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« 税金払って腹が立つ   梅崎春生 | トップページ | お前らは下劣の極みだ »

2016/07/18

女中天下の家   梅崎春生

 

 朝起きる。寝巻をふだん着に着かえて、書斎におもむく。雨戸やガラス戸をあけ放って換気、それから机上を整理し七、次に掃除に取りかかる。道具は電気掃除機である。

 ぶんぶんいうやつをあちこちにつっ込んで、芥(ごみ)を吸い取る。近頃うちには猫が二匹いて、自由に書斎に出入りするから、微細な毛が散乱していて、箒では掃き切れない。

 やがて掃除が終り、洗顔して歯をみがき、庭に出てかるい体操などこころみて、朝餉(あさげ)の卓に向かう。

 適当な労働のあとだから、朝食のうまいこと言語に絶する。しかし腹八分目でやめといて卓を離れる。

 というのが、二日酔いをしていない時の私の日課だが、週に一回か二回しかその機会が廻って来ないのは残念だ。

 電気掃除機の使用法に習熟するに至ったのは、女中がやめたからで、それまではあれはぶんぶん泣き叫ぶうるさい道具だと思っていた。

 自分で使ってみると、そうでない。うるさくないだけでなく、快感がある。子供の頃水道にホースをつないで放水することが大好きだったが、あれを陽の快感とすれば、これは陰の快感である。

 性科学的にはどんな解釈するのか知らないが、何でもかでもどんどん吸い取るところがやたらに面白い。使ったことがない人は、一度こころみてごらんなさい。

 目下東京の人手不足はたいへん深刻で、前号出前持ちの件でもふれたが、女中のなり手がない。家政婦も引っぱりだこで、電話で申し込んでも、全然だめである。

 巷には人があふれているような気がするが、それがこんなに人手不足になったのは、今年の中学卒業者がすくないのが原因のひとつだそうである。

 今年の中卒者は昭和二十年生れで、あの頃は食うのがせいいっぱいで、エネルギーが子供を産む方に廻らなかった。すくないのも当然だ。

 そのすくないのに求人が殺到、そしてその余波が他の年代にも及んで、こんな人手不足の局面に相成った。

 私の家は東京の郊外にあって、押売りがしょっちゅう訪れていたが、半年ぐらい前からすこしずつ減り始め、今年になってまだ一人もやって来ない。やはりこれも人手不足の方に吸い取られたのではないかと思う。押売りみたいな邪業をやらずとも、ちゃんとした正業がいくらでもあるからだろう。

 でも押売りなんてものは、続々と来るのも困るが、全然来ないのも淋しいものである。

 この人手不足で女中という職業の性格も大きく変るだろう。主婦の命にしたがって家事に使用される女のことを、昔は下女と呼んだ。

 夏目漱石「吾輩は猫である」を読むと、下女と書いてある。御三(おさん)という言葉も使用している。

 辞典でしらべると、おさんは(おさめ、道具方)の意らしい。その下女が女中に名前が昇格し、今ではお手伝いさんと呼ぶ。

 新聞の投書欄で、あるテレビドラマでは女中という言葉を使っていたが、お手伝いさんという言葉があるのにけしからん、というのを読んだことがある。

 しかしお手伝いさんという言葉はなまで、こなれが悪い。名前を変えることに反対はしないが、変えるならも少しましな名にするべきだろう。

 さて同じ辞典によると、女中には二つの型があって、一を出稼ぎ型、一は家事見習い型だという。

 その出稼ぎ型がすべて人手不足の方に吸い取られてしまった。出稼ぎならすこしでも条件のいい方がいいし、気分も楽な方をえらぶのは当然である。

 また家事見習いあるいは行儀見習いは、必ずしも報酬を問題とせず、花嫁教育や花嫁修業を目的にしていたが、これも戦後はあやしくなった。

 行儀見習いといっても、見習うべき行儀は戦後にはない。あるいは通用しない。主人が帰って来たら、三つ指をついて、

「且郡さま。お帰りなさいませ」

 と教え込まれたって、何の役にも立たないのだ。

 家事見習いにしても、昔は掃除のしかた、御飯のたきかた、洗濯のしかたを奥さまに仕込んでいただいて、自分が結婚した時に役立たせようという筋だったが、今は電化ばやりで、電気掃除機、電気釜、洗濯機などの使い方は、別に奥さまに仕込んでもらわなくても、製品の説明書を見ればちゃんと書いてある。その通りに操作すれば目的が足せるようになっている。

 奉公などをする必要は全然ないのである。

 こうして女中の権限は大きくなり、主婦としては出て行かれるのがこわいものだから、自分の権限を縮小して、ひたすら機嫌をとりむすぶ。

 女中の部屋はあるが、主婦の部屋はなく、どちらが主婦か判らないという状態も生じて来る。意識的に主導権を握ろうという女中さえあらわれた。

 私の友人にQ君というのがいて、夫婦子供でかなり大きな家に住んでいる。一昨年のことだが、奥さんも病弱だし、掃除もたいへんだというわけで、やっとのことで女中をさがし当てた。

 五十ぐらいの女だったが、お目見えの態度もしとやかで、よく働きそうで、Q君は気に入って家に来てもらうことになった。

 ところがその婆さんはやって来て十日間ばかりの中に、たちまち一家の主導権をにぎってしまったのである。どんな方法でにぎったかというと、物の位置を全部変えることによって、Q家の天下を掌握したのだ。

 たとえば御飯をたこうとすると、お米がない。しまい場所が変更されている。だから婆さんにうかがいを立てねばならない。すると婆さんはやおら腰を上げて、どこからか米を持って来るのである。

