芥川龍之介手帳 1―18
《1-18》
○經濟 庶務
○ 月々――
15000圓
originally 20000
- 5000ハ家庭渡し(計理部ヨリ)
――――――
15000
[やぶちゃん注:計算式は底本では下部に横書。「originally」は副詞で「元来」。この金額、やけに大金である。当時の「金剛」の艦長は吉岡範策大佐であるが(当時の海軍の軍艦は概ね大佐クラス止まり)、ネット・データでは敗戦時で大佐の年棒(将校や准尉の上官クラスは月給ではなく年棒制。但し、それ以下は驚くほど低賃金(曹長で32円~75円、2等兵ともなると6.5円~9円)で月給制であったらしい)は3720円~4440円とあるから、これは艦長を含めた全乗組員総計を月割りに換算したものか。ネット上のあるデータを見ると、龍之介が「金剛」に乗艦した大正六(一九一七)年当時の一円は現在の1103円とするものがあるから、「15000」円は千六百五十四万五千円、「20000」円は二千二百六万円、「5000」円でも五百五十一万五千円に相当する。]
○3ケ月分即45000圓を拂ふ
{ 180圓――18頓
○炭{
{1700圓――170頓
[やぶちゃん注:「{」は底本では大きな一つ。前の記載と併せて、数字の異常な大きさから、当時の「金剛」の消費燃料としての石炭の値段と重量式と思われる(ウィキの「金剛(戦艦)」によれば、同艦は昭和三(一九二八)年より昭和六年にかけて横須賀工廠で水平・水中防御力の強化と重油への燃料移行が行なわれているから、それまでは石炭燃料を使用していたことが判る)。前注で使用した換算を適応すると、「45000」円は四千九百六十三万五千円、「180」円は十九万八千五百四十円、「1700」円は百八十七万五千百円になる。これから見ると「金剛」の石炭標準消費量上限は一ヶ月百五十トン(現在の百六十五万四千五百円相当)となることになる。]
○おぎろなき海の光り
[やぶちゃん注:「おぎろな」しは「頤なし」で、広大である・奥深いの意の「日本書紀」に出る古語である。以下、短歌或いは俳句稿の表現断片である。芥川龍之介の手帳「我鬼窟句抄」の「大正八年」の俳句群の中に記された一首に、
夕影はおぎろなきかもほそぼそと峽間を落つる谷水は照り
の用例を認める(「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」を参照されたい)。]
○えやし人妻
[やぶちゃん注:「え」(正しくは「ゑ」)「や」は感嘆を示す間投助詞で、「し」も副助詞で強意。「ああ! なんて素晴らしく美しい!」のニュアンス。「人妻」については本パートの最後に注する。]
○うきくさの戀のゆくさためぬしられも
[やぶちゃん注:「ゆくさためぬ」「行く定め」か「行く(へ)定めぬ」か。先行する大正二、三年頃の芥川龍之介の未発表短歌に、
ほのぼのとのぼるココアのゆげよりもゆくへさだめぬ戀をするかな
ゆるやかにのぼるこゝあのゆげよりもゆくゑさだめずなびくわがこひ
がある(同じく、「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」を参照されたい)。]
○あぢさひの色さだめるやされど
○あやめ
○人妻のあはれはあはや
○いちはつの水につれなき戀なれど
[やぶちゃん注:「いちはつ」単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ Iris tectorum。和名は「一初」でアヤメ類の中でも一番早く咲くことに由来する。因みに、種小名の
tectorum は「屋根の」という意である(乾いた土に生え、乾燥に強い(ここの「水につれなき」はそこに掛けた)ことから魔除けとして農家の茅葺屋根の棟の上に本種を植えたものであった。十代の終りに鎌倉の十二所の光触寺手前の左手の民家の上に見たのが最後だった)。]
○人妻となりて三とせや衣更へ
