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2016/07/16

ブログ840000アクセス突破記念 ウヰリヤム・ジエイコツブス作・菊池寛譯 猿の手

[やぶちゃん注:イギリスの小説家WW・ジェイコブズ William Wymark Jacobs 一八六三年~一九四三年)が一九〇二年に書いた、私の偏愛する何とも言えぬ哀感を帯びたホラー短篇の名品、The Monkey's Pawの全訳である。因みに私は、高校教師生活の最後に、この一篇を、たった一人の女生徒相手(二・三年の選択授業で二年生は一人しかいなかったために三年が自宅学習に入った二ヶ月余り、私は彼女一人の授業をした。浦沢直樹の漫画「プルートゥ」をコマを一つ一つ追いながら全篇朗読したのも、実にこの時であった。あれを読み終えた時、私と彼女は少し涙ぐんでしまったのを懐かしく思い出す)に生涯一度だけ全文朗読(以下に示す平井呈一氏の訳で)出来たことを稀なる幸せであったと心底思うているほどに愛する一篇なのである。

 底本は菊池寛著「文藝往來」(大正九(一九二〇)年アルス刊)に所収するものを、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認して電子化した傍点「ヽ」は太字とした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部のカタカナの活字が異様に小さいが、拗音でもない箇所なので原則、無視した。章番号の前後は行空きのない底本に従わず、一行空けた。歴史的仮名遣の誤りが幾つか見受けられるが特に注せず、そのまま電子化してある直接話法の末尾の句点の有無も統一されておらず、一部には句読点さえないが、それは総て原則、ママとした。但し、誤植誤訳がかなり散見され、読解上、看過出来ない箇所がある。中には以下に示す通り、一部で特異的に勝手に訂した箇所もある。それは本作の正常な読後印象を阻害するもの以外の何ものでもないと私が勝手に判断したからである。悪しからず。

なお、原文は昔からお世話になっている英文サイト“Gaslight etext”のフル・テクストTHE MONKEY'S PAW (1902) from The lady of the barge (1906, 6th ed.) , London and New York Harper & Brothers, Publishers by W.W. Jacobsを使用した。是非、原文でも味わって戴きたい。

 修正箇所と語注を以下に示す。注記載ではなるべくネタバレしないように配慮はしたつもりであるが、本作を未読の方は、本文を先に読み、気になった箇所があれば、ここに戻って戴いてもよい(但し「」の注だけは如何ともしがたい箇所であり、私のミス・タイプとしか思われないであろうから、先に読んで戴きたい)。私の、翻訳作品の電子化の中では例外的にかなり私が恣意的に手を加えている(以下の太字傍線注部。実に全十二箇所にも及ぶ)ので、ここで注せざるを得ないのである。

   *

【第「一」章】

・「息」「そく」。息子。

・「とつけもない」の「とつけ」(或いは「とっけ」)は「途方」「方途」のことで、「途方もない」「とんでもない」という意。各地に方言としても今もあるが、菊池寛は香川県香川郡高松生まれであるが、調べてみると香川弁に「とんでもない」の意で存在することが確認出来た。

・「ホワイト夫人はチエツと舌鼓を打つた」この何気ない描写は実はホワイト夫人がこの客(曹長)の来訪を内心、生理的には好ましく思っていないことを意味していると読む。後で判るように、彼は酒を吞み、ディナーを食って終列車で帰る。無論、手土産もなしといった雰囲気だ。彼の軍人という職業も恐らく嫌悪の対象の一つなのではないかと私は思う。ともかくも家の借金を抱えたホワイト家の主婦にとって、彼が実は有り難くない常連客であることは言うまでもない。そうして、それだけでは、なくなる、のである。

・「柔しく咳をして居た」「柔しく」は「やさしく」。「軽く」の意。

・「鑵子」は「くわんす(かんす)」と読み、青銅や真鍮などで作った湯沸かしのこと。

・「曹長の瞬は輝いて來た」の「瞬」は「まばたき」と訓じておく。「瞳」「眸」の誤植が疑われもするが、「瞬」が全くおかしいとも言い切れぬ。暫くママとする。

『「猿の手、ほう」とホワイト夫人は物珍らしげに云つた。』の「云つた」は底本では「行つた」であるが、例外的に誤植と断じて、訂した。

「お客は飮み干した盃を、うつかり口ヘ持つて行きながら、再びそれを下に置いた。主人がそれに酒をついだ。」の箇所は底本では「お客は飮み干した盃を、うつかり口ヘ持つて行きながら、再びそれを下に置いた。主人がそれに酒をい だ。」と脱字になっている。原文を見ると最後の箇所は“His host filled it for him.”であるから、「ついだ」或いは「注いだ」であろう。取り敢えず暫く「ついだ」と恣意的に補っておいた。

