行脚怪談袋 支考四條河原に凉む事 付 狸人に化くる噺し
支考四條河原に凉む事
付狸人に化くる噺し
支考といへるも、芭蕉時分の俳人なり、是世の人の知る所也。生國は近江の者にて、住所は京都なり、或時支考同所三條町笠屋といへる町人の方(かた)ヘいたり、右の者共と同道して、時に夏の暑さを忘れんがため、四條河原の茶屋へ凉みに至り、酒肴(さけさかな)を好みて出ださせ、河原より吹上げる風に身をひやして、四方山(よもやま)の物語りに數盃をかたむく、しかる所へ此の茶屋の給仕の女、年頃も十六七と見えしが、そのよそほひ柳の枝に花を吹かせしにひとしく、せんけんとして美しき事いふばかりなし、支考を初め座中の人々その美麗なるを譽めて、汝はこのちや屋の親ぞくの者か、又は抱への女子(ぢよし)なるかと尋ねけれど、此の女いと恥しげなる體にて、唯打笑ふのみ。一言の答へもなし。連れの中に一人、此の女の身の上を茶屋の亭主に問ひける、時に主(あるじ)申す樣、されば其の事にて有之(これあり)、甞て座敷ヘ出でゝ酒飯の給仕を望む。我れは存ぜぬ女子にて候へば、不審におもひ、いづれ如何なる者にてかく現はれ出でるぞと、其の住所問へ共答へず。人々申し合せとらへんと仕るに、かげろふか稻妻のごとくにて、さらさら手にたまらず、打捨て置けばまたあらはれて、客の座敷へ出で、自(みづか)らてうしを取りて酌を致す也。されども、何の生化(しやうけ)も仕らず、却(かへつ)て調法成る女子にて候ゆゑ、うち捨て置き申す也と語り、何れにも狐狸の類ひに候べし、正體を存じ度(たき)物なりとぞ申しけるが、かの男是れを聞き、いか樣是は怪しき事也とて、座敷へ歸り見るに、彼の女また出でたり。右の男支考を初め、大勢の者どもにも此の次第を告げる。酒も半に及び、互にさいつおさへつ盃のもめる段に及びて、彼の女子(をなご)にあひを賴む。女辭する事もなく、一獻を請くれば、其の時大勢の者云ひ合せて、かれに酒をしひ、醉ひつぶして正體を見屆けんと計りける。怪女は此のたくみをば知らずして、わらはがあひをして貰ひたし、爰にてもつけざしを賴む抔と、盃の數重なるを、甞てめいわくとも思はず、かの女子は引請け引請け呑むほどに、すでに一升程も呑みをはる。され共醉ひたる體ならず、平生(へいぜい)の顏色にて居ければ、諸人(しよにん)けしからぬ事やと思ふ所に、其の中に一人の者申しけるは、女の身としてかく大酒なし、顏色(がんしよく)も違(たが)はず以前の如く成るは、彌々(いよいよ)もつて心えぬ物、變化のたぐひ也。然る上は斯樣(かやう)の酒にて、今いかほど呑ませたればとてやくにたゝずと、側にありし吸物椀のふたを出して、かの女子(をなご)にのまさんと、一献(こん)のみて其の盃をすぐに右の女にさすに、物をも云はず盃を請けて、又重ねて呑む事十餘盃に及ぶ。一座の面々大きに驚きしが、さすが大酒(たいしゆ)なせし故にや、彼(か)の女子(をなご)頭をたれて居たりしが、其のまゝ横にたふれ、前後もしらず寢入(ねいり)けり、其のいびきすさまじき事大方ならず、亭主も來りて此の體を見、能(よ)き時節也。しばりからげんとて、繩を持ち來り後手(うしろで)に搦め、か
たはらにつなぎ置きけり。是を見て大勢また酒盛を始めけるに、支考盃を請けて、
生醉をねぢすくめたる凉み哉 支考
と吟じける。扨(さて)彼(か)の女子は暫くが間醉に性を失ひ、一(いつ)すゐの内に思はず姿をゐらはし見るに、そのさま犬の如くなる古狸(ふるたぬき)にてぞありける。大勢是を見て、扨こそかくあるべしと、手を打ちしが、その後亭主に告げて、彼(か)の化物來るといへども、さして害なければ、目を覺ましなばはなし遣(つかは)し然るべしと、申し置きて、皆々その所を歸りしが、亭主も其の詞の如く、翌日にいたりて放ちかへしけり。
■やぶちゃんの呟き
ここに出る「生醉をねぢすくめたる凉み哉」は支考の句ではない。芭蕉七部集の一つである「續猿蓑」の「夏之部」にある「納涼」の、「漫興 三句」、
腰かけて中に凉しき階子(はしご)哉 洒堂
凉しさや緣より足をぶらさげる 支考
生醉をねぢすくめたる凉かな 雪芝
とある、蕉門の広岡雪芝(せっし 寛文一〇(一六七〇)年~正徳元(一七一一)年)の句である。やはり本作、かなり杜撰と言わざるを得ない。因みに雪芝は芭蕉の生地伊賀上野で山田屋という屋号で酒造業を営んでいた。服部土芳・窪田猿雖らは従兄弟(いとこ)である。
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