宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 始動 / 山神想紀氏娘
[やぶちゃん注:江戸前期成立の、かの知られた連歌師宗祇に仮託した、怪奇譚の多い浮世草子「宗祇諸國物語」(貞享二(一六九五)年に京の旅館にて記す由の自序はあるものの、署名はない)の正字電子化翻刻を単独ブログ・カテゴリを設けて行う。構造的には西行に仮託した「撰集抄」を模倣しているように思われるが、逆にこれが後に西鶴の「懷硯」などに模倣されており(西鶴の知られた「西鶴諸国咄」同年の出版)、幾つかの章は後の上田秋成の諸作との共通性を見出せ、現在知られる諸妖怪談の版本の最古層に位置する作品と言える。現在、活字化した電子テクストはネットにはないと思われる。
底本は大正四(一九一五)年博文館刊の佐々醒雪・巌谷小波校訂「俳人逸話紀行集」の版(正徳三(一七一三)年京都西村丹波屋板行)を国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認する。
踊り字「〱」「〲」は正字化し、読みは難読或いは読みが振れると私が判断したもののみに限った。読み易さを考え、読点を私の判断で恣意的に追加してあるが、底本の句読点の変更は一切していない。一部に出る左右の読みは「草鞋(さうけい/ワラヂ)」のように示し、前者が右ルビ、後者が左ルビである。和歌の前後は一行空けた。
これは私の怪談蒐集癖(私の書斎には現在では読まれることの頗る稀有となった埋もれた怪談集が山積みされて在る)のため、私の精神の〈モンストロムなる健全さ〉を保つため、このところの外界に対する広汎にして非論理的な憤怒感情を内封するために、全くの趣味で行うものであり、私が読解し得、納得すればそれで終わりのものである。されば注は私が分らぬ箇所や疑問に感じた部分にのみストイックに各話末に附すこととした。
挿絵は底本よりトリミングし、画像補正して挿入した。【始動:2016年7月23日 藪野直史】]
宗祇諸國物語卷之一
山神想二紀氏娘一(さんじん、きうぢのむすめをおもふ)
一とせ丹後の國に入て名所を尋ね、逆緣(ぎやくゑん)に任せきれとの文珠成相(なりあひ)の觀音など詣で侍る。此わたり、北は海にて涯(かぎ)りなく遠く、東西南(とうざいなん)の三方(みかた)は山めぐり、巖々(がんがん)と高し。海邊にいねの里といふ在鄕あり、入海の濱を箕(み)の手に取まはして家居したる、皆、獵師なり。此の中間に、浦島の明神とて、社あり。里の人にゆゑをとふに、浦島が子の生所(しやうじよ)にて、則ち、此浦より蓬萊に行きて歸りしを、壽命長久の神仙とて、所の氏の神にいわひぬるよし、語りぬ。爰に詣で、出でゝ南に行く事、三四里計り、其の初は人里のやうに覺えて、辿り入るに、早晚(いつしか)、家居絕たる山中の、森々たる木のもとに、行べき道も見えず、歸るべき筋も忘れぬ。月は、はや、影すくなく、暮れかゝりて、物の色あひも、さだかならねど、寺舍(じしや)なんともなき所にや、貝鐘(かひかね)の聲もきこえねば、いとゞ便りなけれど、かゝる目をみるこそ旅の本意(ほい)にはあれ、淺ましき事をも取出けるよと、心にこゝろをはげみて、木の根づたひにあゆむほどに、ひとつの洞(ほら)の前に、方(はう)二間計りの小家あつて、柴垣うつくしく、山水の流れ、淺々(せんせん)と淸き軒(のき)ざま、心すむべき住居(すまひ)と見ゆ、折ふし暮れかゝる空に、行きまよひぬる道のほど、たとひいかなる人の住所にもあれ、おして宿からばやと、まがきによりて物申さんといふに、内より二十年(はたとせ)あまりのおのこの容色うるはしきが、狩衣に太刀脇ばさんで、出あふ。こは、かゝる深山におもほえずの人のさまや。主(あるじ)の風情(ふぜい)、大形(おほかた)の山賤とはやうかはりてみゆ。