『「見たところ」と云ひながら、曹長はポケツトを探りながら』は底本では『「見たところ」と云ひながら、軍醫はポケツトを探りながら』である。しかし、本文では客モリスは一貫して“sergeant-major”と呼称され、ここも同じであるから「曹長」でよい。軍医の“surgeon”の誤認語訳と断じ、恣意的に「曹長」に換えた。

『「もし入らないのなら。僕に呉れたまへ」と、老ホワイトは云つた。』の「は云つた」は底本では「と云つた」であるが、恣意的にかく訂した。

「終列車」は底本では「終例車」である。誤植と断じて訂した。

息子ハーバートの台詞「第一、お父さんが皇帝になるとしたら、今のやうにお母さんのお尻に敷かれて居ちや駄目ですからね」は底本では「第一、お父さん皇帝になるとしたら、今のやうにお母さんのお尻に敷かれて居ちや駄目ですからね」であるが、恣意的に「が」を入れた。読点よりはよいと判断した。但し、ここは原文では“Wish to be an emperor, father, to begin with; then you can't be henpecked.”であり、昭和四四(一九六九)年東京創元社刊の平井呈一氏(小泉八雲他、私の愛する訳者である)の「怪奇小説集 1」の「猿の手」では、『おとうさん、最初にまず皇帝になることを願いなさいよ。そうすりゃ、かあさんの尻の下に敷かれなくてもすみますから』と訳しておられるから、読点であった可能性も否定は出来ない

・前の注のシークエンス、その直後のホワイト夫人の行動で、彼女が「椅子の腕木」を取ってハーバートを追い掛けるシーンがあるが、原文のそれに相当するのは“antimacassar”で、これは「椅子の背覆い」のことである。「腕木」(うでぎ)は柱状の物から横に突き出して附けた木のことで、原語とは印象が異なる。

・「二百磅」の「磅」は「ポンド」と読む。翻訳されたこの当時(大正九(一九二〇)年)の価値換算でも百五十万円ほどはあると思われ、本作はそれよりも十八年も前の一九〇二年(明治三十五相当)であるから最高額で四百万円ぐらいにはなるか。

・「扭ぢた」現代仮名遣なら「よじた」或いは「ねじた」と読む。「よじた」が自然。

・「思ひ做し」は「おもひなし(おもいなし)」と読み、気のせい、の意。

【第「二」章】

「ひやかし」の部分は底本では「ひやか」までしか傍点「ヽ」が打たれていないが、かく「し」までを太字とした。

「ホワイト氏は、ビアをつぎながら」は底本では「ホワイト氏は、ビアをつきながら」である。この原文前後は“"I dare say," said Mr. White, pouring himself out some beer;”であるので、かく訂した。

「その有用な品物」如何にもおかしな感じがする。先の平井氏訳では『万能前かけ』と訳しておられる。腑に落ちる。

「彼は恐縮したやうにホワイト夫人を見て居た、などを聽いて居た。」これはご覧の通り訳が破綻している(或いはひどく長い脱落のある)箇所である。簡単な接ぎようもないのでママとした。先の平井氏訳では『客はホワイト夫人のことをチロリチロリとぬすむように見ながら、しきりと彼女が部屋の散らかっていることや、夫が庭いじりの上着を着ている詫言(わびごと)を言うのを、上(うわ)の空で聞いていた。』と訳しておられる。これで補って読んで戴きたい。

・「洋袴」「ズボン」と読む。

・「凶い」「わるい」。

・「厶います」これで「ございます」と読む。「厶」は記号ではなく、れっきとした漢字で部首「厶」の部を作り、音は「シ・ボウ・ム」(但し、カタカナの「ム」とは直接の関係はない)、訓読みでは「わたくし」(私)・「ござる」(御座る)と読む。江戸時代の文献に既によく見かける用字である。

「死人の如く床の上に崩れかゝつた。」は底本では「死人の如く床の上に崩れかゝた。」である。脱字と断じ、訂した。

【第「三」章】

・「二哩」二マイルは約三・二キロメートル。

・「擽りながら」「まさぐりながら」と訓じておく(「擽り」を普通に訓読みするなら「くすぐり」であるが、ここには相応しくない)。

「彼は彼の手を差し延べた。」は底本では「彼は彼の手を差し延へた。」である。訂した。

・「叩音」音は「コウオン」であるが、私としては「たたくおと」と訓で読みたい。

最後に近いホワイト夫人の台詞中の――「あなたは」(ネタバレ防止のため中略)「恐がつて居るのですか。」――は底本では――「あなたは」(同前中略)「恐がつて居るのだすか。」――である。ここだけ関西弁で訛るのはおかしい。恣意的に訂した。

