夫婦喧嘩中の訪客 梅崎春生 (私藪野直史の若き読者の「明日」のためにパート2)
夫婦喧嘩中の訪客
近頃テレビニュースなどで見ると、岸首相の人相はだんだん悪くなって来るようである。
私は他人の人相について、あまりあげつらいたくないが、しかし顔というものは、原則として他人のためにあるものだ。
もちろん眼や鼻や口などの各器官は、その持主のためにある。持主はそれら器官を使って、見たり、呼吸をしたり、ものを食べたりする。
しかし、眼や鼻や口の配置からなる顔というものは、持主のためにあるものでない。他人がその配置を見て、ああこれは××さんだと、区別するためにあるのだ。
区別するだけでなく、その微妙な動きから、この人は喜んでいるとか、かなしがっているとか、その持主の感情をも見分けることが出来る。顔が他人のためにあるというのは、そういう意味だ。
岸首相の顔は、以前は眼を細めたり、笑ったりして、なごやかな面があったようだが、近頃はあまり笑わない。険悪にとがっている。時には映画に出て来る追いつめられたギャングみたいな表情を見せることもある。
実際追いつめられてはいるだろうけれども、彼は高姿勢をくずさず、声なき声を信じて、アイゼンハワーの訪日を頑張ったのである。
ハガチーは風のように来たり、風のように去った。
マッカーサー大使は十日のハガチー事件について、「全米を通じ、きわめて強い、悪い方向の反応が生れている」
ことを指摘したし、米国側にもアイゼンハワー訪日を取り止める声も出ていた。
日本の平凡な一市民としての感覚では、私もアイゼンハワーはむりをしないで、来ない方がよいと思っていた。旅行でも何でも、むりということが一番いけないのだ。
それに一度事件がおこれば、連鎖反応的に次々に事件がおこるのが世の常である。一定の条件さえあれば、人間はどんなことでもするというのが私の考え方で、お互いに戦争中のことを考えればよく判る。一定の条件と書いたけれども、その条件はまだ取り去られていないのだ。警備を万全にしたところで追っつくものではないだろう。十五日のデモで、一人の女子学生の命を奪ってはじめて、大統領訪日の中止を要請した。大統領が訪日を中止しても一定の条件の方はまだそのままである。
超党的な礼儀でアイゼンハワーを迎えよう、と言ったような議論もあった。夫婦喧嘩の真最中にお客が訪ねて来るようなもので、もし良識ある人間ならば一時喧嘩を中止して、にこやかに客を迎えるべきだ。喧嘩の続きは、客が帰ったあとでやればいい。それと同じように、日本も一時いがみ合いを中止して、アイゼンハワーを迎えるべきだ、という議論があった。
この議論もちょっとおかしいところがある。日本人はすぐ比喩(ひゆ)を持って来て、あれはこういう具合のものさと、お互いに早呑込みをする癖があるが、これもその一種だ。
第一に、今の日本のごたごたが、夫婦喧嘩と同じものとして片づけられるものかどうか。夫婦喧嘩というからには、亭主と女房がいなくてはいけない。そうすると今の日本で、誰が亭主で、誰が女房なのか。一握りの岸一派と右翼団体が亭主で、それ以外の国民が女房ということになるのか。
まあ夫婦喧嘩という比喩を認めるとしても、お客がそこにやって来たら、喧嘩を中止して迎えるべきかどうか。喧嘩をやめても、夫婦間のしらじらしい空気が残っているだろうから、もしその客が敏感な人間なら、面白くなく、気まずい思いをするに違いない。
そういう偽善的なにこにこ顔をつくるより、只今夫婦喧嘩中ですから、お気の毒ですがまた別の機会においで下さいと、率直に言った方がいいと私は思う。お客だってその方が気持がいいのではなかろうか。
夫婦喧嘩だのおしっこだのは、途中でやめては具合が悪いし、身体にもよくないものである。(これも悪しき比喩か?)
