芥川龍之介 手帳3―6
《3-6》
○ランデヴウ 停車場 女來る 男見る 女男を見ず まづ化粧室に入る 男微笑す 至る 鏡中にて會ふ
○人力 or 自動車 速力早くなりし如し 氣づけば唯狹き路に入れるのみ
[やぶちゃん注:これがその元だなどとはさらさら思わぬが、私はこの一条を読むと「或阿呆の一生」のあの章を思い出すのを常としている。
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二十一 狂人の娘
二台の人力車は人氣のない曇天の田舍道を走つて行つた。その道の海に向つてゐることは潮風の來るのでも明らかだつた。後(うしろ)の人力車に乘つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。それは決して戀愛ではなかつた。若し戀愛でないとすれば、――彼はこの答を避ける爲に「兎に角我等は對等だ」と考へない譯には行かなかつた。
前の人力車に乘つてゐるのは或狂人の娘だつた。のみならず彼女の妹は嫉妬の爲に自殺してゐた。
「もうどうにも仕かたはない。」
彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり強い彼女に或憎惡を感じてゐた。
二台の人力車はその間に磯臭い墓地の外へ通りかかつた。蛎殼(かきがら)のついた粗朶垣(そだがき)の中には石塔が幾つも黑んでゐた。彼はそれ等の石塔の向うにかすかにかがやいた海を眺め、何か急に彼女の夫を――彼女の心を捉へてゐない彼女の夫を輕蔑し出した。………
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○世界英雄傳を讀む Balzacian ブルジヨア
[やぶちゃん注:「世界英雄傳」不詳。「Balzacian」はフランスの作家「オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac 一七九九年~一八五〇年)の著作の」、或いは、「バルザックに関連した」の意。社交界では多くの貴族女性と関係したが、彼の名の「de」は貴族を気取った自称に過ぎず、彼自身は彼は裕福な市民階級の出身で貴族ではない。しかし典型的な無頼系「ブルジヨア」とは言えよう。ウィキの「オノレ・ド・バルザック」によれば、バルザックは毎日、小説『執筆が終わると、疲れをおしてすぐに社交界に顔を出した』。『小説を書いている以外の時間は、社交界でご馳走をたらふく食べるか、知人と楽しく過ごすかのいずれかに費やされた。もはや伝説になっているバルザックの大食いは、(糖尿病が原因と思われる)晩年の失明や、死因となった腹膜炎を引き起こしたと思われる。借金も豪放、食事も豪胆であった。事業の失敗や贅沢な生活のためにバルザックがつくった莫大な借金は、ついに彼自身によって清算されることはなく、晩年に結婚したポーランド貴族の未亡人ハンスカ伯爵夫人』(エヴェリーナ・ハンスカ(Ewelina Hańska 一八〇一年~一八八二年)『の巨額の財産がその損失補填にあてられた』。]
○父 昔小説を書かんとせし事を語る 哀情
[やぶちゃん注:やや興味が惹かれる構想メモである。]
○乞食が煙突をだく話 ヂヤンケン
[やぶちゃん注:これはなかなか面白そうじゃないか!]