同じ台詞のその直後にある、「今行つて上げるから、今行つて上げるから」は底本では、「今行つて上げるから、今云つて上げるから」とある。原文を見ても後者の「云つて」は語訳であることは言を俟たぬ。ここも恣意的に訂した。

・「閂」「かんぬき」。

・「除づす」「はづす(はずす)」。外す。

   *

 本テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、840000アクセス突破記念として公開した。【2016年7月16日】]

 

 

猿の手

 

      (ウヰリヤム ジエイコツブス)

 

        一

 

 戸外には冷たい濕つぽい夜があつた、がレイクスナム邸の小座敷の中では、窓掩ひは閉され、爐の火は華やかに燃えて居た父と子は將棋を指して居た。父は局面が捗どらないのをもどかしがつて、自分の王を際どい用もない危險な場所に立ち入らせたので、爐の傍で靜かに編物をして居た白髮の老夫人迄が、「ああ王樣が危い」と云つた程だつた。

「聞えないかい! あの風が」と。ホワイト氏は取り返しの付かない惡手を指したのに氣が付いたので、息に感づかれないやうに、息の注意を外らさうとして、そんなことを云つた。

「聞いて居ますとも」と、息は手を指し延べながら盤面をムツチリと、見詰めて居たが、「王手」と云つた。

「今晩はあの男は到頭やつて來ないなあ」と、父は盤面の上に手を中ブラリにしながら云つた。

「詰です」と息が答へた。

「之だから田舍住ひは嫌になつてしまふのだ」と、ホワイト氏は急にとつけもないやうに、荒々しく云つた「むさくるしいじめじめした邊鄙な住居の中でも、玆が一番いけない。路次と云へば沼だ、道と云へば急流だ。こんな家に住まつて居るのは、人聞きだつてよくはない。それかと云つて、此往來で借家は二軒だけしかないのだが、世間の人達はそんなことを考へて呉れないのだからな」

「そんなことは何うでもいゝぢやありませんか。此の次ぎの勝負にはお勝になりますよ」と。彼の妻はなだめるやうに云つた。

 ホワイト氏は直ぐ顏を上けたので、母と子とが意味ありげに、目くばせしようとしたのを妨げた。彼は何か云はうとしたのを嚙み潰して、薄い灰色の髯の中で、そつといまいましげな齒嚙をした。

「あ、やつて來たな」と、息のハアバアトホワイトが云つた。門が音たかく開けられ重い足音が扉の方に近づいた。

 老人はお客大事と云つたやうに、急いで立ち上つて、扉をあけて、客に「ひどかつたでしよう」と慰めて居るのが聞えた。客自身も「隨分ひどかつた」と云つたので、ホワイト夫人はチエツと舌鼓を打つたが、夫が脊の高い赤ら顏の眼のくるりとした男と、一緒にはいつて來ると、柔しく咳をして居た。

「曹長のモリスさん」とホワイト氏が紹介した。

 曹長は皆と握手をした。爐の傍の勸められた座に着いた。主人がウヰスキイと盃を取り出し、銅製の小さい鑵子を爐の上に置くのを、落着いて見詰めて居た。

 三杯目の盃を重ねると、曹長の瞬は輝いて來た。彼は語り始めた、この小家族の團欒は異常な興味を以て、この遠い國から來た客を見詰めて居た。客は椅子の上で廣い肩を聳やかし、珍らしい光景や荒々しい事業や、戰爭や珍しい人種のことなどを話し續けた。

