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2016/07/20

うまくてタダの井戸水   梅崎春生

 

 夏にそなえて、わが家もとうとう井戸を掘ることにした。

 わが家はとくに高台にあるわけでもないのに、夏になると上水道の出が悪くなる。いや、悪くなるという程度ではなく、全然出ないと言った方が正しい。五六月頃からちょろちょろ出となり、七月に入れば日中はぱったり、夜中に辛うじて雀の涙ほどの出を見せる。

 その度ごとに役人は弁解して、どこそこの浄水場を拡張するとか、配水管を増設するから、来年度は不便をかけないと約束するのだけれども、冬を越して、さて来年の夏がやって来ると、また前年の繰返しでさっぱり出ないのである。

 役人の方にどんな事情があるのか知らないが、こちらとしては四度まるまるだまされた。仏の顔も三度というが、もうこれ以上だまされるのは厭だとの気持から、ついに井戸掘りに踏み切った。井戸屋さんに電話をかけたが、忙しいとのことで、なかなか来て呉れない。あちこちから井戸掘りの需要があるらしい。

 申し込んでずいぶん経って、三人ばかりやって来た。本式に掘るのかと思ったら、今日は吉日だから鍬先(くわさき)を入れるだけだとのことで、どのくらい掘ったら水が出るかと質問したら、

「場所によるから、掘って見なくちゃ判らないけれど、まあ大したことはあるまい」

 とのことだった。こちらは費用を心配したのである。

 東生田に引越した庄野潤三君は、七十五尺掘って初めて水を得たというし、逗子に住む堀田善衛邸の井戸の深さは百二十尺あるという。

 百二十尺というと三十数メートルで、丸ビルの高さぐらいある。この間水の出が悪くなったので井戸掃除を頼んだら、井戸屋さんがやって来て、蠟燭(ろうそく)を紐につるして入れたりして、いろいろ実験した結果、

「これはとてもあっしの手に負えません」

 と帰って行ったそうだ。

 そんな深い井戸を掘るのには、さぞかし費用がかかっただろうと、他人事ながら心がかりである。

 それから四五日経って、今度は六人連れでやって来た。午前中に三メートルほど掘ったら、もう泥水が出た。七十五尺だの百二十尺でおどかされていた関係で、がっくりと気抜けがして、またうれしくもなって、

「何だ。もう出たのか」

 とひとりごとを言ったら、ここらは大体こんなものですよ、とほりやさんが答えた。

 しかし泥水が出たからと言って、まだ井戸の体裁をなさない。午後からはその水をかい出しながら、どんどん掘り進める作業にとりかかる。井戸掘りの仕事は、噴出する水との戦いである。

 のぞいて見ると、粘土質か赤土質かは知らないが、井戸の壁からきれいな水が、しゅっしゅっとほとばしり出ている。

 中にいるほりやがそれを桶にみたす。井戸の入口に立っているげんばが合図をすると、三人のつなこが綱を引いてかけ出す。桶が入口に達すると、げんばが水を道路にぶちまける。道は泥だらけ水だらけになるから、それを整理する人が必要だ、それを泥かきというのである。

 私の見たところではほりやが大将で、泥まみれになって、一番忙しい。次に重要なのはげんば(現場の意か?)で、引っぱりのタイミングを狂わせないように緊張している。

 つなこと泥かきは大したことはない。つなこはかけ出せばいいのだし、泥かきはスコップを振っていればよい。見習いにも出来る仕事で、私も及ばずながら物置からスコップを取り出して、泥かきの加勢をした。仕事は五時頃終った。

 翌日もやって来て、電気モーターその他の取付けを終り、夕方には栓(せん)をひねると清冽(せいれつ)な井戸水が勢いよくほとばしり出る。

 隣に並んだ水道の方は、栓をひねってもしょぼしょぼで、井戸栓の方を青年だとすると、水道の方ほまるで前立腺肥大にかかった老人みたいだ。

 それに水の味が違う。お茶にたててみるとすぐに判る。断乎として井戸の方が上味である。しかも水道と違ってただと来ているのだから、こたえられないようなものである。

 などといろいろ水道の悪口を書いたが、今まで散々出なかった腹いせの意味もあるのであって、素直に出て呉れれば私は悪口を言わないし、井戸を掘りもしない。態度が悪いからこそ、叱りもするのである。

