デパートになった阿蘇山 梅崎春生
阿蘇山に登ることになった。
初めは登る予定はなかったのである。囲碁の本因坊戦の四局目の観戦に、私は福岡市に行った。済んだらすぐ日航機で帰京する予定だったが、その前日の夜酒を飲んでいたら、NHKの海野君が、自分は九州は初めてだから二三日居残って見物して行く、という。どこを見物するんだと訊ねたら、雲仙などを考えている、との返事なので、私は奮然(すこし酔っていたから)として、
「雲仙なんかよしなさい。あれは俗化していて、箱根なんかと変りはない。阿蘇に行きなさい。阿蘇みたいな山は、日本中どこにもない。何ならぼくが案内して上げる」
というようなことを言ったらしい。
海野君は早速私からキップを取り上げ、翌朝眼をさましたら、二三日後の深夜便のキップに切り換えて、持って来て呉れた。切り換わった以上、もう東京に戻るわけには行かない。帰京する連中を見送って、われわれ二人は博多駅から熊本向けて出発した。
と書くと、いやいやながら同行したようにひびくが、実はそうでない。私は昭和七年から十一年まで、熊本の高等学校の学生で、阿蘇にも何度も登ったことがある。だから熊本ならびに阿蘇には郷愁があって、いつかは熊本に行って、阿蘇に登って見たいと、かねがね考えていた。
でも、そのためにわざわざ東京から熊本に行くのはおっくうだし、ひとりで山に登るのも骨が折れる。いつかその機会もあろうかと見送っている中に、海野君の誘いに触発されて、行くことに踏み切ったのである。むしろ私の気持はうきうきとはずんでいた。
熊本着。車で市中を一巡。熊本城の櫓(やぐら)(西南戦争で焼かれた)が復元されている。近頃あちこちの城の天守閣や櫓が復元され、それも純粋に昔を偲(しの)ぶとの意味ではなく、もっぱら人寄せや金儲けのための事業であることについても、一言ふれたい気がするが、それはあと廻しにして、かんたんに言うと今度の阿蘇登山は失敗であった。
私ひとりなら惨めな気持になるだけですむが、案内人としての役目も引き受けていたので、その点私は面目を失した。大口をたたいて人を案内することは、もう今後やめようと思う。
先ず悪いことには、天気が良好でなかった。熊本着の日までは晴れていたのに、宿に泊って翌朝になると、空は暗くどんより曇っている。ラジオで聞くと、梅雨前線が張り出して来たのだという。山間部はすでに降っているらしいが、今更とりやめるわけには行かない。ハイヤーをたのんで出発した。阿蘇に登って今日の夕方は雲仙に行こうというのだから、相当の強行軍である。本来なら汽車で阿蘇駅(元の坊中駅)に行き、登山バスで行くべきところだが、それでは時間が間に合わない。
道は意外にいい。大津街道をひた走りに走って、途中からがたがた道になったけれども、これも来年までには舗装されるとのことだ。登山口まで来るとまた立派な道となり、登山バスや遊覧バスがすいすいと行き交っている。
私たちの車もそれにまじって、うねうね道を登って行くのだが、もう小雨や霧が立ちこめていて、視界がほとんどきかない。外輪山も見えなきゃ、山頂も見えない。エレベーターに乗っているのと、ほとんどかわりはない。
登山口の終点に大きな休憩所があって、その二階に行くと、ロープウェイの駅がある。八十人乗りという巨大なもので、それに乗るとまたたく間に山頂につく。便利と言えば便利だが、ロープウェイ代も安くはない。
それを降りたらもう火口が見られるかというと、そんなわけには行かない。入園料というのを出さねば、入れないのである。山なんて公共物だと思っていたら、動物園なみに入園料を払わなければならぬ。
阿蘇町と県当局の間に、山頂の所有権についていざこざがあって、町が強制措置として柵をつくって入園料をとる、という記事を三四年前週刊誌あたりで読んだことはあるが、まだその紛争は解決していないらしい。毎日何百何千の登山客があるか知らないが、なれあいで紛争を引き伸ばして、入園料を儲けているんじゃないかと、ついこちらもひがみたくなる。一日何万円という入園料だから、ちっとやそっとでは手離せないだろう。