「二十一年になるんだよ」とホワイト氏は妻や息の方を顧みながら云つた、「彼方へ行つた時は倉庫會社のホンの子供上りだつたのが。こんなになられたんだ」

「あまり苦勞を、なさつたやうでもありませんね」と、ホワイト夫人が丁寧に云つた。

「わしも印度へ行つて見たいな。一寸見物をするためにだが」と、老人が云つた。

「いや、住み馴れた所が一番いゝものだ」と、曹長は頭を振つた。飮み干した盃を措きながら、輕い溜息をして頭を再び振つた。

「いや古いお寺や、波羅門の行者や、魔術使ひなどを見たいものぢや。そうそう此間君が僕に話しかけやうとした話があつたね。猿の手か何かの話だつたが」

「つまらない話だ。兎に角聞く値價もない話だ」と、軍人は忙いで打ち消した。

「猿の手、ほう」とホワイト夫人は物珍らしげに行つた。

「そう、あなた方に云はすれば、魔術とでも云ふものかな」と、曹長は何氣なく云つた。

 三人の聞き手は乘り氣になつて膝を進めた。

 お客は飮み干した盃を、うつかり口ヘ持つて行きながら、再びそれを下に置いた。主人がそれに酒をついだ。

「見たところ」と云ひながら、曹長はポケツトを探りながら、「當り前の小さい手です、からからになつて木乃伊になつて居ます」

 彼はポケツトから何か取り出して、それを差し出した。ホワイト夫人は顏をしかめて後退りした。

「ほゝう、之について何か變つた所があるのかね」と訊きながら、ホワイト氏は息の手から、それを受け取つて、仔細に見ながら卓の上に置いた。

「孝行者が、之に魔力をかけてあるのです。その行者と云ふのは、非常に高德な男なのだが、彼は運命と云ふものが人生を支配して居る、そしてその運命に逆はふとするものは、却つて禍を受けるものだと云ふことを教へようとしたのだ。彼は此の猿の手に、かう云ふ符呪をかけた。三人の人が別々に此の猿の手に依つて、三つの願ひを叶へることが出來ると云ふ符呪だ」

 曹長の態度が非常に力強く眞面目であつたので、聞手は自分たちの輕い笑聲が少し震ひを帶びて居るのを感じたほどであつた。

「さうですか、それなら何うしてあなた御自身、三つの願ひを起さないのですか」と、息のハアバアトホワイトが云つた。

 曹長は、よく中年の人が小生意氣な靑年を見るやうな眼付で、彼をヂロリと見たが、

「起しましたとも」と、靜に云ふかと思ふと、その斑點のある顏の色がサツと蒼ざめた。

「それで、本當に叶ひましたか」と、ホワイト夫人が訊いた。

「叶ひました」と、曹長が答へた。彼の盃が強い齒に觸れてカチリと音がした。

「あなたの外にも、やつた人がありますか」と、老夫人が訊いた。

「最初の持手が三つの願ひを叶へました。その中の初の二つの願は、何だつたか知りません。が、最後の願は、死ぬと云ふ事だつたのです。そのために之が私の手に、は入つたのです」

 彼の聲が餘りに重苦しかつたので、一座がシンとしてしまつた。

「君が三つの願ひを叶へてしまつたなら、君には差詰め用のないものだね。何のためにそれを持つて居るのだ」と、暫くしてから老ホワイトが訊いた。

 曹長に首を振つた。

「まあ考へて御覽なさい。私も賣らうと思つたことがあります。が、どうも賣る氣にはなれないのです。もう充分此の手は持手に、禍をして居るのです。それに買手だつてありません。ある人達は荒唐無稽な話だと思ふのです。そう思はない人は、先づ試めしに願ひを叶へて見てから後で金を拂はうと云ふのです。」

「もしもう一度、君の三つの願ひが叶ふとしたならば、やつて見る氣があるかね」と、老ホワイトは曹長を鋭く見詰めながら訊いた。

「それは分らない。それは分らない」と、彼が答へた。

 彼は猿の手を、人指し指と親指とで、ブラブラさせて居たが、いきなりそれを、ストウヴに投じた。

 ホワイトは、アツと云ひながら、身をかゞめてそれを手早く拾ひ上げた。

「やいた方がいゝ」と、曹長は眞面目で云つた。

「もし入らないのなら。僕に呉れたまへ」と、老ホワイトは云つた。

「いや、與らない。俺に火に投け込んだのだ。もし、君が持つて居るとしたら、どんな事か起つても俺は知らないぞ。さあ火にくべてしまひなさい、その方が賢い」

 が、相手は首を振つて、彼の新らしい所有物を、ぢつと見つめた。

「一體之を何うすればいゝのだ」と訊いた。

「右の手で高く差し上げて、聲高く願ふのだ。然し後が恐ろしいからな」と、曹長が云つた。

「アラビアンナイトにでもありさうな」と、云ひながらホワイト夫人は立ち上つて、夕飯の仕度をし始めた。「私に手が八本も出來るやうに祈つて下さらないかな」と云つた。

 彼女の夫は、そのポケツトからかの魔の符を取り出した。親子三人は大聲を出して笑つた。曹長は色をなしながら、彼の腕を取つた。

「是非ともやるのなら、餘り無理でないことを願ひたまへ」と、荒々しく云つた。

 ホワイト氏は再び猿の手を、ポケツトに藏つた。そして椅子を並べながら、友人を卓に招いた。

 食事の間、魔の符の事は、一時忘れられた。それが終ると三人は、曹長の印度に於ける冒險談に再び聞き惚れて居た。

 お客が終列車の間に合ふやうにと歸つて行つた後で、息のハアバアトは云つた。

「猿の手の話も、あの人の外の話と同じやうにいゝ加減のものなら、餘りアテにもなりませんね」

 ホワイト夫人は。ぢつと夫を見守りながら、

「それで、幾何か代金を、上げたのですか」と訊いた。

「ホンの少し」と、ホワイト氏は顏を一寸赤くしながら「向ふぢや入らないと云つたのだが、無理に取らせたのだ。彼は呉れ呉れも、捨てゝしまへと云つて居つた」

「本當だ」と、息はわざと恐らしさうにしながら「何も金持になつたり、有名になつたり、幸福になつたりする必要はありませんからね、第一、お父さんが皇帝になるとしたら。今のやうにお母さんのお尻に敷かれて居ちや駄目ですからね」と云つた。

