原民喜作 童話「屋根の上」(原稿準拠版) 附青土社全集版 藪野直史
[やぶちゃん注:本篇は民喜没(昭和二六(一九五一)年三月十三日自死)後二年後の昭和二八(一九五三)年六月号の『近代文学』」に掲載された。
底本は広島県立図書館の「貴重資料コレクション 郷土作家の自筆原稿」の「原民喜」のこちら頁にある自筆原稿を視認した。漢字は当該字に近いものを選んだ。
原稿はペン書きで、東京文房堂製四百字詰原稿用紙三枚。電子化では原稿用紙に合わせて一行を二十字で改行した。句読点を禁則処理せずに行頭に打つのは原民喜に特異的な癖である(他の原稿では、この御蔭で、彼がその句読点を最初に打っていたかどうかが極めてはっきりと分かる)。「とうとう」はママ。
附録の青土社全集版は読み易さを考えて附加した。一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集Ⅱ」に載るものをそのまま(新字で仮名遣いの一部が中途半端に現代仮名遣になっているおかしな「定本」である)に電子化してある。こんなものが定本になるとしたら、これは原民喜にとって不幸なことと言わざるを得ない。]
屋根の上
原 民喜
かちんと、羽子板にはねられると、羽子は
、うんと高く飛び上つてみました。それから
、また板に戾つてくると、こんどはもつと思
ひきつて高く飛び上りました。何度も何度も
飛び上つてゐるうちに、ふと羽子は屋根の樋
のところにひつかかつてしまひました。はじ
め羽子はくるつと𢌞つて、わけなく下に飛び
降りようとしました。しかし、さう思ふばか
りで、身躰がちよつとも動きません。
しばらくすると、下の方では、また賑やか
に、羽子つきの音がきこえてきました。別の
新しい羽子が高く舞ひ上つてゐるのです。
「モシ モシ」と、樋にひつかかつてゐる
羽子は、眼の前に別の羽子が見えてくるたび
に呼びかけてみました。しかし、それはすぐ
見えなくなつて、下の方におりてゆきます。
「モシ モシ」 「モシ モシ」 何度よ
びかけてみても、相手にはきこえません。そ
のうちに下の方では羽子つきの音もやんでゐ
ました。
「もう、おうちへ帰らうと」 といふ声が
して、玄関の戸がガラつとあく音がしました
。あたりは薄暗くなり、家の方では灯がつき
ました。樋にひつかかつてゐる羽子はだんだ
ん心細くなりました。屋根の上の空には三日
月が見え、星がかがやいてきました。とうと
う夜になつたのです。あ、どうしよう、どう
しよう、どうしたらよいのかしら、と、羽子
は小さなためいきをつきました。
星の光はだんだん、はつきり見えて來ます
。空がこんなに深いのを羽子は今はじめて知
りました。一つ一つの星はみんな、それぞれ
空の深いことを考へつづけてゐるのでせう。
一つ二つ三つ四つ五つ‥‥と、羽子は数を数
へてゆきました。百、二千、三百千、いくつ数
へて行つても、まだ夜は明けませんでした。
夜がこんなに長いといふことを羽子は今しみ
じみと知りました。
今あの羽子板の少女はどうしてゐるかしら
、と羽子は考へました。眼のくりくりつとし
た、羽子板の少女の顏がはつきりと思ひ出せ
るのでした。羽子板は今、家のなかに靜かに
置かれてゐることでせう。羽子は、あの羽子
板の少女がとても好きなのでした。もう一度
あの少女のところへ帰つて行きたい、あの少
女も多分、僕のことを心配してゐるだらう、
と羽子は思ひました。
一つ二つ三つ四つ五つ‥‥羽子は何度もく
りかへして数を数へてゆきました。
東の方の空が少しづつ明るんできました。
やがて、雲の聞から太陽が現れました。薔薇
色の雲の間から洩れて來る光は、樋のところ
の羽子を照らしました。すると、羽子はまた
急に元氣が出て來るのでした。
■青土社全集版
屋根の上
かちんと、羽子板にはねられると、羽子は、うんと高く飛び上つてみました。それから、また板に戻つてくると、こんどはもつと思ひきつて高く飛び上りました。何度も何度も飛び上つてゐるうちに、ふと羽子は屋根の樋のところにひつかかつてしまひました。はじめ羽子はくるつと廻つて、わけなく下に飛び降りようとしました。しかし、さう思ふばかりで、身体がちよつとも動きません。
しばらくすると、下の方では、また賑やかに、羽子つきの音がきこえてきました。別の新しい羽子が高く舞ひ上つてゐるのです。
「モシ モシ」と、樋にひつかかつてゐる羽子は、眼の前に別の羽子が見えてくるたびに呼びかけてみました。しかし、それはすぐ見えなくなつて、下の方におりてゆきます。
「モシ モシ」「モシ モシ」何度よびかけてみても、相手にはきこえません。そのうちに下の方では羽子つきの音もやんでゐました。
「もう、おうちへ帰らうと」といふ声がして、玄関の戸がガラつとあく音がしました。あたりは薄暗くなり、家の方では灯がつきました。樋にひつかかつてゐる羽子はだんだん心細くなりました。屋根の上の空には三日見え、星がかがやいてきました。とうとう夜になつたのです。ああどうしよう、どうしよう、どうしたらよいのかしら、と、羽子は小さなためいきをつきました。
星の光はだんだん、はつきり見えて来ます。空がこんなに深いのを羽子は今はじめて知りました。一つ一つの星はみんな、それぞれ空の深いことを考へつゞけてゐるのでせう。一つ二つ三つ四つ五つ……と、羽子は数を数へてゆきました。百、二千、三千、いくつ数へて行つても、まだ夜は明けませんでした。夜がこんなに長いといふことを羽子は今しみじみと知りました。
今あの羽子板の少女はどうしてゐるかしら、と羽子は考へました。眼のくりくりつとした、羽子板の少女の顔がはつきりと思ひ出せるのでした。羽子板は今、家のなかに静かに置かれてゐることでせう。羽子は、あの羽子板の少女がとても好きなのでした。もう一度あの少女のところへ帰つて行きたい、あの少女も多分、僕のことを心配してゐるだろう、と羽子は思ひました。
一つ二つ三つ四つ五つ……羽子は何度もくりかへして数を数へてゆきました。
東の方の空が少しつつ明るんできました。やがて、雲の間から太陽が現れました。薔薇色の雲の間から洩れて来る光は、樋のところの羽子を照らしました。すると、羽子はまた急に元気が出て来るのでした。