さみしたる物いひもいかゞと崇(あが)めて、愚僧は旅の者にて侍り、此の山中にふみまよひ侍るが、不思議に御家居を見うけて、盲人の杖を得たる心ちし侍る、一夜のほどを明かさせて給へ、といへば、主、少しも恠(あやし)む氣色(けしき)なく、ほゝゑみて、やすき事、こなたへと先に立りて入りぬ。祇(ぎ)は草鞋(さうけい/ワラヂ)とりて内の體(てい)を見るに、百疊計り敷双べたる奧につゞきて、左に御簾(みす)、半(なかば)卷きたる一間、奧床しく深し、右にならびて十餘間の渡殿(わたりどの)、玉をちりばめ、金(こがね)をもつて莊嚴(しやうごん)せり。此の砌(みぎり)に瀧白く落ちて、蓮(はちす)、杜若(かきつばた)のみか、目なれず、かうばしき異草(ことくさ)の靑く葉をまじへたる、海底(かいてい)の石、五色を交へ、立てならべし築山のすがた、目もあやに、をかし、不思議や、此家は方二間に過ぎじ、と見しに、此の樓閣はと、もとの外面(そとも)に出でゝ見れば、又、在りしにかはらず、不思議の世界にもまよひ來ぬる事かなと、恠し、とかくする程に、稍、燭をとる頃に成りて、主、一つの菓(くだもの)を、るりの盆に入れて、御簾の間より取出でゝいふ。旅僧に物參らせ度く思へど、飯(いひ)、炊ぐべき童もなければ、其わざもなし。此の菓、きこしめせ、徒然(さびしき)事も有るまじ、とすゝむ。祇は終日(ひねもす)の道に疲れて、漸々(やうやう)、食とぼしけれど、主の斯くいふに力なく、是なりとも、と、菓をとりて見るに、梨子(なし)の大さして、色は黃に赤き物なるを、口にいるゝに、味(あじは)ひ、世にたぐふべき物なし。半(なかば)喰うて、腹、みちたり。名をとへど、さだかにもこたへず、主、威儀をつくろひ、いひ出るは、御僧は名にあふ歌仙にてまします、名乘り給はねども、我れ、よく知りて、爰に請(しやう)じ入れぬ。此の所の景地(けいち)、不審(いぶか)しく思召らん。爰は當所、山神の社(やしろ)にて、則ち、自(みづか)ら主なり。けんぞく、あまた侍れど、異形のものなれば、怖れ給はんと、皆、隱し置き侍り、先づ某(それがし)、公(きみ)に密談すべき事有り、當國與謝(よさ)の海邊(かいへん)に、紀氏何某(なにがし)といふ人、過ぎし世の亂れより、おりかくれてすめるあり。息女(むすめ)ひとり持てり、容顏又なく、二八の春の花、香(か)をなつかしく、色をこのみ、情の道も淺からぬを、世にある人のえんを求めて、さまざまにいひかよへど、大かたの心には、なびくべきけしきにもあらず。爰に某、過ぎこし秋、此の南の岨(そは)づたひ、遊興の黃昏(たそがれ)、紀氏何某、茸(たけ)がりのかへさ、彼の娘いざなひて、そこの山路をたどりし時、おもほえず、行向(ゆきむか)ひ、互にみえつ、みえしより、心、空に、肝、きえて、更に足のふむ所を覺えず、女も、有しさま、心よそに在りとは見えず、一方ならぬ思ひながら、父母(たらちね)の見るめあれば、あまのかるもにすむ蟲の、音にのみなきてこがれしを、我が眷屬の中に、萬(よろづ)に賢(さかし)ものゝ侍るが、ひとつの玉章(たまづさ)を持ちて、女(め)の童の形に化(け)し、彼の屋形にしのび入り、さまざまにかき口説(くど)き、いな舟のいなといはれぬ最上川、のぼれば下る返事をひたすらに、と責めけれど例のつよき心より、いなせの一こともなし、なをしたふべき思ひにもなければ、錦木の千束(ちづか)つもりつもりて、頃(このごろ)まれに一言(ひとこと)を得たり。あるが中に言葉はなくて、三十一字の詠也。忝辱(はぢかしく)も我れ、山神の一社に崇(いはゝ)れ、和光の名を塵に汚(けが)すといへ共、敷島の道、遠く、和歌の浦に遊ばねば、有りし歌心をも不辨(わきまへず)、まいて返しの言葉もなし。適(たまたま)、公(きみ)、此の山里に來り給ふを幸ひに、山道に迷はしめて、此の所に誘(いざな)ひ入れたり。此歌の返し、予れにかはり、よみて給はゞ、いか計りの情(なさけ)と一向(ひたすら)に搔口說きけり。宗祇、打諾(うちうなづ)き、扨は山神の假(かり)に見(まみ)えて爰に誘ひ給ふとな、さる事こそ最(いと)やすく侍れ、返歌讀みて奉らん。其のかたさまの歌はいかゞと問ふ。是に侍りと、金色(こにじき)のみだれ箱やうの物より取出づる、手にとるに、かうばしく燒(た)きしめたる紙に、あてなる手跡(しゆせき)して、