 ホワイト夫人は怒つて椅子の腕木を持ち上げて、息を追ひかけたので、彼は卓の周圍を逃げ廻つた。

 ホワイト氏は猿の手を、再びポケツトから取出して居た。そして、それを半信半疑で見て居た。

「何を願つていゝか、それが判らない。本當に判らない。實際大抵欲しいと思ふものは持つて居るやうにさへ思ふ」と靜に云つた。

「家が抵當になつて居る借金を拂つてしまふのですな。さうするより外に望みはない。ねえお父さん。」

と、息のハアバァトが、父の肩に手を置きながら云つた。「二百磅欲しいと云ふのですな。二百磅なら丁度いゝ」

 父は自分が魔の符を餘りに、輕々しく信じて居るのを、少し耻づるやうに微笑しながら、それを高く差し上げた。すると、息は眞面目な顏をしたが、母の方を見てそれを少しく緩めながら、ピアノに向つて坐ると、二三の力強い絃を打つた。

「俺は二百磅の金が欲しい」と。父親がハツキリと云つた。

 ピアノの華々しい混亂した響が、その言葉に應じた。何故と云へば父が急に悲嗚を擧げたので、息は鍵盤の手を放した爲である。

 妻と子とが、彼の傍にかけ寄つた。

「あゝピクツと動いた」と、彼は床に橫つて居るものを苦々しげに見ながら「俺が願ひを云ふと、あれが蛇か何かのやうにビクッと身を扭ぢたのだ」

「それにしても、お金は出ませんな。また出たら大變だ」と、云ひながら息は猿の手を取り上げて、卓の上に置いた。

「お父さんの思ひ倣しだらう」と、妻は夫を見ながら心配さうに云つた。

 彼は首を振つた。「心配しないでいゝ。何も怪我をした譯でもない。が何しろ駭かせた」と云つた。

 父と子が煙草を吸ひ終ると、彼等はストウヴの傍に坐つて居た。戸外では風か益々吹き募つて來た。父は二階の扉がパタンと音をさせるたびにピクピク驚いて居た。いつもとは違つた壓倒するやうな靜寂が三人を包んで居た。それは老夫婦が、寢室へ退く迄續いて居た。

「お父さん。寢床の眞中に大きい袋に入れた現金がきつと有りさうですよ。そして、あなたがそのアブク錢をポケツトに藏ひ込むところを、衣裝戸棚の上に蹲まつて居る魔物がぢつと見つめて居るでしようよ。ぢやお休みなさい」と息が別れる時云つた。

 

        二

 

 翌日は、冬の日がアカアカと照つて居た。それが食卓に流れ込んだとき、ハアバアトは父の恐怖を嗤つた。

 昨夜は、全く缺けて居た散文的な健全な空氣が、部屋に充ちて居た。そして汚い干からびた猿の手は棚の上に投げ捨てられて居た。その力を誰もが信じて居ないことを明に示すやうに。

「年寄の軍人と云ふものは、皆あんなものだ。私達があんなに一生懸命に聽いたのが、馬鹿げて居たのです。今時、願が叶ふなんて云ふことがあるものでない。もし叶つたところで。その二百磅はきつと害こそすれ得にはなりませんよ」と、ホワイト夫人が云つた。

「お天道樣から眞逆樣に落ちら位が落ちですよ」と、冗談好きなハアバアトが云つた。

「が。モリスは非常に本當らしく話した。まあさう云ふ事が起つたのは暗合だつたと云つてしまへばそれまでだが」と、父が云つた。

「兎に角、私の歸つて來る迄、その金には手を付けないやうにして下さい。その金を握ると、お父さんが急にケチン坊の握り屋になつて、その爲にお父さんと義絶しなけりやならなくなりはしないかと、心配して居るのです」と、云ひながら彼は卓から立ち上つた。

 彼の母は笑ひながら、息を送り出した。そして息が歩いて行く姿を見送ると、朝食の卓に歸つて來た。彼女は、夫が輕卒に猿の手を信じたことを、やりこめるのが愉快であつた。が、さうしながらも郵便が來ると馳け出したり、又その郵便が洋服屋の勘定書であることが分ると、酒好きの曹長の話をしたりした。