それにアイゼンハワー大統領は、今の日本の夫婦喧嘩と全然無縁の客ではない。
全然無縁だったら、時と場合によっては無理に喧嘩を中止することも必要だろうが、今度の客は大いに関係があるのである。言わば痴話喧嘩の当の相手であるような客だから、どうして喧嘩を中止して、にこにこ顔になれるか。
それに夫婦喧嘩というものは、内輪でこっそりやるものであり、客はそのことを知らぬのが普通だが、今の日本の内輪もめはこっそりやっているのではない。相当派手にやり合って、その結果は各種の電波に乗って、世界各国に報道され、米国でもちゃんと承知している筈である。
客が来たから夫婦喧嘩を中止するのがエチケットだ、などと称す。すると、夫婦喧嘩をやっているのに、のそのそと来訪する方のエチケットはどうなるのか。その方が無神経であり、非礼であり、非紳士的だと思わないわけには行かない。
その方の非はとがめずに、喧嘩をやめろやめろと言うのは、議論が逆立ちしてやしないかと思う。
私が客なら、夫婦喧嘩をやっている最中の家庭には、絶対に訪問しない。相手の気持を傷つけることになるからだ。
かくして、とうとうアイゼンハワーは極東に旅立った。出発前に、こんどの旅行は特定の政権や条約や政治論争を支持するものでない、国際理解の空気をもっとよくするためだ、という声明を発表した。
仮りに大統領の真意がそうであるにしても、大統領がやってくること自体が、特定の政権や条約や政治論争を強化するという客観的条件が、すでにつくられていた。
これは自然とつくられたものでもなければ、偶然につくられたものでもない。岸首相が巾着切りのようなずるいやり方で、来日の日数を計算して、つくり上げたものである。
この間のハガチー事件の翌日、各新聞の論評や識者の言を読むと、あんな事件は理性を失った行為で寛容と弁護の余地なしとか、世界の人々に恥かしいことだとか、一応あの事件の非難の方につじつまを合わせたものが多かった。
私はそうは思わない。ここにエレベーターがある。各階にその所在を示す指針がある。エレベーターが動くと、各階の指針がそれにしたがって動く。
ハガチー事件も、なるほど不祥事ではあったが、本質的に言うと、その指針みたいなものに過ぎない。
指針が動くのは、指針自体の責任ではない。エレベーターが動くから、指針も動かざるを得ないのだ。
だから私は、ハガチー事件を世界に恥じるより、その大元のところの歪みを世界に恥じることの方が、本筋ではないかと思う。
ともかく、アイゼンハワー大統領の訪日は中止になった。これで日本の信用がつぶれたという意見もあるが、それはおかしい。つぶれたのは無理を押し通そうとした岸首相の面目だけである。
[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第十二回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年七月三日号掲載分。この記事に出る人物や前後の背景については、ウィキの「岸信介」の「安保改定と反対運動」より引用し、途中に補足しておく。昭和三五(一九六〇)年一月、全権団を率いて訪米した内閣総理大臣岸信介は、ドナルド・アイゼンハワー大統領(Dwight David Eisenhower 一八九〇年~一九六九年:第二次世界大戦中の連合国遠征軍最高司令部(Supreme Headquarters Allied
Expeditionary Force) 最高司令官・陸軍参謀総長・NATO軍最高司令官を歴任した第三十四代アメリカ合衆国大統領)と『会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意した。新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾』、五月十九日には『日本社会党議員を国会会議場に入れないようにして新条約案を強行採決したが、国会外での安保闘争も次第に激化した』。岸は『警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て暴力団組長の会合に派遣。錦政会会長稲川角二、住吉会会長磧上義光やテキヤ大連合のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意。さらに』三つの『右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。ひとつは岸自身が』昭和三三(一九五八)年に『組織した木村篤太郎率いる新日本協議会、右翼の連合体である全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者も入った日本郷友会(旧軍の在郷軍人の集まり)である。「博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。最終計画によると』一万八千人の博徒、一万人のテキヤ、一万人の『旧軍人と右翼宗教団体会員の動員』を画策したともいう。