芥川龍之介 手帳2―1~5
芥川龍之介 手帳2
[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年の丸善株式会社発行の手帳で、記載可能のページ数は八十一ページ、龍之介によって書き入れられたページは七十三ページ分である。
底本は現在最も信頼の於ける岩波書店一九九八年刊行の「芥川龍之介全集」(所謂、新全集)の第二十三巻を用いつつ、同書店の旧「芥川龍之介全集」の第十二巻を参考にして正字化して示す。取消線は龍之介による抹消を示す。底本の「見開き」改の相当箇所には「*」を配した。適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。
なるべく同じような字配となるようにし、表記が難しいものは画像(特に注のないものは底本の新全集)で示した。各パートごとに《2-1》というように見開きごとに通し番号を附け、必要に応じて私の注釈を附してその後は一行空けとした。「○」は項目を区別するために旧全集・新全集ともに一貫して編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。判読不能字は底本では字数が記されているが、ここでは「■」で当該字数を示した(画像で私が判読出来ない字も■で示した)。
なお、底本編者によれば、本「手帳2」の記載推定時期は大正七(一九一八)年か大正八(一九一九)年頃とある。]
*
《2-1》
○一力=万
大川囘漕店
神田明神店
[やぶちゃん注:高砂屋浦舟著「江戸の夕栄」(大正一一(一九二二)年紅葉堂書房刊)に寄席の一つとして日本橋万町一力亭というのが挙がっている。
「大川囘漕店」全く同名の海運業を営む会社が東京都中央区湊に存在するが、如何? これは寧ろ次の「神田明神店」と並べると、江戸時代の長屋の名称のように見えないか? 即ち「店」は「だな」と訓じるのである。識者の御意見を伺いたい。]
*
《2-2》
○本郷區千駄木町九六 竹谷方
[やぶちゃん注:以下の地図はこの場所を指すもの。上右に当該の「竹谷」方、そのやや左下の「↑」の上にあるのは「右」ではないか? 上左に「出井樣左」(? 「出」は自信がない。「左」は「方」かも知れぬ)と「王寫」(?)と思しい字(これが読図のポイントになるのだが、現代の地図ではそれと思しいものが見当たらない)、下右に「動坂」、下中央左に「千駄木町」、下左に明らかに違った筆致で「ねつ社」(根津社)か。私の地図の読みが正しければ、この道のこちらの方向には根津神社があるからである。これが限界。後は識者の御教授を乞うものである。なお、新全集は図の書き込みの活字化を放棄している。]
○府下下澁谷 伊達及伊東漬物
[やぶちゃん注:現在の國學院大學から恵比寿方面が旧渋谷村のようであるが、それらしい漬物店は現存しない。]
*
《2-3》
○合ひの子――遊女 繪師――信 碧眼の乞食
○身うけ―→客 唐物問屋
○アントニオ上人と華魁
[やぶちゃん注:切支丹物の構想メモ。老婆心乍ら、「華魁」は「おいらん」と読む。]
○朝寒や寐れば音する藁布團
病室の膳朝寒し生玉子
身熱のうつらうつらと夜長かな
熱の夜の長さに伯母を思ひけり
秋蚊帳の中に咳する病者かな
氷囊や秋の氷のゆるゝ音
頓服の新藥白し今朝の秋
秋立てばまづ咳をする病者かな
[やぶちゃん注:自作句稿。「朝寒や寐れば音する藁蒲團」と「病室の膳朝寒し生玉子」は、大正八(一九一九)年八月二十三日(旧全集五六七書簡)に載る。遊覧していた金沢八景にて感冒のためにこの日に同地の田中病院に入院している(但し、芥川龍之介の名誉のために詳しくは述べないが、私はこの入院は実は別な医療目的があったのではないかと猜疑している。実際、句でもひどい発熱の様を詠みながら、実際には病院内で「妖婆」の前篇をさえ執筆・脱稿しているのである)。]
*
《2-4》
○象――安山岩の腹 大きな蛭に似た鼻 漆食のやうな牙 尾――肉根 鳶色の眼 うす紅い口
[やぶちゃん注:ルナールの「博物誌」風のアフォリズム「動物園」(大正九(一九二〇)年)の冒頭に以下のようにある(リンク先(前者は岸田国士訳)は孰れも私の電子テクスト)。
*
象
象よ。キツプリングは昔お前の先祖が、鰐に鼻を啣(くは)へられたものだから、未だにお前まで長い鼻をぶら下げて歩いてゐると云つた。が、おれにはどうしても、あいつの云ふ事が信用出來ない。お前の先祖は佛陀御在世の時分、きつとガンヂス河の燈心草の中で、晝寢か何かしてゐたのだ。すると河の泥に隱れてゐた、途方もなく大きな蛭が、その頃はまだ短かつた、お前の先祖の鼻の先へ、吸ひついてしまつたのに違ひない。さもなければお前の鼻が、これ程大きな蛭のやうに、伸びたり縮んだりはしないだらう。象よ。お前は印度の名門の生れだ。どうかおれの云つた通り、あのキツプリングの説などは口から出放題の大法螺だと、先祖の冤を雪ぐ爲に、一度でも好いからその鼻をあげて、喇叭のやうな聲を轟かせてくれ。
*]
○omaesan wa kawaiiyo !