谷川の跡なき水の瀨を淺み
末にわかれて波や立らん
とあり。主の云く。先づ此歌をいかゞ心得侍らんやと、祇の云く。此の歌の心は、男を谷川の水になぞらへたり。跡なきといふは山川の雨の後(のち)計り水出でゝ、一花(はな)、心の人だのめなるありさま、せをあさみは、川の瀨をいもせの背(せ)によせて、心の淺きといふなるべし、末にわかれてとは、きぬぎぬの心、又長きうき別(わか)れなどをかねていふ也。波や立らんは、名や立らんといふ心と見えたれば、君か心だに誠(まこと)あらば、おちてぬるべき心也と、念頃(ねんごろ)に講じぬるに、主、莞爾(ゑみ)て、賢(かしこ)くも御僧を賴みつるかな、我思ひおぼろけの事に侍らず、たゞ推量りて、よきに返しの歌よみて給へとあれば、
返し
谷川のとだえのなかれせきとめて
淺き瀨ならば水ももらさじ
とよみて、これをあたふに、悦びて、あさぢ、あさぢ、と呼ぶ。あ、といふて出づるを見れば、大きなる白狐(びやつこ/キツネ)なり。是よ、此の文を有りしかたへもて行け、と有れば、立ちさりて、草の葉を取出で、かづくやうにせしが、忽ち、十二三の女の童になり、かひがひ敷く、文、持ちて、出で行きぬ。祇は萬(よろづ)の事につきて奇異の思ひをなすのみ也。主、又、云く。宵に申せし我がけんぞくども、見參に入れ申すべし。我が前なれば、恐れ給ふな、と手を打ちて呼ぶに、鹿、狼、狸(むじな)、兎、熊、駑(おそ)、山犬、其外、目(め)馴れぬ獸類數千、村々と出で來る。主の云く。汝等、此僧を見知まゐらせ、いづこの國里にても不義いたす事、勿れ、といひ含めて、獸類、退き出でぬ。いづち行けん、不ㇾ知。かゝりしほどに、しのゝめ、漸々明かくなれば、暇まをして立出づる。主、戸のもと迄、送り、禮義、厚くして、内に入ると覺えし、二杖三杖、行きてふり返り見るに、小家とみしも、松杉の木立のみにて、たゞ嵐の跡、冷(すさま)じく、まがきはしのゝ茂也。教へし道のみ明らかに、二三町步むとおもへば、人里に出でたり。此のふしぎ、夢に在りけんと、我ながら我れをかへり見るに、更にうつゝ也。あやしくも珍しき事に侍り。
■やぶちゃん注
・「逆緣(ぎやくゑん)に任せきれ」逆縁は仏法に於いて一見、自然な現象としての「順縁」の対語で、悪行が却って仏道に入る機縁となることや、或いは、親が子の死を弔うことなどを意味する。定められた因縁に抗わずに完全に身を委ねよ、そうすることで逆に正法に導かれ、極楽往生出来るという謂いと一応ここではとっておくが、次の私の注も参照されたい。
・「文珠成相(なりあひ)の觀音」現在の京都府宮津市にある、天橋立を見下ろす西国三十三所第二十八番真言宗成相山成相寺。本尊聖観世音菩薩。森本行洋(ゆきよし)氏のサイト内の「西国三十三ヶ所めぐり」の同寺の解説によれば、この寺には「撞かずの鐘」伝説に基づく鐘と鐘楼が建つ。慶長一四(一六〇九)年のこと、住持賢長(けんちょう)が『新しい鐘を鋳造するため浄財の寄進を募ったとき、裕福そうな家の嫁が、子供は沢山居るが寺に寄付する金はない、と言って断った。鐘鋳造の日、大勢の人の中に例の嫁も子供を抱えて見物に来ていたが、誤って子供を坩堝(るつぼ)の中に落としてしまった。出来上がった鐘をつくと、子供の泣き声、母を呼ぶ悲しい声が聞こえ、聞いている人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って、以後、一切この鐘をつくのを止めたという』とあり、これがまさに具体な子が母の先に亡くなる「逆縁」に基づく広義の「逆縁」への帰納法的な報恩譚である。
