芥川龍之介手帳 1―26~41 / 手帳1~了
《1-26》
○燒■■や中に
○靑蓮院の梅白し
○落葉
○泰山の
○日にかすむ水や
○雲か山か日にかすみけり比良地琵琶の滝
○日が■すむ
○かすみつつ
○妻ぶりに葱切る支那の女かな
○白梅や靑蓮院の屋根くもり
○春
[やぶちゃん注:総てを俳句の草稿断片と認める(私は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏)」で既にそう認めて電子化している)。「滝」の字は新全集のママ。この「金剛」乗艦の二ヶ月前に養父とともに芥川龍之介は京都・奈良を、「金剛」から降りて帰る途中、岩国と京都を訪れている。この事実から、「靑蓮院」はまず、京都市東山区粟田口三条坊町にある天台宗門跡寺院青蓮院門跡と見てよいであろう。抹消の「比良地」は滋賀県の、琵琶湖西岸に連なる比良山地の藹藹たるを詠もうとした(滝ではなく)ではなかったか。それを「琵琶の滝」に模造したと読む。ただ、奈良県吉野郡川上村下多古の下多古川に「琵琶の滝」があるが、ここは相当に不便なところで、ここに養父を連れて行ったとは思えないので違うと思われ、この「琵琶の滝」というのは私には不祥である。識者の御教授を乞う。]
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《1-27》
○Lady Gregory Golden Apple
[やぶちゃん注:これは所謂、ケルト文学復興運動の中心的役割を担った、通称グレゴリー夫人、アイルランドの劇作家で詩人のイザベラ・オーガスタ・グレゴリー(Lady Isabella Augusta Gregory 一八五二年~一九三二年)の三幕物の戯曲「金の林檎」(製作年未詳)のこと。]
○Confessions of a Little Man
during Great Days
○The Crushed Flower & other
stories Andrew
[やぶちゃん注:これらは孰れも、ロシアの作家レオニド・アンドレーエフ(Леонид Николаевич Андреев:ラテン文字転写:Leonid Nikolaevich Andreev 一八七一年~一九一九年)の作品(前者は一九一七年、後者は一九一六年か。英文では確かに確認出来たが、邦訳名や原題は不詳である。識者の御教授を乞う)。]
○Leon Shestov Anton Tchekhov and other essays.
[やぶちゃん注:ロシア系ユダヤ人の哲学者レフ・シェストフ(Лев Исаакович Шестов:ラテン文字転写:Lev Isaakovich Shestov 一八六六年~一九三八年)のチェーホフについての随想集。彼には本格的なチェーホフ論「虚無よりの創造」(Творчество
из ничего 一九〇八年)がある。]
○Podmore Newer-spiritualism
[やぶちゃん注:イギリスの著述家で社会主義家として知られるフランク・ポドモア(Frank Podmore 一八五六年~一九一〇年)が亡くなる年に発表した「The
Newer Spiritualism」(「より新しい神秘主義」)。ウィキの「フランク・ポドモア」によれば、『超常現象の信憑性には個人的に確信を抱き、終生関心を持っていた。しかし思想としてのスピリチュアリズムには疑問を抱き、社会主義者ロバート・オーエンに傾倒。現在の英国の労働党の基礎となった「ファビアン・ソサエティ」創立に協力し、「スピリチュアリズムのよきライバル」と言われた』。一八八二年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで創設された「心霊現象研究協会」(The Society for Psychical
Research:SPR)には『創立時から長期間関わり続け、科学的厳正さと文才で、行過ぎた超常現象賞賛に対してブレーキの役割を果たしたという』とある。]
○21―水ヨリ
火
水 10-12 =二年
木 10-12 =一年
金 9-10 =二年
土 9-10 =一年
4、26-66、33
火 10-12-1
水 10-12-2
金 10-12-2
土 9-10-1
[やぶちゃん注:思うに、これは海軍機関学校の英語の受持ち時間割ではないかと思われる。これが大正六(一九一七)年だとすると、二十一日が水曜なのは二月・三月・十一月で、これは十一月から施行された午前中の新時間割(新たに変更されたものだけで、これ以外に変更されない午後の授業もあったかも知れない。最初期の彼の週持ち時間は十二時間と年譜(新全集宮坂覺氏のそれ)にある。但し、少し後になるが、同年譜の大正七年の九月の条には『この頃、週平均授業約八時間。授業のない日もあったが、』午前八時から午後三時までは『拘束された』とある。他の手帳の時間割記載を見ると、例えば月曜は常時、授業がなかったように見える)の転記ではないか。学校の特殊性から時間割にこの時期、途中変更があったとしてもおかしくはない。「10-12」が十時から十二時までを意味し、末尾は前の方と同じ学年であろう。ただ、中間に入る「4、26-66、33」という数字は説明出来ない。]