改札を通っていよいよ火口かと思うと、傍に小屋があって、
「上は泥でぐしゃぐしゃですバイ。この靴ばはきまっせ」
と、貸長靴代が五十円。
「洋服が濡れますバイ」
で、貸雨合羽代が五十円。そこから歩いて火口まで一分もかからないのだから、商魂たくましいと言おうか、あっぱれなものである。長靴の足を踏み出すと、すぐそこに大きな賽銭箱がでんと置いてあって、その横を通らねば登れない仕組みになっている。
「この上まだおれたちから、賽銭まで取り上げるつもりか!」
怒ってのぞき込むと、一円玉が四個しか入っていなかった。まあそんなとこだろう。賽銭箱などというものは、道ばたにまで出しゃばる性質のものでない。道ばたで金を乞うのは、乞食だと昔から相場がきまっている。
さて、火口に到着。土は小雨に濡れてはいるが、別にぬかるんでもいない。長靴なんかにはき替える必要はなかった。視界は極度に悪い。火口をのぞいても、見えるのはせいぜい三四メートルで、あとは白い霧の底に没している。煙も見えないし、景色も皆無である。海野君も失望したと見え、にやにやしながら言った。
「つまりデパートに登ったのと、同じことですな」
「うん、うん。そう考えてくれれば、ありがたい」
エレーベーターに乗って八階に行き、エスカレーターで屋上に登る。四方を見渡して、八階大食堂に戻り、ただの茶を飲んで、またエレベーターで降りて来る。
阿蘇の方も、バス、ロープウェイ、入園料、靴まで貸してもらって、つまり火口に到達するまで、足を使わないという点では、デパートの屋上登りと何の違いもない。
違うところは、デパートの方は乗り物がただなのに、この阿蘇デパートの方はおそろしく金がかかる。一挙一動に金がかかっている感じで、豪華といえば豪華だが、腹立たしいといえば腹立たしい。
私の学生時代は、阿蘇は山であった。われわれは足で登って、足で降りて来た。今はそれが山でなくなった。しかも天気が悪くて展望がきかないとあっては、鋏(はさみ)をもぎとられた弁慶蟹(べんけいかに)みたいで、目もあてられぬのである。案内人としての私の面目は、丸つぶれであった。
[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第六十三回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年七月九日号掲載分。最後から四段落目の冒頭の「エレーベーター」はママ。誤字か誤植であろうが、「えれぇー」エレベーターに乗っちまったの洒落でないとは断言出来ぬので暫くママとする。
……しかし阿蘇山よ……これだけ梅崎春生を怒らしたけれど……彼はちゃんと遺作となってしまったこの四年後の「幻化」のラスト・ロケーションには君を選んだのだ。それは、きっと恩にきらねば、なるまいよ…………(――リンク先は私のPDF版(全)。ブログ版がよいとならばこちらを――)
「NHKの海野」これは単なる推測であるが、「将棋ペンクラブログ」の「NHKで放送された棋士の忘年会」の記事に出る。海野謙三氏のことではあるまいか? この記事は冒頭で『将棋世界』(昭和四六(一九七一)年七月号)の海野謙三氏の随筆「印象に残った将棋放送」を引いてあるが、そこには、去る四月『末日で私はNHKを退学したが、実はすでに』三年前に『卒業していたのである。私はNHKに入学してドラマや演芸の勉強をしたこともあるが』、二十数年間、『放送番組としては異色の囲碁将棋の時間を主として担当できたことは何にもかえがたい喜びであり、光栄であった。本番組が発足したのは』昭和二十三(一九四八)年四月であるが、『よちよち歩きの坊やが今日よくも逞しい青年に成長したものだとまるで我が息子を見る気持ちで肩の一つもたたきたい』とある。]