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2016/07/24

松尾芭蕉を主人公とする怪談集「行脚怪談袋」原文 電子化始動 /  芭蕉翁美濃路に越ゆる事 付 怪しき者に逢ふ事

行脚怪談袋

 

[やぶちゃん注:作者不詳で著作年代も不詳の、松尾芭蕉に仮託した諸国怪談物。冒頭から芭蕉を寛文より天和年中(一六六一年から一六八四年)の俳人とするトンデモ本の類いである(芭蕉は寛永二一(一六四四)年生まれで、元禄七(一六九四)年に没しており、延宝五(一六七七)年か翌年辺りで俳諧宗匠として立机、蕉風開眼の「古池や蛙飛びこむ水の音」が貞享三(一六八六)年であるから筆者の怪しさは半端ではない)。異本も頗る多い。

 実は私は古書の活字本を二十代の頃に手に入れ、読んだ記憶があるのであるが、二、三日前から書棚や書庫を探っても見つからない。恐らくは押入れの中に積み上げたジュラ紀並の古層で化石化してしまっているものかと思われ、そうすると、何だか、無性に電子化したくなってしまった。昨日、ネットで調べていたところが、ごく最近、現代語訳が出たらしい。さてもさても! あのトンデモ本さえも現代語訳でないと読めない日本人になってしまったかと思ったら、ますます憤りの濁った泥坊主というか、鬱勃たるパトスというかが、これ、ふつふつむらむらと湧き上がっててしまったのである。されば、シンプルな電子化のみで、不遜ながら、カテゴリ「松尾芭蕉で起動することとした。

 底本は「宗祇諸國物語」同様、大正四(一九一五)年博文館刊の佐々醒雪・巌谷小波校訂「俳人逸話紀行集」の版(楽天居の上下に冊六巻本)を国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認する。踊り字は「〱」「〲」は正字化した。読みは底本に附されたものの中でも、難読或いは振れそうなもののみを選択した。句の前後は一行空けを施した。

【2016年7月24日 藪野直史】]

 

行脚怪談袋上目錄

一 芭蕉翁美濃路に越ゆる事

  
 怪しき者に逢ふ事

一 支考四條河原に凉む事

  
 狸人に化くる事

一 芭蕉翁大内へ上る事

  
 狂歌に得手し事

一 去來伊勢參と同道の事

  
 白蛇龍と成る事

一 芭蕉備前の森山を越ゆる事

  
 猅々の難に逢ふ事



 


行脚怪談袋上

 

  一の卷

 

  芭蕉翁美濃路に越ゆる事

   
 怪しき者に逢ふ事

 

抑も芭蕉翁と申すは、日本(ひのもと)に名を得し俳人にて、寛文より天和年中の人也。此翁の一句に、

 

  物言へば唇寒し秋の風

 