 東京都広報室で発行している「東京広報」四月号を読むと、「練馬、板橋、世田谷などの給水不良地区」云々というにくたらしい文句が出ている。不良なのは四年前から判っている。

 同じ税金を取り立てながら、どうしてここらだけ辛抱せねばならぬのか。

 大体東京には人間が多過ぎるのじゃないだろうか。江戸時代にだんだん人口がふえて、神田上水だけではまかない切れなくなり、玉川上水をつくったのが四代将軍家綱の頃だというが、今では人口のスケールが違う。

 だからあちこちの河の水を、引っぱって来ちゃ飲み引っぱって来ちゃ飲みしても、まだ足りない。多摩川、荒川の水はほとんどフルに飲んでいるし、遠く相模川の水にまで手を伸ばし、それでも足りなくて川崎市から水を買っている。

 まだまだ足りなくて大利根の河水に眼をつけているというのだから、無茶と言おうか、スケールが大きいと言おうか、ここらでいい加減に手を打たないと、飛んでもないことになりそうな気がする。

 規模が大きくなるにつれて、水道の水はますます不味くなる、という因果関係が成立するらしい。

 河べりに工場がどんどん建つ。するとその廃液や下水などが、容赦なく河に流れ入って、水が汚染する。それを浄水場できれいにするために、今までより余計に消毒薬を使う。消毒薬を使えば使うほど、水の味は落ちるのだ。

 今の多摩川がそうだそうである。冬の渇水期に調べてみたところ、大腸菌ならびに一般細菌がうようよで、江戸川系にくらべて数倍もあった。

 だから玉川浄水場ではあわてて、今まで水一トンに一・四グラムの塩素を入れて消毒していたところを、七倍の十グラムにふやした。

 塩素を広辞苑でしらべてみると、さまざまの記述がある。「黄緑色で悪臭がある」と書いてある。また「酸化力強く、植物性の色素を褪色する作用があるから、酸化剤・漂白剤の原料、また殺菌剤・毒ガスなどとして用いる」

 いいですか。毒ガスですよ。いくら微量とはいえ、毒ガスは毒ガスだ。しかもその毒ガスの量を一挙に七倍にふやした。

 塩素をそんなにふやしたので、水が酸性になって、給水管の赤さびをとかす。方々で赤い水が出るようになったし、それでお茶をたてても、いっこうにうまくない。といって、そうしなければ大腸菌がうようよというわけで、大東京の水道はじたばたすればするほど不味くなるし、毒性がふえて来るのである。一体当局はこの状態に、どんな対策を持っているのか?

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第五十六回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年五月十四日号掲載分。底本の傍点「ヽ」は太字に代えた。

「東生田」現在の神奈川県川崎市多摩区東生田であろう。

「庄野潤三」(大正一〇(一九二一)年~平成二一(二〇〇九)年)は大阪生まれの小説家で、所謂、「第三の新人」(昭和二八(一九五三)年から昭和三〇(一九五五)年頃にかけて文壇に登場した新人小説家を、第一次戦後派作家(梅崎春生はここに含まれ、他に野間宏・武田泰淳・埴谷雄高・椎名麟三・福永武彦など)・第二次戦後派作家(次の堀田善衛の他、大岡昇平・三島由紀夫・安部公房・島尾敏雄など)に続く世代として評論家山本健吉が命名した。安岡章太郎・吉行淳之介・遠藤周作などが含まれる)の一人。昭和三〇(一九五五)年に「プールサイド小景」で芥川賞を受賞(私はこの一作以外に読んだことがない)。春生より六歳年下。

「七十五尺」二十二メートル七十三センチ弱。

「堀田善衛」(大正七(一九一八)年~平成一〇(一九九八)年)。春生より三つ年下。富山県高岡市伏木生まれ。生家は伏木港の廻船問屋。僕の出た中学校はここの伏木中学校であるが、恐らく日本中でただ一校、校歌のない中学校である。校歌の代わりに「伏木中学校の歌」というのがある。その作詞者は彼である。私のブログ記事を参照されたい。曲も聴ける(伏木中学校公式サイト内リンク)。

「百二十尺」三十六メートル三十六センチ強。]

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