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《1-28》
○赤阪福吉町一 35
[やぶちゃん注:現在の東京都港区赤坂二丁目にかつてあった町名。]
○重承とその弟子
[やぶちゃん注:全く不詳。「重承」は「しげつぐ」と読むか? 次の《1-29》に板倉家が出るが、同家系には「重承」という人物はなく、「弟子」というのも不審である。後に示す板倉重昌(しげまさ)の重昌流板倉家第七代で陸奥国福島藩藩主板倉勝承(かつつぐ 享保二〇(一七三五)年~明和二(一七六五)年)なる大名はいる。延享二(一七四五)年に藩内で「福島三万石騒動」と呼ばれる一揆が発生、その後も切米騒動などに悩まされ、明和元(一七六四)年には城代家老松原克昌に財政上の失態によって幕府から閉門処分を受けている。男子がなく、跡を弟の勝任が継いだ、とウィキの「板倉勝承」にある。彼ならば小説「忠義」(大正六(一九一七)年二月)にちらと「板倉式部」の名だけで出る(主人公は「板倉修理」板倉勝該(かつたね ?~延享四(一七四七)年:後注参照)で「板倉式部」は主家当主の名として二箇所に出るのみである。なお、一部の研究者の著作や注で、この「忠義」の主人公「板倉修理」勝該を板倉勝俊(天明八(一七八八)年~天保一二(一八四一)年)と誤っているので注意されたい)。参考までに記しておくが、やはり「弟子」というのがピンとこない。識者の御教授を乞う。]
○太中里 新文新公 早三新小 新星 白 大評 時野國 百万讀
[やぶちゃん注:この八つ、一見、どれも中国絡みで意味がありそうに見えるのだが、一つだに、分からぬ! 識者の御教授を乞う!!]
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《1-29》
[やぶちゃん注:ここは見開きノートの天地を逆に使用した、数字と□○△と罫線のみの三種類(編者判断による「○」の数から。以下、同様に省略する箇所も同じなので、この注は略す)の表で意味も不明(一部は生徒の得点分布表のようにも見えないこともないが、分からぬ)なので省略する(当該部を画像で示そうとも思ったが、活字で組んであり、これは岩波新全集の編集権を侵害するので避ける。以下、同様に省略する箇所も同じなので、この注は略す)。]
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《1-30》
○弟 重昌{ {宇右エ門
{ {主水
{慶長10年4月 從五位下 内膳正 御近習出頭人 1万5千五句
{寛永14年 島原亂
{ 15年正月一日戰死
[やぶちゃん注:安土桃山から江戸初期にかけての大名で三河深溝(ふこうず)藩(現在の愛知県額田郡幸田町(こうたちょう)深溝)藩主板倉重昌(天正一六(一五八八)年~寛永一五(一六三八)年)の事蹟(「弟」とあるが、実兄は次の項の重宗)。駿河駿府生まれ。ウィキの「板倉重昌」によれば、徳川家康の家臣で江戸町奉行としてその名裁きで知られた板倉勝重の次男。慶長一〇(一六〇五)年四月十日、『主君・徳川家康の参内に伺候し従五位下内膳正(ないぜんのかみ)に叙任された』。『松平正綱・秋元泰朝とともに徳川家康の近習出頭人』(きんじゅうしゅっとうにん:江戸幕府初期の職名で将軍・大御所の側近として幕政の中枢に参与した)で、慶長一九(一六一四)年の『大坂冬の陣では、豊臣方との交渉の任にあたった』。寛永一四(一六三七)年十一月、『島原の乱鎮圧の上使となった。嫡子の重矩を伴い、副使の石谷貞清と出陣。動員された西国の諸侯を率いる命を受け下向するが、九州の諸侯は小禄』『の重昌の指揮に従わず』、『小身の重昌では統制が取れないことや一揆勢の勢いの強いこと、長期化した際に幕府の権威が揺らぐことや海外からの勢力の参加の恐れなどを鑑みた幕府は老中・松平信綱を改めて大将とし、大幅な増援も決定した』。『重昌は功を奪われることに焦慮を覚えたとされる』。翌寛永一五(一六三八)年一月一日に『総攻撃を命じるが、やはり諸軍の連携を失い』四千人とも『伝わる大損害を出す。重昌自身は板倉勢を率いて突撃を敢行し、眉間に一揆勢の鉄砲の名手・三会村金作が放った銃弾の直撃を受け、戦死』。享年五十一(三会村金作(みえむらきんさく)は駒木根友房(こまぎねともふさ ?~寛永一五(一六三八)年)の偽名。種子島出身で、糸針の穴をも撃ち通す銃の名手と呼ばれて「下針金作」と称されたという。当初は島津氏に仕えたが、故あって小西行長の家臣となり、慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦いに於いて主家小西家が敗れた後、島原の三会村に三会村金作と偽名して潜伏した。