「ハアバァトが歸つて來ますと、またきつと何かひやかしを云ひますよ」と、晝食のときに彼女が云つた。

 ホワイト氏は、ビアをつぎながら

「然し、あれが俺の手の裡で、ビクリと動いた丈はたしかなのだ。それ丈は誓つてもいゝ」

「さう思つた幻でしよう」と、老夫人はなだめるやうに云つた。

「いや思つたのぢやない、確に動いたのだ。思つたりしたのぢやない、實際――」

 と云ひけたが、妻が向ふを向いて居るので「何うしたのだ」と訊いた。

 妻は返事をしなかつた。彼女は戸外に居る一人の男のあやしげなそぶりを見つめて居た。その男は中へは入らうとして、は入りかねて居る樣子であつた。妻は心の中にふと二百磅の事が浮んだので、その男の身裝が立派で、帽子が新しく光つて居るのに氣が付いた。その男は、門の前で三邊立ち止まつて、そして通り過ぎた。四回日に到頭門に手を掛けながら立ち止まつた。そして急に決心したと見え、門をあけると、玄關の方へ步いて來た。それと同時に、ホワイト夫人は、手を後にやつて、エプロンの紐を外づし、その有用な品物を椅子の座蒲團の下へ置いた。

 彼女は、内心穩でなさゝうなその客を、導いて來た。彼は恐縮したやうにホワイト夫人を見て居た、などを聽いて居た。それから、彼女は女性と云ふ性が、許すかぎりの辛抱強さで、相手が話を切り出すのを待つて居た。が、相手はしばらくは不思議な程默つて居た。

 到頭その男が切り出し始めた。

「私はえー此方樣へ參るやうに」と、云ひかけて、洋袴から落ちた糸屑を拾ひ上げたりした「實はモーエンドメギンス會社から參りました。」

 老夫人はビクリとした。

「何か事件が起りましたか。何かハアバアトの身の上に事件が起りましたか、一體何です、何です」と、息を切らせて訊いた。

 彼の夫が、橫からそれを制した。

「これこれ! お前のやうに、さう急いではいかん。まあお坐りなさい。決して凶い知らせぢやありますまいね」と、相手の顏を憂はしげに見つめた。

「大變お氣の毒なことですが――」と、その客が話し始めた。

「怪我をしたのですか」と、女親が訊いた。

 客は肯いて見せた。そして靜に云つた。

「大怪我です。が、苦痛はありませんでした」

 年寄つた女親は、彼の手を合せながら、

「有難い、苦しまないと云ふ丈でもどんなに――」と、云ひかけたが、ふと「苦痛はない」と云ふ事の凶い意味が分ると、彼女はハツと言葉を途切らせた。見ると相手の男は、顏を橫へ背けて居るので彼女の恐怖が恐ろしくも、當つて居るのを知つた。彼女はホツと息を吐くと、まだそれとは氣の付いて居ないらしい夫の手の中に、彼女の打ち震ふ老いた兩手を托した。

 其處に長い沈默があつた。

「機械に身體を捲き込まれたのです」と客が到頭おしまひに、低い聲で云つた。

「機械に捲き込まれた。なるほど」と、ホワイト氏がうつゝのやうに繰り返した。

 彼は窓の方角を、ぼんやりと凝視して居た。そして妻の手を自分の手の裡に握りしめて居た、もう四十年も昔の、戀人同志であつた頃にやつて居たやうに。

「あれは私達に取つて、取替へのない一人子です。お察し下さい」と、靜に客の方を振向きながら云つた。

 客は咳拂ひをして、席を立つて靜に窓の方へ步んだ。

「會社の重役も御愁傷の程を心からお察し申すと、申しました。」と、彼は窓の方を見ながら云つた「が、一寸お斷りして置きます。私は會社の使用人で、會社の命令通り申上げますのです」

 それに對して返事はなかつた。年取つた夫人の顏は白かつた、眼は引きつり、息は絶えるばかりであつた。夫の顏は、彼の友なる曹長が最初の戰場に、望んだやうな顏をして居た。

「會社の方でかう申して居るので厶います。會此の方で責任は持てない。一切責任は持てない。が。御子息樣のこれまで御功勞に對するお禮として慰藉金若干を差し上げようと申して居ります」

 ホワイト氏は妻の手を放すと、立ち上つた。そして恐怖に充ちた面でぢつと客を見つめた。彼の渇いた唇が

「金額」はと云ふ言葉を思はず吐いた。

「二百磅です」と、客人が答へた。

 妻の悲嗚を揚げたのにも、氣が付かず、老人はかすかな微笑を洩すかと思ふと、盲目のやうに手を泳ぐやうに突き出しながら、死人の如く床の上に崩れかゝつた。

 