○我鬼居士の誘惑 句 畫 書 陶銅器 香
[やぶちゃん注:芥川龍之介の号「我鬼」が手帳で登場するのは実はここが初めてである。現在、海軍機関学校教官時代の大正六(一九一七)年十二月十一日下島空谷(勲)(芥川家の主治医で龍之介の死亡診断を下した人物でもある。空谷は彼の俳号。井上井月の研究家でもあった)宛書簡(旧全集書簡番号三六一)を初見とする。田端の書斎の最初の号「我鬼窟」が知られるが、これは機関学校を退職し、大坂毎日新聞社客員社員となって鎌倉から田端の実家へ移った大正八(一九一九)年四月二十八日以降のことである。但し、『ホトトギス』への「我鬼」署名の投句(当初、自分が芥川龍之介であることは伏せていた)は大正七(一九一八)年六月号以降である。]
○南榎町五十三 近藤浩一路
[やぶちゃん注:「南榎町」(みなみえのきちやう(ちょう))は東京都新宿区の現存町名。泉鏡花が永く住まいした地として知られる。「近藤浩一路(こういちろ 本名・浩(こう) 明治一七(一八八四)年~昭和三七(一九六二)年)は水墨画家・漫画家。ウィキの「近藤浩一路」によれば、山梨県南巨摩郡睦合村(現在の南部町)に生まれで、『近藤家は江戸時代に南部宿の本陣を務めた家柄で、父は浩一路の幼少時に病没しているが、祖父の喜則は初代県会議長を務めたほか地元で私塾を営んでおり、裕福な家庭に育つ。父の療養のため幼少時には静岡県庵原郡岩渕村で過ごし』、明治三五(一九〇二)年に韮山中学校(冤罪の静岡県立韮山高校)『を卒業すると上京』、『祖父からは医者になることを期待され』、『英語学校や予備校へも通うが、文芸誌への投稿や俳句など文芸活動に熱中』、明治三七(一九〇四)年には『画家を志して洋画家の和田英作の白馬会研究所に所属し』、同年九月には『東京美術学校西洋画科へ入学する。在学中には白馬会へ出展しており、この頃の画風には外光派の影響が見られる。同級生の影響で水墨画をはじめたほか、文芸活動も行っている。また、同級生には親友となった藤田嗣治らがいる』。『美術学校では一年落第し』、明治四三(一九一〇)年に卒業、『卒業制作は連作「五十三駅」。卒業後は白馬会や文展への出展を行い入選もしており、京都で女子の絵画指導も行っているほか、藤田らと水墨画や漫画の展覧会を主催している。この頃には結婚もしていたため』、大正四(一九一五)年に『読売新聞社に入社して漫画記者となり、政治漫画や挿絵を担当する。漫画記者としては美術学校時代の同級生で朝日新聞記者であった岡本一平と双璧で「一平・浩一路時代」と評され、漫画記者の団結のため結成された東京漫画会へも所属し作品を出展しているほか、赤甕会や珊瑚会などの活動にも参加し』、『日本画家としても注目され』た。『大正前期の美術界では珊瑚会を中心に新南画が流行していたが、近藤も』大正八(一九一九)年に日本美術院第六回展で『初入選を果たし、翌年の第七回以降でも入選し、本格的に日本画へ転向する。近藤の画風は第六回入選作では浦上玉堂や川端龍子の色彩表現、群青派などの影響を受けており、同時代に流行していた写実主義的手法や光線表現など洋画手法取り入れ、「カラリスト浩一路」と評された』。大正一〇(一九二一)年には『日本美術院(院展)に入会し、横山大観らに評価される』。大正一一(一九二二)年には『岡本や小寺健吉や鈴木良治らの画家友人とヨーロッパ各国を旅行する。この旅ではフランスを拠点にスペインやイタリアへも足を伸ばし和田や藤田らを訪ね、各国の名所や美術サロン、美術館を訪ねる物見遊山的なものであるが、帰国後には旅行記を美術誌に寄稿し後に『異国膝栗毛』としてまとめている。『膝栗毛』ではスペインでのゴヤやエル・グレゴの作品観賞が一番の目的であったとし、最も印象深いものとして記している。浩一路はこの旅で伝統的な西洋美術を絶賛する一方で、同時代の前衛美術に対しては批判的見解を示しており、日本画壇が同時代の西洋美術に強い影響を受ける中で、自身の日本人意識を強めるものであったと記している。同年には中国へも旅行しているが、ヨーロッパ旅行が作品に反映されていなのに対し、中国旅行では帰国後に中国風景を描いており、近藤がこの時期に日本人や東洋人としての意識を強めていたと指摘されている』。大正一二(一九二三)年(年)の第十回院展では『「鵜飼六題」を出展し、これは近藤の代表作と評されている。同年には関東大震災で自宅を失い、一時静岡へ滞在したのちに妻の故郷であった京都市へ移住する。