島原の乱では一揆軍に加わって評定衆を務め、この元日の幕府軍による原城再攻撃に於いて重昌を討ち取る戦功を挙げたものの、同年二月二十八日の原城落城の際に戦死した。以上はウィキの「駒木根友房」に拠った)。重昌の『辞世は、「あら玉のとしの始に散花の 名のみ残らば先がけとしれ」とされるが「咲く花の」とする説もある』。『残された嫡子の重矩は、元の副使石谷貞清と共に原城陥落の際、抜け駆けを行った佐賀藩に遅れじと突入を行った。この際、一騎打ちで敵将・有家監物を討ち取る功をあげているが、佐賀藩との抜け駆けと当初の敗戦の軍律違反により、一年ほど謹慎処分を受ける。しかしその後は老中や京都所司代を務め』、五万石にまで『加増する。重昌の子孫はその後、下野烏山藩、武蔵岩槻藩、信濃坂木藩、陸奥福島藩と転封され明治まで続いた』とある。]
重郷◎
○重宗<
重形
[やぶちゃん注:譜代大名・下総関宿藩初代藩主・京都所司代・板倉家宗家二代板倉重宗(天正一四(一五八六)年~明暦二(一六五七)年)。重昌の実兄(二歳年上)。ウィキの「板倉重宗」によれば、板倉勝重長男で徳川秀忠小姓組番頭の一人。弟と同じく慶長十年、秀忠将軍就任に伴い、従五位下・周防守に叙任されている。『大坂の陣では冬・夏の両陣に出陣し、小姓組番頭の職にあって家康・秀忠の間で連絡役を務めた。戦後、書院番頭に任命されて』六千石となり、元和六(一六二〇)年には『父の推挙により京都所司代となり』、二万七千石。元和九(一六二三)年に従四位下に昇位、同年末に侍従に任官、寛永元(一六二四)年四月に『父が死去すると、その遺領を弟の重昌と共に分割して相続し、重宗は』一万八百六十石を継いで合計三万八千石、さらに同月中に一万二千石を加増されて合計五万石となった。寛永三(一六二六)年には第三代将軍家光の参内に従っている。『家光の嫡男・家綱が生まれるとその元服・官位について朝廷と』の交渉に当たり、正保二(一六四五)年、『その功績により従四位上・右少将』となっている。承応三(一六五四)年に三十年以上に亙って『在職した所司代職を遂に退任した。しかし重宗の影響力は絶大で』、『家綱の補佐、徳川家の宿老として江戸で幕政に参与し、保科正之や井伊直孝ら大老と同格の発言力を持っていたという』。明暦二(一六五六)年、下総関宿(せきやど:現在の千葉県野田市関宿三軒家(さんげんや))五万石を与えられて藩主となったものの病に倒れ、年末に関宿で死去した。享年七十一。
「重郷」板倉重郷(元和五(一六一九)年~寛文元(一六六二)年)は板倉重宗の長男で下総関宿藩第二代藩主・板倉家宗家三代。ウィキの「板倉重郷」によれば、寛永一三(一六三六)年に従五位下・長門守に叙位・任官、寛永一四(一六三七)年、阿波守に遷任、父の死去により、明暦三年に家督を継いだ。明暦四(一六五八)年に奏者番、同年中に寺社奉行兼任したが、寛文元(一六六一)年には全職を辞職、同年末に弟重形に五千石と新田四千石を分与(都合、板倉氏は四万五千石の大名となった)した四日後に死去。享年四十三。跡は長男重常が継いでいる。
「重形」板倉重形(しげかた:「勝形」から改名 元和六(一六二〇)年~貞享元(一六八四)年)は板倉重宗の次男(兄重郷より一歳年下)。ウィキの「板倉重形」によれば、寛文元(一六六一)年に兄重郷より摂津の領地から九千石を分与され、一万石を領有、延宝九(一六八一)年には一万五千石で安中藩に入って初代藩主となった。『街道整備、土地政策に尽力し、藩政の基礎を固め』、天和三(一六八三)年には寺社奉行に任じられた。享年六十五。跡は養子の重同(しげあつ)が継いでいる。]
重矩(主水正)
○重昌<
重直5000石
[やぶちゃん注:「重矩」板倉重矩(しげのり 元和三(一六一七)年~寛文一三(一六七三)年)は先の板倉重昌の長男。ウィキの「板倉重矩」によれば、『島原の乱に際しては、上使となった父について島原に出陣』(数え二十一)、先の通り、寛永一五(一六三八)年元旦に父が戦死した『その際の不手際を問われて同年』十二月まで『謹慎処分に処される。その後』、寛永一六(一六三九)年に『家督を継承し、深溝藩主となる。その際、弟の重直に』五千石を『分与している』。『間もなくして藩庁を深溝から中島へ移転』、寛文五(一六六五)年には『老中となり、酒井忠清などと共に病弱だった』第四代『将軍徳川家綱を補佐した』。寛文八(一六六八)年に一旦、『牧野親成の退任を受けて後任の京都所司代に転じ』たが、二年後の寛文十年には再び老中職に再任されている。寛文一二(一六七二)年に『下野烏山へ移封』、翌年、五十七歳で死去した。『長男の重良は廃嫡、次男の重澄は早世していたため、三男の重種が跡を継い』でいる。
「重直」(?~天和三(一六八三)年前)重矩の弟。下総葛飾郡などに八千石を領した。子重行が跡を継いでいる。]
○第一 修理と病と登城 侮辱
第二 板倉家の存在