但し、『岸は「動員を検討していたのは消防団や青年団、代議士の地元支持者らである」と述べている』。こうした『政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。国会周辺は連日デモ隊に包囲され』、六月十日には『大統領来日の準備をするために来日した特使、』ジェイムズ・ハガティ新聞係秘書(James Campbell Hagerty 一九〇九年~一九八一年:アイゼンハワー政権期(一九五三年~一九六一年)に於ける唯一人のホワイトハウス報道官。安保闘争当時の日本の報道機関は「ハガチー」と表記していた)の『乗ったキャデラックが東京国際空港の入り口でデモ隊に包囲されて車を壊され、ヘリコプターで救出される騒ぎになった。岸は「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には“声なき声”が聞こえる」と沈静化を図るが(いわゆるサイレント・マジョリティ発言)』(前に電子化した梅崎春生の『「声なき声」の正体』を参照のこと)、『東久邇・片山・石橋の』三人の『元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、アイゼンハワーの訪日は中止となった』。『さらに六月十五日には、ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、国会構内では警官隊とデモ隊の衝突により、学生の樺美智子が圧死する事故』(既注であるが、再掲する。東京大学女子学生であった樺美智子(かんばみちこ 昭和一二(一九三七)年十一月八日~昭和三五(一九六〇)年)さんは同日、デモ隊(全学連主流派による先導)が衆議院南通用門から国会に突入、警官隊と衝突した際に亡くなった。満二十二歳)が発生、六月十五日と十八日には、『岸から自衛隊の治安出動を打診された防衛庁長官・赤城宗徳が拒否』、『安保反対のデモが続く中、一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と死を覚悟する所まで追いつめられた』が、六月十八日深夜には条約は自然成立し、同二十一日には『批准、昭和天皇が公布した。新安保条約の批准書交換の日の』六月二十三日、『混乱の責任を取る形で岸は閣議にて辞意を表明』した。
「マッカーサー大使」当時の駐日アメリカ大使(在任:昭和三二(一九五七)年一月~昭和三六(1961)年三月)ダグラス・マッカーサー二世(Douglas MacArthur II 一九〇八年~一九九七年)アメリカ合衆国の外交官。かの連合国最高司令官として知られているダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur 一八八〇年~一九六四年)の甥である(彼に因んでの命名)。ウィキの「ダグラス・マッカーサー2世」によれば、『、国務省参事官を経て駐日大使に着任する。当時の日米関係は、マッカーサーの着任に前後して米兵が日本人主婦を射殺するジラード事件が起きるなど、在日米軍の駐留によって生じる摩擦や反基地闘争が顕在化していた。日本国民の不満が米極東戦略の拠点である日本の反米化・中立化を引き起こすことを危惧したマッカーサーは、日本をパートナーとして遇することでこれを沈静化しようとし、本国政府に米軍戦力および基地の縮小再編や、不平等性を指摘されていた日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧日米安全保障条約)の改定を進言することになる。今日の研究ではこのような危機意識に基づくマッカーサーの積極的なイニシアティブが、アイゼンハワー政権を安保条約改定に踏み切らせた重要な要因となったことが指摘されている』。最近(二〇〇八年四月)では『砂川事件一審判決(被告無罪)が日米関係に及ぼす影響を危惧し、判決を破棄させるための跳躍上告をするよう日本政府に勧めていたことが判明したが、これも上記のような対日認識の反映であったと理解する見方もある(当時「日本政府は社会党が新たに司法を尊重せよと騒ぎたてていることを必ずしも不快に思っていない。というのは日本政府は『社会党の司法尊重』が最高裁の段階になったときブーメラン効果をあげることを期待しているからだ」と国務省宛てに訓電を打ったと伝わる)。安保闘争が激化した際には、反対運動が東側陣営の指導下・影響下にあるものと分析し、総理大臣である岸信介や吉田茂など保守政治指導者との接触を密にする一方、反対派との接触や対話を極力避ける路線をとった。このようなタカ派的政治姿勢は後任のエドウィン・ライシャワーの路線とは相違し、のちにライシャワーに暗に批判されることとなる。なお、岸および弟の佐藤栄作とは大使離任後も親密な関係を続け、佐藤のノーベル平和賞受賞が決定した際にはすぐに祝電を打っている』とある。]
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