         三

 

 二哩ばかり離れた、新しい大きい墓地へ死人を葬つてから、老夫婦は陰と沈默とに閉ざされて、家の中へ歸つて來た。

 凡てが夢の如く、現の如く去つてしまつたので、彼等は何うしても、それが實際の事だとは諦めかねて居た。まだ何か起るに違ひない、この老いた心には堪へがたい重荷を緩めて呉れるやうな、何事かゞ起るに違ないと云ふやうな、期侍の心さへ殘つて居た。

 が、然し日は空しく去つた。さうした期待の心はあきらめに移りかけて居た。時々は冷淡と間違はれる。年寄特有のあきらめに、移りかけて居た。

 時には彼等は言葉さへ交はさなかつた。もうそれに就いて話すべき對象がなかつたのである。そして日が退屈になるほど、長かつた。

 息が死んでから、一週間ばかり經つたある夜だつた。老人は、夜中眼がさめて、手を延ばして寢床の上を探つた、そして目分一人であるのに氣が付いた。

 部屋は暗かつた。聲を潛ませた泣き聲が、窓の所から聞えた。彼は起き直つて聽いて居た。

「さあ來てお休み、身體が冷えるだらう」と、物やさしく言つた。

「あの子が、どんなに冷えるでしよう」と、云ひながら老夫人は更に聲をあげて泣いた。

 いつか妻の泣き聲が聞えなくなつて居た。寢床が温かかつた。彼の眼は眠むく重かつた。彼がとろとろまどろみかけた時であつた。彼はいきなり妻の烈しい叫聲によつて、急に覺された。

「猿の手! 猿の手!」と、彼女はすさまじく叫んだ。

 彼は駭いて起き上つた。

「何處に何處に。それが何うしたのだ」

 彼女はよろめくやうに、彼の所へ馳けつて來た。そして靜に云つた。

「あれが欲しいのです。無くしはしないでしよう」

「座敷の棚の上にある。それが何うしたのだ」と、いぶかりながら答へた。

 彼女は大きな叫び聲と笑ひ聲を、一時に揚げた。そして彼の上に身を掩ふて、頰にキスをした。

「今丁度あのことを思ひ付いたのです。何うしてあのことを今迄忘れて居たのだらう。あなたも何故考へ付かなかったのです」と。彼女はヒステリツクに云つた。

「考へ付くつて何の事だい」と、彼が尋ねた。

「もう二つの願の事です、私達はまだ一つしか願つてありません」と、彼女は口早に答へた。

「一つで懲々したぢやないか」と、夫が烈しく云つた。

「いゝえ」と、彼女は威力丈高に答へた。「もう一つ願ひを叶はして貰ふのです。はやく行つてあれを取つて來なさい、そしてあの子を生き返らすやうに願つて下さい」

 夫は寢床の中に立ち上つた。そして打ち震ふ手で夜具を投げ捨てた。

「馬鹿な。お前は氣が違つたな」と、蒼白な顏をして叫んだ。

「取つておいでなさい」と彼女が喘いだ。「早く取つておいでなさい。そして願を立てゝ下さい、あああの子を、あの子を」

 夫はマツチを擦つて、蠟燭を灯した。

「さあお寢みなさい。お前は途方もないことを云つて居る」と、夫はおづおづ答へた。

「私達は初の願が叶つたのです。二度目の願が叶はないと云ふことがあるものですか」と、彼女は熱狂して云つた。

「あれや偶然さ」と、夫が口ごもつた。

「行つて取つて來なさい! そして願を立てゝ下さい」と、年寄つた妻は夫を扉の戸へと、引きづるやうにした。

 夫は闇の中を手探りに座敷ヘ降りて行つた。そして爐の傍へ近づいた。あの魔の符はやつぱり一元の所にあつた。彼はふと、まだ願を口に出さない前に、はやくも身體を打ち碎かれた血まみれの息の姿が室を出ない前に、眼の前に現はれはしないかと云ふ恐怖が、恐ろしく襲つて來た。扉の方角を忘れた時には、彼はハツと息を止めた程であつた。彼の額は、冷汗をかいて居た。彼は卓の周圍を擽りながら廻つた。それからやつと壁を傳ひながら、小さい入口の方へ出た。その間始終あの物騷な品物は彼の手中にあつた。

 部屋に歸つて見ると、彼の妻の顏色も前とは變つて居るやうに思はれた。蒼白でしかも緊張して居た。そして此世の入と見えないやうな顏付をして居ることが、彼の心を怖れしめた。彼は彼女を薄氣味惡く思つた。