是は芭蕉翁、延寶年中我が俳道を諸國にひろめんが爲めに、一年行脚の如くにさまをかへ、日本六十六ケ國を廻國せり。右の内尾州より美濃路に懸り、同國倉元山(くらもとやま)の麓を通りけるに、頃は秋の半(なかば)にて、山中いとも枯れ枯(が)れしく、木の葉黃に染(そ)み草は生ひしげれどもかげうすく、さゝ吹く風は身にしみじみと、木がらしに似たり。翁此の淋しき山道を、あなた遙かに見やり、誠(まこと)や春夏は浦のとまやの景色迄も、物浮き浮きしく人心を晴らす、秋多は早(はや)よろづ景色變りて、物枯れたる有樣、されば古しへ定家寂蓮に西行の三夕(さんせき)も、各々秋の鉢の淋しき體(てい)をよみ侍る。叉此の四季を人間(にんげんん)に譬(たと)へて見れば、一歳寄(より)十(とを)有(ある)五六迄は春なり、卅有餘よりすゑは秋多におもむけば、段々元氣おとろへ、精心(せいしん)やせるの道理にて、我れも今四十餘(よ)を得る五十に近し、是れ秋の末ならん。おしつけ我が身も冬となり、風に此世を誘はれ行かんはかなさよと、山のけしきを我が身にたとへて、心細くも唯一人、寂暮(さびくれ)たる山道を、たどりたどり行く程に、日も西山に沈み、在りし草木もほの暗く思ふ所に、不思議や遙かの谷底にて、かん馬のおとかまびすしく、太刀打の體(てい)、耳もとに聞えければ、翁思ふ樣、此の所は倉元山の山中にして、人の住むべき所とも覺えず、殊更かゝる太平の代(よ)に、此の谷底にてかん馬の音なす事、若(も)し山賊のやから成るか、山賊とても海逍にこそ居るべきに、遙かの谷底にて太刀打する理窟なし。是まさしく狐堤變化(こりへんげ)の類ならん。何にてもあやしき事也。世の人の物語りにも成らんと、山傳ひに半町程かの谷底ヘ下り見るに、下は松柏茂り底のとまりを知らず。其の上につたひ下るべき道もなければ、ばせをも詮方なく、とある岩角(いはかど)に腰打懸けて、しばし下を窺ひ居るに、かん馬の音暫時にしてしづまるとひとしく、何方よりか來りけん。其の體ばうぜんたる武者一騎、緋おどしの鎧を着し、鹿の角にて鍬形打つなる甲を被り、金作(こがねづく)りの太刀を佩き、手に一本の矢を携へ、忽然とあらはれ出で、芭蕉翁の二三間向ふに立居ける。芭蕉翁不思議の事におもひ、右の武者に問ふて云く。今世の豐かにして、又此の所は山中の谷底(たにそこ)にて、人の在るべき所にあらず、然るに、其の元は甲冑を帶(たい)し、此の邊に在るこそ不思議なれ、抑も、いかなる人ぞといふ。武者は是を聞いていと哀れ成る體(てい)にて、泪をはらはらと流し申しけるは、我れ翁を見るに、一和(いつわ)の道に心を寄せ、春は花を賞し秋は月に心を寄せ給ふ。句案にのみ埋みて、忿惡邪橫(ふんあくじたわう)を心と仕給はず、誠に佛法法力の手綱たり。然るが故に我れ翁の爰へ來り給ふをあこがれて、扨こそからはれ出でたり。我等何をか包み申さん。我れ事は其の昔、壽永元曆年中此の山續の木曾路より、朝日將軍義仲にかしづき、粟津の原にて討死せし今井四郎兼平が亡念にて候、我れ忠勤を勵んで命を捨てしとは言(いへ)ども、存生の軍場にて、多くの人を討取りしに依り、しゆらの苦患遣瀨なく、生々世々生を替ふる事あたはず、何卒翁の教訓をも得、叉は佛果をも此の後遂げ得たし、二つには、此の矢の根なり。是こそは木曾源氏に於て、澤上(たくじやう)の矢の根とて十本の矢の根有り。是亦澤上と號するは、人王(にんわう)三十九代天智天皇未だ御即位あらざる内、木の九殿と申すに御座在り、此の節諸國の朝敵追ばつの爲めに、澤上速(たくじやうそく)と言へる者に申し付けられ、此の矢の根十本をうたせらる。澤上そのせつ申し上げるは、此の矢の根決して敵方へ放ち給ふな、陣中の寶(たから)と仕給へ、必らず必ず敵亡ぶべしと言へり。天皇敵を誅ばつし給ふに、此の矢の根陣中の守護神と成りて不思議有り、其の後ゆゑ有つて木曾源氏に傳はれり。然る所木曾沒落の砌(みぎ)り、此の矢の根一本うせたり。不吉と思ふ所、はたして主君義仲粟津が原にて討死あり。餘類さんざんに成りて、兎角いふ某(それがし)も粟律のみぎりにて自害せり。主君は粟津の一ケ寺へはふむりて、義仲寺と號す。且また右の矢の根九本は、義仲寺へ納まり、我れ一本不足成るを、黃泉(くわうせん)の下迄深くなげきしが、しゆらの苦げんの内にても、つひには此の矢の根を尋ね得たり。何卒義仲寺へ納めんが爲めに賴み候なり、足下(そくか)四五日の内には、義仲寺の邊へいた給はん。ねがはくば此の品をかの寺へ納めたび給ヘと、則ち右の矢の根を芭蕉翁の前へ置き、其の後芭蕉に向ひて、人道一和の教訓を請(う)け、その上又申す樣(やう)、足下若し義仲寺へ至り給はゞ、何卒某等(ら)が佛果をもとひくれらるゝ樣に、住職へ傳へ給はるべし、是のみ賴み入ると云ふに、芭蕉も奇たいの事に思ひ、逸々(いちいち)承はり屆け候由を答へて、夢にや有りけんうつゝにやありなん。あらはれし武者と見えしは、一向(ひとむか)ひの木草と成り、秋風の身にしむる計りにて、あたりを見れば矢の根計りで殘りける。芭蕉はうつかりと立居(たちゐ)たる所に、告げし矢の根殘りし上は、疑ふ可らず、木曾家の武者現はれ出で、我れに此の義を賴むとのこと也と、武者の立ち居たる方を見やり、高々と覺え得たる御經を讀誦して追善をなし、兼てうかみし事成れば、一句つらねし其の發句にこそ、

 

  物いへば唇寒し秋の風 ばせを

 

と讀誦の唇へそよ吹く風のしみしを、即座に吟ぜしとかや、扨(さて)ばせをは、夫れより四五日の内、近江路へ懸り、義仲寺(ぎちうじ)へいたり、住僧にしかじかの事を語り。一本の矢の根を渡し。十本の數(かず)揃へける。是等の供力(くりき)にや、芭蕉の遺言にて、義仲殿と後合(うしらは)せに翁を葬ふりしと、世にかたり傳へたり。

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