[やぶちゃん注:「修理」小説「忠義」(大正六(一九一七)年二月)の主人公「板倉修理」こと、旗本で、熊本藩第五代藩主細川宗孝を殿中で殺害したことで知られる板倉勝該(かつたね ?~延享四(一七四七)年)のこと。但し、彼は板倉勝重の長男重宗・次男重昌の弟重大(しげひろ?)の孫で、板倉家では傍流である。ウィキの「板倉勝該」によれば、旗本板倉重浮(しげゆき)の『二男として生まれる。幼名は安之助。兄・板倉勝丘の養子となり』、延享三(一七四六)年に兄の遺領六千石を相続、延享四(一七四七)年に『将軍・徳川家重に拝謁した』が、同年八月十五日のこと、『江戸城大広間脇の厠付近において、月例拝賀で出仕した熊本藩主・細川宗孝に背後から脇差で斬りつけ、殺害した』。『伝えるところによると、勝該は日頃から狂疾の傾向があり、家を治めていける状態ではなかったため、板倉本家当主の板倉勝清は、勝該を致仕させて自分の庶子にその跡目を継がせようとしていたという。それを耳にした勝該は恨みに思い、勝清を襲撃しようとしたが、板倉家の「九曜巴」紋と細川家の「九曜星」紋が極めて似ていたため、背中の家紋を見間違えて細川宗孝に斬りつけてしまったとされる』。『一方で、人違いではなく』、『勝該は最初から宗孝を殺すつもりであったとする』ものもある。『白金台町にあった勝該の屋敷は、熊本藩下屋敷北側の崖下に位置し、大雨が降るたびに下屋敷から汚水が勝該の屋敷へと流れ落ちてきたので、勝該は細川家に排水溝を設置してくれるように懇願したが、無視されたため犯行に及んだという』説である。『事件後、勝該は水野忠辰宅に預けられ』、同月二十三日に同所で切腹させられている、とある。
小説「忠義」には(引用は岩波旧全集に拠った)、
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何よりもまず、「家(いへ)」である。(林右衞門はかう思つた。)當主(たうしゆ)は「家」の前に、犠牲にしなければならない。殊に、板倉本家(いたくらほんけ)は、乃祖板倉四郎左衛門勝重以來未嘗、瑕瑾(かきん)を受けた事のない名家である。二代又左衞門重宗が、父(ちゝ)の跡(あと)をうけて、所司代として令聞(れいぶん)があつたのは、數(かぞ)へるまでもない。その弟の主水重昌(もんどしげまさ)は、慶長十九年大阪冬の陣の和が媾ぜられた時に、判元見屆の重任を辱くしたのを始めとして、寛永(くわんえい)十四年島原の亂に際しては西國(さいごく)の軍に將として、將軍家御名代の旗を、天草征伐(あまくさせいばつ)の陣中に飜した。その名家に、萬(まん)一汚辱を蒙らせるやうな事があつたならば、どうしよう。臣子(しんし)の分(ぶん)として、九原の下、板倉家累代の父祖に見(まみ)ゆべき顏(かんばせ)は、どこにもない。
*
と、ここで調べ上げたことが生かされてある(文中の「乃祖」は「だいそ」、「判元見屆」は「はんもとみとどけ」、「九原」は「きうげん(きゅうげん)」と読む。「九原」は中国の春秋時代の晋の卿(けい)・大夫(たいふ)の墓のあった地名に由来し、墳墓・墓地・あの世の意である)。
芥川龍之介はまた「忠義」を書くに当たって、板倉家を宗家にまで遡って調べ上げ、その傍流に甘んじなければならなかった勝該の精神状態を、所謂、病跡学的にここで辿っていたのだとも私は考える。なお、前にも述べた通り、一部の研究者の著作や注では、この板倉勝該をずっと後の重昌流第十二代当主板倉勝俊(天明八(一七八八)年~天保一二(一八四一)年)と誤っているので注意されたい。]
○中寶峯廣錄
[やぶちゃん注:中国元代の禅僧中峰明本(ちゅうほうみょうほん 一二六三年~一三二三年)の語録。これは鎌倉から江戸初期頃まで日本仏教に大きな影響を与えたもので、その教えを受け継ぐグループを「幻住派」と呼ぶ。本書は龍之介の作品には出ない。板倉氏関連の中にメモされている理由は不詳乍ら、次の記載などから、板倉勝重は若き日に一度出家しており(後に還俗)、或いはこの書を愛読したか、この幻住派に属したのかも知れぬ。]
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《1-31》
○板倉家系圖
中島永安寺にあり 香峯宗哲 勝重 甚平 or 四郎左エ門
天正14 9 駿府奉行 小田原關東の代官 武藏の國一万石
慶長6 5 京都所司代
○勝重 香峯宗哲 中島永安寺 四郎左エ門 甚平
天正十四年九月 駿府奉行 小田原關東の代官 武藏の國一万石
慶長 六年五月 京都所司代
九月 三河の國 6610万加增
八年二月 從五位下 伊賀守
十四年九月 山城の國 9860加增 從四位下 侍從
