譚海 卷之一 羽州深山つなぎ蟲の事
羽州深山つなぎ蟲の事
○出羽國深山(しんざん)中(ちう)つなぎ蟲と云ものありて人をさす、甚(はなはだ)難義なる事也。土用過(すぎ)より出て秋の彼岸まで盛(さかん)なり。其かたちあぶのごとし、蠅の小なる如きものにて、人の聲をきけばむれ來り、面(をもて)をうち眼をさしぎり堪(たへ)がたき事いふばかりなし。是にさゝれたる跡はれかゆがりいたみ、ぶとにさゝれたるが如し。山民(やまのたみ)は案内(あない)を知(しり)て夜分ばかり往來するゆへ是にあふ事なし。晝行(ちうかう)の人は壹二尺の竹を左右の手にもち、つなぎをうちはらひくして通行する事也。
[やぶちゃん注:「つなぎ蟲」ネット検索をかけると、現在でも秋田南部で現在の「つなぎ」と呼んでいることが判る。Q&Aサイトの質問記載であるが、『ハエ程の大きさで黒っぽく、動きが素早』く、『刺されると非常に痛く腫れ』、『家の中や山などの水辺でよく見かけ』るとある。その同質問への答えから、
双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目アブ下目アブ上科アブ科ツナギアブ属の吸血性のアオコアブ Hirosia humilis
或いは
イヨシロオビアブ Hiurosia iyoensis
を指すらしい(彼らは地方名ではその腹部の色合いから「腰白(こしじろ)」「白帯(しろおび)」などとも呼ばれるようである)。「ツナギアブ属」の呼称は、ここに見るように古くからあった彼らの名「つなぎむし」(恐らくは白色或いは黄色の腹部の節の横縞の繋がった感じからの命名であろう)が明治以降に属和名となったものと考えてよい。これらの画像を複数見たところ、眼の色と言い、腹部の縞と言い、これはかつて私が栃木県日光市川俣の加仁湯の露天の休憩所で蠅叩きで多量に叩き殺し、湯守の方からコップ酒一杯を献呈された、あのギャングどものことであることが判明した。あれは、刺される(「磨り削られると」と言うのが厳密には正しい)と相当に痛く、出血もかなり酷い。なお、吸血するのは蚊や蚋(ぶよ;次注参照)同様、♀のみである。
「ぶと」双翅目カ亜目カ下目ユスリカ上科ブユ科 Simuliidae に属する吸血性の蚋(ぶゆ)類の総称。関東では「ブヨ」、関西では「ブト」と呼ばれることが多い。
「案内(あない)を知(しり)て」昼間に山中を通行すると「つなぎ」が多く飛来して刺されるという事情・様子をよく知っているから、の意。
「壹二尺」三十一~六十一センチメートル弱。]