[やぶちゃん注:「衣更へ」一般にこの直近(「金剛」乗艦は大正六(一九一七)年六月二十日)では六月一日である。これより「三とせ」前となると、この「人妻」の結婚は大正六(一九一七)年三月となる。これが重要な意味を持つ。末尾の私の注を参照。]
○人妻のあはれや春の葱
○萍や行く方さだめぬ戀なれど
[やぶちゃん注:「萍」は「うきくさ」と読む。浮草。]
○かきつばた
[やぶちゃん注:芥川龍之介は、この「金剛」乗艦の七ヶ月後の大正七(一九一八)年二月一日に塚本文と結婚式を挙げている(於・田端自宅)。従って、この歌稿断片が前部の「金剛」乗艦中に記されたものであるおするならば(前後の記載からそう断定してよい)、この「人妻」とは自分の妻文のことでは、ない。だからこの龍之介が煩悶する「戀」の相手も文では、ない。その女性は既に「人妻」なのである。だから煩悶せざるを得ないのである。しかも彼女は大正六(一九一七)年三月頃に結婚していることになる。
文さんとラブラブの婚約中の芥川龍之介にして、そんな女性がいるはずがない――と龍之介ファンの文学少女は思いたい、であろう。
しかし、実際――それにぴったり一致する女性がいる――のである。
海軍機関学校の同僚で友人であった物理教官佐野慶造の妻佐野花子
である。
昭和四八(一九七三)年短歌新聞社刊の佐野花子・山田芳子(花子の娘)「芥川龍之介の思い出」の、佐野花子による「芥川龍之介の思い出」に以下のようにある、
*
大正六年四月の或る土曜日でしたが、私たちは新婚旅行に出るため、横須賀駅へまいりました。そのとき丁度、すれ違いに彼と出会ったのが、最初のお見知り合いでございましてまったく偶然ではありましたが、鎌倉までご同乗下さり、そこでにこやかにお見送り下さいました。
「やあ、佐野君」
「おお。これは芥川さんでいらっしゃる。これは妻です。お茶の水高師文科の出で」
「おお。これは、月の光のような」
と呟かれました……。鶴のような長身にぴたりと合う紺の背広、右手にステッキ。束の間の出会いではございましたが、
春寒や竹の中なる銀閣寺 龍之介
としるした美しい絵葉書は、すぐ後に届けられてまいりました。私どもはその筆蹟に見入り、発句に感じ、たいせつに手箱の底へ収めたものでございます。京都からの便りでした。
*
これを発端として佐野夫妻と芥川龍之介は非常に親密となり、花子は龍之介に自身の歌稿を見せ、俳句の手解きを受けたりするようになる。但し、龍之介が結婚し、機関学校を退職後、交流は途絶えてしまうのであるが、それは当該書を読まれたい(現在ではなかなか入手し難いかも知れぬ。佐野花子の著作権は切れているから、もし、御要望が寄せられれば、彼女のパートだけを電子化してもよいとは思っている)。
引用の冒頭を確認されたい。「大正六年四月の或る土曜日」「私たちは新婚旅行に出るため」である。抹消された俳句と思しいそれは「人妻となりて三とせや衣更へ」である。既に注した通り、花子は佐野慶造と大正六(一九一七)年三月頃に結婚していると考えてよい。
さらに言うと、この四月十二日には龍之介は養父道章を伴って、京都・奈良に旅行しており、親友恒藤恭の新家庭を訪問、十三日には恒藤の案内で、金閣寺などを訪れており、花子の言う絵葉書の内容とも合致するのである。
私は既にこの佐野花子については、『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察 最終章』及びそこにリンク(記事下部に四種)した私の複数の考察で、かなり拘って考証してきた。しかし、芥川龍之介研究者の多くは佐野花子の追懐を妄想(精神的な病的ものといったニュアンスをさえ漂わせてである。但し、そうした病的な思い込みが全くない訳では実はないと私は最終的には結論づけてはいる)の類いとして一蹴し去り、まともに取り上げる者がいない。私は今でもそれを非常に不満に思っている。私の拙稿を未読の方は是非、お読み戴きたい。佐野花子は確かに、芥川龍之介が愛した、かの「或阿呆の一生」に出る謎の〈月光の女〉の原型の一人あることは間違いないと確信してやまないのである。]