[やぶちゃん注:旗本・大名で江戸町奉行・京都所司代であった板倉家宗家初代板倉勝重(天文一四(一五四五)年~寛永元(一六二四)年)は、ウィキの「板倉勝重」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『板倉好重の次男として三河国額田郡小美村(現在の愛知県岡崎市小美町)に生まれる。幼少時に出家して浄土真宗の永安寺』(現在の岡崎市中島町にあったが、その後に移されて愛知県西尾市貝吹町に「長圓寺」として残る)『の僧となった。ところが永禄四年(一五六一年)に父の好重が深溝松平家の松平好景に仕えて善明提の戦いで戦死、さらに家督を継いだ弟の定重も天正九年(一五八一年)に高天神城の戦いで戦死したため、徳川家康の命で家督を相続した』。『その後は主に施政面に従事し、天正十四年(一五八六年)には家康が浜松より駿府へ移った際には駿府町奉行、同十八年(一五九〇年)に家康が関東へ移封されると、武蔵国新座郡・豊島郡で千石を給され、関東代官、江戸町奉行となる。関ヶ原の戦い後の慶長六年(一六〇一年)、三河国三郡に六千六百石を与えられるとともに京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視に当たった。なお、勝重が徳川家光の乳母を公募し』、『春日局が公募に参加したという説がある』。『慶長八年(一六〇三年)、家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた際に従五位下・伊賀守に叙任され、同十四年(一六〇九年)には近江・山城に領地を加増され一万六千六百石余を知行、大名に列している。同年の猪熊事件では京都所司代として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した。慶長十九年(一六一四年)からの大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件では本多正純らと共に強硬策を上奏。大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度を施行すると、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当たった。元和六年(一六二〇年)、長男の重宗に京都所司代の職を譲った』。享年七十九。『勝重と重宗は奉行として善政を敷き、評価が高かった。勝重、重宗の裁定や逸話は『板倉政要』という判例集となって後世に伝わった。その中には後の名奉行大岡忠相の事績を称えた『大岡政談』に翻案されたものもある。三方一両損の逸話はその代表とされる。また『板倉政要』も、明の『包公案』『棠院比事』などから翻案された話が混入して出来上がっている』。『『板倉政要』が成立したのは元禄期』とされ、『成立の経緯には、名奉行の存在を渇望する庶民の思いがあったという』
。『公明正大な奉行の存在を望む庶民達の渇望が、板倉勝重、重宗という優良な奉行に仮託して虚々実々を交えた様々な逸話を集約させ、板倉政要を完成させた』とある。なお、「香峯宗哲」とあるが、彼の法名は「香譽宗哲」で誤りである。]
○兄 重宗 十三郎 五郎八 又右エ門
慶長 14年 從五位下 周防守 小姓組番頭小十人徒士等の事 6000石
元和 6年 所司代 2万7000石を得る
9年一月 從五位下 侍從
寛永 元年 父の領をつぎ弟重昌と分つ 38000石
10年四月 12000石
正保 二年5 右近衞權少將 從五位上 後水尾天皇菊の紋とを賜ふ
承應 三年7月 罷
明曆 二年 關宿城を賜ふ
同十二月 死 年九十
[やぶちゃん注:前の《1-30》で既注。]
○岩田平次郎
[やぶちゃん注:不明何人か同姓同名の人物はいるが、ピンとこない。]
○尾上教雄
[やぶちゃん注:不詳。]
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《1-32》
○中里瀨南病院下 岩邊季貴
[やぶちゃん注:日本海軍軍人に岩辺季貴(いわべすえたか 明治五(一八七二)年~昭和三〇(一九五五)年)なる人物がいる。ウィキの「岩辺季貴」によれば、明治三九(一九〇六)年に海軍機関少佐に進級、大正八(一九一九)年六月に海軍機関少将に昇進し、聯合艦隊機関長と第一艦隊機関長を兼任、同年十二月に横須賀鎮守府機関長に就任、大正一二(一九二三)年十二月、海軍機関中将に進み、大正一三(一九二四)年二月、予備役。昭和一四(一九三九)年、退役。予備役後は読書と謡曲を趣味としたとある。芥川龍之介は大正八年三月三十一日附で海軍機関学校を退職しているが、これは彼である可能性が大である気はする。「中里瀨南病院」不詳であるが、横須賀市上町の一丁目派出所から汐入三丁目に至る街に現在、「中里通り商店会」というのがある。]
*
《1-33》
○Yeats, Reveries over Childhood & Youth 4.40
[やぶちゃん注:アイルランドの詩人ウィリアム・バトラー・イェーツ(William Butler Yeats 一八六五年~一九三九年)の一九一五年の著作で邦題は「幻想録」(原題を訳すなら「少年期及び青年期の幻想」か)。後の数字は不詳。]
○Sologub Little Demon 3.30
[やぶちゃん注:ソログープの小説「小悪魔」(Мелкий