 御飯がすんで爪楊枝(つまようじ)が欲しい。あるべきところを探してもない。婆さんに頼むと、とんでもない方向からちょこちょこと持って来る。

 友人が遊びに来る。上等の食器がない。婆さんに頼むと、ちょこちょことどこかに行ったから、あとをつけると、たんすの中からごそごそ取り出していたそうだ。

 そんな具合に食品や食器から子供のパンツに至るまで、婆さん独特の体系で位置を変えたから、一家の行事はすべて婆さんにうかがいを立てて、その指図を受けねばならなくなってしまった。

 主導権を完全ににぎったと見るや、婆さんは俄然横着になり、ほんとかうそか神経痛もおこして、Q君夫婦や子供を顎でこき使うようになったそうである。

 それから後もいろんな事件があったが、いずれ小説に仕立てるつもりだから省略するとして、ついにQ君はたまりかねて婆さんを首にした。

「盗んだりかくしたりするんじゃなく、自分の働きいいように整理したんだと言い張るので、処置なかったよ」

 人の好いQ君は述懐した。

「今でも時々、妙な場所から、思いもかけぬ品物があらわれて、びっくりするよ」

 こんな極端なのはめずらしいが、人間が自分の家庭内で他人を使うということが、だんだん成立しなくなっているのではないだろうか。

「求女中」の時代は過ぎたのだ。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第五十回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年四月二日号掲載分。本文中に「前号出前持ちの件でもふれた」とあるが、この前回分(第四十九回)は底本にはない。ここに出る「物の位置を全部変えることによって、Q家の天下を掌握した」婆さんというのは如何にも梅崎作品好みのキャラクターである。

 因みに、私には忘れられない一人の「お手伝いさん」がいる。

 無論、うちの、ではない。うちはお手伝いさんを雇うような裕福な家ではなかった。

 それは幼稚園の頃に住んでいた練馬の大泉学園(まさにこの記事の頃でしかも梅崎春生の住んでいた同じ練馬区内である)の、近所の米谷さんちの、お手伝いさんである。これは既に昔、忘れ得ぬ人々15 米谷さんちのお手伝いさんで書いたが、私は死ぬ前に、彼女に今一度、逢いたくてたまらない。

 されば、ここに写真とともに再掲しておく。――少年は五十四年も前の、私である――

   *

 幼稚園の頃、僕が住んでいた練馬の東大泉の、家の隣りの広っぱ(懐かしい響きだ。短い雑草が生え、時々砂やヒューム管が訪れては消えてゆくあの、正真正銘の広っぱだった)を隔てたところに米谷さんちはあった。ブチとクロのグレイハウンドを二匹飼っていた。昭和三十年代初頭のそんな家を想像されたい。そこに、岩手から集団就職で来た、小太りのお手伝いさんがいた。頬がすっかり赤くって、いつも割烹着を着たお姉さん……それが、今日の僕の「忘れ得ぬ人」である……

 僕は弱虫で泣き虫だった。広場で遊んでいても、きっと二日に一度はいじめられて泣いていた。そんな時、夕暮れのグレイハウンドの散歩をさせる彼女は、その体を左右に揺すって(それは二匹の犬に引っ張られていたからでもある)、いじめっ子の前にやってくると、ブルトーザーのように彼らを駆逐し、洟と涙でくしゃくしゃの僕の顔を、その割烹着の袖で拭ってくれると、彼女は決まって笑いながら言ったものだった――「泣ぐな、坊ちゃん。」――頼もしい大きな紅い頬の彼女の向うに、今はもう見ることのない美しい武蔵野の夕陽があった――

 彼女は、たまの日曜日の許された休みになると、何故か、僕のうちに訪ねてきては、

「奥さん、坊ちゃん連れて買い物行ってはいけんでしょうか?」

と懇願して、僕を池袋のデパートに連れてゆくのだった。月に一度か二度の彼女の少なかったであろう自由な時間に、彼女は必ず僕を連れてデパートへ行くのだった。

 母の記憶では、彼女は、自分に同い年の末っ子の弟がいるのだと言っていたようだ。

 僕は今でも、不思議に覚えている映像がある。

……池袋のごった返した年末のデパート……僕はきっと疲れたと言ったのだと思う……彼女は僕をオンブしている……エスカレーターに乗っている……ふと上を見ると上階に向かうエスカレーターの底が鏡張りになっていた……僕が見上げる……僕をおぶった彼女……人いきれと暖房で彼女は額に汗をかいている……僕を背負った上に買い物を両手にぶら下げている(それは故郷の親族や兄弟への正月のお土産であったかも知れない)……口でふうふう息している……ふと彼女が見上げた……鏡の中で眼が合った……

――その時、彼女はさっと満面の笑みを浮かべた……

……あの、いつものあの紅い頬で……

 僕の記憶にあるのは、それだけである。

 僕の母は、残念ながらもう彼女の名を覚えていない[やぶちゃん注:私の母は二〇一一年に筋委縮性側索硬化症のために天に召されたが、この記事は二〇〇七年七月三日のものである。]。

 今はただ、父が撮った、その二匹の犬と戯れる僕と割烹着の頬の紅い(しかしそれはモノクロームなのだが)、はにかんだ彼女とその広っぱで一緒の写った写真が一葉あるだけである…………。

……僕は彼女を、時空を越えた僕の永遠の恋人のように、今も、愛している……確かに、僕は愛している……あの真っ赤な頬と厚い背中の温もりと共に…………

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   *]

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