「さあ願をお立てなさい!」と妻は強い聲で云つた。

「馬鹿らしい、正しい事ぢやない」と彼は呻くやうに云つた。

「願をお立てなさい!」と、妻は嚴然と繰返した。

 彼は彼の手を差し延べた。

「彼はもう一度子供が生きかへるのを望む」

 魔の符は床上に落ちた。彼は戰きながら、それを見た。そして震へながら長椅子に腰を下した。老いた妻は燃えるやうな眼をしながら、窓の所へ步いて行つて、その窓掩ひを揚げた。

 彼は身の裡が、冷えるまで坐つて居た。そして窓から表を覗いて居る老いた妻の姿を、時々見て居た。蠟燭のはしが、支那製の燭臺の緣よりも低く燃えつきて、天井や壁にたゆたふやうな光を投げて居たが、パッと燃え上ると同時に消えてしまつた。

 老人は、魔の符の利き日のないのにホツと安心して寢床には入つた。二三分經つと、妻も靜にあきらめたやうに彼の傍に來た。

 兩方とも物を云はなかつた。靜かに時計の音を聞いて居た。階段の板が鳴る響がした。鼠が鳴きながら壁の中を走つた。闇は堪へがたいほど重くるしかつた。夫はやつと元氣を引きたゝして、マツチを點けながら、階下へ蠟燭を取りに行つた。

 階段を降りた所、マッチが消えた。二本目を擦るために立ち止まつた。丁度その瞬間であつた。やつと聞えるか聞えないかの、かすかな戸を叩く音が、表から聞えて來た。

 マツチは彼の手から、滑り落ちた。彼は叩く音がもう一つ繰り返へされると、息を凝らして立ちすくんでしまつた。それから急いで、部屋へ馳けもどつて、後の戸をハタと閉ざした。

 三度目の叩音は、家中に響いた。

「何でしよう」と、年取つた妻は、驚いて立ち上つた。

「鼠だよ。鼠だよ、今階段のところで、擦れ違つたんだ」と、夫は震へながら云つた。

 妻は寢床の上に坐り直して聞耳を立てゝ居た。音高いノツクが家中に響いた。

「あゝハアバアトだ。ハアバアトだ」と、妻は叫んだ。

 彼女は戸の所へ馳け寄つた。が夫は前に立ち塞がつた。そして彼女を取へて放さなかつた。

「何うする氣なのだ」と彼はうつろになつたやうな聲で云つた。

「あの子です。ハアバアトです。二哩もはなれて居るので來るのに時間がかゝつたのです。何うして止め立てするのです。はなして下さい。戸をあけてやらねばなりません」と彼女は機械的に夫と爭つた。

「後生だから入れてはいけない」と、夫は打ちふるへながら云つた。

「あなたは自分の息を恐がつて居るのですか。はなして下れい。ハアバアトや、今行つて上げるから、今行つて上げるから」と、彼女は叫びながら爭つた。

 ノックは又一つ、又一つ續いた。老いた妻はいきなり身を振り切ると部屋から走り出た。夫は階段の中段に追すがつて、賴むやうに姿を呼び止めやうとしたが、彼女は階下へ馳け下りてしまつた。彼は表戸の鎖がはづされ、下の閂が徐々に重々しく、環から取り除けられる音を聽いた。それから老いた妻の緊張して喘いで居る聲をきいた。

「降りて來て下さい。閂が。閂に手が屆かないのです」と、彼女が聲高く叫んだ。

 が、彼女の夫は四つ這ひになつて、懸命に床に落ちた猿の手を探して居た。表に居る者が家に入らぬ間に探せたらと思つて居た。

 殆ど間斷なき射擊のやうに、戸を叩く音が家中に響き渡つた。彼は妻が閂を除づす踏臺のために戸に寄せかけて置いた椅子が、ギチギチ音がするのを聽いた。彼は、閂がだんだん音を立てながら、外づされるのを聽いた。丁度その瞬間に、彼は猿の手を見付けた。そして狂せんばかりに彼の第三番目にして而して最後なる願を立てた。

 戸を叩く音が、急にピタリと止まつた。まだその反響は家の中に殘つて居る位であるのに。彼は椅子が取り除けられ、戸が開かれるのを聽いた。冷めたい風がサッと階段を傳ふて流れ上つた。妻の悲しみと失望との長い呻きが、彼に妻の所へ馳け下りる勇氣を與へた。そして門の所まで出て見る勇氣を與へた。

 街の向ふ側にまたゝいて居る街燈が、靜かな人跡の絶えた深夜の通を照して居たばかりであつた。

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