*
《2-5》
○顧眄
[やぶちゃん注:「顧眄」の「眄」は「見回す」或いは「横目で見ること」で、振り返って見ることの意であるが、これは或いは構想しながら、遂に書かれなかった随筆の題名メモかとも思われる。大正七(一九一八)年四月二十四日附薄田淳介(大阪毎日新聞社学芸部長。詩人薄田泣菫の本名)宛書簡(岩波旧全集書簡番号四〇七)に近日中に『「顧眄」といふ隨筆を書きます』とあるからである。]
○1先生 2志賀氏の家(松江) 3師走(山田との原稿いきさつ) 4第三新思潮時代のスクラツプ 5第四新思潮時代のスクラツプ(松岡の寐顏) 6鈴木三重吉の first impression(夏) 7成瀨の手紙 8
[やぶちゃん注:これは「あの頃の自分の事」(大正八(一九一九)年一月)の初期構想メモである。
「1先生」は同作の「一」に出る東京帝大英文科主任教授「ロオレンス先生」のことであり、「あの頃の自分の事」(別稿)(作品集「影燈籠」所収の際に削除された二章)の「六」にも登場している。
「2志賀氏の家(松江)」は、結局、「あの頃の自分の事」には書かれなかったが、大学二年終了の夏、大正四(一九一五)年八月三日から二十二日まで畏友井川(後に恒藤に改姓)恭の郷里松江に遊び、吉田弥生への失恋の傷心を癒した折り、同市中原の偶々泊まった家が偶然、前年に志賀直哉が滞在し、後に「濠端の住まひ」に書いた家であったことを書こうとしたものと推定される。志賀の話は出ないが、芥川龍之介は「松江印象記」という若書きながら印象的な小品を残している(リンク先は私の初出形復元版)。
「3師走(山田との原稿いきさつ)」は「山田」「の」件「と」「原稿いきさつ」ならば氷解する。「山田」は「あの頃の自分の事」の「四」に出る山田耕作で、この章は成瀬正一と二人で帝劇の音楽会を鑑賞に行き、そこで指揮者山田耕作や山田夫人の独唱が描かれているからである(この章の目玉はその後に帝劇喫煙室で谷崎潤一郎と邂逅するシークエンスにある)。「原稿いきさつ」は「五」で、その音楽会の翌日に松岡譲を彼の下宿に訪ね、彼が書いるはずの三幕物の戯曲の原稿を読ませてもらうはず(実際には疲れ切って寝ている松岡を見出し、彼が寝ながら泣いているのを見出すという印象的なコーダが「5第四新思潮時代のスクラツプ(松岡の寐顏)」である)のシークエンスと連関する。
「4第三新思潮時代のスクラツプ」は「あの頃の自分の事」の「一」に創刊前のエピソードが「ロオレンス先生」絡みで少し語られてあり、また「あの頃の自分の事」(別稿)(作品集「影燈籠」所収の際に削除された二章)の「二」にもかなり詳しく載る。
「6鈴木三重吉の first impression(夏)」「first impression」は「初対面の印象」か。「あの頃の自分の事」には、ない。鈴木は児童文学者として知られるが、実は誰か(私藪野直史のことである)と同じで酒癖が悪く、人の悪口しか言わない人物としてかなり文壇では有名である。因みに龍之介は甘いもの好きであったが、酒は殆んど飲めなかった。
「7成瀨の手紙」]
{信房 イセティシストにしてレプラなり 法名 スケプティツクなり 否定家なり
○{
{義信法師 フアナティツクにして肯定家なり 義信の戀人なりし女房
[やぶちゃん注:「信房」「義信法師」ともに不詳。これらの条件に一致する人物を探そうとしたが、徒労であった。識者の御教授を乞う。
「イセティシスト」不詳。「sadist」か?
「レプラ」ハンセン病。
「スケプティツク」skeptic。懐疑論者・無神論者。
「フアナティツク」fanatic。狂信者。]
○Comfess しても猶 death を恐るる僧の心理。(即 punishment の horror と death の horror との別を知りし horror )
[やぶちゃん注:当該するストーリーを想起し得ない。
「Comfess」告解する・懺悔する。
「punishment」罰。]
○死の horror の爲に自ら死す心理
[やぶちゃん注:同じく当該するストーリーを想起し得ない。]