・「いねの里」現在、舟屋で知られる丹後半島北東端の京都府与謝郡伊根町。
・「箕(み)の手に」海に対して箕の如く斜めに。
・「山賤」「やまがつ」。
・「さみしたる」「さみ」は「沙彌」(沙弥(さみ))で修業の未熟な半僧半俗の僧めいた、の意、相応の知性を感じさせるの意で、とる。「さみす」には「狭みす・褊す」(形容詞「狹(さ)し」の語幹に接尾語「み」の付いた「さみ」にサ変動詞「す」の附いたもの)という「軽蔑する・見下す・軽んじる」の語があり、以下で宗祇が「崇めて」と応じるようにも見え、文法的にはこの方が正しいように見えるのであるが、以下の主の印象とあまりに異なるので、とらない。
・「敷双べたる」「しきならべたる」。
・「かへさ」「歸さ」。「さ」は時刻を指す接尾語。帰る途中。「かへりさ」が元で促音便無表記であるから、これで「かへっさ」と読むべきとする説もある。
・「父母(たらちね)」「垂乳根(たらちね)」には親・両親の意がある。
・「父母の見るめあれば、あまのかるもにすむ蟲の、音にのみなきてこがれしを」「見るめ」に海藻の「海松(みる)め」に掛け、「あまのかるも」(海人の刈る藻)に棲む「蟲」甲殻類である「われから」(割れ殻/吾れから)を引き出し、藻の「根」から「音」(ね)を引いて「なきてこがれ」(泣き焦がれ)と続ける。既にしてこの山神も一人前の歌人ではある。なれども結果、宗祇に頼んだは、恋の病いに山の神の超能力も歌学の技巧もすっかり鈍ったということであろう。
・「玉章(たまづさ)」手紙。艶書。
・「錦木の千束(ちづか)つもりつもりて」世阿弥の謡曲「錦木」で知られる、現在の秋田県鹿角(かどの)市十和田錦木地区にある錦木塚伝説に基づく謂い。ウィキの「錦木塚」によれば、『昔、鹿角が狭布(きょう)の里と呼ばれていた頃、大海(おおみ)という人に政子姫というたいへん美しい娘がいた。東に』二里ほど『』離れた大湯草木』(おおゆくさぎ)の『里長の子に錦木を売り買いしている黒沢万寿(まんじゅ)という若者がいて、娘の姿に心を動かされた。若者は、錦木を』一束、『娘の家の門に立てた。錦木』は五種の木の枝を一尺あまりに切って一束にしたもので、五色の『彩りの美しいものであった。この土地では、求婚の為に女性の住む家の門に錦木を立て、女性がそれを受け取ると、男の思いがかなった印になるという風習があった。若者は来る日も来る日も錦木を立てて』、三年三ヶ月ほど『たったところ、錦木は千束にもなった』。『政子姫は若者を愛するようになった。政子姫は五の宮岳に住む子どもをさらうという大鷲よけに、鳥の羽を混ぜた布を織っていた。これができあがって、喜びにふるえながら錦木を取ろうとすると、父はゆるさぬの一言で取ることを禁じた。若者は落胆のあまり死亡し、まもなく、政子姫も若者の後を追った。父の大海は嘆き悲しみ』、二人を『千本の錦木と共に手厚く葬ったという』とある。
・「予れ」「われ」。
・「一花(はな)」「ひとはな」は、ただ一時だけの(情け心)の意。
・「駑(おそ)」獺(かわうそ)。歴史的仮名遣では「(かは)をそ」が正しいが、転訛後はかなり以前から「おそ」の表記も用いられたようである。但し、この「駑」の漢字には獺の意はなく、脚の鈍(のろ)い馬の意味しかない。何故、これに獺が当てられているのかはいろいろ調べたものの、不明である。識者の御教授を乞うものである。
・「まがきはしのゝ茂也」「籬(まがき)〔と見えた〕は〔、ただ、これ〕篠〔竹〕の茂り〔たるのみ〕なり〔き〕」。