бес:ラテン文字転写:Melkiy
Besロシア語サイトでは一九〇五年を初版とする)。本手帳の冒頭《1-1》に出、既注であるが、再掲する。ロシア象徴主義の詩人・小説家フョードル・ソログープ(Фёдор Сологуб:ラテン文字転写:Fyodor Sologub 一八六三年~一九二七年)。本名はフョードル・クジミチ・テテルニコフ(Фёдор Кузьмич Тетерников:ラテン文字転写:Fyodor Kuzmich Teternikov)。ウィキの「フョードル・ソログープ」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『世紀末の文学や哲学に特徴的な、陰気で悲観主義的な要素をロシアの散文に取り入れた最初の作家であり、しばしば死を主要な題材に選んでいる』。『最も有名な小説『小悪魔』は、ロシアで「ポシュロスチ(пошлость :ラテン文字転写:poshlost')」として知られる(邪悪さと凡俗さの中間の、野卑な人間像を指す)概念を活写しようとする試みであった。一九〇二年に連載小説として発表され、一九〇七年に定本が出版されると、たちまちベストセラー入りを果たし、作者の存命中に十版を重ねた。内容は、人間性にまるでとりえのない田舎教師ペレドノフの物語である。この作品は、ロシア社会についての辛辣な告発として受け入れられたが、豊かな形而上学小説であり、またロシア象徴主義運動が生んだ主要な散文作品の一つである』。『次なる大作『創造される伝説』(一九一四年)は、「血の涙」「女王オルトルーダ」「煙と灰」の三部からなる長編小説であり、同じような多くの登場人物が出てくるが、むしろ楽天的で希望に満ちた世界観を示している』。『ソログープは代表作が小説でありながらも、研究者や文学者仲間からは詩人として最も敬意を払われてきた。象徴主義の詩人ヴァレリー・ブリューソフはソログープの詩の簡潔さを称賛して、プーシキン並みに完璧な形式を有していると評した。
他の多くの同時代の作家が新たな文学や、自分たちを代弁する美学的なペルソナを創り出すことを誇った中で、ソログープは(自らたびたび記したように)、仮面の下を瞥見することと――そして内なる真実を探究する機会であると――喝破した』とある。私は中山省三郎訳になる「かくれんぼ 白い母 他二篇」(岩波文庫一九三七年刊)と幾つかの短篇を読んだだけだが、ロシアの作家の中ではとても好きな作家である。後の数字は不詳。]
○2 12 ○45 12丨33 ○33 12丨
[やぶちゃん注:不詳。]
*
《1-34》
○□方 加藤績
[やぶちゃん注:「□」はママ(次も同じ)。「加藤績」は不詳。「績」は「いさを(いさお)」と読むか。]
○京都市外下鴨村八田方□
○
10―11}
火 }2年
11―12}
1―2}
木 }1年
2―3}
10―11}
土 }2年
11―12}
[やぶちゃん注:「}」は底本ではそれぞれの曜日下で一つの大きな「}」(そのため、曜日ごとに一行空けた)。やはり海軍機関学校の時間割であろう。この時期、週六時間で月・水・金は授業がなかったか。]
*
《1-35》
[やぶちゃん注:ここは見開きノートの天地を逆に使用した、数字と英語(「Dictation」(書取)・「translation」(翻訳(英訳/和訳))・「Reading」(読解)及び「July」(七月)「bird」(意味不明。総計(英語なら「grand total」)に相当する位置にある))と罫線のみの四種類の表で最初の三つは年間の指導単元分配案(或いは結果)のように見える。省略する。]
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《1-36》
○Appreciations with an Essay on
style Miscellaneous Studies
[やぶちゃん注:これは恐らく、イギリス・ヴィクトリア朝時代の文学者ウォルター・ホレイシオ・ペイター(Walter Horatio Pater 一八三九年~一八九四年)の著作と思われる。前者はウィキの「ウォルター・ペイター」にある、「鑑賞批評集:「文体論」付」(Appreciations:
With an Essay on "Style" 一八八九年)で、後者は「雑纂:一連の論文」(Miscellaneous
Studies: A Series of Essays 一八九五年)であろう。]
○淸輪書畫譜
[やぶちゃん注:不詳。「輪」は別な字ではあるまいか? 近世近代の日本画家や書家には雅号の頭に「淸」を附ける作家は多い。]
○6 5 6 16
[やぶちゃん注:数列不詳。]
○Chats on Ukiyoé A. Davison Ficke T. Fisher Unwin
[やぶちゃん注:これは浮世絵の愛好家でもあったアメリカの詩人で劇作家のアーサー・デイヴィスン・フィッケ(Arthur Davison Ficke 一八八三年~一九四六年:彼の英文ウィキはこちら)が一九一九年に刊行した“Ukiyoe hangashi:Chats