京都時代には「炭心庵」と名付けたアトリエで「京洛十題」「京洛百題」などの風景画を手がけている。また、茨木衫風ら門弟たちの育成にも務め、山本有三や吉川英治、芥川龍之介らの文人や俳人らとも交遊している。画風は大正から昭和初期にかけて、墨の濃淡による面的表現から描線による線的表現へと変遷していることが指摘されている』(この記載から見ても、この住所は震災前のそれであり、本底本である新全集の編者が、この「手帳3」の記載推定時期の下限を大正一二(一九二三)年辺りとする根拠とも言えよう)。その後、昭和六(一九三一)年には『個展開催のためフランスのパリへ渡る。パリでは小松清』(明治三三(一九〇〇)年~昭和三七(一九六二)年):フランス文学者・評論家)『の助力を得て個展を開催し、小松を通じて美術批評家であるアンドレ・マルローと親交を結』んでいる。昭和一一(一九三六)年には『日本美術院を脱退。東京府下久留米村』(現在の東久留米市)『で「土筆居」と名付けたアトリエで捜索を続け、百貨店での個展開催や画集の刊行などを行っている。戦時中には静岡県や故郷山梨の山中湖の別荘などに疎開している。戦後は再び東京都豊島区巣鴨(北大塚)でアトリエを構え、墨心会に所属しながら日展に出展するなど創作活動を行い、院展脱退後の戦前から戦後にかけても画風の変化が指摘されている』。『漫画や新南画、水墨画など日本美術史における浩一路の画業に対する位置づけは未だ不確定であるが、「孤高の画家」「異色の水墨画」といった異端的評価がなされている』とある。芥川龍之介には「近藤浩一路氏」(大正九(一九二〇)年一月『中央美術』)と題する人物評が載る。短いし、アフォリズムとしても面白いので、以下に旧全集を底本として示す。
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近藤浩一路氏 芥川龍之介
近藤君は漫畫家として有名であつた。今は正道を踏んだ日本畫家としても有名である。
が、これは偶然ではない。漫畫には落想の滑稽な漫畫がある。畫そのものの滑稽な漫畫がある。或は二者を兼ねた漫畫がある。近藤君の漫畫の多くは、この二者を兼ねた漫畫でなければ、畫そのものの滑稽な漫畫であつた。唯、威儀を正しさへすれば、一頁の漫畫が忽ちに、一幅の山水となるのは當然である。
近藤君の畫は枯淡ではない。南畫じみた山水の中にも、何處か肉の臭ひのする、しつこい所が潜んでゐる。其處に藝術家としての貪婪が、あらゆるものから養分を吸收しようとする欲望が、露骨に感ぜられるのは愉快である。
今日の流俗は昨日の流俗ではない。昨日の流俗は、反抗的な一切に冷淡なのが常であつた。今日の流俗は反抗的ならざる一切に冷淡なのを常としてゐる。二種の流俗が入り交つた現代の日本に處するには、――近藤君もしっかりと金剛座上に尻を据ゑて、死身に修業をしなければなるまい。
近藤君に始めて會つたのは、丁度去年の今頃である。君はその時神経衰弱とか號して甚意氣が昂らなかった。が、殆丸太のやうな櫻のステツキをついてゐた所を見ると、いくら神経衰弱でも、犬位は撲殺する餘勇があつたのに違ひない。が、最近君に會つた時、君は神経衰弱も癒つたとか云つて、甚元氣らしい顔をしてゐた。健康も恢復したのには違ひないが、その間に君の名聲が大いに擧り出したのも事實である。自分はその時君と、小杉未醒氏の噂を少々した。君はいが栗頭も昔の通りである。書生らしい容子も、以前と變つてゐない。しかしあの丸太のやうな、偉大なる櫻のステツキだけは、再び君の手に見られなかった。――
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「落想」は着想に同じい。]
○クリスト買春婦の梅毒を癒す――賣春婦自身の話
[やぶちゃん注:「南京の基督」(大正九(一九二〇)年七月『中央公論』)である。]
○ピエルロチ
[やぶちゃん注:ロティを登場させる「舞踏会」は大正九(一九二〇)年一月『新潮』初出である。]
○第二鼠小僧 分銅伊勢屋の子 復讐的
[やぶちゃん注:「鼠小僧次郎吉」は大正九(一九二〇)年一月『中央公論』初出であるが、「分銅伊勢屋の子」というのは決定稿には出ないし、「復讐的」というのも合致しない。しかし「第二鼠小僧」は偽物の鼠小僧のニュアンスではある。或いは鼠小僧次郎吉の正体を明かす別構想作が芥川龍之介にはあったのかも知れない。]
○恩返しの心(親分の手助けをしたい)
○クリスチアンの聟の死