶望する事はない、逢つて貰へば本人の如何な人物かと云ふ事も判るからと良三は喜んで歸つて來た。透も房子も、「逢つて貰へば又話しの進め樣もある」と喜んだ。

 逢ひに行くにしても今の透は袴も羽織(紋のもの)も持つて無かつた。房子は早速手紙を書いて東京に送つた。

「まだ成否は判らないけれども某氏は當縣でも屈指の實業家でもあり、學校の方の關係もある故兄上面會の上は決定せぬとも限らぬ」由を認めドンナ袴でもよいから一着送つて下さいと母の許へ賴んだ。

 折返し來た返事は房子の姊の代筆で、申越の物は取揃へて送るが母も中々色々と、出費も多し父上は一徹で中々苦勞も多い故兄上も、充分氣をつけて心を引締め、母の情けを充分心に刻みつけて貰ひたいとの意が、あまり露骨に書かれてあるのを透は例の「なあに」と云ふ氣質なので、

こんなに僕も身を苦しみ不自由も忍んでるのにさうさう子供の樣に辛棒辛棒と、大概程度もあるぢやあないか」と大變不機嫌な顏附で、「房さんも僕の味方に成つてちつとは僕の自由になる樣取計らうべきが、兄妹の情なのに、大小洩さず、監視的に、報告して、益々僕を檻に入れ樣とするんだね」

 房子に突掛る樣に言つた。

まあ兄さん。あんまりですわ、兄さんこそひがんで……」

 房子もむきに成つてむか腹を一寸立てた。だが二人の小い爭ひも直ぐ消えてしまつた。

それから三四日すると東京から小包と菰包が着いた。小包の中には、兄の外出着や新らしい袴。それから里の定紋の付いた黑紋付の羽織に紐もチヤンと揃へてあつた。外に、大變世話になるからとて、房子や子供達へめいめい色々と、美しいものが入れ添へてあつた。房子の好物の海苔の箱入もあつた。こまこました是等の送りものを一々見入つて居た房子は事滋い母が年寄りの手に、かうして何から何迄心配して整へて下さるのが勿體なくて涙のこぼれる樣な心地がした。

 菰包の方は布團とかいまきだつた。寒がりの透は、其癖ゴロゴロ寢卷を着て寢(やす)む事の出來ない性で嚴冬でも洗ひざらしの單衣一枚で毛布の柔かい布團にくるまつて寢る癖がついてゐたので此夜頃俄かに寒く成つて來たので初め持つて來た薄布團では足りなかつた。有難い母の情けが、あればこそ、彼は、小使錢からはきものかうして布團迄も送つて貰へるのであつた。

 父は或點に於ては非常に鷹揚で、かうした子供四人の世話から家事一切、總て母が細心に苦勞して行くのであつた。布團の中には更にまだ、縫はない絣の反物が裏地もそへて「これは、不斷着も澤山持つて行かなかつたから綿入にして着せて貰たい。倂し房さんも子持ちで忙がしからうから外へ縫ひに出してくれ」とて、仕立代までも添へられてあつた。母から自筆の手紙が來たが其中には、「透も不自由であらうが辛棒して呉れ。この三圓は小使に」と、小爲替が封入してあつた。手紙は短かいけれど母の温情は溢れる程に認められ流石の透も母の情がしみじみと胸にしみた樣であつた。

「兄さん御覽なさいな。この通りお母樣はあなたを案じていらつしやるのですわ! この夏からのお母樣の心配をお知りに成つたら兄さんも、今迄の樣にお母樣を水臭いなんて思はないで下さい」

 感激した房子は熱心に母の心持を説いた。そして、兄自身も、進んで老いた、長い間世と戰つて來たあの母を喜ばせてほしい。何も品物や金錢で喜ばせなくても母は唯眞心さへ捧げれば嬉しがるのだ。例へば手紙一つにしろ報告文の樣にせず母の氣の安まる樣優しく、老人に得心のゆく樣書いてほしい。子の爲めに若い時から苦勞し續けた母は、只わづかな注意で、母に優しくすれば母は滿足する。そんな事を色々に話した時透ははじめて「さうだ。僕は今迄格別親不幸したとは思つてなかつたが、自分から進んで喜ばせ樣なんて思つた事は一度もなかつた。母の得心する樣僕の氣持も書いて送らう」兄のすなほに答へるのを聞いて房子は非常に喜んだ。

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