on Japanese prints / Arthur Davison Ficke cho ; Ochiai Naonari yakuho ; Ueda
Kazutoshi jo. 浮世繪版畫志:Chats
on Japanese prints”と思われる。但し、これはこちらのデータによれば、出版書肆・出版年は“Tōkyō : Tonansha, Taishō 8
[1919]”とあり、この「T. Fisher Unwin」というのは、彼の別の浮世絵画関連書、例えばこちらの“Chats on Japanese prints, with 56 illustrations and a coloured
frontispiece.”の“London : T. Fisher Unwin,
[1922]”発行元と一致する。]
○65+11+2=78
[やぶちゃん注:数列不詳。]
○J. M. Barrie Peter Pan
Symbolistic play stories
○[やぶちゃん注:底本には「○」はない。何処かへの地図らしいが、判読が難しい。読もうなら、右側に「北伝馬町十七」とあり、英文(ローマ字?)で上下に二つ(上は「b」で始まり「i」で終る。下は全くお手上げ)、左に「南伝馬町」か(これは正直、次の《1-37》冒頭にある「なら市北傳馬天滿町」の抹消字からの類推に過ぎず、奈良市の現在の地図を確認する限り、どうも一致する町名が見えない。この接した二町(既に町名として消失しているかも知れぬ)或いはこの英文様のものが判読出来る方、或いはこの道筋を御存じの方、何でも結構、お教え願えれば幸いである。因みに新全集では図の中の邦文も英文も全く活字に起こしていない。先の「金剛」の図ではちゃんと起しているのに、である。判読を放棄したものらしい。]
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《1-37》
[やぶちゃん注:底本には『(住所録欄)』と注記がある。]
○なら市北傳馬天滿町 佐
[やぶちゃん注:奈良市北天満町として現存する。地図上では奈良市川之上突抜北方町とあり、しかもその南に奈良市川之上突抜北方町という町がある。どうも前の地図、ここ臭いのだが……。]
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《1-38》
[やぶちゃん注:底本には『(住所録欄)』と注記がある。]
○牛込區喜久井町二〇竹内 井汲淸治
[やぶちゃん注:「井汲淸治」(いくみせいじ 明治二五(一八九二)年~昭和五八(一九八三)年)は文芸評論家で元慶応義塾大学教授。岡山県出身。慶応義塾大学文学部仏文科卒。慶大在学中から永井荷風の「火曜会」に出席し、卒業後『三田文学』の編集に携わる一方、本格的な評論活動を行った。大正一五(一九二六)年の第二次「三田文学」の発刊に尽力、編集兼発行人を務めている。昭和四(一九二七)年から昭和六年にかけてフランスに留学、帰国後、慶大文学部教授に就任。「ソリダリテの思想」「大正文学史考」などの評論があり、仏文学者としても多くの評論がある(ここは日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。「牛込區喜久井町」は現在の東京都新宿区喜久井町(きくいちょう)。]
○麻布笄町廿一 菊池
[やぶちゃん注:旧東京都港区麻布笄町(こうがいちょう)。この「菊池」は菊池寛のこと。小谷野敦氏のサイト内の「久米正雄・詳細年譜」に大正六(一九一七)年四月の条に『菊池は奥村包子と結婚し麻布笄町の借間に住まう』とある。]
○鹿島市木挽町中村病院内 倉田百三
[やぶちゃん注:劇作家倉田百三(明治二四(一八九一)年~昭和一八(一九四三)年)はウィキの「倉田百三」を見ると、大正七(一九一八)年の夏に『結核療養と肋骨カリエス手術のため』、『九州帝国大学医学部付属病院の久保猪之吉博士を頼り、妻晴子・長男地三と共に福岡県福岡市今川の金龍寺境内の貝原益軒記念堂に仮寓』していたとあり、この「鹿島市木挽町」というのが、佐賀県鹿島市内ならば、位置的にはあり得ない話ではない(但し、現在の鹿島市内に木挽町は確認出来ない)。]
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《1-39》
[やぶちゃん注:底本には『(住所録欄)』と注記がある。]
○名古屋東區裏片端町二-一菅武時方 忠雄
[やぶちゃん注:名古屋市東区東片端町ならば現存する。この「忠雄」とはドイツ語学者菅虎雄(すがとらお 元治元(一八六四)年~昭和一八(一九四三)年)の子である小説家菅忠雄(すがただお 明治三二(一八九九)年~昭和一七(一九四二)年)のことであろう。上智大学中退後、文芸春秋社に入社、『文芸春秋』などの編集長を務める傍ら、大正一三(一九二四)年には川端康成らと『文芸時代』を創刊した。作品に「銅鑼(どら)」「小山田夫婦の焦眉」などがある。父虎雄は夏目漱石の親友でもあり、第一高等学校の名物教授としても知られ、芥川龍之介は師として非常に敬愛し、処女作品集「羅生門」(大正六(一九一七)年五月二十三日・阿蘭陀書房刊)の題字の揮毫も彼の手になるものである。]
○セ 分 5.5 60.2
表 分 4.0 40.0 8.0 40.0
中 62.0 42.0
[やぶちゃん注:不祥な数値であるが、「セ」は背、「表」は表紙、「中」は中扉と読むなら、そのサイズを記したもののようにも思われなくはない。]
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《1-40》
[やぶちゃん注:底本には『(住所録欄)』と注記がある。以下、宮坂覺氏の「芥川龍之介全集総索引」(一九九三年岩波書店刊)の人名索引に出ない人名(概ね不詳)は、原則、調べず、注さないこととする。]
○中里百四十參 松井喜三郎
○公郷二四三五 荒川乙吉
○公郷二三七七 藤卷卯三郎
[やぶちゃん注:現在、神奈川県横須賀市公郷町(くごうちょう)が現存する。さすれば(次も横須賀である)抹消の「中里」は前にも出たが、やはり横須賀の内である可能性が高いように思う。]
○不入斗三百廿四中里一八一 宮澤虎雄
[やぶちゃん注:現在、神奈川県横須賀市不入斗(いりやまず)が現存する。この地名は各所に見られ、もと、寺社領などで貢納を免ぜられた不入権をもつ田地の意であって、庄園地名の一種である。「宮澤虎雄」は海軍機関学校の同僚。物理担当。書簡が残る(岩波旧全集書簡番号七二二)。]
○深田二百二十六 鈴木方中里二五 佐野慶造
[やぶちゃん注:「佐野慶造」(明治一七(一八八四)年~昭和一二(一九三七)年:芥川龍之介より五歳年上)は先に出した〈月光の女〉佐野花子(明治二八(一八九五)年~昭和三六(一九六一)年)の夫で海軍機関学校の同僚の物理担当教授。夫婦ともに芥川龍之介と親しかった。疎遠になった理由(それは不思議な妖しい謎でもある)など、詳しくは私の『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察 最終章』及びそこにリンク(記事下部に四種)した私の複数の考察を参照のこと。]
〇深田二二九(飯田山)公郷二二五四 玉井五嶽
[やぶちゃん注:現在、横須賀市深田台がある。]
○中里百三 富藤定藏
○中里百二 上村淸治
○公郷田戸海岸 藤江逸志
[やぶちゃん注:現在の横須賀市米が浜通附近。海軍基地拡張のために大正二(一九一三)年に埋め立てられたため内陸化し、現在、白砂青松の海岸の面影は全くない。]
○本郷區森川町一表北裏七一 松江方 上瀧
[やぶちゃん注:「上瀧」は高い確率で芥川龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)であろう。「學校友だち」(大正一四(一九二五)年一月)の冒頭に掲げられている人物である。一高には龍之介と同じ年(明治四三(一九一〇)年)に第三部(独語)に入学、東京帝国大学医学部を卒業して医師となり、後に厦門(アモイ)に赴いた。]
○原町十三 谷崎潤一郎
[やぶちゃん注:大正五(一九一六)年に谷崎は東京小石川区原町に転居したが、大正八年には本郷区曙町に転居しているので、これは単にそうした旧住所の削除であろう(因みにこの間に谷崎は小林せい子との関係が始まっており、また、曙町に移ってからは近所に住んでいた佐藤春夫(後に谷崎の妻千代と関係を持って後二谷崎から千代を譲渡される)との交流が始まった)。]
○横濱市南太田町二一六六 吉川方 中原安太郎
[やぶちゃん注:芥川龍之介の府立三中時代の同級生。龍之介は三中時代に彼と槍ヶ岳に登山している。]
○中里二百十二 田丸方 黑須康之介
○本郷區湯島天神町一ノ九八 岡
[やぶちゃん注:名前を省略しているところから、芥川龍之介の友人の一高・帝大の同級生で漱石門下の劇作家岡榮一郎(明治二三(一八九〇)年~昭和四一(一九六六)年)であろう。]
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《1-41》
[やぶちゃん注:底本には『(住所録欄)』と注記がある。]
○大阪市南區南炭屋町二五だるまや とんだやさだ
[やぶちゃん注:現在の中央区西心斎橋附近。]
○
火 10-12 1年}
水 10-12 2年}
金 9-11 2年}
金 1-3 1年}
[やぶちゃん注:時間割。「}は底本は大きな「}」一つ。それを示しために、中央を一行空けた。]
○19 2
14 1
[やぶちゃん注:意味不明。これを以って通称の「手帳1」は終わる。なお、旧全集「手帳一」には最後に以上に出ない部分が載るが、これは新全集編者によれば「手帳12」に記されているものとあるので、そちらで電子化する。]